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星の海と銀の竜と沈む世界。
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目の前で、空が剥がれるのを見た。
がらがらと雷とはまた違った音が鳴った。
皹が入った場所から、またべりべりと皮が剥がれるように、今まで空だったものが、あっけなく崩れ落ちていく。
崩れた場所から、流れ込むように水が入ってきた。
雨ではない。水だ。まるで船に穴が開いて、そこから水が入り、今まさに沈没していく──そんなふうだった。
人々は阿鼻叫喚のそれで、地獄の亡者のように泣いて喚いて暴れ狂って、それからその水に飲まれていった。
泣いて願うものもいた。祈るものもいた。子供を抱えて、守ろうと身を縮めるものもいた。
しかしみんな等しく、その水に飲まれていった。
飲まれたあとは一瞬だ。
泡となって、ぽんっと消える。
その光景をみた遠く、まだ水の手の届かない場所にいる人々が、その表情を絶望に深めていた。
あるものはそれをみて、神が起こした洪水だといった。
あるものはそれをみて、悪魔が現世を滅ぼそうとしているといった。
あるものはそれをみて、天変地異だと自然を憎んだ。
事実としてどうでもよいと私は思った。誰がどうだったとしても、今の私たちには成す術なんてないのだ。
少し遠くのほうで、ぱん、と乾いた音がした。
煙が上がっていた。二回目の音がして、男と子が倒れていた。
彼らは平穏な日常を愛していたのだろう。
それが壊されることに耐えられなかったのだと、私は思った。
私はそれらを、シェルターだという丸い卵のような、透明な容器から見ていた。
隣にも同じ容器がたくさん装置にセットされていて、中には同じくらいの子供たちが入れられている。
彼らにとっては今日この一瞬がまさに地獄の始まり、平穏の終わりだっただろうが──。
私たちは、もっと前から、平穏な日常なんてものは終わっていた。
ほどなくして、世界のあちこちに水が満ちた。地上に足をつけていたものは、一人残らず消えてなくなってしまった。
残っているのは、まだ、かろうじて地上ではなく、少し高くなった場所にいるものだけだ。
それも三十分ほどで泡へと変わってしまって、残ったのは私たちだけになった。
一人分のシェルターの中で、私たちは全てをみた。
未来が閉ざされた世界の崩壊を記録しておくために、次へとつなげる種子なのだと白衣をきた男たちは私たちに言っていた。
「選ばれた人間だよ、君たちは。誇ったっていい」
よくそういって私たちを、うらやむような、いつくしむような、そういうよくわからない目でみていた。
それがどういうことを意味するのか、私たちはよく理解していなかったけれど、家族と切り離されて、日常と切り離されて、一ヶ月ほどここにいる。
もう逃げることも死ぬことも諦めていた。
しばらくすると、世界は水で完全に満たされてしまって、まるで海の中のようになった。
シェルターのいくつかは装置を外れて、ふわふわと浮かび上がって、上へ上へと出て行った。
私のシェルターはいつまで経っても外れなかった。
故障していたのか、タイマーで順番に外れていくようにセットされていたのか、そのへんは定かではない。
することもなくなって、みるものもなくなって、私は体育座りをして、ぼうと上を見上げていた。
光が徐々に耐えていって、周囲がずんと暗くなった。
海の底に沈んでいくようだった。
「あ」
ふと頭上で何かがきらめいた。
赤い光を感じた。
なんだろうと目を凝らすと、暗闇の中から目が浮かび上がった。
──そこからは一瞬だ。
目の前に周囲を照らすような光を帯びた竜がたたずんでいた。
ぶわりと全身に鳥肌が立った。
銀の竜だ。赤い目と赤いひげを携えた、綺麗な竜。
彼との視線が交錯した時間などほんの数秒だったのだろうが、私には永遠に感じられた。
銀の竜は穏やかに海を泳いだ。
そこらに散らばる瓦礫など、文明の残骸など気にも留めないようだった。──否、違う。
見定めている。まるでレストランのメニュー表をみるかのように、彼は品定めをしている。
それからその大きな口をあけると、私たちの世界の一部、文明の象徴のようだったビルの残骸をばくりと食べてしまった。
「……美味しそう」
銀の竜が、ではない。
彼の食べっぷりをみていると、彼の食べている文明の残骸はとても美味しそうに見えた。
思えば長い間食事をとっていない気がした。
「うん?」
「!」
銀の竜が、こちらを振り返った。
赤い目が再び私を射抜く。
思わず姿勢を正してしまった。銀の竜が近づいてくる。近づいてくればくるほど、私とは格段に違う大きさだということがわかる。
水族館で、初めてシャチやらエイやらの大きな生き物たちと対面したときを思い出した。
あれが鯨だったなら、きっとこんな気持ちになったのかもしれない。
「──おや、珍しい。まだ『生き物』が残っていたとは」
銀の竜は私を、物珍しげに見つめてきた。
「なるほど、お前はそこに固定されているのか。だから他のものと違って、飛び出していかなかったのだな」
「他のみんなは、いってしまったの?」
「ああ。皆例外なく旅立った。ここに残っているのは、お前だけだ」
不思議と寂しくはならなかった。
そこにまだ彼がいたからなのか、はたまた、最初から一人ぼっちだと思っていたからなのか、よくわからなかった。
容器越しに、彼に手を当てる。
感触は伝わってこなくても、彼に触れているような錯覚をおぼえた。
「あの、貴方は?」
「私か」
銀の竜は赤いひげをふわふわと水に遊ばせながらいった。
「とくに名はない。必要でもない」
意味はわからなかった。
けど理解はできた。
「さっきの、美味しかった?」
たまらず私は尋ねた。
答えを期待していたわけではない。
久しぶりに誰かと会話したかったからかもしれない。
たわいのない世間話、意味などない会話だ。
「美味しい?」
銀の竜は首をかしげた。
「はて、そのような『感情』は持っていないので答えようがない」
