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微熱と水槽
しおりを挟むゆらゆらと揺らめく水槽に、ぺたりとおでこをくっつけた。広い水の中で泳ぐ金魚を、じっと見つめる。いや、こいつにとって、広くはないのかもしれないけど。それでも5歳の私には、90センチ水槽は確かに大きかったのだ。それを何故、今になって思い出すのだ。
今ここに水槽を置けるスペースなんてなくて、大きい水槽が見たければ水族館に行く他、方法はないのだ。お洒落なアクアリウムに憧れたが、管理する時間も気力もない。それに、私の心を確かに抉る材料だし、何より魚が可哀想だ。
そんなことを考えながら、ぼーっと左腕を見る。悲しいことに、数年前につけた傷跡は消えてはくれなかった。後悔したって、しわになってしまうまで消えないのだけど。
今この部屋に響くのは水槽のモーター音ではなくて。たばこの灰が水に落ちる音。心地よい。いつの間に私はこんな人間になったんだろうか。読み切れない活字の束を冷めた目で見つめる。私は確かに大人になってしまったようだった。
静かな部屋に着信音が鳴り響く。何コールか、敢えて無視をした。すぐに出たら、まるで待っていたみたいで嫌だった。
「…もしもし。」
さっきまでたばこを吸っていたせいで、声が掠れる。あぁ、やだな。もう少し可愛い声で出たかったのに。
「いま、大丈夫?」
「うん。」
君が少し、優しい声になった。
「…なんか、元気ない?」
そうね、たった今元気が無くなった。なんて、そんな軽口で返す度胸はなかった。なるべくいつも通り返す。
「そんなことないよ。平気。」
「それなら、よかった。」
何が、いいのだ。どうせ私に求めることなんてひとつなくせに。
「もしかして、怒ってる?」
君がそろそろと聞いたものだから、一瞬心が読まれたのかと思った。でも、だとしたら。怒れないのだから、それは間違いだった。
「そんなことないよ。」
「そっか。」
妙な沈黙が流れる。居心地が悪くて、手の中でライターを転がした。緊張感、というか。なんというか。口を開くにも開けないような感覚。沈黙を破ったのは、君だった。
「…水族館でも、行こうか。」
「え?」
随分と間抜けな返答をしてしまい、慌てて取り繕おうとしたが少し遅かった。
「嫌ならいいけど。」
あぁ、思った通り。君は少し拗ねたような声を出した。違う、嫌なわけじゃなくて。
「違くて、いいの?」
「誘ってるんだから、それ聞く必要ある?」
「確かに、ないけど。」
「じゃあ、行くの?行かないの?」
君は急かすように言った。まるで恥ずかしさを誤魔化すようで、こっちまで顔が熱くなってしまう。何だか嬉しい。
「行きたい。」
その、と付け足す。
「…一緒に。」
電話越しに、君がにこやかになるのがわかった気がした。
「じゃあ、あとで休みの日送っておくから、都合のいい日教えて。」
君は満足そうにそう言って電話を切った。
私はというと、今の会話を繰り返してやっと、じわじわと心があったかくなるのを感じていた。実感がない、とはこういうことなのか。ここで使うものなのかもわからないが、今この状況にぴったりなのは確かにそれだった。
それくらい、君の言葉には力があった。
さっきまであんなに憎んでいた左腕の傷跡はどうでもよくなっていたし、煙草はもう火を消していた。積み重なった活字の束は、私の心を躍らせる材料になっていて、部屋もなんだか明るい気がしていた。
我ながら単純で悲しくなったが、それも一瞬で忘れているのだから、やっぱり君はすごいのだ。
君がすごいのではなくて、本当は私が、君のことをそれだけ好きなのだが、そんなことはどうでもいい。今は、どうでもよかった。
「ごめんね、待った?」
ひらりと白いスカートを揺らした。この日のために買ったスカート。給料日前には痛い出費だったが、それもいい。
とにかく、可愛いと思われたかったのだ。
「ううん大丈夫、行こうか。」
君はあっさりとそう言った。可愛いと言われなかったのがちょっぴり残念で、元気なく返事をしてしまう。
君がスッと、左手に触れた。
「服、似合ってるね。」
あぁ、もうこの人は。
「なんで私の心読むかなぁ。」
「なんのこと?」
なんでもない、とそっぽを向いた。赤い頰を隠したかっただけだった。手をぎゅっと握り返す。あったかくて、骨張った手が私の好きな手だった。君の手だから、好きなんだけど。
数年ぶりに見た大きな水槽。
気づけば私は、小学生の私だった。
あの頃の私は、水槽の中に宇宙を見ていた。
ひらりと揺らめく尾ひれ。
それが、塵のようで。
はたまた、惑星のようで。
儚さは同じなのに、勇敢さは違うのだ。
深い深い海の底。
誰も知り得ない世界。
きっと遠い宇宙の端だって、
まだ誰も知らない。
絵の具を混ぜたって作れない深い色。
ぴんと張り詰めた音。
表現しきれない何かが歴史なのだと、
昨日の算数の宿題はわからないくせに。
なんとなくそう思っていた。
水族館の水槽が好きだった。
その世界の一部になれた気がした。
気のせいだったが、それでもよかった。
微かに熱を帯びた胸。
それと比例するように、瞳が煌めいた。
あの頃。
なんて純粋な瞳だったのだろう。
「なんで泣いてるの?」
君が顔を覗き込んだ。慌てて目を拭うと、確かに濡れていた。
「あぁ、ほら、メイク崩れるよ。」
君が手を優しく取る。泣いてる顔を見られてしまうことがなんだか恥ずかしくなって、顔を背けた。
「せっかく、綺麗なんだから。」
人目もはばからず、君が私を抱きしめたのはこれで2回目だった。私は、君の背中に手を回すのを少し躊躇って、それでも溢れてくる涙に抗えず、遠慮がちにそっと背中に手を置いた。
君はそれを肯定するように、腕に力を込めた。応えるように、服をぎゅっと掴む。
君から伝わる熱は、あの頃胸に広がった微熱と似ていた。あたたかくて、安心して、だけど、どこか不安になるような。
20歳を過ぎた大人が、水族館の大水槽の前で抱き締められて泣くなんて。恥ずかしくて仕方なかったが、もう、どうでもよかった。
君が抱き締めてくれたことが、君の熱が、確かに私の胸をあたためていた。
横目で、水槽を見た。
泳ぐは、惑星。
ひらりひらりと、緩やかに。
この世界の一部になれたなら。
この胸の熱も冷ましてしまうのだろうか。
夢から、覚めてしまうのだろうか。
そっと広がった微熱。
比例するように、涙は溢れるばかり。
それが、悲しくて泣いているのか、
嬉しくて泣いているのか、
検討もつかない。
でも、君の腕と私の胸は確かに。
確かに同じ温度だった。
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