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【第三章】明治への道
死闘・箱根の険
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上野戦争の十日ほど前、八郎たち遊撃隊は富士山を北から南に大移動して沼津にいた。狩野川を隔てて香貫村・霊山寺に宿泊していた。
やがて上野で戦が始まったという情報が、八郎たちのもとにも届いてくる。遊撃隊隊長の人見勝太郎は血気にはやった。すぐにでも江戸に赴き彰義隊に加勢すべきと説く。しかし遊撃隊・第二軍率いる伊庭八郎、それに第四軍率いる林忠崇、他の将いずれもが反対する。だいたい軍勢を動かそうにも、ここ数日の大雨で眼下の狩野川が決壊し、それを許さなかったのである。
勝太郎は苛立った。そしてついにだれにも告げず、自ら率いる六十八名のみで大雨の狩野川を渡ってしまうのである。この時のことを後に勝太郎は次のように回想している。
「この日暴風雨、大木枝折れ、家屋倒れ、光景騒然たり。我が一軍、夜間集結し狩野川を渡る。濁水滔々あふれ、船子等、大水にて到底渡船かなわずとし、船を出さず。我、大喝して船を下ろせと厳命する。数十間の長き綱にて多数の人夫にて堤上二町(二百十八メートル)計り上流に引き上げ、号令とともに綱を断つ。五隻の船濁流に流されず舵を取る。北岸すなわち東海道の松並木に着岸する。無難に渡海せしことまさに天命なり」
朝になって他の遊撃隊の面々は勝太郎の独断専行を知り驚き、皆顔色を変えた。中には軍令違反を非難する者もいたが、軍議の後、他の部隊もことごとく川を渡ることと決した。
五月二十日、人見勝太郎率いる第一軍は、新政府からの通達により箱根の関所を固める小田原藩の吉野大炊介の部隊と遭遇。一刻(二時間)にもわたる「通せ! 通さん!」の押し問答のすえついに戦闘となった。
結局、兵力に劣る遊撃隊第一軍は敗退。やがて遊撃隊の他の部隊が追いついてきた。八郎は勝太郎の独断専行を叱責するも、やがて吉報がとどく。小田原藩が江戸での彰義隊大勝との誤報を信じて、遊撃隊との同盟を打診してきたのである。
小田原城は、その縄張り面積六万七千坪。箱根外輪山を西に背負い、東に相模湾をみおろす白亜の名城だった。本丸西側に三層五階の天守をもち、東側に二の丸、さらに外郭に七つの曲輪をもっていた。
「おい聞いたか八郎、この城は戦国の頃はもっと規模がでかくて、都市全体を城郭が覆っていたんだぜ。なにしろかの武田信玄公や上杉謙信公をもってしても落とせなかったらしいからな」
和平交渉のため小田原城をおとずれた人見勝太郎は、山上から城をながめながらいった。
「そういやこういう話もあるな。小田原北条家の始祖が伊勢新九郎長氏という一介の浪人だったらしい。この小田原を攻めるにあたり、角に松明をくくりつけた牛をいっせいに箱根の山から落としたらしい」
八郎は思わず背後の箱根の山を見た。もしまことであるなら、その光景はいかほど敵の心胆を寒からしめたであろうかと、しばし背筋にゾクゾクするような感覚がした。
小田原側からの和平の打診に喜々として城に向かった両者であったが、この間も城内では旧幕側につくか、新政府側につくかで藩論は二転、三転していた。
早くも小田原藩が遊撃隊に同盟を打診した翌日には、実は彰義隊は一日にして壊滅していたことを知ることとなる。すでに遊撃隊の人見勝太郎は、箱根の関所近くで江戸からの新政府軍の軍監中井正勝を殺害。ほどなく新政府側から問責使がやってくる。
人見と八郎は小田原藩主・大久保忠礼とじかに面会したが、忠礼の口からでた言葉は、同盟の破棄と小田原城下からの退去という最悪のものだった。
八郎は怒りを通りこして呆れた。最初は官軍側の旗になびき遊撃隊を迎撃。次は江戸での彰義隊勝利の誤報を信じて一転して佐幕派。そして今回再度の変節である。小田原評定はこの時代に至っても健在であった。
