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第一部 記憶喪失と竜の子

恥ずかしい妄想と狙う者

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 結局のところ俺らが店を離れていた間のスーの活躍により、ビアフランカから借りた財布の中身をシグマに手渡すことはなかった。
 しかし、俺とアプスが来るまでの短時間でスーがこんなに稼ぐなんて信じられない。着替えさせられたスーは一体何をしていたというのだろうか。

 シグマは幸運そうな犬頭の口を閉ざしたまま教えてはくれず、スー自身にも問い詰めようとすると話そうとせず顔を赤くしてうつむくばかりだった。

 そのまま店を出て、ビアフランカが待っているであろう街の方へしばらく歩いて数分ずっとだんまりを決め込んでいた。
 おしゃべりで話題の尽きないスーがこんな態度でいることに、俺は酷く焦った。
 大好きな先生やあだ名で呼ぶ友達に隠しておきたいことがあったというのだろうか。だとすればそれは、やっぱり。

「なぁ、スー? いい加減に話してくれないか。俺らがいない間に何があってあんなにたくさんの宝石を……? あれは誰からもらったんだ? お客さんと何したんだ? 黙ったままじゃわからないよ」

「……んんと、ね」

 「うーんうーん」と唸って俯く。どうしても言いたくない理由があるらしい。先ほどからずっとそうしているし、彼女は何度きいてみても絶対に話そうとはしなかった。
 まさか相当な嫌な思いをさせられたのか。真っ赤になるほどの辱めを受けたのか。
 この保護者のような感情は彼女の教師としてマグの体がそうしているのか。俺自身の本心なのか。

 スーを置いて街に出たとき、彼女を放って逃げてしまおうと一瞬だが考えたこともあったのに今はどうだろう。心配で焦っている自分を俺は不思議に感じた。

「あなたちょっとしつこくないですか?」

 落ち着かない俺の様子を見ていたアプスが鋭く投げかける。

「ストランジェットが話したくないんだったら、別に無理に言わせなくてもいいと思うんですけど……」

「い、いや、そうじゃなくて。アプスも心配だろ?」

「僕は別にいいんですよ……」

 本当のところは彼も静かなスーには馴れないようだ。調子が狂うと呟き、表情を今日みた中で一番濁らせていた。

「というか、本当に何も覚えていないんですね……あいつの、ストランジェットの口から言わせようとするなんて」

「えっ? どういうこと……?」

 アプスはスーが黙っている理由を知っている口ぶりでそう言うと、俺を呆れたような目で見た。
 ちょっと待て。彼も俺と同じ立場でスーの応答を待っていたと思っていたが違ったのか。

 アプスは俺がわかっていないスーの赤面のワケをちゃんと知っていて、俺に指摘していたのだ。
 俺は俺の体の主と話がしたい気分になった。少し腹立たしく思いながら。いや、いつだってマグと居場所を代わってやりたいさ。思ったところでどうしようもない。

「あいつは自分の体を利用したんですよ」

 本当にわからないといった顔でいたのだろう。痺れを切らしたアプスは俺に寄って、スーに聞こえないよう耳打ちする。

「体を……?」

 形容するまでに遥かな時間がかかりそうな妄想が俺の脳裏を駆け巡る。
 確かにスーは無邪気で愛らしいが、小さな体躯といかつい尾や羽根を持ったあの身体を使って奉仕をするとは一体。

 着替えていたのはどういうことか。獣の目をした主人に爪をたてられなすすべもなかったのだろうか。
 割かれる柔肌。熱気で彼女の理性を奪おうと、渦巻く欲望に動かされた顧客の一人が奥の部屋を指し示す。深い一礼と共にスーの首の根を乱暴に引いたシグマが抵抗する彼女を冷徹な瞳で見やり、顧客と共に性欲が待つ坩堝へと向かって歩き出し……

「ちがうちがう。そうじゃないだろ俺!」

「何一人で言ってるんですか」

 こういうことを考えたときにこそこのろくでもない脳に激痛を走らせてやめさせて欲しいものだ。
 アプスの冷ややかな視線が現実に引き戻してくれた。
 今は空想回路ではなく道路のど真ん中だ。スーの髪を乱暴に引っ張るよだれを垂らした成金の豚頭などここにはいない。

 いないけれども、もしかしたらレストランにはビップルームが存在したかもしれないし、スーの頭に汚い唾を付けたろくでなしはいたかもしれない。

 ああ。俺がついてさえいれば。マグが財布を持って死んでくれてさえいれば。

「わかったよ、スー。言わなくていい。怖い思いをさせてすまなかった。俺は……あれ?」

 肥大した妄想を蹴散らして、散々話すことを嫌がった彼女に謝ろうとスーに振り返って手を伸ばす。
 だがしかし、その手は空気を掴んで下に落ちた。彼女はそこにはいなかった。

