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第五章

第二七六話 煉獄にて

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 目覚めたビクトリアはベッドに座りボンヤリとしていた。

 金色の瞳には薄く睫毛がけぶり、以前の猛々しさは鳴りを潜めている。見るからに本調子では無さそうだ。

「ビクトリア、目が覚めたんだな」
「……」
「ふぎぁ~」
「……?」

 同じベッドに寝かされていたリコリスを見て、不思議そうに小首を傾げるビクトリアは柔らかく微笑んで赤ん坊を抱き上げた。

「リコリスだ。君の子供だよ」
「……リコ……リス。リコリス」

 リコリスを抱く彼女には深い母性が宿り、左目の周りに痛々しく残る黒い肉腫の痕も、優しい眼差しを強調するものになっていた。

「可愛いだろう? まだちゃんと目が開かないんだが、君のと同じ金色らしい」
「わたくしの子……?」
「……?」

 一人称が『わたくし』になっている。

 これではまるで、デッチ島の下水道にいた――、

「あの……もし?」
「……ビクトリア?」

 地獄巡りで見たビクビクのような言葉遣いだ。

 嫌な予感がして、それは的中した。

「貴方様はどなたでございましょう?」
「……」

 少しの間だけ目を閉じて、心に煉獄を想う。

 決意はすぐに固まった。

「俺は新高穂積という。ホヅミと呼び捨ててくれて構わない」


**********


 メリッサに頼んで、すぐにゼクシィを呼んで来てもらった。

 ビクトリア覚醒の知らせに先ほどの混乱を抑え、処置モードに入って椅子に座らせると、怜悧な医師の顔で診察と問診を始めた。

 穂積はベッドに腰掛け「バブバブ」言ってグズるリコリスのお腹をポンポンしながら、背中や首筋、左側頭部を中心に進められる診察を固唾を飲んで見守る。

「……うん、身体に異常は無い。癒着した肉腫は一部剥がれて……残りは完全に皮膚と同化している。痛覚も……「っ」あるようだ」

 とりあえず、肉体的には健康そのもの。

 肉腫は黒い刺青のように皮膚の一部になってしまっているらしい。取り除いて再生治療するにしても、神経系へのリスクを考えると手が出せないという。

「記憶と認知を確認する。貴女の名前は?」
「ビクトリア・アジュメイル」
「私は誰だ?」
「また改名したのかしら? ジェジェでいいでしょう?」

 何より脳への影響が懸念された。事実として、ビクトリアは穂積のことを忘却し、言葉遣いもガラリと変わってしまっている。

「あそこにいる茶髪のポニーテール。あれは誰?」
「メリッサ・ノーマン様ですが……? さっきから変なことばかり……」
「では、あの黒髪の男性は誰?」
「……ニイタカ・ホヅミ様で御座います。わたくしの夫と伺いましたが……申し訳ありません」
「今から名前を言っていくから、覚えているなら『はい』。知らないなら『いいえ』と答えて」

 ビクトリアは自分の状況に気づいたのだろう。不安そうに目を伏せ、睫毛を震わせた。以前の彼女ならこんな表情はしない。

「ジョジョ」「はい」「グランマ」「はい」「トム」「はい」「レット」「はい」「クリス」「はい」「スターキー」「はい」「ジェシー」「はい」「ゼクシィ」「いいえ」「エロッサ」「いいえ」「ナツ」「はい」「チェスカ」「はい」「アキ」「いいえ」「アンナ」「いいえ」「フィーア」「はい」「フィー」「はい」「レモン」「いいえ」「ヘンリー」「はい」「ブリエタース」「はい」「イーナン」「はい」「アウルム」「はい」「リゲート」「はい」「イジス」「はい」「ルシオラ」「はい」

 名前のパターンから、ゼクシィが何を確かめたいのか分かってきた。先ほど泣かせた意趣返しというわけではないだろうが、少々堪えるものがある。

「ホヅミ」「はい」「ニイタカ」「はい」「ホヅミン」「いいえ」「アズラ」「いいえ」「ホヅェール」「いいえ」「バリスタ」「いいえ」「ヴァルス要塞」「はい」

 ビクトリアの記憶からは、『新高穂積』に関する事柄が消えている可能性が高い。

「今から聞くことに端的に、正直に答えて」
「ええ……わかりましたわ」
「凪海で遭難していた男性を救助したことは覚えてる?」
「いいえ」
「トビウオとクジラに遭遇したことは覚えてる?」
「はい」
「水タンクにトビウオが刺さったことは覚えてる?」
「はい」
「どうやって塞いだか説明して」
「クリスが精製魔法で塞ぎましたわ」
「その時、怪我人はいた?」
「いいえ」

 その後もゼクシィの問診は続けられた。

 海賊襲撃、クジラ狩り、オプシー入港、帝国海軍の追跡と黒鯨、三〇隻の戦艦の奇襲、そして四角い化け物――。

 イベントとしてはすべて覚えていた。

 だが、記憶の中に穂積は居ない。穂積が居なければ発生していない事柄も、彼が居ない場合のエピソードとして、帳尻が付くように補完されていた。

「うぅ……わたくしは……うう……」
「リア姉……妊娠していたことは覚えてる?」
「――っ! うぅうう……うううう~っ!」
「答えて。リコリスがお腹に居たことを覚えてる?」
「……………………い、いいえぇえ、えっ、えくっ」

