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第四章
二話 天涼 その一
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苑国 天涼
張弦と淑が天涼についたのは昼過ぎだった。
「うわあ……!」
淑が子供のような声をあげる。張弦は苦笑いした。しかし、それも仕方がないことだ。天涼には苑国の他の街とは全く違う風景があった。
もうすぐ国境の天涼の市は、たくさんの露店が並ぶ間を、ラクダがあのひょうひょうとした顔で歩いている。それを黒髪の男が引いている。近くには西方風に大きなひげを蓄えた赤い髪の男らが集まっている。服装も苑国風のものから、いかにも遊牧民族らしい動物の革をなめした上着に長い靴を履いたものもいる。
歩くひとも様々だが、売っているのも様々だ。色とりどりの香辛料、見たこともない果物、洛都では見ないかたちの皿や入れ物に、西方ならではの凝ったかんざしや髪飾り、遊牧民族である西丹のものであろう凝った刺繍の小物や織物、女店主が多いのも西方らしい。西方では女も立派な稼ぎ手だ。
「張殿、行ってみましょう!」
淑が明るい声で叫び、張弦の手を引く。しかし、その声に張弦はすぐ反応できなかった。まず、昨日また泣きながら寝入ったはずなのに、淑の声が妙に明るいことが気になった。それに張弦も昨夜はあることを考えて眠れなかった。淑から聞いた龍武の後宮の話と、輿入れ行列が襲われた時の賊の言葉に関係があるのでは、と考えていたのだ。
あの日、淑と張弦が崖から落ちたかどうか賊が仲間内で揉めた時、ひとりがこう言った。
『あのものは勝手に崖から落ちた!そこまで追いつめた証拠だ!宰相様に申し訳は立つ!』
まず皇女をあのものと呼ぶはずがない。ならば乗っていたのは男だと知っていたと考えるのが筋。また宰相に申し訳が立つというなら、あの賊は、そしてあの名ばかりの護衛は、現宰相の李陵国が男を始末するために用意したと考えられる。それに昨夜の淑の話から考えれば、龍武の後宮には皇帝以外の男が通っていた。
それがもし李陵国なら?
通っていたところを見ている死んだはずの第三皇子が馬車に乗っている男と気づいていたら?
何も答えない張弦に、淑が心配そうに聞く。
「昨日私だけが寝てしまったので、張殿に火の番を一晩中させてしまいました」
薄茶色の瞳が申し訳無さそうに張弦を見上げている。
「いや、ちょっと考え事をしていただけだ、大丈夫だよ」
張弦は淑に微笑んだ。ふたりでの旅もあとわずかだ。せめて楽しいものにしていやりたい。ふところからふたつの袋を出し淑にひとつを渡す。
「これは!」
ずしりとした重みに淑が驚いて顔をあげた。中身は金す、それも結構な量だとわかったのだろう。
「あの行列からお前と俺の分け前ぐらいは持ってきた」
「張殿!」
淑は少し怒ったような声で叫んだ。しかし、すぐに笑顔になった。
*
金すを使って、ふたりはまず美味そうな匂いに誘われてこのあたりの名物らしい麺を食べた。そして、満腹になると露店を冷やかしながらのんびり歩く。山から降りてきたふたりはすっかり汚れていたせいか、または市には様々な人間がくるせいか、警戒する必要もないほど誰も自分たちを気にする様子はいない。張弦は安心して、市を楽しむ。何よりおもしろいのは淑の反応だ。
「うわあ、すごい、これはなんですか!」
淑がいちいち感嘆の声を上げるので張弦も嬉しくなる。
こいつが女ならかんざしのひとつも買ってやるんだが……
そのとき張弦の目に凝った刺繍の入った小さな布袋が目に入った。爽やかな萌黄色をしている。まるではじめて会った時の淑の着物のようだ。
「こいつはどうだ?」
「あ!」
淑の目が輝く。張弦はそれを手に取ると淑の胸元をつつく。
