残影の艦隊~蝦夷共和国の理想と銀の道

谷鋭二

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【第二章】旅立ち(一)

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(一) 

 さて長崎から戻ってきたのちの榎本釜次郎は、安政五年(一八五八)六月に幕府軍艦操練所教授に任命された。二十二歳にして正式に幕臣として仕官したわけである。

 しかし安政の大獄、桜田門外の変そして公武合体へと、幕府による支配は次第に揺らいでいく。国外の情勢も緊迫していた。
 アロー戦争はついに終結した。中国・清朝は事実上イギリス、フランスに屈服したのである。多額の賠償金に北京条約による九竜半島などの割譲。一歩誤れば日本も清国の二の舞になる。幕閣の間にも次第に危機感が強くなっていった。
 幕府では万延元年に勝海舟、福沢諭吉等をアメリカに使節として派遣している。さらに文久元年(一八六一)十一月にはアメリカに蒸気船三隻を発注する。そして新たに幕臣を中心に人を選び、アメリカに留学させる計画が持ち上がった。そして榎本釜次郎に白羽の矢が立ったのである。
 しかしこの留学の話は、アメリカで勃発した南北戦争の影響により消滅してしまった。代わりに榎本達の留学先として選ばれたのがオランダである。


 榎本たち留学生が、ついに品川沖を出港したのは文久二年(一八六二)の六月十八日のことである。主要なメンバーは後に榎本と共に箱館戦争を戦うことになる沢太郎左衛門、長崎海軍伝習所で共に学んだ赤松則良、田口俊平などであった。
 まず一行は長崎までは、あの勝海舟や福沢諭吉とアメリカまで旅をした咸臨丸で行くこととなった。そこからカリプソ号というオランダの小型の商船に乗りかえて、オランダ領東インドのバタビア(現在のインドネシアの首都ジャカルタ)まで行くこととなるのである。
 わずか十一人乗りの小さな船が日本から遠ざかっていく。その時榎本や他の留学生たちがいかな感慨をおぼえたか? それを物語る資料はとぼしい。この時代、造船技術は日進月歩で進んでいたとはいえ当時の技術では、やはり命がけの旅であることに変わりない。


 苦難の旅であったといわれる。すでに外洋に出る以前に榎本、沢、赤松などは麻疹に感染して下田での療養を余儀なくされている。そのため日程は大幅に遅れたが、長崎以後も災難の連続だった。
 まず一行の多くをおそったのが船酔いである。さらに船内での洋食にも慣れるのに日数が必要だった。さらに東シナ海から南シナ海へと、南下するほどに日本では経験したことのない暑さが一行を苦しめた。
 そして長崎を出航してから二十五日目、十月六日に事件はおこった。カリプソ号がジャワ島バタビアの真北三百キロのバンカ島の沖合で、浅瀬で船底を岩礁にぶつけて動けなくなってしまったのである。
 結局一行は船を放棄し、島で近海を通る船の助けを待つより他なかった。当時その周辺の海域には海賊も出没し危険極まりない。しかし幸運にして、一行はオランダの蒸気式軍艦ギニー号によって救助された。ようやく助けだされた時、榎本たちは物乞いのような体であったといわれる……。


(二)


 ようやく榎本たちがバタビアに到達したのは、十月十八日のことである。
 バタビア及び今日のインドネシアの領土のほとんどは、この時代オランダの植民地支配のもとにあった。陸地が近づくにつれ、その象徴ともいうべき要塞バタビア城が、夕日をあびながらゆっくりと榎本たちの前に迫ってくる。



