八重子糾・金昌寺悲話

四色美美

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金昌寺へ

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 孝一が荒川を遡っていく。
遠い遠い秩父を目指して。

時々振り返る熊谷の空は、ごうごうと燃え盛っていた。


あの下に自分がいた。
そう思うと孝一の身体はトリハダに覆われる。

その度立ち止まって、自分の身体を抱き締めたくなる。
そして、片腕のないことに気付きハッとする。
その繰り返しだった。


片腕だけではない。
全身が傷だらけだった。


孝一は不思議だった。
身体は動けない筈なのに、八重子逢いたさに心が突き進み。
それは愛の成せる業でもあった。




 皮肉なことに、今孝一が進んでいる道は、久が反対にたどった道でもあった。


久の無惨な姿を思い出すと、とめどなく涙が溢れてくる。
一緒に帰れなかった悔しさが、孝一の足を早めた。


早く熊谷から逃げ出したかった。
もう断末魔の声を効きたくなかった。




 そして孝一は、自分の運の強さに今更ながら驚いていた。


久を直撃した焼夷弾。
もしあの弾が少しでもずれていたら、自分も生きてはいなかっただろう。
星川での惨事もそうだった。


その他諸々のことが孝一の脳裏をよぎる。
孝一はもう一度熊谷の空を振り返ってみた。


もう夜が白々と明け始めていた。




 空襲警報に代わって、ニワトリの声がしていた。


――農家があるのか?――

孝一はお腹を空かせていた。
何でもいいから食べ物が欲しかった。




 孝一は農家を探すため、横道に入った。


ニワトリの声を頼りに少し歩くと、農家が現れた。

そこの主人はもう起きていた。

本当のところは爆撃の炎が恐ろしくて、眠れなかったのだ。




 孝一は、空襲のあった熊谷から逃げて来たことを話した。

それならと、主人は家に入れてくれた。

熊谷の星川の近くに建つ、知り合いの家の様子を知りたかったのだ。

孝一は星川で見た全てを語ってやった。


主人の目から涙が溢れた。




 孝一はそこで朝食をご馳走になった。

星川の話をする度、孝一は胸を詰まらせる。

あのふつふつと沸いていた川の中で、よく生きていたと思って。




 庭先で何度も何度も頭を下げる孝一に、農家の人は優しかった。


片腕の無い事実に気付きながらも、そっとしておいてくれた。
ボロボロの靴を哀れみ、地下足袋をくれた。


コハゼが上手く処理出来ないでいると、そっと手伝ってくれた。


孝一は感謝の最敬礼をして農家の人達に別れを告げた。




 ふと、八重子の母の嫁ぎ先を思い出した。

祝言を挙げた夜。
節と久を家に留めて、二人っきりの時間を持たせてくれた優しい家族を……




 次の瞬間。
孝一の脳裏にあの日の八重子がよみがえった。

その途端に体が燃えた。

心の底から愛しさが沸き上がってくる。


我慢出来なくなった孝一は、故郷に向かってまた歩き出した。
本当は走りたかった。
地下足袋は足に馴染んで行動的だった。
幾らでも駆け回れる。
そう思った。
だけど体が付いて行かない。
時々前につんのめりそうになる。
その度に自分の体を制御した。




