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第一部 記憶喪失と竜の子

これからのこと

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 長い独り言を知ってか聞いてか、これまで寝息を立てていたスーが俺の胸で目を覚ます。

「へぁ……せんせ……?」

 欠伸に口を押さえながら俺の顔を見てにこりと笑うと、髪の流れが俺の顔に擦れてくすぐったい。

「あっ、起きた」

「う、うんー……。あっくんは……まだ寝てるね」

 俺に抱かれていたことを今知って、スーは顔を真っ赤にした。欠伸が出てきた口をしどろもどろに言葉を濁し、俺の背中に凭れているアプスを見た。
 その光景に俺が二人分の重みを預かっていた事実を知り、慌てて俺の腕の内を潜り抜けて離れる。温もりをほんのり残して。

 スーが自分で起きてから、背中のアプスを背負い直す。彼はいまだに目を開けないが、胸の鼓動はしっかりと打ち続けているから心配なさそうだ。

「ねぇねぇ先生、それよりさっきのバーン! ってやつ凄かったね! 先生が魔法で変なおじさんをぶっ飛ばしてくれたの?」

 離れたばかりですぐ、思い出したように言い興奮して俺に詰め寄るスー。

「実は……」

 俺は返事に困った。都合の良いことに彼女は俺の目眩まし大爆発直後に気を失い、つい今目を覚ましたので騎士の方々とのやり取りをまるで知らないのだ。
 話をすれば長くなるのだが、俺の魔法に変なおじさんをぶっ飛ばして倒せるような威力はなく、今も自由に魔法を使えるかと言われたらそんなこともない。
 ただ、目の前ではしゃぐいたいけな少女を落胆させたくない。見栄を張ってもいいよな。そうだろうマグ。

「実は、そうなんだ」

「そっか! やっぱりすごいや! ボクの先生はお強くてかっこいい! めちゃめちゃいっぱい好き!」

 まったく俺を疑うばかりか、持てる迂闊な語彙力全てと全身を使ったハグで大称賛をくれるスー。角が危うく脇腹に入りそうだったが危機一髪かわす。
 彼女を騙したのはちょっと悪いことをした気持ちになるが、部分的には間違っていないと俺は俺をも騙し始めた。自分が気持ちよくなるための嘘も多用しなければ悪くはない。

 その証拠にほら、マグの体は俺に嘘をつくなとは言わなかった。
 この体、最初から精神の主に喋りかけてくるようなコミカルな相棒でもなかったけれどね。

「助けてくれてありがとうね。先生、大好きだよ。神様よりボクを守ってくれる、ずっとずーっとボクの大事な人……」

 スーは俺に甘えて再び胸にすり寄る。
 彼女に時々抱く何処か懐かしい感覚はマグの体が思い出しているものなのかは今もまだわからない。自分を頼りに身を預ける少女をマグはどう思っていたのだろうか。

「なぁ、スー。俺ってお前とどういう関係だったんだ?」

 今の先生は記憶喪失なのだからこんな言葉も出てきてしまう。彼女の気持ちを考えていない台詞かもしれないが、ついさっき騙したことも相まって、これを聞くタイミングはここでしかない。
 そんな俺の問いにスーは、

「先生は先生だよ。ボクらの学校の先生」

 そして、それから。と付け加えて、

「ボクはマグ先生に拾われて学校で育ててもらいました。その恩返しにボク、先生のお嫁さんになりたいんです」

 話が一気に飛躍した。
 それまでの恥じらう仕種を一度置いて、急に真剣な顔で俺を見上げてきたスー。
 大きな目から一点で受ける眼差しのどれだけ力強いことか。彼女の瞳の真ん中を俺は見返すことができない。
 俺の知らないマグの記憶を取り戻すまで、敬語を使って話すスーとはまだ対話が出来そうになかった。

「そ、そうだったんだ……」

 それは到底、誰の目にも恋人のようには映らないし、街灯の下の雰囲気のある駆け落ちでもない。
 夕刻を知らせる鐘の音色が遠くに聳える時計塔から響いたが、その音を上手に捕らえられたのはマグの耳ではなく俺の本能のほうだったと思う。

