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水たまりの中の蜃気楼
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ほぼ例外なく一定の歳になると、この殺風景な空間に放り込まれる。そんな風習のような、規則のようなものがある。勝手に決められたことなのに、誰も異論を唱えないまま、いつしか規則は義務に変わった。
今までの居場所は…どんなに小さなことでさえキラキラと輝き、目に映るすべてがカラフルに彩られている世界だったのに、そんな魅力的な世界は瞬く間に変わってしまった。
たとえ泣こうが喚こうが、制限時間までは決められた場所にいなければならない。
それが唯一のルール。
ここでは、とりあえずそのルールさえ守っていれば良い。窓もドアも開閉自由で、特別厳しい行動制限もない。ただ、決められた時間が来るまでもんが閉ざされているだけだ。そう、そのもんが開かない限り、帰れない。ただ、それだけなのだ。
学校…みんなはこの場所をそう呼んでいる。
繰り返される平凡で退屈な時間の中を漂いながら、できるだけ平穏に過ごせる方法を見つけていくんだ。そしてボクもやっと、なんとなく無難に過ごせるようになってきたと思う。
改めてそんな事をぼーっと考えていた時、突然視界の端で何かが動いた気がして、窓の外へと視線を移す。そしてその正体を確認したボクは頬杖をついたまま、いつものようにしばらくその様子を観察する。
「本日はお早いお着きで。」
じっと影の動きを目で追いかけながら、微笑みを添えて皮肉の言葉を呟いた時、チャイムの音が鳴り響いた。その音と同時に、教室の中央辺りで今まで微動さえしなかった物体がガタっと勢いよく立ち上がる。
「よし。昼飯だー!」
見慣れた光景なのに、ボクはクスッと笑った。
「あんなに爆睡していたのに、なんで昼だってわかるんだか。」
「あー?天性の才能ってヤツ?」
呆れるボクにはお構いなしで、寝起きの悪魔は伸びをしながらそう言って、まだ眠そうに大きなあくびをした。
目覚めたばかりの悪魔を軽くあしらい、ボクはわずかな癒しの時間を堪能するべく席を立ち、屋上へと向かう。いつも通りのんびりと後ろを着いてくる彼はあくびをしながら問い掛けてくる。
「なぁ、俺の昼飯はー?」
「屋上にいるんじゃないのか?」
振り向きもせず言葉を返すボクに、
「ふーん。そっかぁ。」
と気のない言葉が返ってくる。
まだしっかり覚醒していない悪魔を相手に、どこかふわふわと下会話を交わしながら屋上に着くと、予想通りすでに侵入者が寛いでいた。
「よお。遅かったな。」
声のする方を見上げると、ひらひらと振られている手だけが見える。
屋上にある貯水子の上。そこは本来、ボクの特等席だった。この退屈な学校の中で希少な安息の地だと言っても過言ではないだろう。
初めは一人になれる場所を求めてここに来ていたのに、今となってはもれなくコイツらがついてくる。何でもないことのようだが、もちろんボクにとっては大問題である。
まず、ボクの大問題の原因となっている『コイツら』を簡単に紹介しておこう。
睡眠をこよなく愛している『悪魔』こと別名『羽月(はづき)』
いつだったか、教室で気持ち良くまどろみ始めていた彼に声を掛けた生徒が語るも恐ろしい目に遭ったという噂がある。目つきが鋭く、言葉遣いが荒いため『悪魔』という呼び名が定着したらしい。時々、悪意の込められたイタズラを受けるボクとしては、あながち間違った命名だとは言えない。とはいえ、学校に着くなり、速攻で爆睡する彼は常に教師から怒られる存在となっている。でも本当は、尊敬する兄の影響で興味を持ち、寝る間を惜しんで熱中するほどに機械いじりが好きな、素直で優しい機械バカだという事を補足しておこう。
もう一人は遅刻の常習犯である『侵入者』こと別名『穂積』
定期的に行われる全国共通試験で常に二位をキープしている頭脳明晰なヤツだ。でも、ボクが知っている限り、学校の授業をまともに受けたことは一度もない。だいたい昼休み頃に、羽月と自分のお弁当を持って登校してくる。どこか飄々としていて
「だいたいさぁ『立ち入り禁止』なんて表示してあると、ついつい入り込みたくなるよねぇ?」なんてことを涼やかな笑顔で語る問題児なのだ。ボクにしてみれば、自分の遅刻を正当化しているだけだとしか思えない。運動神経抜群で頭脳明晰、優しく気さくな人たらしは、いろんな意味で『侵入者』なのだ。
そして、ボクの名前は『雪華』
とりあえずボクのことは…
「まぁ、そのうちに。」
なんて言うと、きっと不機嫌な悪魔たちに迷いなく屋上から突き落とされそうなので、ごく簡単に。
小学五年生の頃、誰かの代理で参加させられたコンクールで偉業を成し遂げ『音の魔術師』と賞賛を受けたピアニスト。その時はそれなりに騒がれたけれど、周囲が羨む様な順風満帆な人生が長く続くわけがない。まぁ、何よりもボク自身がそんなことを望んでいなかったのだけれど…
その一年後、小学生最後のコンクールを目前にしたある日、ボクはちょっとした事故に巻き込まれ、すべてを諦める辛さを知った。
「午後の授業って何だっけ?」
一番授業に興味を持たない羽月が、あくびをしながら問う。
「オレはねー。化学。」
穂積は嬉しそうに答える。
得意分野のひとつだから楽しみなのだろう。そんな彼の姿を見て、いつもより早い登校の理由はそれか、とボクは一人で納得していた。
「ボクらは数学だよ。」
午後の授業を告げた後、しばしの無言の時が流れた。
「…じゃあオレは昼寝の時間だな。」
何故か偉そうに腕を組んで頷く様子を見て、穂積とボクは顔を見合わせて肩を竦めた。
「学校に来て、授業中ずっと爆睡するなんて外道だよなぁ。」
イヤミをたっぷり込めて穂積が言う。
「閉門してる時間にわざわざ門をよじ登って忍び込む方がよっぽど質が悪くね?」
負けじと羽月も言い返す。
どうでも良いような、くだらないことなのに、こうやってすぐにじゃれあい出すから困ったものだ。二人を見ていつも思うことだけど、なんだかまるで…
「どんぐりの、背くらべ…だな。」
「は?」
「今、なんて言ったのかなぁ?」
