戦国九州三国志

谷鋭二

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【第二章】高橋紹運の覚悟

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 立花宗茂は立花城でいらだっていた。島津勢は途中秋月種実等、反大友の諸将を糾合して五万にまでふくれあがり、筑紫広門の籠る肥前勝尾城を攻撃していた。島津の大軍を前に、数日と持たないことは明らかだった。筑紫が降れば、もはや反島津の拠点は宝満城と立花城、それに宝満城の支城岩屋城のみとなる。

  
  岩屋城を守るのは、実父高橋紹運と配下の兵わずか七百ほど、寄せてくる島津の大軍を防ぐのは不可能に近い。戦略上、岩屋城を放棄し宝満城に移るか、もしくは立花城で共に関白秀吉の軍勢が来襲するまで、島津を防ぐのが上策なのである。
 「まだ使者は戻らんのか!」
  岩屋城の実父のもとに赴かせた使者が遅いことに、宗茂は思わず声を荒くした。
 「恐れながら、たったさっき戻りましてござりまする……」
  家老薦野増時は、しばし言葉をつぐんだ。
 「何じゃ? はっきり申せ!」
 「紹運様におかれましては、岩屋城を動く気はないと、そうおおせられたとのこと」
 「馬鹿な! 父は正気か、本気で岩屋のごとき小城で島津軍を迎えうつ気でおるのか?」
 「恐れながら、父上様におかれましては死はすでに覚悟の上かと……」
  普段快活な宗茂であったが、瞬時表情を硬くした。天は義父道雪に続き、実の父までも自ら奪い去ろうとしているのか……。

  
  島津勢は大軍をもって勝尾城に押し寄せていた。勝尾城は標高四九八メートルの山頂に築かれた、堅固な山城であるが、島津の勢いには敵しようもない。たちまちのうちに城戸口が破られ、島津兵が城内に乱入しようとした時である。
 「我こそは筑紫晴門なり! 島津方に我と一騎打ちに及ぶ勇者はおらんか?」
  筑紫晴門は、筑紫広門の嫡子で十七歳。凛としたその声音に、島津方の陣は瞬時どよめいた。
  かって鎌倉の頃、日本の合戦形態は一騎打ちによる個人戦に重点を置いていた。いかにして敵を大量に殺すかという、中国大陸や西欧における合戦とは思想が根本から異なっていた。それが戦国時代になると鉄砲の出現により、ようやく集団対集団という合戦形態が、狭い島国にも定着しようとしていた。だが九州のみは、かって蒙古の部隊に一騎打ちを所望し、敵の心胆を寒からしめた鎌倉武士の士風が、いまだ生きていた。


 「拙者がお相手いたす!」
  晴門の挑戦に応じたのは、沖田畷で龍造寺隆信の首を討ち取った、あの川上忠堅だった。
 「ほう、あの龍造寺山城守を討ち取った勇者か相手に不足はない」
  晴門は全身に殺気をみなぎらせ、素早く槍をふりかざし忠堅に襲いかかる。晴門の槍を間一髪でかわした忠堅は、同じく槍をふりかざし渡りあうこと数合。やがて両者は馬の上で組み合い、急斜面を転がっていく。
 両者は転落するところまで転落すると、互いに離れ、相手の様子をうかがう。回転の衝撃で忠堅の意識はやや朦朧としていた。
 「覚悟!」
  晴門の槍は、忠堅の右の胸を深くえぐる。地に伏した忠堅、忠堅の死を確認しようと晴門が近寄った時だった。突如として起き上がった忠堅の槍が、晴門の心臓を貫いた。致命傷の一撃だった。だが直後、忠堅もまた血を吐いて倒れる。川上忠堅享年二十九歳。相打ちである。

 
「忠堅の死を無駄にするな!」
  固唾を飲んで一騎打ちを見守っていた島津軍将兵は、怒涛のように城に迫る。結局城は三日と持たなかった。かっての盟友秋月種実のすすめにより筑紫広門は島津方に降った。七月十日のことである。広門は捕虜となり三潴郡大善寺に幽閉される。
  勝尾城を落城させた島津方は、ついに高橋紹運の籠もる岩屋城へ殺到することとなるのである。

 
「ならぬといったらならぬ!」
 「そこを伏してお願いたてまつる。宗茂様は、みすみす父である貴方様を死なせたくはござりません」
  岩屋城では宗茂の臣十時摂津による、必死の説得が続いていた。だが紹運の意思は固い。
 「わしと宗茂はもはや親子ではないと、あの時申したはずじゃ。それに今は肉親の情よりも大事なものがあるはず。そうしかと宗茂に申し伝えよ」
 「お別れにござりまするか……」
  紹運は、かすかに唇を震わせた。
 「宗茂に伝えよ。わしと道雪殿、二人の死を無駄にするなと。島津の軍勢いかほどであろうと必ず生きろとな」
  十時摂津は紹運を説得することができず、断腸の思いで岩屋城を後にした。

  
  やがて、秀吉の命により豊前小倉で九州の情勢を見守っていた黒田孝高の臣で、小林新兵衛という者が岩屋城を訪れた。新兵衛は主孝高の命により、十時摂津同様、紹運に立花城に移るよう説得をこころみた。だがここでも紹運は頑なに応じない。ついには関白秀吉の命であるとまでいったが紹運は応じなかった。その心に打たれた新兵衛は、自らも岩屋城に籠城し共に戦いたいと申し出たが、紹運に説得され城を去った。


 「誠に惜しいことよのう……」
  黒田孝高この時四十一歳、孝高はさる不幸な事件により片足が不自由だった。常に秀吉の影のごとく生き、乱世を欲得と打算のみで生きてきた孝高は、戦国の末世に奇妙なほど清々しいものを見る思いがした。
 「恐らく死は免れまいて……」
  孝高は思わず筑前の方角を向いて、手を合わせるのだった。

  
  ついに七月十二日、島津忠長と伊集院忠棟に率いられた五万の軍勢が、岩屋城を取り囲んだ。だが岩屋城から伝わってくる異様な殺気に、ただならぬ戦になることを読んだ両将は、兵の損耗をさけるべく、ひとまず快心和尚という者をつかわし、紹運に開城を勧告することとした。
  学識とともに弁舌にも自信のある快心和尚であったが、紹運の説得は困難な仕事であった。

 
「ここはよくよくお考えあれ、こなたがそこまでして守らねばなるぬ大友家とは、一体いかなるものか。かっての主宗麟殿は、耳川合戦のおりも礼拝堂にこもり、多くの将が死んでいく中にあっても、ついに戦場にすら姿を現さなかったではごわはんか。今の主義統殿は宗麟殿以上に暗君。島津が手を降さずとも、滅びの道を歩むは必定ではごわはんか?」
 「わしは大友家を守るためにのみ戦っているのではない。それに大友家が滅びの道歩むも定めなら、わしがここで死ぬも定め」
 「まっこて、そげな定めで満足でごわすか……」
  そこまでいうと、快心和尚は不意に数珠を持った手を震わせ落涙した。

  
   結局、快心和尚は岩屋城を無血開城させることはできなかった。
  七月十三日未明、岩屋城周辺の詳細な絵図面に、念入りに見入っていた伊集院忠棟は、やがて刀をぬき岩屋城本丸に刃を立てた。
 「万事やむをえず!」
  ついに両将は岩屋城の力攻めを決意した。島津勢五万対岩屋城城兵七百の戦いが始まろうとしていた。
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