 痛みなど殆ど感じなかった。
でも孝一には疼く場所があった。


それは無くなった筈の片腕だった。
もっと痛い所はある筈なのに、そこだけが疼くのだ。


孝一は泣いていた。
泣きながら歩いていた。
そんな弱虫の自分を情けないと思いながら、それでも泣かずにいられなかった。




 孝一はもう前しか見なかった。

秩父へ、秩父へ、愛する妻の元へ。
心が逸った。




 荒川と横瀬川の分岐点まで来ると、もう陽はかなり高くなっていた。

ここからだと三沢にも近かった。

孝一は二人で走った暗闇の中を思い出していた。

孝一の脳裏には、八重子しかいなかった。

だからあの日とおなじように、四番下へと走り出した。

ただひたすら八重子を目指して。




 その頃。
四番下の八重子の家に、昨日の熊谷空襲の情報がもたらされていた。


熊谷市役所、郵便局、それに加えて孝一の入っていた病院の火災。


人伝て口伝てに尾びれが付いて、話はドンドン大きくなる。


何を聞くにつけ、久と孝一の生存している確率の低い情報だった。




 八重子はいても立ってもいられなかった。


すぐに熊谷行きを決め、晒の布と食べ物で風呂敷包みを作った。


八重子が飛び出そうとするのを節が見つけ、必死になって止めた。




 それでも八重子は行こうとした。

しかたなく節は思い切って八重子はの頬を叩いた。


「あなたが行って何になるの?」

節は八重子の身体を抱いた。


八重子が地団駄を踏む。

このように我が儘な八重子を節は初めて見た。

何を言っても聞く耳を持ってくれなかったのだ。

でもそれは全て孝一のためを思ってのことだった。

節は困り果てて、金昌寺に行くことを勧めた。

あの子育て観音が、必ず孝一を守ってくれると諭して。




 八重子は何もかも放り出して、金昌寺に向かった。


金昌寺の山門では、相変わらず二体の仁王様がにらみを効かせていた。

でも、いつまでも怖がりの八重子ではなかった。とっくに仲良しになっていた。

だって目隠しをして参道まで連れて行ってくれる孝一はいないのだから。


八重子は、大きなわらじの横を通り過ぎた。

その向こうの本堂にある、子育て観音に救いを求めるために。




 孝一は動かしてはいけない身体にムチを打って、十五里もの長い距離を走り抜けてきた。

八重子に逢いたい一心で。熊谷の大惨事から逃れたい一心で。




 夜明けと共に始まった熊谷空襲に於ける調査では、死者二百六十六名。羅災者一万五千三百九十名を出し、消失面積は、市街地の三分の二にも及んでいた。

その死者の中の半数近い人が、孝一が身を潜めていた星川での犠牲者だった。

でも今の孝一には、そんなことは知る由もない。

天皇陛下のラジオ放送を八重子と共に聴き、自決する為にひた走ってきたのだ。


一億総玉砕。
それが戦争の定義だった。


生き恥を晒すより、死んで花身を咲かせよう。
それが合い言葉だったのだ。



だからその理念に基づき、孝一は死ぬ為に故郷を目指していたのだった。




 孝一が一郎のいた家の前を通り抜けた。あとほんの少しだ。
そう思うだけで、足は自然に速くなった。


でも孝一は足を止め、一郎の御霊に手を合わせようとした。


そこで又孝一は、片腕の無いことを認識する羽目になった。


その途端に身体が疼く。
無いはずの部分が何時もより疼いていた。




 束縛から逃れようとして頭を振った。
そして孝一は再び走り始めた。


もう無我夢中だった。孝一の目は、ただ一直線の懐かしい我が家だけを求めていた。


心は逸る。
体は燃える。
この情熱の全てで、八重子を抱き締めたくて……


でもその為だけにやって来た訳ではない。
八重子と……
家族一緒に久のいる天国を目指す為に、必死に歯を食い縛ったのだった。




 家には大勢の人が集まっていた。
天皇陛下のラジオ放送を聴くためだった。

そんな中に孝一は飛び込んで行ったのだった。

人々は狂喜して、この突然の訪問者を迎えてくれた。


「良く無事で戻って来たわね。おばさん嬉しいわ」

隣のおばさんがおいおい泣き出す。

孝一は倒れ込んだままでうなずいていた。


「お母さんならさっき、あんたのことで親戚の家に行ったわよ」


「そうだ、誰か早くこのことを節さんに知らせてやって。節さんきっとビックリして腰を抜かすわね」


「八重子さんなら金昌寺よ。あなたと久さんの無事をお祈りしてるわ」

みんな次から次へと孝一に言葉を浴びせた。




 「そうそう大事なことがあったの。さっき天皇陛下様の放送があってね。日本が戦争に負けたって言っていたわ。良かったわね、もう何処にもいかなくてもいいのよ」

その言葉に孝一はショックを受けた。

自分が走ってきたのは何のめなのか?久は何のために死んだのか?


