殉愛・ambivalence

四色美美

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祖父の故郷

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 翼が勝から聞いた赤穂浪士の話はこうだった。
吉良邸に討ち入った赤穂四十七士。それとは別の討ち入り隊が中川に組織されていたと言うの話だった。それは、勝の産まれ育った中川の伝説だった。
集落の地主の元に、赤穂班の江戸詰めの家臣の家で働いていた吉三郎が訪ねて来た。奉公先で知り合った仲間と暮らす家を探すためだった。赤穂班の取り潰しで行き場のない人々だと知りながら受け入れてくれた家長。吉三郎を娘婿にとずっと考えていたからだった。吉三郎はそれほど信頼のおける人物だったのだ。
山科会議で血判状を残した百二十余名の内、実際に討ち入りに参加したのは五十名にも満たなかった。【山科〓大石内蔵助がお家取り潰しの後住まいとした地域】
大概の者は義理と打算から名前を連ねただけだった。お家再興があったら、又雇って貰うためのパフォーマンスだったのだ。でもその夢が潰えた頃には、多くの者が去って行ったのだった。

 その中には、家老である大石内蔵助密命を受けた者もいた。それが吉三郎の仕えた主人やその仲間だった。もし仇討ちが失敗に終わった時に、もう一度立ち上がるために隠れて暮らすようにと。それを忠実に守って活動していたのが、中川の赤穂浪士だったのだ。
赤穂四十七士の内の四十六が切腹した日。中川の赤穂浪士達も全員が切腹したのだった。
勝は翼に男の美学を語り聞かせていたのだった。

 陽子が聞いた話しはこうだった。
赤穂浪士の別働隊が其処に集結して、仇討ちが失敗した時のために待機していた。集落の地主の元に、赤穂班の江戸詰めの家臣宅で奉公に出ていた吉三郎が訪ねて来た。吉三郎は、主の娘おいとの将来を誓った仲だった。
赤穂班のお家断絶の噂を耳にしていた主はこの突然の帰郷を快く迎えてくれた。すぐにでも祝言を挙げさせたかったのだ。吉三郎とおいとの間に子供をが出来た。でも解っていながら切腹させられたようだ。
吉三郎は寺坂吉右衛門と同じ使用人だった。
吉田忠左右衛門はそのことをはばかって泉岳寺より去らせたのだ。でも自分は仲間として認められたと思い、進んで切腹したはずだった。
陽子は女性の立場で、翼は男性の立場で。それぞれの言い伝えを美化していたのだった。今日此処を訪ねて来た訳はそんな言い伝えを確認するためでもあったのだ。

 以前は秩父郡荒川村と言った武州中川駅周辺。今では三峰方面までを秩父市となった。
久しぶりに陽子の実家に立ち寄った二人。でも節子は其処には居なかった。
この駅に降りたのには訳があった。それは清雲寺の枝垂れ桜を見るためだった。
この少し前、駅前の広場に二人は居た。自転車置き場方面へ向かうと公衆電話があり、その横に大きな駐車場が現れる。斜めに道もあるが、二人は車の脇をすり抜けた。そして踏み切りを渡って実家に行ってしまったのだった。

「お店を見てから来れば良かったね」
陽子がため息をはく。実は、節子を驚かそうとして何も連絡していなかったのだ。

 武州中川駅の反対側にある陽子の実家。此処へ来るのはお正月以来初めてだった。勝の死後、忙しさの足を運べなかった。勝の病室で執り行われた二人の結婚式に、節子と貞夫も居た。だから何となくそのままになってしまっていたのだった。

 勝の危篤を知り駆けつけた時、節子は陽子と翼の居ないことを知った。

(こんな大事な時に何遣ってんの!!)
節子は気が気でなかった。だからただ、頭を下げ続けた。謝るしかなかったのだ。

 気を揉んで待っていると、ウェディングドレスの陽子が入って来たのだった。愛する翼の元へ……、今旅立とうとしている娘。節子は誇らしかった。勝の最期の日に嫁ぐ事に決めた陽子に、節子は惜しみない歓喜の声を送った。

