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第二部 魔法学校の教師

ファリーとマグ

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 ――――――今の俺はきっと、誰かの夢の中にいるんだと思う。

 それというのも、前から歩いてくる人物は自分のよく知る姿形をしているけれど、その人がこの世界に俺と一緒に存在することは有り得なく。

 もし、有るとすれば世界を丸々写し出せるような巨大な鏡がこちらに向かって来ているとしか思えない。
 俺の方に革靴の音を鳴らし、段々近付いてくるその人は、

(……マグ? あんたは俺じゃないのか?)

 驚き立ち尽くす俺の前まで来て、俺の体……マグの体を俺と瓜二つの姿ですり抜けた。
 まるで俺が最初からそこに存在していなかったかのように、彼は俺に気付かない。

 透明なのか。幽霊なのか。幽霊なら俺ではなく、死んだ彼のほうではないのか。

 ただ、自分の実態を感じることもなく、声に振り返ることもなく、俺とは別に存在するマグは俺を透かして通り過ぎた。

(な、なぁマグ……! 教えてくれよ! なんで俺はあんたの体の中にいる? 俺はどうやって此処に来たんだ? 俺は、何でこの世界であんたになってるんだよ……!?)

 溜めていた問いを感情のままに連発するが、マグは一つも答えてはくれない。
 先を急いでいるのだろうか。

 温厚で優しげな顔を強張らせ、一般的な街人にしては不格好にやたらと目立つ黒曜石の角に青白い光を灯しながら、脇目も振らず一心に真っ直ぐな道を進んでいる。
 横につき何度呼び掛けても俺を認識することのないもう一人のマグを、俺は見失わないように追った。

 彼の角から発せられている青白い光の残像を追いかけ、広い扉の前に出た。

 扉の高さは俺達の身長の軽く五倍以上あるだろうか。横幅はも二人で手を広げたところで数倍はある。観音開きになっており、取手の部分には何重にも鎖の束がかけられ絡み合っていた。
 その鎖に手を突き出すと、マグが何やら眼を閉じ唱え始める。

 やがて、突き出した腕に緑の帯のような光が伸び、文字の羅列が浮かび上がった。
 それは、俺が路地裏でアプスやスーを救うために目眩ましの魔法を使った時に見たものと同じものだった。

 煌々と輝き無数の読めない言語が飛び交う中の一つを手繰り寄せ、呪文を読み上げる声を低く吐き出す。

「……開いて、くれるね?」

 その台詞の直前に、マグが何と言ったのかはよく聞こえなかった。
 彼は今、俺の前でやって見せてくれたので解った。

 マグは魔法を、俺では読めない文字や言葉として自分の体に記録しており、魔法を発動させるときに気を集中して具現化する。腕の周りに現れる光の帯はそれを検索する手助けをしており、それによって選んだ呪文を呟き術を出す。
 路地裏ではそれを理解していなかったため、俺は咄嗟の行動でそれらを曖昧にし爆発を起こしたのだ。

 マグの魔法を間近で認識していると、厳重に閉ざされた扉が開いた。
 絡み合った鎖は解けて下に落ちる前に霧散し、光の粒となる。
 それを吸い込みながら鉄の戸を押し、マグが少しの隙間から体を滑り込ませた。俺もすぐそれに続く。


「ファリー! 待たせてごめんよ……! 寂しかったろう!」

 そこに着いた途端にマグはそれまでのシリアスな姿勢を投げ出すように両手を広げて叫んだ。
 舞台役者のような大袈裟な手振りで駆け出すと、一目散にある物に駆けていく。
 扉の向こうは天井の高いホールのようなひらけた場所で、彼の向かった部屋の隅にこれもまた大きな竜が一匹、腹這いで佇んでいた。

「……ああ。マグ、貴方なのね。本当に……」

 マグが駆け寄ってくると、ファリーという名前を呼ばれた竜は弧にした長い首を曲げ彼の手に鼻先を当てた。

「嬉しいわ。もう会えないと思っていたの……」
「辛い思いをさせてすまなかったね。ファリー」

 白銀の鱗を持つ大きな竜は外見に似合わず朗らかな女声でマグに甘えた。少し窶れたような疲れた様子で、威厳や風格とは遠い落ち着き払った声を震わせる。
 マグもそれに応え、彼女の頭を抱え込むようにして撫でてやる。
 その姿は、まるで愛する男女が長い離縁からの再会を喜ぶようだと表現できるように、お互いの瞳が慈愛に満ちていた。

 俺はそばで見守りながらそう思った。
 ファリーの方にも俺の姿は見えていないらしい。俺の姿は、マグの頭一個ぶんよりある彼女のガラスレンズの目にも映らない。

(……うわっ!)