ため息混じりのボクの呟きに同時に反応するなんて、感心するほど気が合うようで。
その後、二人に追い詰められて逃げ場を失った時、昼休みの終わりを告げる音が聞こえた。
「あ、チャイムだ。」
いつもは無情だと思うチャイムの音に救われたボクはホッと胸をなで下ろした。
屋上のドアを開ける前に外していた眼鏡をポケットから取り出し掛け直す。
「さて、騒がしい世界に戻るか。…面倒くさいけどね。」
思わず零してしまった本音に苦笑しつつ、ドアノブに手を伸ばした。
教室に戻ると、予想に反せずまた騒がしい時間が動き始める。
学校という組織も、教室という閉鎖的世界も好きになれない。それどころか、すべてが跡形もなく壊れてしまえば良いと思うことの方が多い。
でも、実際に壊れそうになったとしたら、ボクはきっと必死に守ろうとするのだろうな。だってここは…ボクたちの大切な場所、だから。
最近、時々思うことがある。
もしかするとボクたちの出逢いは、幾重にも入り組んだ迷路を抜け、それぞれの夢の入口へ向かうための『鍵』だったのかもしれない…と。
First Signal 《 雪華 ・ 旋律 》
いつから始めたのかさえ忘れたけれど、気付いた時にはいつもピアノと一緒にいたと思う。留守がちな両親は子供のことなんて関心のない人たちだった。仕事が忙しいだけでなく、自分たちのやりたいことを優先したかっただけなのだ。気が付いた時ボクは、いつもピアノと一緒にいた。
練習だって誰かにやらされているのではなく、ピアノに誘われたり、鍵盤に触れたくなってずっと続けていた。ピアノを弾いている時間は、すべてを忘れるほど値中できる何よりも好きな時間だった。だから本当は小学五年の時に誰かの代理であろうと、ピアノコンクールに出場できたことも、予想以上の賞賛を受けたこともすごく嬉しかった。
その一年後、今度は代理ではなく実力で予選を勝ち抜き、コンクールに出場できることになった時、夢かと思う程に嬉しかった。
どうしても弾きたい曲があったボクは、出場が決まってからも日々ピアノと向き合い、何度も何度も練習を重ねた。
でも…コンクール当日『音の魔術師』はステージにその姿を現さなかった。
それは小学生最後の夏休み。
「…市内の交差点で、小学生が巻き込まれる事故がありました。原因は運転手の不注意によるものとして懸賞を行っております。尚、被害に遭った小学生は近くの病院に緊急搬送されましたが、命に別状はないとのことです。」
何故かボクはまどろみの中を彷徨い、意識がはっきりしない、まるで夢か現か判断できない状況の中、遠くの方で何かの事故状況を報告している声を聞いていた。
「では、次のニュースです。」
淡々と感情のない声で語られていく言葉たちは、どこか呪文のようにも聞こえてくる。途切れ途切れに届く言葉たちを繋ぎ合わせることすらできないボクは、おぼろげなまま重い瞼を一度も開けられず、再び意識を手放した。
どれほどの時間、眠っていたのだろうか。見慣れない部屋で目覚めたボクは、一体何が起こっているのか、どうすれば良いのか何もわからなかった。ただ、頭が異様に重く、体中が痛くてうまく動けない状態だということだけは一瞬で理解できた。
目覚めてからもずっとベッドから起き上がれない日々が続いていたある日、自分が病院にいるのだと知った。
何度も繰り返される面倒な検査が減り、少しずつだけれど、やっと体の痛みも落ち着いてきた頃、どこか緊迫感を纏った石が病室にやって来た。そして、順を追って明かされていくボクの疑問たち…
ああ、いつだったか、遠くの方で聞こえていた事故のニュースが語っていた小学生ってボクのことだったのか…
今から二ヶ月ほど前のコンクール当日、ボクは事故に巻き込まれてそのまま緊急入院することになったらしい。医師は『最善の処置を施したが…苦渋の決断の末、どうしても避けられなかった。』と告げ、何度も何度も深々と頭を下げた。
きっとボクが大人だったとしても、簡単に『そうですか。わかりました。』なんて言えないようなことを一体どう理解すれば良いのだろうか。
長い眠りから覚め、激痛に耐えることさえかなり辛い状況なのに、いきなり突きつけられたこの無情で残酷な事実を受け止めるには、ボクはまだあまりにも幼すぎた…のかもしれない。
夏によくあるスコールの後の濡れた路面を、走行中のバイクがスリップして横転した。それを避けるためにハンドルを切った対向車が、不運にも交差点の歩道に突っ込んできた。
ちょうどその歩道で信号待ちをしていたボクは、真横にあるビルのショーウインドウと車に挟まれてしまったのだ。
微かに甦る情景…
あの時、車が建物にぶつかった衝撃で強化ガラスが粉々に散り、けたたましく鳴り響くクラクションが聞こえていた。
事故を目撃した数名の中には、ボクが生きていることが奇跡のようだと証言する人もいたらしい。人通りの多い交差点だったため、かなりの人たちに影響したが、幸いにも死者は出なかった。皮肉にも、事故原因のひとつでもあるバイクの壊れた部品が飛ばされ、クッションに役割をしてくれたおかげで、なんとかボクも生き残っている。
正直なところ、ボクにとっては…よくある雨上がりのスリップ事故だったという報告だけで十分だった。
『誰が悪いわけでもない。』
いろんな思いを落ち着かせるためにも、その言葉だけで良かった。それなのに、そんな些細な願いさえ叶わず、数日後、滑って横転したバイクを避けるためにハンドルを切った車の運転書の危険行為…つまり、運転中に携帯電話の操作をしていて状況判断が遅れたことが事故の原因であったと警察が発表した。
そしてその報道後、ボクの病室を訪ねてくる人たちが増えた。
謝罪をさせて欲しいと毎日訪れる人もいるらしかったが、病院スタッフに頼んですべて断ってもらっている。
「謝罪?今更謝罪して、一体何が変わるんだよ。ボクには…そんなこと、どうでも良い…ことだ。関係ない…」
そう言ってボクは、そよ風に揺れる膨らみのないシャツの袖に視線を落とした。
病室にやって来た医師が申し訳なさを装い語っていた、最善の処置と苦渋の決断の末、どうしても避けられなかったこと…それを拒否することもできず、今も尚続く激痛と共に突きつけられた現実を受け入れなくてはならないなんて、こんなバカなことがあるのか?