瓦礫に味などないのかもしれなかった。
「お前にはそうみえたのか?」
私はうなずいた。
長らく忘れていた空腹を思い出させたのは、事実だった。
「だったらそうなのかもしれないな」
ひどく曖昧な答えだった。
けど私にはそれで十分だった。
銀の竜は、私の容器にこつんと体を当てた。
シェルターというだけあって、壊れそうになかった。また、装置から外れそうにもなかった。
故障だ。きっと、いやほとんど間違いないだろう。
あるいは、私はここに残る運命だったのかもしれない。
それから毎日、銀の竜とすごした。
いや、時間という概念はここに存在していないようだった。
少なくともどれくらい時間が経ったのか、もうわからない。
時計がなければ、太陽も差さない。私の視界に光を与えてくれるのは、いまや銀の竜だけだった。
「世界の残骸を食べている」
そう銀の竜は言った。
「お前たちの世界のように、壊れて、失われてしまった、『終わった世界』というものはこうしてこの海に沈むのだ」
「終わった世界?」
「未来が閉ざされた、ともいうのかもしれない」
「先がないってこと?」
「そうだ。どの世界にもその世界を紡ぎ続ける存在がいる。それをお前たちはおそらく神と呼ぶのだろう。そいつが死んだんだ。つまりお前たちの世界は、もう誰にも紡がれない」
「まるで、物語の住人みたいね。私たち」
上を見上げる。
水の入ってきていた場所からは、もう何も見えない。真っ暗で、何もない。
「この世界の外側も、ずっと海なの?」
銀の竜は私の上でとぐろを巻いた。
「ああ。そうだ。ずっと、広い海だ。ここには果てがない」
「じゃあ、ここの神様は死なないの?」
「ここに神様はいないさ」
「貴方は?」
私が訪ねると、銀の竜は笑った。
「私は違う。私は世界が生み出した、システムのようなものだ。瓦礫はこのままだと消えていかず、海の底に積もっていく。だからこうして、食べているのだ」
水に触れて、泡にかわっていった人々を思い出した。
有機物はそうして、この水で溶けていけるのかもしれなかった。
「私もここから出て、外を見てみたいな」
ぽつりとした呟きは聞こえてしまっただろうか。
銀の竜は、上へ上へとあがっていってしまった。
──久しぶりに夢を見た。
懐かしい夢だった。
私は水族館にいて、大きな水槽の中を雄大に泳ぐ彼らを見つめている。
子供の頃に、小学校の遠足でそこにいった。
近所では一番大きな水族館で、いや、国内でも有数の巨大な海洋生物が見られる水族館で、海洋研究所もかねていた。
故郷は海に近い場所だった。少しいくと磯の香りがして、その香りとともに育った。
「せんせい、せんせい」
私は先生にこういった。
「この子たち、こんなせまいばしょじゃ、かわいそう」
海を知っていたからかもしれない。
父の友人の船に乗って、海で鯨やシャチの背をみていたからかもしれない。
面と向かって相対したときに、その目から何かを感じ取った。
「いっしょに、うみにつれていきたい」
今思えばわがままだ。
余計なお世話で、その生き物たちの飼育員からしたら激怒するような言葉だったかもしれない。
「だめだよ」
先生は私に優しく諭す。
「この子たちは、ここで生きるようになっているの。だから、どこにもつれていけないのよ」
私は先生の目が切なげだったことを忘れなかった。
私も同じ目をして、彼らを見つめて、その場を去った。
「…………?」
目を開けると、すぐ前に銀の竜がいた。
「おはよう」
寝ぼけていたのだろう、ついいつもの癖で呟いてしまった。
案の定、銀の竜は小首をかしげている。
「……おはよう、とは?」
「朝起きたらする挨拶だよ。……ああ、でも朝か夜かここじゃわからないか」
上を見上げる。
相も変わらず真っ暗で、その先は見えやしない。
銀の竜も同じように上を見上げた。
「挨拶とは、出会ったときにするのか」
「そうだね。そうかも。出会いと、別れのときかな」
気付けばずいぶんと、周りは綺麗になっていた。
あとはほんのわずかな残骸と、私のいる装置とシェルターくらいのものだった。
ああ、と私は気付いた。
彼は私がいることに気付いて、『食べる順番』を遅らせていたのだ。
「いっぱい言葉があるんだよ」
これが最後なら、もう少し言葉を交わしたかった。
きっと私と彼は似たもの同士だ。私も彼も、もうお互いを除けば誰もいないのだ。
だったらもう少し。私の知っていたことを、離しておきたくなった。
「おはよう、は朝の挨拶。こんにちは、は昼の挨拶。こんばんは、は夜の挨拶。他にもおやすみなさい、って寝る前にいったり、またね、ってまた会えるときはそういうの」
それから私は付け足した。
「二度と会えないときは、さようならって声をかけるんだよ」
銀の竜は私に言った。
「では」
その言葉を覚悟した。
「またね、だ」
「──は……」
思わず呆けてしまった。
覚悟した言葉ではなかった。
銀の竜は呆けたままの私を置いて、上へ上へと上がっていった。
ほんのわずかな残骸と取り残されてから、結構経ったと思う。
銀の竜は時折やってきては、私の思い出話をきいて帰っていく。
その繰り返しが、私の日常になった。
不思議なことに私はのまず食わずでも平気だった。立ったり、座ったりして辺りを見渡しても、もう何もない。
暗い暗い海の底だ。終わった世界とは正しい言葉だと思う。
そういえば、銀の竜はどんどん終わった世界が積み重なるといっていた。
いつかは、私の世界の上にもごつんと別の世界がぶつかって、積み重なっていくのだろうか。
あるいは。
今この瞬間にも、私は誰かの世界を押しつぶしてしまっているのだろうか。
「やあ」
銀の竜がやってきた。
いつにもまして、キラキラと輝いていた。
そっとシェルターの壁に手を当てる。
透明で透き通った壁。私と彼を隔てる壁。もう冷たいも熱いもわからない身体で触れると、それが薄いか厚いかもわからない。
銀の竜は、私に顔を近づけていった。
「今日は、お前に大事な話がある」
私は息をのんだ。
ついにお別れかもしれないと思った。
「お前は、前にこの外側を気にしていた」
「うん」