しかもそれだけではなかった。八郎たちが城下を退去した後、大久保忠礼は大磯の問責使のもとに出頭する。しかし忠礼の態度が煮え切らなかったため、問責使もまた激怒した。
「汝らはこの期に及んでなお賊に味方せんとするか! ならば即刻城に戻り、我らと戦う準備を始めるがよかろう!」
忠礼は恐れをなした。ついには自らの手で遊撃隊を滅ぼすことを誓ってしまったのである。五月二十六日のことだった。
小田原の動きは、ただちに遊撃隊の知るところとなった。八郎はまたしても呆れた。いったいどこまで卑怯で意気地のない連中なのであろう……。
(箱根山崎の戦い)
だが正気にかえると八郎は素早く全軍に指示をだす。この時、人見勝太郎は榎本武揚の軍艦に助けを求めるため不在だった。勝太郎がいない今、全軍の指揮は己に委ねられている。
小田原藩兵は主力が東海道沿いを行き、右翼が塔ノ峰沿い、左翼がかって豊臣秀吉が一夜城を築いたといわれる石垣山沿いを進む、そして江戸から小田原藩を問責するためにやってきた鳥取藩軍が後詰である。
兵力差からすると遊撃隊が二七五人ほどに対して、小田原藩と問罪使軍の連合軍は合わせて千ほどである。兵力の差は歴然としている。しかし八郎は絶望的とまでは考えていなかった。一つに小田原藩兵の異様なほどの戦意の乏しさ、二つ目に戦場となる場所が急カーブをなしており、常に敵を見下ろしながら戦うことができる地の利である。
今日でいうと小田原が小田急小田急線の終着駅であり、さらにそこから箱根登山鉄道で三駅の入生田あたりが戦場となった場所である。入生田からは険しい坂が延々と続き約七分。ちょうど国道一号線が分岐するあたりに、山崎の古戦場跡の石碑がある。ここいらあたりが箱根山崎の戦いの最激戦地だった。
遊撃隊の第一陣はやはり八郎が引き受けた。兵力で劣勢はやむをえない遊撃隊は、このあたりまで撤退してくる。しかし、これは実は半ば計算ずくの上でのことだった。ようやく勢いを増しはじめた小田原藩兵であったが、突如として遊撃隊は素早く左右に散開する。その先には高台から藩兵を見下ろす形で、右手前に第三軍隊長の和田貢の部隊、そして左手前に林忠崇の部隊がいた。
突如として鈍い銃声が戦場を覆いつくした。この時、遊撃隊はいかなる入手ルートで手にいれたのか最新式のスナイドル銃を所持していたのである。まったくもってこの時代の銃火器の進歩には驚かされる。
なにしろ旧式のゲベール銃やミニェー銃が先込式なのに対し、スナイドル銃は元込式なのである。その分弾込めの手間を省くことができる。発射速度は六秒に一発ほどで、英国で製造されクリミア戦争や南北戦争でも威力を発揮した。
この予期せぬ銃撃により小田原藩兵は動揺し、戦線はしばし膠着する。両軍の間に不気味な睨み合いが続く。遊撃隊にしても弾薬に限りがあり、おいそれと攻勢にはでられないのである。
(スナイドル銃)
しかし日も暮れかかるころ、とうとう問責軍が業を煮やした。主に鳥取、長州軍からなる問責軍は、圧倒的兵力差にものをいわせ塔の峰の砲台を陥落させる。これにより遊撃隊は敵に攻囲される形となる。そしてついに遊撃隊側の弾薬が尽きた。周囲がほぼ闇につつまれる頃には後退し、やがて三枚橋に至る。ここまでくると道幅も狭くなり、追撃の手も緩むはずだった。
「よし殿(しんがり)は俺が引き受ける。みな早く逃げろ!」
八郎が声を震わせながらいった。一軍の殿は、死の可能性が極めて高い難しい仕事である。
「いやそなただけに任せるわけにはいかぬ。余も共に戦うぞ!」
といったのは、あの脱藩大名林忠崇だった。
「殿は私だけで十分です。早くお逃げくだされ!」
「いや余も戦う」
「若君! あなたはしょせん我々とは違うのです。脱藩したとて、あなたには大勢の家臣、領民がいる。ここで死んではいけない人なんだ!」
ついに八郎は声を荒げた。
「わかった。余はゆく。そなたと共に戦えたこと誇りにおもうぞ」
