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お仕事体験編
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生憎の空模様の下、俊樹は小走りで待ち合わせ場所を目指す。
愛用する完全防水仕様のビジネスシューズは滑り知らずだ。足元を気にする必要がなく、むしろ底の汚れを洗い流してくれる雨はありがたい。
「亜紀ちゃん様さま! 何でも食べたいもの言って」
「だったらザギンでシースー!」
まったく以て亜紀らしいリクエストに、警察関係者(但し上役に限る)御用達の江戸前寿司屋が自動的に手配された。
報酬が出て然るべき収穫を得たのだから「森下さんにもお礼を」という計らいだ。公費を使えない分、上司たちのポケットマネーが捻出された。職務を果たしただけの俊樹にとっては棚から牡丹餅だ。
亜紀にしたら雨でなかったらもっとよかったのかもしれない。
腕時計をチラ見する。時間を確認する腕時計も、防塵防滴加工の施されたごつめの軍用モデルだ。早めに来るつもりが、ギリギリの到着になってしまった。黒い傘を少し上げて、小柄な亜紀を探す。
(あれか?)
襟付きのワンピースに身を包んだ女性が、リボンの付いた可愛らしい傘に顔を隠して立っている。派手めの大きな傘と小柄で清楚な雰囲気がアンバランスで目立っている。
「尾野さーん!」
俊樹の視線に気付いた亜紀が、傘の中で大きく手を振った。
「お待たせ」
「時間ピッタリ。すげーわ」
「いつもと雰囲気違うから見つけられなかった」
「現役刑事がよく言う」
口を尖らせた亜紀は、ヘアメイクと化粧も服装に合わせている。
俊樹は思わずまじまじ見つめてしまった。
「デート仕様にしてくれたんだ?」
「普段仕様だっつーの!」
俊樹の背中を勢いよく叩いたのは亜紀の照れ隠しだ。バシンと小気味よく鳴ったのを合図に揃って歩き出した。
死ぬまでに一度はカウンター席で廻らない寿司を食べてみたいという亜紀に、接待は個室でコースだと伝えると残念そうにした。恭しく個室に通される間、亜紀は遠慮がちに俊樹のスーツの裾を摘まんでいた。指先から伝わる緊張が微笑ましい。
「その余裕腹立つー」
ふたりきりになり、ようやく亜紀の緊張が解けた。
「俺も客として来るのは初めてに決まってんじゃん」
俊樹とて高級店に慣れているわけではない。職業柄、日常的に多種多様な場所に出入りするので妙な緊張はしないというだけのことである。
「つーか、亜紀ちゃんそわそわしすぎ」
「橙子先輩みたいに接待慣れしてるわけじゃないんですぅ」
「やっぱ接待とかあるんだ?」
「先輩は営業もしてるし、役職も付いてるから」
「なるほどね。そういうもんか」
会社員としての社会経験がない俊樹は「一般的な社会常識に疎い」と同級生に揶揄されることもしばしばである。特殊な職業だと自覚する反面、俊樹から見れば橙子たちの世界もまた特殊に映る。
飲み物が届く前に、警察を代表して捜査協力への感謝を伝えた。
今夜の目的を果たしてしまえば、後は食事を楽しむのみだ。乾杯をして、前菜に手を付ける。細長い器に品良く盛合わされた料理は見た目も美しい。個室であるのをいいことに、亜紀は写真を撮るのも忘れない。つまみに舌鼓を打ち、酒も会話も心地好く進む。
「美穂ちゃん飲み会でモッテモテだったらしいよ」
亜紀が話すのは、同僚の矢田からの情報だ。
矢田は俊樹がセッティングした合コンが実を結び、女性警察官の彼女を持つ。矢田と涼子が上手くいった噂を聞きつけて、頻繁に飲み会開催の催促を受けていた。最近静かになったと思えば、どうやら矢田に標的が移ったらしい。
「確かに垢抜けた」
「すっきりサッパリ吹っ切れたんだって」
クラブの潜入捜査で刺激を受けた美穂は、積極的に講習を受け階級試験にも興味を持って取り組んでいる。仕事帰りに買い物に行ったり、メイク雑誌で研究もしていると聞いた。
公私ともに意思を持って一歩を踏み出した美穂を亜紀は心から応援する。
「まぁなぁ。荒治療もいいとこだったもんな」
潜入捜査中、美穂はずっと橙子に付き添っていた。橙子の人となりに触れ、徹の溺愛ぶり(警察関係者にとっては徹の眉間から皺が減るだけで異常事態だ)まで目の当たりにしたのだから、横恋慕を続ける意欲は削がれて当然だ。
「尾野さんは」
亜紀がほんの少しだけ言い淀んだ気がした。
「尾野さんは、いつになったら吹っ切ってくれるの?」
美穂に感化され、亜紀は聞かずには居られなかった。
正直なところ、高級寿司など必要なかった。特別な事がなくとも、俊樹を食事に誘うぐらい出来る。しかし、気軽に誘える仲であるからこそシチュエーション作りは難しい。
いつもよりお洒落をして少し気取って隣を歩いてみたい。そんな願望を叶えるに降って湧いた機会を報酬として受け取ることにした。
