1 / 1
ずっと一緒で、気付かなかった
しおりを挟む兄が、恋人と別れたらしい。
兄・ノブは現在35歳、恋人・ノリちゃんは私・サヤカの同級生で30歳だ。幼馴染みだから知り合ってから随分と長い付き合いで、男女交際を始めてからも15年という夫婦みたいなカップルだった。
私は高校から隣県に出ており、2人がどんな付き合いをしているかは知らなかった。
それ以前に5つも離れた兄だから、話も合わないし遊んでもらえないしで幼少期からあまり懐いていなかったらしい。なので大きくなってからも同じで、何かについて2人で語ったり取り組んだりという作業をしたことがない。つまりは青年期に入ってからの兄の人格というものに詳しくない。
ノリちゃんはうちの斜め向かいに住んでいて、小さい頃から兄のことが好きだったそうだ。私の家に遊びに来ては兄に構って邪険に扱われたりして、それでも想いを募らせてついに実らせた一途な子だった。
ちなみに、兄はイケメンとか呼べるほどの超絶美男子ではない。ただひょろっと背が高くて頭が良くて、まぁ並よりは男前なのかなと…贔屓目に見ればそんな感じだ。
一方のノリちゃんは大人しい可愛い系で、モテるタイプだけど兄への操を立てて告白は全て断っていた。
ちょっとSっ気のある兄と甲斐甲斐しいノリちゃん、私の印象ではそんなところだ。
進学して就職していよいよ結婚か、というところでの破局。
私は専門を出た後に地元へ戻っており、実家近くに部屋を借りて彼氏と同棲している。
ノリちゃんとも連絡を取れないこともないのだが、野次馬みたいに思われたら嫌なので黙っている。
仲の良さそうに見えていた2人、それなりにケンカや行き違いもあったのだろう。
私がそのニュースを知ったのは母からのリークだ。
ノリちゃんと一緒に住んでいたはずの兄から突然「実家に帰りたい」との打診があり、そこで「ノリが出て行った」と漏らしたことから発覚したのだそうだ。
兄はアパートは引き払って実家に戻り、そこから会社に行っているらしい。母は兄をずっと住まわせる気は無いそうで、さっさと出て行かせると言っていたがどうなのか。
そんなある休日のこと、私は用事があってひとり実家を訪ねていた。
「ただいまー……あ、ただいま」
「おう、おかえり」
「母さんは?」
「サヤカが帰って来るからって団子買いに行った。さっきだよ」
ダイニングには兄がいて、遅めの朝食なのかグラノーラをガツガツ食べている。
何だか気まずいな、他人でもそうだろうが血縁者だからこそ妙な壁と空気感がある。早めに用事を済ませて帰りたいが、たまにしか会わない母にも顔を見せておきたいので待つことにした。
母はきっと、私のお気に入りの団子屋さんまで買いに行ってくれているのだと思う。私も自力で買いに行ける店なのだが、好物を食べさせたいという親心なのだろうから甘えることにした。
「……」
「……」
リビングダイニングには兄の食器の音が響いて、大変居た堪れない。とはいえテレビを点けるのも、間が保たなかったことを示すようで失礼な気がする。兄妹なのだから気にしなくて良いのだろうが、他人行儀というかほぼ他人くらいの認識なので仕方ない。
「(きゃいきゃい話す兄妹じゃないからねー…親しみが失せてるというか、絶妙に遠い親戚くらいな…)」
「あのさ、」
「わっ…え、何?」
兄からの声掛けに、私は露骨に驚いてしまう。
気を遣っていることを気付かれたくないのだが察されたのだろうか。
それはさておき私の心情など関係ない兄はぶっきらぼうに、
「ノリから、何か聞いてないか?」
と元カノの名前を出した。
「…へ…?いや、聞いてないけど」
「そう…あのさ、俺たち、別れたんだよ、ノリが出て行ったんだ」
「あ、そーなんだー…」
私は咄嗟に、知らないふりをしてしまう。
別れてからまだひと月足らずだと思うのだが、私はだいぶん序盤に知らされていたことになる。純粋な驚きは沈静化していたから、ビッグニュースにも関わらず演技臭くなってしまった。
