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【第二章】耳川合戦1
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「ついに宗麟めは動きだしおったか!」
佐嘉城で龍造寺隆信は、大友軍が大軍をもって日向に侵攻したという報に、かすかに興奮の色をうかべた。隆信はちょうど、火縄銃の試し撃ちを試みようとしていたところだった。
「恐れながら、今が時ではござりますまいか?」
と口を開いたのは、龍造寺家四天王の一人円城寺信胤だった。
「背後から大友を襲えば、これを打倒する機会にござる」
元亀元年(一五七〇)の今山合戦には、かろうじて勝利したとはいえ、龍造寺はいまだ圧倒的な力を持つ大友方への半隷属状態が続いていた。
「無用なことじゃ」
隆信は意外にもあっさりと信胤の案を却下した。
「これはしたり、殿が平静申されるがごとく分別も久しゅうすれば、ねまるだけでござる。この機会に立つべきではござりますまいか?」
ねまるとは肥前地方の方言で、腐るという意味である。すなわち事にあたっての決断こそ肝要、とでもいうべき意味であろうか。
「信生そなたはどう思う?」
隆信はあいかわらず銃の手入れをしながら、かたわらの鍋島信生のほうを見た。
信生は鼻が異様に大きい。そして両眼に癖があり、常に刮っと見開いているかのようである。
この人物は、天性の勝負師としての感を持って生まれた人物である。後年本能寺の変直後、まだ織田家の一武将にすぎない秀吉の天下を、九州の僻地にあって誰よりも早く予見するほど、その洞察は深い。また関ヶ原においては嫡子の勝茂を西軍に加担させながら、自らは家康寄りの姿勢を示す。すなわちいずれが勝利しようと、鍋島の家を残すという算段である。
「恐れながら、この戦兵の数においては大友宗麟有利といえど島津は侮れません。あれいは泥沼になるやも、双方共に傷ついた時こそ我等動くべきかと」
と進言したのは、この人物一流の嗅覚からだった。
「いかにも、最良の時待つは、ねまるまで動かぬとは意味が違うぞ」
そういうと隆信は立ち上がり庭に出た。火縄に着火すると銃を構え、その巨大すぎる眼光で射的を凝視する。轟音とともに射的は粉々に砕け散った。硝煙の匂いがあたりに漂った。
この頃、中国の毛利輝元の使者として五戒坊という者が、島津義久宛ての密書を持って薩摩にいた。密書の差出人は、天正元年(一五七三)に織田信長により京を追われた足利義昭である。
『私は毛利輝元等と都に戻ろうとしている。諸国の武将は名誉のために呼応した。ただ大友が毛利の背面をつくことを心配している。まず来年春に防長から、豊後、豊前、筑前、筑後に攻め込もうと計画している。これを助けて欲しい』
密書の内容はおよそこのようなものだった。
織田信長は天正四年(一五七六)には近江に安土城を築き、天下統一への布石を着々と築きつつあった。当面最大の敵は中国筋の毛利輝元であり、毛利輝元も足利義昭を奉じて上洛を志していた。その毛利輝元にとっての気がかりはやはり、九州の大友宗麟だったのである。いわばこの密書には、島津の力をもってしても大友に関門海峡を渡らせまいという、毛利の意図がうかがえるのである。
大友宗麟は、臼杵から船に乗りかえていた。船には白緞子に真紅の十字架を染め、金糸の刺繍をした大旗を立て、さらに多くの十字架の旗がかかげられていた。まさに聖地奪還に赴く十字軍のようである。
一方陸路を進む軍勢は、思わぬ兵糧不足に苦しんでいた。日向は土地面積に対する生産力が低く、生産地帯は南に偏在する平野部を除くと、点在する小盆地と沿岸部にかたよっており現地調達は不可能だった。沿岸部意外での作戦は、兵站上の大きな負担を覚悟する必要があったのである。このような地勢に大軍を投入した結果、九月から十一月にかけて、大友軍はほとんど抵抗を受けなかったにも関わらず進軍はしばしば停滞した。