――これではただの犬死にだ――

孝一は今まで自分は運がいいと思っていた。
それを今呪っている。


――こんな身体で、何のために帰って来た――

全身全霊を傾け、必死に帰ってきた我が家。

でもたどり着いた時孝一はその体力の全てを使い果たしていたのだった。




 孝一は唇を噛み締めた。玉砕するなら、秩父で。
愛する妻と一緒に。

一途にそう思った。




 孝一はおぼつかない足取りで、八重子を求めて金昌寺へと向かった。


「大丈夫かしら孝一さん?」


「顔色悪かったわね」

みんな口々に言っていた。


「私、一緒に行ってやるわ」

隣のおばさんがしゃしゃり出る。


「久ぶりの夫婦水入らずなんだから、そっとしておいてやりましょうよ」

誰かがおばさんを止める。


「分かったわよ。行かなきゃいいのね」

おばさんはふてくされた。




 孝一は泣いていた。


息苦しかった。
足腰にも力は無かった。


もう自分は駄目だと思った。
助からないと感じた。


余命幾ばくもない体。
それは、夢が絶たれたせいでもあった。


久の半身になった遺体を思い出す度に自分で自身にムチを打った。


八重子と節と自分。
三人で久のいる天国を目指そうと思った。


一億総玉砕なんて、本当は考えてもいなかった。
ただ、彼処で死ぬよりましだと感じただけなのだ。


病院を焼け出され、荒川を目指す課程で出逢った様々の死。


竹筒に入った水を飲んで、自分の腕の中で死んでいった入院仲間。
その断末魔の声が孝一を捉えて離さなかった。
孝一はただ、そんな地獄から抜け出したかっただけなのだ。




 必死に大きなわらじを……
二体の仁王様のいる山門を目指す。


脇には六地蔵。
その裏には失せ物に御利益のあると言う稲荷神社。


その横に少しだけ緩やかな坂道があり、本堂へと繋がっていた。




 それでも孝一は、参道の階段を這いつくばるように登っていった。


「八重子、八重子」

孝一は八重子の名前を小さく、それでも精一杯大きな声で呼びながら、近づいていった。




 孝一の息は更に荒くなっていた。

無理はなかった。昨日まで病院に入っていたのだ。

体力がなかった。それでもここまでやって来られたのは、八重子に対する愛と、一緒に死にたいと願った執念からだった。




 八重子は一心不乱に願を掛けていた。

子育て観音は孝一が出兵の前、隠れキリシタンの聖母かも知れないと聞かされていた。

だから八重子は十字を切った。全ての神にお願いするためだった。

困った時の神頼みでもないが、溺れる者は藁をも掴む心境だったのだ。




 「八重子さん孝一が戻って来たのよ」

突然節の声がした。

そのお陰で八重子はやっと我に返った。


そこで八重子の見たものは、這いつくばった孝一の姿だった。

八重子は慌てて階段を駆け下りようとした。

その時、八重子の身体に異変が起きた。

足を滑らせたのだった。


もんどり打って八重子が転がり落ちる。


八重子はその時、おなかを強打した。

八重子のおなかに激痛が走った。

八重子は転げ回りながら激痛と戦った。

孝一は目を見開いたまま首を振った。

でも駄目だった。

八重子は流産していたのだ。




 見る間に真っ赤に染まっていく八重子を助けようと、孝一は最期の力を振り絞って立ち上がった。




 八重子は両手を伸ばして、愛する孝一を待った。

八重子の身体の上に孝一が倒れてくる。

そして二人はしっかりと抱き合った。


「八重子。八重子」

荒々しい息の中で、孝一は八重子の名前を呼んだ。

八重子もまた孝一の名前を呼んだ。


「俺は戻ってきた。おまえに約束した通り戻ってきた。でも生きるためじゃない。一緒に死ぬ為だった。馬鹿者だ俺は、おまえをこんな目に合わせて」

孝一は八重子のおなかの上に、頬を寄せた。


「俺はこの子と一緒に死ねるのか。おい、もう淋しくないぞ。すぐにお父さんもそこへ行くから」