「その…突然。だから、何か…理由が知りたくてさ」
「ほー…」
別れたことは受け止めているが、ノリちゃんが出て行った経緯は私も多少は興味がある。これは素直に反応出来た。
「他に好きな奴が出来たのか、引っ越さなきゃいけない事情が出来たのか、分からない」
「引き留めなかったの?」
「俺の仕事中に出て行ったんだよ。置き手紙だけ残して」
「ふーん…実家には行ってみた?」
「まさか。そんな近くに…居るのかな」
兄はそれなりに落ち込んでいるようだが、ノリちゃんと別れたことを真剣に受け止めていないようにも見える。もしかしてノリちゃんがフラッと帰って来ると信じていたりして。
「私、行って来ようか。おばちゃんは居るかもしれないし、何か知れるかも」
「いや、別れたこと知らないかもしれない」
「知れたら儲けものじゃん。塩対応されても、私が非常識な奴って思われるだけだしさ」
「う、うん…」
まだ母の帰宅には時間があるだろうし、私は斜め向かいのノリちゃん実家に突撃することにした。
見事な野次馬だが、帰省したついでの世間話なら許されるかと…好奇心に負けた。
・
「こんにちは、おばちゃん」
「久しぶりね、上がって上がって」
インターホンを鳴らすとノリちゃんのママが出て来て、快く迎え入れてくれた。
玄関には若向けな靴が、これはノリちゃんのものではなかろうか。
「おばちゃん、ノリちゃん帰って来てるの?」
私が問えば、ノリちゃんママは
「そうなのよ、ノブくんと…その、別れて、一時的に帰省してるの」
と困り眉で答える。
ここで私ははたと、「娘が別れた恋人の妹」である私の立場を思い出す。私は全く第三者の気分で来たが、もし破局の原因が兄にあるのだとすれば、私はノリちゃんママからしても敵の一味ということになろう。
第三者から当事者側の人間にジョブチェンジすれば、出されたお茶も素直に飲んで良いものだろうかと…今さら戸惑ってしまった。
「さ、飲んで。ノリも降りて来るわ」
「あ、あの、おばちゃん、私、ノリちゃんと兄さんが別れた理由を知らなくて、知ってる?」
ヒソヒソ声を抑えて尋ねると、ノリちゃんママはポカンとなりさらに眉尻が下がる。
「聞いてないの?」
「兄さんは、『分からない』って。『ノリが出て行った』しか言わないの。ノリちゃんの行き先も分かんないって言うし、だから個人的興味もあって来ちゃった」
「あら、そうなの…まぁ…男女間のことだから周りがとやかく言えないんだけどね、ノリは愛想尽かしたのよ。ノブくんに」
「あいそ、」
「詳しいことは本人から聞いたら?」
トントンと階段の床板を叩く音がして、ノリちゃんが降りて来ることが分かる。
兄に非がある別れ方をしたらしい、これは完全に私はノリちゃんの敵だ。知らずに乗り込んでしまった自分を悔いる。
ノリちゃんはどんな反応をするだろう、泣かれて塩を撒かれて追い出されるだろうか。
出歯亀根性がさもしかったなぁ、罵倒を受け止める心の準備をしていると、
「サヤちゃん、久しぶり!」
と予想外に明るいノリちゃんの声が降り注いだ。
私は無意識に頭を下げていたようだ。
「ノリちゃん、久しぶり…あの、この度は、うちの兄が」
「いいの、何、そんなこと話しに来たのぉ?」
空元気とか当て付けではなさそう、ノリちゃんの素の朗らかな態度だ。
「いや、用事があって帰省したんだけど、あの、2人が別れたってさっき知って、そのー」
「ノブくん、家に居るの?」
「うん、一時的に住み着いてる。それで、『ノリが出て行った』って言うからなんでか聞いたら『理由が分からない』の一点張りで。違うの、ゴネてるとかじゃなくてね、失踪したみたいな言い方だったから私も気になっちゃって」
「あはは、ノブくん、分かってないんだ」
ノリちゃんはあっけらかんと、笑い飛ばす。
飛び出したとか失踪したとかではないのだな、きっとノリちゃんは兄を捨てた、置き去りにしたのだ。