 『陽子アンタは偉い!!』
周りの迷惑もかえりみず思わず節子は言っていた。節子は勝を見ていた。勝の目を見ていた。勝の喜びに溢れた表情を見ていた。それはそれは輝いていた。これ以上の祖父孝行はないと思った。だからそう言ったのだ。
節子は同郷の勝に親しみを感じていたのだった。それ故に、長女の純子を勝の長男の元に嫁がせたのだった。親戚の者を説得してまで純子を嫁がせたのは、二人の愛が本物だと思ったからだった。
姉の純子のように、陽子も又一途に翼を愛した。だから祝福したかった。でも本当は、翼を婿として迎えたかった。節子はそれ程までに翼が可愛かったのだ。陽子が弟に遠慮していたことは百も承知で……。

 それでも節子は、まだ諦めていなかった。折りをみて、話をしようとしていたのだった。

『良いのか?  今がチャンスだよ。婿にするなら今だよ』
貞夫が慣れないウインクを送った時、その言葉で泣いた節子。夫は解ってくれている。それだけで節子は嬉しかったのだった。

(何時か又、きっとチャンスは訪れる)
節子は密かに期待していたのだった。又翼がやって来る日を心待ちにしていたのだった。

 そんな節子の思いはいざ知らず。二人はまず節子が働く農協の直売所へ向かった。店の前には季節の花が並べられていた。陽子は入り口で中を覗いてみた。でも節子は、其処には居なかった。節子は直売所横で蕎麦を打っていたのだ。
陽子は翼の手を取り、節子の居るであろう空間の見える場所に移動した。此処は店の左奥にあって、外から中が見えるガラス窓があった。《関係者以外立ち入り禁止》の紙が貼られていたから、陽子は奥に行かなかったのだ。
やはり其処に節子はいた。陽子は外のガラスを少し叩いて、節子に知らせた。節子は慌てて、前掛けで手を拭きながら出て来た。