そして何より、亜紀は付け入る隙を見つけてしまった。俊樹が着飾った自分に気付いてくれたのだから。
「亜紀ちゃん……」
亜紀に真直ぐに見つめらた俊樹は言葉が紡げない。学生時代から燻ぶらせている橙子への好意は色褪せることがない。今までそうであるのだから、この先だって変わらない。そして、橙子との関係性が変わることもないと悟っている。
「女々しいのは俺だけか」
「強いと思うけど」
え? と、思わず亜紀の視線に答えてしまった。
「じゃなきゃ一途でなんていられないっしょ」
一瞬交じり合った視線は躱されてしまった。
亜紀が美味しそうに酒を啜る。小さな身体に似つかわしくない懐の深さが感じられる。
「あーぁ。寿司なんかじゃなくて、俺らも休みもらって温泉行きゃ良かったよなー」
亜紀は何も答えない。亜紀ならば喜ぶものだと思っていた。
黙ったままいられると、彼女からのアプローチの意味合いを履違えているのかと不安になる。
「もしかして聞いてない、とか?」
亜紀が小難しい顔をして首を捻る。
この期に及んで曖昧な表現をする俊樹を責めているのかと勘繰るが、怪訝な顔色はどうも奇妙だ。
「先輩たち、温泉じゃないよ。名古屋で両家顔合わせだって」
「えっ」
橙子の出来高報酬に、徹の三連休が進呈された。
捜査一課の刑事が結婚式とハネムーン以外で連休を確約されるなど有り得ない。奇跡の機会を有意義に利用するというのは理解ができる。
でも、、、だからって。
「な、名古屋?」
「うん」
「両家? って」
「そう。橙子先輩は『もう籍入れちゃいたいけど、さすがに難しいかな』って言ってた」
「いや。はぁぁっ!?」
勢いよく机に手をついて前のめりになった。ガシャンと音を立てた食器類を、亜紀が「あーあー」と立て直す。
「落ち着こ?」
「いくら何でも急過ぎだろっ」
「座りなって」
ペット犬にするが如く、亜紀は指先でシッダウンと指示を出した。まさか俊樹が知らなかったとは驚きだ。
恐らく、橙子と徹は互いに相手が伝えたものだと思い込んでいる。
亜紀は前もって橙子が退寮する旨を聞いていた。薄々、同棲するのだろうと気づいていたが、職場では深く聞き出せなかった。
平穏無事に潜入捜査の後始末が終わり、通常運転に戻って暫く経ったある日、珍しく橙子から亜紀の部屋を訪ねてきた。
「亜紀ちゃんには先に報告しておこうと思って」
同棲スタートに並行して本格的に結婚準備を進めるという話だった。
引っ越しを含め、色々忙しくなるという橙子の表情は満ち足りていた。
「すっごい幸せそうで、過去イチで綺麗だった」
亜紀の言葉を噛み砕こうとしてか、手元をぼんやりと見つめる俊樹は小さく何度も頷く。俊樹の気持ちの大きさと、根深く棲みついている橙子に、もはや嫉妬さえ感じない。
俊樹を何処にも逃避させたくない。
亜紀が望むのは、彼を現実に在り続けさせる役を担うことだ。
「……もう寿司の味しねぇ」
「食べないなら貰う~♪」
「食べる!」
食べるけど、と言葉尻を窄めた俊樹は涙を堪えているようだった。
「せめて本人から聞かないことには」
そうだろうけど、聞いたところで結果は同じでしょ……などと、天変地異に見舞われたばかりの俊樹に吐き捨てるほど鬼ではない。
「私が居るじゃん」
亜紀の崩れそうな笑顔に、俊樹はどうしようもなく心がざわついた。俊樹を揶揄うでも馬鹿にするでもない。慈しみがあるのに痛々しいのは、優しさと傷ついた心を隠しているからだ。
亜紀とて想いがありながら、相手を慮る強かさが俊樹には眩しく見える。
「俺こんなだし、すげぇ甘えるよ?」
「上等。愛してるより、必要だって言われたいんだよね」
亜紀が「I love you じゃなくて I need you 」と歌うように歯を見せた。
愛おしさを感じさせるその表情に、孤独でないと安心感を与えられる。
「必要、かも」
「知ってる」
真正面で顔を見合わせたふたりは、少し情けなくも清々しく微笑んだ。
了
愛用する完全防水仕様のビジネスシューズは滑り知らずだ。足元を気にする必要がなく、むしろ底の汚れを洗い流してくれる雨はありがたい。
「亜紀ちゃん様さま! 何でも食べたいもの言って」
「だったらザギンでシースー!」
まったく以て亜紀らしいリクエストに、警察関係者(但し上役に限る)御用達の江戸前寿司屋が自動的に手配された。
報酬が出て然るべき収穫を得たのだから「森下さんにもお礼を」という計らいだ。公費を使えない分、上司たちのポケットマネーが捻出された。職務を果たしただけの俊樹にとっては棚から牡丹餅だ。
亜紀にしたら雨でなかったらもっとよかったのかもしれない。
腕時計をチラ見する。時間を確認する腕時計も、防塵防滴加工の施されたごつめの軍用モデルだ。早めに来るつもりが、ギリギリの到着になってしまった。黒い傘を少し上げて、小柄な亜紀を探す。
(あれか?)