 ざっとバタビアの歴史について説明したいと思う。十二世紀から十六世紀にはパジャラン王国という国家が存在したという。この王国は周辺の島国やインドとの交易で栄えていたといわれる。
 一五九六年、オランダの船団がスンダ海峡に面したジャワ島西北岸のバンデン港に到達する。オランダ人はマダガスカルからインド洋をこえジャワに至る新航路に、強い関心を持つようになる。一六〇二にはオランダはバンテンに商館を設置。これがオランダ東インド会社の始まりである。
 この年は、ちょうど日本の江戸幕府設立と重なっていて興味深い。ここから同じ島国でありながら、今日のインドネシアと日本はまるで別の道を歩み始める。
 一六一九年にオランダ東インド会社すなわちVOCは、はじめてバタビアに拠点を移す。ポルトガルとの貿易の利権をめぐる争いにも勝利し、ほとんど香料貿易による利益を独占する。十七世紀後半からはジャワ島内陸部へと進出。コーヒなどの輸出によっても高い利益をあげた。
 VOCは、ジャワ島及び周辺の島々の王国の争いにしばしば介入した。そうして各王国を衰退させ、または属国化するなどして勢力を拡張する。しかしそのための戦費は莫大なものとなった。また会社自体の放漫経営もあり一七九九年ついに会社としての歴史に幕を閉じることとなる。VOCの支配した領土も財産もことごとくオランダ本国が引き継ぎ、この時代に至っているという。



 さて、ようやくバタビアに上陸した一行が宿泊したのはオテル・デザントというフランス人経営のホテルだった。
 一行は天井からぶら下がるシャンデリアに驚き、西洋式のナイフとフォークを使った食事作法に困惑した。食事が終わった後にはホテルを一通り見て回る。特に一行は水を貯めた小さな池のようなもので人が泳いでいる光景に好奇の目をそそいだ。ちなみに日本最古のプールは、東北会津の藩校・日新館だったといわれる。
 ひととおり見学が終わった後には部屋に案内されるわけだが、なにしろホテルの人間が部屋の鍵を開ける光景からして、榎本達には魔法の仕掛けのように感じられる。
 榎本は沢太郎左衛門と同室だったが、筆ペン一本でさえ使用方法がわからない。さらに慣れないとトイレの使用方法でさえたいへんである。部屋にはガラス窓が張られており外の光景が見える。それだけでも、まるでおとぎの国にでも迷いこんだかのようである。
「おい釜さん、そういえばこの宿には飯盛女はおらんのかな?」
 太郎左衛門は不満そうにいった。当時の日本では、たいてい宿という宿に表向きは食事の世話係と称する、客の性接待のための売春婦がいた。もちろんバタビアにはそんなものはいない。
 さらに部屋のベットもまた榎本と太郎左衛門を困惑させた。夜遅く、榎本は二段ベットの上部から転落して腰をしたたかに打った。しかし大事にはいたらなかった。


 翌日、榎本は沢太郎左衛門と共に、初めて馬車に乗りバタビアの市街地を見学した。そこには日本ではお目にかかれない光景が広がっていた。
 まず目に映ったのが西欧式のコートを着たオランダ人である。彼らは平均して実に背が高かった。榎本はいつか隅田川のほとりで、勝海舟がいっていたことを思いだしていた。オランダ人はもともと背丈は低かったが、ニシンを食うようになってから西洋でも最も高くなったという。そういえば蝦夷に行った時も、松前藩の人間は江戸あたりの人間と比較して背丈が高かったような気がする。やはりニシンのせいであろうか?

 
 次に現地の人達である。その民族衣装は榎本たちの目を楽しませた。特に榎本もまだ若いので、どうしても女性の容姿やファッションに目がいく。インドネシア群島は高温多湿である。そのせいか女性の衣装は平均して露出度が高かった。それどころか十七世紀西欧人が初めてインドネシアを訪れた頃は、島によっては上半身裸の女性も珍しくなかったという。
 ジャワ辺りで民族衣装として欠かせないのが、クバヤという長袖のブラウスである。パティック(ろうけつ染め)の腰巻きを着用し、上半身はクバヤを着てスレンダン(肩掛け)をかけるのがジャワ女性の正装である。