「兄さんは、ノリちゃんが出て行くに当たって『他に好きな男が出来た』か『引っ越す事情が出来た』の二択を挙げてた。でも違うんだよね?」
「違うよ、可笑しいね、ノブくんは自分に非があると思ってないんだ…馬鹿だね」
我が兄のことを悪し様に言われても、ピンと来ないくらいに我々の兄妹愛は薄い。なので、もう少し踏み込んで知的好奇心を満たしてみることにした。
「具体的に、いやざっくりでも良いんだけど、別れた理由は何?」
「んー、いっぱいあるけど…聞く?」
「う、ん…」
ノリちゃんは部屋の隅に目線を移して、少し考え込みまた私を見つめ話し出す。
「元々、私が押して付き合い出したから、私に対して横柄な態度が多かったのね。私は尽くしたいタイプだったから亭主関白でも構わなかったんだけど、にしても年々態度が大きくなってた。年上だし引っ張って行ってくれるところが好きだったんだけど、社会人になると色んな人を見るじゃない?そしたら『この人、威張ってるだけだな』って覚醒しちゃった感じ」
「ほー…」
「料理も掃除もゴミ出しすら私の仕事で、脱いだ靴下とかもそのまんま。最初はお世話するのが楽しかったけど…段々と目が覚めたの。ノブくんは私が好きで身の回りのことしてくれるって思い込んでるから、何もおかしいとは疑ってもないと思う。だから、『ある日突然出て行った』としか考えられないのね」
「確かに、うちは父さんも家事は母さんに任せっきりだから、兄さんもそれに倣ってるのかも」
「上の世代の人はそうだよね、うちもそう。でもさ、うちはお父さんがお母さんに労いの言葉をかけてるし、お財布もお母さんに任せてる。でもさ、ノブくんは…」
「まさか」
「そう、家賃も食費も光熱費も折半だった。そのくせ、ご飯は私より食べるし節電なんてしてくれないし。私もお給料は貰ってる方だから負担とまではならなかったけど、これもじわじわ不満が積もり積もっちゃった感じ」
申し訳なさに、背筋が丸まり頭が下がる。自分の兄がそこまでダメ男だったとは。
一方の言い分を信じるのは良くないが、きっと真実だ。兄はズボラで片付けが苦手、それは数分の帰省でも窺い知れていた。
食器棚の扉は兄が使ったであろう部分が開きっぱなしになっていたし、溢したグラノーラが皿の周りに落ちていた。たぶん、食べ終わっても片付けないだろうし牛乳も放置されているだろう。
「そっか…それはさ、指摘しなかったの?」
「うん、最近はしてたんだけどね、直す気が無いみたいだし、『お世話させてやってるんだ』って顔するのが無性に腹立たしくてね。あと、私の仕事を貶されたりもムカついた。水面下で準備して、少しずつ引っ越しの用意してたんだ。私が甘やかしたからこうなっちゃったのかな、と思うとそっちのお母さんにも申し訳ないね」
「いやいや、本人の性格だと思うわ。うちの母さんは口酸っぱく注意するタイプだもん。私も兄さんも、分け隔てなく『自分のことは自分で』って言われて育ったよ」
「そっか…でも、私と暮らし出して増長したのかな…私が何も出来ないダメ男にしちゃったのかも」
「ノリちゃんに好かれてると思って、愛を過信しちゃったんだね」
「そうなんだろーねー…ふふ、もうどうでも良いけど。私ね、県外に出るんだ。新しい支店が出来るからそっちに異動。また連絡するね」
「うん…あの、兄さんがもしストーカーとかしたら、迷わず通報しちゃって良いからね」
「あははっ、そんな行動力あるのかな、あの人に…永遠に『なんでだろう』って悩んでれば良いのに」
それから兄のことや自分の近況報告をしたりして、楽しい時間は過ぎた。
ノリちゃんママはお昼の支度をするからと奥へ下がり、私もそろそろお暇するかとお茶を飲み切る。
「……」
母親の気配が遠くなると、ノリちゃんは前屈みになって小声で、
「ノブくんさ、夜も勘違いばっかりしてたの。女性知識に偏りがあって…それも別れた要因だよ」