この間島津勢は、日向国内で伊東氏残党の蜂起に苦しみ、島津義久もまた大軍を投入する余裕がなかった。島津勢劣勢のこの期間、兵站上の問題からくる行軍の遅延は、大友勢にとって致命的ともいえた。九月中旬、島津勢はまだ石ノ城攻略に手間どっていたのである。
「見ろ城だ! 城が出現したぞ!」
九月十七日未明、石ノ城将兵達は、新納岳の麓に突如として出現した城(砦)に驚きの声をあげた。島津軍の大将島津征久の策略だった。
島津征久はさらに、石ノ城の絶壁の下に足場を作って石ノ城攻略を開始した。だが石ノ城城兵達の士気は相変わらず高く、弓、鉄砲を激しく放ち一歩も退こうとしない。
「こげな城一つ落とすのに手間取っているわけにはいかん。よし付近の山から大木を伐採し運ばせ、石ノ城の下の川へ沈めて浮き橋を作らせよ。これで兵の往来に苦しむことはなか」
こうして島津方の将伊集院忠棟の策により、大軍の往来が自由になった島津兵は、凄まじい弓、鉄砲を嵐のように城に放った。その有様はさながら、雹ひょうが降っているかのごとく、あれいは雷雨のようであった(佐土原藩譜)。
こうして、城への包囲網がじわじわと縮められつつある最中のことであった。
「右馬頭様(島津征久のこと)、一大事にござりまする」
「どうした! 敵にないごつか動きでもあったか」
不意に物見がかけこんできて、大将の征久になにごとかを告げた。
「将兵達がざわめく中、石ノ城の方角に目をこらし、征久は思わず驚嘆の声をあげた。島津方からよく見える場所に突如として出現したのは、島津右馬頭と大書され鎧を着せられた人形だった。
「あいはおい達に対する挑発に違いなか。備後よどげんしたらよかか?」
と征久は側近の前田備後に問うた。
「恐れながら、あれは我等に弓を射よと敵が申しているのでごわす。ならば見事弓で射ぬいてみせるのが礼儀ごわんと」
島津征久は了承し、石ノ城の搦め手口の方角から馬に乗って、矢が十分届くところまで石ノ城に近づいた。馬上の島津征久は弓の弦を口にくわえて、片手で矢を、片手で手綱を持っていた。そして馬上で、矢の羽根が大きすぎるのを小刀を使って短く切りそろえた。準備が整うと、弓を十分に引き絞り狙いを定めて人形を射た。放たれた矢は見事に人形を貫いた。同時に島津方から大歓声があがった。
「見よ! あいは征久公が敵を破って石ノ城を落とす前兆に違いなか!」
この前田備後の一言に島津全軍が勇み立った。島津勢の総攻撃が開始されたのは、それから間もなくだった。城内からはもちろん、弓、鉄砲が激しく撃ちかけられる。だが島津勢はそれをものともせず、鉄砲を構えたままの姿勢で石ノ城の真下の断崖の下に殺到した。断崖の下にたどり着いた兵卒、諸将は、血気にはやる若い兵らと手を取り合いながら、はるか上の石ノ城へと続く断崖絶壁をよじ登り始めた。
彼らは断崖をよじ登るため、いつもはわき腹の辺りにさげている刀を、邪魔にならない腰のあたりまで回した。足は爪先立ちになりながら、ツタやカズラにしがみつき、岩の出っ張りに手を掛け何とか石ノ城の塀際まで登って行った。
石ノ城の塀までたどり着いた島津兵のなかには、塀の銃眼から、島津勢を撃とうとして銃身を覗かせている鉄砲を手で奪い取る者もいた。また塀を乗り超えて城内に乗り込み、城兵と渡り合い刺し違えて死ぬ者もいたし、城兵の首を取る者ありと、島津勢は入れ替わり立ち代り猛烈に攻めつづけた。城はついに陥落し、伊東勢の反島津の重要な拠点の一つは失われることとなった。
高城(宮崎県児湯郡木城町)は、日向の宮崎平野へ進出する重要拠点である。天正六年十月二十日大友勢の先陣三万騎あまりは高城城下に迫り、近隣の民家に火を放ち高城を大軍でとり囲んだ。