「スーは? どこいった?」

「ええっ! いない?! 今さっきまで一緒だったでしょう?!」

 話と空想の終わりに取れない空虚を手に取った俺が唖然としていると、後方のずっと先に怪しい影が揺れた。

「あっ、あそこです!」

 俺が反応するより早く、影に気づいたアプスが慌てて走り出す。

 豊かな自然と穏やかな気候。
 街の中心では特産物を売る市場が賑わい、船を使って届く輸入品を競り合い、人々は毎日を謳歌する港の街・ファレル。

 海沿いの造船場からずっと上方を見上げれば程よい距離に王都へ続く長い連絡橋も存在する。
 数百年の時をかけて作られた広大な水上橋。
 その橋を目印に停泊する各国の船から人々が乗り入れを繰り返すため、街は様々な種族と身分のものを分け隔てなく歓迎した。

 少し離れれば放牧の盛んな農耕が見られるほど長閑で、工業地帯も安定した出荷を約束し、中心部には王都との密接な繋がりを持つ役所も点在している。
 続く街並みの中、頭一つ飛び出す大きな時計塔が夕刻を指して短長を重ねるその頃。
 辺りも夕暮れ、ぽつぽつと民家が明かりを灯し始めていた。

「いた! ストランジェット!!」

 アプスの背中を追いかけて路地裏に転がるように飛び込む。

「あっ、あっくん!! 先生!!」

 スーの叫び声に手の平を握って開くアプスの手の中に発光する球体が浮かび上がり、スーを暗がりに連れ込んだ不審な影が正体を表した。
 
 乱暴に彼女の腕を捕まえていたのは俺の想像の中に出てきた豚頭の成金……ではなく、軽鎧を纏った戦士風の男。彼はスーの白銀の髪を雑に引っ張り不気味に顔を歪めてはいるが、身なりはきちんとした青年だった。

「おい! お前、彼女を何処に連れていくつもりだ!」

 俺の言うより先にアプスが身構える。背中の大剣に光の玉を這わせ強い電気の音で路地裏を照らしながら、出会った時の俺にしたときと同じように声を荒げて威嚇する。
 だが、スーをさらった男はまったく怯むことなくスーを自分の胸に引き寄せ、誰がそんなところに放置をしたのかきわめて物騒な刃を足元で蹴り、落ちていたナイフをつま先で器用に拾って構えた。

「俺はこの国を守る騎士の一員だ! この輝石竜(ミルウォーツ)は王に献上する為連れ帰らせてもらう!」

「何それ?! ボクは先生とあっくんと学校に帰るの!」

「わけのわからないことを……! ストランジェットを離せよ!」

 対峙しているアプスの言う通り相手の言っていることは俺にもわからない。アプスがわからない以上のことを俺が知るわけもないのだが。

 緊迫している彼には申し訳ないが、俺は少し後ろから騎士と自称した男を観察した。
 仕立ての良い服に銀の胸当てを付けた男は体格も良く、確かに道行く一般人とは異なる雰囲気を持っていた。左肩には騎士としての証なのだろう、勇ましい鷹が彫られた金色のメダルのようなものが提げられている。
 この世界の騎士というものに今初めて遭遇したので俺には彼を疑う要素が感じられないが、疑うとすればその行動だろうか。

「なぁ、この街の騎士は俺たち一般人に手を上げるのか?」

「そんなこと言ってる場合ですか?!」

「やだやだ! 離して!」

 アプスの肩越しに見える相手を指して聞くと、スーが大声で泣きわめいた。

「ボクはおじさんとは行けないよ! 助けて先生!」

「この!  黙れ!!」

 暴れるスーの口を男は肉厚な手のひらで押さえて黙らせた。頭を自分の胴に押し込めるようにしてしっかりと抱き抱えて身動きを封じる。

「ストランジェット! くそ……っ!」

 息を塞がれ圧し固められてしまうスーを見、アプスが焦り男に立ち向かおうとする。

 ……するのだが、どうしたことか彼は一向に構えるだけで剣を抜いて敵に振って掛かろうとはしない。
 それは相手の立場が騎士だからなのだろうか。自分よりも筋骨隆々で勝ち目がないから飛び掛かって切りつけることをしないのか。
 答えは、そのどちらでもない。

 妙だとは思っていた。大袈裟な武器を背負って歩いているにも関わらず、彼は鞘に触るばかりで柄を握る動作を俺に会ってからまったく見せていない。彼が綺麗な服を着ているのを見ながら、新品のようだと思った剣はまさに未使用の新品そのものだったのだ。
 もしかしたら、鞘から引き抜いて刃を見たことだけなら数回あったかもしれないが、おそらく。

 (アプスは自分の剣を抜いて戦ったことがこの世に生まれてこれまでで一度も無いんだ。だから身動きがとれないのか!)

 そのことに俺が気付いたのは、今ではなくもっと後になってのことだった。
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