燦燦さんぽ日和

加藤泰幸

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竜伐祭編

第十二話/山頂銭湯(前編)

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「ふぁ~あぁ~あ……」
 フロントの受付台で、ヒロは頬杖をつきながら大きな欠伸をする。
 
 ヒロの一日の中で、もっとも暇な時間が、正午から夕方にかけての時間である。
 この時間は、食材の仕入れや、客の確認、備品確認等の雑用に割り当てているのだが、
 食材の仕入れに少々時間を要するだけで、他の仕事はそれ程手間ではなく、すぐにやる事はなくなるのである。
 だが、やる事がないからと言って遊び呆けていては、万が一予約なしの客が来た時に体裁が悪い。
 その為、ヒロはこの時間を受付台の前で過ごしている。


「……まだ、外は暑そうだなあ」
 海側に面している、開け放たれた窓の外を眺める。

 季節はもう九月だが、差し込んでくる太陽の日差しはまだまだ暑く、そして眩い。
 中年の男性が外を歩いていたが、衣服は外の暑さを表すように丈が短く、そこから覗いている四肢は浅黒く日焼けしている。
 耳には、蝉の鳴き声が微かに届く。
 それでも、八月に比べれば鳴き声も大分弱まっている辺り、夏は少しずつ終わりに近づいているのだろう。


 その蝉の鳴き声の中に、元気な足音が混じりだした。
 付近を駆けているような足音が、海桶屋の前で止まる。
 足音の主を察したヒロは腰を上げると、隣接する厨房からよく冷えた麦茶を取り出した。
 コップに注いでフロントに戻ってくると、案の定、海桶屋の土間でセンダンが靴を脱いでいた。
 ヒロと同じく正午以降が暇であるセンダンは、この時間にウメエの所に料理修行に行く事が多い。
 この日も彼女はウメエの所に料理修行に出かけていたのであった。



「た~だいま~! う~暑いよぉ~……」
「お疲れ様です。麦茶用意しましたよ」
「おっ、気が利くじゃないの!」
 受付台の上に麦茶を置くと、餌に飛びつく犬のように、センダンがフロントに上がってきた。
 彼女は喉を鳴らしながら、麦茶を一気に飲み干してしまう。
 見ていて気持ちの良い飲みっぷりだった。

「ぷはあっ! ご馳走様~」
「いえいえ。……で、修行の方はどうでしたか?」
 ヒロはあまり期待を込めずに尋ねた。 
「うん、バッチリ! 今日のお客様に出す夕食の準備、手伝うから!」
「いや、間に合ってます」
 即答する。
 突っぱねても食い下がるのがセンダンだが、突っぱねなければ、なお乗り気になる。



「あそ。まあ良いわ」
 だが、この日のセンダンは違った。
 あっさりと引き下がると、肩にかけていたバッグを漁りだす。
「……何かあるんです?」
「うん、何かあるのよ」
 そう告げて、センダンがバッグから小瓶を取り出した。
 コルクの蓋がしてある小瓶で、中には茶色い粒が詰まっている。
 なにやら文字が書かれた紙が貼ってあるのだが、相当古いもののようで、
 紙は薄茶色に変色していて、文字も擦れて読み難い。

「これ、温泉の素!」
 センダンが小瓶を受付台に置く。
「はあ……」
「ウメエさんが蔵を掃除していたら出てきた物を貰ったの。
 思い出せない位昔の物らしいけれど、ただの温泉の素じゃないのよ!
 マナの力が篭っていて、ぽこぽこ泡が吹き出るんだって!」
「………」
 ヒロは何も言わずに眉をひそめる。

 海桶屋の風呂は、温泉ではない。
 そもそも兄花島には源泉がなく、温泉の引き様がないのである。
 浴場に張られるのは、ただのお湯なのである。
 すなわち……温泉の素は有効なのだが、まともな品に限った話だ。





(そんな古い物、絶対怪しいって……)
 いぶかしみに満ちた表情でセンダンを見れば、彼女は楽しげに小瓶を回している。
 温泉の素に夢中になって、ヒロの事はあまり気にしていないようだ。

 逃げよう。

 瞬時に、その言葉がヒロの脳裏に浮かび上がる。
 物音を立てないよう、ゆっくりと立ち上がった……その時である。



「ねえヒロ君、良い事思いついたんだけど!」
「そらきた……」
 先にそう言われては、そのまま逃げるわけにもいかなかった。
 額に手を当て、浮かした腰を下ろす。
 一方のセンダンは、肩を交互に揺らして、ヒロが腰を据えるのを待ち構えていた。

