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第17話 主の嫁

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「落ち着け、やえ。
 俺は無事に決まってる」
「決まってなんかおらん。
 異人さんは恐い言うやんか。
 まさか、異人さんに襲われでもしたんか、と気が気で無かったんよ」

「お前な、俺は異人の息子だと言っただろうが」
「あれっ、そうじゃったっけ。
 ……忘れちょったわ。
 うぃるはうぃるだもの」

 やえは白狼に抱き着いたまま笑う。
 うぃるからは呆れたような照れたような溜息が聞こえた。

「かけてみろ」

 と言われてもどうすればいいのか。
 良く分からんまま、それを顔に近付ける。透明な何かが嵌められた象牙の道具。両側に紐がついている
 これが噂に聞くぎやまんじゃろか。

「そのぐらすを両目に合わせて、紐で耳にかけるんだ」

 手伝おうにも狼の手では手伝えない。不器用にやえがぐらすを着けるのを見守る。

「……どうだ?」

 やえは周囲を見回す。すでに周囲は夕刻を通り過ぎ暗くなっている。それでも分かる今まで見た事の無い景色。

「ういる。
 あんたがういるか。
 はっきり見えるよ。
 ……狼言うんはもっと怖い姿か思うちょったけど、考えてたより格好いいねぇ」

「……良かった!
 ほら、これを見ろ。
 探していたら遅くなってしまった」
「なんね? これ」

 桃色の物が鈴なりに着いた木の枝を狼は差し出した。

「八重桜の枝だ。
 これをやえに見せてやりたくて」
「これが…………
 これを探しちょって遅くなったんか、うぃる……」

 やえの視界には桜の枝があった。重なり合う様に桃色の花が咲く美しい物体。

「ういる、うち今唐突に思い出したわ。
 母ちゃがうちを長の家に置いて行った時に言った言葉」

 やえの名前は八重桜から取ったんよ。
 花が咲くのは他の桜より遅いけれど、いっぱいの花が咲く。
 遅咲きでええから幸せになって欲しい。
 そう思うてつけた名前じゃ。

 そんな言葉、ずっと忘れていた。
 この桜の枝をくっきりした映像で見た途端、その言葉が鮮明に思い出された。

「うぃる、ありがとうな。
 このぐらす、ほんまに嬉しいわ。
 うぃる、主さんの名前はウィリアム。
 うちの名前はやえじゃ。
 改めてよろしうな」


 少し離れた場所ではやえに乱暴しようとした男が倒れていた。

「殺してもうたんか?」
「そんな事するかっ!
 脅したらこいつが気を失ったんだ」

 里に送ってやる、だが二度と此処に来るな。俺とやえの事も一切口外するな。
 そう言ってういるは男を連れて行った。
 ほっておけば勝手に帰るじゃろ。
 そうやえは思ったが、男は酷く怯えていた。歯の根も合わぬほど震えていた。まともに歩く事すら覚束ない。あの怯え様なら里に帰っても誰にも話す事は無いだろう。

 しかし、うぃるとやえの事は里人たちの噂になる。
 男が話したのでは無い。
 うぃるがやえを背に載せて走りたがったのだ。やえに見せてやりたい、そう言ってうぃるが野山を駆けて回る。
 やえも初めて見る鮮明な世界に目を見張る。

 そして里人たちは噂するのだ。
 あの狼が……山のぬし様じゃ。
 幼い子供は訊ねる。
 あの背に乗ってたのは? 奇麗な女の人。顔に不思議な物を着けてた。
 あれはな、主様の伴侶じゃ。主様は神様みたいなもんじゃけぇ。奇麗な女の人を嫁に貰うたんよ。
 うん。
 子供は目を輝かす。

 あのお姉ちゃんも狼の主さんも、どっちも幸せそうじゃった。
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