 そしてグロドック地区といわれる界隈に行くとこれまた風景が一変する。そこは一見すると日本人と姿形がさして変わらない一種の中国人街である。靴店、雑貨店、漢方薬局などが所狭しと並んでおり、中国語の看板、そして中国人にとり商売の神でもある三国志の関羽像などが見てとれた。
 インドネシアの歴史に、俗にいう華僑が果たした役割は極めて大きい。基本的にインドネシアの現地人はあまり働かないが華僑はよく働く。商売上手で、農作業などでも実に役に立つ。そのためオランダ人にも重要視された。また徴税請負人としても華僑が果たした役割は大きかったようである。

 やがて時刻は正午を過ぎる頃である。榎本はまだあまり慣れていない腕時計を見た。今まで見たこともないような建物が密集する地点を通過する。
「おい釜さん、何をしているんだあれは?」
 釜次郎がのぞきこむと、人々がひざまずき地に頭をこすりつけている。イスラム教徒が聖地メッカの方角へ向かって祈りをささげていたのである。

 榎本はふと、江戸の日本橋あたりの光景がなつかしく思えた。そしてやはり強烈なカルチャーショックを覚えずにはいられなかった。
 さらに榎本たちはバタビアで病院、養育院、監獄、ガス工場、兵営などを見てあるいたといわれる。



「俺たちは、今まで一体何をやってきたのかな?」

 ホテルに戻ってから、榎本はベッドに腰かけながら同室の沢太郎左衛門にぼそりと語りはじめた。

「どういう意味だい釜さん?」

「いつか隅田川のほとりで勝さんがいっていたことを思い出してな……。日本は植民地支配を免れたが、その代償として今じゃ世界一遅れた国だってね」

 太郎左衛門は鏡に向かって髷を整えていたが、一瞬その手が止まった。

「西欧そして世界は休むことなく刻々と動き、進歩している。それに比べ俺たちの国は、俺たちはまるで浦島太郎だ」

「仕方ないだろ。その遅れを取り戻すために俺たちはここに来て、そして学んでいるんだろ」

 太郎は渋い顔でいった。

「しかしそれにしても……。遅い、いくらなんでも遅すぎはしないか! 少なくとも百年前には気づくべきだったんだ! 幕府は一体何をしてきたんだ」

「おい釜次郎! お前まさか幕政を批判するつもりか? いくらお前さんでもそれは許されないぞ。一体誰のおかげで禄をもらっている。誰のおかげでここへ来て学んでいる。すべて徳川あってのことじゃないのか」

 と榎本より二つ年上の太郎左衛門は厳しくいった。

「わかっている! わかっているがしかし……。あのガラス窓のむこうの風景を見てみろ!」

 そこにはガス灯が街を照らし、美しい夜景が広がっていた。

「あれが進んだ文明の証拠だ! 俺たちの国はこの時間真っ暗闇だぞ」

「釜次郎いいかげんにしろ。確かに幕府のやってきたことにも至らないこともあっただろう。しかしこの国はもちろんのこと多くの国が欧米の国々に支配される中、三百年も人々が平和に暮らせる世の中をつくったことも事実なんだ。とにかく俺たちは幕臣だ。たとえどんなことがあろうと幕府を支え続ける。それしか道はないんだ」
 榎本はうつむいた。確かにその通りなのかもしれない。しかし今の旧態依然たる幕藩体制で、この先も日本は無事でいられるだろうか? 榎本の疑念はバタビアを知れば知るほど深まることとなる。

 
 榎本はバタビアの農村も見学した。農村で特に目のついたのは高床式の家屋だった。バタビアでは洪水が多く発生するため身を守ることが最大の目的だという。また虫の害や猛獣から身を守るためでもあるらしい。また牛の角のような屋根をした奇怪な家屋もかいま見ることができた。
 ここではバタビアの切実な現実がかいま見えた。平均して農村は貧しく、いたるところで男女問わず物乞いの姿を見ることができた。榎本が調べたところによるとバタビアは決して貧しい土地ではない。なにしろ米を年に三度も収穫できるほどなのである。また鈴、ゴムなど天然資源も豊富だった。問題はオランダ人による植民地政策と搾取だった。
 特に一八二〇年から一八三〇年まではオランダは深刻な財政危機の時代だった。その損失補填のため、ジャワ周辺では悪名高い強制栽培制度が実施されることとなった。これは現地人に特に利益の大きい茶、煙草、さとうきび、コーヒーなどを強制的に栽培させ、植民政府が安い値段で独占的に買い上げるというものである。
 この制度により植民政府は莫大な利益をあげる一方、現地住民にとっては大変な負担となった。特にもともと稲作をおこなっていた土地で煙草などを栽培したため、飢饉になると餓死者が続出することとなったという。
 

