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第3章 イーディスとモーラ
第3話 モーラ
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(私は、モーラ——……)
声はそう名乗った。
(モーラ! 君は、ここにいるのか? この、地下牢に?)
イーディスは焦って質問を重ねた。声がまた逃げてしまわないか心配したのだ。
それに、こんなか細い綺麗な声の少女がここにいるのだとしたら——…‥
考えただけでおぞましい。
モーラの声はたどたどしかった。
(……そう。ここにいる)
(どこだ? どの辺りにいる? 格子のそばに寄れるか?)
(……あなたのそばにいる)
返答に、イーディスはぞっとなった。まさかこの独房にいる、もうこの世にはいない存在と語り合ってしまったのだろうか。
だが、どう考えてもモーラの声には生身の熱がある。
そこでイーディスは思い直した。
(私の房の近くに入れられているんだな?)
(……そう……)
(いつからいるんだ? 無事か? どこか痛むところはないか?)
矢継ぎ早に聞きすぎてしまった。モーラは戸惑ったのか、答えるまでにさらに時間を要した。
(私は……、ずっと……、ずっとここにいる。……無事? ……痛むところ……)
イーディスは逸る気持ちを一生懸命なだめて、ひとつずつ聞くように努めた。
(今、体のどこにも、痛いところはないか?)
(……ない)
(そうか。よかった)
(あなたは? イーディス)
聞き返されるとは思わなかった。優しい子だ。
イーディスは体をよじって、石の床に座り直した。
(ありがとう。私は大丈夫だ。……モーラ、ずっとここにいると言ったが、それはいつからだ?)
また返事に時間がかかった。
(……ずっとは、ずっと……)
イーディスは聞き方を間違えたと思った。こんな地下牢では夜も昼もない。自分が何時間、何日閉じ込められているかもわからなくなる。食事も、今日は二回与えられたが、いつもあるとは限らないだろう。
(そうか……、モーラ、つらかったな)
(……つらい……?)
(そうさ。モーラ、君はこの近くの村に暮らしていたのか?)
(……村……)
(なんて村だい? 私は、すごく遠いところからやってきたんだ)
(……イーディス……)
(うん?)
(……村って何?)
(え?)
(……私の……、暮らした……、村?)
今度はイーディスが答えられなくなる番だった。まさかと思った。
(……私は……、たぶん……、ここで生まれた……)
ああ、なんてことだ。
(モーラ、モーラ……。すまない。私は……、そんなつもりじゃなかったんだ)
(……なぜ謝るの?)
モーラの声色は変わらなかった。相変わらず涼やかで、確かな重みを持っていて、優しい。
イーディスは前のめりになって、冷たい石の床に額をこすりつけた。
(いいんだ。モーラ、すまない……、私は……。そうだな。なぜ謝ったんだろうな)
(……思い出してきた。イーディス。あなたの声を聞いていて、思い出した……)
(なにを?)
(……わからない。私が思い出したことが、私のことなのか、あなたのことなのか……)
常人ならば理解し得なかっただろう。しかしイーディスは魔法使いだ。
(そうだね、モーラ。それは難しい)
と、イーディスは理解を示した。
(でも、モーラ、それを教えてくれないか。私なら、それがきみのことなのか、私のことなのか、わかるかもしれない)
ややあって、モーラは決意したようだった。
(そうする。だって、あなたとは話せた……。話せる人は、少ないから……)
少ない。ということは、他にもこうして心の中でやり取りできた相手がいるということだ。
だが、イーディスは質問するのをこらえた。今はモーラの話を聞くときだ。
モーラは記憶をたどった。
(私は……、小さな西からの風。山の上で生まれて、海を目指していた……)
きっとそれは彼女の記憶でもないだろう。しかしイーディスはそのまま聞き続けた。
(私はアオカケス……、私はハナムグリ……、私は……白樺の木……)
モーラは明らかに混乱している。それでもイーディスは彼女が話すままに任せた。
(私は、ミランダ商会の大きな船)
と言ったとき、イーディスの眉が持ち上がった。
(大勢の人を乗せている。南東から東北へ。……『火噴き山』の近くに止まって、彼らをおろした。……穏やかな波。彼らを隠すような月のない夜。最後の巨人が眠る岩……。小さな赤い髪の女の子。逞しい父親に背負われている……)
父は落ち窪んだ目の周りにいつも濃いクマを作って、日焼けした真っ黒な肌がまるで漁師か海賊のようだといわれていた。その容貌に違わず激しい人で、愛情も深く、その代わり憎むときが最も激しかった。
病の妻を助けなかった『知恵の里』を裏切って、若者を引き連れ、規律厳しい魔法使いの隠れ里に反抗するグループを作った。
本気じゃなかったはずだ。
ただ妻の死を悼んでいただけだった。彼なりの方法で。
激情は、大地を揺るがし、里の内乱を呼んだ。
イーディスは、急速に力を奪われていくような感覚に陥った。眠りに落ちる瞬間、ふっと脱力するように。
瞳の奥に、燃えるような赤い髪の女性が見える。赤は情熱。怒り。胸に秘める信念。イーディスはいつの間にか、母に会っていた。
「あの人を止めて。イーディス!」
紅をさした、髪と同じ赤い唇で懇願する。
「イーディス、お願いよ。あなたの父を止めて。あの人は、ただ悲しんでいるだけなの」
声はそう名乗った。
(モーラ! 君は、ここにいるのか? この、地下牢に?)