襟付きのワンピースに身を包んだ女性が、リボンの付いた可愛らしい傘に顔を隠して立っている。派手めの大きな傘と小柄で清楚な雰囲気がアンバランスで目立っている。
「尾野さーん!」
俊樹の視線に気付いた亜紀が、傘の中で大きく手を振った。
「お待たせ」
「時間ピッタリ。すげーわ」
「いつもと雰囲気違うから見つけられなかった」
「現役刑事がよく言う」
口を尖らせた亜紀は、ヘアメイクと化粧も服装に合わせている。
俊樹は思わずまじまじ見つめてしまった。
「デート仕様にしてくれたんだ?」
「普段仕様だっつーの!」
俊樹の背中を勢いよく叩いたのは亜紀の照れ隠しだ。バシンと小気味よく鳴ったのを合図に揃って歩き出した。
死ぬまでに一度はカウンター席で廻らない寿司を食べてみたいという亜紀に、接待は個室でコースだと伝えると残念そうにした。恭しく個室に通される間、亜紀は遠慮がちに俊樹のスーツの裾を摘まんでいた。指先から伝わる緊張が微笑ましい。
「その余裕腹立つー」
ふたりきりになり、ようやく亜紀の緊張が解けた。
「俺も客として来るのは初めてに決まってんじゃん」
俊樹とて高級店に慣れているわけではない。職業柄、日常的に多種多様な場所に出入りするので妙な緊張はしないというだけのことである。
「つーか、亜紀ちゃんそわそわしすぎ」
「橙子先輩みたいに接待慣れしてるわけじゃないんですぅ」
「やっぱ接待とかあるんだ?」
「先輩は営業もしてるし、役職も付いてるから」
「なるほどね。そういうもんか」
会社員としての社会経験がない俊樹は「一般的な社会常識に疎い」と同級生に揶揄されることもしばしばである。特殊な職業だと自覚する反面、俊樹から見れば橙子たちの世界もまた特殊に映る。
飲み物が届く前に、警察を代表して捜査協力への感謝を伝えた。
今夜の目的を果たしてしまえば、後は食事を楽しむのみだ。乾杯をして、前菜に手を付ける。細長い器に品良く盛合わされた料理は見た目も美しい。個室であるのをいいことに、亜紀は写真を撮るのも忘れない。つまみに舌鼓を打ち、酒も会話も心地好く進む。
「美穂ちゃん飲み会でモッテモテだったらしいよ」
亜紀が話すのは、同僚の矢田からの情報だ。
矢田は俊樹がセッティングした合コンが実を結び、女性警察官の彼女を持つ。矢田と涼子が上手くいった噂を聞きつけて、頻繁に飲み会開催の催促を受けていた。最近静かになったと思えば、どうやら矢田に標的が移ったらしい。
「確かに垢抜けた」
「すっきりサッパリ吹っ切れたんだって」
クラブの潜入捜査で刺激を受けた美穂は、積極的に講習を受け階級試験にも興味を持って取り組んでいる。仕事帰りに買い物に行ったり、メイク雑誌で研究もしていると聞いた。
公私ともに意思を持って一歩を踏み出した美穂を亜紀は心から応援する。
「まぁなぁ。荒治療もいいとこだったもんな」
潜入捜査中、美穂はずっと橙子に付き添っていた。橙子の人となりに触れ、徹の溺愛ぶり(警察関係者にとっては徹の眉間から皺が減るだけで異常事態だ)まで目の当たりにしたのだから、横恋慕を続ける意欲は削がれて当然だ。
「尾野さんは」
亜紀がほんの少しだけ言い淀んだ気がした。
「尾野さんは、いつになったら吹っ切ってくれるの?」
美穂に感化され、亜紀は聞かずには居られなかった。
正直なところ、高級寿司など必要なかった。特別な事がなくとも、俊樹を食事に誘うぐらい出来る。しかし、気軽に誘える仲であるからこそシチュエーション作りは難しい。
いつもよりお洒落をして少し気取って隣を歩いてみたい。そんな願望を叶えるに降って湧いた機会を報酬として受け取ることにした。
そして何より、亜紀は付け入る隙を見つけてしまった。俊樹が着飾った自分に気付いてくれたのだから。
「亜紀ちゃん……」