高城の本丸は東、南、北は高さ二十メートル近い斜面に守られており、唯一地続きの西側の尾根には、数メートルの深さのV字型の空堀が七本も掘り込まれている。高城の本丸を守る東、南、北の斜面の下は、木で組んだバリケートのような障害物がぐるりと並べられており、更にその三百メートルほど外側の平原は外垣で囲まれていた。
この城を攻める大友方の総大将は田原紹忍。これに佐伯惟教、田北鎮周等、早々たる顔ぶれが従った。一方高城の主は、島津家中で勇将の誉れ高い山田有信。これに佐土原城主の島津家久が援軍として参加していた。大友の大軍を間のあたりにした山田有信は、ただちに救援を求める使者を薩摩の島津義久のもとへ派遣する。大友軍の総攻撃は翌二十一日のことだった。
大友勢の猛攻はすさまじく、高城城下の囲いはたちまちのうちに破壊される。周囲は広々とした平原と化し、高城は裸城と化してしまった。
「鉄砲隊進め!」
その日の正午過ぎ、大友勢の新手の部隊が高城に攻めかかった。数千丁の鉄砲隊が、高城城下の平原から台地の上に立つ高城に向けて一斉射撃を開始した。
しかし大友勢の鉄砲は、下の平原から台地の上を狙って撃ち上げる形になるために、台地の上で伏せて隠れる島津の兵にはまったく当たらない。反対に高城の城兵は、高城城下近くまで大友勢を引き寄せて、狙い済ました鉄砲の射撃を加え続けた。そのため大友勢は、無駄に死傷者を出すこととなった。
「ええい何をもたついておる! 国崩を用意せよ!」
田原紹忍は、ついにあの南蛮渡来の国崩砲の砲撃準備を命じた。その威力は、勇猛をもって知られる島津兵をも戦慄させるのに十分だった。轟音と着弾の衝撃は高城の大地を震わせ、高城本丸部分の櫓の下の空堀を破壊した。また高城内の倉を貫通して破壊し、そのまま榎の大木に激突した弾丸もあった。
だが国崩の威力をもってしても、山田有信と島津家久のもと、島津兵の士気は衰えなかった。このころ国許にあって島津義久は、大友宗麟との決戦を覚悟し、盟書を北郷時久に与え起請文を書き神仏に大友勢の撃退を誓っていた。戦国九州の覇権を決する戦いが近づいていた。
佐嘉城で龍造寺隆信は、大友軍が大軍をもって日向に侵攻したという報に、かすかに興奮の色をうかべた。隆信はちょうど、火縄銃の試し撃ちを試みようとしていたところだった。
「恐れながら、今が時ではござりますまいか?」
と口を開いたのは、龍造寺家四天王の一人円城寺信胤だった。
「背後から大友を襲えば、これを打倒する機会にござる」
元亀元年(一五七〇)の今山合戦には、かろうじて勝利したとはいえ、龍造寺はいまだ圧倒的な力を持つ大友方への半隷属状態が続いていた。
「無用なことじゃ」
隆信は意外にもあっさりと信胤の案を却下した。
「これはしたり、殿が平静申されるがごとく分別も久しゅうすれば、ねまるだけでござる。この機会に立つべきではござりますまいか?」
ねまるとは肥前地方の方言で、腐るという意味である。すなわち事にあたっての決断こそ肝要、とでもいうべき意味であろうか。
「信生そなたはどう思う?」
隆信はあいかわらず銃の手入れをしながら、かたわらの鍋島信生のほうを見た。
信生は鼻が異様に大きい。そして両眼に癖があり、常に刮っと見開いているかのようである。
この人物は、天性の勝負師としての感を持って生まれた人物である。後年本能寺の変直後、まだ織田家の一武将にすぎない秀吉の天下を、九州の僻地にあって誰よりも早く予見するほど、その洞察は深い。また関ヶ原においては嫡子の勝茂を西軍に加担させながら、自らは家康寄りの姿勢を示す。すなわちいずれが勝利しようと、鍋島の家を残すという算段である。
「恐れながら、この戦兵の数においては大友宗麟有利といえど島津は侮れません。あれいは泥沼になるやも、双方共に傷ついた時こそ我等動くべきかと」
と進言したのは、この人物一流の嗅覚からだった。
「いかにも、最良の時待つは、ねまるまで動かぬとは意味が違うぞ」