「私は、お前をそこに連れて行きたいと思う」
銀の竜は上をみあげた。
私もつられて視線をあげる。
ほの暗い闇がじわじわと広がっている。
「お前はそこから出れば、泡となって消えてしまうだろう。そうならないためには、『私と同じ』になるしかない」
「それは、しぬってこと?」
「そうともいうかもしれない」
彼からそういわれて、私はその闇が恐ろしくなった。
とっくに諦めていたことを突きつけられて、少しだけ怖くなった。
「お前を世界の一部として登録するんだ。世界にお前を食べさせねばならない」
「それは、痛い?」
「痛みはない。……と思う」
困ったような表情を浮かべる彼を、私はとても愛おしく思った。
きっと、彼もわからないのだ。
おそらくは思いつきで、おそらくは前例のないことなのだろう。
私の願いを、叶えてやろうと彼なりに考えた結果なのかもしれない。
そう思ったら、食べられると思うと怖かったのに、なんだかその気持ちも薄れていった。
「うまくいったら、私、貴方に名前をあげるね」
目を瞑って、脳裏に浮かぶ思い出にさようならと告げる。
「私の名前は貴方がつけて」
「お前の名前を?」
「うん。貴方と一緒になるってことは、きっと生まれ変わるってことだと思うから」
ふと夢を思い出していた。
水族館で、先生を困らせた夢だ。
私では連れ出してあげられなかった。
けれどここに先生はいない。
飼育員もいない。
何もない。私と彼とを隔てるものは、きっとこのシェルターだけだ。
それが怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて、けれど愛おしい。
狂おしいほどの愛情が胸を締め付けた。
ここでずっとひとりぼっちで、いつ終わるかもわからないときをすごすよりは、よっぽど素敵だと思った。
少なくとも私はそう思った。
きっとあの時も私はそう思ったのだ。
私がそう思ったから、相手もそうかもしれないといてもたってもいられなくなったのだろう。
銀の竜は、私の返答をきいてうなずいた。
「わかった。それでは、共に行こう」
ばきんと装置からシェルターが外れた。
銀の竜がその牙を持って装置を壊したからだった。
私を入れたシェルターは、銀の竜と共にふわふわと上へ上がっていく。
彼ははぐれないように、私のシェルターを抱いてくれた。
「本当は寂しかったのかもしれない」
彼は言った。
「お前のようなものが残っているのは初めてで、意思あるものと会話したのは初めてだった」
徐々に景色が変わっていく。
世界の残骸が遠くなって、空だったものが近くなる。
「こんな行為も、あるいはお前を近くにおいておくための口実かもしれない」
「うん、うん」
「どうして、このような気持ちになるのだろうか」
銀の竜を抱きしめるように、シェルターの壁にもたれかかる。
「私は、たとえ貴方が提案しなくても、きっと貴方と共にいきたいといったよ」
──景色が変わる。
空だったはずの天井の裂け目から、私たちは飛び出した。
眼前に広がるのは無数の星だ。
夜空を照らす、いくつもの星。数多の星が、その海できらめている。
「わあ……」
息をのむ。
昔、真夜中に目が覚めたときの夜空を思い出した。
満天の星空というやつで、それはそれは綺麗だった。
「私をおいて旅立った子達は、どこへ?」
「みえるだろう。まだ輝いている世界たちが」
「この光っている、星たちのこと?」
「ああ、お前たちの中ではそういうのかもしれない」
銀の竜は、この中に彼らはいったのだといった。
近づけばこの星は銀の竜を除いて万物を吸い込んでいき、そうして大きく育っていくのだという。
例外は銀の竜だけだ。星たちはまばらに散っているようにみえて、それぞれ一定の距離を保っているのだという。
お互いを、飲み込んでしまわないように、だ。
「大きく育った星は、管理者が食べるのだ」
「どうして?」
「大きくなりすぎては、いずれ全てを一つにしてしまう」
「それはだめなことなの?」
「その世界が終わったら、管理者は食べるものがなくなってしまうからだ。私にも存在理由がなくなる」
「つまりこの世界が終わってしまうってことなんだね」
食物連鎖というやつは、どこでも一緒らしい。
その頂点にいるものは得体の知れない生物だというものも、世界共通なのかもしれなかった。
「世界は新たに生まれないの?」
「その世界を紡ぐものが生まれれば、あるいは」
「じゃあ、大きくなって、全て一緒になっても大丈夫だよ。いつか補充されるかもしれない」
「ああ、けれど永遠に生まれないかもしれない」
「なるほど。貴方たちにもそれがわからないから、大きく減らしたりしないんだね」
「そうかもしれないな」
きっと彼らは言葉を交わさないのだろう。
銀の竜と彼曰くの管理者というやつは、お互いの存在を認識していても会話もしなければ干渉もしない。
そういう関係性なのかもしれなかった。
私と銀の竜ととは、少し違う。
銀の竜は、私をつれて海面近くまで浮上した。
海面より上は、真っ暗だった。もしかしたらそれが、宇宙というやつなのかもしれなかった。
「あ」
目を凝らすと、その闇の中から大きな口が見えた。
管理者というヤツなのかもしれなかったし、私たちが『神様』と呼んでいたやつかもしれなかった。
銀の竜が、ぽん、と私を海面からあげた。
──ぱり。ぱりぱり。
シェルターに皹が入る。
そうかと思ったら、まるで繊細なガラスのように、それは粉々に砕けて散ってしまった。
私の身体だけが、宙に浮かぶ。
すぐに身体を銀色の光が包み込んだ。
光に包まれた私の身体を、闇の中にたたずむ大きな口がばくんとそのまま飲み込んだ。
目が覚めると、そこには何もなかった。
真っ白な空間に、男がいて、彼には顔がなかった。
男は真っ黒だった。口だけはあるものの、目や鼻といったパーツは見えない。
「あの」
私は声をかけた。彼は言った。
「あの子が私に声をかけたのは初めてでした」
「はい?」
「お互い干渉しないように作られているんです。私たち、世界を管理するものは平等でなければならないので」
声はどこまでも紳士的だった。