事故に遭い…命は助かったものの、建物の散乱した強化ガラスの破片と車の強い衝突に巻き込まれて、切断しなければならない程の損傷を受けたボクは、意識のない間に片腕を失った。
腕を失ったと同時に、ボクは…息をするように自然にピアノを弾くことも、音色を奏でて魔法のような空想世界を描くことも、魅せることさえできなくなってしまったのだ。
「いっそ…」
目を閉じて左手で自分の右肩を掴む。
「いっそ、死んだほうが良かった…かもなぁ。なんて、な。は、ははは…」
ごく自然に笑おうとしたのに、笑うどころか一筋の涙が頬を伝って床に落ちた。その刹那、ボクの中で張り詰めていた感情の糸が切れ、次から次へと溢れてくる涙。それを止める術を知らないことに、今更気がついた。
さっさと眠ってしまいたい時に限って、消灯時間が過ぎても何故か眠くならない。普段以上に居心地の悪さを感じたボクは、そっと病室を抜け出した。
薄暗く、誰もいない
エントランス付近のベンチに座り、なんとなく目の前にある窓の外を眺めていた。今はただ、何も考えたくなくて…正直すべてがどうでも良かった。
「いつまで…ここにいなきゃならないんだろう。」
いつまでもこんな所にいたって何の意味もないはずだ。
「病院で過ごしてりゃ、腕が生えてくるってか?はっバカバカしい!」
早く、できるだけ早くにすべてを切り離していけば良いだけのことだ。ひとつずつ身近なことから諦めていけば良い。
やっぱり、ボクなんかが自分の感情のままに生きていくことなんて、求めるべきではなかった。ピアノと一緒に居られるだけで幸せだと思う程度でやめておけば良かったんだ。ちゃんと頭ではわかっているのに、ボクは…曲や奏者によって様々な表情を魅せてくれるピアノの音色にずっと惹かれ、いつしか共存することを望んでしまっていた。でも、もしかしたらその場所を居心地が良いと思っているのはボクの勝手な思い込みで…結局のところ、ボクの『住処』じゃなかったのかもしれない。
「はぁ…」
すべてが闇に包まれたような気分の中、深い溜息を吐いて天を仰いだ時、いきなり何かに顔を掴まれた。
「やっと、会えたぁ。」
「?」
間違いなく初見である目の前の少年は、まるで長年の待ち人に出逢えたような表情で、じっとボクを見つめている。正確に言えば背中合わせに置かれたベンチの上にいる少年は、逆さ向きにボクを見下ろしていることになるのだが。しかも、何故かボクは顔を掴まれたままだ。
「あの…」
しばしの静寂を破ったのはボクだった。
「何?」
少年は心なしか嬉しそうに返事をする。
「首、痛いんですけど?」
固定されている顔はそのままで、視線を外して溜め息混じりに軽く抗議してみた。
「ん?あ、ああ。うん。ごめん!」
初めて現状に気付いたらしく、少年は慌ててボクを解放してくれた。
「ごめん…わ、悪気はないんだ。オレ、ずっと会いたくて。だから、あの…えっと、えーっと。」
言葉がだんだん思いつかなくなったからなのか、困惑している少年をじっと見つめているボクのせいなのか定かではないけれど、明らかに態度が急変していく様子に思わずクスッと笑っていた。
「ホント、ごめんな。」
叱られた子供のように、ちょっとバツが悪そうな感じで言い、背中合わせのベンチにおとなしく座り直した。きっとボクよりも体格の良い少年がうなだれている姿は、かなり可愛いんだろうな。さながら大型犬みたいな感じなのかもしれない。想像してみると意外と楽しくて、また微笑んでいる自分に気づく。
病院で目覚めてから今日までずっと、いろんな辛さに耐えることだけを考えていたボクが、ほんの少しだったとしても数ヶ月ぶりにあったかい気持ちになれたのは、素直で真っ直ぐな心の、この少年のおかげだ。
「ねぇ。」
背中合わせのままで声をかけてみたが返事がない。
「んー?」
少し間があってから、間延びした、くぐもった声が聞こえた。
「…起きて、る?」
もしかしたら、起こしてしまったのかもしれない。
「ん?う…ん。起きて、るよ。」
その返事で少年が寝ていたことがわかったボクは、そのまま黙り込む。別に話がしたかったわけじゃなくて『ありがとう』を伝えたかっただけなんだ。そしてできれば『やっと会えた。』の意味を尋ねたかった。
静かになった周囲には自動販売機の低いモーター音が響いていて、ボクのすぐ後ろからは微かな規則正しい寝息が聞こえてくる。ボクはずっと眠くなかったはずなのに、少年の寝息に誘われていつの間にかウトウトしていた。
その時、廊下を歩く音がゆっくり近づいてきたことに気付き、ハッと息を呑む。
…止まったようだ。
まだ少し微睡んでいる意識の中で聞き耳を立てる。
「だから着いてくんなって言っただろーが。」
すぐ後ろで呆れ気味だけれど優しい声音が聞こえた。
「あー。にーちゃん。仕事、終わった?」
まだ完全に寝ぼけている少年に『にーちゃん』と呼ばれた人は苦笑したようだ。
「ああ。遅くなってごめんな。さ、帰ろうか。」
なんて心地の良い声なんだろう。
「うん。」