と教えてくれた。
「あ、そうなんだ」
兄の性事情など関心は無いが、他人のエッチなトピックとしてなら聞けなくもない。
私はノリちゃんの隣に移動して、さらに声を潜める。
「んで、勘違いとは?」
「AVを鵜呑みにしてるっていうのかな、速いし強いし痛い」
「あぁ~…」
「自分が満足したらそれで終わり、みたいな。そのくせ、私には喘ぐように命令するの。だから凄い演技が上手くなっちゃった。あとね、……、」
達せないのをノリちゃんのせいにしたり、体型を崩すなと厳しく言ったり。舐めさせるくせに、自分は「汚い」と舐めなかったり。避妊を嫌がるくせに、いざ生理周期の乱れで遅れると「誰の子だよ」と疑ったり。
とことん自分本位な兄の姿に、呆れるを通り越して嫌悪を覚える。
「ノブくんさ、何が悪いか分からずにこれからも生きて行くんだよ。それが私の仕返しってところかな、当のノブくんは私に悪意は無かったんだけどね」
「でも、家事分担とか手伝いとか、エッチだって、考え直す機会はあったはずだよ。だから、ノリちゃんが兄さんをダメにしたとかでは…そんなに背負い込まなくて良いと思う」
「もちろん、だから捨てたんだしね。これから婚活して、早めに子供も産みたいなぁ」
「そう、頑張って」
台所から「サヤカちゃんも食べて行く?」と聞かれたが、断って席を立つ。
もう母もお団子を持って帰っていることだろう。
玄関まで送ってくれたノリちゃんは最後まで穏やかで、「またね」と手を振ってくれた。こんな良い子を手離して馬鹿な兄…家で顔を合わせるのが億劫である。
・
「ただいま」
「おかえり、どうだった、実家にノリ居た⁉︎」
兄は待ち構えていたように私を質問責めにする。
「何も」と言いたいが、1時間弱は戻らなかったからそれは通用しそうにない。
「……」
ノリちゃんは、「サヤちゃんがノブくんに何を伝えても私は構わないよ。私が嫌だったことを知ってショック受けてたら、その顔撮影してまた送ってよ」と笑っていた。
自分の何がいけなかったか、何がパートナーを傷つけたのか、兄は知るべきだと思う。
黙ってダイニングへ進むと、案の定テーブルには食べ終えた食器と牛乳パックが置きっぱなしだった。
「兄さん、これ片付けないの?」
「え、母さんが後でやるだろ」
いつも言われているだろうに、馬耳東風とはこういうことなのか。
「…自分でやったら?」
「なんで?俺は…いや、もう家長じゃなかった」
同棲中は「俺が家長だから」と家事をスルーしてたんだな、家賃も生活費も折半だったくせに何が長だ。
兄はしぶしぶ皿をシンクへ置いた。納得はいってないようだが、実行するだけマシなのか。
兄は一時的に実家暮らしに戻るにあたり、いくらかは生活費を渡しているとは思う。それに見合う以上の面倒を母に掛けねば良いなぁと、汚れたテーブルと乾いて固まった牛乳の溢し跡を見下ろす。
「それで、ノリのこと、何か分かったのか?」
「んー?んー…分かったけど、分からないと思うよ」
「は?何言ってんの」
「理由は分かったよ、でも、兄さんには分からないと思う」
兄は困惑して、しかしそれ以上食い下がっては来なかった。目を泳がせただ黙って、ぼうっと座っていた。
しばらくするとお団子とお弁当の袋を手にした母が帰って来たので、用事を済ませてから皆で頂いた。
食事中も兄は大人しく、黙々とお弁当を平らげて器を空にする。食後に出されたお茶を飲んで、少し表情が緩んだように見えた。
母が給仕してくれるのは、この家が母のものであり家全体が母のテリトリーだからだ。お客さまをもてなしているのと同じ、さらに言えば下手に食器を漁られて規律を乱されるのを防ぐためだ。
ノリちゃんがしてくれていたお世話とは違う。でも、これも兄は「女はしてくれるものだ」とか思っているのかもしれない。
「ごちそうさま…じゃ、そろそろ」
私はゴミを分別して、湯呑みをシンクへ移動させる。
母は
