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第三部 港街の護り手たち

記憶に魔王を覗く

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 ファリーの横顔を眺め、頭の後ろから手前にカーブを描いて生えている水晶の角に触れる。
 いつも避けているスーの物とそっくりな色形だが、サイズは何倍にも及ぶ大きな角に。
 ちょうど真ん中で緩やかに曲がったところに小さな文字が震えているのを見付け、俺は手を伸ばした。
 
(これは……ファリーが刻んだ記録(ログ)の魔法?)

 魔法辞典(スペルリスト)を開いたままになっていた右手を見る。
 魔法を扱う時と同様に指先でそっと彼女の角に記された文字を拾い上げると、

「くっ……!」

 緩やかに電流が走るような僅かな痛み。
 俺は無意識にファリーの記録魔法(ログ)に再生を命じていた。否、命じていたのはマグの意思なのかもしれない。
 ここまでで役目を終え腕の中に魔法辞典が収縮した反動に思わず仰け反ると、足場になっていたファリーの両手の平が光の粒を撒き散らしながら消え始める。

 足の下には鬱蒼と広がる夜の森が口を開けている。
 だが、俺の体が落下することはなかった。
 すぐに新しい景色が周囲に広がっていき、空だった足の下に石の床が構築され、俺はそこへ立っていた。安定した地面に。

 イレクトリアの魔法で森まで連れて来られた時のように、周囲の風景が瞬きするごとに変わっていく。
 ただし、今度は場所を移動しているわけではない。
 ファリーの記憶が再現しているいつかの時間を端から覗き見るために、破片と破片を繋ぎ合わせて一つの空間を造り出しているのだ。 

 流れ込んでくる。彼女の不安が。心細さが。
 なだれ込んで来る。ファリーの気持ちが。
 あの時、傷付きながら横たわっていた。去るマグを見送り最期を迎えた彼女の姿が脳裏に浮かんで来た。
 割けた腹から血を流し、身を起こせぬままスーを預け、啜り泣きながらも悲しい声音だけは震え抑え込んでいた大きな母竜の存在が。

 パズルのピースのように再現すべき舞台が組み上がった。そうして時間が巻き戻される。
 ファリーが傷付き死を悟るよりも前、彼女がまだ人の形に化けていられた頃の記憶が俺の脳に送られてくる。
 掌に掬い上げた記録(ログ)魔法の文字が溶けて消え去った頃、微かに二つの声が聞こえてきた。




「……憐憫。悲惨。愛憎。聖女と尊ばれ港街の守り神とうたわれたお前が自ら魔王へ滅ぼされに来るとは。いや、人々が安寧のためにお前を売ったという方が正しいのか……」

 第一に聞こえたのは低い男の声。顔のほとんどを布で覆っている、司祭のような服を着た背の高い人物。
 向かい合っている真っ白な光を放つ麗しい婦人は……直感で解った、ファリーだ。スーによく似ている。スーがそのまま大人の女性に成長したような姿だ。

 彼女の顎を掴んで男が笑うと、ファリーは黙ったまま目で彼の言葉を否定した。

「いいえ。人々は関係ありません。私は私の意思で魔王の傷を癒しに来たのです」

「今更。不快。疑心。ヒトの男(オス)に現を抜かし、魂の運び手……神竜の継承を放棄したお前に何が出来る?」

 二人は暗い部屋で何かを言い争っている様子だ。
 俺の居る石床を辿った少し先で互いに睨みあっている。ファリーはどこか焦っている。彼女は疲れたように睫毛を伏せていたが、すぐに男の手を払い除けた。

「それとこれとは別のこと。私は、彼女を救いたいだけです。私の命をもってこの世界の呪いを、魔王の苦悩を終わらせるのです……」

「不義。小癪(こしゃく)。虫酸。ふざけたことを言うメス竜め……」

 男は短く舌を鳴らして、骨張った手でファリーの顔を捕まえ直し、彼女の長い髪を引っ張った。
 顔が見えず静かな口調のため、表情が読み取れない。だが明らかにファリーに乱暴をしていることはここから見ても解る。

