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第1章 ヒルダとウォルター

第7話 ウォルター

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 寝過ごした。

 ヒルダが目を覚ましたときには、一日のうちでほんの少しの間貧民窟にも差し込む東の海からの陽光も、とっくに過ぎ去ったあとだった。

 何かに突き動かされるように背中から飛び起きたものの、ボロボロの布の上にあぐらをかいて、彼女は迷った。

 昨晩のこと。

 夢うつつの日々にあって、昨日の夜のゴーガの青年は、あまりにも現実だった。「どうせこの世なんて、私なんて」と打ち捨てることのできない実感をもって、ヒルダの前に現れていた。

“きみはエルフだね!”

と言った、彼の月夜に輝く瞳がそこにある。

 だが……と、ヒルダは迷うのだ。
 そんなこと知って、何になる?

 自分は、どうやら人間ではないらしい。「エルフ」という何からしい。

 そこまでわかれば十分じゃないか?
 何を掘り起こす必要がある?

 南の壁に行けば、彼に会える。
 五十年探し求めてきた答えがそこにある。

 しかし彼女は恐れていた。
 真実を知ることを。


 やがてヒルダはノロノロとテントから這い出ると、長い坂道をいつもどおりにのぼっていった。こんな時間になってしまったが、誰か顔見知りがいれば恵んでもらおう。飯屋を回れば、誰かしらはいるだろう。腹が減った。嫌になる。こんなことになったって、結局腹は減るのだから。生きている証拠だ。生きている。それだけでいいじゃないか。今日を生きる。毎日、飽きるほど、その繰り返しだ。

「よお、ヒルダばあさん!」
と、耳に馴染んだ声がかかった。気がつけば、教会前の広場に来ていた。縮れ毛で恰幅のいい町の男が、ヒルダに向かって手を振っている。

「ばあさん、どうしたんだい? 今日はやけに元気だな?」
「そうかい?」
「そうさ。あんた、杖がなくても歩けるんだね」

 言われた本人が驚いた。

「あ、ああ。そうさ。今朝はなんだかね、気分がいいんだよ」

 苦し紛れの言い訳を残して、ヒルダは逃げるようにその場を後にした。

 歩いて、歩いて、『王の小道』を南下する。

 普段は立ち入らない、柑橘類の段々畑が密集する町の南側へやってくると、建物が少なくなった分だけ遠くからでも見える『古代の壁』が、黒い肌を光らせていた。

 いつもは物言わず、片側を山にもたれかけて町の人々を見下ろしている不穏な壁が、今日は違う顔を見せていた。

 それは賑やかでいて、頼りない風景だった。

 何本ものロープが頂上からかけられ、下のほうには足場を組まれ、まるでがんじがらめの様相だ。そこを縦にも横にもゴーガ人が忙しなく行き来して、ガヤガヤ、ドヤドヤと音を立てている。

 ヒルダは『王の小道』を行き当たり、今は開け広げられている門のところへやってきた。

 向こう側が見える。

 道は、ただ長く続いていた。

 今来た道に並んでいたような家は見当たらないけれど、門の向こうも道で、崖と海に挟まれている。

(なんだ……、同じなのか……)
と、なぜかがっかりした気持ちになっていた時だった。

「何か用か?」
と、ゴーガの男に声をかけられた。

 ヒルダの口は、勝手に動いていた。

「グォルギュって奴と約束があって来たんだ。どこにいる?」

 名前の発音は、完璧だった。

 男はそっけなく「そこで待ってな」と無表情に命じると、スタスタと門に歩み寄り、見た目よりもずっと身軽に足場へ登ると、ゴーガの言葉で大声を発した。

 横へ、上へ、伝言が波のように広がっていく。

 やがてどこかでその波が収まると、しばらくしてスルスルと彼が降りてきた。一体壁のどこにいたのだろう。

 彼は昨晩のままの、ゴーガ人にしては珍しい人懐っこい笑顔を見せて、「やあ!」と、ヒルダに挨拶してきた。それから、「えーっと……」と、探るような、困った顔になった。

 気づいて「ヒルダ」と名乗ると、グォルギュの表情はパッと晴れやかになった。

「ヒルダ。来てくれたんだね。ありがとう」

 まるで手をとらんばかりの勢いだ。

「よく名前を覚えていてくれたね。きっと変な名前だと思ったでしょう。昨日、帰ってから気がついたんだ。とっさにゴーガの言葉で名前を伝えちゃったって。僕たちは名前を二つ持ってるんだ。ゴーガの名前と、オルダールの名前。君たちオルダール人が覚えやすいように」

 嬉しくてたまらないように一気に言ってから、彼は「おっと」と、いたずらをするように笑った。

「きみは、オルダール人じゃなかったね、エルフさん」
と、囁いてくる。

 ヒルダは神妙な顔つきで立っていた。まだ「オルダール」が何かもわかってない。

「改めて名乗るよ。僕は、オルダール語でウォルター。よろしくね、ヒルダ」

「ウォルター」
と、ヒルダも一度発音してみた。このほうがずっと言いやすい。ウォルターと呼べばいいのだろうか。彼は、本当は「グォルギュ」なのに。

「行こう!」
と、ウォルターは手招きして歩き出した。彼には警戒心がまったく備わっていないように見える。
「親方には特別に休憩をもらったから。どこか話ができるところはある?」

 内緒の話、だ。

 崖に沿って造られた町は、非常に複雑な、入り組んだ小径で成り立っていた。人に見られずいられる場所などいくらでもある。

 ヒルダは案内しながら、不安になってきた。自分は、彼とは正反対に、警戒心と不信感の塊だった。

 彼は、本当の話をしようとしているか。何か、騙そうとしているんじゃないか。見るからに汚い、無一文の私を騙してもなんの得にもならないだろうが、相手は異種族だ。何を損得に考えるかも、町の人間とは違うはずだ。

 今は空き家になっている、かつてレモン栽培をしていた農家の裏手で、ヒルダは立ち止まって背後のウォルターを振り返った。

「教えてほしい」
「エルフのことだね」
と、彼は察した。




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