 ふと、足元で何かが転がり出てきて。
 俺は慌てて足を上げたが、やはりそれも俺の体をすり抜けてしまい気にする意味は無かった。

 俺の気を他所に嗅ぐような素振りで地面をつついているそれは、子犬ほどのサイズをしたドラゴンの子供だった。
 まだ目も完全には開いていなく、よたよたとおぼつかない様子で四つ足をもたつかせている。

「……ストランジェット」

 母性を宿したファリーの声が囁くようにそう言い、マグが俺の足元の小さな竜の赤ん坊に視線をあてた。

「マグ、この子は……私の……」

「ああ、そうだったのか。ファリーもお母さんになっていたんだね」

 ファリーの頭から手を離し、彼女がストランジェットと名前で呼んだ子供に近付く。
 マグはまだ鳴き声にもならないほんの微かな鼻息で存在を知らせる小竜のその前でそっと屈んで、その子を抱き上げると、

「やぁ。初めまして、ストランジェット」

 ストランジェット。
 その名前を、母親の腹から取り上げられたばかりの我が子と初めて顔を合わせたように、愛しげな表情で繰り返した。

 一体、俺の見ている夢は誰の夢なのだろう。

 マグがその小さな竜の子供をストランジェットと呼んだのを、確かにこの耳でしっかりと聞いた。
 つまりこの夢は俺に、マグとスーが出会った瞬間を見せている。
 マグ自身の夢なのか、スーの夢なのか、はたまたスーの母親であるファリーの夢なのか。
 俺は今、透けて触れられない体で誰かの記憶の中を歩き回り、判断材料を探している。

「ストランジェットは男の子? それとも女の子かな?」

 抱っこした幼竜のスーを持ち上げお腹を見ながらマグが首を傾げる。
 じたばたと短い四本足で空中を泳がされているスーを優しい眼差しで見、ファリーは呆れたように答えた。

「……マグ、貴方知っているくせに。私たち竜は番が出来るまで雌雄が定まらないでしょう」

「ふふ。そうだったね」

 おちゃらけた態度で冗談のように笑うマグ。
 叱るように彼女は言い、

「私が母親になれたのも、貴方に恋をして憧れて、それから……」

 唸るような怒声を段々と静めていき、小声になる頃にはすっかり恥ずかしそうな乙女の声でそう続けた。
 その台詞に合わせるように、スーを抱いたままマグは彼女の首の横に寄り添う。

 この夢の中にいて、幸せそうな一人と一匹とそれからもう一匹を傍目で見ている俺が、感じている妙な感覚は何なのだろう。
 スーをこれまで「彼女」と表現してきたことに対して新しい事実が加わったことで、その表現が正しくないかもしれないと動揺したのはある。

 だがそれは、スーの母親であるファリーがマグに情愛を抱いたと告白したことで同時に解決したようなもので、夢の中ですぐに自分の間違いを訂正出来るものではないので妙な感覚の正体にまではならない。

「はは、まったく。ファリーは正直で本当に純粋だな……竜は皆そうなのかい? 君に会うまで私、長い時間を生きる竜族なんて頑固者のおじいさんしかいないのだと思っていたよ」

「まぁ、そんなの偏見だわ。私は貴方を心から慕っていたのよ……」

 ファリーの爬虫類の顔のつくりでは上手く表現しきれていないが、照れ笑う彼女は長い時間をかけてマグを愛していたのだろう。
 俺には段々、再会を喜ぶカップルのように見えていた二人が、スーを挟んで長年連れ添ってきた夫婦のようにも見えてきた。

 まさかスーは二人の子供だとでもいうのだろうか。いや、そうだとすればマグはスーをみてこんな反応をしないだろうし、それはないな。

 ところで、妙な感覚を放置したまま新たな疑問に触れるのだが、ファリーはスーが俺の前でしているように人の形に化けることは出来ないのだろうか。
 鼻先でしか甘えられない巨大な竜の体ではなく、尻尾や羽根は残しても人間に近い姿をとり、全身で愛する人に抱きついて気持ちを表したりしないのか。

 その方がずっと距離も体も密接になれるのに。どうして彼女はそれをしないんだろう。

(……え?)

 目の前で真っ赤な血溜まりが拡がり、俺の足元からその疑問への悲しい答えが返ってきた。

(……? ファリー?!)

 地面を濡らす赤い水に、マグよりも一息早く俺が叫んだ。

(どうしたんだ?!)

 足の下から上がってくる、塩味のある鉄の臭いに俺は思わず口と鼻を塞いだ。
 マグが声を出してファリーの体を離れると、赤い血は彼女の脇腹から溢れだしているのがわかった。
 白い鱗の上に網目を描いて滲み、ぽたぽたと地面に滴り落ちている。血を止めるために彼女の腹の側に潜り込み、原因になる傷口を探し始めるマグ。

「……そんな、まさか」

 彼はすぐに手を止めて言葉の終わりを切った。

 傷が見付かったのならすぐに処置をしないのか。一体何をしているんだ。と、まだまだとめどなく溢れているファリーの血液を踏まないようにし、俺はマグに近寄った。
 マグは黙ったまま小さく震えていた。
 彼の腕に丸まっているスーも心配そうにピュウと鳴きながら彼に顔を向けている。

 マグには先ほどまでの大袈裟に遊ぶような陽気さや動作がなく、ただ黙って彼女の傷口を見ていた。

(何やってるんだよ、マグ?! 治癒魔法とか使えないのかよ? ファリーの怪我、治してやらないのか?!)