 自分の妊娠を記憶していない。

「ぶぅえぇえ~! えぁああ~! ほんぎゃあぁ~!」

 大泣きし始めたリコリスの泣き声に、両手で耳を塞ぐビクトリアには何もかもが分からず、様々な感情がゴチャ混ぜになった貌をして震えていた。


 ――泣くリコリスをそっと抱き上げた。


「お~よちよち。怖かったでちゅかぁ? 大丈夫、大丈夫だよぉ~」
「ふぇ……」

 抱っこするとすぐに泣き止んだリコリスを連れて、ゆっくりとビクトリアの元へ向かい、膝をついて目線の高さを合わせる。

「この子を抱いてみろ」
「……」

 震えながら両手を差し出すビクトリアの腕の中に、落とさないように気をつけて、小さな頭を支えながら手渡した。

「一つだけ教えてくれ」
「……」
「その子が愛しいと思うか?」
「――はい」
「そっか。なら、良かったな」

 ゼクシィに後を任せて退室した。

 首長館の廊下を踏みしめて歩き、思考を掻き乱す負感情を見つめて、心の奥底に落とし込んで、少しずつ少しずつ、煉獄にべて焼いていく。

 中身が噴き出しそうになったから逃げてしまったのだが、ビクトリアはいつもこんな気持ちだったのだろうか。

「はぁ……こりゃキツい」

 こんなものを常に抱えて、何事にも正々堂々、苛烈に正面からぶつかって消炭にしてきたとすると、とてもじゃないが真似できそうにない。

 イソラの『暴走因子』と同じように、ビクトリアの煉獄も引き取れたのだとしたら、それほど悪い気もしないし、助かっている部分もある。

 彼女に忘却された事実すら煉獄に焚べて、心を満たす業火に変えることが出来るのだから。


**********


 夕方、今夜はアウルムに断りを入れて晩餐会をブッチした。

(……バレた? 気づいたか?)

 執務室を訪ねた時のアウルムの様子がおかしかった。どうおかしかったかと問われると、上手く説明できない。

 二日続けて、しかも謝罪した直後に『お前らと飯は食わない』と言われれば誰だって怒るだろうに、すんなりとキャンセルを受け付けてくれた。

(怒られないと逆に怖いわぁ~)

 雑多な賑わいを見せる夕暮れ時の大通りを、一人歩いて大学病院へ向かう。

 途中で一番館の空き地を覗いてみたら、クリスとフィーアが田舎のヤンキーのタイマンみたいにメンチを切り合っていたので止めてきた。

 喧嘩の原因は建物のデザインだったらしいが、ここは製作者にお任せした方がいいだろうと、材料の手配など諸々含めてクリスに一任した。

 クリスには日本語の翻訳のためにすべて話してあるし、大使館に求められる機能も理解しているから問題は無いだろう。

 フィーアには学校の見学を薦めておいた。彼女も興味があると言っていたし、なんとなく不安だったので偵察も兼ねている。

(学校も病院ここみたいになってねぇだろうな。なってるかなぁ……嫌だなぁ……)

 昨日と変わらず、いや、今日はさらに警備がザルだった。フィーアが居ないのに目の前を素通りだ。

(寝てんのか?)

 本来ならリコリスを連れて来るはずだったが、そういうわけにもいかなくなった。祖母に合わせるより、まず母との絆を深めて貰わなければならない。

「ルシオラさんに面会です。通りますよ?」
「……」
「……目開けて寝てんのか? ったく」

 やる気の無い立ってるだけの警備員に文句を言って扉をノックし、返事を待って病室内へ。

「お義母さん、こんにちは」
「……ホヅミさん、いらっしゃい」
「かなり落ち着かれたみたいですね?」
「ええ、おかげ様かしら」

 孫を連れて来れなかった事を謝罪して、ビクトリアが目覚めたと伝えた。

「良かった……ゼークの見立てなら健康には違いないかしら。レギオンに罹患してたとしても」
「ええ、二人とも同じ症状です。化け物由来のレギオンですから少し心配でしたが、同じみたいですね」
「もう一人の男の方はどうなの?」
「バルトさんの方は瞳の色が変わって、白髪が少し。一般的な症状です」
「本当に不思議だわ。何にしても、魔力欠乏になってないならいいかしら」

 記憶喪失の件には触れずに、精神的に不安定になっているとだけ伝えておいた。自分の内心をルシオラに愚痴っても意味は無い。

「お義母さんにお願いがあります」
「……何かしら?」
「アウルムさんに頭を下げてください。アジュメイルではなく、ビクトリアのために」
「わかったわ。ビクトリアが回復するまで看護人は必要でしょう」
「首長館のメイドさん達は良くしてくれるはずです。屋敷の方はよく分かりません」
「メイデとは話したかしら?」
「はい。彼女にならビクトリアとリコリスを任せられますが、今のビクトリアにはお義母さんが必要です」

 ルシオラは快く提案を受け入れてくれた。明日、アウルムに謝罪し、アジュメイル姓を返上して、ビクトリアの看護役を願い出るというのだから、相当の覚悟だろう。

「では、俺はこれで失礼します」
「ホヅミさん」

 退室しようとしたところを呼び止められて振り返ると、泣きそうな顔になってこちらを見ている。

「貴方、大丈夫なの?」
「はい? 何がです?」
「……いえ、なんでもないかしら」

 一礼して病室を出た。警備は相変わらず寝ているようだ。

 今後、何があっても大学病院の世話にはなるまいと心に決めて、次の目的地に急ぐ。

 いつもセカセカしていたビクトリアの気持ちが良く分かった。

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