忠崇は、二度と八郎とは生きて会えぬものと覚悟して去っていった。事実、両者にとり今生の別れであった。この後も八郎なき遊撃隊は奥州まで転戦するも、すでに五月二十四日には徳川家の駿府七十万石への移封が決定していた。このことを知った忠崇は、戦いの目的が達せられたとして官軍に投降する。
その後罪を許された忠崇であったが、藩主自らの脱藩の影響もあって他の大名のように華族に列せられることもなく、平民として困窮した生活を余儀なくされることとなる。
それでも忠崇は明治、大正、そして昭和を生き抜くこととなる。昭和十六年九十四歳にして、生存する最後の大名として次女の経営するアパートで逝去。いよいよ太平洋戦争も始まろうかという年だった。
しかし八郎には、もう時間は残されていなかった。まるで後わずかな命の炎をもやすように松明の明かりを背にして、敵の方角へ向きなおった。
「再三にわたる変心! 小田原藩は十万石の大藩なれど一個の男児もおらぬと見える。不肖、伊庭八郎秀穎お相手つかまつる!」
八郎の生涯で最も長い夜が始まった。八郎は鬼のごとく敵を斬るも、敵の一部隊が撤退しても、また新たな部隊が眼下に陣を展開する。まるで無間地獄の中をさすらっているかのようである。
八郎は山高帽をかぶり、かなり派手な軍装をしていた。誰もが一目で隊長であるとわかる恰好である。そのため常に敵が殺到する。しかしその力戦奮闘ぶりは小田原藩兵、そして問責軍をも恐れさせた。激闘すること半刻(およそ一時間)ほどがすぎた頃のことである。
戦いの最中、八郎は敵の返り血でほんの一瞬視界を奪われた。その刹那、背後に激痛が走った。振りむくとそこに敵兵の顔があった。左腕のつけ根のあたりを深々と刀で斬られたのである。
「己! 許せん!」
残った右手で敵の武者を袈裟懸けに斬りたおすも、今までに経験したことのない激痛と苦痛、そして恐怖のため、さしもの八郎もついに地に伏した。
次の瞬間、八郎の周囲の世界は真っ暗となった。
「今度こそ俺は死んだのか? これが死というものなのか?」
次第に意識が遠のいてゆく……。その時八郎は幼いころの自らの幻影を見た。
……幼少の頃の八郎は病弱だった。青白い顔で体も小さく、そのためよく同年代の子供等にいじめられた。
ある日の夕刻、八郎はやはりいじめられでもしたのか、泣きながらいずこかの方角へ歩いてゆく。
「おい八郎どこへ行く」
背後で声がする。それは榎本釜次郎だった。両者は八歳釜次郎が年上であるが、屋敷も近くいわば旧知の間柄だった。一度は榎本の方角を向いた八郎だったが、その声を振りきるようにまた歩きだした。
「榎本さん、自分はだめです。体も弱く誰の役にも立てません」
八郎は思わず弱音をいった。
「いや、そんなことはないぜ八郎。おめえだって必ず誰かの役にたてるさ。とにかくこれだけは忘れるな。俺たちは例えどんなことがあってもおまえを守る。だからお前もさしたることで決してくじけるな」
釜次郎は、しっかりと八郎の手を握っていった。
……
「おいこいつまだ生きているみたいだぜ」
小田原藩兵の一人がとどめを刺そうと銃をかまえた。ところが瀕死のはずの八郎が突如目を見開いた。その両の眼光に闘志をみなぎらせ、敵兵を瞬時にして袈裟斬りにした。
「俺はまだ死ぬわけにはいかない。例えこの刀がへし曲がっても、俺の心は決して折れぬ!」
「この死に損ないめ!」
小田原藩兵が刀を振り降ろすも、次の瞬間には、その兵士はガツンという異様な音ともに首になっていた。首の骨に刀が当たっただけではない。八郎の刀が勢いあまって、近くにあった岩まで切断してしまったのだ。
藩兵は真っ青になり、ドン引きした。
「よるな! よるな化け物!」
だがその兵士もまた次の瞬間には首になっていた。
八郎は壮絶な激痛をもろともせず、そのまま橋の中央に仁王立ちとなった。小田原藩兵と問責軍は、この軍神か阿修羅が憑依したかのような姿を恐れて、もはや近づこうとしなかった。
夜を迎えて小田原藩兵と問責軍は一旦撤兵する。遊撃隊もまた湯本に火を放ち、箱根方面に退くこととなる。