「早くしなければ、討伐軍が結成され魔王のもとへ到達してしまいます。人々はその為の支度を始めている。最悪の事態に、そうなる前に彼女を……」

「不適。不遇。懐疑。魔王が討伐軍にも滅びることはない。あの方は永久。不死をこの世にもたらす御方。お前の治癒(リペア)などで癒す必要はない」

 ファリーの言葉を遮る男の台詞は、不愉快を表してはいるものの彼女との会話としては一節も続いていないように聞こえる。
 俺には言葉を交わしている二人の顔色がいまひとつ掴めない。

 解ることは、今目の前で起きていること……見せられているファリーの記録は少なくともファリー自身が亡くなる前の出来事だということ。
 場所は不明だが、討伐軍が来るということは魔王の所在に近しいところなのだろう。

 討伐軍というのは恐らく魔王を倒すために組まれた人々……ビアフランカに教わった話では、騎士団や機械都市、その他の魔法使いを集め、マグも抜擢されていたもの。
 今見ている記録の先で、魔王を滅ぼす者達がじきにやってくるとファリーは言っているようだ。

 そして、その前には彼女と魔王との接触を臨み、一人で立ち向かおうとしている道を男が塞いで「否」を続けている。

 ファリーと男が立っている光景が僅かに綻びを見せた。
 一つの画面の中に纏めて放り込まれた俺たちの周囲が、ノイズを走らせる映像のように不安定に揺らぐ。

 黙ったまま対峙する両者の頭上。
 その歪んだ赤い指のような物は部屋の薄明かりを掻き消すように現れた。

 見上げる俺たちの視界の上側に、突如として天井に張り巡らされたのは生き物の臓腑を連想する真っ赤な蔦。一本が俺の腕回り以上もある血管のような太い触手が無数に湧いて、部屋の上部を覆った。
 拡大は一瞬。壁にまで根を張り出した管たちは、中に通っている黒い液体を噴き散らしながらファリーに近付いた。

「ファリー! 危ない……!」

 俺が伸ばした手を二人が見る。四つの目がこちらを、まっすぐに。
 違和感がある。ここはファリーの記憶を再現した映像の中だ。俺の姿は誰にも見えていないはず。

「……っ?」

 確かにそうだった。彼女達は俺を見たのではなく、俺の体をすり抜けて現れた少女を見つめていたのだった。

(彼女が……魔王?)

 どうして俺の直感はそう思えたのか。異様な姿の人間が一人。どろり、と血の塊が落ちるように俺の胸を貫いて現れ、抱擁を求めるかのようにファリーに向かって両腕を伸ばす。

 ーーーー魔王。
 それは想像していたよりも遥かに華奢で痛々しく、朧気で小さな生命の形。
 魔王の正体は俺の頭一つ分ほど背の低い少女だった。
 魔王という代名詞の響きからはとても連想しないような。水滴を溢している触手を植物の蔦に例えれば、その中心に咲く一輪の薔薇の花のような。小さくも存在感はある、周囲の赤とは色気味の違う脈拍(いぶき)。

光の当たり方によって緑か青がかっているようにも見える金髪を背中まで伸ばした少女。
 下半身は天井から伸びる触手に繋げられ腰まで巻き付かれていて、白い人肌は血が滲んで所々黒く変色している。
 絡み合う触手のせいで自立出来ない足から繋がる骨の浮いた肋には管の先が食い込み、上から吊り下げられるような形でファリーにゆっくりと向かって行く。

 見るも無惨でおどろおどろしい出で立ちだが、俺は彼女から目を背けることを許されなかった。焼き付いてしまったその風貌をいくら払っても忘れられることはないだろう。今にも息が止まりそうだ。
 何故ならば。

「これと……同じ?」

 肋から枯れた枝のごとく細い腕、渇いて擦り傷だらけの首の上。そのさらに上。
 魔王の頭部にはマグが頭の片側に生やしている角とよく似た黒い尖った鱗のような物があった。
 思わず自分の方頬から頭に触れる。既に彼女からは絶対的に目が離せない。魔王はマグと、俺と同じ角を持っているのだ。

 彼女のものは角の一本と呼ぶには範囲が広い。頭部を掴み掛かる爪のように覆い、横からも一周ぐるりと取り巻いている。爬虫類の尻尾のようにも見える黒曜色の塊が彼女の両目を塞ぎ、耳を塞ぎ、首を絞める腕のごとくまとわりついている。
 
(魔王と同じ角がどうして俺にも……?)