化け物のようには思えなかった。
「まあ、貴方も世界のバグみたいなものでしょう。消えていくはずだったのに、残ってしまった」
「貴方たちも、誰かに紡がれている、ということですか?」
「さあ? どうでしょうね。我々はここにある世界を管理することが役割ですが、それ以上のことを知りません」
ああ、それで銀の竜の答えが曖昧だったのか。
私はようやく理解できた。
しりようもないことを、なんとなくで答えているのだ。
けれど私にはそれが心地よかった。
答えようとしてくれることが、気持ちよかったのかもしれない。
「あの子に教えてくれたこと。私も共有させてもらいました。それがとても爆発的なエネルギーに変換されて、正直びっくりしてしまいました」
「私、とくに何も教えては」
「私たちには知りえないことを、たくさん話してくれたじゃないですか」
思い出話のことをいっているのか。はたまた挨拶のことをいっているのか。
たわいない世間話のつもりだった。
それが彼らには、何か利益のあるものだったらしい。
「どうぞ。私の職権を貴方に与えましょう。この世界たちが消えてなくならないように、あの子と管理するのです」
「貴方は?」
「私は、貴方の話をきいて、このエネルギーを経て、次のステップに進めそうです。いろんな世界に干渉して、貴方のようなひとと出会い、いろんな世界を紡いで、この星の海を満たすのです」
本当にありがとう、と彼は言った。
そうして、私の額に触れた。
暖かな光が流れ込んでくる。身体のつくりを組みかえられているような不安感と、母の胎内に包まれているような安心感。
その二つがせめぎあって、私を揺すった。
磯の香りがした。
懐かしい香りだった。
故郷の海はもう飲まれてしまって、どこにもないけれど──私の記憶の中には、まだあるのだと思った。
「ああ、そうだ。最後にきかせてくれ」
彼はいった。
「君は君の世界で、異端者だったか?」
「さあ……? よくかわってるね、とはいわれましたけど」
その返答で十分のようだった。
彼は微笑むと、「そうか」といった。
そうして両手を広げて、私を歓迎するように、彼の口は笑顔になった。
目がみえなくても、笑っているのだとわかった。
「ようこそ、我々の世界へ」
彼は言った。
私の視界は光で真っ白になった。
ほどなくして、目を開けると私はどこかを漂っているようだった。
聞き覚えのある波音と、ゆらゆらと浮かぶ感覚はどこか懐かしいと思った。
「やあ」
これまた聞き覚えのある声だった。
久しぶりにきいた気がした。どれほど私は眠っていたのだろう。
寝ていた上半身を起こすと、眼前には海が広がっていた。
声は真下からしていた。
視線をおとすと、私は『彼』の上に乗っているようだった。
「……うまくいったようで、よかった」
銀の竜が、私を乗せて海面近くを泳いでいた。
彼はどこかほっと安堵しているようだった。
顔が見えなくても、声音からそう感じた。
心地よい気分だった。私は彼の身体を滑り落ちて、海に落ちた。
「すごい。みて、私、海の中でも平気」
「私と同じになる、といっただろう?」
「うん、うん!」
海の中で私は自由だった。
彼の隣で、シェルターが私たちを隔てることはなく、自由に泳ぐことができた。
連れ去られたときのままだったセーラー服は、やはりそのままだった。
不思議な光景だ。
セーラー服がひらひらと海の中を舞う。まるで私と一体になったようだ。
もはやそれを脱ぎ捨てようとは思わない。
水着の方がよかったとも思わない。
「レガレクス」
「?」
「貴方の名前よ。私の世界にはね、リュウグウノツカイ、という海洋生物がいたのだけど、貴方はそれに少し似ているの」
つけてあげるって、いってたでしょう。というと銀の竜はうれしそうに私に頬ずりした。
「では私からも」
不思議なことで、私は少しドキドキしていた。
名前をもらうのは二度目だが、最初のときの記憶は当然ながらない。
もうそのときの私でもないのだから、二度目というのもおかしいのかもしれないが。
「ラナ、というのはどうだろう」
「ラナ?」
「どこかで見た単語だ。私には意味がわからないが」
私にもその意味はわからなかった。
けれども素敵な名前に感じた。
きっと名前というのは、貰ったらうれしいものなのだと思った。
「それじゃ、いこうか。ラナ」
「うん、レガレクス」
私を背に乗せて、銀の竜は海深くにもぐっていく。
彼が、レガレクスが光るのと同じくして、私の身体も淡く光っていた。
まるで魚にでもなった気分だ。
ああ、もっとはやくこうなりたかった。
「今はどのくらい、世界の残骸が底にあるの?」
「しばらくラナの周りをうろうろしていたからなあ──」
レガレクスはそういうと、頬をやんわりと朱色に染めた。
意図的にそうしてもらっていたなんて、なんだか夢のような話だった。
私が誰もいないなかで、まるで太陽にすがるように彼を求めていたように、彼もまた、私を大事に思っていたことは少なからずとも嬉しかった。
「結構たまっているかもしれない。食べられるだけ食べたら、私の寝床で寝よう。誰かと何かを食べるのは初めてだ」
「私も食べられるようになってるんだね」
「そうだ。私と同じになったのだ。安心してほおばるがいい。そして教えてくれ。『美味しい』ものなのかを」
──初めてあったときを思い出した。
そうだ、私は彼の食べっぷりをみて思わずお腹を空かせたのだ。
それが、美味しそうにみえたのだ。
今は私がそれを、彼と食べることができる。
味はしないのかもしれないと適当に思っていたけれど、それを実証することが今はできる。
そう思うと私もわくわくした。
久しぶりに『食べる』という行為をすることが。
彼と一緒に食べるという行為をすることが。
シェルター越しではない、彼の世界で過ごせることが。
何よりも嬉しく思えた。
──そうして、彼のはじめてが私ということも、なんだか嬉しかった。
「うん。美味しいものと美味しくないもの、私と一緒にみつけていこうね」
「ああ」
レガレクスと共に、私は海の底に辿り着く。
私のそれと同じように、壊れた天井からぬるりと入り込んだ。