「お母さんごめん、今日は遊びに来たんじゃないの。これから二人で清雲寺に行って来るからね」

「あらー、仲良くお花見。そう言うのも確か遊びだったはずよ」
節子が陽子をからかう。

「う、うーん」
陽子は少し唇を尖らせた。翼はそんな二人の会話を聞きながら笑っていた。素敵な親子関係をちょっぴり羨ましいと思いながら。

「午後は家に居るから寄ってね。遅くなるけどお昼ご飯用意しておくからねー」
清雲寺方面に向かう二人に節子が声を掛ける。翼はその行為が嬉しくて、深々と頭を下げた。

(やったー!! 待てば何とかか……よっしゃー!! 腕によりを掛けて……)
節子はほくそ笑んでいた。

 「仲いいね、あの二人。あれが自慢のお婿さん?」
不意に、常連のお客が言った。

「え、えーっ、何故知ってるの?」
節子はその人をマジマジと見た。

「何、言ってるの。この前話していたわよ。物凄く頭の良いお婿さんだって」
どうやら節子は、誰彼構わす翼の自慢話しをしたらしい。

「あちゃー。お願い、陽子には内緒にしてね」
節子は顔の前で手を合わせた。

「高いわよ……。嘘、嘘状態よ」
その人はゲラゲラと笑い出した。

(あーあ、本当にお婿さんになってくれたら嬉しいのに)
節子はため息を吐いた。

「あっ、そうだ。ねぇ、栃の葉っぱ無い?」

「栃の葉っぱ?  もしかしたら、何時か話してた大滝名物?」

「そう、それ。婿にどうしても食べたせたくなってね」

「そう言えば、家の近所にあったわ。待っててすぐ貰ってきてやるから……」
その人はそう言うが早いか、車に乗り込んだ。

「嬉しい。後は餅米ね。これは、お赤飯にするヤツで間に合うか?」
節子は嬉しそうに、そそくさと店の中に入って行った。

 三度踏み切りを渡る。駅のホームを見ながら、節子の家の前を通り過ぎる。丁度ホームの途切れる箇所に丁字路があった。陽子はその道を曲がった。翼もその後に続いた。

 暫く行くと幾つもの曲がり道がある。

「この道は近回り。あの道は遠回り。でもみんな同じ其処の道にぶつかるの」
陽子が指を差しながら言っていた。翼はそれらの道を目で追いながら、陽子の言葉を聞いていた。

「で、結局どの道を行くのかな?」
翼が悪戯っぽく言った。

「うーん……やっぱり遠回り。だってこうしていっぱい歩きたい!」
陽子は翼の手をそっと取って、自分の指に組ませた。翼はそんな陽子に感銘を受けなが、そっと背中に手を伸ばした。

《あ・い・し・て・る》
心を込めて一文字一文字書く。

「翼、くすぐったいよ」
陽子はそう言いながらも、神経を集中させた。

(私も……あ・い・し・て・る)
陽子は翼の指先を心の目で追いながら、心体共々熱くたぎらせていた。

 幸せな、本当に幸せな時間だった。

(やっぱり……遠回りして良かった)
翼の指文字を心の中に刻み付け、陽子は素晴らしい伴侶を得た喜びに再び浸っていた。


 「えっー、もう!?」
ゆっくりゆっくり歩いて来たつもりだった。でも二人は一つの道になるはずの祠の前に差し掛かっていた。三つの道が一つになり更に進んで行くと、清雲寺への道しるべがあった。

「さあ、もう一頑張り」
陽子は翼の肩に手を置いて軽く押してみた。

「近いの?」

「この前秘密基地で言ったでしょう。『意外に近いのよ』ってね」
陽子はウインクした。


 その通りに更に進むと、丸太を模したガードレールが翼の目に止まった。焦げ茶色の長い棒状の物が三木。道の端に設置してある。翼は早速それに軽く腰を掛けた。

「疲れたの?」
陽子が気遣って聞く。すると翼は陽子を膝の上に引き寄せた。陽子の首筋にキスをする。陽子は突然の翼の愛の表現に驚いた。
体が震えた……。心が乱れた……。

「翼……みんな見てる」
やっと……、それだけ言えた。陽子はただ、恥ずかしかったのだ。


 「構わない」
翼はもっと引き寄せた。

「だってぇ………」
陽子が甘い声を出す。

「此処は陽子の地元だからきっと知っている人が大勢いると思う。だから僕は……、僕が陽子の夫なんだと教えたいんだ」
翼は背中から陽子を抱き締めた。陽子は翼の心を知り、その胸に凭れかかった。もう一度首筋にキスをしてとせがむように、陽子は目を閉じた。人の目を気にしないでただ翼との愛に溺れたくて。翼もそんな陽子を優しく両腕で包む。
二人だけの世界……。もう何も怖いモノはなかった。陽子は翼と居るだけで幸せだった。

 細い路地に神社の鳥居が見える。

「あっ、喪中だった」
翼が思い付いたように言った。そう、勝が亡くなってからまだ日が経っていなかったのだ。祖父を亡くしたばかりの翼は、神社の鳥居を潜れなかったのだ。俗に四十九日過ぎれば良いとのことらしいが、それでも翼の気持ちは潜ることを躊躇ったのだった。翼の心は何時も勝と一緒だった。忘れることなど出来なかったのだ。

