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第2章 ガスとリチャード

第7話 新天地を求めて

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 陸にいたときの自信は、すでに砕け散っていた。

 あれよあれよと出航の準備は整った。船の腹から左右に飛び出していた幾本ものオールが、まるで節足動物のように蠢き出したかと思うと、初めはゆっくり、波の間に滑り出していった。

 生まれ育った『東の鉄壁城』の、城壁の中にも小川が流れていて、リチャードは幼い頃に母に連れられ、仰々しい従者たちの見守る中、小舟を浮かべて船遊びに興じたことがある。今、それを強烈に思い出していた。

 寒い日の続く今や懐かしく感じる、夏の夕涼みだった。傘で太陽を遮るお供と、ゆっくりオールを漕ぐ船頭。それ以外には、母と自分だけだった。乳母は他の従者と共に岸辺で手を振り、その向こうに見える木々も、それを揺らす風も、さらさらと流れる川も、あのときのリチャードにとっては「外」であり「冒険」だった。海賊にでもなった気分だった。

 ところが、あんなものは城の中に作られた規律の一つにすぎないと、今のリチャードは頭を殴られた心地がした。本物の「外」は、もっと荒ぶっていて、カオスで、今のこの状況こそが冒険である。見事に危険を冒している。

 東の海の向こうから昇る太陽は、海と背後の町とを黄金に照らしていた。

「この船は『ミランダ商会』という大貿易社に雇われた商船で、船の主人はアルバ人の、元海軍です。戦後の混乱から兵士を辞めて船会社に乗り換えた。積荷の内容までは計りかねますが、きっとお茶の葉や、塩漬けなどに加工した魚、工芸品なども乗っているでしょう。それから人も」
「人? 我々のような?」

 二人は周囲の男たちに聞こえないようひそひそと話した。

「安く乗る代わりに漕ぎ手になる者がいます。新天地を求めて南へ向かう貧しい者ばかりです」
「南へ行けば仕事があるのか?」
「そう信じているようですが、わかりません」
「人はみな、ここではないどこかへ希望を抱くのだろうな」

 感慨深く呟くリチャードに、ガスは答えを与えるように言った。

「そこで幸せになれるかは、当人の努力次第でしょう。場所を変えても、自分が変わらなければ、違う場所で同じことが起こるだけです」

 それならば、たとえ同じ場所にいても、自分が変わる努力すれば、思い描いたような幸せを得られるということなのだろうか。

「俺はどうだ?」
「すでにずいぶんお変わりになりました。リチャード様」

 なんだか言い訳をされたような気がしたリチャードだったが、ガスは話を変えてしまった。

「揺れでお加減が悪くなるようでしたら、遠くをご覧になると少し良くなります」
「よく知っているんだな」
と、揶揄する調子で言ったが、たしかにリチャードはさっきから頭痛を感じていた。

「城にいるとき、商人に聞きました。この港から南へ船が出ていることも、伝手がなくても乗り込む方法も」
「どのくらいで着く?」
「風が良ければ、日暮れまでには」
「その距離ならば……、『黄金の港町』だな?」

 少しは賢いところを見せようと、リチャードは揺れる脳内で懸命に地図を広げていた。

 船で『赤土の港町』からオルダニアを四分の一周する。リチャードには、ガスがなぜ『黄金の港町』を目指すのか、海路を選んだのか、考えの及ばないところだった。

 二人の間に、しばし沈黙が訪れる。海の上は、港から見ていたよりも静かだった。

「今頃……」

 リチャードが呟くと、ガスも頷いた。

「ええ。気づかれていると思います」
「そしたら、どうなる?」
「まず城中を探すでしょう。私はすぐに疑われると思いますが、門番が娼館へ行ったと言います」

 裏門でのやり取りを思い出した。「女の所へ暖を取りに」とは、娼館へ行くという意味だったのか。

「しかしそこに私はおりません。残念ながら娼館を丸ごと味方につけることは出来ませんでした。だからといって娼婦一人を抱き込んでも、その女と館全体の証言が食い違えば女の命が危ないでしょう。仕方がないのでそこは諦めました。娼館では、私が来ていないと事実を言われます。我々は二人で逃げたと思われるでしょう。捜索は町中に及び、昨晩町から出た者はいないか確認されます。ここまでで半日を見ています」
「それから?」

 遠く波間の岩壁を見つめながらスラスラと語るガスに、リチャードは気が急いた。

「ご心配には及びません」と、彼は言い切った。「追手よりも早く逃げおおせる手段を考えております。しかし、今はお休みください」

 言えないのは、確信がないからだろうか。それとも、口にすると危険なのだろうか。ガスはしきりに周囲を伺っているようである。リチャードは構わず話し続けた。

「揺れて眠れん。それより話そう。行く先のことでなくてもいい。そうだ。あれには驚かされたぞ。お前の仕事は馬小屋の掃除だろう。それが、馬に乗れるようになっていたとは」
「みんながからかって、私をよく馬に乗せたのです。何度も落馬するから面白かったのでしょう」

 その光景を、リチャードはありありと思い浮かべることができた。いつもガスをさんざんにからかっている連中の顔も、ひとつひとつ頭の中に並べることができる。嫌な気分だ。

 だが、ガスは違った。

「わざと落ちていたんです」

 リチャードは驚いて、パッと彼の顔を見た。

「そうでもしなれば、私のような身分では馬に乗れません。おかげでコツを掴むことができました」
「お前ってやつは……」と、リチャードは息を吐いた。「嫌にならないのか? 間抜けと呼ばれ、そんな扱いを受けるなんて」
「それは問題ではありません」
「強いんだな」

 リチャードはそっぽを向いてしまった。なぜだか無性に苛立っていた。
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