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「ミルファ、大丈夫か?」
耳に心地よい重低音が聞こえて、ミルファは顔を上げた。ルシアーノ……。今は彼の顔を見ても、心は浮かばない。
虚ろになった瞳は、光の届かない深海のような色をしていることだろう。
じっとミルファの顔を見つめたルシアーノは、目の前のタナトスとモリアを睨み、凍りつきそうな声で言い放つ。タナトスが一歩後ずさった。
「ご家族に挨拶せず申し訳ない。ミルファの気分が悪いようなので、これで失礼します」
「ふふ、ルシアーノさまぁ。我が家からの手紙は受け取っておりますでしょう?」
ルシアーノの肩がビクッと震えた。
手紙? ルシアーノに手紙なんて来たことはないはずだ。うちに届く書簡はすべて、まずミルファが確認している。
「……ああ、近いうちに返事を書く。では」
(……手紙は侯爵家に届いてるってことか)
腰に手を当ててエスコートされ、ミルファは会場を後にする。
近くにいるはずなのに、タキシードの分厚い生地はルシアーノの体温を通さない。ミルファは彼との関係に亀裂が入ったのを感じていた。
馬車で二人きりになり、沈黙に耐えきれず口を開いたのは同時だった。
「ルシアーノ、どういうこと?」
「ミルファ、家族から何を聞いた?」
ルシアーノは何を確認しようとしているのだろう。強張った表情からはその理由まで読み取れない。
「妹のモリアと……結婚するって」
「は? 誰が? 俺がか?」
驚きと困惑、そして嫌悪の感情が彼の顔に浮かび、澱んだ気持ちに空気が通る。わずかな希望にすがってしまう自分がいる。
「……違うの?」
「あり得ない。だいたい俺はミルファと結婚したんだ。他の人と結婚なんてできないだろう」
強く『ない』と言い切ってくれた言葉は本来なら嬉しい。しかし一瞬、曙色の瞳が揺らいだのをミルファは見逃さなかった。
「結婚、できてないって……聞いた」
「まさか! そんな世迷いごとを信じたのか? 一緒に教会へ行ったじゃないか」
一度疑ってしまうと、ルシアーノの言葉が白々しく感じる。そんな感情、知りたくなかったのに。
沸々と怒りが湧いてきて、それを抑えるように声は淡々とした冷たさを帯びた。
「教会では宣誓書をもとに戸籍情報を調べて、問題がなければ婚姻情報が簿冊へと記録される。逆に言えば問題があれば、婚姻はできない」
「…………」
「ルシアーノ、君は何を隠しているの?」
ルシアーノはしばらく迷いもあらわに瞳を揺らして沈黙していたけれど、ミルファの追求に観念したように口を開いた。
「俺は……確かにまだ、ミルファに言えていないことがある。でも決して、君に不利益を被る内容ではないんだ。都合のいい話だとは思うが、信じてくれないか?」
向かい側から伸びてきた手に、そっと冷えた手を包まれる。大きな男の手だ。
ミルファは考えることがいっぱいで、ルシアーノの言葉もよく理解できなかった。家族に会ってから、ずっと頭は混乱の渦中にある。
「僕は……なにを信じればいいのかわからない」
「これだけは間違いない。ミルファのことは伴侶だと思っているし、俺は……あなたに惹かれている」
ハッと顔を上げると、真剣な表情でこちらを見据える目と目が合った。きゅうと心臓が痛み、ミルファは泣きそうになって震える息を吐いた。
(信じたい。この繊細で真面目な人を疑うなんて……僕にはできない)
どうしようもなく惚れているのはこちらの方なのだ。ルシアーノが、ミルファに心を寄せようとしている。それを喜ばないなんて無理だ。
「僕は、利益があると思って君を受け入れたわけじゃない。むしろ、不利益があったって守る心づもりでいるんだ」
「ああ……ミルファはそうだな。すまない」
「侯爵家のことでいろいろあるんだろう。僕にできることがあるとは思えないけど、手伝えることがあるなら言ってほしい。ルシアーノを……信じるよ」
「ありがとう……!」
ミルファのことを嫌悪している家族の言葉より、ルシアーノの言葉を信じたい。心のなかにわだかまりはあるけれど、言いたくないことを言わせてまで追求するなんて真似、ミルファにはできるはずもなかった。
繋がった手のあいだで体温が混じり、裂けた隙間なんてなかったような気がしてくる。彼の告白を信じることにしても、ミルファは自分の気持ちを打ち明けないことに決めた。
これだけで、過ぎるくらいに幸せだ。
ルシアーノはいつか目の前から去っていく。その予感はいまだ胸の内にある。自分の気持ちが彼の行動や決断の妨げになってしまうことを、ミルファは恐れてしまう。
嫌々一緒にいてほしいわけじゃないのだ。それは突然家族からの愛を失ったことのあるミルファが、捨てきれない……臆病さだった。
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