なんとなく見つかってはいけない気がしたボクは、咄嗟にその場で身を屈めた。
「!」
慌てて、急に無理な体勢をしたことで身体中に痛みが走る。今まで以上の激痛に声も出ないままボクは、ドサッと荷物が落ちるような音と共にベンチから崩れ落ちた。その鈍い音に気付いた『にーちゃん』は不思議そうに辺りを見渡して、床にうずくまるボクを見つけた。
「おい!大丈夫か!」
そう言って駆け寄ってくると、身体を支えてくれた。
「大、丈夫で…す。」
痛みに耐えながらもなんとか立ち上がって、静かに深呼吸を繰り返した。
「なぁ、おまえ。顔面蒼白だぞ。医者呼ぶか?主治医、誰だ?」
こんな問いかけ方をするってことは、病院関係者なのだろうか。だとしたらあまり関わりたくはない。
「大丈夫です。もう落ち着きましたから。お騒がせして、すみません。」
まだ続いている痛みに耐え、平静を装う。踵を返してさっさとその場を去ろうとしたボクに伸ばされた『にーちゃん』の手は届かず、空を切った。
「……」
ボクの右腕のシャツが不自然にふわりと揺れたのを見ても『にーちゃん』は少しも動じていないようだった。
たったこの数ヶ月だけでも、片腕がないことで不可解なモノを見るような目や怯えた表情、哀れみを含んだ表情をされた。きっとこれから先ずっと、こんな対応をされ続けるのだと思っていた。それなのに、ボクに向けられた言葉は受け入れるために覚悟をしなければならないような特別なものではなかった。
「ちょっとだけ待ってて。すぐ戻る。」
真剣な眼差しでそう言い残し、眠そうな弟を連れて『にーちゃん』はその場を離れた。
約束をしたわけじゃないけど、まだ病室に戻る気にもなれないボクは、そのまま得体の知れない『にーちゃん』を待つことにした。真っ暗な空間の中で静かに目を閉じ、わずかに聞こえる音たちにそっと耳を傾ける。
数分後、急ぎ足で『にーちゃん』が本当に戻ってきた。
「良かったぁ。待っててくれたぁ。」
ボクの姿を確認し、安堵の溜め息を吐いてその場にしゃがみこんだ矢先、まるで子供のような眩しくて無邪気な笑顔でボクを見上げる。
「忙しい人、ですね。」
その様子に呆れた苦笑するボク。
「おまえが落ち着きすぎてんだよ。」
と笑って言いながら立ち、両手を高く上げて伸びをする。
「じゃあ、改めて。俺は大地だ。よろしくな。」
自然な仕草で握手を求めて差し出された手を拒むことなく、何故か引き寄せられるように握ってしまった。そんなボクを見て『にーちゃん』…大地さんは満足しそうに目を細めて微笑んだ。
そう。彼は迷うことなく自身の左手を差し出していた。
「誰かに邪魔されるのはイヤだし、場所を変えようか。」
大地さんは目的地を告げずにゆったりと歩き出し、ボクはその後ろを黙って着いて行く。彼が不意に立ち止まり、どうぞと言われて通された部屋はまるで…物置化ゴミ箱みたいだった。
「あー、その辺り足元気をつけてな。」
言われた瞬間、床ではない微妙に柔らかい物を踏んでしまった。
「何か…踏んだかも、知れないです。」
「はは。よくあることだからー。」
慣れているという理由だけで良いのか不安だけれど、彼は楽しそうにカラカラと笑っている。楽しみながら部屋の奥へと進んでいく姿は、さながら勇敢な冒険者に見えなくもない…かな。
「おっ!一番片付いている場所発見!」
一応、探してくれていたのか。
「はぁ…これで?一番片付いているんですね。」
病院内にこんなにも荒れ果てた場所があって良いのか、愚問ではあるが…
「ま、適当に座って。」
ニコニコしながら言う大地さんにわざと聞こえるように深い溜め息をついた。
「コーヒー淹れるけど、飲めるか?」
マイペースな彼の急な提案に返事をするタイミングを逃したボクは、ただ無言で頷くしかできなかった。それでも彼は優しく微笑んでくれる。今まで出会ったことのない、不思議な雰囲気を持つ人だなぁと思いながら見ていると『ほい』とカップを手渡された。
「あ、ありがとう、ございます。」
「ん。」
少し戸惑いながらお礼を伝えるボクに、また優しい微笑みを返してくれる。
コーヒーブレイク中の無言の時間を心地良く感じながらも少し緊張している、そんな微妙な感情に気づいたのか、彼はちょっと大人びた落ち着きのある柔らかな笑みを口元に添え、でも…真剣な眼差しでボクをじっと見ている。
「さて、本題に入ろうか。」
コトンッと静かにカップを置き、彼はゆっくりと話し始めた。
「実は、今日がはじめまして…じゃないんだ。まぁ出会いと呼ぶにはかなり一方的なものだが、一年半くらい前に俺と弟はキミを初めて見た。」
一年半前…今となっては正直、その頃のことを思い出すのは辛いけれど、イヤな思い出ではない。偶然だったとしても、ボクが初めて大勢の前で曲を奏で、予想以上の賞賛を贈ってもらえた日だから。
「もしか、して…コンクールに、来てくださっていた、の…ですか?」
なんだか胸が締め付けられるように息苦しい。ボクはそれを解くようにゆっくり、静かに深く息を吸い込み、もっとゆっくりと息を吐き出してみる。