 予想していなかったスーの発言に暫く考える。
 ドラゴンだと名乗る彼女も端から見れば年端もいかない幼い少女。例えそれが本来の姿でないとしても、マグは彼女に一体どんな教育をしてきたのか。

 この娘は本気で教師との婚約を考えているのだろうか。常人ならば冗談やからかい半分なのだろうが、スーにはそんな概念はないと思う。嘘をついてばかりの俺とは違い、彼女はマグ先生には嘘をつかない。それだけ真剣でいて純粋なのだ。
 思考の整理に時間がかかることを体感して戸惑っている俺に、スーは大真面目な視線をぶつけてくる。

「ねぇ、先生。先生はさ、全部忘れちゃってるみたいだけど、本当にボクとの事なんにも思い出せないの?」

「……スー、ごめん……」

「学校のみんなの事も、あっくんとのことも全部?」

「そうみたいなんだ。思い出そうとしてはみてるんだけど、本当に何も思い出せないんだ」

 繰り返し俺に尋ねても、彼女の期待に応えられない俺の返事にスーは泣きそうな顔になる。俺を見ていた大きな目をそらして、自分の長い髪を指に巻き付けながら声を細くし、

「そっか……そうなんだね……でも、先生が思い出せなくても先生はボクの一番だよ。ずっとずっとね……」

 残念そうに俯く彼女は、シグマのレストランで最初に顔を合わせたときよりもずっと感傷的な表情で、今では上手に頷けないようだった。

 マグは彼女が恩人と呼ぶほどスーにとって特別でかけがえのない人物で、俺には今日のこれまで何度も色んな表情をもってそれを伝えようと接してくれている。
 彼女にしてみれば、死んでしまったと思っていた自分の大切な人が蘇って、普段の日のように一緒に飯を食べ、一緒に街を歩き、一緒に同じ住み処に帰ろうとしているのはこの上なく信じていたい夢の中のような出来事だったのだろう。

 ただ一つ、彼女が悲しくて堪らないのは、生き返って戻ったマグが何も知らないまま体だけを借りた俺だったことで、もしも俺が本当にマグ自身の精神を持って此処へ来たなら、彼女ともこの先の話を笑ってしていけたのに。

 胸が苦しいが、こんなことを思って悔やんだところで俺はマグの記憶を持っていない。
 彼女を悲しませる言葉しか出てこないこんな口、千切って肛門にぶっこんでやりたいくらいだ。と、荒くれた中年の言葉を思い出しては情けなく思った。
 今一瞬だけでも俺の体にマグが降霊して、スーを慰めてやって欲しいのに。そんな願いは届かない。

「スー、大丈夫だ。俺も絶対に思い出す。だからそんな顔をしないでくれ」

 確証はないがそう言うしかなくて、その継ぎ接ぎの言葉で今日のこれまでもやってきたのだから今だってそうするしかない。と、俺は自分に言い聞かせる。
 スーを泣かせたくない。だけど、悲しませないための情報量が足りていない。
 不安を溜めた複雑な心境で彼女を納得させることはできないが、彼女の言葉を信じるしかない。俺だって、マグになってやるとスーと出会ってすぐに決めたじゃないか。

「お前も言ってくれたろ? 思い出させてくれるって。その為に協力してくれるんだろ?」

「う、うん。そうだよ! そう……」

 スーの背中をさすってやる。華奢な少女の頼りない背中。今日は色々と有りすぎて、不安ばかりを肩荷にしていた小さな背中。
 嗚咽を漏らすような彼女の返事がして、俺もそっと息を合わせて頷く。

「うん。もう今日は帰ろう。学校までの案内頼むよ、スー」

「……任せて、先生」

 気持ち良さそうに尾を揺らして寄りかかるスー。守りたい笑顔が俺の腕の中で力無く微笑んでいた。それは、少女と言うには少し艶のある不思議な魅力を秘めていて。

 俺は彼女に先の道を行かせ、目的地までの道案内をしてもらう間その表情をまともに見ることは一旦休ませてもらうことにした。

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