 そう思った途端に頭痛が起きた。嘘をつけない魔法のせいではない。いつかも感じた、肝心なところで言えないことをマグの体が否定するときに起きる方の激痛だ。

(くそっ! 今はダメだ……気を取られるな! ファリーを……彼女の記憶を見ていなくては……!)

 目を開けていれば痛みは鼻の頭から。真上に抜けては振り落とされるように前頭葉をがちりと殴り付ける。なんとか持ちこたえてくれ。ファリーの記憶の中で、最後まで見届けないことには瞼を閉じるわけにはいかない。

「ええ、魔王……いいえ、ミナリス。私が来たからにはもう大丈夫です。貴女の痛みを取り去りましょう」

 ミナリス。それが魔王の名前。
 この世界を陥れた諸悪の根源。何故ファリーはその名前を、哀愁を込めて呼ぶのだろうか。

 まるで諭すような口調ではないか。
 風邪で寝込んだ子供をあやすような優しい口振で、スーにはみせることが出来ていたかもわからないような慈しみを込めた表情。穏やかな母親の囁きで魔王を呼ぶのはどうしてなんだ。
 
 情景が脳裏で軋む。俺のこめかみが割ける。頭から抜け落ちた脳が胃まで落ちて窪む。底でじりじりと溶けて焼けるかのような痛み。
 痺れる。耳から口の端までが不自由になる。

(なんとか、頼む、今は……!)


「ーーーーやめろファレルファタルム! 無謀だというのが解らないのか!!」


 男の声が響いて、頭の痛みから乱雑に引き戻される。
 閉じ掛けた目を一気に見開く俺の手の先。
 ファリーの胸を貫いているのは俺の手から伸びた真っ黒な結晶。
 それもまた、俺の頭にある角と同じ。魔王の手から彼女に移り渡った不穏な物質。

 魔王と重ね合わせた俺の拳が、その先にある。
 救うために伸ばした腕が、港街の守り神の、麗しい竜の婦人の、ストランジェットの母親の……ファレルファタルムの肌を突き破って、彼女の背中の後ろに貫通し刺さっていた。

(は…………?!)

 血を口の端から滴らせ痛みに堪えるファリーの胸に広がる黒い影。
 衣服を破り去られ、肌に拳が通るほどの大穴を開けた彼女の胸の生暖かい感触。
 彼女は自身に治癒魔法(リペア)を唱える隙もなく膝をつき、魔王と側の男を悲しげに見ていた。
 俺の立ち位置は今、魔王に重なっているが、ファリーの視線が俺と交わることはなかった。


  時間が逆行するように、ファリーを貫いた腕が引き戻される。
 感触は無い。触れているのに、触れてはいない。
 彼女の再現するこの記憶へ干渉出来ないことに俺は絶望を縫い付けられた。

 崩折れて魔王に抱き止められる彼女を取り戻せない。
 俺の腕は真っ黒に染まり、魔王の物になっている。俺の意思で動かせない。焦燥に唇を噛むが、どうにもならない。
 体が動かない。頭痛もまだ酷い。かろうじて片目を開いていられるが、それ以外の動作が不可能だ。気合いでどうにか出来ればよかったのだが、そうもいかない。

 問題が体の外にも内側にも山積みのなか、冷静でいられるだけ今すぐ誰かに褒めて慰めて欲しい気分だ。そんな冗談も浮かべる余裕なく思考が霞む。

(く……っ!!)