「どうせなら、ちゃんと客席に座って満喫したいって思うくらい、心に響いてきた。」
何度か深呼吸を繰り返して、やっと息苦しさから解放され始めた。
「客席意外って、一体どこで聴いていたのですか?」
少し落ち着いてきたボクは彼に問い掛ける。
「んー?ステージ真正面の特等席、かな。」
彼はいたずらっ子みたいなやんちゃな笑顔で得意げに答える。
「え?」
理解できないボクはきっと不可解な表情をしているだろうな。
「ははは。あの音楽ホール良いよな。古いけど基盤がしっかりしているし、何よりも設計が正確なんだよ。こう見えて俺、何度も修理に行ってるから。ステージの真正面、マジックミラーの奥には音響室があって、そのままハシゴで二階に上がれば証明調節もできる。コンクールの日、俺と弟は設備調整の依頼を受けてあのホールに居たってわけだ。」
ボクの演奏を聴いてくれただけでも嬉しいのに、心に響いたって言ってくれた。飾らない素直な言葉が余計に嬉しかった。
「あの…ありがとう、ございます。」
どうしてもお礼を伝えたくなったけれど、なんだか照れくさくて、ボクは小さな声で呟くように言った。
「うん?」
聞き返されたボクは少し焦って言葉を探した。
「ボク…あのコンクールが初めてのステージだったんです。すごく緊張していたし、間違えずに弾かなきゃって思ってたくさん練習しました。でも、ステージに上がったらそんなことどうでも良くなって…気が付いたら、ただピアノに誘われるまま奏でていました。だけど、本当に楽しい時間でした。」
話しながらボクは、その時のことをはっきりと思い出していた。
「音の魔術師、だもんな。」
「そんなことまで…知っているんですね。」
ボクは気恥ずかしさを感じながら言った。
「謙遜しなくて良いだろう?それまでクラッシクなんて無縁だった機械バカな弟が、ひたすらキミの曲を聴き始めたんだ。音の魔術師で合ってんだろ。まぁ、俺も一目惚れしたんだけどな。だからあの時、正当な修理代とちょっとした追加報酬として曲のデータを貰い受けたんだ。」
不敵な笑みで得意げに言われても…本当にそれは正当な請求なのだろうか?
「でも、あの…追加報酬って?」
修理や調整以外に何かをしたということなのだろうか?
「まぁ細かいことは良いとして。もう、半年前になるんだな。」
彼が遠くの方に視線を移したその刹那、表情から笑みを消し、低く落ち着いた声で話を続ける。
「あの日、俺たちはおまえとの再会のために会場へと向かっていたんだ。その途中、反対側の交差点で事故が起こった。巻き込まれた小学生がおまえだと知ったのは少し後だったけれど…俺たちは例えようがない程の大きなショックを受けた。それからずっと、俺たちに出来ることはないのかと考えていた。きっと何かひとつくらいあるはずだと信じて…」
話しながらずっと苦しそうで、何かに耐えているように見えたボクは疑問を投げかけてみる。
「どうして、そんなになんとかしたいと思ったのですか?面識があるわけでもないのに。貴方たちには関係ないことでしょう?」
自分でもどうしてこんなに落ち着いていられるのか不思議なくらい、淡々と言葉が出てきた。
「いや…」
少し俯いたまま、彼はゆっくり首を左右に振った。
「確かに…事故を起こしたのは俺じゃない。だが、間接的な原因にはなるんだろうな。」
そう言って彼は深い溜め息を吐く。
「間接的な、原因って?」
「俺、時間的に余裕のある時は親父の仕事も手伝っていたこともあって。あ、親父は車とかバイクとか…まぁ、依頼があれば機械全般の修理を担っているんだ。」
たぶんボクは話を聞きながら困惑した表情をしていたのだろう。彼は苦笑しつつ、町の修理屋さんみたいな感じだと付け足してくれた。
「あの時に事故ったバイク…最終整備をしたのは俺なんだ。ブレーキ部分と車体の体感修正を依頼されていたのに…確認が甘かったのかもしれない。」
そんなの、単なる思い込みでしかない。きっと目の前で自分の行動を後悔している彼は、精密な修正と完璧な修理を施し、何度も確認しているはずだ。彼と少しでも関わりのある人なら誰だってわかるはずだ。
こんなにも誰かを大切に思い、優しい眼差しをする人なのだから…
「雨の日は…よく滑りますよね。」
今、ボクはちゃんと笑えているだろうか…
「は?」
彼は弾かれるように顔を上げ、不思議そうにボクを見つめている。
「車もバイクも、自転車も三輪車も。ふふふ…」
話していてなんだか少しずつ楽しくなってきたボクは、壁の少し上の方に位置する窓から外の景色を眺める。
「歩いているだけでも…そう、何もなくったって転ぶことだってある。いっそ何が起こっても不思議じゃない。」
起こってしまったことは取り消せないからこそ、ボクはこの現状を受け止め、どんなに時間がかかっても、受け入れていかなければならないんだ。そのために必要最低限のケジメは既につけたつもりだ。
「大地さん。」
「うん?」
ボクは目を閉じて頭を下げる