亜紀に真直ぐに見つめらた俊樹は言葉が紡げない。学生時代から燻ぶらせている橙子への好意は色褪せることがない。今までそうであるのだから、この先だって変わらない。そして、橙子との関係性が変わることもないと悟っている。
「女々しいのは俺だけか」
「強いと思うけど」
え? と、思わず亜紀の視線に答えてしまった。
「じゃなきゃ一途でなんていられないっしょ」
一瞬交じり合った視線は躱されてしまった。
亜紀が美味しそうに酒を啜る。小さな身体に似つかわしくない懐の深さが感じられる。
「あーぁ。寿司なんかじゃなくて、俺らも休みもらって温泉行きゃ良かったよなー」
亜紀は何も答えない。亜紀ならば喜ぶものだと思っていた。
黙ったままいられると、彼女からのアプローチの意味合いを履違えているのかと不安になる。
「もしかして聞いてない、とか?」
亜紀が小難しい顔をして首を捻る。
この期に及んで曖昧な表現をする俊樹を責めているのかと勘繰るが、怪訝な顔色はどうも奇妙だ。
「先輩たち、温泉じゃないよ。名古屋で両家顔合わせだって」
「えっ」
橙子の出来高報酬に、徹の三連休が進呈された。
捜査一課の刑事が結婚式とハネムーン以外で連休を確約されるなど有り得ない。奇跡の機会を有意義に利用するというのは理解ができる。
でも、、、だからって。
「な、名古屋?」
「うん」
「両家? って」
「そう。橙子先輩は『もう籍入れちゃいたいけど、さすがに難しいかな』って言ってた」
「いや。はぁぁっ!?」
勢いよく机に手をついて前のめりになった。ガシャンと音を立てた食器類を、亜紀が「あーあー」と立て直す。
「落ち着こ?」
「いくら何でも急過ぎだろっ」
「座りなって」
ペット犬にするが如く、亜紀は指先でシッダウンと指示を出した。まさか俊樹が知らなかったとは驚きだ。
恐らく、橙子と徹は互いに相手が伝えたものだと思い込んでいる。
亜紀は前もって橙子が退寮する旨を聞いていた。薄々、同棲するのだろうと気づいていたが、職場では深く聞き出せなかった。
平穏無事に潜入捜査の後始末が終わり、通常運転に戻って暫く経ったある日、珍しく橙子から亜紀の部屋を訪ねてきた。
「亜紀ちゃんには先に報告しておこうと思って」
同棲スタートに並行して本格的に結婚準備を進めるという話だった。
引っ越しを含め、色々忙しくなるという橙子の表情は満ち足りていた。
「すっごい幸せそうで、過去イチで綺麗だった」
亜紀の言葉を噛み砕こうとしてか、手元をぼんやりと見つめる俊樹は小さく何度も頷く。俊樹の気持ちの大きさと、根深く棲みついている橙子に、もはや嫉妬さえ感じない。
俊樹を何処にも逃避させたくない。
亜紀が望むのは、彼を現実に在り続けさせる役を担うことだ。
「……もう寿司の味しねぇ」
「食べないなら貰う~♪」
「食べる!」
食べるけど、と言葉尻を窄めた俊樹は涙を堪えているようだった。
「せめて本人から聞かないことには」
そうだろうけど、聞いたところで結果は同じでしょ……などと、天変地異に見舞われたばかりの俊樹に吐き捨てるほど鬼ではない。
「私が居るじゃん」
亜紀の崩れそうな笑顔に、俊樹はどうしようもなく心がざわついた。俊樹を揶揄うでも馬鹿にするでもない。慈しみがあるのに痛々しいのは、優しさと傷ついた心を隠しているからだ。
亜紀とて想いがありながら、相手を慮る強かさが俊樹には眩しく見える。
「俺こんなだし、すげぇ甘えるよ?」
「上等。愛してるより、必要だって言われたいんだよね」
亜紀が「I love you じゃなくて I need you 」と歌うように歯を見せた。
愛おしさを感じさせるその表情に、孤独でないと安心感を与えられる。
「必要、かも」
「知ってる」
真正面で顔を見合わせたふたりは、少し情けなくも清々しく微笑んだ。
了
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