 「あれは清雲寺の隣にある稲荷神社の鳥居なの。ねえ、翼。仕方ないから戻ろうか?」

「そうだね。あの鳥居、どう見ても道幅いっぱいのようだし……」

「はい翼、回れ右!」
陽子が一言掛けると、翼の体が反応したらしく反対を向いていた。

「おいおい……僕、保育園児じゃないよ」
翼がふてくされる。

「ごめんなさい。つい癖が出ちゃった」
陽子が頭を掻く。
そう……、陽子はこの四月から、保育園の保育士になっていたのだった。

 保育園での実務研修を終えた頃。
節子は言っていた。

『近所の保育園で働いてほしい』
と。でも陽子は保育園の場所選びに迷っていた。中川では節子が、翼を離さないだろう。自分の居ない内に甘やかしたい放題甘やかすだろう。そしてきっと婿にしようと画策するに決まってる。でも、陽子はどうしても弟に木村家を継いで貰いたかったのだ。だから、堀内家から通える横瀬を選んだのだった。がっかりする節子の姿を想像しながらも、そうせざるを得なかったのだった。

 「せーの!」
陽子の掛け声で、翼の体が又反応する。少し歩いた後に、翼は思わず吹き出した。

「陽子の思いのままだな」
翼が呟いた。陽子が覗き込むと、その顔には笑みが零れていた。

「……ったく。もうー、翼の意地悪!」

「心配した?」
陽子は頷いた。

「ほら見てごらん」
翼はそう言いながら体を反転させた。

「何時かあの鳥居を潜ろうよ。そうだ来年又此処に来よう」
その言葉に陽子は頷いた。翼は本当は違うことを言おうとしていた。
稲荷神社……。その神社によって言い伝えが違うのは知っている。火災除けだったり……、翼の知っているある神社では、失物を探してくれると言う伝説があったのだ。
翼の失物……、それは母の愛。でも……、それを言うと、陽子が苦しみことは解っていた。翼は心の中で涙を止めた。陽子に素晴らしい一日をプレゼントするために。

 元来た道を戻って暫く歩くと、清雲寺に続く小道があった。その道の先に大勢の人だかりが出来ていた。其処には大小それぞれの枝垂れ桜が所狭しと植えられていた。

「凄い数……」

「でも、こんなものじゃないのよ」
陽子が得意そうに言った。

(うん。そりゃそうだ)
翼は目の前に広がる壮大な景色に心を震わせていた。

 「まるで桜絵巻だね」

「中はもっと凄いよ」
翼の言葉を遮ってしまった陽子。
慌てて翼と手を繋いだ。

「桜絵巻か……本当に翼の言った通りだね」
陽子は立ち止まり、全体を見回した。

(気が付かなかったけど、翼と一緒だと何でも新鮮。翼……もっとドキドキさせて。もっともっとアナタを知りたい……)

 樹齢何百年めの大木。
何時か二人で見たコミネモミジのように堂々とした樹景。翼は生まれて初めて清雲寺の枝垂れ桜を見た。その風体は余りにも立派で、自分の存在価値さえも小さく見えた。

(ああ……なんて僕は小さな人間だったんだろう。心が洗われるというのは、きっとこう言うことを言うんだ)
翼はこの大樹に住まいし精霊達の息吹を感じたくて、大きく深呼吸をした。そしてそのままその木の全てを包み込みたくて、両手を広げた。

 「凄いねー」
そう言いながら、陽子も手を広げた。

「もしかしたら、八百比丘尼の聖霊でも宿っているのかな?」

「ん?  ヤオビクニ?  何それ」

「不老不死の女性だと思うけど、詳しいことは知らないの。一説には人魚だって言う人もいて」

「人魚か?  かも知れないな。だって武甲山は元々海にあったから、セメントの材料になる石が取れる訳だから」

「そっかー。此処も海の底だった可能性が大か?」

「それに人魚の肉を食べた人は不老不死になるとか聞いたから」
聖霊と人魚。どちらもきっと目には見えないだろう。それでも二人はもう一度その手を広げた。体の中に、取り入れるために。不老不死は本当は怖い。だって、死ねない恐怖って存在すると思うから。でも二人なら平気。陽子はそう思っていた。