 聞こえないことはわかっているが口を出さずにいられない。
 居てもたってもいられない俺はマグに駆け付けた。

(酷い……誰がこんな……)

「わかっていたんだね、君は」

 俺とマグの声が初めて重なった。反対の色を付けて。

 ファリーの腹には人の両手では塞ぎきれない大きな亀裂が開き、肉の壁が呼吸で上下し空いていた。筋肉の塊が削ぎとられたように抉れて剥がれ落ち、骨の欠片が剥き出してしまっている。
 急に負った怪我ではない。しかし、ファリーの呼吸は急に早くなる。
 なんとも惨たらしい姿に、俺は誰かが彼女を襲い怪我をさせたのだと決め付けた。
 憎しみを当てる相手をすぐにでも探してやるべく振り返り、マグに同意を求めるが、マグには俺の顔など見えていない。

 それ以前に、夢の中のマグには、俺のような「誰かはわからないが近くに敵がいるに違いない! ファリーをこんな目に遭わせた奴に怒りをぶつけよう!」などという憎しみの感情はなかった。
 彼は焦っている俺とは違い、悟ったような静かな表情でファリーを見詰め続けている。
 わかっていたとは一体何事だ。それよりもファリーを助けなくては。

(くそっ! 何でそんな顔してるんだよ!)

 俺は自分の腕を叩いて、マグがしていた術式の検索を開こうとするが、緑の光は現れない。

(なぁマグ、あんた、魔王を倒せる程すごい魔法が使えるんだろ? だったらこんな傷くらい……!)

 俺がいくら叫んでも誰かの夢の中。干渉できないまま話は進んでしまう。

「よく私が来るまで待っていてくれたね」

「ええ。こうするしかなかったの」

 彼の宥めるような声にファリーも短く息を吐いた。
 腹の傷を顕にしてから彼女は病弱そうになったようにも見える。
 マグの冗談に笑いながら応えていた姿が一変し、苦しげに嗚咽を漏らして横たわる。
 伏せて見せなかった傷口は、彼女自身がこの時まで隠していたのだ。
 啜り泣くような弱々しい女声が、鋭い牙の間から滑り出す。

「鍵のかかったこの部屋には何もないし、誰も来ない。だから……」

「ストランジェットに自分の肉を食べさせた。そうだろう?」

 冷静なトーンでそう言って、

「君はなんて無茶なことを……私がもう少し早ければ……」

 体の力が抜けたようにその場に膝まずいた。
 止めどなく流れる赤い体液が、マグの膝につき糸を引いて落ちる。
 マグは彼女が言い出すまでずっと黙っていたが、とうとう弱ったファリーの顔を見ることを辞めて泣き出した。
 二人の様子を感じ取った小さなスーがマグの腕をそっと離れ、見えないはずの俺を頼るようにしてこちらに来る。
 俺はその手のひらで掴めそうなほど小さな頭を撫でようと腰を屈めた。

「…………!!」

 その直後、マグは俺からスーを奪い返す。
 引ったくるように勢いよくスーを抱き上げた顔は厳しく、見えていないそのはずなのに俺は彼に一瞬睨み付けられたような気がした。

「この子を……ストランジェットを連れていくよ、ファリー」

「……ええ、マグ。その子を、きっと……貴方を乗せて空を飛ぶ強い竜に……」

 返事を待たずにマグはファリーに背中を向けた。
 雌竜の掠れる声が彼の鼓膜を震わせると肩が怯えたように少しすくむ。
 彼女の痛々しく伸ばされた四肢を、折れ曲がった蝙蝠羽根を振り返ることなく、もと来た道を引き返す。

 マグの後ろ姿を虚ろな目で見送っていたファリーは、俺の前で静かに長首をもたげ、やがてゆっくりと地面に伏せる。全身の力を抜けば、もうその体はほとんどが骨と皮のようにも見えるほど衰弱していた。
 彼女には、マグが辿り着いた時にはすでに人に化けていられるような体力はなかった。
 ただ想い人が訪れるときを待ち、子を守り、途方もない痛みを堪えていた。
 
 その終わりの見えなかった無限の我慢がやっと今、終わった。

(ファリー……)

 俺の足元を流れる血は緩やかに俺を避け、報われたように目を閉じる彼女を濡らし地床を赤く染め続けていた。

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