私たち二人ならば、二人だけの世界でも生きていける気がした。
「さあ、食事の時間だ」
がらがらと雷とはまた違った音が鳴った。
皹が入った場所から、またべりべりと皮が剥がれるように、今まで空だったものが、あっけなく崩れ落ちていく。
崩れた場所から、流れ込むように水が入ってきた。
雨ではない。水だ。まるで船に穴が開いて、そこから水が入り、今まさに沈没していく──そんなふうだった。
人々は阿鼻叫喚のそれで、地獄の亡者のように泣いて喚いて暴れ狂って、それからその水に飲まれていった。
泣いて願うものもいた。祈るものもいた。子供を抱えて、守ろうと身を縮めるものもいた。
しかしみんな等しく、その水に飲まれていった。
飲まれたあとは一瞬だ。
泡となって、ぽんっと消える。
その光景をみた遠く、まだ水の手の届かない場所にいる人々が、その表情を絶望に深めていた。
あるものはそれをみて、神が起こした洪水だといった。
あるものはそれをみて、悪魔が現世を滅ぼそうとしているといった。
あるものはそれをみて、天変地異だと自然を憎んだ。
事実としてどうでもよいと私は思った。誰がどうだったとしても、今の私たちには成す術なんてないのだ。
少し遠くのほうで、ぱん、と乾いた音がした。
煙が上がっていた。二回目の音がして、男と子が倒れていた。
彼らは平穏な日常を愛していたのだろう。
それが壊されることに耐えられなかったのだと、私は思った。
私はそれらを、シェルターだという丸い卵のような、透明な容器から見ていた。
隣にも同じ容器がたくさん装置にセットされていて、中には同じくらいの子供たちが入れられている。
彼らにとっては今日この一瞬がまさに地獄の始まり、平穏の終わりだっただろうが──。
私たちは、もっと前から、平穏な日常なんてものは終わっていた。
ほどなくして、世界のあちこちに水が満ちた。地上に足をつけていたものは、一人残らず消えてなくなってしまった。
残っているのは、まだ、かろうじて地上ではなく、少し高くなった場所にいるものだけだ。
それも三十分ほどで泡へと変わってしまって、残ったのは私たちだけになった。
一人分のシェルターの中で、私たちは全てをみた。
未来が閉ざされた世界の崩壊を記録しておくために、次へとつなげる種子なのだと白衣をきた男たちは私たちに言っていた。
「選ばれた人間だよ、君たちは。誇ったっていい」
よくそういって私たちを、うらやむような、いつくしむような、そういうよくわからない目でみていた。
それがどういうことを意味するのか、私たちはよく理解していなかったけれど、家族と切り離されて、日常と切り離されて、一ヶ月ほどここにいる。
もう逃げることも死ぬことも諦めていた。
しばらくすると、世界は水で完全に満たされてしまって、まるで海の中のようになった。
シェルターのいくつかは装置を外れて、ふわふわと浮かび上がって、上へ上へと出て行った。
私のシェルターはいつまで経っても外れなかった。
故障していたのか、タイマーで順番に外れていくようにセットされていたのか、そのへんは定かではない。
することもなくなって、みるものもなくなって、私は体育座りをして、ぼうと上を見上げていた。
光が徐々に耐えていって、周囲がずんと暗くなった。
海の底に沈んでいくようだった。
「あ」
ふと頭上で何かがきらめいた。
赤い光を感じた。
なんだろうと目を凝らすと、暗闇の中から目が浮かび上がった。
──そこからは一瞬だ。
目の前に周囲を照らすような光を帯びた竜がたたずんでいた。
ぶわりと全身に鳥肌が立った。
銀の竜だ。赤い目と赤いひげを携えた、綺麗な竜。
彼との視線が交錯した時間などほんの数秒だったのだろうが、私には永遠に感じられた。
銀の竜は穏やかに海を泳いだ。
そこらに散らばる瓦礫など、文明の残骸など気にも留めないようだった。──否、違う。
見定めている。まるでレストランのメニュー表をみるかのように、彼は品定めをしている。
それからその大きな口をあけると、私たちの世界の一部、文明の象徴のようだったビルの残骸をばくりと食べてしまった。
「……美味しそう」
銀の竜が、ではない。
彼の食べっぷりをみていると、彼の食べている文明の残骸はとても美味しそうに見えた。
思えば長い間食事をとっていない気がした。
「うん?」
「!」
銀の竜が、こちらを振り返った。
赤い目が再び私を射抜く。
思わず姿勢を正してしまった。銀の竜が近づいてくる。近づいてくればくるほど、私とは格段に違う大きさだということがわかる。
水族館で、初めてシャチやらエイやらの大きな生き物たちと対面したときを思い出した。
あれが鯨だったなら、きっとこんな気持ちになったのかもしれない。
「──おや、珍しい。まだ『生き物』が残っていたとは」
銀の竜は私を、物珍しげに見つめてきた。
「なるほど、お前はそこに固定されているのか。だから他のものと違って、飛び出していかなかったのだな」
「他のみんなは、いってしまったの?」
「ああ。皆例外なく旅立った。ここに残っているのは、お前だけだ」
不思議と寂しくはならなかった。
そこにまだ彼がいたからなのか、はたまた、最初から一人ぼっちだと思っていたからなのか、よくわからなかった。
容器越しに、彼に手を当てる。
感触は伝わってこなくても、彼に触れているような錯覚をおぼえた。
「あの、貴方は?」
「私か」
銀の竜は赤いひげをふわふわと水に遊ばせながらいった。
「とくに名はない。必要でもない」
意味はわからなかった。
けど理解はできた。
「さっきの、美味しかった?」
たまらず私は尋ねた。
答えを期待していたわけではない。
久しぶりに誰かと会話したかったからかもしれない。
たわいのない世間話、意味などない会話だ。
「美味しい?」
銀の竜は首をかしげた。
「はて、そのような『感情』は持っていないので答えようがない」
瓦礫に味などないのかもしれなかった。
「お前にはそうみえたのか?」
私はうなずいた。
長らく忘れていた空腹を思い出させたのは、事実だった。
「だったらそうなのかもしれないな」
ひどく曖昧な答えだった。
けど私にはそれで十分だった。
銀の竜は、私の容器にこつんと体を当てた。
シェルターというだけあって、壊れそうになかった。また、装置から外れそうにもなかった。
故障だ。きっと、いやほとんど間違いないだろう。
あるいは、私はここに残る運命だったのかもしれない。
それから毎日、銀の竜とすごした。
いや、時間という概念はここに存在していないようだった。
少なくともどれくらい時間が経ったのか、もうわからない。
時計がなければ、太陽も差さない。私の視界に光を与えてくれるのは、いまや銀の竜だけだった。
「世界の残骸を食べている」
そう銀の竜は言った。
「お前たちの世界のように、壊れて、失われてしまった、『終わった世界』というものはこうしてこの海に沈むのだ」
「終わった世界?」
「未来が閉ざされた、ともいうのかもしれない」
「先がないってこと?」
「そうだ。どの世界にもその世界を紡ぎ続ける存在がいる。それをお前たちはおそらく神と呼ぶのだろう。そいつが死んだんだ。つまりお前たちの世界は、もう誰にも紡がれない」
「まるで、物語の住人みたいね。私たち」
上を見上げる。
水の入ってきていた場所からは、もう何も見えない。真っ暗で、何もない。
「この世界の外側も、ずっと海なの?」
銀の竜は私の上でとぐろを巻いた。
「ああ。そうだ。ずっと、広い海だ。ここには果てがない」
「じゃあ、ここの神様は死なないの?」
「ここに神様はいないさ」
「貴方は?」
私が訪ねると、銀の竜は笑った。
「私は違う。私は世界が生み出した、システムのようなものだ。瓦礫はこのままだと消えていかず、海の底に積もっていく。だからこうして、食べているのだ」
水に触れて、泡にかわっていった人々を思い出した。
有機物はそうして、この水で溶けていけるのかもしれなかった。
「私もここから出て、外を見てみたいな」
ぽつりとした呟きは聞こえてしまっただろうか。
銀の竜は、上へ上へとあがっていってしまった。
──久しぶりに夢を見た。
懐かしい夢だった。
私は水族館にいて、大きな水槽の中を雄大に泳ぐ彼らを見つめている。
子供の頃に、小学校の遠足でそこにいった。
近所では一番大きな水族館で、いや、国内でも有数の巨大な海洋生物が見られる水族館で、海洋研究所もかねていた。
故郷は海に近い場所だった。少しいくと磯の香りがして、その香りとともに育った。
「せんせい、せんせい」
私は先生にこういった。
「この子たち、こんなせまいばしょじゃ、かわいそう」
海を知っていたからかもしれない。
父の友人の船に乗って、海で鯨やシャチの背をみていたからかもしれない。
面と向かって相対したときに、その目から何かを感じ取った。
「いっしょに、うみにつれていきたい」
今思えばわがままだ。
余計なお世話で、その生き物たちの飼育員からしたら激怒するような言葉だったかもしれない。
「だめだよ」
先生は私に優しく諭す。
「この子たちは、ここで生きるようになっているの。だから、どこにもつれていけないのよ」
私は先生の目が切なげだったことを忘れなかった。
私も同じ目をして、彼らを見つめて、その場を去った。
「…………?」
目を開けると、すぐ前に銀の竜がいた。
「おはよう」
寝ぼけていたのだろう、ついいつもの癖で呟いてしまった。
案の定、銀の竜は小首をかしげている。
「……おはよう、とは?」
「朝起きたらする挨拶だよ。……ああ、でも朝か夜かここじゃわからないか」
上を見上げる。
相も変わらず真っ暗で、その先は見えやしない。
銀の竜も同じように上を見上げた。
「挨拶とは、出会ったときにするのか」
「そうだね。そうかも。出会いと、別れのときかな」
気付けばずいぶんと、周りは綺麗になっていた。
あとはほんのわずかな残骸と、私のいる装置とシェルターくらいのものだった。
ああ、と私は気付いた。
彼は私がいることに気付いて、『食べる順番』を遅らせていたのだ。
「いっぱい言葉があるんだよ」
これが最後なら、もう少し言葉を交わしたかった。
きっと私と彼は似たもの同士だ。私も彼も、もうお互いを除けば誰もいないのだ。
だったらもう少し。私の知っていたことを、離しておきたくなった。
「おはよう、は朝の挨拶。こんにちは、は昼の挨拶。こんばんは、は夜の挨拶。他にもおやすみなさい、って寝る前にいったり、またね、ってまた会えるときはそういうの」
それから私は付け足した。
「二度と会えないときは、さようならって声をかけるんだよ」
銀の竜は私に言った。
「では」
その言葉を覚悟した。
「またね、だ」
「──は……」
思わず呆けてしまった。
覚悟した言葉ではなかった。
銀の竜は呆けたままの私を置いて、上へ上へと上がっていった。
ほんのわずかな残骸と取り残されてから、結構経ったと思う。
銀の竜は時折やってきては、私の思い出話をきいて帰っていく。
その繰り返しが、私の日常になった。
不思議なことに私はのまず食わずでも平気だった。立ったり、座ったりして辺りを見渡しても、もう何もない。
暗い暗い海の底だ。終わった世界とは正しい言葉だと思う。
そういえば、銀の竜はどんどん終わった世界が積み重なるといっていた。
いつかは、私の世界の上にもごつんと別の世界がぶつかって、積み重なっていくのだろうか。
あるいは。
今この瞬間にも、私は誰かの世界を押しつぶしてしまっているのだろうか。
「やあ」
銀の竜がやってきた。
いつにもまして、キラキラと輝いていた。
そっとシェルターの壁に手を当てる。
透明で透き通った壁。私と彼を隔てる壁。もう冷たいも熱いもわからない身体で触れると、それが薄いか厚いかもわからない。
銀の竜は、私に顔を近づけていった。
「今日は、お前に大事な話がある」
私は息をのんだ。
ついにお別れかもしれないと思った。
「お前は、前にこの外側を気にしていた」
「うん」
「私は、お前をそこに連れて行きたいと思う」
銀の竜は上をみあげた。
私もつられて視線をあげる。
ほの暗い闇がじわじわと広がっている。
「お前はそこから出れば、泡となって消えてしまうだろう。そうならないためには、『私と同じ』になるしかない」