そういうと隆信は立ち上がり庭に出た。火縄に着火すると銃を構え、その巨大すぎる眼光で射的を凝視する。轟音とともに射的は粉々に砕け散った。硝煙の匂いがあたりに漂った。
この頃、中国の毛利輝元の使者として五戒坊という者が、島津義久宛ての密書を持って薩摩にいた。密書の差出人は、天正元年(一五七三)に織田信長により京を追われた足利義昭である。
『私は毛利輝元等と都に戻ろうとしている。諸国の武将は名誉のために呼応した。ただ大友が毛利の背面をつくことを心配している。まず来年春に防長から、豊後、豊前、筑前、筑後に攻め込もうと計画している。これを助けて欲しい』
密書の内容はおよそこのようなものだった。
織田信長は天正四年(一五七六)には近江に安土城を築き、天下統一への布石を着々と築きつつあった。当面最大の敵は中国筋の毛利輝元であり、毛利輝元も足利義昭を奉じて上洛を志していた。その毛利輝元にとっての気がかりはやはり、九州の大友宗麟だったのである。いわばこの密書には、島津の力をもってしても大友に関門海峡を渡らせまいという、毛利の意図がうかがえるのである。
大友宗麟は、臼杵から船に乗りかえていた。船には白緞子に真紅の十字架を染め、金糸の刺繍をした大旗を立て、さらに多くの十字架の旗がかかげられていた。まさに聖地奪還に赴く十字軍のようである。
一方陸路を進む軍勢は、思わぬ兵糧不足に苦しんでいた。日向は土地面積に対する生産力が低く、生産地帯は南に偏在する平野部を除くと、点在する小盆地と沿岸部にかたよっており現地調達は不可能だった。沿岸部意外での作戦は、兵站上の大きな負担を覚悟する必要があったのである。このような地勢に大軍を投入した結果、九月から十一月にかけて、大友軍はほとんど抵抗を受けなかったにも関わらず進軍はしばしば停滞した。
この間島津勢は、日向国内で伊東氏残党の蜂起に苦しみ、島津義久もまた大軍を投入する余裕がなかった。島津勢劣勢のこの期間、兵站上の問題からくる行軍の遅延は、大友勢にとって致命的ともいえた。九月中旬、島津勢はまだ石ノ城攻略に手間どっていたのである。
「見ろ城だ! 城が出現したぞ!」
九月十七日未明、石ノ城将兵達は、新納岳の麓に突如として出現した城(砦)に驚きの声をあげた。島津軍の大将島津征久の策略だった。
島津征久はさらに、石ノ城の絶壁の下に足場を作って石ノ城攻略を開始した。だが石ノ城城兵達の士気は相変わらず高く、弓、鉄砲を激しく放ち一歩も退こうとしない。
「こげな城一つ落とすのに手間取っているわけにはいかん。よし付近の山から大木を伐採し運ばせ、石ノ城の下の川へ沈めて浮き橋を作らせよ。これで兵の往来に苦しむことはなか」
こうして島津方の将伊集院忠棟の策により、大軍の往来が自由になった島津兵は、凄まじい弓、鉄砲を嵐のように城に放った。その有様はさながら、雹ひょうが降っているかのごとく、あれいは雷雨のようであった(佐土原藩譜)。
こうして、城への包囲網がじわじわと縮められつつある最中のことであった。
「右馬頭様(島津征久のこと)、一大事にござりまする」
「どうした! 敵にないごつか動きでもあったか」
不意に物見がかけこんできて、大将の征久になにごとかを告げた。
「将兵達がざわめく中、石ノ城の方角に目をこらし、征久は思わず驚嘆の声をあげた。島津方からよく見える場所に突如として出現したのは、島津右馬頭と大書され鎧を着せられた人形だった。
「あいはおい達に対する挑発に違いなか。備後よどげんしたらよかか?」
と征久は側近の前田備後に問うた。
「恐れながら、あれは我等に弓を射よと敵が申しているのでごわす。ならば見事弓で射ぬいてみせるのが礼儀ごわんと」