「これ、旦那さんと食べな」
と、お団子とファイルに挟んだ婚姻届を渡してくれた。
私は婚姻届の証人を母にお願いしており、昼食前に記入してもらい父の仏壇に供えていたのだ。
「うん、ありがとう」
「しっかりね、お幸せに」
見送りの時も兄は静かで、玄関口でチラとノリちゃんの家を確認しているように見えた。
もしかしたら母に注意されて家事面は改善されるかもしれないが…それがノリちゃんに伝わることはないと思う。
そしてノリちゃんは吹っ切れたようにさっぱりしていたが、兄とのことを考えると私もあまり関わらない方が良いのかなと…残念だがそう思った。
また数年後とか、お互い結婚して子持ちになって、実家で偶然ばったり会うくらいで良いのかも。
兄にノリちゃんの気持ちは伝えない。ノリちゃんに兄の反応も伝えない。
身内のこととはいえ、好奇心で他人の恋愛に勝手に介入して端なかった。
「じゃあね」
少し遠回りになるけれど、ノリちゃんの家とは反対側に足を向けた。
・
・
・
「…ノリ、大丈夫?」
母が心配そうに尋ねる。
「大丈夫。むしろ、スッキリしてる」
幼馴染みのサヤちゃんが帰って、母と昼食を摘む。
「お向かいだから、やっぱり会っちゃうわよねぇ」
「ふふ、本人は訪ねて来る勇気は無いみたいね」
斜め向かいには、元カレの実家がある。そこに、アパートを引き払った元カレも戻って来たようだ。
私は今夜のうちに新居へと戻る。
実家に置いていた荷物を取りに来ただけだったけど、短時間のうちに元カレの妹に会ってしまうなんて何の因果か。
ノブくんと暮らしていたアパートを飛び出してからひと月、契約してからはふた月になる。同棲中に契約して、家賃を払いながら少しずつ荷物を運び込んでいたのだ。
話し合いなんてしたって無駄、だから逃げるように引っ越した。
幼い頃から惚れていて、告白して付き合って。お互い初めてで、当然結婚するものだと思っていた。
早くから相手が決まっていて、婚活する必要も無いし安心して仕事に注力することが出来た。
しかし20代も半ばになると、友人や同期が結婚し始めて、ふと「あれ、私ってノブくんと結婚して良いのかな」と考えるようになった。
片付けもしない、家事もしない、でも私を養えもしない。形ばかりの亭主関白。
私の体型や化粧や料理にケチを付けて、反論することが悪だという意識を植え付けた。誕生日の度に「ババアになって来たな」と言われ、「俺が捨てたら嫁の貰い手が無いんだからな」と繰り返され。
本人はそんな躾は善行だと思っていて、好かれている自信があるから固定観念はどんどん強固になっていった。
この人を敬う理由が無いことに気付いて、しかしそこから長かった。人生の大半を懸けた恋愛が終わってしまうのが淋しくて、自分を形作る要素を失くしてしまうようで恐くて。
でも決定的だったのは、彼のあの言葉だった。
「は?誰の子だよ、俺はちゃんとゴムしてただろ!デキてたら堕ろせよ、俺は他人の子なんか育てねぇからな!」
ストレスからなのかホルモンバランスが崩れて、生理が遅れた時に言われた言葉だ。
サヤちゃんにも母親にもソフトにしか伝えてない。フルバージョンは口に出すときっと泣いてしまうから。
私は彼以外の男性を知らないし、浮気なんてする暇も無かった。謂れのない疑いを掛けられて、しかも僅かに可能性のある命を簡単に棄てるよう言い放つ…彼を覆うフィルターが、やっと剥がれた瞬間だった。
職場に転勤希望を打診したら、ちょうど新しい支店が出来るからとそちらを勧めてもらえた。帰りに不動産屋に寄って手頃なアパートを探して即入居契約を交わし、休みや仕事終わりに部屋を整えていった。
婦人科に行ってピルを処方してもらい、望まぬ妊娠をしないよう備えた。
そして離脱。
楽しい思い出は少なからずあったから、全てが無駄だったとは思わない。私の人生のほとんどを捧げたから。
