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第一章
【9】挨拶はひとつ
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「カフェのスタッフは、朝から、昼から、夕方から、夜からと出勤時間はバラバラだ。スタッフが入れ替わる時間にあわせて、こんにちは・こんばんはなんて使い分けていられない。よって、スタッフ同士の挨拶はひとつ! 出勤してひとに会ったらまずは『おはようございます』!!」
シェラザードの裏手。ドアを開ける前に、アルは真剣そのものの顔で言って来た。
エルトゥールもまたアルを見上げて、真顔で大きく頷いた。
「なるほど。いまの時間帯、こんばんはを使うひとも多そうですが、挨拶はひとつ」
「そう。挨拶はひとつ。周りとうまくやっていくコツは挨拶。腹から声を出していれば、多少仕事ができなくても『あいつは見どころある』『なかなかいい奴』って周りも勘違いする。というか、実際、大きな声が必須なんだ。ここの職場」
暮れなずむ薄暗い路地裏で、アルはほんの少し笑った。
アルの声は力強く、声量を抑えていても、よく通る。
「こう言ってはなんですが、私はびっくりするくらい使い物になりません。この歳まで仕事をしたことがありませんし、その、いわゆる……、世間知らずといいますか。でも、クビになるわけにはいかないんです! お金が……、お金が必要なんです!!」
躊躇いつつも、声に出したらすっきりした。
お金。
(なにはともあれ、学校生活を続けなくては。勉強で身を立てるも、結婚相手も見つけるのも。その学校生活を維持するためには! お金が!)
思わず両手で拳を握りしめて前のめりに一歩踏み出す。
アルはさっと手をあげると、エルトゥールの両肩にばしっと置いた。
「大丈夫。最初はみんな新人。みんなミスはある。もちろん、そのたびにすっごく怒られる。怒られたときは、悪いところと向き合ってしっかり謝る。わからないことは聞く。同じ失敗はしない。いつまでも引きずらない。この店には、エルのことを個人的に嫌って、いじめで叱るような奴はいない、と思う。いたら、俺に言え。ひとりで悩むな。抱え込むな」
(アルはやっぱりアーノルド殿下? 学校で会ったときは、私が『エルトゥール』だと知っていたけど、服装が違ってもさすがに同じ人間だとわかるよね? 私が男性だと騙されてる、なんてあるかな?)
「よし、それじゃ行くぞ」
言うだけ言って、アルはドアに手をかけて、勢いよく開いた。
途端に、厨房の熱気が押し寄せてくる。本物の、熱風。外とは温度が明らかに違う。
調理器具のぶつかる音、走り回るスタッフの、怒号めいたやりとり。
凄まじいやかましさに、耳が痛くて、身がすくむ。
その瞬間、アルが大きく息を吸い込んで言った。
「おはようございまーす!!」
(声、大きい!)
すぐに、「うーーーーーっす!!」とあちこちから声が上がる。
(うーっすってなに、挨拶は「おはようございます」じゃなくて!?)
すぐそばで直撃をくらったエルトゥールは、びりびりと空気が震えるのを感じて息を止めてしまっていたが、にやりと笑ったアルに見下ろされていることに気付いた。「ほら」促される。
挨拶はひとつ。
「お、おは、おはようございます!!」
「もっと大きな声で、腹の底から」
「おはようございます!!!!!」
アルに促されて、大きく息を吸い込んで叫んだら、「うーっす」という返答があった。
(つ……通じた!?)
挨拶できた!? と、謎の感動に浸りかけたが、すぐにアルに背を押されて細い通路に案内される。
「この奥で着替えられるから、制服に着替えて。この店では悠長に一から仕事を教えている余裕はない。今日は俺もフロアに出る。俺から離れないで、見て覚えるように」
「はいっ」
返事をして、通路の先に向かう。
突き当り正面、天井から布の垂れた簡易の仕切りをかきわけて、コックコートを着た大柄な男性が出て来た。
「おはようございます!」
「おう。新入りか。しっかりやれよ!」
「はいっ!」
エルトゥールが反射で挨拶をすると、アルはとん、とその背中を叩いた。
「やるじゃん。そうそう、今のは良かった。最初が肝心。挨拶は大切。さ、着替え」
(着替え……、そうだ。着替えているところ見られたら、さすがに女だってバレないかな?)
アルに褒められたのは嬉しかったが、足が止まってしまった。
肩を並べていたアルはエルトゥールより先に踏み出し、さっと布をかきわけて中を確認した。振り返って、軽く身をかがめてエルトゥールの耳元で囁く。
「いま、中は誰もいない。俺はここにいる。早く着替えてきて」
「ありがとう、ございます」
(やっぱり、フォローしてくれてる? 私の事情を知っていますよね?)
アーノルド殿下、ですよね?
確認したかったが、折を見て話そうと決めた。まずは着替え。
働く。仕事を覚えねば。使えない、と放逐されないためにも。
(お金を稼がなければ!)
シェラザードの裏手。ドアを開ける前に、アルは真剣そのものの顔で言って来た。
エルトゥールもまたアルを見上げて、真顔で大きく頷いた。
「なるほど。いまの時間帯、こんばんはを使うひとも多そうですが、挨拶はひとつ」
「そう。挨拶はひとつ。周りとうまくやっていくコツは挨拶。腹から声を出していれば、多少仕事ができなくても『あいつは見どころある』『なかなかいい奴』って周りも勘違いする。というか、実際、大きな声が必須なんだ。ここの職場」
暮れなずむ薄暗い路地裏で、アルはほんの少し笑った。
アルの声は力強く、声量を抑えていても、よく通る。
「こう言ってはなんですが、私はびっくりするくらい使い物になりません。この歳まで仕事をしたことがありませんし、その、いわゆる……、世間知らずといいますか。でも、クビになるわけにはいかないんです! お金が……、お金が必要なんです!!」
躊躇いつつも、声に出したらすっきりした。
お金。
(なにはともあれ、学校生活を続けなくては。勉強で身を立てるも、結婚相手も見つけるのも。その学校生活を維持するためには! お金が!)
思わず両手で拳を握りしめて前のめりに一歩踏み出す。
アルはさっと手をあげると、エルトゥールの両肩にばしっと置いた。
「大丈夫。最初はみんな新人。みんなミスはある。もちろん、そのたびにすっごく怒られる。怒られたときは、悪いところと向き合ってしっかり謝る。わからないことは聞く。同じ失敗はしない。いつまでも引きずらない。この店には、エルのことを個人的に嫌って、いじめで叱るような奴はいない、と思う。いたら、俺に言え。ひとりで悩むな。抱え込むな」
(アルはやっぱりアーノルド殿下? 学校で会ったときは、私が『エルトゥール』だと知っていたけど、服装が違ってもさすがに同じ人間だとわかるよね? 私が男性だと騙されてる、なんてあるかな?)
「よし、それじゃ行くぞ」
言うだけ言って、アルはドアに手をかけて、勢いよく開いた。
途端に、厨房の熱気が押し寄せてくる。本物の、熱風。外とは温度が明らかに違う。
調理器具のぶつかる音、走り回るスタッフの、怒号めいたやりとり。
凄まじいやかましさに、耳が痛くて、身がすくむ。
その瞬間、アルが大きく息を吸い込んで言った。
「おはようございまーす!!」
(声、大きい!)
すぐに、「うーーーーーっす!!」とあちこちから声が上がる。
(うーっすってなに、挨拶は「おはようございます」じゃなくて!?)
すぐそばで直撃をくらったエルトゥールは、びりびりと空気が震えるのを感じて息を止めてしまっていたが、にやりと笑ったアルに見下ろされていることに気付いた。「ほら」促される。
挨拶はひとつ。
「お、おは、おはようございます!!」
「もっと大きな声で、腹の底から」
「おはようございます!!!!!」
アルに促されて、大きく息を吸い込んで叫んだら、「うーっす」という返答があった。
(つ……通じた!?)
挨拶できた!? と、謎の感動に浸りかけたが、すぐにアルに背を押されて細い通路に案内される。
「この奥で着替えられるから、制服に着替えて。この店では悠長に一から仕事を教えている余裕はない。今日は俺もフロアに出る。俺から離れないで、見て覚えるように」
「はいっ」
返事をして、通路の先に向かう。
突き当り正面、天井から布の垂れた簡易の仕切りをかきわけて、コックコートを着た大柄な男性が出て来た。
「おはようございます!」
「おう。新入りか。しっかりやれよ!」
「はいっ!」
エルトゥールが反射で挨拶をすると、アルはとん、とその背中を叩いた。
「やるじゃん。そうそう、今のは良かった。最初が肝心。挨拶は大切。さ、着替え」
(着替え……、そうだ。着替えているところ見られたら、さすがに女だってバレないかな?)
アルに褒められたのは嬉しかったが、足が止まってしまった。
肩を並べていたアルはエルトゥールより先に踏み出し、さっと布をかきわけて中を確認した。振り返って、軽く身をかがめてエルトゥールの耳元で囁く。
「いま、中は誰もいない。俺はここにいる。早く着替えてきて」
「ありがとう、ございます」
(やっぱり、フォローしてくれてる? 私の事情を知っていますよね?)
アーノルド殿下、ですよね?
確認したかったが、折を見て話そうと決めた。まずは着替え。
働く。仕事を覚えねば。使えない、と放逐されないためにも。
(お金を稼がなければ!)
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