 そうして、次の瞬間には再生されていた舞台の中の何もかもを吹き飛ばして場面が入れ替わる。
 役者を塵に掻き消して乱暴な地上の継ぎ目を切り、押し退けるようにして、暗く赤い部屋が崩れ去る。
 まだ終わっていないのに。幕を閉じるようにあっけない。

 ここから先は寝ている間に俺が夢でみた広い部屋での出来事。
 俺がジンガ達に正直に伝えた内容を振り返り思い出す。

 ファリーは幽閉された。魔王……黒い結晶とグロテスクな肉に覆われ痩せ細った少女、ミナリスのいた場所で。
 魔王を救う癒し手だと言っていた彼女は、討伐軍が結成されるよりも早く魔王に接触していた。
 返り討ちにされてしまった彼女は捕らえられ、ストランジェットを身籠り一人で産んだ。それをマグが取り上げて……。

(待てよ。スーは一体ファリーと誰の子供なんだ?)

 疑問への答えは今現在、見ている光景にあった。

 広い部屋の隅に今はまだ人の姿で横たわるファリー。苦しげに肩で呼吸をしており、膝から下が竜の物へと次第に変わってゆく。
 彼女は爪の付いた鱗足と白い尾を投げ出しぼんやりと空虚を眺めていた。呼吸は深い。吸っては吐いて繰り返して。
 胸には魔王に刺され穿たれ、自らの治癒魔法で塞いだばかりの裂傷が痛々しく残っている。

 鱗の内側に滲む黒い結晶の色と赤い血の色が混ざりあっていたその場所は数秒前まで俺が手で触れていた場所。
 その傷は魔法学校の玄関でカナンが俺達に見せたあのイラスト……禍々しい何かを埋め込まれた竜の姿を連想させた。
 あの絵に感じていた不穏な感覚は、この負傷したファリーについていた暗黒色の影だったのだ。

 彼女の傷を優しく撫でるように伸びてきたのは、魔王を包み覆っていた物と同様の肉の蔦。
 魔王と違うのは少女よりも更に恐ろしい物に繋がっているところだろうか。

(あれは……魔王とはまた違う……?)

 ファリーの頭の真上には彼女の体の半分程度もあろう巨大な目玉が一つ。
 剥かれ肉の土台から抉り出された眼球がぶら下がっていた。
 血管を収縮させ、全体でどくんどくんと心臓が鳴るような音を響かせながら彼女を見下ろしている。

「ファレルファタルム。神竜の継ぎ種をキュリオフェルから預かってきた」

 落ち着いた声が一つ、何処からともなく部屋に落ちてきた。司祭風の男のものとはまた異なる声音がファリーを呼ぶ。

「ええ。……神竜(キュリオフェル)は私の代わりをつくれと言っているのですね」

 悟ったような瞳でそれを見上げ、目玉の下から伸びてきた触手を身に受け入れるファリーは、諦めたような表情に複雑な感情を混ぜていた。
 どこか捨てきれない期待を寄せているのか、それとも。

「あぁ、魔神蟲(エルトダウン)……。神竜の継子を宿すのなら……どうかせめて愛する人の姿で抱いて欲しいのです」

「望みを聞き入れるよ。では君の愛した人間(ヒト)の話を……声や姿を再現できるよう詳しく聞かせておくれ、ファレルファタルム」

 眼球の化物から降る声が彼女の願いを優しく受け入れ返事をした。
 起き上がるのもやっとといったファリーが肉芽に身を突かれて寄り添えば、触手はたちまち重なり組み上げられて人の外見をつくりはじめた。

 それはやがてマグを真似て姿を形成し、倒れているファリーに身を重ねた。肌を合わせて目を細める彼女の手首にそっと口付けをし、片手を局部に差し入れて粘膜に触れようと愛撫を始める。甘い吐息を漏らしながら舌を絡めて舐め合う男女の目合(まぐわ)い。
 吐息の音までが聞こえてくる。

「そんな……」

 つまり、スーの父親は。
 あの血肉の塊のようなグロテスクな生物がマグ役を受け入れて化けたものだということになってしまうのだろうか。

 頭痛が退けた途端に場面を見ていられなくなってしまった。背筋が凍りそうになり、俺は思わず情を交わし合う二人から目を逸らした。






 
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