南無妙法蓮華経

おっちゃん

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南無妙法蓮華経を唱えることの意義

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南無妙法蓮華経と唱えると、何故幸せになれるのだろうと考えてみた。
ます、「南無」とはそれを心から信じてしたがうという意味かな?
「妙法蓮華経」はお釈迦様が説いた正しい人の生き方の教えかな?
だから、南無妙法蓮華経というのは、「お釈迦様の説いた正しい人の生き方に、従います。」という意味かな?
しかし、お釈迦様は「南無妙法蓮華経」とは言っていない。
これを説いたのは鎌倉に時代の日蓮大聖人。
大聖人は「只、ひとえに南無妙法蓮華経と唱えなさい。」と説いて廻った。
大聖人は清澄寺、延暦寺で仏教を極め、お釈迦様が説いたたくさんの教えの中で、法華経こそがお釈迦様が最も伝えたいことだと理解した。
そこまでは、学習と言える。ここからが、日蓮仏法の真髄。それは、「唱える。」という行為。
つまり、「南無妙法蓮華経」と唱えるとは、どういうことかということです。
「音」って凄くないですか?だって、こちらの意思を相手に伝えられるんですよ!
背中合わせで立っていても、声を出して話せば、相手とコミュニケーションが取れるんだよ!
頭でどんなにか思っても、何も伝わらないのに、一度喋れば何でもわかる。
つまり、声に打数ということは、ものすごく意味があることなんだよね!
だから、「南無妙法蓮華経」と声に出していうことは、「私は、お釈迦様の説いた、正しい生き方に従うぞ!」って宣言することなんだよね。
友達に聞いてもらって努力するのもいいけど、友達がどこかにいなくなったら、言わなかったと同じになって、やめちゃうかも知れないよね。
だから、自分に誓うのが一番確実かな?
でも、鎌倉時代の当時は鏡なんて高級品だから、庶民は持っていなかったよね。だから自分は見えない。そうなると、誰に誓ったのかうやむやになりかねないよ。
そのために、人の命を表した曼陀羅「御本尊」が無くてはならない存在だね。
目の前に、自分がいるんだから、逃げようがない。
真剣に「南無妙法蓮華経」と唱えることは、自分自身に「おい、真面目にやれよ!」って言い聞かせている訳なんだよ。
しかも、それは「声」に出している~、そこいらじゅうに「俺!真面目にやれよやるよ!」って宣言してるんだよね。
これはかなりの自縛だよ!
さらに、重要なことは、その通りに行動するということ。
大聖人がおっしゃるには、お釈迦様の出生の本懐は人の「振る舞い」だと言うのだ。お釈迦様が仏になったのは、お釈迦様の振る舞いだと言うわけだよ。
だから、「南無妙法蓮華経」と声を出して唱えて、真面目に生きていけば、自然に幸せになるのは道理だよね。
結局、南無妙法蓮華経と唱えて生きていくことは、人がよりよい社会をづくり、仲良く生きていく言わば「原理」なんだよね。
どこかの国の宗教みたいに、優れた指導者にあこがれのように、自分を近づけて行くやり方も悪くはないかも知れないけど、お釈迦様も大聖人も自分の中に尊極な仏の命が内在してると明かしてくれているんだから、他人に求める必要はないんだよね。
ひたすら自分(御本尊)に向かって「南無妙法蓮華経」と唱えればいいんだよ。
だから、一生懸命「南無妙法蓮華経」と唱えている人はみんな幸せになっちゃう訳だね。
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