「ありがとうございます。」
きっと、それがボクの素直な気持ちだ。
「…イヤミ?」
訝しげに見つめる彼に対して微笑む。
「本心です。ボクがこうして生きていられるのは、バイクの部品がクッションになってくれたから、なんですよ。」
もし、本当に彼の修理がいい加減なものだったとしたら、バイクの部品だって大破していただろう。でも、そんなことにはなっていない。彼の後悔を打ち消す理由としてはそれで十分のはずだ。
「そんな…」
ボクの言葉を聞いて驚いているということは、こんなにも大切な事実を知らなかったということだ。
「貴方が謝る必要なんて何もないんです。それに、そもそも事故なんですから。」
「……」
ボクはそっと口角を上げ、自分の心に語りかけるように言葉を紡ぐ。
「あれは、夏の一時的な激しい雨の、イタズラ…だったんですよ。きっと…」
彼は目を閉じたままボクの声を聞いている。話し終わり、だんだんと部屋に静けさが漂い始めた頃、彼は一度だけ深呼吸をしてしばらく動かなくなってしまった。
しばらくして、少し落ち着いてきた彼は、机の上に放り出されているタバコに手を伸ばす。
「病院って禁煙なんじゃ、ないんですか?」
思わず言ってしまったが、彼は気にした様子もなく苦笑しながらも慣れた手つきでタバコに火をつける。
「んー。正確に言うと、ここは病院の敷地ではないんだよな。」
当然許可はとってあるが、特殊な実験や研究、開発を行っているため、病院の地下を介してこの別館施設へと移動できるそうだ。
「大地さんはここで何をしているのですか?」
ごく素朴な疑問を投げたつもりが、ふと彼に視線を移した時、なんだか罠に掛かってしまったような錯覚を感じた。
「知りたい?教えてやっても良いけど、全面的にオレに協力することが条件だって言ったら、どうする?」
緩やかに紫煙を燻らせながら、怪しげに微笑む姿に肌が粟立つ。
真面目で優しいのか、狂気じみて危険なのか…よくわからない人だ。
「協力する気はないです。」
ボクが冷静に即答するなんて彼は予想していなかったらしく、かなり慌てた様子だった。
「マジか!」
と、今までの余裕は一体どこへ行ったのか不思議なくらいの変わりようだ。でも一瞬の沈黙の後、彼はまだ吸いかけのタバコを灰皿にギュッと押し付け、まっすぐにボクを見た。
「ちょっと付き合え。」
彼が壁のボタンを押すと、床の一部がスライドし地下へと続く階段が現れた。促されるままに地下に向かって降りていく。
「付き合えと言ったのは、ボクに…この場所を教えたかったからですか?」
階段を降りきったボクは、まるで影を縫い付けられたのかと思う程、急にその場から動けなくなった。
「ん。まあな。」
簡潔にそう答えた彼は、興味深げにボクを見つめる。
立ち尽くした状態で部屋の中をゆっくりと眺めることしか、できなかった。制作途中の何かの設計図や部品、工具類。大型パソコンと数代のモニター。医療というよりは実験室か作業室みたいな景色に圧倒され、ボクは言葉を失った。
「ここは俺の研究開発室だ。今後、おまえの為に活用したいと思っている。それには当然だが、何よりもおまえの協力が必要となる。」
ボクの、ため?この研究室をこんなボクなんかの為に活用するって?
「一体、どうしてそんなことを…」
見慣れない物ばかりがあるからだろうか。彼の言葉すら少しずつ不透明になっていって、理解できなくなっていく…
「俺は、おまえの奏でるピアノをこれからもずっと聴きたい。俺だけじゃない。弟も…そしておまえの音を賞賛した奴らもきっと、そう思っているはずだ。特に弟は強く願っている。だからこそ、ずっと一緒に探していたんだ。」
ああ、そうか。だからボクを見つけた時の言葉が『やっと会えた。』だったのか。
「本当にもう弾かないのか?」
ちゃんと聞こえているはずの言葉なのに、ボクは一瞬何を問われているのかわからなくなった。
「もう…弾かない?弾かない、だって?」
ボクがどんなに弾きたいと強く願っても、情熱的にピアノが誘ってくれたとしても、二度とピアノを奏でることはできない。
そう…もう、弾けないんだ。
「弾かない、理由を教えてやるよ。」
感情のない声でそう言ってボクは、シャツのボタンを外し始めた。少しは慣れてきたといっても、簡単な動作でさえまだ指先が震えてぎこちない。時間をかけながらボタンを外していくボクの姿を、彼は無言でじっと見つめている。
やっとの思いで最後のボタンを外し、無機質な乾いた音と共にシャツを床に落とした。
「これでも…これを見ても、弾かないのかって聞くんですか?」
これは一体、何の仕打ちなのだろうか…
「そうか…」
彼は大股でボクに近づき、注意深く観察を始めた。
「…うん。そうか。ああ、そうだよな。うん、なるほど…」
一人でウロウロしながら、熱病に罹ったかのように何かを呟いている。
「少しは動かせるのか?まったくコントロールできない感じではなさそうだな…」
二の腕の半分ほどの位置までしかない腕を自由に動かせると思っているのだろうか?