 翼がもう一度両手を広げる。
その姿を見て陽子はハットした。

(翼がある!!)
陽子はその時確かに翼の背中に羽のような物を見た。

(翼……)
陽子は又俯瞰と言う言葉を思い出した。

(翼……あなたの名前は翔さんのためじゃないわ。きっとお母様が一番相応しい名前を付けてくれたのよ)
陽子は……、ただ泣いていた。薫と香……、二人の母。どちらかが本当の母のはずだった。翼は迫害を受けて育ったことを恨んでいた。だけど、それは全て陽子ど出逢うためのプロセスに違いなかったのだ。陽子はこの世界の全ての神々に感謝した。翼と出逢えた奇跡に感謝した。

 清雲寺の枝垂れ桜。
テレビ中継で見たことはあった。
でもこんなに立派で、こんなにも堂々としていたなんて……。

(陽子を……陽子をありがとうございます。逢わせてもらって救われました。本当に本当にありがとうございました)
翼は素晴らしいこの地に感謝を捧げた。勝の生まれ故郷でもあるこの地に。

翼はもう一度両手を目いっぱい広げて、大きく深呼吸をした。まるでその枝垂れ桜に住んでいる精霊を体の中に取り入れるかのように。

 翼は暫く其処から動けなかった。陽子はそんな翼から離れなかった。大地の息吹。大地の恵み。それらを翼と共に感じたかった。
かって翼の祖父の勝も見ただろうこの枝垂れ桜から。

(僕もこの桜と同じように、多くの人から支えられてきた。陽子……愛をありがとう。忍おじさん……勉強を教えてくれてありがとう。純子おばさん……ううん陽子のお姉さん。素晴らしい出逢いをありがとう)
翼は勝の育ったであろう荒川方面に目を向けた。

(お祖父ちゃん……優しさをありがとう……僕はもう大丈夫だから……安らかに……とうか安らかに)
翼は泣いていた。幾本もの木に支えられながら懸命に咲き誇る古木を見つめながら……。その先あるだろう勝の故郷を見つめながら。

 子供好きな陽子がブランコを見つけた。アニメに出て来るキョシン兵かトーテンポールのような風体。

「気が付かなかった。だって何時も桜ばかり見ていたがら」
そう、境内に所狭しとと植えてある枝垂れ桜の影に隠れて埋もれてしまったのだろう。遊ぶ人も居なかった。陽子は翼を誘って、そのブランコに近づいた。

「あっやめよ。何かあったら大変だ」
そう……、そのキョシン兵の足も腕も細長かったのだ。

(あ、そうか……翼と一緒だからか……色々な物一つ一つに感動しているからなのね。でも不思議……だって私翼しか見ていないのに……翼しか目に入らないのに……)
それには理由があった。陽子が以前此処を訪れた時には、花見客を呼び込むための市が立っていたのだ。だから陽子にはあのブランコが見えなかったのだ。

 節子の家で食事をさせてもらうために、二人は再び武州中川駅の反対側にいた。案内された和室に所狭しと置かれたお皿や小鉢。
目の前の大ご馳走に目が点になる翼。言葉が出ない。
それは節子が、翼の心を掴むための手段だった。でも素直に翼は喜んだ。頬を濡らした嬉し涙が止まらない。
そんな翼を節子は思わず抱き締めた。その途端、陽子が睨み付けた。

「ダメ。私の翼よ」
陽子が悪戯っぽく言いながら、節子を押しのけ翼を抱き締めた。

「お母さん。幾ら翼が可愛いって言っても、私から奪わないでね」
本当は……、節子の気持ちは痛いほど解った。翼が可愛くて仕方ないのだ。でも節子は舌を出した。

「イヤだね。だって翼君は私の大事な息子だからね」
節子も悪戯っぽく言った。

 二人は耳を澄ませた。
すすり泣く声が聞こえていた。それは翼だった。

「お母さんが私から翼を奪うから……」
照れ隠しなのか、陽子が節子を諌めた。

「違うんだ……」
翼は今度は号泣した。

「嬉しいんだ……嬉しいんだよ。だってこんなこと初めてだから……」
翼の声がフェードアウトする。陽子がもう一度翼を抱き締める。節子はそんな陽子毎翼を抱き締めた。幸せな一時が流れる。翼は優し過ぎる家族愛に酔っていた。
何時までこの幸せが続くことを願いながら。