「そらきた、とは分かってるじゃない」
「いや、そういう意味じゃありませんが……で、今回は何を思いついたんですか?」
 大方の予想はできているが、一応尋ねる。
 
「もちろん、この温泉の素を使ってみるのよ!」
「駄目です。危ないですよ、それ。
 得体が知れないし、使用期限だって絶対切れていますよ!」
「大丈夫、大丈夫だって!」
「大丈夫な根拠、何もないじゃないですか! 水道代だって馬鹿になりませんよ!」
「安い、安いって!」
「安くありません!!」
 センダンと押し問答を繰り広げる。
 だが、そうしてセンダンの言葉を突っぱねながらも、ヒロにはうっすらと結果が見えていた。
 センダンの『良い事』を説き伏せるのは、なかなかに難しいものなのである。










 燦燦さんぽ日和

 第十二話/山頂銭湯










 海桶屋の入浴施設は小さい。
 四畳程の更衣室と六畳程の浴場があるだけで、当然ながら五人も十人も同時に入る事ができる程のものではない。
 その為、チェックインの際に入浴希望時間を確認し、団体毎に時間を決めて使用してもらっていた。
 小さい上に温泉ではない事は経営側も気にしており、せめて見た目だけでも風情があるものにしようと、
 更衣室は侘びた木製部屋に仕上がっており、浴槽も、直径三十センチ程の大きさの石を並べて作ってある。

 チェックインと同時に入浴したいという客も少なくない為、大抵は午前中のうちにセンダンが浴槽の掃除を終えている。
 この日も既に掃除を終えており、湯を溜めるだけですぐに入浴できる状態であった。
 ……センダンに提案を押し切られてから、約一時間後。
 湯気が立つ浴槽の前には、バスタオルを腰に巻いただけのヒロと、衣服を纏っているセンダンの姿があった。




「……で、温泉の素を使うのに、なんでお風呂に入らなきゃいけないんです?」
 ヒロは腕を組みながら、隣にいるセンダンに問う。
 バスタオルを巻いているとはいえ、それ以外は何も纏っていない状態はさすがに恥ずかしい。
 その動揺を誤魔化す為に、ヒロはわざと、怒ったような声を出していた。

「だって、効能を確かめなきゃいけないじゃない」
 センダンはあっけらかんとした口調で答える。
「確かめてどうするんです?」
「もちろん、お客様に提供するのよ。今日は女性三人組の予約があるし、ちょうど良いわ」
「じゃあ、自分で入れば良いじゃないですか」
「あら~? ヒロ君、私と一緒にお風呂に入りたかったの?」
「……む、むう」
 突然の言葉に、ヒロは動揺を隠すように唸り声を漏らす。
 センダンは、愉快そうに目を細めて、そんなヒロの反応を見ていた。
 いつも通り、からかわれただけである。



「……それより早い所済ませましょう。温泉の素、入れて下さい」
「はいはいっと。ええと……一つまみで十分効果があるみたいね」
 ヒロに急かされたセンダンが、小瓶の掠れた文字を読んでから、コルクの蓋を捻る。
 小気味良い音がして蓋は開き、ほのかにビャクダンのような甘い香りが漂ってきた。
 中の粒を一つまみ浴槽に注ぐと、注がれた箇所が茶色く変色する。

「ぽこぽこ~」
「なんですかそれ」
「温泉の素の歌。ぽこぽこ~」
 センダンが聞いた事もない鼻歌を歌いながら、掻き棒でお湯をかき混ぜる。
 変色は瞬く間に浴槽全体に浸透し、それと同時に、湯の中から無数の大きな気泡が浮かび上がるようになった。
 湯面は気泡で大いに波立ち、センダンの鼻歌通りに、ぽこぽこと間の抜けた音が浴室に響き渡る。


「あれ……意外と、普通に使えそう……?」
 浴槽に手を掛けて湯面を覗き込みながら、ヒロが言う。
 試しに湯を手ですくってみたが、特に痛かったり痒かったりする事はなかった。
「ほらね。言った通りでしょ? 大丈夫なんだって」
「ふむ……それじゃあ……」
 センダンの言葉に背中を押されて、思い切って浴槽に脚を入れる。
 湯はやや温めにしていたが、それでも熱が急激に伝わってきて脚が瞬時に温まる。
 脚を振って湯をかき混ぜつつ腰を下ろす事で、その熱気が全身に行き渡った。