「何を、言って…?」
やりたくもないリハビリを続けて、やっとわずかに動くだけで偉そうに動かせるなんて言えるレベルじゃない。ボクにとってはまったく動かないのと同じだ。
「ピアノ、弾く前に…まずは日常生活なんじゃないかと、思いますけどね。」
ボクの言葉なんて彼には届いていないようで、何度もボクの右腕を興味深く、真剣な眼差しで見つめている。
「なぁ…」
彼は見上げるような形でボクに問いかけてきた。
「何、ですか?」
次に投げられる言葉が怖くて、つい身構えてしまうボクの鼓動がだんだん速くなってくる。
「俺に、掛けてみないか?」
この上なく真剣な表情なのに、言っていることがいい加減すぎて返答に困ってしまった。
「はぁ?」
なんとも間の抜けた返事をしてしまったボクに対して彼は言葉を続ける。
「やっぱり俺は、これからもおまえのピアノが聴きたいからさ。」
そう言いながら彼は床に落ちているシャツを拾い、そっとボクの肩に掛けてくれた。
ボクのピアノを聞きたいと思ってもらえることは、何よりも嬉しいことだけれど…こんな腕で演奏なんてできるわけがない。それこそ本当に奇跡が起こらない限り、不可能だろう。
「考える時間が必要なら、これ、渡しておくわ。」
無理矢理渡された名刺には『義肢装具士』と記されていた。
「義肢、装具士…」
静かに呟いたボクは視線を感じて彼の方を見た。
「おまえの考えが決まったら、今後のことを相談していこう。義手のこと、それなりに詳しく調べてんだろう?」
黙ったまま…だけど深く頷いたボクを見て、彼は満足そうに笑った。
「ボク、部屋に戻ります。」
これ以上ここにいると、なんだか心の奥までも見透かされてしまいそうだと感じたボクは、そう告げた。
「そうか。じゃあ…」
不意に手を出され、何かを催促されていることはわかるのだけれど…
「俺には、連絡先教えねぇの?」
なんだこの、悪ガキみたいな態度は。
「名刺なんて持ってないです。」
冷たく言い切ると彼はわざとらしく肩を竦めて考えるふりをした。そして何かを思い出したかのような仕草で引き出しをから一枚の髪を取り出し、ボクに渡してきた。
「訪問者、記録票?」
訝しげな態度のボクに向かって、ニッとわざとらしい笑顔を見せる。
「地下研究所へようこそ!」
正直、そんな貼り付けた笑顔で招かれた覚えはない。ボクは深い深い溜め息を吐き、受け取った紙の裏に歪な文字で名前と携帯番号を書いて彼に押し返した。
「確かに。」
彼は汚い文字の並んだ髪を両手で持ち、大切そうにじっと見つめていた。
「じゃあ、ボク帰ります。おやすみなさい、です。」
今度こそ、ここを出て行く決心でそう伝えた。
「部屋まで送る。」
嬉しそうに言って、手にしたタバコをテーブルに放り投げた。
「遠慮します。」
ボクがはっきり断ると、案の定彼は誰が見ても不服そうな顔をした。
「なんでだよ。」
そう言っている姿はまるで拗ねた子供でしかない。
きっと分類すれば『大人』の枠に入るはずなのに、と思いながらも特に理由のないボクは言葉を濁す。
「別に…」
困っているボクを見て少し満足したのか、彼はクスリと笑った。
「…じゃ、せめて地上までは送るわ。」
傍から聞けばおかしな申し出に違いない。だけど、確かに少し不安なので地上までは送ってもらうことにした。
「そう、ですね。じゃあ、お願いします。」
ボクの返事を聞いて、勝ち誇ったような不敵な笑みを浮かべた彼には気付かず、一緒に部屋を出た。
その後、一緒に出てきた彼はしれっとした顔で、結局ボクの病室まで着いて来た。
「うん。無事に送り届けられて良かった。」
到着するなり満足そうに笑う彼の姿を見て、ついつられて笑ってしまった。
「ありがとうございました。」
自然な流れで軽く会釈をしてお礼を言うボクの姿を見ていた彼は、クスッと笑う。
「いえいえ。ゆっくり休めよな。」
「はい。」
マイペースで行動を予測しにくい彼だけど、さすがに病室に入ろうとはせず、その場で踵を返して来た道を歩き出す。ボクは、慌ててその背中に声を掛けた。
「大地さん!あの、ボク…ちゃんと向き合って、考えてみます。」
ボクの言葉が届いたようで、ピタリと歩みが止まった。
「おー。いつまでも待ってるよ。セツ。」
振り返った大地さんは、今までで一番穏やかで、優しく包み込むような笑顔をしていた。
遠ざかっていく背中を、ボクはしばらく見つめていた。そして本当はずっとずっと前から決心したかったことを声に出してみる。
「貴方に、賭けてみても良いですよ。ボクの、すべてを…」
誰もいない場所で静かに呟いてみた。
もし、ボクの本音を、本当は今すぐにでも貴方に伝えたかったんだと言ったら、驚きますか?それとも想定内のことなのでしょうか?どちらにしても、ズルい人ですよね。いろんな理由をつけて諦めようとして必死になっていたボクにあんな言葉をくれるなんて…
『これからもお前のピアノが聴きたい。』
たった一言でどんなにボクの心が癒されたのか…
ちゃんと、わかって…いるんですか?