「それは、しぬってこと?」
「そうともいうかもしれない」
彼からそういわれて、私はその闇が恐ろしくなった。
とっくに諦めていたことを突きつけられて、少しだけ怖くなった。
「お前を世界の一部として登録するんだ。世界にお前を食べさせねばならない」
「それは、痛い?」
「痛みはない。……と思う」
困ったような表情を浮かべる彼を、私はとても愛おしく思った。
きっと、彼もわからないのだ。
おそらくは思いつきで、おそらくは前例のないことなのだろう。
私の願いを、叶えてやろうと彼なりに考えた結果なのかもしれない。
そう思ったら、食べられると思うと怖かったのに、なんだかその気持ちも薄れていった。
「うまくいったら、私、貴方に名前をあげるね」
目を瞑って、脳裏に浮かぶ思い出にさようならと告げる。
「私の名前は貴方がつけて」
「お前の名前を?」
「うん。貴方と一緒になるってことは、きっと生まれ変わるってことだと思うから」
ふと夢を思い出していた。
水族館で、先生を困らせた夢だ。
私では連れ出してあげられなかった。
けれどここに先生はいない。
飼育員もいない。
何もない。私と彼とを隔てるものは、きっとこのシェルターだけだ。
それが怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて、けれど愛おしい。
狂おしいほどの愛情が胸を締め付けた。
ここでずっとひとりぼっちで、いつ終わるかもわからないときをすごすよりは、よっぽど素敵だと思った。
少なくとも私はそう思った。
きっとあの時も私はそう思ったのだ。
私がそう思ったから、相手もそうかもしれないといてもたってもいられなくなったのだろう。
銀の竜は、私の返答をきいてうなずいた。
「わかった。それでは、共に行こう」
ばきんと装置からシェルターが外れた。
銀の竜がその牙を持って装置を壊したからだった。
私を入れたシェルターは、銀の竜と共にふわふわと上へ上がっていく。
彼ははぐれないように、私のシェルターを抱いてくれた。
「本当は寂しかったのかもしれない」
彼は言った。
「お前のようなものが残っているのは初めてで、意思あるものと会話したのは初めてだった」
徐々に景色が変わっていく。
世界の残骸が遠くなって、空だったものが近くなる。
「こんな行為も、あるいはお前を近くにおいておくための口実かもしれない」
「うん、うん」
「どうして、このような気持ちになるのだろうか」
銀の竜を抱きしめるように、シェルターの壁にもたれかかる。
「私は、たとえ貴方が提案しなくても、きっと貴方と共にいきたいといったよ」
──景色が変わる。
空だったはずの天井の裂け目から、私たちは飛び出した。
眼前に広がるのは無数の星だ。
夜空を照らす、いくつもの星。数多の星が、その海できらめている。
「わあ……」
息をのむ。
昔、真夜中に目が覚めたときの夜空を思い出した。
満天の星空というやつで、それはそれは綺麗だった。
「私をおいて旅立った子達は、どこへ?」
「みえるだろう。まだ輝いている世界たちが」
「この光っている、星たちのこと?」
「ああ、お前たちの中ではそういうのかもしれない」
銀の竜は、この中に彼らはいったのだといった。
近づけばこの星は銀の竜を除いて万物を吸い込んでいき、そうして大きく育っていくのだという。
例外は銀の竜だけだ。星たちはまばらに散っているようにみえて、それぞれ一定の距離を保っているのだという。
お互いを、飲み込んでしまわないように、だ。
「大きく育った星は、管理者が食べるのだ」
「どうして?」
「大きくなりすぎては、いずれ全てを一つにしてしまう」
「それはだめなことなの?」
「その世界が終わったら、管理者は食べるものがなくなってしまうからだ。私にも存在理由がなくなる」
「つまりこの世界が終わってしまうってことなんだね」
食物連鎖というやつは、どこでも一緒らしい。
その頂点にいるものは得体の知れない生物だというものも、世界共通なのかもしれなかった。
「世界は新たに生まれないの?」
「その世界を紡ぐものが生まれれば、あるいは」
「じゃあ、大きくなって、全て一緒になっても大丈夫だよ。いつか補充されるかもしれない」
「ああ、けれど永遠に生まれないかもしれない」
「なるほど。貴方たちにもそれがわからないから、大きく減らしたりしないんだね」
「そうかもしれないな」
きっと彼らは言葉を交わさないのだろう。
銀の竜と彼曰くの管理者というやつは、お互いの存在を認識していても会話もしなければ干渉もしない。
そういう関係性なのかもしれなかった。
私と銀の竜ととは、少し違う。
銀の竜は、私をつれて海面近くまで浮上した。
海面より上は、真っ暗だった。もしかしたらそれが、宇宙というやつなのかもしれなかった。
「あ」
目を凝らすと、その闇の中から大きな口が見えた。
管理者というヤツなのかもしれなかったし、私たちが『神様』と呼んでいたやつかもしれなかった。
銀の竜が、ぽん、と私を海面からあげた。
──ぱり。ぱりぱり。
シェルターに皹が入る。
そうかと思ったら、まるで繊細なガラスのように、それは粉々に砕けて散ってしまった。
私の身体だけが、宙に浮かぶ。
すぐに身体を銀色の光が包み込んだ。
光に包まれた私の身体を、闇の中にたたずむ大きな口がばくんとそのまま飲み込んだ。
目が覚めると、そこには何もなかった。
真っ白な空間に、男がいて、彼には顔がなかった。
男は真っ黒だった。口だけはあるものの、目や鼻といったパーツは見えない。
「あの」
私は声をかけた。彼は言った。
「あの子が私に声をかけたのは初めてでした」
「はい?」
「お互い干渉しないように作られているんです。私たち、世界を管理するものは平等でなければならないので」
声はどこまでも紳士的だった。
化け物のようには思えなかった。
「まあ、貴方も世界のバグみたいなものでしょう。消えていくはずだったのに、残ってしまった」
「貴方たちも、誰かに紡がれている、ということですか?」