 「あれっ、お母さん。これ、つとっこ?」
陽子の甲高い声に驚きながら、節子は頷いた。つとっことは大滝地方の名物で、栃の葉っぱの中に赤飯を入れて蒸したような食べ物だった。栃の葉っぱ版チマキとでも言うような素朴な味だった。

「もしかしたら、私達が来ること知ってた?」

「え、何故?」
翼が不思議そうに聞く。

「つとっこって言うのはね。前の日に餅米を浸したりして、準備が大変なの」

「えっ、そんなにしてまで僕を……」
翼は感激して泣いていた。

「ま、以心伝心よ」
節子は本当のことが言えずに、愛想笑いをして誤魔化していた。

 「これから何処かへ行くの?」
節子が聞く。

「鷺ノ巣へ行ってみようかと思うのだけど」
陽子が答える。

「鷺ノ巣?  勝さんの故郷かい?」

「お母さんも其処の出身だって聞いたけど?」
節子は小さく頷きながら、地域の地図を持ってきた。

「日野駅の方が近いけど、又歩くかい?」
陽子は頷いた。日野とは武州日野駅のことだった。武州中川駅より一つ三峰口駅よりだった。

「いいかい?  此処が中川ね。そのずっと先に荒川があるから、まず其処の橋を渡って……」
節子が指で説明する。

「そうすればその先に信号機があるから、其処を右に曲がると又橋があるの。その先が鷺ノ巣よ」

 二人は又線路を渡った。
駐車場を横切り、農協の直売所とガソリンスタンドの脇を通り過ぎた。その先に国道140号。これから行く鷺ノ巣はずっとずっと先にある。

「せーの!」
陽子の声で二人は楽しみながら足を踏み出す。又国道デートの始まりだった。

 秩父市役所荒川支局の前を通り過ぎると、荒川にかかる大きな橋がある。この橋が第一番目の橋。
その先に信号機、それを右に曲がる。又荒川だった。その川にかかる橋の横には鷺のオブジェがあった。

「鷺ノ巣だからかな?」

「きっとそうだね」
そんなたわいもない会話を楽しむ二人。

「でも一応確かめよう」
陽子は言う。

「あれっ、お義母さんのこと信用してないの?」
翼が意地悪っぽく言った。

 「あ、あれ」
陽子が指を差した。橋の上で猿が遊んでいた。馴れているのか車が通っても動じない。だから人間の方が遠慮がちに避けて通る有り様だった。

「キー」
橋を通り過ぎると、今度は威嚇してきた。そして柵の上からオシッコを掛ける。

 でもその行為は、若い夫婦の猿を守るためだった。茂みの中に、産まれたばかりだと思う赤ちゃんを抱いた猿がいた。

「うわーっ、可愛い!」
陽子が思わず大声を出す。

「キー!!」
ボス猿らしいのが、又陽子を威嚇した。翼は猿を刺激しないように心がけながら、陽子を庇いつつそっと其処を離れた。

 その先に蕎麦屋があった。
店先の縁台に老人が二人座っていた。軽く会釈すると、笑いながら挨拶してくれた。

「鷺ノ巣を訪ねたいのですが、此処ですか?」

「ああ、此処だよ」
その答えを聞いて、翼は目配せをした。陽子は俯きながら翼のお尻を軽く抓った。翼は笑いをこらえていた。そのずっと先の橋まで行ってみる。

「この先にミューズパークがあるんだって」

「それじゃあの赤い橋とも繋がっているのか?」

「そうね。きっと繋がっているね」
陽子は以前歩いた国道デートの最終点・羊山公園で眺めた秩父市内の風景を思い出していた。

 二人は又荒川にかかる鷺のオブジェのある橋の近くに戻っていた。結局何も聞けなかった。
祖父の生家の場所も、赤穂浪士の話も。

「でも確かにお祖父ちゃんが言っていたんだ」

「そうよね、母も言っていたのよね」

「だから、此処に居たことは間違いないと思うの」

「何の話だい?」
さっきのお店の縁台から声が聞こえた。

「この鷺ノ巣に、赤穂浪士の関連した人達が住んでいたと聞いて訪ねて来たのですが」
翼は思い切って訪ねてみた。

 「もしかしたら余所を向いてたお墓のことかい?」

「余所?」

「元禄って年号の入ったお墓だけど。お墓ってのはみんな同じ方向なんだけど……」

「それってもしかしたら、赤穂浪士の……」
二人は顔を合わせた。

「あのー、そのお墓って今何処に?」

「ああ、確かもう無いよ」

「無いのか……」
残念そうに翼が言った。

「でも来て良かったね。私思うのだけど、そのお墓きっと泉岳寺か赤穂を向いてたんじゃないのかな?」陽子らそう言いながら、鷺ノ巣の山々を眺めていた。この何処かに確かにあったと言う、そのお墓に権威を示しながら。翼も感激しながら、両手をいっぱいに広げた。勝の産まれ故郷の空気を体全部に取り入れるために。

 そしてその人はもう一つ興味深い話をしてくれた。それは鷺の巣が平家の落人の里だと言うことだった。勝はもしかしたら……、その末裔かも知れない……。もしかしたら節子も……、二人はこの地に眠る悲しみと慈しみに心をときめかしていた。今ならあの橋ですぐ向こう側に渡れる。でもその当時は荒川に阻まれていたはずだ。源氏の追及から逃れるためには格好の隠れ里だったのかもしれないと思った。

 偶々其処に車が通りかかった。その人は、話を聞いた人の友達だった。翼と陽子の熱心な姿が気になって興味を持って立ちよったそうだ。

「良かったら乗っていかない。日野駅でもミューズパーク方面でも構わないよ」
突然の一言に二人は顔を見合せた。

「よろしくお願い致します」
そう言ったのは翼だった。

 二人は車で、送って貰えることになった。

「ありがとうございます。それでは遠慮なく乗せていただきます」

「どうぞどうぞ。いや嬉しくね。お祖父さんの故郷巡りなんて聞いたらね」
その人は、本当に嬉しそうにニコニコしていた。

「あのーすいませんが、ミューズパークの近くの赤い橋までお願い出来ますか?」
翼はそう切り出した。

「何故?」
陽子は不思議そうに言った。

「ちょっとね」
翼は恥ずかしそうに俯いた。

 約束通り、巴橋の手前で二人は車から降りた。

「この橋を二人で渡りたかったんだよ」
翼はそう呟いた。それは初めてのデートの時だった。翼は羊山公園で見たこの赤い橋を歩きたいと思った。思いがけずに叶った夢。だから恥ずかしかったのだ。子供じみている。そんな風に感じて……。

 荒川は広くて大きい。
この先で、このまさわやうぶがわ横瀬川も取り込んで更に大きくなっていく。それは、自分達の未来のようだと翼は思った。陽子と一緒だったら、どんな夢だって叶えられる。翼は陽子と言う太陽の元で大樹になりたいと思った。今日見た、清雲寺の枝垂れ桜のような。何時か見た、西善寺のコミネモミジのような。実は陽子は橋の上で震えていた。でも翼には弱いところを見せたくなかった。負担を掛けたくなかったからだ。でも翼は、何時もと違う陽子に気付いていた。

 その時、さっき降りた車が隣に横付けした。

「今宮神社なら左久良橋の方が近いよ」
その人はそう言った。遠くも歩くつもりだった。でもその行為が嬉しくて、二人は又車に乗った。

「もしかしたら川瀬祭りの橋?」
陽子が聞く。

「あれは確か……武之鼻橋だったかな?」
翼が答える。二人がそんなたわいもない会話をしていると、目的地にすぐに着いてしまった。本当はもう少しだけ、楽しみたかったのに。

 その後二人は、今宮神社方面に向かった。神社には喪中で入れない。そのことは承知していた。それでも、陽子に御神木を見せたかったのだ。清雲寺の枝垂れ桜のお礼のつもりだった。それにしても秩父には大樹が多い。それだけ歴史があるのだろう。翼はそう思った。だからなおのこと、陽射しを浴びてもっと大きく育ちたかったのだ。そして何時か、陽子の愛と言う木漏れ日の下で子供を育てたいと思った。

「もうちょっとだから」
翼は声をかけた。でもその近くにある秩父札所十四番・今宮坊の前で陽子は動けなくなった。コミネモミジにも劣らない幹の大樹が、塀の角にそびえ立っていたからだった。

「凄い木ね」

「本当だ」
翼も動けなくなった。二人は細い路地で立ち尽くしいた。今宮坊と今宮神社は同じ敷地内にあったそうだ。それが二つに分かれた。
それぞれに駒つなぎの欅がある。神社の鳥居は潜れないけどここから入れる。そう思った陽子は翼の手を引いて階段を登り始めた。

 今宮坊の駒つなぎの欅の近くに行ってみる。角地にしっかりと根を下ろした欅は荘厳だった。その下には聖徳太子の像があった。

「何だか可愛いね」
翼に声を掛けたのに、返事がなかった。陽子は慌てて翼を探すために目を向けた。翼は陽子とは反対の場所にいた。

 「何かあるの?」
そう言いながら近付いて、視線の先に目をやった。翼の見ていたのは無縁仏の墓のようだった。

「コミネモミジのお寺は涅槃像だったけど、此処は何だか寂しいね」

「でも雪柳が見守ってくれている……」
翼はそう言いながら泣いていた。

「僕は今まで、この無縁仏のような存在だった。だけど今は違う。陽子が居る。お義母さんが居る。この雪柳のような暖かい、春のような……」

「ありがとう翼。そうね、お母さんは確かに春のような人だね」

「ねえ陽子、雪柳の花言葉って知ってる?」

「うん、確か花言葉は殊勝だったね。けなげで感心と言う意味だったかな?」

「もう一つの花言葉は愛嬌だったね。これはお義母さんだよね」
翼はそう言いながらもなお、雪柳の花を眺めながら泣いていた。節子、純子、陽子。春のような女性達に包まれながら生きていかれる幸せに酔いながら。

 八大龍王院今宮神社。
駒つなぎの欅が見える。

「凄いね、此処も」

「だろ?」
敷地内には入らず、西側の道路脇で手を合わせる。

「まさか、秩父のメイン通りから少し入った所にこんな静かな神社があったなんて……」
陽子は感慨深くこの大樹を見つめていた。

「陽子、それとコッチ」
翼は陽子の手を取り、南側に回った。其処は龍神池だった。ひっそりと静まり返った池に、斜めに噴き出す水。そしてゆったり泳ぐ錦鯉。池には鳥居に続く赤い橋がかかっていた。

「だから、あの橋を歩いたの?」
その言葉は……少し震えていた。翼は陽子が、赤い橋に思い出があることを知らない。でも、そっと手を繋いだ。此処に来た本当にの目的。それは龍神水を見るためだった。孝がコーヒーのためにこだわっていると言う水の在りかを……。
でも駒つなぎの欅からも、龍神池の傍にある赤い橋の先にも、それらしい物は確認出来なかったのだ。

「お祖父ちゃんの喪が開けないと鳥居は潜れないからあの巴橋を渡ろうと思ったんだ」
翼はそう言いながらも、ずっと龍神池に架かる橋の先を見つめていた。
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