島津征久は了承し、石ノ城の搦め手口の方角から馬に乗って、矢が十分届くところまで石ノ城に近づいた。馬上の島津征久は弓の弦を口にくわえて、片手で矢を、片手で手綱を持っていた。そして馬上で、矢の羽根が大きすぎるのを小刀を使って短く切りそろえた。準備が整うと、弓を十分に引き絞り狙いを定めて人形を射た。放たれた矢は見事に人形を貫いた。同時に島津方から大歓声があがった。
「見よ! あいは征久公が敵を破って石ノ城を落とす前兆に違いなか!」
この前田備後の一言に島津全軍が勇み立った。島津勢の総攻撃が開始されたのは、それから間もなくだった。城内からはもちろん、弓、鉄砲が激しく撃ちかけられる。だが島津勢はそれをものともせず、鉄砲を構えたままの姿勢で石ノ城の真下の断崖の下に殺到した。断崖の下にたどり着いた兵卒、諸将は、血気にはやる若い兵らと手を取り合いながら、はるか上の石ノ城へと続く断崖絶壁をよじ登り始めた。
彼らは断崖をよじ登るため、いつもはわき腹の辺りにさげている刀を、邪魔にならない腰のあたりまで回した。足は爪先立ちになりながら、ツタやカズラにしがみつき、岩の出っ張りに手を掛け何とか石ノ城の塀際まで登って行った。
石ノ城の塀までたどり着いた島津兵のなかには、塀の銃眼から、島津勢を撃とうとして銃身を覗かせている鉄砲を手で奪い取る者もいた。また塀を乗り超えて城内に乗り込み、城兵と渡り合い刺し違えて死ぬ者もいたし、城兵の首を取る者ありと、島津勢は入れ替わり立ち代り猛烈に攻めつづけた。城はついに陥落し、伊東勢の反島津の重要な拠点の一つは失われることとなった。
高城(宮崎県児湯郡木城町)は、日向の宮崎平野へ進出する重要拠点である。天正六年十月二十日大友勢の先陣三万騎あまりは高城城下に迫り、近隣の民家に火を放ち高城を大軍でとり囲んだ。
高城の本丸は東、南、北は高さ二十メートル近い斜面に守られており、唯一地続きの西側の尾根には、数メートルの深さのV字型の空堀が七本も掘り込まれている。高城の本丸を守る東、南、北の斜面の下は、木で組んだバリケートのような障害物がぐるりと並べられており、更にその三百メートルほど外側の平原は外垣で囲まれていた。
この城を攻める大友方の総大将は田原紹忍。これに佐伯惟教、田北鎮周等、早々たる顔ぶれが従った。一方高城の主は、島津家中で勇将の誉れ高い山田有信。これに佐土原城主の島津家久が援軍として参加していた。大友の大軍を間のあたりにした山田有信は、ただちに救援を求める使者を薩摩の島津義久のもとへ派遣する。大友軍の総攻撃は翌二十一日のことだった。
大友勢の猛攻はすさまじく、高城城下の囲いはたちまちのうちに破壊される。周囲は広々とした平原と化し、高城は裸城と化してしまった。
「鉄砲隊進め!」
その日の正午過ぎ、大友勢の新手の部隊が高城に攻めかかった。数千丁の鉄砲隊が、高城城下の平原から台地の上に立つ高城に向けて一斉射撃を開始した。
しかし大友勢の鉄砲は、下の平原から台地の上を狙って撃ち上げる形になるために、台地の上で伏せて隠れる島津の兵にはまったく当たらない。反対に高城の城兵は、高城城下近くまで大友勢を引き寄せて、狙い済ました鉄砲の射撃を加え続けた。そのため大友勢は、無駄に死傷者を出すこととなった。
「ええい何をもたついておる! 国崩を用意せよ!」
田原紹忍は、ついにあの南蛮渡来の国崩砲の砲撃準備を命じた。その威力は、勇猛をもって知られる島津兵をも戦慄させるのに十分だった。轟音と着弾の衝撃は高城の大地を震わせ、高城本丸部分の櫓の下の空堀を破壊した。また高城内の倉を貫通して破壊し、そのまま榎の大木に激突した弾丸もあった。
だが国崩の威力をもってしても、山田有信と島津家久のもと、島津兵の士気は衰えなかった。このころ国許にあって島津義久は、大友宗麟との決戦を覚悟し、盟書を北郷時久に与え起請文を書き神仏に大友勢の撃退を誓っていた。戦国九州の覇権を決する戦いが近づいていた。
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