イーディスは焦って質問を重ねた。声がまた逃げてしまわないか心配したのだ。
それに、こんなか細い綺麗な声の少女がここにいるのだとしたら——…‥
考えただけでおぞましい。
モーラの声はたどたどしかった。
(……そう。ここにいる)
(どこだ? どの辺りにいる? 格子のそばに寄れるか?)
(……あなたのそばにいる)
返答に、イーディスはぞっとなった。まさかこの独房にいる、もうこの世にはいない存在と語り合ってしまったのだろうか。
だが、どう考えてもモーラの声には生身の熱がある。
そこでイーディスは思い直した。
(私の房の近くに入れられているんだな?)
(……そう……)
(いつからいるんだ? 無事か? どこか痛むところはないか?)
矢継ぎ早に聞きすぎてしまった。モーラは戸惑ったのか、答えるまでにさらに時間を要した。
(私は……、ずっと……、ずっとここにいる。……無事? ……痛むところ……)
イーディスは逸る気持ちを一生懸命なだめて、ひとつずつ聞くように努めた。
(今、体のどこにも、痛いところはないか?)
(……ない)
(そうか。よかった)
(あなたは? イーディス)
聞き返されるとは思わなかった。優しい子だ。
イーディスは体をよじって、石の床に座り直した。
(ありがとう。私は大丈夫だ。……モーラ、ずっとここにいると言ったが、それはいつからだ?)
また返事に時間がかかった。
(……ずっとは、ずっと……)
イーディスは聞き方を間違えたと思った。こんな地下牢では夜も昼もない。自分が何時間、何日閉じ込められているかもわからなくなる。食事も、今日は二回与えられたが、いつもあるとは限らないだろう。
(そうか……、モーラ、つらかったな)
(……つらい……?)
(そうさ。モーラ、君はこの近くの村に暮らしていたのか?)
(……村……)
(なんて村だい? 私は、すごく遠いところからやってきたんだ)
(……イーディス……)
(うん?)
(……村って何?)
(え?)
(……私の……、暮らした……、村?)
今度はイーディスが答えられなくなる番だった。まさかと思った。
(……私は……、たぶん……、ここで生まれた……)
ああ、なんてことだ。
(モーラ、モーラ……。すまない。私は……、そんなつもりじゃなかったんだ)
(……なぜ謝るの?)
モーラの声色は変わらなかった。相変わらず涼やかで、確かな重みを持っていて、優しい。
イーディスは前のめりになって、冷たい石の床に額をこすりつけた。
(いいんだ。モーラ、すまない……、私は……。そうだな。なぜ謝ったんだろうな)
(……思い出してきた。イーディス。あなたの声を聞いていて、思い出した……)
(なにを?)
(……わからない。私が思い出したことが、私のことなのか、あなたのことなのか……)
常人ならば理解し得なかっただろう。しかしイーディスは魔法使いだ。
(そうだね、モーラ。それは難しい)
と、イーディスは理解を示した。
(でも、モーラ、それを教えてくれないか。私なら、それがきみのことなのか、私のことなのか、わかるかもしれない)
ややあって、モーラは決意したようだった。
(そうする。だって、あなたとは話せた……。話せる人は、少ないから……)
少ない。ということは、他にもこうして心の中でやり取りできた相手がいるということだ。
だが、イーディスは質問するのをこらえた。今はモーラの話を聞くときだ。
モーラは記憶をたどった。
(私は……、小さな西からの風。山の上で生まれて、海を目指していた……)
きっとそれは彼女の記憶でもないだろう。しかしイーディスはそのまま聞き続けた。
(私はアオカケス……、私はハナムグリ……、私は……白樺の木……)
モーラは明らかに混乱している。それでもイーディスは彼女が話すままに任せた。
(私は、ミランダ商会の大きな船)
と言ったとき、イーディスの眉が持ち上がった。
(大勢の人を乗せている。南東から東北へ。……『火噴き山』の近くに止まって、彼らをおろした。……穏やかな波。彼らを隠すような月のない夜。最後の巨人が眠る岩……。小さな赤い髪の女の子。逞しい父親に背負われている……)
父は落ち窪んだ目の周りにいつも濃いクマを作って、日焼けした真っ黒な肌がまるで漁師か海賊のようだといわれていた。その容貌に違わず激しい人で、愛情も深く、その代わり憎むときが最も激しかった。
病の妻を助けなかった『知恵の里』を裏切って、若者を引き連れ、規律厳しい魔法使いの隠れ里に反抗するグループを作った。
本気じゃなかったはずだ。
ただ妻の死を悼んでいただけだった。彼なりの方法で。
激情は、大地を揺るがし、里の内乱を呼んだ。
イーディスは、急速に力を奪われていくような感覚に陥った。眠りに落ちる瞬間、ふっと脱力するように。
瞳の奥に、燃えるような赤い髪の女性が見える。赤は情熱。怒り。胸に秘める信念。イーディスはいつの間にか、母に会っていた。
「あの人を止めて。イーディス!」
紅をさした、髪と同じ赤い唇で懇願する。
「イーディス、お願いよ。あなたの父を止めて。あの人は、ただ悲しんでいるだけなの」
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