自分を被害者とも思ってない。自分の意志で決めた交際だったし、求められることで自分の欲求も満たしていたし。
横暴になったノブくん、私より尽くしてくれる女を見つけることができるかしら。私より貴方を愛してくれる女を探し出せるかしら。
誰と付き合ったって、「ノリは良い女だった」って美しい思い出と比べてしまうでしょ。言いなりになって慕ってくれる、私みたいな彼女が出来ると良いね。
本当は、貴方が40代になってオジサンになって、婚活もままならなくなるまで待つっていうやり方もあったの。でもそうしたら私だって30代を通り過ぎてしまう。
報復のために人生を棒に振りたくない。そこまでしてあげる価値も貴方にはもう無いの。
私、幸せになりたいから、謎だけ残して何の解決策も用意せずサヨナラします。
本音を言えば、サヤちゃんにも会いたくなかったな。ノブくんの面影が強すぎて。
親友と呼べるくらいには仲良しだったけど、本心では「何しに来たの」と追い返したかった。
別れたこと自体は吹っ切れているからまるで有名人のゴシップみたいに笑って話せたけど。気まずくなりたくないから「ノブくんに出て行った理由を話して良いよ」とも言ったけど。
「(本当に、ノブくんの落胆顔が送られてくるかな)」
ノブくんの反応は、もうどうでも良い。
私はサヤちゃんの連絡先も拒否設定にして、スマートフォンを眺める。またいつか、お互い所帯持ちになって同窓会とかで再会したら…その時は「スマホ壊れちゃって連絡先消えちゃったの」とか言って誤魔化そう。
黒い画面に映る私は真顔で、でも憐れさなんて微塵も漂わない。
母親に笑顔で
「もうここには帰らないから、新居に遊びに来てね」
と告げ、裏口から広い世界へ踏み出した。
おわり
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
壊れていく音を聞きながら
夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。
妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪
何気ない日常のひと幕が、
思いもよらない“ひび”を生んでいく。
母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。
誰も気づきがないまま、
家族のかたちが静かに崩れていく――。
壊れていく音を聞きながら、
それでも誰かを思うことはできるのか。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
【完結】アラマーのざまぁ
ジュレヌク
恋愛
幼い頃から愛を誓う人がいた。
周りも、家族も、2人が結ばれるのだと信じていた。
しかし、王命で運命は引き離され、彼女は第二王子の婚約者となる。
アラマーの死を覚悟した抗議に、王は、言った。
『一つだけ、何でも叶えよう』
彼女は、ある事を願った。
彼女は、一矢報いるために、大きな杭を打ち込んだのだ。
そして、月日が経ち、運命が再び動き出す。
【完結】「別れようって言っただけなのに。」そう言われましてももう遅いですよ。
まりぃべる
恋愛
「俺たちもう終わりだ。別れよう。」
そう言われたので、その通りにしたまでですが何か?
自分の言葉には、責任を持たなければいけませんわよ。
☆★
感想を下さった方ありがとうございますm(__)m
とても、嬉しいです。
【完結】愛されないと知った時、私は
yanako
恋愛
私は聞いてしまった。
彼の本心を。
私は小さな、けれど豊かな領地を持つ、男爵家の娘。
父が私の結婚相手を見つけてきた。
隣の領地の次男の彼。
幼馴染というほど親しくは無いけれど、素敵な人だと思っていた。
そう、思っていたのだ。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる