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第七章 国難は些事です(中編)

行きつく先まで(中)

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 ロイドがくすんっと鼻を鳴らして言った。

「やばい。怖い」
「やばいって、それは性的な意味でですか」

 クロノスの直截的な言葉に、ロイドはびくりと細い肩を震わせた。
 大きく見開いた瞳にうるうると涙をにじませながら、小さく頷く。内腿をすり合わせるようにもじもじとしてから、自分を抱きしめる腕にぎゅっと力をこめた。

「へんなこと言って、ごめん。からだが熱くて……。どうすればいいか、わからなくて。だ、だけど、大丈夫っ。ルーク・シルヴァになんとかしてもらうからっ」

 何かを振り切るように言ったロイド。
 クロノスがすかさず確認した。

「なんとかって。性行為をするんですか?」

 顔を真っ赤に赤らめたまま、ロイドは俯いてしまう。
 ずるりとソファから前のめりに崩れて床に膝をつき、ぺたんと座り込んだ。
 何事かと、クロノスは足早に近づいて、すぐ横に膝をつく。
 キャミソールドレスの肩紐は片方ずり落ちていて、裾がまくれあがり太腿があらわになっているのが目に飛び込んできた。ロイドは、唇を噛みしめながらも悩ましく息を漏らし、目を瞑って身体を細かく震わせている。
 抱き起そうと差し伸べた手を、クロノスは中途半端に宙でとめた。

「その場合、クライスは大丈夫なのかなと、考えてしまいまして」
「ばれないようにするからっ」
「ばれたらまずいようなことは大抵ばれますよ」

 責める気などないのに、ついクロノスは思ったままを口にしてしまった。

「うん。でも、このままだと死んじゃう……」
「生き物としてそこまで危険な状態という意味ですか」

 目元までほんのりと染めたロイドが、クロノスに視線を向けて、呻いた。

「殿下、お願い、やめて。声、近くて、やばい。今ほんと、だめだから……、あんまり、その声で、攻めないで」
「責める? そんなつもりはないです。ただ、死にそうだと言われたら放ってはおけない。どういう要因で死ぬんですか?」

 逃れようとするように、ロイドは身体をひねって後ろに手をつき、後退しながらクロノスを見上げた。背をそらす姿勢になったせいで張りのある胸が強調され、裾はいよいよ足の付け根の危ういところまで割り込んだ。
 動きを止めているクロノスに対し、ロイドはぐすっと鼻をすすりあげながら、半ばやけになったように押し殺した声で叫んだ。

「ごめん、死ぬってのは比喩。頭おかしくなりそうなくらい辛い。性的な意味で!!」

 言い終えてから、「もうやだ……」と涙声で呟いて俯いてしまう。そのままぐずぐずと言った。

「どうしよう……。たぶん、オスを誘発するようなもの、出てるんだよね……。匂いとか。このままだと、周りも巻き込んじゃう……」

 ついに涙がこぼれ落ちた。
 唇を震わせながら、クロノスをおそるおそるのように見上げる。

「こんなつもりじゃなかったのに」
「ロイドさん。落ち着く……のは無理かもしれないから、まずオレが落ち着きます。事情はわかりました」

 ロイドの動きを遮るように、中途半端に浮かせていた片方の手を目の前で広げた。
 内心では恐ろしいほどの後悔に襲われていた。

(雄を誘発するようなもの……? 確かに、何かくらくらする。泣き顔はやばい)

 クロノスは深く息を吐き出した。

「ロイドさんがどうしてオレに助けを求めてきたのかはわかりました。オレは魔道士です。その気になればあなたの魔法抵抗も打ち破れると思います。だけど、なるべく抵抗しないで」
「なに?」
「眠りの魔法を使います。ひとまず強制的に眠らせます。その間に対策を練ります。無防備なあなたには誰も近寄れないようにしますから」
「あ、うん。それ、いいかも。あの、でも、殿下?」

 がくがくと頷きながら、いまだ潤みきった目で、ロイドは訴えた。

「抵抗、無意識にしちゃうかも」
「あなたも強い魔導士ですから、それは当然ですね。でも、ここはオレが強引に力づくでねじ伏せてでも勝たせてもらいます。大丈夫ですよ、オレ実戦向きなんで」

 不安は当然だと、クロノスは安心させるように微笑みかける。
 目を見開いてそれを見つめていたロイドは。
 支えを失ったように、身体をぐらつかせた。
 クロノスは慌てて背に手を伸ばし、抱き寄せながら目をのぞきこむ。

「怖くないですよ。力を抜いて身を任せて」
「あ……、それ、いや」

 腕から逃れたいらしく、ロイドが身じろぎをする。その弱い抵抗を封じるべく、クロノスはなおさら強く胸に抱き込んだ。

「いや、じゃないですよ。そのわがままはきかない。逃げたら押さえつけてでもします。痛いことは何もしませんから」 
「……殿下」

 相当の混乱状態なのだろう、語彙を喪失したようにロイドはクロノスを「殿下、殿下」と呼んで身体を押し付けるようにすがりついてくる。

「どうしました? まだ怖い?」
 落ち着かせようと髪を撫でて指で梳きながら、クロノスはしずかな声で尋ねる。
 息を乱したロイドが、ほっそりした指を差し伸べて、クロノスの顎に触れた。

「殿下、お願い。私の集中を乱して……。抵抗したくないから、ぐちゃぐちゃに乱して」
「もう十分乱れていますよ。辛そうです、早く楽にしてあげたい」

 見たままを告げたが、ロイドはふるふると首を振る。濡れた瞳から涙をこぼしながら、掠れた声で懇願した。

「口づけして。何も考えられないように。奪って」

 クロノスは、躊躇わなかった。
 ロイドの細くやわらかな身体を手荒に抱き直し、かみつくように唇に食らいついた。吐息も呻き声もすべて抑え込みながら、頭の中に術式を描いて魔法を行使する。
 触れ合ったところから魔法が浸透するのを願うように。
 やがて顔を離すと、ロイドの唇の端を伝った唾液を親指の腹でぬぐい取った。
 注意深くその寝顔を見つめ、完全に眠りに落ちているのを確認する。床に片膝をついてロイドを抱きかかえたままの姿勢で呟いた。

「びっくりした……」

 少しの間ぼうっとしていたが、思い直したように立ち上がる。
 ロイドが言うように、確かにその身体からは「雄を誘発する何か」が出ているのかもしれない。口づけた瞬間は、自分でもやばいな、と思ったほどだ。
 意志の弱い男であれば、てきめんだろう。獲物と見定めたロイドを、滅茶苦茶に犯してしまうかもしれない。

(怖いよな……。咄嗟に男に戻ろうとしたのもわかる。ものすごく強固な結界を張っておこう。だけど、このままじゃいられない。早く対策をとらないと)

 ロイドの身体を寝台に運んで下ろす。
 乱れた衣服を簡単に整え、長い髪がくしゃくしゃにならないように手でおさえながら横たえた。
 
 そこに彼女がいることを人の認識から外す結界。
 万が一気付いても手を触れることができない結界。
 重ねがけをしてから、ようやく息を吐き出す。

(同じ種族なら何か対処法を知っている……か? くそ、あいつが寝ていたからロイドさんこっちに来たんだよな。あんな姿、オレに見られたくなかっただろうに)

 この落とし前は絶対あいつにつけさせてやる。
 脳裏に圧倒的美貌の灰色魔導士を描き、クロノスは拳を握りしめた。
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