八重子糾・金昌寺悲話

四色美美

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熊谷行

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 「八重子さん、何をしているの。ここはいいから早く四番下へ戻ってやって」

おばさんの声で、八重子はハッとした。


八重子はもう一度一郎の遺影に手を合わせて、すぐに四番下へと戻って行った。

勿論、孝一のいる熊谷へ行くためだった。

でも、両親は反対した。

身重な嫁を、息子から預かった大事な嫁を、送り出すことは出来なかったのだ。




 家族でよく話し合った結果、久が熊谷に行って様子を見てくることになった。


秩父から熊谷までおよそ十五里。

大人の足でも丸一日かかる。
足に障害を持つ久がはたしてたどり着けるか不安だった。

でも久は、孝一と八重子、ためにやらなくてはいけないと決めていた。




 久が出かけていく。
これから久に起こる運命も知らずに。
明るい声で八重子を励ましながら、愛する妻に手を振りながら……




 今日一日で熊谷まで行ける筈がなかった。

長瀞で野宿することにしていた久は、自分の名前が縫い付けてある上着を、風呂敷包みの中に入れていた。




 小さな神社を見つけ、軒先を借りた。

贅沢はいらない。雨風が防げるだけでよかった。

時折空襲警報が鳴る。

遠くで爆撃の音がしている。

それでも静かな夜だった。




 まず息子のことを考える。

左腕を失くしたという、B29のことを考える。

どんなに辛かったかを考える。

でも頭の中でどんなに考えても、息子の本当の痛みは伝わってはきない。

久はそんな自分が歯がゆて仕方なかった。




 久はもう我慢出来なくなっていた。

思いたったたら吉日の如く、早速実行した。


胸の上に掛けていた上着をしまい、野宿を取り止めた。

熊谷に少しでも早く着きたかった。

アメリカの爆撃機、B29に発見されないために、日本は故意に闇を造り出していた。

街灯などある筈がなかった。

久は暗闇の中を出発するしかなかった。




 久は歩きながら、一郎を助けるために八重子が取った行動に思いを馳せた。

どんなに心細かったことだろうか。
髪の毛を振り乱し、ボロボロになりながらがんばった八重子を、久は立派だと思った。

久は、孝一を故郷に連れて帰ろうと考え始めていた。

様子を見てくるだけの筈だった。
でもそれでは自分の気が済まなかった。




 足はマメだらけになっていた。

それでも久は歩いた。

足を引きずりながら、ため息をつきながら、少しでも早く息子に会いたいと。




 久は孝一が羨ましかった。戦地に行ける身体を持った孝一が。

五体満足に生まれながらも、足に障害を負ってしまった久。

人目を気にして、節との結婚さえ躊躇した程だった。

戦争に行きたくないから、わざと怪我をしたのではないかとも言われ、非国民と呼ばれたこともあった。

久は苦しんでいたのだった。




 まだ熊谷に行ったことのない久は、川添いに歩いてきた。

横瀬川から荒川へ、歩けば歩くほど川幅は広くなる。

熊谷がだんだん近くなる。




 久はひたすら歩く。

足が向かう先に孝一がいると信じて。

一目でもいい、早く孝一に逢いたいと思いながら。




 夜通し歩いて、久はどうにか寄居までたどり着くことが出来た。

熊谷まではまだかなりの距離があったが、ひとまずホッとした。




 久は疲れていた。少し休みたかった。それにおなかも空いていた。

背中に結わえた風呂敷包みに、握り飯と蒸し芋が入っていた。

それは昨日出かける前に、八重子が用意してくれた物だった。

久は懐かしそうに、それをほおばった。

久の目に涙が溢れた。優しい嫁に対する感謝の涙だった。

久は再度、秩父に孝一を連れて帰えることを誓った。

八重子の喜ぶ顔が見たかった。久は一日も早くその日が来ることを願いながら歩き出そうとしていた。




 久の足が速くなる。
靴は破れ生爪が剥がれる。

それでも久は歩く。
目の前に迫った熊谷の地を求めて。

そこにいるという息子を求めて。




 久が熊谷駅の近くまで着い時、既に陽は傾いていた。

鎌倉町の病院はすぐ分かった。

案内された小さな病室。

めいっぱい敷いてある布団の上に、何人もの患者達。

夏の暑さと熱気で異様な匂いがした。

でもその中に孝一はいなかった。

看護婦はまたかというような顔をして、久を待合室に連れていった。




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