孝一は流れた子供に愛しそうに声を掛けた。

そしてしっかりと八重子を抱いていた右腕から力が抜けていった。




 「イヤーー!」

八重子の声が四番下に駆け回った。

何事があったのかと、大勢の人が金昌寺に駆けつけてきた。

そこで人々が目にしたものは余りにも残酷な光景だった。

本堂の前では、八重子の流産のために血塗れになった孝一の遺体が転がっていた。

でもそこには八重子はいなかった。

血が点々と、桜の古木の方に付いていた。

人々はその木の枝に目をやり、そして絶句した。

そこには、孝一を見つめるために目を大きく見開いたままで、首を吊って息絶えた八重子の姿があった。


「だから私が付いて行けば良かったのよ!」
隣のおばさんが悔しそうに言った。




 八重子の遺体はすぐに桜の枝から降ろされて、孝一の横に寝かされた。


「孝一、八重子。私を置いて行かないで。お願い戻って来て」

二人の遺体に取りすがって泣く、節の姿が人々の胸を打った。




 「八重子!」

突然大きな声がした。

ナツがそこに立ちすくんでいた。

八重子の死が三沢に届いた訳ではない。

孝一が熊谷にいることと、その熊谷に昨夜遅く大規模な空襲があったことを知り、やって来たのだった。


「家に行ったらいなくて……。八重子!」

ナツは身体を震わせながら、八重子の遺体の上に崩れ落ちた。




 節はひたすら謝った。

ナツは首を振った。


「八重子は大好きな孝一さんと一緒になれて、本当に幸せだったんです。だからこうして一緒に死を選んだのです。八重子の気持ちが痛いほど分かります。孝一さんから受け継いだ大事な命を流してしまって……」


「分かってます。分かってます。八重子さんのことだから、孝一の子供がいたならきっとその子のために生きてくれたはずです」

その言葉に、ナツは節の手を取った。


「ありがとうございます。その言葉だけで。こんな我が儘な八重子を可愛がって頂きまして、本当にありがとうございました」

ナツは、集まっている人に向かって頭を下げた。

節もこれに続いた。


「これからもずっと姉妹でいてくれる?」

節はそう言うと、ナツと抱き合って泣いた。




 孝一のお腹には、あの千人針が巻かれていた。

でもそれは二百人分ではなかった。


「これは……」

千人針を送った人が声を詰まらせた。


「八重子がやったんです。残りの八百人分。自分の手でどうしても本物にしたかったのでしょうね」

節は孝一と八重子の手を、千人針の上にそっと置いた。




 「私、余計なことを……」

その言葉に節は首を振った。

「この千人針があったから、二人はいつも一緒にいられたのだと思いますよ。きっと孝一も眠った振りをして見ていたのではないでしょうか。出兵する日、目が赤かったから」


「それでは、私を許して……」

「許すも、許さないもないわ。あなたがいたから、この千人針があったから、二人はもっと深いところで結ばれていたのだと思うの。そう、まるで縄でも糾うように……。あの子が一針、一針愛を込めた結果がこれなのよ。あの子は寅年だったから……。だから寅の刺繍までして……。本当に偉い子だったのよ」

節はそう言うと優しく女性の手を取った。


「ありがとうね。二人にこんな素晴らしい贈り物を……」

節は泣いていた。


「ありがとうございます」

女性は涙で濡れた手で節と握手を交わした。


「八重子は本当にいい娘でした。こんないい娘を孝一が帰ってきたために死なせてしまって、馬鹿です、孝一は」

節は、空ろげな目を孝一と八重子に向けた。

啜り泣きが聞こえる。

金昌寺にいた全員が、この悲しい夫婦のことを思って泣いていた。


それは、真珠湾攻撃から始まった、永かった大東亜戦争が終わったばかりの、八月十五日に起こった、金昌寺の悲しい物語だった。






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