「さあ? どうでしょうね。我々はここにある世界を管理することが役割ですが、それ以上のことを知りません」
ああ、それで銀の竜の答えが曖昧だったのか。
私はようやく理解できた。
しりようもないことを、なんとなくで答えているのだ。
けれど私にはそれが心地よかった。
答えようとしてくれることが、気持ちよかったのかもしれない。
「あの子に教えてくれたこと。私も共有させてもらいました。それがとても爆発的なエネルギーに変換されて、正直びっくりしてしまいました」
「私、とくに何も教えては」
「私たちには知りえないことを、たくさん話してくれたじゃないですか」
思い出話のことをいっているのか。はたまた挨拶のことをいっているのか。
たわいない世間話のつもりだった。
それが彼らには、何か利益のあるものだったらしい。
「どうぞ。私の職権を貴方に与えましょう。この世界たちが消えてなくならないように、あの子と管理するのです」
「貴方は?」
「私は、貴方の話をきいて、このエネルギーを経て、次のステップに進めそうです。いろんな世界に干渉して、貴方のようなひとと出会い、いろんな世界を紡いで、この星の海を満たすのです」
本当にありがとう、と彼は言った。
そうして、私の額に触れた。
暖かな光が流れ込んでくる。身体のつくりを組みかえられているような不安感と、母の胎内に包まれているような安心感。
その二つがせめぎあって、私を揺すった。
磯の香りがした。
懐かしい香りだった。
故郷の海はもう飲まれてしまって、どこにもないけれど──私の記憶の中には、まだあるのだと思った。
「ああ、そうだ。最後にきかせてくれ」
彼はいった。
「君は君の世界で、異端者だったか?」
「さあ……? よくかわってるね、とはいわれましたけど」
その返答で十分のようだった。
彼は微笑むと、「そうか」といった。
そうして両手を広げて、私を歓迎するように、彼の口は笑顔になった。
目がみえなくても、笑っているのだとわかった。
「ようこそ、我々の世界へ」
彼は言った。
私の視界は光で真っ白になった。
ほどなくして、目を開けると私はどこかを漂っているようだった。
聞き覚えのある波音と、ゆらゆらと浮かぶ感覚はどこか懐かしいと思った。
「やあ」
これまた聞き覚えのある声だった。
久しぶりにきいた気がした。どれほど私は眠っていたのだろう。
寝ていた上半身を起こすと、眼前には海が広がっていた。
声は真下からしていた。
視線をおとすと、私は『彼』の上に乗っているようだった。
「……うまくいったようで、よかった」
銀の竜が、私を乗せて海面近くを泳いでいた。
彼はどこかほっと安堵しているようだった。
顔が見えなくても、声音からそう感じた。
心地よい気分だった。私は彼の身体を滑り落ちて、海に落ちた。
「すごい。みて、私、海の中でも平気」
「私と同じになる、といっただろう?」
「うん、うん!」
海の中で私は自由だった。
彼の隣で、シェルターが私たちを隔てることはなく、自由に泳ぐことができた。
連れ去られたときのままだったセーラー服は、やはりそのままだった。
不思議な光景だ。
セーラー服がひらひらと海の中を舞う。まるで私と一体になったようだ。
もはやそれを脱ぎ捨てようとは思わない。
水着の方がよかったとも思わない。
「レガレクス」
「?」
「貴方の名前よ。私の世界にはね、リュウグウノツカイ、という海洋生物がいたのだけど、貴方はそれに少し似ているの」
つけてあげるって、いってたでしょう。というと銀の竜はうれしそうに私に頬ずりした。
「では私からも」
不思議なことで、私は少しドキドキしていた。
名前をもらうのは二度目だが、最初のときの記憶は当然ながらない。
もうそのときの私でもないのだから、二度目というのもおかしいのかもしれないが。
「ラナ、というのはどうだろう」
「ラナ?」
「どこかで見た単語だ。私には意味がわからないが」
私にもその意味はわからなかった。
けれども素敵な名前に感じた。
きっと名前というのは、貰ったらうれしいものなのだと思った。
「それじゃ、いこうか。ラナ」
「うん、レガレクス」
私を背に乗せて、銀の竜は海深くにもぐっていく。
彼が、レガレクスが光るのと同じくして、私の身体も淡く光っていた。
まるで魚にでもなった気分だ。
ああ、もっとはやくこうなりたかった。
「今はどのくらい、世界の残骸が底にあるの?」
「しばらくラナの周りをうろうろしていたからなあ──」
レガレクスはそういうと、頬をやんわりと朱色に染めた。
意図的にそうしてもらっていたなんて、なんだか夢のような話だった。
私が誰もいないなかで、まるで太陽にすがるように彼を求めていたように、彼もまた、私を大事に思っていたことは少なからずとも嬉しかった。
「結構たまっているかもしれない。食べられるだけ食べたら、私の寝床で寝よう。誰かと何かを食べるのは初めてだ」
「私も食べられるようになってるんだね」
「そうだ。私と同じになったのだ。安心してほおばるがいい。そして教えてくれ。『美味しい』ものなのかを」
──初めてあったときを思い出した。
そうだ、私は彼の食べっぷりをみて思わずお腹を空かせたのだ。
それが、美味しそうにみえたのだ。
今は私がそれを、彼と食べることができる。
味はしないのかもしれないと適当に思っていたけれど、それを実証することが今はできる。
そう思うと私もわくわくした。
久しぶりに『食べる』という行為をすることが。
彼と一緒に食べるという行為をすることが。
シェルター越しではない、彼の世界で過ごせることが。
何よりも嬉しく思えた。
──そうして、彼のはじめてが私ということも、なんだか嬉しかった。
「うん。美味しいものと美味しくないもの、私と一緒にみつけていこうね」
「ああ」
レガレクスと共に、私は海の底に辿り着く。
私のそれと同じように、壊れた天井からぬるりと入り込んだ。
私たち二人ならば、二人だけの世界でも生きていける気がした。
「さあ、食事の時間だ」
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