その頃、徳川家の駿府移封が決まったとはいえ、世にいう戊辰戦争はその戦場を奥羽へと移そうとしていたのであった。
やがて上野で戦が始まったという情報が、八郎たちのもとにも届いてくる。遊撃隊隊長の人見勝太郎は血気にはやった。すぐにでも江戸に赴き彰義隊に加勢すべきと説く。しかし遊撃隊・第二軍率いる伊庭八郎、それに第四軍率いる林忠崇、他の将いずれもが反対する。だいたい軍勢を動かそうにも、ここ数日の大雨で眼下の狩野川が決壊し、それを許さなかったのである。
勝太郎は苛立った。そしてついにだれにも告げず、自ら率いる六十八名のみで大雨の狩野川を渡ってしまうのである。この時のことを後に勝太郎は次のように回想している。
「この日暴風雨、大木枝折れ、家屋倒れ、光景騒然たり。我が一軍、夜間集結し狩野川を渡る。濁水滔々あふれ、船子等、大水にて到底渡船かなわずとし、船を出さず。我、大喝して船を下ろせと厳命する。数十間の長き綱にて多数の人夫にて堤上二町(二百十八メートル)計り上流に引き上げ、号令とともに綱を断つ。五隻の船濁流に流されず舵を取る。北岸すなわち東海道の松並木に着岸する。無難に渡海せしことまさに天命なり」
朝になって他の遊撃隊の面々は勝太郎の独断専行を知り驚き、皆顔色を変えた。中には軍令違反を非難する者もいたが、軍議の後、他の部隊もことごとく川を渡ることと決した。
五月二十日、人見勝太郎率いる第一軍は、新政府からの通達により箱根の関所を固める小田原藩の吉野大炊介の部隊と遭遇。一刻(二時間)にもわたる「通せ! 通さん!」の押し問答のすえついに戦闘となった。
結局、兵力に劣る遊撃隊第一軍は敗退。やがて遊撃隊の他の部隊が追いついてきた。八郎は勝太郎の独断専行を叱責するも、やがて吉報がとどく。小田原藩が江戸での彰義隊大勝との誤報を信じて、遊撃隊との同盟を打診してきたのである。
小田原城は、その縄張り面積六万七千坪。箱根外輪山を西に背負い、東に相模湾をみおろす白亜の名城だった。本丸西側に三層五階の天守をもち、東側に二の丸、さらに外郭に七つの曲輪をもっていた。
「おい聞いたか八郎、この城は戦国の頃はもっと規模がでかくて、都市全体を城郭が覆っていたんだぜ。なにしろかの武田信玄公や上杉謙信公をもってしても落とせなかったらしいからな」
和平交渉のため小田原城をおとずれた人見勝太郎は、山上から城をながめながらいった。
「そういやこういう話もあるな。小田原北条家の始祖が伊勢新九郎長氏という一介の浪人だったらしい。この小田原を攻めるにあたり、角に松明をくくりつけた牛をいっせいに箱根の山から落としたらしい」
八郎は思わず背後の箱根の山を見た。もしまことであるなら、その光景はいかほど敵の心胆を寒からしめたであろうかと、しばし背筋にゾクゾクするような感覚がした。
小田原側からの和平の打診に喜々として城に向かった両者であったが、この間も城内では旧幕側につくか、新政府側につくかで藩論は二転、三転していた。
早くも小田原藩が遊撃隊に同盟を打診した翌日には、実は彰義隊は一日にして壊滅していたことを知ることとなる。すでに遊撃隊の人見勝太郎は、箱根の関所近くで江戸からの新政府軍の軍監中井正勝を殺害。ほどなく新政府側から問責使がやってくる。
人見と八郎は小田原藩主・大久保忠礼とじかに面会したが、忠礼の口からでた言葉は、同盟の破棄と小田原城下からの退去という最悪のものだった。
八郎は怒りを通りこして呆れた。最初は官軍側の旗になびき遊撃隊を迎撃。次は江戸での彰義隊勝利の誤報を信じて一転して佐幕派。そして今回再度の変節である。小田原評定はこの時代に至っても健在であった。
しかもそれだけではなかった。八郎たちが城下を退去した後、大久保忠礼は大磯の問責使のもとに出頭する。しかし忠礼の態度が煮え切らなかったため、問責使もまた激怒した。
「汝らはこの期に及んでなお賊に味方せんとするか! ならば即刻城に戻り、我らと戦う準備を始めるがよかろう!」