「いつも首に下げている袋はずいぶんくたびれているだろう、これに取り替えるのも悪くない」
とたんに淑の顔にとまどいが浮かぶ。
「あれはわたくしが七歳の時、山人がくださったものでございます、中の火打ち石と一緒に」
「そうか……」
張弦は少し残念に思う。あの袋とその中にある火打ち石は淑の山人との思い出の品なのだろう。しかし、もうすぐ旅は終わる。できるなら自分も山人と同じように淑に何か残してやりたい。淑が遠慮がちに言う。
「でも、張殿が買ってくださるなら……そうすれば、これを見て張殿を思い出すことができます」
薄茶色の目がこちらを見た。すこしだけ潤んでいるようにも見える。張弦は戸惑った。
そんな顔をしたら皇子に戻せなくなるじゃないか……
張弦は品定めをするふりをして淑から目をそらす。その目に今度は違う布袋が目に入る。淑がいつも持っている袋より少し明るい紺色で、淑に買ってやろうとしたものと同じ刺繍が入っている。
「じゃあ、俺にはこれを買ってくれ、俺もこれに大切なものをしまっておく」
「はい!」
淑が嬉しそうに店の女店主に代金を払う。張弦も萌黄色の袋を買った。釣りは西方の通貨のようなので、張弦は今後使うこともないだろうと、女店主に笑いかけた。
「釣りはいらないよ」
すると、日に焼けた女店主が嬉しそうにそれぞれに布袋を手渡しながら言った。
「うれしいねえ、今日はもう少し売れると思ってたからありがたいよ」
「なんだい、何かある予定だったのかい?」
「それがねえ、今日、輿入れ行列が来たんだけど、素通りしちまったんだよ」
すると隣の女店主も話に加わる。よほど期待していたのだろう。
「おかしな行列でね、女官がおおぜい来ると思ったら男の護衛ばかりでさあ」
ところが、最初の女店主が思いもかけないことを言った。
「李陵国だっけ、あの太った宰相が乗ってたって噂している奴がいたよ。なんでも、前回輿入れ行列を賊に襲われたとかで上の不興を買ったとか」
その言葉に張弦は思わず声をあげそうになった。
張弦と淑が天涼についたのは昼過ぎだった。
「うわあ……!」
淑が子供のような声をあげる。張弦は苦笑いした。しかし、それも仕方がないことだ。天涼には苑国の他の街とは全く違う風景があった。
もうすぐ国境の天涼の市は、たくさんの露店が並ぶ間を、ラクダがあのひょうひょうとした顔で歩いている。それを黒髪の男が引いている。近くには西方風に大きなひげを蓄えた赤い髪の男らが集まっている。服装も苑国風のものから、いかにも遊牧民族らしい動物の革をなめした上着に長い靴を履いたものもいる。
歩くひとも様々だが、売っているのも様々だ。色とりどりの香辛料、見たこともない果物、洛都では見ないかたちの皿や入れ物に、西方ならではの凝ったかんざしや髪飾り、遊牧民族である西丹のものであろう凝った刺繍の小物や織物、女店主が多いのも西方らしい。西方では女も立派な稼ぎ手だ。
「張殿、行ってみましょう!」
淑が明るい声で叫び、張弦の手を引く。しかし、その声に張弦はすぐ反応できなかった。まず、昨日また泣きながら寝入ったはずなのに、淑の声が妙に明るいことが気になった。それに張弦も昨夜はあることを考えて眠れなかった。淑から聞いた龍武の後宮の話と、輿入れ行列が襲われた時の賊の言葉に関係があるのでは、と考えていたのだ。
あの日、淑と張弦が崖から落ちたかどうか賊が仲間内で揉めた時、ひとりがこう言った。
『あのものは勝手に崖から落ちた!そこまで追いつめた証拠だ!宰相様に申し訳は立つ!』
まず皇女をあのものと呼ぶはずがない。ならば乗っていたのは男だと知っていたと考えるのが筋。また宰相に申し訳が立つというなら、あの賊は、そしてあの名ばかりの護衛は、現宰相の李陵国が男を始末するために用意したと考えられる。それに昨夜の淑の話から考えれば、龍武の後宮には皇帝以外の男が通っていた。
それがもし李陵国なら?
