夜には奴らがやってくる

野墓咲

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夜には奴らがやってくる

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 黄昏時までアパートの雨戸をがたがたと揺らしていた荒風は、何処かへ消え去っていた。窓の外は静まり返っていて、物音一つしない。
 予報によれば今夜は低気圧の影響で朝まで天候が荒れるとの事だったが、外は雪も風もなく、窓を開ければ闇があるばかりで、空を見上げても月も雲も星すら見え無い。辺りに人の気配はなく、世界が闇に沈み込んでいくように感じた。冬枯れの田に積もった雪がアパート前の街灯に照らされて白く光っている他は何も見えない。
 静寂の中で寒々とした街灯の灯りを見つめていると、何処までも思考と感覚が鋭くなっていく。チャットモンチーの歌詞が頭の中に浮かんだ。
「しまった!もう世界は終わっていた。」
 昔から心が不安定な時は何時も自分が寿命を終えた宇宙の永劫の闇に漂う姿を想像する。これは誰にも話した事はないが、こんな事を考える私は狂っているのだろうか?
 こんな気分の日はさっさと寝てしまうに限ると窓を閉めるとその一瞬、街灯の下に何かの影がちらついたのが見えた。再び窓を開くと何の影も見当たらない。だが、刹那の記憶には何者かがアパートに向かってくる様子が映っていた。
 私の住むアパートの二階は二部屋しかなく、隣の部屋は女性が住んでいる。彼女とは何度か話した事があるが、20代半ばほどで私より少し上なくらいだろう。夫と生まれたばかりの子供がいると話していたが、ここに住んで2年、彼女以外の住人が出入りしているのを見た事が無いし、子供の声すら一度も聞いた事が無い。部屋の窓や玄関上部の窓はガムテープで目張りしてあって、それと恐らくは存在しないであろう彼女の空想の家族の話を合わせて考えると、あの玄関の向こう側で何が起こっているのか怖くなってくるので彼女の事は努めて考えないようにしている。
 そんな孤独な彼女の元をこんな夜中に訪問する人間がいるとも思えないが、私の所に誰か来るとも思えない。私には連絡もなく夜中に突然訪れるほど気安い友人など少なくともこの土地では皆無と言えるだろう。お馴染みの宗教勧誘や保険のセールスが夜中の九時に来るとは・・。
 突然玄関のチャイムが鳴り響き、総身の毛が一本立ちになるのを感じた!
 チャイムが何度か鳴り、ドンドンと戸を叩く音がする。
 あの日と同じだ!
 絶対に戸を開けてはいけない。私は叫びだしたくなる気持ちを抑えて身じろぎもせず部屋の隅に縮こまる。部屋のカーテンは安物の遮光カーテンであるからどうしても明かりは漏れる。特に玄関は上部がガラス窓になっているから居留守はバレバレだ。だがそれでも絶対に出てはいけない。自分から招かなければ大丈夫だと宮子も言っていた。代わりにもし一度でも入れたら・・。
 チャイムは5、6回鳴った後はもう何の物音もしなくなった。案外何でもない事だったのかもしれない。緊急の用なら電話があるだろうし、非常識な訪問販売の可能性だってなくはない。実際何時だろうと訪問販売員は非常識であるし。
 そう言い聞かせて気を落ち着かせようとしても、心臓の音がどんどん大きくなって意識すればするほど滅茶苦茶な動きになって行く。息をするのも苦しくなっていく。自分が半ばパニックになっている事を自覚しながら洗面台へ行って顔を洗う。少し落ち着いたが、洗面台の鏡に映った自分の顔は真っ青だった。
 久しぶりに奴らの事を思い出してしまった。忘れよう忘れようとしているのに、どうにも上手く行かない。もう何ヶ月も思い出していなかったと言うのに、本当に忘れかけた頃にこう言う日がやって来てあのおぞましい夜の事を思い出す。
 顔を洗って柚子の香りの入浴剤の入った風呂に肩まで入っていると何とか気分が落ち着いてきた。風呂から上がると以前とは少し考えが変わっていた。あの日の事を忘れるよりも記した方が良いと思うようになったのだ。何かあった時に証拠として残るし、あの事件の事を正確に思い出して描写する事は恐怖の克服に繋がるかも知れない。
 思えば無理やり忘れようとしたのがそもそも間違いだったのだろう。あんな事を忘れられる訳がない。忘れようとすると言う事は単にその記憶から背を向ける事でしかない。そんなものは子供騙しだ。背を向け仮に忘れたとしても、記憶が消えたわけじゃない。実際はその後ろ、記憶の奥の奥では奴らが手ぐすね引いて私を狙っている。そしてすっかり忘れてしまい心が無謀になった時、奴らが私の肩を叩き、私は恐怖と絶望に悲鳴をあげるのだ。そんな夜にはうんざりだ。
 だから私は今日あの夜の事を思いだし、正面から向き合おうと思う。これが私なりのあの事に対する戦い方だ。
 その為には赤崎宮子と言う少女との出会いについて語らなくてはいけない。
 彼女と会ったのは高校生二年の春だった。
 そして、それは我が故郷が平凡な田舎町からチェルノブイリ並みに有名になる前の話である。
 非常に不幸な形でその名を世界に知られるまで、福島県は突出したものが何もない所であった。自分の未来に多少なりとも希望を持っている高校の同級生は誰もが卒業と同時に町を出た。私はと言えば変化や改革より安定を愛する内向的な人間だったので、この町の緩やかな衰退を愛していた。だからあんな事が無ければずっと地元に残っただろう。
 と言っても気候面で言えば福島はあまり過ごしやすい所ではない。東北の中でも最南端に位置する福島は夏も結構暑いし、冬は雪に悩まされる。
 私の生まれた福島市と言うのは南から北へ連なる阿武隈高地と奥羽山脈によって挟まれて盆地になっており、日本海側の気候と太平洋側の気候が混ざり合ったような気候になっている。夏は風が吹きにくく蒸し暑い。日によっては全国での最高気温を記録する事もある。その癖冬は吾妻おろしとも呼ばれる冷たい風が吹いてくる。中通でも積雪量は多い方で、豪雪地帯に指定されている。最も、福島県の半分近くは豪雪地帯か特別豪雪地帯なのだが。
 雇用や人口減少については震災後と以前では当然違うのだが、実の所それほど大きく違う訳ではない。例えば人口減少については、震災後以前より人口減少率が上がりはしたが、それでも2.5%ほどである。他の県にはこれ以上の減少率がある場所も存在する。
 世間には原発事故により福島が巨大なゴーストタウンと化していると誤認している、あるいはそこまでではないにしても通常では考えられない程過疎化していると思っている人も多いが、以前も後も衰退の度合いは全国の地方の寂れ具合と大して変わりない。それどころかあの震災を切っ掛けに復興に県全体で本気になっているために、雇用状態については緩やかな増加傾向にある。
 ただ、父が務めていた酒屋の卸売業は景気のいい話は無く、知り合いの家族経営の酒屋の多くは閉店していたり、私が高校生になる頃には今はどうやって生きているのかも分からず消息不明になっている人達が大半だった。
 これらは福島特有の現象ではなく、アルコール市場全体の傾向らしい。この理由を父に聞いた所延々と愚痴を聞かされた。要するに時代が変わったという事らしい。言われてみれば、法だけではなく、アルハラや一気飲みの禁止など、人々のモラルや意識自体も大きく変わったのは確かである。
 そんな中、唯一相田酒屋店とだけは付き合いが絶えず続いていた。相田酒屋店三代目店主の相田葉介は日本酒と焼酎の販売に特化したり、地元の飲食店と取引を密に行ったり様々な試行錯誤の末十年以上悪化の一途を辿っていた相田酒屋店の経営を黒字に転化させていた。
 これをお読みの方には、田舎町の酒屋事情はどうでも良いからさっさと本題に入れと思っている方もいるかもしれないがもう少し辛抱して聞いてほしい。
 本題である宮子との出会いを語るには、この相田酒屋店の一人娘である相田千尋についての説明が不可欠なのだ。何故なら4年は話もしていなかった彼女がその日我が家を午前5時に尋ねてくると言う奇行に走らなければ、ひょっとしたら私は宮子と出会ってなかったかもしれないからだ。仮に出会っても、もっと違う出会い方が出来たろうし、そうなればこうやって真夜中の訪問者に怯える事も無かっただろう。全てはあいつのせいだ。かと言って今となっては彼女を恨む気もしないのだが。
 その日は4月の最初の日曜日だったか、珍しく早くに目が覚めた。私は低血圧で朝が弱い方なのだが、稀にこう言う日がある。別に早くに寝たわけでもないのだが早くに目覚めて二度寝しようにも眠れない。それは大概休日と相場が決まっている。枕の位置を変えたり横向きに寝たりしてみても全く眠気がやって来ない。
 まだ5時前なのに窓の外が明るい気がしてカーテンを開けると、何とまあ青い空!雲一つなくよく見ればその果ての宇宙の闇すらぼんやりと浮かんでくる。こんな朝に二度寝出来たらさぞ気持ちいいだろう。何より窓から見える信夫山の美しい事と言ったらなかった。
 私の部屋から見える信夫山はさほど大きい訳ではなく、面積は周囲7キロメートルほどで、皇居と同じであると言う。全国でも珍しい盆地の真ん中に位置する山であり、その様が風が吹く霧がかった盆地の中心に島が浮かんで見える事から風が吹く島「吹島」とし、そこに縁起のいい福の字をあて、「福島」とこの地が呼ばれるようになった、という事実はたった今ネットで知ったトリビアである。  
 草木が青々と茂る夏や、紅葉に染まる秋も良いのだが、一番好きなのは春だ。ソメイヨシノや山桜など全山で2000本の桜が一斉に咲き誇る姿は自部屋の窓から見える景色としては望外の美しさである。
 部屋から見るだけでも桜は美しいのだが、やはり近くで見る桜の美しさはまた格別である。その為我が家では、4月の第一日曜は信夫山に花見に出かける。今日も例年通りならそうする予定だったが、今日、両親は予定があって家にいない。
 窓を開けて外の空気を吸い込むと、清潔な朝の匂いがした。コーヒーを飲んでシャワーを浴びるともう完全に目が覚めてしまい全く眠れる気がしない。もういっそ散歩にでも出かけようと玄関を出ると、直ぐに一人の少女にぶつかりそうになり私は思わず声をあげそうになった。
 しかしその前に向うが驚いたような顔で叫んだ。
「うわぁ、びっくりしたなあ!」
 人差し指を行き場の無さそうに遊ばせている様子を見ると、どうやら朝の五時に人の家のチャイムを押そうとしたらしい。それを指摘すると、髪を掻きあげながら、ケラケラと笑った。その下品な笑い方は昔のままだったが、それ以外の彼女は4年前とはまるで別の生き物だった。確か最後に話したのは中学1年の町内の寄り合いの時だった。その頃の彼女は常にブスっと不貞腐れた顔をしていて、おかっぱ頭。体型もずんぐりむっくりとした金太郎のような女の子だった。だがその日、私の目の前に立っている少女は足もすらっとしていて、髪もセミロングで大人っぽくなっていた。ぴったりとしたジーンズの上に目の粗いセーターを着ていた。ファッションとしては大分野暮ったいのだが、背の高い彼女が着ると何でも様になるのだから大したものだ。つまりはまあ、認めたくない程に美人ではあったのだ。
 私はそんな彼女に不快な印象を抱いた。いっそあのまま金太郎娘として完成していれば良かったのにと言うのが正直なところだ。
 何の用かと聞くと、何故か少し視線を逸らしてこう言う。
「お花見に行かない?」
 私はその非常識な提案を断った。私には用事がある。この爽やかな朝を満喫すると言う用事である。それが目の前の騒々しい彼女と一緒では台無しだ。
 そう。断った筈なのだ。なのに何故だろう。
 結局30分後には私は信夫山公園で相田酒屋が出店する花見茶屋の設置を手伝っていた。
 そもそもの話なのだが。
「花見じゃなくて仕事の手伝いだろ?何でそう言わないんだよ?」
 そう言うと彼女は「そう言ったら来ないでしょ。」と言ったが、どう言おうと私が手伝いをさせられるのは変わりない気がした。
 相田千尋と言う少女は、姿形はともかくとして性格は全く変わってなかった。横暴でがさつ。私に何かさせようと思ったらそれを必ず実現させる謎の強制力。そしてそれに逆らえない私も変わっていなかった。
「いやあ、男の子の手があると助かるねえ。」
 そう言いながら彼女は私がようやっと運んでいるビールケースと同じものを軽々と運んでいた。
 基本的に相田千尋について好い印象はなかった。親同士が密な付き合いがあるので自然会う機会も多く、一緒に遊ぶこともあったが、これも半ば強制的なものだった。
 相田家が我が家にやって来て大人同士が何やら話をしていると、子供同士一緒にされた。二人きりになると彼女は決まって邪智暴虐の王と化した。彼女は私を都合のいい奴隷としてしか見ていなかった。彼女に対する恨みつらみを述べたらきりがないが、最も許せないのが、叔父に買ってもらったモデルガンを盗まれた事だ。それは誕生日に叔父がプレゼントしてくれたもので、私はうっかり彼女に自慢してしまった。その時彼女は、特に何の反応もしてなかったので興味ないのかと思ったのだが、彼女が帰った後、私の玩具箱からモデルガンが無くなっていた。母に言うと。
「あらあら。多分千尋ちゃんね。全くお転婆なんだから。」
 と笑うだけで何の対応もしてくれなかった。無論私に暴君ディオニスに立ち向かう勇気などある訳もなく泣き寝入りする事となった。
 今考えても全くもって腑に落ちないのだが、彼女の悪行は大概が許された。手に負えない悪ガキだった彼女は近所では愛されキャラであり、対して真面目に生きていた私は、粗雑な扱いを受けた。私にとって彼女は不条理な世界の象徴だった。
 彼女を避ける為に必要なのは単純な二つの事である事に気づいたのは中学に入ってからだった。「相田家に両親が行く場合ついて行かない」「相田家が来る場合理由をつけて外出する」この二つの考えが浮かんだ時、こんな簡単な事をどうして今まで思いつかなかったのかと私は悔やんだ。
 私が心底彼女を嫌がっている事に両親も気づいていたのだろう。私が相田家を徹底的に避けても決して無理に連れて行ったりしなかった。
 こうして私は意外にあっさりと相田千尋のいない平穏な日常を手に入れた。彼女も無理に誘ってきたりしなかったし、中学校でも付属中学に入った私と第四中学校に行った彼女とは一切の接点が無かった。高校が一緒だったと分かった時は戦々恐々としていたが、結局の所こちらから近づかなければ、家族同士との付き合いを避けていれば彼女とは他人といられると分かった。そう思いこんでいた。
 こちらが壁を作っていれば大丈夫などと、何故そんな安易な考えをもっていたのか。実際、その壁は彼女の機嫌一つであっけなく決壊する薄いものだった。
 私が信夫山公園の花見茶屋の設置に参加した頃には、既に多くの大人たち(と言っても大学生くらいのバイトばかりだったが)がいて、大体設置は終わっているように見えた。工事現場にあるような簡易施設だが、新品のそれは花見期間中の露店の一つとしては充分豪勢なものだと思えた。だが店主のおじさんはそう思ってなかったらしい。そこから酒屋店の名前がデカデカと載っている看板を設置し、店の前にオープンカフェのようなものを作り、その周りを桜や三色柄のボンボリ飾り立てた。他にもトイレやごみ箱設置などやる事は次から次へと出てきて、いきなり連れてこられて何も聴かされてない私には、その仕事は果て無く続くように思えた。
 何をどうしたら終わりなのか彼女に聞こうとしてもそんな余裕すらなく、次の指示が飛んできた。
 花見茶屋の設置が終わったのは8時だった。正直私の助けがあってどれだけ捗ったかは分からない。店員数名の指示通り行動するのが手いっぱいで、私はしょっちゅう怒鳴られていた。何せやる仕事やる仕事が初めてやるものばかりだった上、店員の殆どは臨時のバイトだとでも思ったのだろう。終始使えないバイト扱いだった。中でも一番年配の福本さんという人はこちらの気が滅入るほど癇癪もちで、少しでも気に食わないことがあるとすぐ怒鳴った。彼は私を「おい眼鏡!」と呼んだ。名前を覚える機など毛頭ないらしかった。
 朝から無理やり連れてこられて手伝いをさせられているのに労いの言葉すらなく、挙句罵倒される。本当ならば今頃朝焼けを浴びながら読書でもしていたろうに。ままならないものである。
 設置が終わったと明言されたとき、私は茶屋を覆うように生えているソメイヨシノの桜を見上げてため息をついた。人生不可解なり。
「キレイだよね?桜!」
 ひょっこりと視界に入ってきた千尋は実に飄々としていてあれだけの重労働の後でも疲れは感じて無いようだった。
「そりゃそうだよ。お客が来て忙しくなるのはこれからだよ。」
 それを聞いて私は眩暈がした。
 実際、本当に大変なのはその後だった。生まれてこの方一度もやった事のない接客業をやる事は正直地獄だった。しかも花見茶屋の客は思いのほか多く朝から昼を越えるまで客席は常に満杯だった。精神的にも肉体的にも疲労がピークに達していた私は心と表情が死んでいた。
「ほらほら、スマイルスマイル!」
 彼女はよくそう言って、にっこり笑って見せた。だが、疲れ切っているのに笑顔でいるなど至難の業だ。そもそも騙されて連れて来られてこの扱い。笑える訳がない。そう不満を口にすると、彼女は私の口の端を引っ張った。
「痛いよ!」
「イーってするのよ、イーって。ぎこちなくても良いからとにかく笑いなさい。」
 そう言って笑顔で私を脅迫する彼女はまるで昔に戻ったかのようだった。
 とにかく私の仕事っぷりときたら実に無残なものだった。読者諸君も覚えがある通り、初めての仕事というのは誰でも苦戦するものだ。更に言うとその日は誰一人新人の私に一から仕事を教える余裕もない状態な訳で、分からない事だらけな私が誰かに何か聞くたびに舌打ちか怒号が降ってきた。
 私の現状に対して少しは罪悪感があるのか千尋はよく声をかけてきたが、たいがい私の神経を逆なでするような言葉ばかりであり、労いの言葉は一つもなかった。
「こう言うのもいい思い出になるよね?幼馴染と春休みにバイトとかさ。」
 何を白々しいと思ったが口には出せず恨みがましい眼を向ける事しか出来なかった。
 ようやく客足も途絶えてきて、二時を回ったころ、休みに入って良いと言われた。
 一時間の休憩を、私は外の桜並木を歩きながら過ごすことにした。実際、店内奥の薄暗い休憩スペースで休んでいたって疲れは取れないし、これほどまでに桜の美しい日をあんな地獄のような所で終えるなんてあんまりである。特にどうするとも考えてなかったが、とりあえず駐車場近くの花見茶屋とは反対方向へ向かった。その先に何か用があるわけでもなく、ただ単にあの怒号飛び交う花見茶屋から離れたかっただけである。
 腹は減って無かったので休憩所に用意されていた弁当に手は出さなかったが、屋台を見て回っていると自然と腹が鳴り、何か食べる事にした。
 唐揚げや焼き鳥など様々な屋台が並ぶ中、大判焼きを選んだのは歩きながら食べるのに適している上に、客が少なかったからである。貴重な一時間をただ屋台に並ぶ事で消費するなどほんの一分でも許容できない。
 朝から何も食べずに働かされていた私には大判焼きの優しく力強い甘さは身に染みた。この日から私にとって大判焼きは大の好物になったが、その日以上に大判焼きを美味しく感じたことはその後一度もない。
 あっという間に大判焼きを食べてしまうと、私は雑踏の中の孤独に身を委ねていた。
 子供連れの夫婦やカメラを持った老人など、雑多な人間達全てが私を放っておいてくれた。誰も怒鳴りはしないし関わりもしないが、傍にいてくれる。この群衆の温かな無関心が私は好きだ。
 あの喧噪から離れて一人の花見客として桜祭りを眺めていると、理不尽な半日によって憔悴しきった心が回復して、自分が正に朝予感した通りの平穏で幸福な一日の中にいると感じた。
 私はふと素晴らしいアイディアに思い至った。
 このままサボってしまったらどうだろう。そもそも私は彼女に強引連れてこられただけで、何の契約関係もない、義理も無いのだ。このまま逃げた所で誰も私を責める権利などない筈だ。
 だがしかし。理屈は理屈でしかない。真っ当な理屈が通るのは対等な力関係が機能する場合だけである。情けない話だがさっきまでのやり取りを思い出す限り未だ持って相田千尋と私の力関係は対等以下である。それにおじさんに迷惑をかけるのは忍びない。
 そろそろ戻ろうかと考えた頃、私は丁度護国神社の前に来ていた。
 大きな鳥居をくぐると、それまであった人の群れが途絶えた。人のいない桜並木の何処か厳かな雰囲気に酔いながら誰もいない境内をふらふらと歩いていると、突然風が吹いた。
 淡い桜の花びらが私の視界を覆った。それらは一つの強い流れとなり、ぐるぐると私の周囲で渦を巻いた。それは今まで見た事の無い神秘的な光景であった。信じがたいのは、自分がその光景の一部となっている事だった。そこには如何なる人の意思も存在しない、ただ自然の気紛れだけがあり、その文字通り奇跡のような時間の真ん中に自分が居合わせた事に私は運命の様なものすら感じた。
 私はそれらの光景にすっかり心を奪われてしまった。私の頭の中から今日の理不尽の全てが消えた。
 しかし真に驚いたのはその後だった。
 桜吹雪が消えた突如私の目の前に一人の少女が現れたのだ。
 その少女は私より頭二つ分背が小さく、ウェーブのかかった髪を後ろに束ねていた。その少女は背が低く、ぱっと見まるで小学生のようにも見える。
 彼女は私が来たのと反対方向の、神社へ続く階段から降りてきたようだったが、先ほどまで桜の渦が私たちの視界を奪っていた為に、近くになるまで互いの存在に気付かなかったのだろう。少女はこちらを見るとニッコリと笑いかけた。
「とってもキレイでしたね!」
 それは息を飲むほど美しい笑顔だったが、一方でその美しさには不安なものがあった。その笑顔の裏に何か信じられないものがあった。だがそれが何なのかその時は分からず、ただ違和感だけがあった。
 彼女は非常に特徴のある大きな目をしていて、その瞳には未だ私たちの周りで僅かな渦を巻いている桜の色を反射して美しく輝いていた。彼女はスマホを持って来なかったことをしきりに悔やんでいた。例え持っていても、あの一瞬をきれいにカメラに収めるなど不可能だろう。あれは全く偶発的で人に捉えられないものだからこそあれほど純粋に美しいのだ。私がそう言うと。
「それもそうですね!お兄さん頭が良い人ですね?」
 それから彼女は自分の身の上を語り出した。元々喜多方市の出身なのだが、今年立花高校に受かったらしい。私が立花高校の二年だと言うと益々はしゃぎ出した。私が美術部員であることを告げると。
「私、絵が好きなんですよ。お兄さんが絵を教えてくれるなら、その部にしようかな。」
 私はその場の勢いでなく、全ての部活等を見てその上でよく考えた方が良いと言ったが、それは彼女の為を思っての助言で無く、「是非来てほしい」と言えない青年期特有の異性に対する見栄の為だったが、彼女はその発言にもしきりと感心していた。
 その後学校の事など色々話をしたが、途中母親との約束があったのを思い出したと言って慌ただしく去って行った。
 私はと言えば、自分が不可思議な幻想の中にいるような、実に非現実的な幸福感で頭がいっぱいで、その後しばらくボケっとしていた。ふと地面を見ると、彼女が立ち去った後に何かが落ちていることに気付いた。それはイルカのキーホルダーだった。あの子のだろうか。そう言えば色々聞いた割に肝心なあの子の名前を聴いていなかった。休憩の一時間などとっくに過ぎていた事に気付いたのはそれから暫く屋台を回った後だった。
 幸い千尋は然程怒っていなかったが、休憩時間をオーバーした負い目もあってか、最後まで手伝わされても文句も言えなかった。
 8時を越えた頃、ようやく店を閉める作業が終わった。半日に及ぶ労働で身体はガタガタだった。店内の休憩スペースでほっと一息ついていると、声をかけられた。私はびっくりして顔をあげた。男が入ってくる音さえ聞いて無かったのだ。
「やあ、きょうはすまなかったね。」
 店の奥からのっそりと出てきた男は太っていて、髪は白く、アラブ人のように顎髭と口ひげが一つに繋がっていた。眼はうつろだったが真っ直ぐにこちらを見るその眼には力があった。二回りは大きなオーバーを着て手には高いのだか安いのだか分からないごちゃごちゃとしたごつい時計をつけていた。
 葉介おじさんと会ったのは随分久々だったから、その変わりように驚いた。
 昔の彼は非常に精力的な男性だった。年より遥かに若く見え、とても一児の父は思えなかった。しかし人生の荒波はほんの数年で、彼の見た目をがらりと変えてしまったようだ。今の彼は年相応、どころか、本職を首になりホームレスになった元サンタクロースと言った風体だ。目の奥にはかつての知性と熱意があったが、絶望感もはっきり表れていた。相田酒屋店は上手くいっていると父から聞いていたが、そんなに簡単な話ではないようだ。溺れないようにするだけで手いっぱいと言った所か。
「急に言って悪かったね。」
「いえ、構いませんよ。特に予定もありませんでしたし。」
 本当は全然構わなくなかったのだが、下手に出られると大概の事は社交辞令で返してしまう。
 そこで私は初めて私が今朝呼ばれた経緯を知った。バイト数名が三日前に逃げ出したらしい。急遽知り合いに頼んだのだが一人分だけ補充が足りなかったらしい。その時千尋が私を指名したらしい。何故そこで私が出てきたのか聞くとおじさんはこう言った。
「娘は君を気に入っているんだよ。恥ずかしがって言わないけどね。だから仲良くしてやってくれよ。」
 おじさんの話によれば彼女はずっと私と前みたいに仲良くなる切っ掛けを探していてそれが今日の顛末だという。彼の話をどこまで本気でとっていいか分からないが、本当だとしたら理解し難い。仲良くしたいならどうしてこんな真似をするのか。
「娘は気に入った相手には酷く乱暴になるんだ。だが嫌わないでやってくれ。そして出来れば昔みたいに遊んでやって欲しい。」
 私は優しい女性が好きです。
 と言う結論自体は揺らぐ事はないが、口にする事は躊躇われた。
 給料に関しては貰えるかどうかすら疑わしいと思ったが、おじさんから手渡された茶封筒の中には今日の酷い扱いを考えても少し申し訳なくなるほどのお金が入っていた。
「無理に来て貰ったからね。色付けておいたよ。その代わり娘と仲良くしてやってくれ。」
 だからそれは嫌です。大体気に入った相手に乱暴するなんて歪みすぎだ。付き合いきれない。曖昧に微笑んで帰ろうとすると、手に持っている物を指摘された。
「それは何だい?」
 何時の間にか私はあのキーホルダーを手に握りこんでいた。それは暗闇の中でも青く輝いていた。
 私はお昼に会った少女について語った。
「なるほど落とし物か。なら私が警察に届けておこう。」
 私はその申し出を断った。その時は帰り途中の警官詰め寄り所に預ければ良いと確かに思ったのだ。
 だが、その後襲来したおばさんと千尋のせいでその事は頭から消えてしまった。千尋は夕飯を家で食べて行けと言ったが、これは予想出来たことで断る用意もできていた。だが加奈子おばさんの存在は想定していなかった。まあ、想定していたとしても千尋の遺伝子に直に影響を与えた理不尽の権化たるおばさんに太刀打ちなど出来る訳もないのだが。
 思い出したのは、お泊りだけは何とか回避し、家に帰り寝る準備をしてからだった。ポケットの中のキーホルダーを取り出してみると存外に重さがあって、プラスチックでは無いようだった。透明でスカイブルーの色調で、室内灯に翳すと様々な色に変化した。
 その時頭に何か邪な考えがあったとかそう言う事は無い筈だが、私は警察に忘れものとしてそれを届けると言う考えを廃棄した。無論、泥棒しようと思った訳ではない。ただ、これを警察に渡してしまうと彼女とはもう会えない気がしたのだ。どの道彼女はうちの高校へ来るのだから、名前を知らなくても渡す機会はあるはずだ。美術部に来てくれるとも言っていたし、その時渡せばいい。もし何時までも彼女が現れなければ、その時こそ警察に届けるなり、何だったら学校に預けてもいい。名前も知らない後輩が落としたと言って。
 私はそのアクアマリンの輝きを眺めながら、あの少女の笑顔を思い出していた。そしてあの時の違和感の理由を考えていた。何だって自分はあの笑顔に違和感など抱いたのだろう。しかし、いくら考えてもその正体が分からず、その時は結局そのまま寝入ってしまった。
 全てを知った今なら分かる。あの溌溂とした表情の裏には、桜吹雪の神聖さでも拭いきれないおぞましい秘密があったのだ。しかしそれも分からずあの出会いを運命的だとすら考え、その夜ここに書くのも恥ずかしいロマンティックな夢を見た私は救い難い阿呆であった。
 それから数日経って学校が始まったが、3週間たっても彼女は東校舎2階の隅にある美術部の部室にはやってこなかった。
 しかし焦りは無かった。入学してから一週間後に入部届は配られるが、基本的には大概の一年生は四月末にある新入生歓迎会の後に決めるものである。
 それに、彼女とは絶対また会える。そんな確信が私の中にあった。それはあの時の約束が社交辞令じゃないと思っていたとかそんな次元の話ではなく、あの奇跡のような時間を共有した私と彼女が、あれきりの縁で終わるとは思えなかったのだ。
 だがそれも新入生歓迎会が始まるまでだった。
 新入生歓迎会は生徒自治会主催で北の講堂で行われる。東校舎と西校舎に挟まれた中庭の前に位置する講堂は、わが校が男女共学になった十年前に新しく建てられたもので、全校生徒が入れるだけの広さがあり、宗教行事や、入学式、卒業式などの行事は全てそこで行われる。
 午前中は対面式であり、そこで新入生に学校生活の注意点や生使い活動の概要の説明などが行われる。恒例の演劇部の学校生活の注意点を指摘する寸劇が終わると一旦昼食となる。
 午後から歓迎会。そこで部活動勧誘のためのアピールが行われる。文化部、運動部、同好会合わせて20のクラブが、5分の時間を与えられる。たった5分で出来る事は限られているため、毎年部員達が自分たちの描いた絵をもって壇上に上がり、部活動の簡単な説明をするだけで終わった。
 だが部長である神澤さんは、今年は全く違ったものがやりたいと言い出した。もっとインパクトのあるものを。結果として、今年の美術部の出し物は、部長である神澤さんが、壇上で絵を描くというパフォーマンスを行った。彼はほんの5分で、巨大な馬のスケッチを描いて見せた。
 今にも傾斜を駆け上がり、絵の中から抜け出てしまいそうな躍動感のある凄まじい絵であった。動物達の絵の中でも特に難しい馬のスケッチを短時間で描く部長の技量に私たちは感嘆の声を上げたが、どうも一般の人にはイマイチ伝わらなかったらしく、拍手はまばらだった。
 絵の完成度の高さからみれば新入生歓迎会は大成功だったと言って良い。正直練習の段階では部長のスケッチの完成度は波があり、どうも緊張すればするほどスケッチの出来は不安定でお粗末なものになるようだった。その不安定さを解消するには、画面に均一に表現するより、敢えて斜めに描写する方が良いことに気付いたのは歓迎会ギリギリであり、実際本番でそれが上手く機能するかどうかは賭けだった。
 賭けには勝った。神澤さんの極限の緊張下での不安定さは、その斜めの描写と合わさる事で、殆ど神懸かった迫力を生み出した。あるいは彼は追い詰められた方が本気になれるタイプなのかもしれない。練習のどのスケッチよりも素晴らしい絵だった。とは言えそれが新入生に伝わらなかったのであれば意味がない。企画自体が間違っていたのかもしれないと我々は思った。イマイチ反応の悪い新入生の中、一人ひと際大きな拍手をしている生徒が最前列にいた。背の小さな女の子で、酷く陰気な印象だった。
 私は新入生の中に彼女が居ないかずっと探していたが、あの日の少女は見当たらなかった。私はてっきり桜吹雪の少女の存在は一目見れば直ぐ分かるだろうと思っていたので、当惑した。
 そりゃあ新入生の数は相当なもので、100人以上いる中から一人一人の顔を確認するのは難しいだろうが、あの少女の目や全体の雰囲気は独特で忘れられるものではなく、どんなに遠くからでも見間違えるとは思えなかった。だが誰も彼も緊張しているのか死人の様な顔をしていて、あの日の様な溌溂とした、それでいて何処か儚げな笑顔は何処にもなかった。
 その後直ぐ12人が仮入部となったがその中にあの日の笑顔は無かった。代わりに騒々しい、下品な笑顔があった。
 仮入部期間中に千尋がやってきた時は、同性に対しては案外に面倒見のいい彼女の事だから、新入生をこの部室まで案内したのだろうと思った。だが仮入部の初日のマーブリングの説明の際に彼女がしれっと参加していた時は驚いた。何故まだいるのか聞くと彼女はきょとんとした顔をしてこう言った。
「え?私も入るけど?」
「何でぇ?」
 私は思わず途方に暮れたような声を出してしまった。
「あんた部員少ないって悩んでたでしょ?千尋ちゃんが入部してくれたら助かるな~って言ってたよね?」
 私は首を振ったが、既に彼女はこちらを無視して部長にマーブリングのコツなどを聴いていた。どうしようかと思ったが、直ぐにどうしようもない事に気付いてその件について考える事を辞めた。そう言えば二人きりでもない限り彼女はそこまで理不尽には振舞えないはずだ。それに今現在美術部には計30人以上の部員が居るわけで、それだけいれば理不尽も分散されるはずだ。そう思うしかない。
 それにしても何故あの少女は来ないのだろうか。あんなにはっきりと部室に来ると約束したのに今日まで姿をちらとも見せないのは流石におかしい。あれは社交辞令だったのだろうか。無論、その可能性も無くはない。あの時の彼女にはその場の勢いで言っているような所があったは確かだ。
 あるいは、聴き間違えと言う可能性すらある。私が高校名を聞き間違えた可能性だってあるし、向こうが間違えた可能性もある。だとするともう会えないかもしれない。私は彼女の名前もメアドも知らないのだから。
 「もう彼女と会えない」と言うネガティブな未来に至る可能性は、考えれば考えるほどいくらでも出てきて、寧ろそれは酷く現実的な事に見えた。
 私は憂鬱になってしまいそうなその考えを強引に振り捨てた。まだその未来が確定した訳ではない。単に風邪をひいて今日は休んでいるとかそういう事情も充分に考えられる。何より2年の私には入部希望者の指導と言う仕事があるので、無駄な事に思考を使う余裕は無かった。ひとまず彼女の事は忘れて、私は新入部員達にマーブリングのやり方を教える事にした。
 マーブリングと言うのは、水に絵の具を垂らし、水面に浮かんだ複雑な模様を紙に写し取る表現技法ある。小さな子供でも簡単にできるので幼稚園や保育園でもよく行われる為、誰でも一度くらいやった事があるはずだ。
 技術が無くても自動的に美しい模様が出来上がる為、新人でも手軽に達成感が得られる。教える側も簡単である。逆に意図的な製作は困難であり、余程のテクニックが無いと何ができるか予測も出来ない。実の所私も水の表面張力に任せるだけでありイメージ通りのマーブリングなど出来る訳もない。せいぜい部長くらいだろう。そんな真似ができるのは。
 一人一人仮入部員の様子を見て周ったが、あまり手こずってるような様子は無かった。部員の中でも女子数名は2年の岩田目当てだったようで、彼を中心にしてお喋りばかりしていた。
 只一人、どうにも上手く行ってない少女が居た。それはあの新入生歓迎会の最前列で拍手していた青白い肌の少女だった。水に浮かんだ模様を写し取る所までは出来るようだが、紙についた模様が定着せず流れ落ちてしまうようで、横に幾つも失敗作が積んであった。
「す、すいません・・!」
 私がじっと見ていると、彼女は申し訳なさそうな顔で失敗作を片付けようとした。
「いや、気にしなくて良いよ。と言うかゴメンね。謝るのはわたしたちの方だ。」
 こうならないように美術部員が見回っている筈なのに何故こんな事になっているのだろうか。一度失敗した時点で部員の誰かがアドバイスしてこうならないよう教える筈なのだが。明らかに彼女は放置されているようだった。
 何故彼女が放置されているかは直ぐ分かった。彼女はコミュニケーション能力に著しく問題があるのだ。その時も何を聞いても謝るだけで何故こうなったのかの言おうとしなかった。辛抱強く聞いてみても、イマイチ要領を得ない。話す言葉は断片的で必要な情報に欠けていたし、少しでも苛立つような調子を見せると極度に狼狽えて益々会話にならなかった。
 恥ずかしながら、我が美術部は部長を除けば元よりあまりやる気の無い部員が多いため、面倒の多い彼女は放置されるのも自然の流れと言えた。唯一面倒見のいい部長や岩田はその分人気も高いため、彼ら目当ての女子部員達に捕まってしまい、本当に彼らを必要とする人間に限ってこうやって放置されてしまいがちなのだ。
 そして、そういうタイプの人間の面倒を観るのは大概私であった。別に面倒見が良い訳ではない。ただ何というか、私も彼らと同様要領が悪いのだ。
 何時もこう言う時には嫌々彼らの面倒を見るのだが、今日に限って言えば目一杯彼女のような後輩にやさしくする準備が出来ていた。
 勿論その準備の裏に、あの桜の君に好い所を見せたいという下心も無かったわけではないが、それだけではなかった。花見茶屋でのバイト経験のせいである。きっと今の彼女はあの時の私の様な気持ちに違いない。心細く惨めであろう。
 あの時の何も知らない私に対する大学生バイト達の仕打ちを思い出せば際限なく優しくなれた。あんな風に私はならない!何も知らない新人に怒鳴ったり、嫌味を言うようなやつには。以前書物で知った山本五十六の名言を私は忠実に実行した。それは目の前の不器用な少女に対する最適解だった。
 本来、教育とはあれくらい丁寧にするべきなのだ。人に物を教えるというのは神経の使う事だ。特に何も知らない人に教えるのは。一方それらは雑にやってもそのつけは自分には直接的には返ってこないのである。雑な教えの被害を直に受けるのは教えられる側である。私はその事を先日のバイトの件で身をもって知った。
 まず私は彼女にやらせてみた。一度彼女の作業の流れを見てみると、途中の作業工程までは何も問題が無いようだった。ただ水の流しすぎのようだった。その為に定着しないようだった。
 もう一度その点に留意してやらせてみたが、途中まで上手く行くのだが、話を聴いてないのか或は緊張の為に教えたことが抜けたのか、乾燥の時にティッシュで紙の水分を拭きだした。こうすると汚れてしまうので最初に説明したのだが、こういう時に怒ってしまってはいけないのだ。
「何度も同じ事を言わせるな。」と言いたくもなるが、そう言って良い事など何もない。特に彼女の様なタイプは元々自尊感情が低いので、少しでも怒られると自分を否定してしまい自己嫌悪に陥ってしまう。そうなれば益々狼狽えて失敗することも多くなり更に怒られたりこうやって放置されたりする。
 私は彼女を叱らず何度も丁寧に教えた。彼女の不器用さたるや想像以上で、やる度に別の失敗要因が出てきた。ハッキリ言えば、初心者がやりがちな失敗を彼女は全てやらかした。しかし私はいら立ちをちらとも見せず、五回目に遂に完成した時は褒めてやった。
「流石。苦労しただけあってキレイなマーブリングが出来上がったじゃないか。」
 実際それは中々に美しいマーブリングだった。無論、彼女の意図したものではなく、水の表面張力が生み出した芸術だろうが、美しい事には変わりない。それは何処かあの桜吹雪を思い出す神秘的な美しさだった。
 私が褒めると彼女は今日初めての笑顔を見せた。その照れくさそうな笑い方はとても可愛らしく、私は彼女が初見の印象よりも整った顔立ちをしている事に気づいた。
「や、やっぱり思っていた通り優しい人ですね。お兄さんは。」
 その言葉に少し違和感があった。やっぱりとはどう言う意味だろう?そんなに優しそうな見た目をしているだろうか。どちらかと言うと岩田の方が、如何にも優しそうにみえるのだが。
「私、赤崎宮子って言います。その・・・あなたは・・。」
 そこから先急に彼女の声は小さくなったが、何を求められているかは分かった。そこで私は思わず声を上げてしまった。
「・・・ああしまった!」
 私はその時、この滞りなく進んでいる入部体験初日の重大な欠陥に思い至った。私達は部員紹介を全くやって無かった。冒頭でこの部の活動や行事などの簡単な紹介はしていたが、肝心の部員の名前について全く言っていなかった。予定にはあったが飛ばしていたのである。あり得ないミスである。落ち着いているつもりでも私たちは緊張していたのかもしれない。
「ごめんごめん。そうだね。名前を言っていなかった。失礼したね。」
 私は自分の名前を告げた。
「素敵な・・名前ですね。」
「初めまして。」
 そう言うと、彼女は暗い顔をして黙り込んでしまった。何か傷つけてしまったのだろうか。初対面で緊張しているというのもあるだろうが、この子は元々こういう性格なのだろうと私は考えた。実際彼女は意思表示に乏しく、何処に地雷があるのか分かりにくい。だが急かすと逆効果だ。私は辛抱強く彼女の次の台詞を待った。
 彼女は拗ねたような口調でこう言った。
「憶えて無いんですね。来てくれって言ったのに。」
 それは本日2度目の言った覚えの無い入部勧誘であった。いや、勧誘自体はしていたが誰か個人に入ってくれと言った覚えは1度もない。だが2度もあると忘れていただけなのではと思える。人間の記憶など曖昧だと先週のアンビリでもやっていたではないか。
「あ、あんなに、桜、綺麗だったのに・・。」
 その言葉の意味する所は明白だった。だが私は混乱してしまった。
 目の前の少女はあの時の少女と同一人物には見えなかった。それどころか真逆に位置する人間ではないだろうか。確かに背の低さや、顔立ちなど似てはいる。しかし雰囲気がまるで違った。前の前の彼女にはあの日の溌溂さが微塵もないし、声もどもりがちであの日のように初対面の人間にでも明るく話しかけられるような社交性もない。
 だが一方で私は目の前の少女があの日の桜の少女である現実を受け入れていた。と言うのも見た目の雰囲気と言う漠とした印象を取っ払い、姿形だけで判断すると紛れもなく同一人物だったのだ。癖の強い髪も、小学生のような背格好も、青白く透き通るような肌も、特徴的な大きな目も良く見れば確かにあの娘だ。だがそれらの特徴全てが真逆の印象を与えていた。じっと見ていたら、彼女は顔を赤くしてこう言った。
「あんまり見ないでください。」
「ああ、悪いね。だがあまりに印象が違うもんだから。」
「そうですか?」
 そう言いながら腑に落ちない様子で髪をいじり出した。本人には自覚が無いようだった。
「あの日は、美容院行った帰りだったからかも。私くせ毛が凄くて、美容院行っても直ぐに髪がまとまらなくなって・・・。」
 そこで私は合点が言ったというように手を叩いた。
「それだよ!あの日はとても髪型可愛かったのに、今日は鳥の巣みたいだから!」
 すると彼女は膨れっ面をして「酷い事言いますね!」と言ったが、心底怒っている様子では無いようですぐ笑い出した。
 さて、そうは言ったのだが、その説明ではあの日との違いは説明しきれてないなと私は考えた。確かに髪型の人に与える印象の違いは著しく、特に女性はしょっちゅう髪型を変えるから知り合ったばかりの女性に初めましてと言ってしまうのはこれが初めてではない。とは言うものの、それではあの日彼女が全くの初対面であった私に話しかけて来たことの説明は出来ない。間違いなくその日の彼女には、あの日のように見知らぬ他人でしかなかった私に話しかけるだけの社交性は無かった。
 恐らく、あの日桜の魔力に惑わされたのは私だけではないのだろう。彼女の精神もまた、あの奇跡のような時間に多大な影響を受けていたのだ。あの溌溂とした彼女は、あの感激の中にしかいない刹那的なものだったのだろう。正直に言えば私は彼女に少し失望の様なものを感じていた。あの美しい少女にはもう会えないのだ。あれはあの日の時間にだけあった一種の魔法の様なものだったのだ。
「そうだ。これ、君のだろう。」
 私はポケットの中のイルカのキーホルダーの事を思い出し、彼女に手渡した。
 彼女は手渡されたそれをしばらくぼんやりと見つめていたが、やがてその目はパッと大きく開き、キラキラと輝いた。
「そうです!私のです!何処で見つけました?」
 君そんな大きな声を出せたのかと言いたくなるほどの音量で、何事かと部員たち数名がこちらをみた。
「君が去った後にあったよ。多分君のかなって。」
「凄い凄い!お気に入り何で無くしたと思って落ち込んでたんです!ありがとうございます!」
 彼女はこちらを見てまさしく花のように、としか言いようのない満開の笑顔を見せた。
 その時、私の目の前にあの日の桜の君が現れた。溌溂とした、でも何処か儚げな美しい少女が。きっと、これが彼女本来の美しさなのだろう。あの自尊感情の低さが不当にも彼女の魅力を隠してしまっているのだ。何故彼女はそんなにも自尊感情が低いのか?その理由が何処にあるかは知らないが、非常に勿体ない事だと思った。私はそんな胸の内を隠しておけず思わず呟いた。
「そうやって、もっと笑っていた方が可愛いのに。」
 突然辺りがしんと静まり返った。
 しまった!と思った時はもう遅かった。彼女が大声を出した時、既に私達は部内全員の注目を集めていたのだ。見渡すと皆がこちらを見ていた。半笑いで。
 次の瞬間、どっと割れんばかりの笑いが起こり、部室内は一種の祭りのような騒ぎになった。岩田は笑いを堪え切れないというように机にしがみついていたし、千尋は床を転げまわって笑っていた。私の方を指さして何か言っていたが、その後の言葉は聞き取れなかった。が、まあ大体想像はつく。幸い指差して笑う様な心無い人間は僅かで、部長含めた多くは微笑ましいものを見るような目をしていたが、それこそ一番腹立たしい反応だった。
 私は愚かにもこの事態に抵抗すべく、皆にこれまでの事情を説明してしまった。半月ほど前に桜祭りで彼女に会っていた事、その時の彼女が美しかった事。そしてそれと比べて今日の彼女はあまりに魅力に乏しい事。これは彼女の自尊感情の低さによるものであり、それによって美しさを隠してしまう事は不合理な事だ、と言ったのだがそれは逆効果だった。
「なるほど。『あの日の君は桜のように美しかったよ。』と、そう言いたい訳か。」
 そう言って皮肉屋の権藤は腹立たし気に顔の前で手を振った。彼のこの仕草は、「もうその話はうんざりだ」と言う意思表示である。私は反論するのを辞めた。私が話せば話すほど皆が面白がっていたし、彼女は既に顔を真っ赤にして黙り込んでしまった。
 その後何時までも祭りの熱の様なものは残っていて、当時は何時までもしつこくからかいやがってと臍を曲げていたのだが、今思い返せば記憶の中の皆は楽しそうであり、特に新入生と私達の間にあった遠慮がちな壁の様なものが私の赤っ恥を機に取っ払われたような所があった。
 6時を越えた頃、顧問の八木健次郎がやってきた。彼は面倒くさそうに頭をかきながら、もう解散するように言って、窓の方を指さした。窓の向こう側では裏庭に植えてあるケヤキの葉が街灯の光に照らされていて他は暗闇があるばかりだった。夕暮れは私達が気づかぬ間にやって来て気付かぬ間に去って行ったようだった。
 新入生が帰った後、私達は片づけをしなくてはいけないのだが、何時までも残っていた女子生徒が数名いた。何時までもお喋りして残っている生徒がいるのは珍しくない美術部だがその中に意外にも宮子がいた。彼女は誰と話しているわけでもない。だが不安そうに窓の外を眺めている。さっき誰かに電話している様子だったが・・。気にはなったのだが、さっき散々からかわれてから今一彼女と話す事に抵抗があった私は訳を聴けずにいた。
 すると部長が宮子に話しかけて訳を聞き出してくれた。ほっとしていると、部長がこちらにやってきた。
「彼女のお母さん、用事があって迎えに来れないらしいんだ。」
 その表情はやけに優しかった。
「送ってあげてくれないか?僕は片づけがあるからね。」
「私もありますよ。」
 と言ってはみたが、「女の子を一人で帰らせる気か?何かあったらどうするんだ?」とか、部長は何のかんのと理屈を並べ立ててきて、強引に言いくるめられてしまった。恐らく彼は変な気を利かせたのだろう。最後に訳知り顔な笑顔で私の背中を叩いた。
 他にも残っていた女子生徒の一人であった千尋は、私も送って行けと言い出してゾッとしたが、そこは部長が止めてくれた。岩田が送って行くと言うと、千尋以外の女子達から歓声が上がった。千尋だけは納得しきれてない様子だったが、まるで喜んでるような振りをした。私はそれを観て驚愕した。私が知る彼女はこう言う時周りが何と言おうと我を通す女だった。しかし今日の彼女は周りにちゃんと合わせていた。要するに例え暴君でも女子同士の付き合いには逆らえないのだろう。私は彼女が入部したことがさほど恐ろしい事ではないと分かってほっとした。だが一つ不安なこともあった。
 彼女の眼が獲物を狙う猫のように細くなってじっとこちらを見ていたのだ。それは彼女が本気で怒った時の目だった。何故私に怒りが向くのか、何故私に送らせようとしているのか分からなかったが。
 いや、本当は分かっていたがそれでも私が怒られる筋合いなどない。だがきっとあの怒りは何らかの形で私に向くのだろうとその時は思っていた。
 赤崎宮子の家は森合にあるようで、ちょうど県立美術館の端、信夫山の裾野にあるそうだ。あの辺りは古いアパートなどが幾つかあるだけで人通りが少なく、信夫山の影になっているので昼でも暗い。まして夜となれば、女の子一人で通るには心細い場所である。
 彼女は送って行く途中何度も謝った。
「すいません、私夜が怖くて。」
「いや、気にしなくていいよ。」
 情けない話だがそう言う私の声は少し上擦っていたように思う。
 夜が怖いと言う彼女の言い分を最初に聞いた時は子供っぽい理由だと思い、少し可愛らしいとさえ思ったが、こうして実際に街灯も碌にない道を歩いてみると、とても彼女を馬鹿にできない事が分かった。
 思えば私はその時まで夜の森合、特に美術館付近を通った事が無かったのだ。普段私は正門から町の端にある我が家へ向かうので、帰り道と反対方向にある森合を夜通る事は無い。夜のその道は本当に真っ暗だった。幾ら人通りが少ないとはいえ街灯くらいあるだろうと思っていたのだが、実際は殆どなかった。県立美術館の入り口は南と西にありそこに一つづつ、後駐車場、そして駅へと至る国道の辺りこそ街灯が多く明るいが、高校の裏門から美術館に至るまでの道には何もなく、完全な闇だ。あまりに暗いので気をつけて歩かないと段差に躓いたりしかねない程であった。実際私は何度かアスファルトの欠けた部分に何度か躓いた。
 街灯もない闇を通る時、私はぞわぞわとした得体のしれない不安に襲われ、それは闇を抜けるまで決して離れようとしなかった。
 彼女の気持ちがよく分かった。夜は―闇は、恐ろしい。「見えない」と言う事は恐ろしいものなのだ。そこに何もないと言う事を視覚が保証できないのだから。保証できない以上、そこに何かがあるという空想を否定できない。
 信夫山トンネルの高架下を通る時、ちょうど東北新幹線が私達の真上を通った。ゴーっというその聴き慣れた音は、闇の中で不安になっている私の心臓には非常に嫌な感じで響いた。その他にも犬の鳴き声や、よく分からない人の話し声など、音だけが聞こえるのがまたおかしな空想を増大させていく。
 向こう側から誰か歩いてくるだけでも恐ろしい。昼間なら何て事はないのに、暗い夜道で見かける人間は何故あんなに異様に見えるのか。顔が見えないせいだろうか。
 美術館の南口にたどり着いた時には、最早私の恐怖は誤魔化せない程に大きくなっていた。南口は比較的明るいのだが、その先は再び完全な闇である。
 だが躊躇う訳にもいかない。私は何でもないかのような顔で再び闇に進んで行った。
 同じく不安な表情をしている宮子を勇気づける為、苦手ではあるがこの間、美術部であった馬鹿話をしたがそれが面白かったかどうかは自信が無い。その頃の私は自分には笑いのセンスがあると思い込んでいたが、後にフランスの脳科学者の「人は誰でも自分には笑いのセンスがあると思い込んでいる」と言う言葉を聞いて以降、当時の事を思い出すと、皆が私の笑い話を真顔で聞いている映像が浮かんでくる。
 まあそんな具合なので、当然その時の宮子もクスリとすらしなかったが、私は何故彼女が笑わないのか理解できて無かった。恐怖のあまり笑えなくなっているのだろうと思った。
 踏切の音が聞こえてきて、彼女の家が近づいてきたのが分かった。彼女が住むアパートはその踏切の手前にあるはずだった。
 踏切の音はどうにも不吉で、あの新幹線の通過する音を聞いた時と同様、私は子供じみた危険な空想を振り払えなかった。その為、列車が通り過ぎて踏切の音が止んだ時、ほっとした。
 その時ふと、手に温かく柔らかいものが絡みついてきて私は思わず悲鳴をあげそうになった。
 だが直ぐにそれが宮子の手だと気付き、直ぐに今さっきまでとは真逆の感情に襲われた。女子と手を繋いだことなどそれが初めてだった。私の心臓は高鳴り、頭は甘ったるい考えで一杯でオーバーヒートを起こしていて今にも何かとんでもない間違いをしでかしそうだった。だがそんなお幸せな脳の状態も、握られた手が痛いほど強くなるまでだった。
 どう言うつもりなのか彼女の方を見ると、彼女は体中不気味な汗を流しなら、歯をカチカチ鳴らしていた。明らかに何か尋常ならざることが起こっていた。彼女の視線の先には、県立美術館周辺を覆うように生えている木々の茂みがある。一見何もないように見えるのだが、如何せん光が無いので良く見えない。
「何かあるの?」
 そう聞くと、彼女はそちらから視線を外さないままこう言った。
「アイツらだ・・・。」
 その声は本当に小さな呟きだったが、そこには確信があった。私には何も見えないし何の物音も聞こえなかったが、彼女の確信が私の妄想と恐怖を増大させた。
 そう言えば2年前に警官となった従姉が言っていた。森合の美術館周りは夜になったら近付くなと。言われなくても用がないから近づかないよとその時は笑って答えたが、確かこの辺りは危険人物による闇に紛れた犯行が多いらしい。
 今更ながらそれを思い出してゾッとした。その情報と照らし合わせると、益々彼女の反応が気のせいでは済まされない、現実的なものに見えてくる。
 一体どういう凶行が行われたのか詳しい話は聴いて無かったため、妄想の中でますます恐怖は膨れ上がった。それは昭和のエログロマンガの如く馬鹿馬鹿しくも幼稚で、しかし猟奇的な代物だった。
「誰かいるのか?」
 そう茂みに向かって声をかけたが、沈黙が返って来るだけだった。私は二度、三度同じ事を繰り返したがやはり何の反応もない。次第に私の中では恐怖よりも、もし誰もいなかったら自分のやっていることは傍から見てどんなに滑稽に見えるだろうか、と言う心配の方が大きくなっていった。
「お、お兄さん・・・。」
 彼女はぎゅっと私の手を握りながら、縋りつくような視線で私を見た。
「私が見て来る。」
 怯えた彼女を見て、思わずそう言った。
 どの道茂みにいる何かが出て来ない以上、こちらから闇に出向かない限り、硬直状態は何時までも続くだろう。まさか朝までこうしている訳にはいかない。逃げる、と言う選択肢は一見まともに見えて愚策である。何故なら十中八九気のせいだからだ。
 普通に考えて危険な犯罪者が茂みに隠れていたりしない。せいぜい覗き趣味の盗撮魔が良い所だろうし、妖怪や幽霊の可能性など論外である。
 だがこのまま逃げてしまえば、その妄想は何時までも枯れ尾花だと気付かれず、寧ろ現実的な形を取り、頭の中で何処までも大きくなってしまう。妄想は妄想に過ぎないと勇気を出して証明しなくては、私も彼女も二度とこの辺りを歩けなくなってしまうだろう。下手をすると彼女と同様私も夜一人で歩けなくなるかもしれない。高校生男子としてそれはあまりに恥ずかしい。
 妄想を妄想として切り捨てる為、現実的な思考を取り戻すため、私は思い切って茂みの中に飛び込んだ。
 そしてやって来たのは当然ただの現実だった。ホラー映画宜しく「実は猫が居た」などと言うオチすらなかった。本当にそこには何もなくただ闇と妄想と格闘しようとした愚かな高校生がいるだけだった。少しきまり悪げに笑いながら私は彼女の方へ戻った。
「やっぱり誰もいなかったよ。」
 恥ずかしかったがほっとする部分が大きかった。どれだけアホな醜態を晒しても、闇の中の化け物や狂人に猟奇的な殺され方されるよりは何万倍もマシである。
「あー、恥ずかしいなあ。」
 そう頭をかいたが、彼女のこちらを見る瞳には依然恐怖の存在に対する確信があった。
 その時私の脳裏にホラー映画でよくあるシーンが浮かんだ。様子を見て来ると言って危険な場所へ向かった男が「なんだ気のせいだったよ」と言って戻ってくる。すると、男の後ろから殺人鬼が現れ彼を殺すのだ。一度ほっとさせてから殺すと言うのはホラーの常とう手段ではないか!
 そう思って私は後ろを振り向いたが、やはり誰もいなかった。
 家に辿り着くまでの道は今までとは違って気楽なものだった。闇の中に潜む危険は脳が生み出す虚構でしかないと身をもって証明したのだから、何も恐れるものは無い筈だった。
 ただ、彼女はかたくなに何かいたと主張していて、気のせいだと何度言っても信じようとしなかった。私はその事の意味を良く考えてみるべきだったのだろう。茂みに本当に何もいなかったと言うのがどういう意味を持つのか。何故あれほどまでに彼女は茂みの中の存在に確信があったのか。
 もう、今日はここまでにしよう。幸いあれからドアを叩く音もしない。明日がちゃんと来る事を祈って今日はもう眠りたい。
 きっと大丈夫だ・・。多分・・。

 ちゃんと朝は来た。昨日の私に安心しろと言ってやりたい。
 所で今夜は扉を叩く音が聞こえない。チャイムの音も。だからと言って安心は出来ない。せめて12時は越えて今日が終わらないと。
 それに私には昨夜の訪問者の事以外にも気にかかることがある。今日、構内で誰かの視線を感じたのだ。
 しかも何処で、と言う訳ではなく何処にいてもその視線を感じた。2Fの講義室でドイツ語の授業を受けていた時も、食堂で100円朝食を取っていた時も、図書室でレポートの為の資料をコピーしていた時も誰かが私を見ていた。サークルの後輩に聞いても意味ありげに笑うだけで要領を得ない。そもそもあいつは信用ならないんだ。髪が長すぎる。髪の長いやつは男も女も信用ならない。
 誰かに見られているという感覚は大学からの帰り道でもずっと私の後をついてきた。
 今日も昨日と変わらず、今にも雷でも轟きそうな、どんよりとした空模様だった。大学から徒歩で五分にもならないアパートへの帰り道を歩いていると、辺りが妙に静かで自分の足音しか聞こえない事に気づいた。夕方なのに車の通りもない。元々ここらの通りは車の通りが少ないのだがそれでもこれほど静かなのは珍しい。しかも誰もいないその通りから何者かの気配がするのだ。私の足音の他に何かが近づいてくる音がしないだろうか?何かの、いや、奴らの足音が。
 全て妄想だと片づけるには私は多くを知りすぎている。私はこの感覚を、視線を知っている。私は奴らを知っている!
 体中がじっとり汗ばんでいて、それでいて風邪のような悪寒が止まらない。暑いのだか寒いのだかも分からない。私の背後で、奴らの気配が形になりどんどん大きくなっていく。奴らの爪が、牙が、私に向かって近づいてくる。私は自分が発狂寸前であることに気づく。奴らのイメージが私に触れようとする瞬間、私は悲鳴をあげて振り返った。だが誰もいない。いや、もっと悪い。隣近所のクリーニング店の女性がこちらを見ていた。彼女は、引き攣り笑いを浮かべてこちらに会釈した。私は酷くばつの悪い思いをした。きっと彼女は私が慣れない土地で孤独を拗らせて頭がおかしくなったと思っているのだろう。
 怖ろしい事には、そうなって尚誰かが見ているという感覚は消えて無かったのだ。彼女ではない。奴らの事は知っているから、彼女が奴らと無関係なのは分かる。だがだとしたらこの視線は何処からやってくるのか。結局アパートの扉を閉めるまで、その気味の悪い感覚は無くならなかった。
 とりあえず視線の事は忘れて彼女の事を語ろう。
 仮入部期間の2日目は折り紙だった。
 高校生が折り紙を?などと思う人もいるかもしれないが、幼稚園で教えるような、やっこさんや鶴などを今更やる訳ではなく、一ランク上の大人向けの―と言ったら仰々しいが、レベルの高い折り紙のやり方を教えようというのだ。
 実際毎年の仮入部期間中の催しの中では、一番人気の企画であり、これ目当てに今日だけ仮入部しようとする女子もいるくらいである。
 そもそも折り紙とは単なる子供の遊戯ではない。
 遊戯としての折り紙自体は江戸時代に生まれたものだが、熨斗などの、礼法としての折り紙はそれより遥か以前から存在している。これは折り紙が日本の伝統に深く根差している証拠である。戦後は近代的な創作折り紙が生まれた。それは日々進化し、現代において折り紙アートと呼ばれるまでになっている。折り紙も極めれば立派なアートなのである。大半の人間は折り紙を子どもの遊戯と侮り、子供の遊戯程度の折り紙しか出来ないままでいるだけなのだ。部長は折り紙でエヴァ弐号機を作り上げるほどの兵だが、彼をもってしても折り紙アートの道はまだまだ果て無く険しいものらしい。
 無論そのような超上級者向けの折り紙を初心者が一日で習得するのは流石に不可能である。私も無理だ。ただ、イルカや羊なら、さほど折り紙経験が無くても習得可能であるし、部長以外でも教えられる。ある程度折り紙作りに覚えがあれば、悪魔なども良い。一枚の正方形の折り紙から、角も耳も顔も指五本に至るまで作り上げるその技法は初心者向けと言うにはちょっと厳しいが、その分達成感も大きく挑戦者が多いお題である。大概失敗するのだが。
 折り紙は複雑な形になればなるほど高度なテクニックを必要とするが、案外に人は折り紙について基本的なテクニックすら知らないので、逆にそれらを知れば格段に技術がアップする。今回は呑み込みの早い器用な参加者が多く、悪魔を完成させた人が参加者13人(内5人は今日だけの参加者である)の内3人もいた。他も羊や鼠など初心者には難しいものを完成させる一年が多くて私達は舌を巻いた。
 岩田は参加者の喜ぶ様子を見て、今年も大成功だなと嬉しそうな顔をしていたが、私は参加者の中で唯一暗い顔をしている宮子が気になっていた。
 彼女は最も簡単なお題である鶴を折ろうとしていたが、彼女の手の内にあるのは皺くちゃになった折り紙だった。昨日の時点で気づいてはいたが彼女は手先が不器用な上に言われた通りの事が出来ないようだった。基本の山折り谷折りは出来るようだがそれ以降のテクニックがまるで駄目で、正確に折るという行為自体が彼女にとっては難易度の高い事なのだ。そして折る度にずれは広がりただ紙が雑に折りたたまれた代物が出来るのだった。だが手先の不器用さだけが原因ではなく、手汗が凄いらしく直ぐに折り紙が汗でぬれて上手く折れなくなることも原因だった。
 昨日のように私は根気良く教えたが、手汗などは本人にどうこうできる問題でなく、それどころか横で教えていると緊張するのか手汗が更に酷くなるようだった。
 私はひとまず鶴の折って見せたが、既に彼女の心は折れているようで、私を無視して窓の外をぼんやり眺めていた。
「こら、こっち見ろ。誰の為に鶴を折ってると思ってるんだ。」
 そう言うと流石に狼狽える彼女だったが、再びやらせてみても同じ失敗をした。
 やる気が無いのは明らかで、私も遂には諦めた。そもそも仮入部の催しの一つでしかないのだから本人にやる気がないのにやらせる理由もない。無理にしなくても良いと言うとほっとしたような顔をした。かと言って放置しておくのも可愛そうなので代わりに何をさせようかと考えていると彼女自ら提案を出して来た。
「悪魔を折ってくれませんか?」
 手汗で紙くず同然になった折り紙を弄びながら彼女は言う。先程まで手汗でじっとりとしていた彼女の手には、もう汗は無い。やはりあの汗は緊張によるものだったのだろう。
「え?悪魔を?」
 私は思わず聞き返してしまった。鶴も折れないのにそんなものを折れると思っているのだろうか?だが彼女は折り方を学ぶためでなく、ただ私が折る所を見ていたいだけらしかった。悪魔の他にイルカや羊など、最初に教えたものを全て一通り折ってみせたが、別にそれを見て自分もやって見ようとなる訳でもなく、ただニコニコとこちらを見ているだけだ。偶に歓声をあげたりもするが、それだけで満足しているようだった。良く分からないが、折る所を見る事で折った気になれるのだろうか。ゲームプレイ動画を見るだけで満足する人のようなものだろうか。
 などと醒めた視点を持っているふりで過剰な自意識を抑え込んでも、女子に褒められると頭に乗ってしまのが男子高校生の抗い難い性である。調子に乗った私は教えてないダリアを折って彼女に手渡した。彼女はそれを大切そうに受け取ると「ありがとうございます」とこちらを見て呟いた。
 宮子の大きな瞳に真正面から見つめられて、私はちょっとたじろいだ。「いや、別に・・。」そして、またしてもやらかしてしまったことに気づいた。我に返って誰も見ていないか周りを見渡したが大半は各々の作業に没頭していた。前みたいに冷やかされることは無いと安心していると、直ぐ後ろから強い視線を感じた。
 振り返るとそこには女子グループ数人が一つの席に固まっており、彼女は折り紙そっちのけで何やら噂話に花を咲かせているようだった。その中には相田千尋がいて、視線は彼女のものだった。彼女は友人達の話を聞いているようなふりだったが、眼だけはじっとこっちをみていた。彼女の、何か言いたげな鋭い視線の奥にあるのは決して好意的なものではなかった。
 見なかった事にして宮子の方に視線を戻すと、彼女もまた、何か言いたげな顔をしていた。最もその視線の奥には千尋のような激しい負の感情は無かったので私も自然にこう尋ねる事が出来た。
「何だい?」
 その質問に彼女は暫く躊躇った後答えた。
「部長さんが歓迎会の時にやっていたやつってまだやらないんですか?」
 そう言われて私は、初めて会った時の彼女の言葉を思い出した。
「そう言えば絵が好きで入ったんだっけ?」
「はい。子供の時から絵が好きで。でも中々上手くならなくて。私、部長さんが描いたみたいな凄い絵を描きたいんです!」
 私は思わず苦笑いをしてしまった。そして、歓迎会での彼女のキラキラした瞳を思い出す。絵に多少覚えがあるなら部長の絵に憧れるのも分からないでもないが・・。
「ああ、明後日にやるよ。」
 私はそう言ったが、内心この分では絵の方もどうせ下手の横好き、惨憺たるものだろうと思っていた。碌に鶴も折れない人間にどんな絵が描けると言うのか。
 それが大きな間違いであることに気づいたのは、実際に四日目にクロッキーを行った時だった。
 クロッキーと言うのは、要するに速写の事であり、対象を早く描写する事である。
 進行係の私が最初にそう説明すると、宮子は手上げて質問してきた。私と一対一の時ならともかく、集団の前でこうやって質問をしてくるのは彼女にしては非常に珍しい事だった。
「部長さんが歓迎会の時にやったスケッチって言うのとどう違うんですか?」
 これをお読みの方の中にも、その日の彼女と同じ疑問を持った人は多いと思う。
「良い質問だ。まあ、定義を突き詰めると結構曖昧なんだけど、うちの美術部では素早く対象のおおまかな形だけ捉えて描く事をクロッキーと言うね。一般的にも10分以内で描かなくてはクロッキーとは言わない。スケッチの場合、クロッキーほど早さを重視しないし、色を付ける場合もある。大きな特徴を捉えて対象を簡略化して描くというのは変わらないけど。部長のスケッチも短いし正直クロッキーと言っても良いのだけれど、あのように陰翳まできっちり描写する事は通常クロッキーではない。
 君達もあの日の部長のような絵を描くようにはしないでくれ。普通は、ああ云う細かい陰翳まで描いていたらとてもじゃないが10分じゃ描き終わらないだろう。とにかく、『10分以内』で、『大まかな特徴だけ』描く事を心がけてくれ。」
 予定ではクロッキーのモデルは私がやる筈だったが、その日は部長が休みだったので、部長がやるはずだった進行係は私がやる事になった。私の代わりのモデルは2年の岩田洋一郎が務めた。部長のクロッキーが見られない事に参加者は(特に宮子は)がっかりしていたが、岩田がモデルを務めると私が言った時には歓声が上がった。一日目から薄々気づいていたが、どうやら彼はモテるらしい。だからどうと言う事もないだろうと自分に言い聞かせたが、どうしても無視できない薄暗い感情が心の奥底から沸き起こってくるのだった。
 さて、例年通り四日目のクロッキーから参加者の数がぐっと少なくなった。
 何時も三日目までは美術に興味の無い人間も楽しめる催しを企画しているのだが、四日目から本格的に絵を描きだす。全く興味の無い人間には、対象の特徴を瞬間的に捉えることを目的とするクロッキーなどは酷く退屈だろう。私はこの辺で相田千尋がいなくなってくれる事を祈ったがそうは問屋が卸さなかった。
 ほんの数日で彼女は美術部内に自分のコロニーを作りつつあった。12人の入部希望者の内、5人は彼女が連れて来た友人であった。彼女を含めたその6人のグループは、急速に周りの女子部員達を取り込み拡大していき、四日目のその日には既に部内の女子グループは彼女を中心に回っていた。決して美術に興味など無いだろうに、何故こうまでして美術部に固執するのか。無論ゆるい文化部なので、友達に誘われたからと言う理由でとりあえず入ると言う部員も少なくないが、千尋にはもっと明確で強い目的があるように思えた。
 私は葉介おじさんの言葉を思い出した。「娘は君を気に入っているんだよ。」出来れば、おじさんの勘違いだと願いたい所だ。
 ところで、千尋のグループを見て非常に心配になる事があった。その女子グループは宮子を避けて輪になっているのだ。
 と言っても、そこに露骨な悪意があったと言う訳ではない。実際、千尋から宮子に話しかけているのを一度か二度、見かけた事がある。しかし二人の会話は挨拶以上には発展しなかった。これは千尋に問題があると言うよりは、宮子の問題だった。寧ろ千尋は自身の荒い気性を隠し、極力宮子に対して優しくしようと務めていたと思う。だが宮子から返って来る言葉は否定や自虐ばかりで、千尋もまるで弾まない会話にうんざりして、終いには宮子に話しかけて無くなってしまった。
 他の部員達に対しても同様で、宮子はうんざりするほどに自虐的であり、会話も否定でしか返さない。それだけでなく、そもそも周りに合わせる努力自体がまるで見えなかった。私はそんな彼女を心配はしていて、女子部員にも仲間に入れてくれるよう頼んではいたのだが、如何せん宮子自身が人を避けているような所すらあったので、どうにもならなかった。
 クロッキーの時間も、彼女は女子グループを避けるようにして場所取りをしていた。私もそれとなく他の女子と交流を持てるよう彼女と他の女子を取り持とうとはしたのだが、私自身女子部員との交流があまり得意では無かったため全く上手く行かなかった。こう言うのは岩田が得意なのだが、どうも彼は宮子にあまり良い印象を持ってないらしく、宮子について話を振ると、「俺、あいつ嫌いなんだよね。」と言う彼にしては珍しい程の明確な敵意が返って来た。2日目に何かあったようだが、私はその場にいなかったので詳しい事は分からない。だが予想はついた。
 彼女の卑屈さには何処か傲慢な所があったのだ。誰もが覚えがあるだろう。自尊感情の低い人間と言うのは、大抵歪んだ自己愛を持っており、彼らの孤立は等しく傲慢さ故のものなのだ。明朗快活な精神を持つ岩田はそんな傲慢さに耐えられなかったのだろう。
 私もあの出会いさえなければ彼女を投げていたかもしれない。しかし私は彼女の笑顔を知っているのだ。あれほどまでに魅力的な笑顔を見せる少女が、周りも自分自身すらその魅力を理解せず、孤独の内にあの笑顔を腐らせてしまうのは耐え難い事に思えた。
 何より彼女自身はこの部に入ることを望んでいるのだ。その彼女にとってこの部の仲間といる事が居心地悪くなることは、誰にとっても良い事ではない。いじめとは言わないまでも、何らかの火種になりかねない。
 しかし、一体どうしたら彼女を女子グループの中に入れてあげられるだろう。部員達の様子を見回りながらも、私は宮子について頭を悩ませていた。だが、そんな悩みは、彼女の絵を見て吹っ飛んだ。
 初めてのクロッキーと言うのは大概制限時間オーバーしてしまうものだが、宮子は既に描き終わっているようだった。まだ5分と経っていないのだが。しかし、真に驚くべき点はそんな基本的な所では勿論ない。彼女の絵自身にあった。
 私はその驚きを声に出す事が出来なかった。それどころか言葉一つ発することが出来ず、不本意にも彼女の前を素通りしてしまった。彼女はこちらに縋るような視線を送ったが、それに応える事は出来なかった。私は自分が惨めなほど悲しい気持ちになるのを止められなかった。
 クロッキーを描いた後は一つ一つ品評会を行うのだが、正直その時の他の部員達の絵の事は全く覚えていない。他の部員達もそうだろう。それだけ宮子の絵は周りと比べて突出していた。それは仮入部員の中で、と言う意味ではない。仮入部員たちの絵は殆どが未完成、或はクロッキーと言うものの意味すら理解できてない漫画絵すらあって、比較になるようなレベルのものは無かった。問題は彼女の絵がそれなりに絵に覚えのあるはずの2年、3年と比べても比較にならない程の完成度だったと言う事だ。しかし、彼らは私と同じく驚きを声にする事が出来なかった。
 宮子が描いた岩田は、他の部員達の絵のようにただ座っているだけの人形では無かった。その絵の中の岩田は、まるで叫ぶようにして口を大きく開けていて、空を見つめていた。岩田は序盤に一度、退屈そうに欠伸をしていた。その一瞬の動きを彼女は捉え、絵にしたのだ。
 言葉にするだけなら簡単に思えるが、これは容易な事ではない。優れた観察力が無くては出来ない事だ。彼特有の動きや首の傾げ方など、岩田の特徴が正確にその絵の中に見事に落とし込まれていた。しかもそこには実物以上の生命力、勢いがあり、そのせいで叫んでいるような不気味な絵が出来上がったのだが、それに対してどう言う感想を言う事も私達は出来なかった。私達は彼女の絵を批評するレベルにすらなかったのだ。
 一番先に素直な驚きを声に出したのは相田千尋だった。
「ちょっと、これ凄くない?」
 何時の間にか私の隣にいた彼女は私の裾を引っ張りながら、はしゃいでいた。
「ああ、新人離れしているな。」
 私は嘘をついた。
「いやいやいや。これ、あんたより上手いでしょ?」
 この糞女。私は口元まで出かかった暴言を何とかひっこめた。
 それが分かっているからこそ、私は・・・いや、私以外の部員達も彼女の絵に対して何も言えずにいるのだ。しかし私達の打ちのめされた表情に気づいていないのか、或はどうでも良いと思っているのか、宮子に対して率直な好奇心でもって話しかけていた。
 宮子は非常に迷惑そうなしかめっ面をしていたが、千尋はグイグイと彼女のパーソナルスペースを破り踏み込んでいった。私は今にも怒り出しそうな宮子の様子にハラハラしながらも、一方で彼女に必要なのは千尋の様な強引さだったのかもしれないと思った。
「あのさあ、宮子ちゃん。ちょっと馬の絵描いてみてくれない?」
 宮子は非常に嫌そうな顔で私の方を見た。「この人止めてください」とその目は言っていた。
「いや、今日はこの後別のスケジュールがあるし、それに宮子の為だけに時間を設けるのはどうだろう。」
 私がそう言ったのは、宮子が嫌がっていたから、と言う理由だけではなかった。非常に嫌な予感がしたのだ。しかし、千尋はそれを却下した。
「何それ。意味わかんない。大体皆興味あるでしょう?この子がどんな絵を描くのか。だったらそれは私達にとっても意味あるじゃん。それに、上手い絵を見る事は勉強にもなるんじゃない?」
 その通りだった。止める理由などなかった。実際他の女子からも宮子の絵が見たいと言う声が上がっていた。私は助けを求めるように部員達に視線を送ったが、彼らは何かを呑み込むようにして黙っていたため、私も同じように黙るしかなかった。これ以上無意味にこの場を止めれば、後輩の絵の上手さに嫉妬していると思われるだろう。何より不味い事にはそれは本当の事なのだ。
 私達が千尋を止めようとしないのを見て宮子は諦めたようにため息をついた。
「部長さんみたいに上手くは書けませんよ?」
 それはダメ元の抵抗だったようだが、当然無駄骨に終わった。
「分かっているわよ。カンさんの絵が見たいんじゃなくて、私はミヤちゃんの絵が見たいんだから。あの歓迎会と同じ画を描いたら寧ろがっかりしちゃうわね。」
「モデルとか無いし。せめて写真とか・・。」
「嘘。あなた想像で描けるでしょ?岩田君が一回欠伸しただけの瞬間をあんなに完璧に、本物以上に描いたんだもの。」
 やはり千尋にも分かっていたようだ。宮子のクロッキーは、ただ単に上手いなどと言うものではなく、本物以上の迫力があるのだ。物を見る力、観察力を鍛えるのがクロッキーの主な目的だが、それらの力が彼女は並優れているのだ。
 その後彼女は10分で部長が歓迎会で描いて見せた馬を、全く同じ構図で描いて見せた。
 全く同じ題材だからこそ、はっきりと分かった。部長の絵と彼女のそれは天地の差があった。彼女自身はそれに気づいて無かったろうが、斜めに崖を駆け上がろうとする構図は、短時間で描くと不安定になりがちな部長の技術に対する誤魔化しのテクニックに過ぎなかった。他にもその誤魔化しはあの日の部長の絵に幾つもあった。彼女はあの時描いた部長の馬の絵を正確に記憶していただけでなく、それらのごまかしのテクニックを全て自分のものにしていた。そしてそれらは宮子の絵に恐ろしい程の迫力を与えていた。
 相田千尋はその絵を見て乾いた笑いを浮かべていた。
「ねえ、これ笑うしかなくない?」
 自分が描かせたと言うのに彼女は完全に引いていた。
 私はと言えば、虚脱感に襲われていた。そしてそれは他の部員達もそうだったようだ。特に絵に関しては然程こだわりもない岩田ですらそうだった。
「部長が居なくて良かったな。こんな絵描かれたんじゃ立場ないじゃんか。」
 岩田は苦笑いをしながら冗談交じりで語っていたが、正直全く冗談になっていなかった。私は先ほどの嫌な予感の意味が分かった。彼女の絵の才能は本物だった。進むべき高校を間違えたのではないかと言うほどに。それは私達が、部長が偽物であると言う事を白日の下にさらした。
 私にとって部長は憧れだった。卓越した絵の技術を彼は持っていたが、それは所詮普通科の学校にしては、と言う程度だったのだ。それが彼女の絵を見て分かった。凡人の中に場違いな天才が現れてしまった。これが良い事かと言えば何とも微妙だった。新入生たちはただ彼女を持て囃しているだけだったが、私達上級生たちは複雑な表情をしていた。
 更に周りの反応を読まない彼女の言動も良くなかった。
 彼女はクロッキーを描き終えた後、碌に反応も出来ない周りを振り返って自嘲気味に笑ってこう言った。
「ね?部長さんと比べれば全然ですよ。」
 自尊感情の低さからの発言も、こういう場合は最上級の嫌味と化す。彼女は謙遜でも何でもなく本気で言ったのだろうが、部員の何人か(特に3年は)は殺意の籠った視線を彼女に送った。
 しかし、新入生たちの反応は真逆だった。彼女達はわっと彼女を取り囲んだ。
「ミヤちゃんカッコいい!」
 千尋に抱きつかれた宮子は、少し迷惑そうな顔をしたが、頬が少し緩んでいるのは誤魔化せて無いようだった。やはり褒められるのは嬉しいらしい。
 優れたものは素直に褒める、と言うのは、相田千尋と言う少女の数少ない美点である。容姿にしろ能力にしろ、自分より遥かに優れたものを前にしても彼女は敗北感と言うものを感じないらしく、相手に対して惜しみない賞賛を与える。
 この瞬間を機に、さっきまでの私の中にある懸念は一気に吹っ飛んだ。宮子を中心に女子グループの輪が出来ていた。彼女は相変わらずしどろもどろでコミュニケーション能力に難があったが、少女たちは「天才肌の人間ってそういうもの」と納得したようで彼女の反応にいら立ちも見せなかった。一方彼女の方も自分を取り巻く好意的な空気にまんざらでもないようで、リラックスした笑みを浮かべていた。
 この日から彼女は一気に部活に馴染んでいった。しかし、一方で彼女に対する嫌悪感のようなものが内在するようになった。
 そもそも、千尋が行った行為は、本来なら私達がすべき事だった。
 それが出来なかった原因の正体は、宮子に対する私達の嫉妬以外の何物でもなかった。
 彼女の絵を見た私達は、自分たちはちょっと絵が上手い素人でしかなかったと思い知った。そしてその嫉妬ゆえの感情を表に出さない、或は彼女に露骨にぶつけない、それが私達のできる精いっぱいだった。
 読者諸君はそんな私達の態度を大人げないと思うだろうが、元々我が立花高校美術部は普通科の美術部とは言え、クリエイターとして活躍するOBが何人もいる所で、それなりに絵の描ける人間が集まって来る。だから実の所絵には多少自信があったのだ。結局それは結局の所井の蛙にしか過ぎない事が分かってしまったわけだが、高校生と言うプライドばかり高い思春期少年達が後輩によってそれを思い知らされたことを早々受け入れられる訳がなく、彼女に対しては皆から随分見苦しい意見を随分と聴いたものだ。
 部長に関しては後日、彼女の絵を見て散々、大した事無い、基本がなってないと陰口を叩いていた。あんな余裕のない部長は初めて見た。
 彼は結局その後、受けるはずだった京都の芸術大学を受験することを辞めた。後で聞いた所によると、芸大向の夏期講習を早々にキャンセルして、東北大学の理学部に狙いを変えたらしい。それで受かってしまうのだから、やはり彼は彼で優秀な人間だったのだろう。だが天才では無かった。それだけの話だ。
 5日目のデッサンでは、宮子に話しかける隙すらなかった。彼女は昨日までと違い、終始女子部員達に囲まれていた。デッサンのコツなどを部長や他の先輩でなく、後輩に聞く彼女らを、部長を始めとする部員達は良い顔をしてみていなかったが、その視線に対して彼女らの行為はこれみよがしな、確信犯的残酷さがあった。とどのつまり、宮子は新入部員達にとって、ヒーローでありマスコットでもあった。絵のコツなどを聞いても要領を得ない答えが返って来るのだが、それでも彼女らは気にしてなかった。
 それまでと違って5日目の私は主に他の子の面倒を見ていた。宮子が何か言いたそうな顔でちらちらとこちらを見ていることは分かっていたが、私は知らないふりをした。私があの輪に入っても邪魔になるだけだろう。
 元々、私が殆ど彼女につきっきりになっているそれまでの状態がおかしかったわけで、これが正常だと思った。すっかり女子部員達の中に溶け込んでいる彼女を見て少し寂しくもあったが、一方でホッともした。きっとあのままだったら私が何をしてもどんどん孤立していくだけだったろうから。ちょっとした事で事態が好転する事があるものだ。輪の中で笑っている彼女は、あの日ほどではないにしても、とても魅力的だった。
 ・・・いや、この描写は些か綺麗ごとが過ぎると言えるだろう。無論、その日デッサンの時に彼女に話しかけなかったのは、そういう事情だとその時は思っていた。
 だが今なら分かる。それは本心とは程遠い、上っ面の感情であり、言うなれば欺瞞だ。「自分は後輩の事を思って話しかけなかったのだと思いたい」と言う願望が作り出した言い訳に過ぎない。一見筋が通っているように見えても言い訳は言い訳だ。脳は論理的思考の組み立ての結果、結論を出すのではなく、主観や欲求、つまり結論から論理を組み立てるのだと脳科学の本で読んだことがある。だから実際、理屈っぽい人ほど感情的なのだ。
 真実を見つめるためには、まずは感情から離れるのが肝要だ。そして当時の感情から離れた現在から当時を見つめ直すと、その時の私が彼女と距離を取った行動の底にあるものは、女子部員と仲良くなれるよう、と言う配慮ではなく、もっと単純で幼稚な感情が原因だったと分かる。今思い出すと恥ずかしくなる様なその思いを説明するには、その週の土曜にあった事について語る方が分かり易いだろう。
 当時の私は運送会社で倉庫業務のバイトをしていた。我が家では中高生には小遣いと言うものは必要ないと言う考えがあったため、私は中学からバイトに勤しんでいた。様々な中でも一番割の良いバイトが北矢野目の日本通運での倉庫業務であり、私はここで中高通じて仕事をしていた。
 基本土日の午後に入る事が多かったが、荷物の多い日に急に頼まれる事もあった。他にもバイトは掛け持ちしていたが、一番長く続けているのはこのバイトだった。それほど簡単ではないが、きつい癖に最低賃金のコンビニのバイトよりは遥かに良いし、どんな仕事も長く続ければ続けるほど仕事も覚えて人間関係も構築されて行くので楽になる。
 二年に入ってからの私には一つの目標があったのでなるべくシフトは多く入れてもらっていた。無論部活とバイトの両立は文科部とは言え容易くないが、部活のためのバイトなのでどちらも疎かにするわけにはいかなかった。
 美術部の私の活動は主に油絵であった。そして、油絵を描くに多くのお金が必要だった。部費で出る額は限られている。部費内で活動することも出来なくはないのだが、私にとって金銭的な事情を理由に創作活動を制限されるなどと言う事は、我慢のならない事だった。
 絵の具は常に足りなかったが、私は何より額縁が欲しかった。サイズの小さいシンプルな額縁なら大した値段ではないのだが、サイズが大きくなる毎に値段は飛躍的に上がる。お洒落な額なら猶更だ。だが自信作であるなら、それなりの額に入れたいものだ。
 高校の展示会で部の備品である古びた額縁に自分の絵を入れて飾った時の感動はちょっと忘れられない。その時私は、蛙が月夜に船出する絵を描いたのだが、それは周りにこそ好評だったものの、自分としては何か足りない印象のある絵だった。
 その如何にも学生が描いた素人然とした絵が、そのルイ調の鈍い光沢を放つ額縁に入れた途端、厳かな雰囲気を持ち始め、まるで名画のように見え始めたのだ。実際、額縁の力は偉大であると神澤部長も言っていた。だがその額は当然展示会が終われば返さなくてはいけない。額縁を外された絵は酷くみすぼらしかった。私はその額縁を自分のものにすべくネット通販を漁ったが、22000円と言うのは高校生の小遣いでは中々に重い金額だった。それに自信作は一つではない。
 そう言う訳で私はその土曜日も日本通運で、朝から引っ越し作業などを手伝っていた。
 その日の引っ越し作業はある中小企業の引っ越しであり、かなりの長丁場になると聞かされていた。基本的に休日に入る引っ越し作業の仕事は企業相手のものが多く、人手も規模もかなり大きなものが多い。何時終わるかも分からないので苦手なのだが、実際に行ってみると小さなオフィスの引っ越しであり、ほんの2時間ほどで全て積み終わった。こう言う風に正確な情報がこちらに全く届いて無い事は何時もの事だった。無論逆よりはよっぽどいい。とある工場に派遣された時は、午前中に終わると言う話だったのに深夜までかかったものだ。
 だが、楽と言えば楽だが暇と言えば暇なその状況には微妙な苦痛が伴った。それに11時には会社に着いたとはいえ、午後1時から倉庫業務があるので、一々帰るのも馬鹿馬鹿しい。どうしようかと思っていると、上原係長に書類整理を頼まれた。
 運送業は伝票が毎日山ほど出るので、これを日や行先によって分けるのだ。コンピューターでデータ化されているので、紙の重要度は少ないのだが、当然捨てる訳にもいかない。誰かがやれなくてはいけないのだ。一つ一つ整理するのは簡単ではあるものの非常に面倒なので、もっぱら我々バイトの仕事になる。しかも、誰もが「今すぐじゃなくてもいいし、どうせいつか誰かがやる」と思っているので結構な量がたまっていた。
 ドライバーの一人である林哲夫さんと私は午後までその面倒な伝票整理を黙々と行っていた。その時、林さんが午後から新人が入ると言ってきた。新人が入ることは前から知っていたが今日とは知らなかった。私がそう言うと、彼は何とも表現しようのない顔をした。
「何ですか?」
「いや、そいつが女の子らしいんだよ。」
「は?」
 私は思わず変な声を上げてしまった。確かにそれは微妙な話だ。
「それだと戦力になるかどうか怪しいですね。」
 前々から倉庫業務は人手が足りないと私は言っていた。シフトを考えるとどうしても今の人数だと、毎日倉庫を一人で回さなくてはいけないのだが、それは無理のある話だ。実際そのせいで私はバイトの日は結構遅くまで残る事になる。無論深夜のバイトは禁止されているのでこれが学校にばれたらまずいし、多分日通にとっても不味いはずだ。後一人か二人は必要なのだ。
 しかし誰でもいい訳ではない。この営業所で扱う荷物の半分以上は、個人の荷物ではなく企業製品、特に電化製品などが多い。大型TVなども結構な頻度でやって来るためになるべく男性が良いのだ。求人を性別で制限する事は今の時代アウトであるが、まあ不適応な体格であればそれを理由に断ればいいだけの話だ。逆に女子プロレスラーのような体格であれば、非力な私よりは余程戦力になるだろうし。
 だが係長が採用したその新人は、小柄な若い女性と言う事だった。
「一体何を考えてるんですかね。そりゃ女性が絶対ダメって訳でも無いですけど。軽い荷物もあるし。」
 私が呆れたように言うと、林さんは分かって無いなあと言う顔をした。
「馬鹿だなあ、女子高生なら大歓迎だよ。そこじゃないんだよ、問題は。」
「え?女子高生?」
 何だか私は嫌な予感がしたが、林さんはそのまま話を続けた。
「俺女子高生とお付き合いしたかったし寧ろ渡りに船。だからすっげー嬉しかったんだけど。ただなあ、見た所によると大分暗めで好みじゃないんだよ。俺はちょっと生意気な感じのJKと付き合いたいんだよ!根暗なJKじゃないんだよ。まあ、百歩譲って文学少女って感じの清楚系ならありかな。でもそういう感じでも無いんだなー。」
「はあ・・。」
 後ろで事務作業をしていた金倉さんと言う女性が、顔を顰めて私にこう尋ねた。
「ねえ、この人何を言ってるの?大丈夫?」
「何時も通りですね。」
 私はそう言ったが、妻子のある30代の男が平気で「女子高生と付き合いたい」と公言する我が日本はあまり大丈夫ではないだろう。大方係長も似たような理由で無かろうか。
 男性社員が大半であるこの営業所はセクハラ上等な所が多々あった。実際前にいた係長は飲み会の席で女性社員に執拗なセクハラをした為問題になって別の部署になった。と言ってトップが変わろうと全体的な体質は変わらないので、この会社の飲み会には女性社員は来ないと言う。私は次第にその新人のアルバイトの女性が心配になって来た。
 金倉さんもそれを考えていたらしい、私にひそひそ声でこう言ってきた。
「ねえ、同じ学校なんでしょ?私も気を付けるけど、君も変な事されないよう守ってあげなよ。」
 言われるまでもない。私は頷いた。が、数秒後に気づいた。
 いや、それより何だって?同じ高校?小柄な女子?私は改めて金倉さんにその女子の事を聞きだそうとしたが、その時大型トラックが、ホームに入って来て午後の作業が始まった為、そのチャンスは無くなった。
 果たして予想通りであった。少女は赤崎宮子だった。私はここ数日で彼女の鈍臭さは理解していたので彼女を見た途端思わずしかめっ面をしてしまったが、彼女の反応を見るとそんな顔も出来なくなった。私を見た途端、暗い顔をした彼女の顔はぱっと明るくなったのだ。
「嘘!やった!お兄さんだ!」
 手を叩いてはしゃぐ宮子に対して、周りはお前妹いたの?とか聞いてくるので、その時始めて私は彼女に私に対する呼び方を改めるように頼んだ。
「分かりました!よろしくお願いしますね、先輩。」
 幸いその日は然程忙しくなかったので、仕事を教えるには適した一日だった。
 彼女にとって予想外だった事と予想通りだった事がそれぞれ一つあった。
 まず宮子は非常に力持ちだったと言う事だ。小さな体格からは想像できないが、大きな荷物も平気で持てる。恐らく私よりも力があるだろう。実際、採用されたのも上原係長と彼女の親が知り合いで、女子ではあるが存外に力のある宮子には適したバイトではないかとこの仕事を推薦されたと言う。係長は私の想像した下種な理由ではなく、きちんと相手を理解した上で採用したらしかった。差別的な考えを持っていたのはどうやら自分だったと分かって私は恥ずかしくなった。
 だがまあ、要領に関しては予想通りだった。倉庫業務は単純な力作業ではなく、次々にホームに到着するトラックから荷物を降ろし、測り、データを入力して、行き先や日にち毎に分けて新たにトラックに載せる。これらを迅速かつ正確に行わなくていけない。当然ながらデータ入力に誤りがあってはいけないし、まして間違ったトラックに載せれば大問題である。
 彼女は初日から市内向けの荷物を北海道向けのトラックに載せると言うミスをした。トラックのドライバーが気づいたから良かったものの、私がこっぴどく怒られてしまった。
 しかし正直に言えば、私は怒られながらも一旦離れていた彼女に対する思いが募っていくのを感じていた。
 何故か?
 これは今だからこそ言える事なのだが、当時の私は「自分がいなければ駄目なか弱い後輩の女子」である彼女が好きだったのだ。先日はその彼女が自分より圧倒的に絵の才能があった為に心が離れて行ったのだが、その日の彼女には仕事が出来ない、「私に頼らざるを得ない」所が出て来たので改めて彼女に対する思いが再燃したのだ。我ながら幼稚で馬鹿な男だったと思うのだが、男子高校生など大体そんなものだろう。
 すっかりしゅんとしてしまい、「今日はすいませんでした。」と謝る宮子に対して、「最初はそんなもんだよ。」と笑ってみせた。そこに無理などなかった。私はそんな彼女に対して愛おしささえ感じていたのだ。
 私が自分の失敗のせいで怒鳴られる事が相当ショックだったのだろう。彼女はその日、ずっと落ち込んでいた。それは大分しつこかった。そして次第に、もう一つの彼女が顔を出して来た。ブツブツと「だから私は駄目なんだ。皆私を嫌うんだ。」と繰り返し言い始めた。
 その時は彼女に対して底なしの優しさを持っていた私は繰り返し気にする必要ないと言った。すると、彼女は私に虚ろな視線を向けた。
「先輩もいずれ私が嫌いになりますよ。」
「そんな事言うなよ。君はもっと自分を好きになった方が良いね。」
「・・・まあ、どうせ先輩も直ぐに分かりますよ。」
 そう捨て鉢に言い捨てる彼女に対して怒っても良かったと思うのだが、私は戸惑っていた。その時の彼女には奇妙な表情があった。その表情は直ぐに消えたが、僅かな一瞬に覗いたその表情は、今まで誰の表情にも見た事のないもので、彼女の顔はその瞬間だけ別人のようになった。それは異質で冷たい、まるで異星人のように非人間的なものだった。彼女の大きな瞳が濁り、その奥に謎めいた光沢がのたうっていた。
 あの時だろう。初めて彼女に対してゾッとする様な思いを抱いたのは。
 最もその時はその思いの重要性については気づかなかった。ただ、この反応と同じものを岩田に対して行っていたなら彼に嫌われるのは当然だろうなと思った。彼はこういうタイプが一番嫌いだ。人の優しさを無視する傲慢な孤独は。
 桜のあの神聖さに私は後々まで誤魔化されていたが、最初にその裏にある恐ろしいものに気づいたのはあの時だ。
 誰でもそうなのだが、彼女には二面性があった。初対面の時にあった無邪気で溌溂とした性格とは対極に位置するもの。
 それは当初考えていた、「自尊心感情が低い」などと言う生易しいものではなかった。その正体はTVや小説では見た事があるものの、一度も間近で見た事のない、ある種この世でもっとも純粋な人間性だった。つまり・・・まあ、それはその時に改めて語ろう。
 そろそろ今日が終わる。もう書くのは止めて寝てもいい頃か。あれはきっと気のせいだったのだ。明日も何事も無ければそう安心できるだろう。
 ああくそがっ! 
 また誰かがドアを叩いている!
 やはり気のせいではない。誰かが夜にやって来る。何らかの意図をもって私の元へ。
 ドアスコープを覗けば何がやって来ているのかその正体が分かるが、実は私の安アパートの扉には、細い長方形の曇りガラスが8つもはめ込んであり、スコープから覗こうとすれば、向こうから私が覗いている様子がガラス越しに丸わかりである。相手の正体を確認してから居留守を使おうにも、覗いた時点で相手に私が居るのが分かってしまうからドアスコープの意味がない。このドアを設計した馬鹿は何を考えていたのだろう。
 居留守は分かっているだろうが、ガラス越しとは言え相手に自分の姿を晒すような真似は怖すぎて出来ない。
 とりあえず、ラジオをかけて誤魔化そう。今夜のAMでは菅田将暉のオールナイトニッポンがやっている。せめて岡村隆史が良かった。まあ、あの不気味な音を誤魔化せるなら何でも良いのだが。
 初めて聞いたが意外と面白い。
 もうドアを叩く音は聞こえないようだ。
 ラジオを聴きながら寝る。朝が来ることを祈って。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 今日の朝、今年初めての雪が降った。それは小さくか弱いもので、コンクリートの地面に落ちると直ぐに消えてしまった。1時間ほど経つと直ぐに止んでしまったが、天気予報によればこれから大寒波がやって来るそうである。大雪なら奴らは来なくなるだろうか。いや、そう言った都合のいい想像は止めよう。それより大雪が来ることで逃げ道が無くなる可能性の方が高い。まあ、最悪を予想した所で対策など無いのだが。
 そう言えば大学で、少し気になる事があった。
 昨日と同様、図書室で宗教学のレポートを書いていると、またもや視線を感じたのだ。
 私はその時、少しでも視線の主が分かり易いよう図書室隅の壁際の机にいたのだが、何処を探しても視線の正体を探る事は出来なかった。と言うよりそこには私しかいなかったのだ。気のせい・・・ではない、と思うのだが。
 そうだ。一人だけあの図書室には人間がいた。あの長髪の後輩である。だが彼は違う。目が違うのだ。奴らの目はあんな風に間が抜けた色はしていない。もっと非人間的だ。
 今私は不安である。私は何か重要な事実を見落としていないだろうか。そんな疑念が頭を離れない。
 彼女が入部してから直ぐに幾つか崩壊の予兆はあったのだろうが、私はそれら全てを見逃していたのでそれらをここで語る事は不可能だ。
 みっともない話だが、高校の時の私は、自分には人を見る目があると言う根拠のない自信を持っていた。だから、最初の彼女のイメージを壊せず、部室で何が起こっているのか、正確には彼女が何者であるかを中々認識できずにいた。
 当時の私は人間の多様性と言うものについて知らなかったのだ。善人と悪人、尊敬できるべき人と軽蔑するべき人、正気と狂気。これらはくっきり別れている物だと思い込んでいた。実際のそれらはもっと混沌としていて、尊敬すべき所を持ったクズや、狂った善人と言うものが世の中には存在すると知ったのはもっと後の事だ。
 私が彼女の異変に気づかなかったのには、もう一つ訳があった。
 それは5月に唐突に私が美術部の部長に任命されたからであった。
 本来、3年が辞め、2年生が部長になるのはもっと先だった。別に明確な規定があった訳でも無いが、通常10月頃である。3年さえその気にならなければもっとギリギリまで部長でいる事も可能だ。実際そういう前例もある。
 神澤部長は宮子の絵を見て以来、すっかり人が変わってしまった。常に卑屈で、事ある毎に嫌味を吐いた。宮子の事は徹底的に無視していて、彼女に対して聞えよがしの皮肉を言ったりもした。
 私は人当たりの良さや社交性などの彼の善性が、部内での絶対的な絵の評価ありきの事だったと知ってショックを受けた。今思えばその時の私には年上でも、実際の所神澤部長は只の高校生にしか過ぎなかったのだから無理のない話だった。自分のアイデンティティを後輩の女の子に打ちのめされて平気でいられる訳がない。
 そんな部長の態度は、部内での彼の評判を急降下させてしまい、女子部員達は宮子を守る様にして部長に対して敵意をむき出しにしていた。
 こんな調子で部が上手くまとまる訳が無い。新学期が始まって数週間で新しい部長を決める話が持ち上がったのも無理からぬ話であった。
 建前としては神澤さんが京都芸術大学へ行くのを辞めた事が理由になっていた。確かに、今まで彼がしていた受験対策は美術系のものだったので、3年になってから急に東北大学の受験へ狙いを変えるのは無謀とも言えた。今から寝る間も惜しんで勉強しても間に合うかどうか。
 勿論、それは理由の半分にも満たない。実際は、ただ部長は部室に来たくないだけだったのだ。自業自得とは言え自分の居場所が跡形もなく消えた部活になどはもう2度と来る気が無いようだった。恐らくはあの数週間は神澤さんにとって永久に残る黒歴史になるだろう。
 さて、2年生の中で部長を決める上で二人の人間の名が上がった。と言うより、実の所前年度からいる部員は私と岩田しかいなかったのだ。前年度は殆ど部員が入ってこず、おまけに私と岩田の他にもいた3名の部員達は女性問題で辞めて行った。その件には岩田が絡んでいるらしいと言う噂があったが私には詳しい事は分からない。
 本来であれば私の代わりに部長になっていたであろう、岩田洋一と言う男について簡単に語っておこう。彼は一言で言うと典型的優男と言った風貌で、その細い眼はいつも微笑んでいるかのような曲線を描いている。実際、彼はどんな時もいつも微笑んでいて、物腰も柔らかである。頬は少し痩せこけているので一見した所頼りなさげに見えるが、決して病的な痩せ具合ではない。昔風の言い方なら、草食男子などと言われるタイプだ。
 しかし、以上はあくまで見た目の印象であり、ある程度話をしてみれば、彼は見た目通りの優男でない事は直ぐに分かる。
 よく観察してみれば、一見柔らかに見える彼の一挙手一投足には無駄が無く素早い。以前、彼が駅前で、一人で歩いている所を見た事があるが、まるで急いでいるように見えない優雅な足取りなのにも関わらず、凄いスピードで移動していた。声をかけても何か考え事をしているらしくこちらに気づかなかったので、私は殆ど小走りになってようやく彼に追いついたものだ。それは逆に彼が誰かと歩いている時は、その相手に歩調を合わせていると言う事でもあった。
 彼は決してイケメンと言う訳でも無いのだが、非常にモテた。男女問わず皆が彼を慕った。丁寧な物言いと優しげな笑顔とそこから想像も出来ない程有能であったため、誰からも頼りにされた。
 最も彼がモテると言う事を私が知ったのは2年に入って女子部員が大量に入ってからだった。それまでは私はおめでたい事に彼が自分と同じモテない男子生徒だと思っていた。プレイボーイであった彼に上から目線で恋愛論を語った事を思い出すと、羞恥のあまり私は叫び出したい衝動に駆られる。
 簡単に語ると言う割にくどくど語ってしまったような気がするが、要するに岩田洋一と言う男は、優男の容姿を持った、いわゆる出来る男なのだ。
 そして、私はと言えば・・。この点について長々語る必要は無い筈だ。懸命な諸君なら既に御分かりと思うが、岩田と私を簡単に言うならば「仕事が出来る男」と「仕事が出来ない男」であった。
 岩田が部長にならなかったのは、彼が既にとある同好会のリーダーを務めていたからだ。内容は福島市で自分達が作った地域通貨を広めると言うもので、その名称は忘れたが後から聞いた所によると高校の同好会の活動を越えたもので、中々に多忙を極める活動内容だったようだ。その為、私が部長に任命されたのだ。
 今思えば、自分の社交性の無さや、要領の悪さ、その他諸々を鑑みれば、これは絶対に断るべき案件であった。だが悲しい事に17歳になろうとしている私は自分に人望が無いと言う事実に気づいていなかった。
 いや、正確にはそれには気づきつつあったのだが、認める事出来なかった。寧ろ、そんな自分を変える良い機会だとすら思った私は二つ返事で引き受けた。そして私は美術連盟総会の参加や、他の高校との研修会など、様々な行事を成功させるため、あちこち駆けずり回った。私が部長になって特に力を入れたのは、11月にある福島学生美術展の出品だった。
 これは県立美術館で行われるもので、我が部は毎年参加しているのだが、最近は真剣に絵を描くつもりのない部員が多いため中々絵が集まらないし、集まったとしても美術館に飾るには学生のものと考慮しても恥ずかしい代物も結構あった。一年の時の美術展の時、我々の絵を見た世界史の福本先生は、「昔は君達凄かったんだけどねえ。」とため息をついていた。
 美術展の成功の判断基準が何処にあるのかも分からないまま、初めての事に振り回され、空回りし続けた私の半年間は、それはそれは酷いものだった。
 人をまとめると言う事がこれほど難しい事だとは!
 大勢の人間に気を使い、時に鼓舞し、時に注意し、まとめ上げていく。私は六か月ほどの間にその難しさを思い知った。美術部部長として活動は他の部のそれと比べてそれ程ハードではなかったはずだが、碌にこなせていなかった。
 副部長は岩田がなったのだがそれも不味かった。私がミスする度に彼はフォローしてくれたのだが、その度に私を見る女子部員達の目は冷たくなっていた。女性が出来ない男に対してどれだけ残酷かは男性諸君ならご存知の通りだ。彼と一緒にいるとよく女子が話しかけてくるのだが、その目がちらりと私に向く時そこには「お前には一切の用が無い」と言う明確な意思があった。会議でも彼が喋ると色々質問が飛ぶのだが、私が喋ると皆沈黙した。
 当時の私もはっきりと自覚していた。自分の情熱は空回りしていると。部を盛り上げようとすればするほど部内の空気が悪くなった。空回りを自覚しながらも、他にどうしようもなかった。全てが裏目に出て、前を進んでいる筈なのに同じ所を周っているようなままならなさ。頑張りがまるで形にならず、惨めな気持ちで必死に私なりに戦ったが誰にも評価されなかった。
 二年の夏は刹那に過ぎていった。その間私は自分の事で精一杯で、誰の事も見えて無かった。私が無意味な空回りをしている間に部活内で危険な雰囲気が漂い始めた。それは次第に大きくなって行き、自分の事で精いっぱいだった私にも無視できないほど強くなっていた。
 自分がそれを感じたのは、新学期が始まった頃。美術展に向けて創作に打ち込んでいた時の事だった。微かだが、はっきりと部活内に異臭を感じたのだ。
 私が千尋にそう言うと、彼女は作業の手を止めてこちらを向いた。
「今頃気づいたの?結構前からこんな感じよ?」
 そう言うと彼女はふん、と鼻で笑ってみせた。
 彼女はその時、ペインティングナイフでタンポポの花をキャンバスに創り出していた。彼女は当初絵に興味が無かったはずだが、今では新入部員の中では宮子に次いで熱心に部活動に参加していた。
「ミヤちゃんよ。あの子いないでしょう?あんまり部活に来ていない。」
 その通りだった。その日も彼女は部活に来ていなかった。もっとも、美術部の活動はかならず毎日出なければならない訳ではないし、基本的に美術展に対する出品物さえ完成させればあとは自由と言う風潮があったので、あまり違和感を抱かなかったのだ。
「それだけじゃないわよ。部の女の子ともトラブルがあったんだけど気付かなかった?」
 そう言えば、絵やデッサンについて最初は皆が彼女に聞いていたのに、今は誰も聞いていない。と言うよりむしろ女子グループから彼女は離れている。そしてそれを誤魔化すようにすぐ宮子は私の周りによって来る。
 千尋の話によれば、トラブルの発端は宮子からだった。彼女が皆が自分の悪口を言ってくると相談して来たのだ。
「初めは私も彼女の言う通りかと思ってたのよ?彼女、絵の才能あるからね。実際やっかまれてたから。」
「じゃあ、宮子の言う通りなんじゃないのか?」
 そう言うと彼女は視線をそらして意味ありげにため息をついた。
「その内、私も悪口言ったって言われるようになったのよ。どうやらあの子周りの人みんなが自分の悪口言ってるって思っているみたいなの。」
 私はその時眉を顰めていたと思う。どう考えたら良いのだろうかこの話は。
「ねぇ、あの子おかしくない?」
 千尋は真っ直ぐにこちらを見た。その目に真剣なものがあったのは確かだが、その時はまだ、彼女の言っている内容が真実であるか私には判断できなかった。というよりも、その時点ではまだ宮子寄りに事態を考えていたのだ。女子グループの方に何か原因があるのではないかと。
 例えば、悪口を悪口と思っていないとか、そういう残酷な事もありそうだし、それは千尋にも言える事だ。女子とは残酷なものだし、宮子は宮子で被害妄想が過ぎる事がある。実際、誰かが笑っていたらそれが自分の悪口だと思ってしまう事自体は誰にでもあるのではないだろうか。
 当時の私が宮子を信じる理由は、自らの人望の無さが原因だった。その時部が回っているのは、岩田が私をフォローしてくれるお蔭で、私は使えない部長でしかなく、自分を含めた誰もがその事に気づいていた。だから、真の意味で私に懐いている宮子が可愛かったのだ。
 だが同じような事がバイトでも起こりつつあった。
 ある日休憩室から出てきたドライバーの渡辺さんが、「あいつふざけんなよ!」怒鳴っているのに遭遇したことがあった。彼は入れ替わる様にして休憩室に入ろうとする私の肩を強く掴むと、「おい、あの女ちゃんと教育しとけよ!お前教育係だろ?あの使えない新人のさぁ!」と言い、倉庫の戸棚横にあったプラスチックの空箱を蹴飛ばした。
 元々渡辺さんと言うのは直ぐに癇癪を起こす人だったので、その時の私はその件について深く考えなかった。彼は何処に地雷が埋まっているか全く分からない人で、腹が減っている時や体調が悪い時は誰彼かまわず周りに当たり散らかすのが通例だったのだ。私は休憩室で落ち込んでいる彼女に「あの人誰に対してもそうだから気にする事無いよ」と言っただけだった。
 しかし、こう言う事が他のドライバーや倉庫作業員の間でも見られる内に疑問を抱くようになった。皆、一様に「何も言ってもいないのに『悪口を言われた』と言いがかりをつけられた」と言っていた。そしてついにバイト先で決定的な事が起こった。
 その日は大変忙しかった。それと言うのも工場向けの荷物が急に入ったのだ。こう言う事は度々あるのだが、それが短時間の間に2、3件重なるとパニックになる。しかもそういう場合大概、速達が条件で、「今日中に出発させてくれ」と言ってくる。前もって言ってくれれば人員を用意もするのだが、突然持ってくるのだからたまらない。彼らは自分達の事情しか考えず、「そんな大量に荷物を持ってきたら小さい支店ではトラックや人員が間に合わない」と言う当たり前の考えが全くない。通常持ち込みは8時までしかやって無いのだが、その日は8時半に大量に持って来る企業があった。個人ならともかく、企業の頼みとあれば無理なものでもなかなか断れない。そしてその無理は我々が負担する事となる。
 連絡では8時には持ってくると言う話だったのだが、結局その工場製品を積んだトラックが辿り着いたのは8時を越えた。大型トラックが巨大な蛇のように身体をうねらせながらホームに入って来た時、倉庫入り口の上の時計は8時半を指していた。
 その時手伝ってくれた事務員の林さんと言う男性は、トラックの後ろに積まれた大量の荷物を見て「嘘だといってよ!」と言ってお道化てみせた。
 その大量の荷物を整理し伝票を発行し、空港行きのトラックへ今すぐ積み込まねばならない。とてもじゃないが普通の人員では間に合わない。
 本来私はともかく宮子は夕方には帰る話になっていたが、正に猫の手でも借りたいその現状では彼女一人でもいるかいないかで大きく変わる。私が帰り道を送ると言う約束で、彼女にも手伝ってもらう事になった。
 9時を大きくオーバーしたが、普段事務所でふんぞり返っているか従業員に長々説教しているだけの係長も手伝ってくれたお蔭で何とか作業は終わった。後は片づけしてデータ処理したら帰るだけとなった頃、宮子が疲れてへとへとになりながら伝票整理している林さんに近づいて何か言っているのが見えた。
 疲労から顔が年齢以上に老けて見える林さんの顔に、見る間に活力がみなぎってきた。顔が真っ赤になり、彼の偏桃体からアドレナリンが大量に分泌されているのが遠くからでも推察出来た。
「下らねえこと言ってないで仕事しろ!」
 まるで爆発音のような怒鳴り声が倉庫内に響き渡った。
 基本的に温厚な林さんが声を荒げる事などあまりないから皆びっくりしてしまった。
 後で彼に聞いた所によると、やはり「悪口を言った」と彼女が言って来たらしかった。しかもそれは大分突飛な内容のようだ。それが具体的に何かと言う事に関して彼は頑として答えようとしなかった。
「下らねえから言いたくねえ。あいつ絶対頭おかしいよ!」
 貨物トラックの前で放心したようにぼうっとしている宮子に話しかけると彼女は「いやあ、びっくりしました。」と他人事のようにつぶやいた。宮子の方も何を言われたかに関して答えようとしなかった。いい加減私も勘づいてきた。これはどうやら彼女に問題があるようだ。
 恐らくこれは彼女の自尊感情の低さに起因するのだろう。精神が不安定になると悪口を言っていると思い込むのだ。しかしこれは周りの彼女に対する冷たさもあるに違いない。だから彼女も周りを悪くとらえ、結果周りも彼女も頭がおかしいと決めつける。この悪循環を断ち切るには一人一人が、私と同じようにちゃんと彼女と向き合えばいいのだ。実際私は彼女に悪口を言っているなんて言いがかりをつけられたことが一度も無い。
 などと、この期に及んでもそんな事を考えていた私は救いようのない阿呆だった。
 それから四日後。
 その時私は部室で岩田と後一か月後に迫った美術展のレイアウトについて相談していた。彼には多々コンプレックスを持っていた私だが、彼本人とはかなり仲が良かった。話は本題が終わると早々に別の話題に移って行った。話題の内容はよく覚えて無い。まあ、実生活には何の関わり合いの無い他愛のない内容だったはずだ。確か、最近のグラビアイドルの下世話な話ではなかったか。近くにいた女子数人が顰め面を私に向けたのを憶えているから。岩田も同じ話をしているのに、彼に対しては「やだあ」と何だか嬉しそうにも見える反応で、私に対しては氷点下の視線を向けてくるのは理不尽だよなあと思ったのを強く記憶している。
 その内にその話題の中で岩田が酷く下品な冗談を言った。これについては本当に何も覚えてない。その後の事があまりに強烈過ぎたせいだ。ただ彼のその下ネタに対して、他がドン引きしているのに私だけ腹を抱えて笑ったのは確かだ。
 暫く笑った後、顔を上げると、宮子が私の横にいた。彼女は別人のような顔をしていた。引き攣ったその顔には何かに裏切られたような悲痛な表情があった。
「先輩は信じていたのに・・。」
 震える声で拳を握る彼女に対して私は「どうかした?」と間抜けな反応を見せた。
「いえ、隠す必要ないですよ。私はどうせ期待してませんでしたから。みんな同じだって分かってたから!」
 その時岩田がその大きな体で私達の間に割って入って来た。
「おいおい、どうしたんだ?お前らが喧嘩なんて珍しいな?」
「今、皆で私の事笑ってましたよね?」
「いや、何も言ってないって。下らないジョークを言ってただけで宮子の話なんかしてないよ。な?」
「ああ。聴き間違いじゃないか?」
 私はそう言ったが彼女は聞かなかった。
「いえ云いましたよ!私の事弟殺しって言ってみんな笑ってた!先輩も!」
 彼女のその一言でその場が静まり返ってしまったが、私は思わず笑ってしまった。あまりに突拍子もなさすぎたからだ。彼女の聞いたと言う悪口の内容は、どうせ「バカ」とか「アホ」とか「調子に乗ってる」と言ったよくある汎用性の高い悪口なのだと私は思いこんでいた。あまりに日常からかけ離れたその内容は、聞き間違いにしたって無理がある。
「ええ?何?そんな事言う訳ないじゃないか!そもそも弟殺したの?」
 私がそう言うと彼女は奇妙に顔を歪ませた。それはゾッとする程醜い顔だった。あの桜祭りの日の笑顔の裏にあった魔物がとうとう正体を現したのだ。火星人でも前にしたかのような、相手の理解を徹底的に排除する自嘲的な笑いの奥にあったのは、紛れもない狂気だった。
「ああばれたか、って顔しましたね?でも分かってましたから!先輩がそう言う人だって分かってましたから!やっぱり皆私を馬鹿にしてたんだ!」
 その時になって、ようやく私は事態を呑み込んだ。彼女は狂っていたのだ。恐らくあの桜祭りの日に会った初めから。
「聞こえてましたからね!先輩たちの言ってる事全部私に聞こえてましたから!嘘云ったって分かるんだから!」
 彼女には本当に聞こえているのだ。気のせいではない。彼女の耳には確かに周りの笑い声や悪口が聞こえている。しかしその笑い声や悪口は彼女の脳の中にしか存在しないのだ。彼女は向こうの世界の人間だった。
 今日は疲れた。この辺にしておこう。
 今夜も私の部屋に誰かがやって来る。今、そいつが扉を叩いている。私は息を殺してそれが過ぎ去るのを待っている。
 ・・・中々戸を叩く音が止まない。今夜は眠れそうになさそうだ。
 

 今更だが、こうやって日記に自分の現状や過去の事を書いていると、ほっとする自分に気づく。最近の呼吸すらおぼつかない悪夢のような日々の中で、ものを書くと言う行為だけが私に生きている実感をくれる。そこには温かな安堵感があった。思うに、書くという行為は自分が生きている事の確認なのだ。過去にどんな事があったとしても、これを書いている私は確かに生きている。
 今日大学で非常に不愉快な事があったが、これに関しては書く事を辞めようと思う。恐らくは連日の件とは何の関係もない。それに私には自分の残り時間が少ないと言う、確信めいた予感があるのだ。それよりも、早く描いてしまおう。あの夜の事を。
「先輩がそう言う人だって分かってましたから!」
 その残酷な言葉は私に衝撃を与えた。そしてそれらはあの桜祭りの日以来頑固に私の心に居座っていた甘い恋心のようなものを完膚なきまでに打ち砕き、粉々にしてしまった。
 私がショックだったのは二つの事だった。
 一つは、彼女にとって私は特別ではなかったと言う事だ。お目出たい私は悪口を言っていたと誤認されない理由は、私が彼女を信頼しているから、彼女にとって私が特別な存在だからだと考えていたのだ。実の所は、それはただの偶然、単純にその順番が来るのが遅かっただけ、と言う理由だった。
 まあ、或は私に対する信頼自体は特別だったのだが、病状の悪化がそれを上回ったのかもしれないとも考えたのだが、そんな頭でっかちの考えは虚ろに響くばかりだった。仮にそう言う慰めの理屈が本当だったとして、だから何だと言うのだろうか?結局彼女が私達と全く別の世界にいる事には変わりないのだ。
 二つ目は、言うまでもなくここ半年以上部活動やバイトを共にした人間の狂気に私がさっぱり気づかなかったと言う事だ。自分の見る眼の無さには呆れるばかりだ。
 あれから数日後、私は彼女に何が起こっているのかを知る為、自分用のノートパソコンを使って、彼女の一連の言動に一致する病気を探していた。そして、統合失調症と言う病気に辿り着いた。
 統合失調症は人種、民族、国に関係なく一定の確率で出てくる精神疾患の一つで過去には精神分裂症とも言われたそうだ。子供の頃図書室でダニエル・キイスの「24人のビリー・ミリガン」を読んだがどうやらアレの事らしい。ただ、人格が分裂すると言う認識は間違っているらしく、実際はもっと複雑な話だとそこには描いてあった。
 要するに脳の中の神経伝達物質のバランスが崩れる事が原因で起こるようで、その原因には先天的なものや社会的なストレスなどがあるそうだ。
 統合失調症にかかると、周りが自分の悪口を言っていると言う幻聴が聴こえたり、幻覚を視たりするらしい。この症状は完全に彼女の言動と一致したため、私は早々に彼女が統合失調症なのだろうと私は結論付けた。
 が、妄想性障害と言うのもまた彼女の状況とよく似ていた。いわゆるパラノイアといわれるものだ。これは統合失調症とよく似ているが別物らしい。その辺の区別については、何度ネットの説明を読んでも判然とせず、終いに私は理解を諦めてノートパソコンを閉じた。
 ベッドの上に身を投げると、私は考えた。実際の彼女の病名が何かは重要じゃないのだ。大事なのは、彼女の脳に問題があると言う事実だ。これはわざわざネットに聴くまでもないし、医師免許がなくても分かる事だった。まあ、ここまで情報が出揃わないとそういう判断を下せなかった私が言う事ではないが。
 あの後、日本通運のドライバーや、部活の後輩の女子、千尋に聞いたが一様に彼らは彼女に「弟殺し」と言われたと証言していた。
 例えば、「バカ」とか「ブス」とか簡単な言葉なら聞き間違いと言う事もあるかも知れない。或は何人かが実際にそれを言っていた可能性だって否定は出来ない。しかし、「弟殺し」などと言う悪口を言う人間はまずいない。しかもそれを彼女の周りの全員が言うなんてことがあるか?いや、こんな事疑問をさしはさむ余地すらない事だ。
 そもそも、彼女に弟がいた事すら私達にとっては青天の霹靂である。だが、彼女にその弟の事を聞こうにもまず教えてくれまい。
 さて、どうしたものか。と、私は考えた。
 私が部長として向き合わなければならない美術部における諸問題は山積みだったが、彼女の問題はその中でも異質だった。これに対して話し合いでの解決は完全に不可能だ。何故なら事態の原因が彼女の脳にあるからだ。
 私には人と人とが絶対に理解し合えるなんてめでたい思想は持っていないが、同じようにどんな相手でも絶対に理解し合えないと言う事は無いと思っている。同じ言葉を持ち、一般的な共通概念と体験を持っているなら例え犯罪者であっても、誠意を尽くせば理解し合える可能性はゼロではない。
 だが彼女のような人間を相手にした場合はゼロだ。彼女の脳が見ている世界は我々とは違うのだ。そして、これが最も絶望的な事なのだが、それらが違うと言う事に対して、彼女は自覚が無い。
 君の脳に問題があるとある人に言って、「なるほど。どうりで変な声が聞こえると思ったよ。今度医者に行ってみるよ。」などと言う反応が返って来るだろうか?もしそうならそもそも彼の脳に問題など無いと言えるだろう。
 ネットの『本人に自覚症状が無い場合は周りが教えるべき』と言う文言を見た私は思わず苦笑いを浮かべた。
 例えば私が彼女の親兄弟ならそれも出来ただろう。或は以前の信頼できる先輩であった頃の私なら何とかなったかも知れない。しかし、現状では私は既に彼女の悪口を言っている人間の一人としてカテゴリされている。つまり彼女にとって敵なのだ。そんな私が何を言っても彼女は意に介さないだろう。「やっぱり先輩は私の事を頭がおかしいと思ってたんだ!」となるのが目に見えている。
 大体脳が認識する事そのものを疑えとは無茶な話じゃないか?認識はあらゆる理解の柱であり、基礎だ。これを疑えば如何なる理解だって確かとは言えない。
 誰かに「全ては君の脳に問題がある」と言う時、それが果たして本当かどうかどうやって証明すれば良いだろうか?或は、「君の見ているもの聴こえてるものは幻想だ」と忠告する私の存在自体が幻覚でないとどうやって証明できるだろう?
 そもそも、彼女に君が認識している事そのものを疑えと言うのなら、それを言う人間だってそれを疑わないとアンフェアでなかろうか。狂っているのが私や、あるいはこれを読んでいる君じゃないと言う保証だって何処にもないのだから。
 そのような堂々巡り、取り留めのない混沌とした思考の渦に巻き込まれてしまった私は彼女に言うべき言葉を失ってしまったまま週末を迎えてしまった。あの美術部での一件以来彼女は部室に顔を見せる事が無かったが、バイトにはやってきた。
 既にして日本通運の中でも居場所を失っていた彼女はまるで異国の旅人のように惨めに見えたが、何より耐え難いのはその目に宿る敵意だった。彼女は最早その目の奥の攻撃性を隠そうともしていなかった。学校でもそうだが、あからさまな敵意を周りにぶつけていて、その対象には私も入っていた。
 その目に対してやりきれない思いを抱きながらもどう彼女に接したらしいか分からなかった。一応バイトの先輩や係長にも相談してみたのだが、どうも私の話は向こうに伝わって無いようだった。脳の病気に対する認識の違いなのかもしれないが、彼女が一刻も早く医者にかかる必要があると考えている人間は一人もいないようだった。「使えない新人」と言う以上の発想は皆にはなかった。
 バイト中は楽だった。何時も通りの仕事を行えばいいだけだったから。問題は休み時間だ。
 休み時間は休憩室で取る事になっている。休憩室は6畳ほどの狭い和室で、2人も入ればもうぎゅうぎゅうだった。
 その中央にある昭和レトロ感のある木製のテーブルを前にして私は彼女と向かい合う事になった。一体それまでそんな至近距離で彼女とどう接していたのだろうか。今までの休憩時間の事を思い出そうとしてもさっぱり思い出せない。
 彼女は無言でTVを見ていた。ワイドショーでやっていた内容は何だったろうか。芸能人の犯罪についてやっていたのは覚えているから、多分レイプか薬物だろう。沈黙はじりじりと私を追い詰め、それは苦痛を感じるほどだった。窮鼠となった私がとった選択は、彼女に対する謝罪だった
 これが正解だったかどうかは分からない。そもそもネット記事によれば統合失調症患者(いや、彼女がそうなのか或は別の病気なのかは知らないが)の妄想は肯定も否定もしてはいけないらしい。だが、これ以外のやり方が私には思いつかなかった。色々な思いを呑み込んで懸命に謝ると、彼女は態度を軟化させた。
「いえ、良いですよ。先輩は良い人だから、きっと周りに話を合わせちゃっただけなんですよね。」
 そんな彼女の解釈を私は否定も肯定もしなかった。そもそも悪口を言ったと言う前提が間違っているのだから。
「先輩だけです。ちゃんと謝ってくれたの。皆そんな事言ってないってとぼけるんです。私にはちゃんと聴こえてるのに!」
 彼女はそう言ってちゃぶ台を激しく叩いたが、それはそうだろうと私は思った。言ってもない悪口について謝るなど理不尽すぎる行為だと自分でも思う。とは言え多分、私の謝罪はファインプレーだったのだろう。彼女は過去の自分に何があったかを話してくれた。
 彼女は元々会津の生まれだと言う。これ自体は既に彼女から聞いたことがあったが、何故会津からこの学校へ来たかは聞いていなかった。その理由は実に衝撃的なものだった。
「私、中三の時に弟を殺したんです。それで、地元にいられなくなったんです。」
 それを聞いて私は言葉を失った。弟殺しと言う幻聴を聞いて彼女があれほど激昂すると言う事は、それが根も葉もない事ではないだろうと言う予想は出来たが、よもやそのままの意味とは思わなかった。そもそもその時16歳以下とは言え、少年法ではどうなっているのだろうか。幾らなんでも何のお咎めもなしとなる訳があるまい。そんな当たり前の疑問も彼女の次の言葉で何処かへ吹っ飛んでしまった。
「でも先輩。私が弟の裕也君の頭を切り落としたのは訳があるんです。」
 人は許容出来ないほどの恐怖を感じた時、心を守る為に恐怖を恐怖として認識できなくなるらしい。その時の私がそうだった。彼女の言う事が全く理解できず、頭?斬り落とす?何かの比喩か隠喩だろうか。或は会津の方言?などと呑気な事を考えたりした。
「やつらから裕也君を守る為だったんです。あのままだと裕也君の身体はやつらに乗っ取られただろうから。」
 どうやら彼女の言う「奴ら」は彼女の弟裕也を殺してその体を乗っ取ろうとしていたらしい。それを防ぐためには彼女は弟の首を切り落とす必要があったのだそうだ。周りは誰も彼女の言う事を信じようとしなかったらしく、会津に居場所が無くなった彼女は逃げるようにしてこの土地に来たらしい。
 その後も彼女は奴らと彼女の戦いについて、そして弟の裕也と言う少年についてあれこれ語っていたが私はもう何も聞いていなかった。真面目に聴く必要のある話とは思えなかったからだ。恐らくは死んだ目をしていたであろう私の様子に彼女は全く気付く様子もなく話を続けた。それらは支離滅裂でおぞましい狂気の物語だった。
「フィクションにおいて狂気が評価されるのは表現する者が正気である場合に限る」と言ったのは安部公房だったろうか。三島由紀夫だった気もするが、何はともあれその時の私はその言葉の正しさを身を持って実感していた。
 本物の狂気はうんざりする代物であり、社会の余剰が生み出すガラクタに過ぎない。ダークナイトでヒースレジャーが演技ではなくて本気でああいう言動をしていたら誰も絶賛などしなかっただろう。あれは正気の人間が演じているからこそ評価に値するのだ。
 何時終わるとしれない彼女の妄想に私の心は憔悴していった。
 最早彼女に直接話を聞いても何の意味もない事は明らかだった。ただ恐ろしい妄想話を延々聞かされるだけだ。第三者的立場にいる人で彼女にあった事を語れる人間はいないだろうか。その第三者に会う機会は直ぐにやってきた。
 その日私は朝から餃子の腹だった。特に理由は無いが、とにかく私は餃子が食いたかったのだ。
 我が家では餃子と言うと母の作る餃子の事を指す。母は昔から餃子が異様に美味い。適当に作っているので毎回味が違うのだが、これが絶品であり、正直どんな中華屋でも母の餃子よりは不味いので私は中華屋やラーメン屋で餃子を頼むことが無い。他にも昔から作っている料理に関しては母はプロ顔負けである。対して母が「新しい料理に挑戦してみたの」と言い出した時は覚悟して夕食に臨む必要がある。
 胃袋が餃子を要求していると母に言うと、彼女は「材料さえあんたが泉のベニマルで買って来たら作るわよ。」と言ってきた。他にもスーパーはあるが、一番近場は泉のベニマルであるし、母特製の餃子に使う皮が売っているのは近所ではそこだけである。
 日曜であるその日は、普通に母が買いに行っても良いはずなのだが、母にはベニマルへ行けない理由があった。
 国道3号線の前にあるそこは昔から家が利用していたスーパーだったのだが、昨年姉がそこで万引きをして母は呼び出しを食らったのだ。そこでの詳しい事情は聴いてないし興味もなかったが、姉が警察に突き出されなかった事と父がそれを知らない事だけは聴いた。
 相当数の万引きを働いたらしい姉が何故警察に突き出されなかったかは不明である。母がとにかく平謝りしたらしいが、謝れば許される話なのだろうか。私には良くわからない話である。姉は今年の頭に父と彼氏の事で大喧嘩してから家には一切帰ってない。
 とにかくそれ以来母は泉のベニマルには行きたがらない。かと言って行かない理由を父に言う訳にはいかないので父といる時は何かしら適当な理由をつけて別のスーパーに行く。そして餃子を作る時など、どうしても行かなくてはいけない時は私が行く事になる。
 そこは少し前までは老朽化して全体的にぼやけた色をしていた建物だったがその年に改装工事を行い全体的に目の覚めるような色調に変わった。駐車場も妙に曲がりくねったデザインに変わっていて、改装工事以来久々にベニマルに足を踏み入れた私は駐輪場の場所が分からずに暫く迷った。
 当然中もすっかり変わっていて、以前にはほのかに香っていた20世紀の野暮ったいにおいが消えていた。私は餃子の皮が売って無いのではないかと心配していたが、杞憂だった。売っているもの自体には大した変化が無いようだった。餃子の皮を買った後、精肉コーナーに行くと、そこに妙な格好をした女がいた。
 色彩の強い黄色や赤の服を重ね着していて、ぱっと見は南国の民族衣装のようだが良く見れば身に着けているのはどれもブランドものである。ただ、自己主張ばかりが強い、バランスを考えない着合わせなので、とてつもなく珍妙な格好に見える。
 顔は死人のように青白い。荒れ放題の肌を分厚い化粧で誤魔化しているがそれがかえって化け物じみた印象を与えている。女は豚のひき肉のパックを手にとって何か悩んでいた。魔女の如く伸びたピンク色の爪がラップ越しにひき肉にめり込んでいる。ひき肉をここで買うのは止めておこうかと考えていると、その女がこちらを見た。女はその目を大きく見開き、あらあ!と叫んで近づいてきた。
「どなたでしょうか?」
 私は努めて平静を装ったが、実の所あらあらと言いながら近づいてくるその不審な女性に対して恐怖すら感じていた。冷たい反応をする私にその女は旧知の友であるかのような反応を見せた。
「いやねえ、私よ和子!」
 それは宮子の母であった。宮子を家まで送った事は何度かあるがその内の一度で顔を憶えられたらしい。私も人の顔は大体一度みたら憶える方だが、女性は苦手だった。女性は日によって髪型を変えるし、化粧もする。前にあった赤崎和子はこけしのような顔をしていたが、あれは素面だったからなのだろう。化粧を塗りたくりブランドに身を固めた彼女は妖怪そのものであった。宮子の母は水商売をしていると言う噂だったが、服の上からでも分かる弛んだ身体と壊死寸前のような荒れ放題の肌から見るに、それは無さそうだと当時の私は考えた。無論この考えは、今は改められている。寧ろ彼女は田舎の水商売の女の特徴そのままだった。人生のどん詰まりで未来を考える事を止めた女そのものであった。
「娘が良く話してるわよ。何時も面倒見てくれてありがとうねー。この間もあの子ったら・・・。」
 女性と言う生き物は大体こちらに話を聞く用意があろうが無かろうか話を始めるものだ。
 何時もはこういう時ただ聞き役に徹し、尽きる事ない駄弁に付き合う私だが、今回は違った。彼女には聞かなくてはいけない事があった。
「あの、すいません。こう言う事聞いていいのか分からないんですけど、娘さんの事で聞きたいことがあるんです。どうしても必要な事で。」
「なーに?」
 弛んだ顎を傾け小首をかしげる赤崎和子に対して私は「弟さんの死について聴きたいんです。」と言おうとした。しかし、ドラマでは良く使われるようなこのセリフは口にしようとすると酷く非常識な言葉に思えた。部活の先輩でしかない私が聞いていい質問を越えていないだろうか?しかし、ここで聞かなくては彼女に何が起こっているのかは永久に分からないままだ。
 さんざん悩んだ挙句、私がようやく振り絞った言葉は次の様なものだった。
「宮子さんの弟さんの事なんですけど・・。」
 すると彼女は目を丸くした。しげしげとこちらを見た後、「弟?」と私の言葉を繰り返した。
「あの子に弟なんていないわよ。」
 その返事に暫く私は呆気に取られてしまった。自分なりにその言葉を真っ当に解釈しようとした私は何とか次の言葉を絞り出した。
「あの、お亡くなりになったと言う事ですか?」
 彼女は首を振って答えた。
「ううん、違うわ。あの子は一人っ子よ。」
 もう何を信じて良いか分からなかった。彼女の見ている世界は全て嘘で出来ているのだろうか。ともかくこれで万が一の可能性も消えた。彼女は病気である。
 結論を言うと誹謗中傷を言ったと誤解されかねないので、私は「おたくの娘さん狂ってますよ。」と言う代わりに今まであった事を彼女に伝えた。結論自体は宮子の母自身が私の情報から導き出せばいいと思っていた。だがそれは実に甘い考えだった。
「そうなのよ。あの子昔っから被害妄想が強い所があるのよねえ。」
 困っちゃうわと笑うと彼女は全く別のどうでも良い話を始めた。都合の悪い事を誤魔化していると言う印象ではなく、本当に彼女はそれを笑い事だと思っているようだった。
 宮子とは別の狂気を彼女の母も持っていたのだ。これでは宮子を病院に連れて行くなどと言う常識的な結論は全く期待できない。なら、私がするべき事は?
 などと考えていくうちに私は自分の心が酷く冷えている事に気づいた。彼女の諸問題に対しては面倒くさいと言う気持ちが大きくなっていた。彼女はただの部活の後輩でそれ以上でも以下でもない。彼女の狂気に対して責任を負うべき人間がいるとするなら、周りの大人達であって、彼らがそうしないと言うのなら私が必死になる理由など無い。大体この状態で彼女の狂気を訴えた所で、私が悪口を言っていると思われるのがオチではないだろうか。
 そんな投げやりな考えが浮かんでしまうほど、既に私の心の中で彼女は全くの他人になっていた。
 だが悲しいかな。彼女にとっては逆だった。あの時彼女に嘘の謝罪をしてしまったのは結局悪手だった。ネット記事の言う通りだったのだ。私は彼女にとってこの不条理な世界の唯一の理解者となってしまったのだった。
 自らの脳と言う歪んだ牢獄に閉じ込められた彼女は完全な異邦人であり、私以外に頼る人間はいない。その為、あの日以来彼女は一層私に依存するようになった。私はそんな彼女に対して既にして如何なる種類の愛情も持ち合わせてはいなかったが、一方でその手を振りほどくほどの酷薄さもなかった。
 彼女を見捨てる事は、私の部内での評価を更に下げる事になるし、それ以上に今更彼女に真実を告げられる訳が無かった。仮に告げた所で、彼女は裏切られたとしか思わないだろう。もしそうなればどんな報復に出るか分かったものではない。
 以上の非常に情けない理由から私は彼女の相手を続けたが、それは非常な苦痛を伴うものだった。私を信頼しきっていた彼女は終始妄想の世界を私に対して吐き出し始めた。
 一番苦痛だったのは、バイトの休憩時間だった。狭い和室で彼女と二人きりの状態だと、彼女の狂気を真正面から浴びる事になる。顔を背けても逃れようのないその禍々しい瘴気に対して私は苛立ちを通り越して怒りを感じたが、その感情をぶつければ最悪の事態になると理解できるだけの分別はあった。
 あの夜の十日前。つまり美術展の十日前だが、休憩中に改まった様子で彼女がこう言った。
「先輩に相談があるんですけど。」
 私は宮子に背を向けて眠っているふりをしたのだが、彼女は構わず話しかけてくるので思わず返事をしてしまった。
「何だい?」
「奴らが私の家にこの間来たんです。何度もチャイムを鳴らしてドアをどんどん叩くんです。」
 奴って誰?などと言う質問はしなかった。どうせ全て妄想、彼女の頭の中の出来事なのだから聞くだけ意味が無い。
「へえ。」
 私は彼女に背を向けたまま起き上がろうともせずにそう答えた。
「どうしましょう?」
「入れなきゃ良いでしょ。」
「勿論扉は開けてませんよ。でも、夜に私の部屋に入って来てるみたいなんです。偶に目を覚ますと部屋の中の物が変わってるんです。」
 私はわざとらしくため息を吐いた。
「そりゃ怖いな。」
 彼女は畳を這うようにしてこちらに近づいてくると寝転がっている私の顔を覗き込んできた。彼女の顔には我々人類には理解できないエイリアンのような感情があった。恐怖といら立ちを同時に感じてたまらない気持ちになった私は身体を起こし、仕方なしに具体的で常識的な提案をした。
「鍵かければ?」
「かけても無駄なんです。一度私奴らを家に入れちゃったことがあって。奴らは知り合いの身体を借りてやって来るから。」
 思わず舌打ちしたが彼女の耳には入らないようだった。何もかもが不合理な話である。本当に奴らが危険ならその時点で彼女は死んでいるだろうに。だがそれを指摘した所で無意味なのだろう。
「警察に言えば?」
 もう誰かに彼女を丸投げしたかった私は、お巡りさんに全てを任せようとした。上手く言えば警察が彼女を病院に連れて行ってくれるかもしれない。それが彼らの仕事かどうかは知らないが。しかしそう言うと彼女は神妙な様子で首を振ってこう言った。
「警察も奴らの仲間なんです。既に体を乗っ取られてるんですよ。」
 もうまともな返事もしなかった。何か2、3投げやりな事を言うと彼女は「なるほど。」と言ったが何を言ったかも覚えてはいない。
 彼女は最後にこう小声でささやいた。
「奴らは信夫山にいるんです。先輩の家も信夫山の近くですよね?気をつけてくださいよ?奴らは夜に来るんです。絶対戸を開けちゃ駄目ですよ?」
 彼女は休憩室の窓に顔を向け、注意深く何かを凝視しながらそう言った。窓の向こうには夕闇が広がっていた。彼女には何が見えているのだろうか。まあ、どうでも良い事だが。私は「そうするよ。」とだけ答えた。
 彼女はその一週間後に会社を辞めた。この仕事では顧客の個人情報を多く取り扱う必要がある。その為、バイトも情報漏洩やセキュリティに関する研修を受けて情報漏洩のリスクを理解する必要があった。研修は最後に誓約書にサインする必要がある。内容は「情報漏洩のリスク、個人情報保護の重要性について理解しました」と言う趣旨のものだったのだが、彼女はその長々とした文章の中にも幻覚を見たのか、或はありもしない陰謀を読み取ったようで、「私を騙す気ですね?そうはいきませんよ、絶対に私サインなんてしませんから!」と係長に対して怒鳴ったそうである。既に彼女を疎ましく思っていた係長はそれを理由に彼女をクビにした。
 その後は彼女を部活でもバイトでも見なかったが、私はその件について深く考えてみる事が無かった。美術展の事で頭がいっぱいで、自分の事以外に頭が回らなかった。
 皆も気にしている様子は無かった。特に何がと言う訳でなく、積もり積もった互いに対する不信感が臨界点に達したと言うだけの事で誰も意外に思って無いようだった。
 さて、美術展については、まあ散々だったと言っておこうか。
 その日集まった部員達は半分もいなかった。それは半年間の私の活動の結果の一つだった。要するに部員達大半は私の空回りする、押しつけがましい情熱に対してうんざりしていたのだ。
 集まった部員の内の一人がこう言っているのが聞こえた。「だって先輩可哀想じゃない?うちらが来なかったら誰も来ないし。」こんな残酷な言葉は中々に聞いたことが無かった。「是非来てください」とお願いしていた福本先生は顔こそ見せたが何の感想も言わず帰って行った。世間には誤解している人が多いが酷評と言うのは決して最低評価ではない。無言こそが最も手ひどい評価なのである。
 結局、見当違いの希望と狂騒と空回りの日々が私に与えたのは無力感だけだった。
 我々の絵の中で唯一評価されたのは宮子の踊る女の絵だった。赤系の色だけで表現されたそれには来賓者の多くが絶賛の声を送ったが、宮子自身は来ていなかった。「この絵を描いた子に会いたい」と言ってきた初老の男性などもいたが、今彼女がどうしているかも知らない私は曖昧に笑って誤魔化した。
 美術展の出品物の片づけをしている最中、彼女の、宮子のキャンバスの裏に何かが挟まっていている事に気づいた。
 それは分厚いA4の封筒で、そこには先輩へと書かれていた。その自己主張の強い歪な文字は確かめるまでも無く宮子の字だった。中にはノートが入っていた。そのノートを開いて私はあのうんざりする様な狂気を再び味わった。しかし、読み進めていく内にある種の疑念の様なものが生じてきた。
(私は何を考えている?こんなもの全部嘘に決まってるじゃないか。彼女が狂っている事は確実なのだから。)
 そう言い聞かせて見ても疑念が消えない。
 悶々としていると、後輩の男子の一人がこう言ってきた。
「結局宮子ちゃん来なかったですねー?千尋先輩が連れてくるって言ってたのになあ。」
「は?どう言う事だ?」
「あれ?千尋先輩から聞いてませんでした?千尋先輩、宮子ちゃんを説得して連れてくるって言ってたんですよ。」
 完全に初耳だった。どうやら千尋は私が宮子を見捨てた後も彼女の面倒をみようとしていたらしい。とは言え、彼女の狂気に気づいてはいなかったのだろう。もしそうだったら説得が無意味である事は分かっていただろうし。
 私はそれを聞いて妙な胸騒ぎを感じた。出展物の搬出が終わった後、私は宮子の家に行く事にした。あの宮子の踊る女の絵を抱えながら。どうせ美術館の外れの辺りなのだからいこうと思えば何の苦も無い事だった。
 千尋に電話をかけてみたが、何度かけても出ない。そこで私は、気が進まないものの宮子に電話をかける事にした。彼女に対する理解は諦めていたが、それでも千尋がそれを止めないと言うのなら部長である自分が何もしない訳にはいくまい。2、3度のコールで宮子への電話は繋がった。電話に出たのに相手は無言だった。彼女なのは明らかだ。それなのに向こう側から異様な気配がする。
「宮子か?」
「はい。」
 それは男の声だった。何処か不自然な野太い声。
 私が黙っているとその声は再び同じ返事を繰り返した。
「はい。」
「どなたですか?これ宮子さんの携帯ですよね?」
「はい、赤崎です。」
 粘着質で何とも不気味な声だった。ボイスチェンジャーで男の声を変えたような・・そう、つまり、宮子とは似ても似つかない声だったのだ。その時私は背筋にぞくりとするものを感じた。しかし務めて冷静に考えた。考えようとした。飛躍する非現実的な考えを捨てて、常識的な結論を導き出そうとした。
「あの、宮子さんのお兄さんですか?」
 自分の声が震えているのを感じた。宮子の母が言っていた事を思い出したのだ。娘は一人っ子よ?
「私、立花高校美術部で部長を務めさせてもらっているものです。何時も宮子さんにはお世話になっております。あの、宮子さんはー。」
「赤崎宮子です。」
 明らかに宮子ではない声はそう答えた。
「わわわわ、わ、わたしは、あ、赤崎宮子です。」
 その声は繰り返し彼女の名を語った。電話の向こう側の、激しく震える声。ねっとりとしたその声に私は今まで経験した事のない恐怖を感じた。いきなり誰かの悪夢の中にでも放り込まれたような気分だった。
 ―奴らは知り合いの身体を乗っ取るんです―
 ―奴らは信夫山に住んでいて、夜になるとやって来るんですよ―
 いいやまさか!そんな馬鹿な事がある訳が無い!あれは彼女の狂気が生み出した産物でこの声の主はただの・・。ただの・・。
 暫く私が返事も出来ずに固まっていると、突然電話の向こう側で悲鳴があがった。それは金属と金属がぶつかり合う時に発生する音のように、聴く者の心の弱い部分を引き裂く不快さがあった。それは確かに千尋の叫び声だった。暫くその声は続いたが、突然ぷつりと止み、沈黙が訪れた。沈黙の中微かに音が漏れていた。それは笛のような気の抜けた音だった。
 声が再び「赤崎宮子です。」と呟くと、電話は切れた。
 さて、その後私はどうしたろうか?私はその時既に美術館の外れに来ていたのだ。直ぐそこの角を曲がれば彼女の住む古いアパートが見える。読者諸君ならこの場合どうしていたであろうか?後輩と幼馴染のピンチに居ても立っても居られなくなり、何が居るかも分からないアパートに殴り込みをかけるだろうか?ヒーロー宜しく悪漢(?)どもをなぎ倒して見せるだろうか?
 そうする代わりに私はその時、人生で初めて警察に電話をかけた。前に携帯の場合110番では地元の警察に繋がらないと言う噂を聞いたがそんな事は無かった。意外と冷静に対応できたとその時は思ったが、電話を切った後その場から一歩も動けなくなっている自分に気づいた。
 やがてパトカーがやって来て私の横を通り過ぎて行った。その後も続々とパトカーが集まってきて野次馬などが集まって来た。曲がり角の向こう側、彼女のアパートから赤い灯りが見え人混みのざわめきなどが聞こえてきたが、そうなっても私はその場から動けなかった。
 やがて警官が私に気づき、詳しい事情を聴きたいと言ってきた。私が事情を説明すると事故当事者の可能性を考えたのか実況見分に立ち会って欲しいと言ってきた。冗談ではなかった。怖くてそっちには一歩も足が動かないと、恥も外聞も無く本音を言うとそれ以上無理は言わず、署で説明を聞くと言う話になった。
 取調室で私に対応したのは、若い刑事だったが、彼は強面だが整った顔立ちの、いわゆるイケメンで私は自分がドラマの中にいるような非現実的な感覚に囚われていた。
 あった事は全て話した。私の方からも何が起こったのか質問したが彼は首を振るだけで何も答えてはくれなかった。そういう決まりと言うより、彼ら自身にも何が起こっているのか分かって無いようだった。
 とりあえず宮子、千尋、宮子の母が無事かどうかだけでも教えて欲しいと言うと、「多分無理でしょう。」とだけ答えた。十中八九そうだと思っていたから特にショックは無かった。問題はどんな死に方だったのかと言う事だったのだが、それだけは答えてくれなかった。
 あの夜起った事に関しては様々な噂があったが、大半が怪しげなもので宮子の狂気と引けを取らなかった。
 しかし、確実な情報だけでも事態の異常性は明らかだった。現場には三人の死体があった。いや、この言い方は正確性に欠けるかもしれない。正しくは二人と一つだ。千尋と宮子の母の死体は大分欠けてはいたものの大体全部あったのだが、宮子は首しかなかった。胴体は何処にも見当たらなかった。
 この件で最も異様なのは、この田舎町には似つかわしくない凄惨な事件にも拘らず、どのニュース番組でも取り上げていなかったと言う事だ。新宿であった通り魔事件がワイドショーなどで大々的に報じられていたが、既に捕まった東京の殺人鬼の生い立ちなどより、この怪奇な事件の真相の方が余程重要でなかろうか。
 田舎の事件と言うのは東京のそれと比べて軽く扱われがちと言う事なのだろうか。しかしそれにしたって地方のニュースですら見かけなかったと言うのは今考えても不思議だ。偏向報道などと言う言葉では説明がつかない。元より情報と言うもの自体取捨選択されている時点で恣意的であることは避けられないのだが、それを加味しても不自然だった。これは後日家に来た岩田とも話し合ったのだが、その件については明日語ろう。
 所で今日はどう言う訳かドアを叩く音がしない。最近では毎晩やって来たと言うのに、日を過ぎても例の来訪者はやってこなかった。
 結構な話なのに何故だろう。酷い胸騒ぎがするのだ。決定的な何かの前触れのような。誰かがやって来ても来なくてもどの道不安なのは困ったものだが、今日はもう寝ようと思う。多分、明日でこの話は全て語り終える事が出来るはずである。














 




 
 
 
 

 これをお読みの諸君にはあるだろうか?
 あの日ああしていれば、と言う思いに囚われた事は?
 無論過ち自体は誰にだってある事だしそれ自体は特別な事じゃない。
 問題はその後に続く結果についてなのだ。過ちそのものが責められる事か否か自体は実の所さほど問題じゃない。仮にその過ちにより生じたのが些細な事なら、例えば気に入らないバイトの先輩が係長に土下座する事になったとしても君は然程後悔などしないはずだ。仮にそれが文書整理の時に要らないものだと勝手に勘違いして君が捨ててしまった書類のせいだとしても何とも思わないだろう。その事実を誰も知らないとなれば猶の事だ。寧ろ数日間に及ぶ便秘後の快便のような爽やかな気持ちになるはずだ。少なくとも私はそうだった。
 逆にその結果が、幼馴染が八つ裂きにされ後輩が生首だけにされた挙句胴体を盗まれその母が脳天から股間まで真っ二つにされたとなれば、身を裂かれるような後悔に苛まれるだろう。自分に非があるとか無いとかそういう問題ではない。何とかしなくてはいけなかったのだ。  
 分かっている。あの時ああしていれば、などと考える事は無意味な現実逃避だ。仮にあの時ああしていれば良かったと分かった所で何になるだろう?フローチャートを辿って分岐リトライ出来るとでも?
 だがやはり考えてしまうのだ。宮子の話をちゃんと聞いていればと。彼女が狂っていた事は間違いないし、その時点で彼女の言う事を信じると言うのはあまりに無理のある仮定だ。
 それでもそうしていれば、また宮子の笑顔を見られたはずだ。千尋の憎まれ口を聞けたはずだ。そう思わずにいられない。
 私はあの後心を病んだが、狂ってしまうほどではなかった。いっそ心神喪失になり学校へ行けなくなれば良いとすら思ったが、何と言うか、まあ頑張れば日々の生活に支障は無い程度だった。それくらいが一番きついものだ。平気じゃないが社会をドロップアウト出来るほどの傷ではないと言うのが。部活は辞めさせてもらった。とてもじゃないが人の上に立つ気はしなかった。もう二度と。
 部活動を辞めて以降は塾へ通い、大学受験への準備を始めた。最も何処の大学へ行くかは決めて無かった。この福島の土地から逃げられればどうでも良かった。私が幼馴染と後輩を死なせてしまった事を知らない土地なら何処でも。だが勉強は身に入らなかった。どうしてもあの事を思い出してしまうと何も手につかない。宮子の言う通りなら、何処へ行ってもあいつらからは逃げられないのではないか?次第に私は半引き篭もりのような状態になっていた。
 12月も半ばに入った頃、日本に大寒波がやって来た。12月24日には福島市は観測史上最大の積雪量となり、13号線では立ち往生が発生した。山間部の孤立など福島に限らず日本のあちこちで酷い被害が報告されていたが、ずっと家にいた私にはあまり関係なかった。世間的には散々なクリスマスイブではあったが、一緒に遊びに行く友人も彼女もいないし、サンタを待ち望む年でも無い私には何の影響も無かった。特に予定も無いのでリビングで何と言う事も無くTVを観ていると、玄関のチャイムが鳴った。
 両親は帰ってこない筈だった。伊達市の営業所に夫婦そろって缶詰と言う事らしく、他に訪問者の予定も無い。時間はまだ5時だったが、既にあたりは暗かった。
 ―奴らは夜に来るんです―
 嫌な寒気を感じて私は音を立てずにソファから腰を上げる。そして足音を立てないよう注意しながらすり足で玄関へ向かった。その途中で2度目のチャイムが鳴った。
 私は玄関前に辿り着くと、二階へ続く階段下の物置のドアをそっと開けると中からバットを取り出した。ジュラルミン製のそれは玄関上部のシーリングライトの白色の灯りに照らされて頼もしい程に光り輝いていた。
 これは私が2週間前にホームセンターで買ったものだ。とにかく何か武器が欲しかったのだ。ナイフなども考えたが、人間相手ならともかく人外が相手となれば、リーチの短さが致命的である。スタンガンは手軽ではない上にナイフ以上にリーチが短い。拳銃なども真面目に考えたが何のコネも無いので無理だった。結局手軽さ、リーチ、如何なる相手でも損傷を与えられると言う点でバットに勝る物は無かった。店員の「とにかく軽くて丈夫」との売り文句で買ったそれは思わず眼を剥くほどに高かったが、それで命が買えると思えば安いもんだ。
 再び玄関のチャイムが鳴ったのでバットを構えながら私は言った。
「誰だ?」
 そう言うと震える声が返って来る。
「俺だぁ。岩田だよ。」
 恐る恐るドアスコープを覗くと、久々に見る植物系の優男顔があった。
「早く入れてくれよ!」
 スコープ越しの彼は確かに彼に見えた。だが、宮子の話がどの程度本当なのか分からない。奴らがどの程度成り代われるのか、見分ける術があるのか私は知らない。記憶もコピーできるならお手上げだろう。とりあえず、こういう時は取りあえず殴ってみると言うのが定番でなかろうか。うん、それが一番間違いない。最悪の場合でも私が死ぬと言う事態は避けられる。刑務所暮らしと言うのもかえって安全で良いかもしれない。
 その時の私は本気で以上の事を考えたのである。
「ああ、ちょっと待って。すぐ開けるからな。」
 私は後ろ手でバットを構えながら、玄関レバーを下げ、ゆっくりと扉を開けた。こちらの企みを相手に悟られる前に顔を殴る気だった。それが奴らの弱点だとノートにも書いてあって。思いっきり殴れば、偽物なら分かるはずなのだ。問題は、それが人間の弱点でもあると言う点だ。本物の場合、下手をすると死ぬだろう。だが、かと言って手加減する訳にはいかない。思いっきり殴らないといけない。さもないと死ぬのは私かもしれないのだ。私が一番嫌いなのは死ぬ事だ。
 しかしその決死の覚悟はドアを少し開けた所で思わぬ襲撃にあって打ち壊された。相手の方がドアをこじ開け先にこちらに入って来たのだ。
「うへぇ、寒い寒い!」
 私は後方にバットを構えると言う不安定な姿勢を取っていたため、男の突進に容易くバランスを崩し、その衝撃で玄関横の二階へ通じる階段へ倒れ込んだ。階段の角に体中をしたたか打ったが、致命傷となる頭だけはなんとか守った。全身を殴られたような激しい痛みで眩暈がしたが、悶えている暇は無かった。倒れた拍子にバットが手から離れて何処かへ無くなってしまったのだ。
 私は急いで立ち上がろうとしたが、激痛で上手くいかなかった。腰の痛みが一番ひどかった、それでも床を這いくつばりなりながら、必死になってバットの行方を捜したがどこにも見当たらなかった。
 すると、ごつごつとした金属の感触が私の肩を叩いた。振り返ると岩田が私のバットで私の肩を叩いていた。
「何してんの?」
 呆れたような顔で見下ろされて私は自分が酷いバカなような気がした。実際は馬鹿どころかちょっと狂っていたのだろう。まさか君をバットで殴ろうと思ったとも言えず黙っていると彼は言った。
「・・とにかく上がって良いな?寒くてさあ。」
 彼はそう言って上着を脱ぐと、返事も聞かずに家に上がり込んだ。岩田は何時もの恰好、ブラックのチェスターコートを着ていたがそれはずぶぬれで、身体はガチガチと震えていた。
「何の用?こんな大雪の日に?」
 私は腰を抑えながら何とか立ち上がると恥ずかしさを誤魔化すようにしてそう聞くと彼は当然だろ?と言うように笑ってみせた。
「何言ってんだ。今年もクリスマスは一緒に映画観ようって約束しただろう?」
 そう言って寒さに震える表情筋を動かして笑みを見せる彼は、私のモテ男に対する僻み根性が白旗を上げるほどなるほどナイスガイだった。
 数舜遅れて、確かに去年彼と次のクリスマスの約束していたことを私は思い出した。
 前年のクリスマスに私と彼は男二人で「フォース・カインド」と言う映画を観に行ったのだが、これが思いの外面白かった。それは私が見た初めてのフェイクドキュメンタリーだった。これはストレートに面白い映画ではなく、恐らくは劇場で友人と見ないと面白さが分かち合えない映画だった。観終わった後はガストで彼とこのトンデモ映画の事で盛り上がり、来年もお互い彼女がいなかったら、何かとんでもない映画でも見てクリスマスイブを過ごそうと約束していたのだ。良く見れば携帯の着信もメールもあった。
 あの頃敢えてクリスマスに男二人でホラー映画を観ると言う行為に青春のようなものを感じていた私は、しばらく後に赤っ恥を掻く事になる。その年のクリスマスに限らず一度として彼女がいなかった私と違い、岩田はその年だけ偶々彼女がいなかっただけだったのだ。
 当然今年のクリスマス、彼には彼女がいた。地域通貨を広める同好会(正式名称は覚えてない)の後輩の女の子と彼が付き合っているのは有名な話だった。しかし、彼はそんな事はおくびにも出さず「結局今年も俺達彼女出来なかったなあ。」などと嘯いてみせ、私も彼の嘘に騙されたふりをした。
「今回は何観るんだ?」
 リビングのソファに座ると、私は楽しみにしていたと言う顔をしてみせようと口角を意識して歪めたが、そうすると頬が痛かった。
「これ。」
 岩田はバッグからパッケージに血塗れの椅子が映っているDVDを取り出した。
「ホステルってやつ。すっげえグロいみたいだぜー。」
 そう言う岩田も、映画を楽しみにしているようなふりをしてみせたが、笑顔が酷くぎこちなかった。きっと私もあんな風に笑っていたのだろう。
 DVDを再生して直ぐに私は気分が悪くなったが、懸命に平気な振りをしていた。私はグロテスクな映画には耐性があると思っていたのだが、今の私の心には拷問系の映画は辛すぎた。
 さっさと弱音を吐けばよかったのだが、男同士だと尚の事弱音は言えなくなるものだ。アメリカ人の大学生が外科医志望の変態男に生きたまま解体されるシーンでは意識がぼんやりとしてきた。中盤以降ではチェンソーを持った男が足を滑らせて自分が真っ二つになってしまうなどの笑えるシーンもあったので最後まで行けるかなと思い始めた頃、日本人女性が出てきて我慢の限界を越えた。彼女がバーナーで顔を焼かれるシーンで私はそのカナと言う女性に宮子の姿を、そして千尋の姿を同時に見てしまった。
 それからは記憶が途切れている。意識が戻った時、私はリビングのソファーで寝かされていた。岩田は珍しくしょげた顔を見せて向かいのソファーに座っていた。
「ワリい。元気づけようとしたんだけど、逆効果だったな。何であんなグロ映画持ってきちゃったんだろ。俺って駄目だな。」
 叱られた子犬のような彼の様子を見て私は思わず笑った。
「おい、酷くない?何で笑ってんだ?」
 私は謝ろうとしたが笑いは止まず全く謝罪にならなかった。
「君もそう言う事考えるんだな。自分は駄目な奴だって。」
「当たり前だろ?いっつもそうだよ。失敗ばかりでさ。おい、何がそんなにおかしいんだよ?」
 そう言う彼もつられて笑っていた。何故自分が笑っているのか私にもうまく説明がつかなかったが、その理由はどうでも良い事だ。とにかく笑うのは良い事だ。それが悪意など全くない純度の高い笑いなら猶の事だ。
 散々笑った後、私は酷く素直な気持ちになっていた。裸で堂々と人前に立てるような、清々しい気持ちだった。身体を起こすと私は彼に言った。
「まどろっこしい話は辞めにしよう。あの話をしに来たんだろう?」
 私がそう言うと彼は神妙な顔をしてみせた。
「うん、そうだな。変に遠回りしたもんだから妙な事になったんだ。そうだよ、あの事だ。お前があの日の事を自分のせいにして殻に籠っているって話を聞いて心配だったんだよ。」
「君が心配するような事じゃないよ。それよりも、部長の仕事を押し付けて悪かったね。」
 そう。私が急に部長を辞めて後を引き継いだのは彼だった。彼は二つ返事で引き受けてくれたが、私にはその事をずっと申し訳なく思っていた。
「それこそお前が気にする事じゃないさ。」
 彼はそう言って白い歯を見せて笑った。やはり彼はいい男だなと私は思った。だが彼のその優しさは今の私にはちょっと辛い。
「いや、それだけじゃない。お前が気にするような事なんて何にもないんだよ。今日俺が来たのはそれを言うためだ。特に宮子の件については誰にもどうしようもなかった事さ。寧ろ一番よくやってたよ。俺なんて早々に見捨てたのに最後まで面倒見てたじゃないか。正直お前が赤崎の面倒みてくれてほっとしてたんだ。死んだ人間にこう言う事言うの何だけど、俺、ああ云う卑屈なタイプ大っ嫌いだからさ。」
 そう苦々しげに言う彼は、故人が相手だと言うのにその嫌悪感を隠そうともしていなかった。実は彼女の幻聴の最初の犠牲者は彼だったらしい。彼が後々までその事を黙っていた理由は、大方私と同じような理由だったらしい。
「特にあの頃は皆赤崎に対して良い印象を持っていたしな。あいつがイカれてるなんて誰も知らなかった。あの状況で『弟殺しって言ったって言われた」なんて言ってみろ。下手をしたら頭のおかしいのは俺だと思われるだろう。」
 身振り手振りでお道化たように言ってみせる彼には、やはり演技じみたものがあった。
「それに、だ。一体お前がどうしてやれたって言うんだ?正直・・その・・。」
 突然彼は調子を落として、少し途方に暮れたように言った。
「そもそも何が起こったかも分からないだろう?あれ以来事件の続報とか聞かないし。考えるだけ無駄だよ。俺達の意思とは関係ない所で何か異様な事件が起こって、それに赤崎たちは巻き込まれたんだよ。それは台風みたいな、自然災害と同じようなものなんだと考えた方が良い。どうしても避けようのない不運ってのはあるもんさ。交通事故だろうと台風だろうと通り魔事件だろうと、それらに殺される人間にとって大きな違いは無い。つまるところ災難は災難。それ以上の意味なんてないんだ。」
 彼のその理屈は極端すぎて全く共感できなかったが、彼の目は真剣だった。彼もその理屈が正しいとは思って無いだろう。と言うより正しいかどうかは二の次で、彼はとにかく私の考えを変えさせたい、元気づけたいと思ってるようだった。本当にありがたい事だ。なら、私も私で彼に対して真剣にならなくてはいけないだろう。つまり、自分の考えを正直にしゃべるべきだ。その結果彼が私を今すぐ病院に連れて行くと言う結論に至ったとしても、だ。
 私はちょっと考えた後に思い切って口にした。
「僕はね、岩田。君にずっと嫉妬していたんだ。君の人望に。有能さや社交性。女性からモテる事も。君が良い奴であればあるほど僕は毎日居たたまれなかった。せめて君が嫌な奴だったらきっと僕のコンプレックスもまだ無視できる程度の物だったろう。」
 岩田は何の話だ?と言いたげに眉を上げたが、直ぐに真顔になり黙って私の話を聞いた。
 私は岩田に私の思いを全て話した。
 彼女の面倒を見ていたと岩田は言ったがそれは彼に対する対抗心だったのだ。
 私は人に上に立つことを、人をまとめる事を何か誤解していた。結局何も見えていなかったのだと告白した。自分の事しか考えてなかったのだ。だから彼女の言う事を真剣に聞こうとしなかった。真剣に聞いていればその話に一抹の真実があると気付いただろう。
 だがそうまくしたてる私に対して彼は困惑した表情を浮かべていた。
「信じてやればよかったんだ。信じるべきだった。そりゃあ今考えても荒唐無稽で信じるなんて無理な話だがそれでも・・。」
「待てよ。」
 そう言って彼は手を上げて私の話を遮った。
「何を?何を信じるべきだったって?まさか赤崎の話の事じゃないだろうな?」
 右手の中指でこめかみを押しながら彼は言う。さあ、困ったぞ、とでも言うようなその反応は予想通りだった。私も宮子の話に対して似たような顔をして聞いていたのだろう。何とか自分は正気であると言う事を認めさせた上で話を聞いて貰わないと、私は宮子の二の舞になるだろう。一呼吸して気持ちを落ち着けてから、彼にこう言った。
「見て欲しいものがある。ちょっと待っててくれ。」
 私は二階の自分の部屋からノートをもって来ると彼に渡した。
 それは単行本ノートと言うやつで、酷く汚れていた。表紙には何も文字は書かれてないが、禍々しい雰囲気があった。岩田はそれを汚いものでも扱うように二つ指で持ち上げて渡井に尋ねた。
「何だこれは?」
「宮子が描いたキャンバスの後ろにこれがあったんだ。俺宛の手紙付きで。彼女は自分に何かがあった時の為に僕にこれを託したんだ。これを読んでから彼女の話はある部分本当だったんじゃないかって思うようになったんだ。」
「奴らが人間に成り代わているって事が?」
「うん。」
 岩田は訝し気な視線をこちらに向けていた。
「無論全部本当だと言う訳じゃない。そうで無い事は明らかだ。彼女は狂ってはいたんだろう。だがだからと言って彼女の見ている全てが嘘だった訳じゃない。そこがこの話のややこしい所なんだけど・・。とにかくそこに書いてある事を読んでみてくれ。」
 私がノートを読むよう促すと、彼は渋々と言った様子でそれを読み始めた。
 ノートには己の血でも刷り込んで書いたかのような偏執的力を持った文字が全ページにびっしりと書かれていて、そこからは狂気が匂い立っていた。読み進めていく内に岩田の目が理解を拒むかのように細くなった。
 無理もない。冒頭部分で弟殺しについて詳細に語っているが、最初は兄だと書かれていたそれは次に他人になり、こちらから話しかけるとやたらとすり寄って来るようになった。そうすると彼は理想の弟であり前世からの恋人になった。それなのにある日「もう来ないでくれ。」と言われたらしい。
「事実はあべこべであちらが私をストーカーしてるのに。あのキ〇ガイめ!」とその日の最後には大きく書かれていた。
「こわすぎだろ。なんなんだあいつ。これ以上読む価値あるとは思えないんだけどな。」
 そう言うと彼はノートを放り投げてしまった。何度頼んでもそれ以上は読んでくれなかった。
「ドグラ・マグラのキャッチコピーを思い出したぜ。本書を読破した者は、必ず一度は精神に異常を来たすってね。あれはただの宣伝文句だが、これに関しちゃ本当だろうな。」
「俺は狂ってないよ。」
 私はそう言ったが、彼は信じてくれなかった。
「どうかな。奴らの存在を信じているんだろう?」
 だが話を聞く姿勢が完全になくなってないだけまだ良いだろう。私はどうしても彼が読んでくれないのでノートの内容を自分で説明することにした。 
 その後の記録には奴らに体を乗っ取られそうになった弟を守るため自分は彼の首を切り落としたと書かれていた。
「それ本当じゃないんだろ?」
「いいや。何処まで本当か分からないが、ある部分までは本当だ。」
 わたしは既に調べていた。そのノートに書かれた四郎君を。片宮四郎と言う少年は存在した。最も正確には存在していた、だが。
 二年前、喜多方市で奇妙な事件が起こった。
 当時中学一年だった少年、片宮四郎が突如行方不明となった。会社から帰った母親は開け放たれた玄関を見てすぐに異様さを感じ取った。息子が何処にもいない。その後、信夫山公園で少年の生首を抱いた少女が発見される。それが赤崎宮子だった。
 彼女は泣きながら「奴らに体を乗っ取られそうだったから助けるために彼を殺した」と答えた。胴体は何処にも見たらなかった。
 当然殺人に関しては彼女が疑われた。
 だがすぐにその線は却下された。少女一人に可能な犯行では無かったからだ。少年の首はキレイに切断されていた。何で切断されたかは不明だが、何か道具を使った事は明らかだった。しかも切断面に生活反応があった。
「四郎少年は生きたまま首を斬られたって事なんだ。」
「うへえ。そんな死に方だけはしたくないもんだな。」
 彼はそう言って首をすくめ舌を出して見せた。
「おまけにキレイに斬られていると言う事は、特に抵抗が無かったという事だ。何らかの道具を使って素早く切り取られている。正直こんな芸当を成し遂げるには大掛かりな道具がいるし、少年の身体を固定するか眠らせる必要がある。当時中学2年生の少女がそれを用意するのも、実行するのも、当然その大掛かりな道具と胴体を誰も探せない所へ隠す事も不可能だ。」
「共犯者がいたとか?」
「警察も共犯・・と言うか主犯がいる可能性を考えた。しかも大人の。子供とは言え人間の胴体を、誰にも見られないような場所に移すには車が必須だ。つまりまあ、どの道隠し通せるわけがないんだよ。付近には警察が捜査網を張って少年を探してたし。」
「そんな事件聞いた事ないけど、その情報は何処から手に入れたんだ?」
「従姉が福島県警で働いているんだよ。守秘義務があるから教えられない事もあるって言っていたけど結局全部教えてくれたね。」
 当然これらは表に出てない情報だった。被疑者である少女が未成年である上に、そもそも迷宮入りになってしまったからだ。ただでさえ未成年の犯罪は神経質になるのに、真相が分からないとなれば、軽々に表に出せる話ではない。
「彼女は一貫して奴らから守る為に自分は彼を殺したという主張を変えなかったそうだ。」
 次の情報を彼に言おうかどうか相当迷ったが、私は思い切って話してみた。
「そして少年の首の切断部分からは未知のバクテリアが検出されたとか。いや、従姉の話では鑑識がそう言っていたらしいんだけども・・。」
 岩田の顔が途中で固まったのを見て、私はやはり言わなきゃよかったと後悔し始めた。
 台所でゴキブリでも見たかのようなその表情からは、こちらの話を全く信用してないと言う意思表示があった。これは言っても無駄だろうと途中で気づいたが、話を辞める訳にもいかずとりあえず私は最後まで話した。
「彼女と四郎少年との関係性だけど、学校の生徒達によると宮子が少年に対してストーカー行為を働いていたのは確からしい。」
「そりゃそうだ。そうじゃなかったら逆にビビるわ。」
 ちくしょうなんだか喉が渇いたぜ、と言うと彼は立ち上がり台所へ行くと冷蔵庫に残っていたペットボトルを取り出し勝手に飲みだした。飲み干した500ミリペットボトルのラベルを剥がし、資源ごみ箱にそれを投げると彼は言った。
「って事はさあ、やっぱり全部赤崎の妄想って事になるんじゃないのか?」
「そうじゃないから彼女は死んだんだ。」
 私がそう言っても彼の目から不信感は消えなかった。
「やつらが彼女を殺したんだ。ノートによれば、奴らはどんどん入れ替わっているらしいんだ。警察や政治家、芸能人にだって奴らがいる。」
 彼は鼻白んだような表情でこちらを見下げると、投げやりに言った。
「ホラー漫画で見た気がするな。後昔の映画。ゼイリブ、光る眼、ボディスナッチャー、有名どころでないなら他に幾らでも言えるぞ。」
 やはり真面目に聞く気はないようだった。だが正気を疑われ病院へ連れて行かれると言う最悪の予想よりは良いようだ。もっとも今後もこの説を押したらどうだか分からない。
 こう言う反応をされることは予想の範囲内だった。実際自分も全く信じなかったのだから文句も言えない。ただ、あの時の自分とは違う事が一つ岩田にはあるはずなのだ。
「じゃあ、岩田は何だと思うんだ?あの事件の真相は?誰が千尋をバラバラにした?誰が宮子を殺して胴体を盗んだ?何の為に?どうやって?」
 岩田は腕組みをして考え込むように眉を顰めた。 
「メキシコの麻薬カルテルじゃ人間を生きたままバラバラにするなんて日常茶飯事らしいぜ。」
 私はすかさず言った。
「ここは日本だよ。」
「知ってるけど、要するに人間出来ない事なんて無いって事だよ。どれだけ残虐だろうとそれが悪魔の仕業って事にはならないさ。実際、赤崎の母親ってヤクザの娼婦だったって噂だぜ。駅前のヤクザアパートに出入りしてる所を見たって一年の女の子から聞いた事がある。」
 それは私も聞いた事があった。真面目な話この町は見た目ほど平穏でもなく、私の家の近所にも暴力団の事務所と組長の家がある。子供の頃はやけに塀の高いその家を見て、金持ちが住んでいるんだろうなあ、と思い込んでいたものだ。
 とは言え、発砲事件が偶に起こるくらいで、そこまで物騒なヤクザはいない。そもそもメキシコのマフィアだって、流石に一般市民の女子を殺したりなんてしない。
「もう一つ不思議な事があるんだよ。」と私は言った。
「何だい。」
「何故ニュースにならない?この残虐性を考えたらニュースになって然るべきだろう?なのに今ワイドショーじゃ横綱が一般人を殴ったってしょうもないニュースがにぎわってる。僕は地方のニュースでも宮子の事件を扱ったのを見た事が無い。君もだろう?」
 腕組みしながら彼は少し唸ったが、直ぐにそれはそんなに不思議な事じゃないと言った。
「ニュースってのはそんなものじゃないか。本当に必要なものなんてやってないんだ。芸能人が未成年をレイプしようが政治家が汚職をしようが新宿で殺人が起ころうがオリンピックで日本人がどれだけ金メダルとろうが本当は俺達の明日には大して関係が無い。関係のない事実をニュースって言うんだ。それをわざわざ知ろうってのは単なる暇潰し。だから逆に必要な情報である、「近所で起きた殺人事件」については欠片もやらないんだ。
 想像してみろよ。ある日TVのニュースが今日生き抜く為に必要な情報ばかりになったら。そうなったらニュースを見るのが習慣ではなく生きるための最低限の義務と化すぞ。そうなりゃただでさえ窮屈なこの時代が益々窮屈になって息をするのもおぼつかなくなるだろうよ。」
 彼はその自論が気に入ったらしく、話している内に半ば得意げな笑みを浮かべたが、納得できてない私にはそれが癇に障った。それはただの一般論であって、今回の件を説明できるものではない。そう言うと彼は痛い所をついてきた。
「少なくとも奴らが警察の味方とか言う考えよりマシだろ。そもそも奴らって何なんだ?何処から来た?どうやって発生した?」
 それはノートにもない事だった。書いてない理由は明白だ。彼女も分からないのだ。ノートを読む限り彼女は一人で戦っていたようだ。奴らの正体を知っている科学者とかそんな都合の良い人物などいなかったろうし、いたらノートに書いてあるだろう。もっともそれは私も同じだ。私は答えに詰まり沈黙が続いた。暫くの間時計の音だけがその場を支配した。
 最初に音を上げたのは岩田の方だった。彼は降参するように両手を上げて以上のような提案をしてきた。
「OK。分かった。あんまり否定ばっかしてても話が進まないからな。ひとまず『お前が考えたホラー映画の話をしている』ものとしてその話を受け入れる事にするよ。奴らは存在する。何者かは分からないが、お前の作ろうとする映画の中には存在する。それで好いな?」
 全然良くなかった。彼は最大限譲歩しているような口調だったが、私には彼が私の話を全否定しているようにしか聞こえなかった。しかし彼の言う通りだ、その前提となる確かな証拠など無い以上、話を聞いてもらうためにはフィクションとしての仮定だとしても本当にいるかいないかは脇に置いておかなくてはいけない。私が渋々頷くと彼はこう言ってきた。
「だがそのホラー映画の筋立ては無茶苦茶だ。」
 彼は呆れたような手を広げてみせた。
「奴らは狙った人間になりきり入れ替わるってしまうんだろう?盗まれた町みたいにさ。だとしたら何でだ?何で赤崎に成り代わって生活してない?いきなり矛盾してるじゃないか。首を現場に残しているし、これじゃあどれだけ赤崎そっくりなやつが現れて成り代わろうとしても頭隠して尻隠さず、誰だってよく似た偽物だと分かっちまうよ。」
 それは想定された疑問だった。無論私なりの仮説も用意していた。
「それについては、僕も考えたんだけど、要するに今回はイレギュラーなんじゃないかな。君の言う通り、もし今回のような調子で奴らが人を殺しまくってたら対象に成り代わるなんて不可能だ。何時もはもっと上手くやってる筈なんだ。単に、今回が特別なんだ。普段なら起こらない事が何か起ったんだろう。」
 少し考えた後彼は言った。
「・・・相田千尋か?」
 私は頷いた。
「かもね。或は母親か。それともその両方か。これについて僕らが正確に推察することは不可能だ。だが彼女の存在が奴らの変異と言うか、宮子になり切る為の変形の邪魔になった事は確かだ。奴の変形は失敗したんだ。恐らく四郎少年が殺された時も宮子が邪魔に入ったと言う事だろう。そこから推察するに、別の人間に乗り移る際中、或は乗り移った直後は不安定であり、それは奴らの隙なのかもしれない。或は弱点と言っても良いか。」
 そこが、ノートが与えた唯一の良い情報だった。それと夜にしかやってこない当たり日にも弱いのかもしれない。恐らく奴らの本当の姿になる時は弱点だらけなのではないだろうか。何もかも推察だが。
「で、失敗するとどうなるんだ?」
 彼の真剣な表情には僅かに恐怖の色があった。それは、彼が多少なりともこの話を現実味のあるものとして聞いてくれている証拠だった。
「分からないけど、不完全な状態なままなのは確かだろうね。宮子の胴体がないのはその為だ。」
「赤崎がゾンビみたいになってその辺歩き回ってるって事か?気味悪い事言うなよ。大体それが本当ならとうに・・・」
 彼がその疑問を言い終える事は無かった。突然、玄関のチャイムが鳴ったのだ。続いてドンドンとドアを激しく叩く音がした。
 私と彼は顔を見合わせた。
 岩田は震える声で私に尋ねた。
「ご両親・・?」
 私は首を振った。
「今日は帰ってこないはずだよ。それに、家の両親はあんな風にドアを叩いたりなんかしない。」
 間違いなかった。今度こそ来る予定の無い訪問者がやって来たのだ。
 ポンッ!と先ほど彼がゴミ箱に入れたペットボトルの膨らむ音がして、私達はびくっと体を震わせた。
 岩田が思い切ったように腰を上げると言った。
「取り合えず出て見れば誰か分かるだろう。」
 玄関へ向かおうとする彼の肩を私は掴んだ。
「おい、どうする気だ?」
「どうするって誰か来たんだろう?まさか奴らが来たとか言わないだろうな?」
「じゃあ、何だ?この大雪の日に連絡も無しに誰が来る?」
「大雪だからこそ誰か遭難しかけてここに来たのかもしれないだろ。」
 そう言って岩田は私の手を振り払い、玄関に向かった。そうだ、常識的に考えれば確かにそうなのだが。絶対にそうではないと言う確信が私にはあった。そして、岩田にもそう言った予感はあったのではないだろうか。半信半疑であればこそ、彼はその非現実的な不安と恐怖を退ける為玄関の扉を開けようとしたのだろう。
 結果的には彼に宮子のノートを見せたのも、奴らの話を聞かせたのも酷い結果をもたらす事になった。きっとその話を聞いてさえいなければ、彼はあれほど意固地にならず、他所の家の来訪者に自分が出るなどと言う非常識な真似はしなかったろうから。
 そして私が彼を止めなかったのもまた、彼と似たり寄ったりの半端な意識でいたからだろう。どれだけ宮子の妄想だけで片付くものではないと自分に言い聞かせても、友人を無理に止めるほどの確信はなかったのだ。
 私はあの時床に転がったままのバットを拾ってずんずんと進む彼の後をついて行った。
 チャイムが続けざまになっていて、ドンドンと玄関の扉は音を立てていた。彼は一瞬ためらった後、ゆっくりとドアスコープを覗いた。そして弾かれたように飛び退いた。
 そして急いで玄関の扉を開けた。
「おい!」
 私は叫んだが彼が扉を開け終える事を止める事は出来なかった。
 外からの冷気が大きな獣のような動きで侵入してきたが私達の動きを止めたのはそいつではなかった。玄関の前には宮子が立っていたのだ。岩田は咄嗟に宮子に駆け寄った
「おい、どうした宮子!」
 彼は知っていたはずだ。宮子が死んでいたことも、あいつは頭部が切り取られていて胴体が丸ごとなかった事。だが確かに目の前にいるのは宮子だった。
「セ、センパイ・・・。」
 あの声だった。くぐもった様な不自然な声。
 私はバットを構えて彼に怒鳴った。
「どけろ岩田!そいつは宮子じゃない!」
 宮子に似たその何かはブツブツと何かを言っていた。
「か、身体が合わなかったんです・・。男から女じゃ、駄目だった。性別は同じじゃないと、・・・だ、だ駄目・・なんです。」
「はあ?」
 岩田はそいつの囁きを聞き取ろうとするかのように腰をかがめて耳に手を当てていた。
「岩田どけろ!」
 私はそう叫んだが、彼はあまりの事に現実感が無くなっていたのだろう。呆けたような表情でこちらを見た。
 次の瞬間に起こった事は、ほんの2、3秒の間の出来事だった上に、あまりに常識とかけ離れていたので見た当初は判断できなかった。わたしの脳はその時あった全てを許容できていなかった。ある程度判断できるのは今のわたしだからだ。だからこれは後付けでの推測も多分に交じっているかもしれない。
 彼女の髪の毛がするすると伸びて岩田の首に巻きついていったのだ。
 岩田も私も何が起こっているのか理解できていない。そもそも目の前の人間は既に死んでいるはずの人間なのだ。それが実態を持って存在している時点で夢を見ているのかもしれないと思った所で何か不思議があるだろうか。
 髪の毛が岩田の首をキュッと僅かに締めたように見えた。そして岩田がグーと言う極めて動物的な音を出した。すると、岩田の首は床に転がり落ちた。その一連の流れと来たらまるでバターでも切るかのように滑らかで冗談のようだった。転がり落ちた首はコロコロと前回転しながらへたり込んでいる私の目の前にやってきてちょうど足の先で止まった。岩田は眼を剥いていて、痛みに耐えているようにも見えるし「冗談だろ?」と呆れているようにも見えた。
 まるで現実感が無かったのは、TVやホラー映画で観たその光景と比べてそれらがあまりに安っぽく道化じみて見えたからという事情もある。
 だがその後ろで行われている事と比べたらまだ現実的だった。
 もしこの世を創造したものが神なら、きっとそいつは狂っているに違いない。あんなおぞましいものを生み出したのだから。
 岩田の首があった部分からは不思議と全く血が流れていなかった。鮮血で染まった切り口に宮子の髪の毛がするすると入っていく。いや、髪ではない。それらはよく見れば透明な蛸の触腕のようなものでぬめぬめと黒っぽい光を放っていた。それは宮子の頭部からではなく、頭の下から生えていて、それらが鮮血に染まった切り口からズルズルと不気味な音を立てて岩田の内部に入っていく。
 そして一方の宮子の身体は頭部を失ったとたんバランスを失いその場に糸が切れた操り人形のようにあり得ない方向に手足を曲げて崩れ落ちた。あった事を簡潔に言うのなら、宮子の頭が岩田の頭部に乗り移ったのだ。
 そしてそこからが一連の出来事の中で最も悪夢じみた瞬間だった。
 岩田の身体に乗り移った宮子の顔はドロドロに溶けて全く別の顔になったのだ。
 いや、それは顔と言うにはあまりに人間の造形と違っていた。多分、それが奴らの本当の姿なのだろう。今まで見た事も無いものを記憶すると言うのは難しい。ましてそれを正確に思い出して描写するなど。実際私の記憶の奴らの姿はぼんやりとして上手く形を取らない。強いて似たものを上げるなら、蛸の頭に似ていた。死亡後しばらく放置されて腐った蛸の死骸に。最もそれは形や色だけの事で、質感としては骸骨のようだった。触った訳ではないが、酷く硬そうなそれは玄関灯の光を浴びて黒っぽく輝いていた。
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 すると、再び顔が溶け出し、別の形を取り始めた。それはちょうど陶芸品の作成に似ていた。溶けていく過程で形作られていくそれは岩田の顔だった。そしてものの数秒もしない内に完全に岩田に成り代わった。それはこの世でも最もおぞましい人類のパロディだった。
「オレ・・オレ・・は岩田洋一・・。」
 その時やつが発した声はあのボイスチェンジャーのような声とも違う、硝子を爪でひっかいたような、ゾッとする囁き声だった。
 私は叫び声をあげた。
「うへえ。こ、こ、こ、こんな死に方だけはした、したくないも、も、もんだな。」
 岩田に変身した化け物はそう言ってにやりと笑った。
 何故そんな事を言ったのか。化け物流のジョークかあるいはただ岩田に成り代わろうとした結果出てきただけの言葉なのか未だ持って分からない。所詮人間と違うものの存在の理性の在り方など理解しようとする事自体無意味なのかもしれない。
 死を確信する程の恐怖を感じた時自分はどうするか。私は前からフィクションを読んだり見たりしながら考えていた。そして、何時も私ならこんな時逃げるだろうなと思っていた。実際大概それが最善の選択なのだが、フィクションでそう言った行動を取ったのを見た事が無い。まあ、逃げる時に逃げれば盛り上がらないから当然なのだが、私はそうしない登場人物たちを馬鹿だなあと思っていた。
 しかしいざ自分がそうなると私は逃げると言う当たり前の選択を取らなかった。極限の状況の中、恐怖心は攻撃性に変換された。私はバットを手に取り思いっきりそいつの頭部を殴った。
 ゴッと言う岩でも殴ったような硬い音がしたが、手には重みを感じなかった。そいつは思いの外脆いらしく、一撃で首が少しグラついていた。そいつは声にならない音を口から出していたが、それが何を意味するか私は興味が無かった。私は不自然なほど落ち着いていた。勢いをつけるかのようにバットを後ろ斜めに構え、もう一度全力でそれの頭を殴った。
 岩田の頭部は千切れて玄関の向こう側に飛んだ。
 私は後を追ったが、そいつは頭部の闇の中に隠れ姿を消してしまった。
「何処だ!」
 私は叫んだがその声は吹雪の音に隠れて瞬く間に消えた。
 直ぐに私はごうごうと吹雪く雪の音に紛れて、人とは思えぬ低い、うめき声のようなものが聞こえてくる事に気づいた。苦悶にむせび泣くそれは間違いなく奴だった。音を辿ると、玄関先から2メートルも無い所、街灯の下にそれがあるのを発見した。
 奴の顔は戻っていた。宮子の顔に。最も完全にそうなっていた訳ではなく、上半分は宮子の顔で下半分、鼻から下は化け物の姿であり、顔の下からはあの黒い触手の様なものが不気味にうごめていていた。
 そのパロディと悪夢の奇妙な混合体を前にして私は笑っていた。夜の闇に私の笑い声が響いたが、それは吹雪の音と混ざり合って酷く狂気じみて聞こえた。実際、その時の私は紛れも無く狂っていた。
「セ、センパイ・・・。」
 宮子によく似た生物は、赤い血の涙を流して私を呼んだ。その時の感情を未だにどう言い現わしていいのか私は分からない。嫌悪感に似ていたが、通常のそれと比べるとその時に感じた思いはあまりに激しいものだった。真っ白な感情に突き動かされ、私はバットを化け物の頭上に振り下ろした。
 それから後の事は朦朧とした記憶で形を取らない。誰かが叫んだのを聴いた気はする。
 後で警察に聞いた所では近所の人が、私が友人をバットで殴り殺したのを目撃して通報したそうだ。大雪の為に警察がやって来たのは早朝だった。到着した警察が最初に発見したのは道路に倒れていた私だった。もしもう少し警察の到着が遅れていたら私は凍死していただろうと言う話だ。実家の前の道路で凍死するなど笑えない冗談である。その後すぐに市内の病院に搬送されたため手足が壊死する事も無かったが、足の指全てが霜焼けで膨れ上がり2週間ほどサンダルで過ごす事になった。
 事件そのものの経緯は宮子と同じだった。
 胴体だけの死体が二つ。首は無かった。それらは鋭利な何かで首を斬られていて、状況的にわたしが殺したとしか考えられないとされたが、現場には凶器が無かった。その日は大雪で、凶器を隠すための場所など無い。切り口から考えて、かなり大きいか長い刃物である事は確かだが、そんなものを隠せるわけがない。紐のようなものも考えられたが、それで絞め殺すならともかく首を切り落とすのは不可能だ。余程丈夫で、尚且つ瞬間的に強烈な力をかけなくてはいけない。それは最早人間業ではない。
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 そう言って私の調書を取る警察官の目が忘れられない。それは紛れも無く紛いものだった。あいつと同じ目だった。何処か虚ろで生気が無い。
―警察は奴らの仲間なんです―
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 その後私は益々引き篭もりがちになった。ただただ猛勉強をした。この土地を出る為に。何処にもいかず、ただただ一人で家に籠って勉強していた。塾は夜遅くなりがちなので止めた。私は夜になる度に彼女の言葉を思い出した。
―奴らは夜にやって来るんです―
 夜は決して外へ出なかったが何の気休めにもならなかった。インターホンが鳴る度にあの夜の出来事が鮮明に蘇り、恐怖心が爆発するような速度で巨大化し、心臓の鼓動が高鳴り呼吸も出来ないほど苦しくなる。眩暈がして緊急病院へ搬送されたことも何回かあった。父が帰って来たのだと頭で分かっていても恐怖心の膨れ上がるスピードは減速する事が無く、インターホンが鳴る度に私は呼吸障害に陥った。その為昼夜を問わずインターホンを鳴らす事は我が家の禁止事項となった。
 交友関係は全て絶ち切った。誰が奴らでそうでないのか私には判断する術が無かったからだ。街の全ての人間がもう奴らに乗っ取られている気すらした。
 倫理や法を無視すれば奴らを見分ける方法も無いではなかった。バットで道行く人々の頭を片っ端から殴れば良いのである。奴らならその時点で頭がもがれるだろうし、そうでないなら血を流して倒れるだろう。
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 そうならなかったのは、あの災害が原因だった。
 あの日突然町に降って来た災害は皆を不幸にした。皆が多くのものを失った。そして皆が破滅的な未来へ足を進めていた。私と同様に。
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 あのような大災害にも関わらず、私は無事大学受験を受ける事が出きた。
 受験に関しては決してベストの結果を出せたとは言い難かったが、最低限の目標である県外の大学に受かる事は出来た。第一目標ではないものの、受けた大学の中で最も福島県から遠い場所だった。災害のお陰で、この土地から離れたいと言う私の意思を父と母は疑問を持つ事も無く受け入れてくれた。ただ生活費は自分で出す事が条件だった。私は奨学金と言う巨額の負債を背負う事になった。それでも足りない分は近所のコンビニでバイトする事で補った。
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 それが実際奴らの正体を知る者の語った怪談か否かに関わらず、少しくらい似た話があっても良いではないか。私にはそれが自分達の正体を想起させるような話は例えフィクションでも許さない奴らの意思のように思える。やはり奴らはネットを掌握しているのではないだろうか。
 ならば打つ手は無いのか?私はこうやってただ誰に送る予定も無い手記をノートパソコンに残すしかないのか?何時か世界が奴らによって完全に奪われてしまうまで。
 いや、打つ手はあるのだ。それを記すためにこそ今、日記を書いている。連日の「自分が生きている事を確認するため」と言う後ろ向きな理由とは違う、前向きな力が今の私を動かしている。
 今日、ひょんな事から私は奴らを知る者、あるいは知っているかもしれない仲間を得る事が出来た。それはここの所毎晩やって来た訪問者が切っ掛けだった。
 その前に、訪問者の正体についてここに記しておくのが道理だろう。昨日までの私、そしてこれをお読みの君は安心してほしい。あの訪問者は奴らではなかったのだ。あれは私の取り越し苦労であった。
 私にも原因があったが、向こうの誤解もあったので先ほど彼女はお詫びの品を置いて行った。死ぬ程怯えさせられたものの、これを機に仲間を得られるなら、そしてお詫びの品が食料なら安いものだろう。まだ開けてないので中身が何か不明だが。
 話がズレてしまった。まず深夜の訪問者の正体を記しておこう。それは連日の大学構内で感じた視線や昨日あった不快な出来事とも共通する話なのだが、あれは特に危険のある事ではなかったのだ。
 実はあrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr
                                                                                                 
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サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

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