忠礼は恐れをなした。ついには自らの手で遊撃隊を滅ぼすことを誓ってしまったのである。五月二十六日のことだった。
小田原の動きは、ただちに遊撃隊の知るところとなった。八郎はまたしても呆れた。いったいどこまで卑怯で意気地のない連中なのであろう……。
(箱根山崎の戦い)
だが正気にかえると八郎は素早く全軍に指示をだす。この時、人見勝太郎は榎本武揚の軍艦に助けを求めるため不在だった。勝太郎がいない今、全軍の指揮は己に委ねられている。
小田原藩兵は主力が東海道沿いを行き、右翼が塔ノ峰沿い、左翼がかって豊臣秀吉が一夜城を築いたといわれる石垣山沿いを進む、そして江戸から小田原藩を問責するためにやってきた鳥取藩軍が後詰である。
兵力差からすると遊撃隊が二七五人ほどに対して、小田原藩と問罪使軍の連合軍は合わせて千ほどである。兵力の差は歴然としている。しかし八郎は絶望的とまでは考えていなかった。一つに小田原藩兵の異様なほどの戦意の乏しさ、二つ目に戦場となる場所が急カーブをなしており、常に敵を見下ろしながら戦うことができる地の利である。
今日でいうと小田原が小田急小田急線の終着駅であり、さらにそこから箱根登山鉄道で三駅の入生田あたりが戦場となった場所である。入生田からは険しい坂が延々と続き約七分。ちょうど国道一号線が分岐するあたりに、山崎の古戦場跡の石碑がある。ここいらあたりが箱根山崎の戦いの最激戦地だった。
遊撃隊の第一陣はやはり八郎が引き受けた。兵力で劣勢はやむをえない遊撃隊は、このあたりまで撤退してくる。しかし、これは実は半ば計算ずくの上でのことだった。ようやく勢いを増しはじめた小田原藩兵であったが、突如として遊撃隊は素早く左右に散開する。その先には高台から藩兵を見下ろす形で、右手前に第三軍隊長の和田貢の部隊、そして左手前に林忠崇の部隊がいた。
突如として鈍い銃声が戦場を覆いつくした。この時、遊撃隊はいかなる入手ルートで手にいれたのか最新式のスナイドル銃を所持していたのである。まったくもってこの時代の銃火器の進歩には驚かされる。
なにしろ旧式のゲベール銃やミニェー銃が先込式なのに対し、スナイドル銃は元込式なのである。その分弾込めの手間を省くことができる。発射速度は六秒に一発ほどで、英国で製造されクリミア戦争や南北戦争でも威力を発揮した。
この予期せぬ銃撃により小田原藩兵は動揺し、戦線はしばし膠着する。両軍の間に不気味な睨み合いが続く。遊撃隊にしても弾薬に限りがあり、おいそれと攻勢にはでられないのである。
(スナイドル銃)
しかし日も暮れかかるころ、とうとう問責軍が業を煮やした。主に鳥取、長州軍からなる問責軍は、圧倒的兵力差にものをいわせ塔の峰の砲台を陥落させる。これにより遊撃隊は敵に攻囲される形となる。そしてついに遊撃隊側の弾薬が尽きた。周囲がほぼ闇につつまれる頃には後退し、やがて三枚橋に至る。ここまでくると道幅も狭くなり、追撃の手も緩むはずだった。
「よし殿(しんがり)は俺が引き受ける。みな早く逃げろ!」
八郎が声を震わせながらいった。一軍の殿は、死の可能性が極めて高い難しい仕事である。
「いやそなただけに任せるわけにはいかぬ。余も共に戦うぞ!」
といったのは、あの脱藩大名林忠崇だった。
「殿は私だけで十分です。早くお逃げくだされ!」
「いや余も戦う」
「若君! あなたはしょせん我々とは違うのです。脱藩したとて、あなたには大勢の家臣、領民がいる。ここで死んではいけない人なんだ!」
ついに八郎は声を荒げた。
「わかった。余はゆく。そなたと共に戦えたこと誇りにおもうぞ」
忠崇は、二度と八郎とは生きて会えぬものと覚悟して去っていった。事実、両者にとり今生の別れであった。この後も八郎なき遊撃隊は奥州まで転戦するも、すでに五月二十四日には徳川家の駿府七十万石への移封が決定していた。このことを知った忠崇は、戦いの目的が達せられたとして官軍に投降する。
その後罪を許された忠崇であったが、藩主自らの脱藩の影響もあって他の大名のように華族に列せられることもなく、平民として困窮した生活を余儀なくされることとなる。