通っていたところを見ている死んだはずの第三皇子が馬車に乗っている男と気づいていたら?
何も答えない張弦に、淑が心配そうに聞く。
「昨日私だけが寝てしまったので、張殿に火の番を一晩中させてしまいました」
薄茶色の瞳が申し訳無さそうに張弦を見上げている。
「いや、ちょっと考え事をしていただけだ、大丈夫だよ」
張弦は淑に微笑んだ。ふたりでの旅もあとわずかだ。せめて楽しいものにしていやりたい。ふところからふたつの袋を出し淑にひとつを渡す。
「これは!」
ずしりとした重みに淑が驚いて顔をあげた。中身は金す、それも結構な量だとわかったのだろう。
「あの行列からお前と俺の分け前ぐらいは持ってきた」
「張殿!」
淑は少し怒ったような声で叫んだ。しかし、すぐに笑顔になった。
*
金すを使って、ふたりはまず美味そうな匂いに誘われてこのあたりの名物らしい麺を食べた。そして、満腹になると露店を冷やかしながらのんびり歩く。山から降りてきたふたりはすっかり汚れていたせいか、または市には様々な人間がくるせいか、警戒する必要もないほど誰も自分たちを気にする様子はいない。張弦は安心して、市を楽しむ。何よりおもしろいのは淑の反応だ。
「うわあ、すごい、これはなんですか!」
淑がいちいち感嘆の声を上げるので張弦も嬉しくなる。
こいつが女ならかんざしのひとつも買ってやるんだが……
そのとき張弦の目に凝った刺繍の入った小さな布袋が目に入った。爽やかな萌黄色をしている。まるではじめて会った時の淑の着物のようだ。
「こいつはどうだ?」
「あ!」
淑の目が輝く。張弦はそれを手に取ると淑の胸元をつつく。
「いつも首に下げている袋はずいぶんくたびれているだろう、これに取り替えるのも悪くない」
とたんに淑の顔にとまどいが浮かぶ。
「あれはわたくしが七歳の時、山人がくださったものでございます、中の火打ち石と一緒に」
「そうか……」
張弦は少し残念に思う。あの袋とその中にある火打ち石は淑の山人との思い出の品なのだろう。しかし、もうすぐ旅は終わる。できるなら自分も山人と同じように淑に何か残してやりたい。淑が遠慮がちに言う。
「でも、張殿が買ってくださるなら……そうすれば、これを見て張殿を思い出すことができます」
薄茶色の目がこちらを見た。すこしだけ潤んでいるようにも見える。張弦は戸惑った。
そんな顔をしたら皇子に戻せなくなるじゃないか……
張弦は品定めをするふりをして淑から目をそらす。その目に今度は違う布袋が目に入る。淑がいつも持っている袋より少し明るい紺色で、淑に買ってやろうとしたものと同じ刺繍が入っている。
「じゃあ、俺にはこれを買ってくれ、俺もこれに大切なものをしまっておく」
「はい!」
淑が嬉しそうに店の女店主に代金を払う。張弦も萌黄色の袋を買った。釣りは西方の通貨のようなので、張弦は今後使うこともないだろうと、女店主に笑いかけた。
「釣りはいらないよ」
すると、日に焼けた女店主が嬉しそうにそれぞれに布袋を手渡しながら言った。
「うれしいねえ、今日はもう少し売れると思ってたからありがたいよ」
「なんだい、何かある予定だったのかい?」
「それがねえ、今日、輿入れ行列が来たんだけど、素通りしちまったんだよ」
すると隣の女店主も話に加わる。よほど期待していたのだろう。
「おかしな行列でね、女官がおおぜい来ると思ったら男の護衛ばかりでさあ」
ところが、最初の女店主が思いもかけないことを言った。
「李陵国だっけ、あの太った宰相が乗ってたって噂している奴がいたよ。なんでも、前回輿入れ行列を賊に襲われたとかで上の不興を買ったとか」
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