 物乞いの中には、まだ幼い子供もふくまれていた。路上に横たわって動かない哀れな姿を見るにつけ、榎本は国が滅び他国による支配をうけるということの意味を、痛感せずにはいられなかった。
 どこかで似たような光景を見たような気がした。そう蝦夷地で、アイヌが和人による搾取と暴力を受けていた光景と似ている。所詮この世は力ある者が力なき者を滅ぼすだけなのか? 榎本の心に暗い影がさした。


(三)

 十一月三日、オランダの商船テルナール号で榎本たち一行はバタビアを後にすることとなった。この後はインド洋をぬけ喜望峰を経由して、大西洋の小さな島セントヘレナまでは一切陸地には立ち寄らないという。
 その間、距離にしておよそ一万三千キロほどもある。榎本たち留学生は最初はバタビアで覚えたトランプなどをやって気をまぎらわせていた。しかし、やがてそれすらも面倒になってきた。体調を壊して寝こむ者もいれば、昼間から酒浸りになる者もいた。留学生同士がいざこざをおこすこともあった。
 
 榎本は夜になると、バタビアで手にいれたビールを飲んで気をまぎらわすことが多かった。闇の中にただ深海だけが広がる光景、それがもう一か月あまりも続いている。さしもの榎本も多少鬱気味になっていた。気がつくと月だけがこの迷夢のような世界を照らしている。ふとバタビアで見た、ガス灯が夜の街をてらす光景が脳裏をよぎった。
「そうだ俺たちはなんとしても日本に戻り、そして闇の中に文明の明かりを灯さないといけないんだ!」
 ふと懐紙をとりだすと漢詩をさらさらと書きはじめた。



 弥月天涯 寸青を失う

 長風相送って 南溟に入る

 船頭一夜 過冷をいましむ

 気位漸く高し 十字星



 ちょうど正月が訪れる頃、船は東緯五十二度十二分、南緯二十八度二十八分、マダガスカル島の東南六百五十キロの地点に到達した。ここからアフリカ大陸の最南端喜望峰まであともう少しである。

「太郎さん夢のようだな! 俺たちはついにこの世の果てまで来たんだ」

 榎本は太郎左衛門にむかい少し紅潮した顔でいった。


 榎本が知るところによると喜望峰と命名したのはポルトガル人であるらしい。一四九七年にパスコ・ダ・ガマによりインド航路が開かれ、その後の世界史は一変することになる。しかし西欧人にとり「喜望峰」であっても、現地の人間にとり絶望の象徴のようなものであった。
 その後、喜望峰はオランダと遅れてきたイギリスとの争奪の舞台となる。そして現地のアフリカの民は奴隷となってゆくのである。
 アフリカの黒人奴隷をはるか新大陸、西インド諸島まで運び、そこからヨーロッパにタバコ、綿花、砂糖などを運んだ悪名高い三角貿易は有名である。特に綿花は世界の大英帝国にとり産業革命の基盤ともなった。


 善悪を論じればもちろん悪以外の何者でもない。しかし榎本は英国が、地上の果てのこんな地まで訪れて自国の繁栄のため、全世界規模の戦略を練っていることに恐れすら感じた。その間日本は、そして徳川幕府は何をしていたのか? 再び疑念が頭をもたげてくる。
 改めて榎本は、日本に文明の灯をともし列強に負けない国家にせねばと志を高くもつのだった。

























 

 























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