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第十話『滝のようなスコールの向こう側』(前編)

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 往来で激しく焦った。狐に摘まれた気分と言ったら、状況を美化しすぎだろう。俺は自分の記憶力のなさに驚いて、我ながら情けなくなったのだ。どうにも思い出せない。

「この辺りをひょいと入ったはずだ…」

 暇を持て余し、急にノックに会いに行こうと考えた。終わらないスコールの日に出会った片足の女。気がつけばあれはもう数日前のことだったが、その時の記憶が不確かなのだ。

 まず闇タバコ屋があるとヌイに教えて貰って、後に従った。バス通りにある台南旅社の近くだ。手前だったのか、通り過ぎたのか。いずれにしても、長い通りではなく、三百メートル程度である。俺は六月四日公園のロータリーから大通りまで二度三度と往復した。

 それっぽい路地はいくつかあったものの、すべて行き止まりだった。ヌイの生足や尻ばかり眺めていたのが主な原因ではあるが、ロケーションが視界の端にまったく入っていないということも有り得ない。だが、何ひとつ思い出せない。

 仕方なく、ジューン・ホテルの毒蝮どくまむしの部屋を訪ねてみようと思った。ヌイは日中、そこで過ごしているという。部屋は五階でドレモン先輩の二つ隣のはずだ。

「あんた誰だい」

 別の日本人が出てきた。毒蝮とは対照的に酷く痩せた骸骨みたいな男だった。高齢の老人である。ランニングシャツに猿股さるまた。よれよれの爺さんそのものだが、この安宿街では強者つわもののスタイルである。 

やっこさんなら女連れで旅行に行くって言って、引き払ったぞ」

 どおりでここ最近、ヌイを見かけなかったわけだ。北部に行く為にバスを予約していたのである。これでヌイに案内してもらうことは出来なくなった。試しに、猿股老人に闇タバコ屋について聞いてみたが『知らねえ』のひと言だった。強者に違いない。

 その足で、六月四日公園に行った。放射状に伸びる複数の道路を確認する為である。ラウンドアバウト形式、つまりロータリーの交差点は、日本では滅多にお目に掛かれない。信号がなく、車は待ち時間なしで都合が良いが、歩行者は苦労する。車を避けて中央の公園に行くは命懸けとも言える。その中、足腰の弱いお年寄りが、どうやって渡るのか。恐らく、じっと待つのだ。

 他の大通りを渡る際も同じで、車が来なくなるのを待つ。タバコを二本ほど吸う場合もあるが、無心で待つ。すると、ぱたっと車の影が消える瞬間が来る。そして急いで渡り切る。 

 ヌイの後を追った日、ロータリー周辺の通りを一本間違えたのかも知れないと考えたのだ。放射状に伸びる通りは全部で六本。気付かずに車道を渡って、台南旅社があるバス通りとは別の道を進んだ可能性もあった。
 
 そう思って泥棒市場に続く道を歩いてみた。しかし、やはり違う。途中に大きな古タイヤ屋と汁そば屋台が迫り出して歩きにくい箇所があり、歩道の幅も狭い。

「目抜き通りに出れば良かった…」

 あの時、チャイナタウンの目抜き通りに抜けていれば、目印になる海鮮レストランや金行があって、記憶に刻まれたはずだ。ノックのいる“ティー・ルーム”は位置的に目抜き通りに近く、無理に闇タバコ屋を探す必要もない。

 あの時、置屋に一泊して朝方帰ったのだ。来た道を逆戻りして宿に帰った。そこで恥ずかしいハプニングに遭遇した。余り思い出したくない。派手な人違いをやらかしたのである。白いタイル張りの洒落た小径。ちょうど花の咲く植え込みがあった付近だった。
 
「あっ」

 俺は声を上げて立ち止まった。顔見知りの日本人に再会したと思ったのだ。たまたま飛行機で隣に乗り合わせ、空港から市内に向かうタクシーにも乗せてもらった。そのまま繁華街に近い中級ホテルに案内されて二泊し、王宮観光も同伴した。北関東に暮らす好青年だった。

 初めての海外で、俺は小判鮫のように彼にぴったり張り付いて過ごした。個人旅行のイロハを手ほどきをしてくれた恩人でもある。そんな彼とチャイナタウンの裏路地で偶然再会したのだ。俺は驚き、喜んだ。

 似ているというレベルでも、そっくりさんでもない。他人ではあるが、ドッペルゲンガーに等しく、背格好も髪型も恩人の青年と同じだった。けれど、別人だった。俺が立ち尽くすと、相手も足を止め、こう言った。

「友達に似てたのかい?」

 ハッキリとそう言ったのだ。俺は図星をつかれ、心の中を読まれたような気がして、ひどく恥ずかしかった。今でもそのシーンを鮮明に思い起こせる。しかし、ドッペルゲンガー氏は、何語でそう語ったのか?

 地元の言語でも広東語でもない。第一、俺が知らないのだ。消去法でいくと英語なのだが、ヒアリングは大の苦手で、難しい言い回しを瞬時に理解できるはずがない。直接、頭の中に言葉が飛び込んできた…そう思わずにはいられないミステリアスな体験だった。

(後編に続きます)
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