「ふむ……」
 湯に漬かりながら、両手で湯をすくって顔を近づける。
 色のみならず、ビャクダンの香りもしっかりと湯に浸透している。
 体に吹き上げてくる気泡の感触も良かった。





「ヒロ君、ど~お?」
 センダンが中腰になり、間延びした口調で尋ねる。
「気持ち良いですよ。ちゃんと温泉っぽくなってます」
 ヒロは正直に答える。
「おぉー、まさか本当に大丈夫だったとは」
「センダンさん……?」
「あ、いやいや、気にしないで良いわ。それより、これならお客様が入浴する時にも使えそう?」
「……まあ、良いか。ええ、使えると思いますよ。喜んで貰えるでしょうし、早速今日から使ってみましょう」
「よーし、きーまりっ!」
 センダンがガッツポーズを取る。
 それが良くなかった。
 勢いが付きすぎたのか、彼女の手に握られていた小瓶がすり抜けてしまい、浴槽の中へ飛び込んでしまう。



「「………」」
 二人して、沈みゆく小瓶を見る。
 小瓶の中の粒はすぐに解けてしまった。

「……一つまみで良いんでしたよね?」
「うん。……全部、入っちゃったね……」

 薄茶色の湯の色は濃茶色へと変色する。
 気泡の量も、じわじわと増え始めた。
 量だけではない。浮かび上がる速度もより早く、サイズもより大きくなっている。
 気泡が弾ける音が、ポコポコという可愛らしい音から、ボコボコという不気味な音へ変わる。
 そのボコボコが、ボボボ、と地鳴りのような音に変わるまでには、そう時間を要しなかった。


「……センダンさん」
「……ヒロ君」
 顔を見合わせあう二人。
 次の瞬間、二人は弾き出されるように立ち上がる。






「「逃げろ~~っ!!!」」






 内部に凄まじい熱膨張が発生した湯が、強烈な炸裂音を立てて浴槽の一部を破壊するのは、
 彼らが更衣室に逃げ込んだ、まさにその瞬間であった。







 ◇







 兄花島の中央には、標高百メートル程の小さな山がある。
 見目麗しい樹木が植えられているわけでもなければ、珍しい生物が生息しているわけでもない、
 生態系としては取り立てるべき点がない普通の山なのだが、夕方から夜にかけて山を登る者は多い。
 それというのも、山頂に銭湯が建っている為である。
 海桶屋同様に温泉ではないが、兄花島全体を見渡す事の出来る展望露天風呂の評判が良い。
 観光客のみならず、島民にも人気のある銭湯なのである。

 この日の夜、ヒロはその銭湯に向かう馬車を操っていた。
 複数名が乗り込める幌を引いた照明付きの馬車で、ギルドから借りたものである。
 幌付きで馬の疲労も大きい為に、貸し出し料は馬鹿にならないのだが、借りざるを得なかった。
 
 日中の温泉の素騒ぎで、海桶屋の浴槽が壊れたのである。
 幸いな事にヒロもセンダンも怪我はしていないが、積まれていた石の幾つかが吹き飛んだ。
 そこから湯が洩れてしまう為に、ロビンから業者を呼ばなくては直す事が出来ない状態だ。
 当然、その日の予約客が使用する事はできない。
 自分達も汗を流す事ができない。
 そこでヒロらは、客に事情を説明して同意を得た上で、急遽ギルドから馬車を借りて、山頂銭湯に案内する事にしたのである。




(こういう時はセンダンさんがいると助かるなあ……)
 馬車の手綱を握りながら、ちらと幌の中を振り返る。

 中では、この日の宿泊客である若い三人の女性客とセンダンが、早くも打ち解けて雑談に興じていた。
 長々とよそ見をするわけにもいかないのですぐに前を向くが、耳に届く声によれば、
 どうやら女性客らが、海桶屋の仕事について質問しており、それにセンダンが回答しているようである。
 はっきりとは聞こえないが、時折笑い声も漏れる辺り、センダンが砕けた話題を提供しているのだろう。

 自分では、こうはいかない。
 案の定、この女性客らにも、初対面の際には大いに怖がられてしまった。
 仮に怖がられなかったとしても、センダン程に客と打ち解けられる自信はない。
 時たまドジを踏むのが玉に傷、今回は風呂にまで傷が入ってしまったが、それでも彼女は海桶屋にとって欠かせない人物である。


「それでね、ヒロ君がまた子供を泣かせちゃったんですよー!」
 一際大きな声が聞こえてくる。
 本当に欠かせないのか、改めて考えるヒロであった。
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