それでも忠崇は明治、大正、そして昭和を生き抜くこととなる。昭和十六年九十四歳にして、生存する最後の大名として次女の経営するアパートで逝去。いよいよ太平洋戦争も始まろうかという年だった。
しかし八郎には、もう時間は残されていなかった。まるで後わずかな命の炎をもやすように松明の明かりを背にして、敵の方角へ向きなおった。
「再三にわたる変心! 小田原藩は十万石の大藩なれど一個の男児もおらぬと見える。不肖、伊庭八郎秀穎お相手つかまつる!」
八郎の生涯で最も長い夜が始まった。八郎は鬼のごとく敵を斬るも、敵の一部隊が撤退しても、また新たな部隊が眼下に陣を展開する。まるで無間地獄の中をさすらっているかのようである。
八郎は山高帽をかぶり、かなり派手な軍装をしていた。誰もが一目で隊長であるとわかる恰好である。そのため常に敵が殺到する。しかしその力戦奮闘ぶりは小田原藩兵、そして問責軍をも恐れさせた。激闘すること半刻(およそ一時間)ほどがすぎた頃のことである。
戦いの最中、八郎は敵の返り血でほんの一瞬視界を奪われた。その刹那、背後に激痛が走った。振りむくとそこに敵兵の顔があった。左腕のつけ根のあたりを深々と刀で斬られたのである。
「己! 許せん!」
残った右手で敵の武者を袈裟懸けに斬りたおすも、今までに経験したことのない激痛と苦痛、そして恐怖のため、さしもの八郎もついに地に伏した。
次の瞬間、八郎の周囲の世界は真っ暗となった。
「今度こそ俺は死んだのか? これが死というものなのか?」
次第に意識が遠のいてゆく……。その時八郎は幼いころの自らの幻影を見た。
……幼少の頃の八郎は病弱だった。青白い顔で体も小さく、そのためよく同年代の子供等にいじめられた。
ある日の夕刻、八郎はやはりいじめられでもしたのか、泣きながらいずこかの方角へ歩いてゆく。
「おい八郎どこへ行く」
背後で声がする。それは榎本釜次郎だった。両者は八歳釜次郎が年上であるが、屋敷も近くいわば旧知の間柄だった。一度は榎本の方角を向いた八郎だったが、その声を振りきるようにまた歩きだした。
「榎本さん、自分はだめです。体も弱く誰の役にも立てません」
八郎は思わず弱音をいった。
「いや、そんなことはないぜ八郎。おめえだって必ず誰かの役にたてるさ。とにかくこれだけは忘れるな。俺たちは例えどんなことがあってもおまえを守る。だからお前もさしたることで決してくじけるな」
釜次郎は、しっかりと八郎の手を握っていった。
……
「おいこいつまだ生きているみたいだぜ」
小田原藩兵の一人がとどめを刺そうと銃をかまえた。ところが瀕死のはずの八郎が突如目を見開いた。その両の眼光に闘志をみなぎらせ、敵兵を瞬時にして袈裟斬りにした。
「俺はまだ死ぬわけにはいかない。例えこの刀がへし曲がっても、俺の心は決して折れぬ!」
「この死に損ないめ!」
小田原藩兵が刀を振り降ろすも、次の瞬間には、その兵士はガツンという異様な音ともに首になっていた。首の骨に刀が当たっただけではない。八郎の刀が勢いあまって、近くにあった岩まで切断してしまったのだ。
藩兵は真っ青になり、ドン引きした。
「よるな! よるな化け物!」
だがその兵士もまた次の瞬間には首になっていた。
八郎は壮絶な激痛をもろともせず、そのまま橋の中央に仁王立ちとなった。小田原藩兵と問責軍は、この軍神か阿修羅が憑依したかのような姿を恐れて、もはや近づこうとしなかった。
夜を迎えて小田原藩兵と問責軍は一旦撤兵する。遊撃隊もまた湯本に火を放ち、箱根方面に退くこととなる。
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長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
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