彼の背中が見えなくなって、しんっと静まり返った廊下を後にし、ボクは病室のドアをゆっくり閉めた。
「今、俺にできることは、おまえからの連絡を待つ…しかないんだよなぁ。」
大地な不安そうな表情で苦笑しつつ、さっき受け取った大切なメモを入れた胸ポケットにそっと手を当てて願う。
歪な文字だけれど、丁寧に頑張って書いてくれた文字。名前と携帯番号、それから…
Play again… by,Setsuka
のメッセージ。
「雪華のピアノ、早く聴きたいな。」
この願いはこれからもずっと消えない。絶対に、消したりしない。
一週間後、一応無事に再会を果たしたボクたちは、それぞれの強い思いを胸に抱き、果てしない夢への挑戦を始めた。
大地さんは研究室にいることが多いため、半ば強制的に許可を取り、勝手に住み着いているらしく、ある程度快適な生活ができるスペースが確保されている。義手をつける事で発生する痛みや不具合、身体の変化などを観察し調整していく必要があるため、数週間を研究室で暮らしてもらいたいと言われた。
専門的知識を持った医師や技術者の協力が必要だという理由で、大地さんは信頼している悪友を数名招いて彼の求める医療チームを発足すると、病院側への説明や面倒な手続きもすべて済ませてくれた。あっという間にボクは何の問題もなく、外出許可をもらえたということになる。各地から招集されたチームメンバーの初顔合わせの時、軽く挨拶を交わした後すぐに義手の種類と用途についての説明が行われ、今後の治療計画とリハビリの進行についての話し合いも始まった。
「まずは感覚を取り戻していくこと、重さに慣れていくことから始めようと思う。」
簡単な説明を受けたボクは『装飾用義手』を取り付けてもらう。考えていたよりも重く、半日ほど装着しているだけで肩こりやしびれが出てきた。初めのうち、ボクは苦痛がバレないようにできるだけ表情を隠していた。だけど大地さんを筆頭にメンバーそれぞれが気付いてくれて、さりげなくサポートされていくうち、不器用ながらもボクなりに彼らを信頼するようになっていった。
「ほい、セツ。少し休憩しようか。」
大地さんはひんやりと冷たいタオルをボクに手渡してくれた。
「はい。ありがとうございます。」
優しい微笑みを残して、彼は淹れたてもコーヒーをメンバーたちに手渡していく。その一瞬のやり取りの後、みんなに笑顔が咲いていく。
やっぱり不思議な人だなぁと思いながらその様子を眺めていると、ボクの目の前にもカップが差し出された。
「お疲れさん。」
深みのあるコーヒーの香りがふわりと漂い、気持ちが落ち着いていく。
「ありがとうございます。」
そういえば…コーヒーを飲み始めたのっていつからだったっけ?そんなどうでも良いことを考えていると、大地さんがじっとボクを見て、声を掛けてきた。
「セツ。そろそろ、次の段階に移ろうと思うんだが…」
どこか歯切れの悪い言い方に不安を感じながらも聞いてみた。
「次、ですか?」
初めて装着した義手は『装飾用義手』といい、外観重視なので手先の開閉機能さえ備わっていない。大地さんが言っていた通り、重さに慣れるためには最適な義手で、実際に少しづつ慣れてきたと思う。でも、ボクは義手を着けることで生じる実際の重さよりも、それ以上に重要な問題に向き合っていた。殆どの人たちができて当たり前だと認識していることを失ってしまったこと。そしてそのある種間違った認識は、失わなければ本来の意味や大切さに気付ないこと。
そんな人間の愚かさのような常識や感情を日々、痛感していた。
「これは、能動義手といって、手先の開閉や肘の曲げ伸ばしができる。通常の動作がほとんど可能になるんだ。」
僕の腕を丁寧に付け替えながら説明してくれる。
「あの…通常の動作って…」
大地さんはボクが聞きたいことに気付いたようで、少し困った表情を浮かべている。
「焦らなくても大丈夫だ。この義手が使いこなせるようになったら、作業用義手に替えるから。セツ、痛みはないか?」
いつもなら安心できる微笑みを向けられても、胸がギュッと締め付けられる思いが残る。
「はい。大丈夫です。」
なんとか笑顔で返事をしたけれど、やっぱりピアノを弾けるようになるのはまだまだ先になりそうだな…と思うとちょっと気分が下がってしまう。
「セツ。まだ始まったばかりなんだ。ゆっくりいこう。」
元気づけるように言葉を掛けられ、ボクはそっと目を閉じた。
「そう、ですね。」
軽く息を吐き、そう言った。
「とりあえずは、その義手に変更して一週間ほど様子を見る予定だ。」
計画していた予定よりも順調にリハビリが進んでいるから、このまま大きな不具合や問題がなければ、今年中にピアノを弾けるだろうと大地さんは告げた時、じんわりと心の真ん中があったかくなるのを感じた、気がする。
ボク、やっぱりピアノが好きだ。こんな状況でも素直にそう思えることが幸せだった。
そして、能動義手を装着するようになって一週間ほどが過ぎた。
慣れるまでは悪戦苦闘の日々だったが、義手の動きもだんだんと自然になってきた。袖の長いシャツなどを着ていれば接続部分が隠れるから、人体の腕と変わらないかもしれない。
「なあセツ。明日、出かけようか。」
突然の思いつきの提案は今に始まったことではない。
「どこへ?」
それなりの付き合いになってきたボクが大地さんに疑いの眼差しを向けると、何故か彼は嬉しそうに手招きをした。他の誰が見ても、明らかに何か良からぬことを企んでいるような怪しい笑みを浮かべている。
必要以上に警戒してボクが近寄らないとわかった途端、大地さんはそっと距離を縮めてきた。怪しげな雰囲気を纏い、そっと耳元で『ヒミツ』と囁かれ、その行動に呆れるよりも嫌悪感が勝ってしまったボクは…渾身の一撃をプレゼントしてしまった。
「あ…ごめん、なさい…です。」
「…ッ」
予測していなかったボクの行動。その痛みに耐えている彼に謝罪の言葉は届かず、儚く消えてしまった…かもしれない。
「大地さん。本当に、ごめんなさい…」
まだ動けずにいる彼にもう一度、誤った。
「おはよー。お、大地。今日はいつもよりカッコいいなぁ。」
お昼過ぎだというのに、大幅な遅刻を気にするでもなく時間にルーズなボクの担当医が楽しそうに笑いながら、目の前にいる大地さんの頭を豪快に撫でた。
「うるさいっ」
この不機嫌の原因は他でもない、このボクだ。
遠目だったとしても、事の一部始終を見ていた他のスタッフがドクターに成り行きを説明した直後、案の定大爆笑され、大地さんの不機嫌メーターが上がる。当然のことながらボクの居心地が悪くなっていく…
「大地さん、大丈夫ですか?ホント…ごめんなさい。」
頭を下げて素直に謝るボクに、苦笑しながら静かに首を横に振ってくれる。
「いや。俺が悪かった…」
まだそっぽを向いたまま呟く大地さんは、少し拗ねた様子で腫れた左頬を冷やしている。
「でも、まぁ。咄嗟に右手が動くようになったんなら上出来、かもな。」
やっと視線を合わせてくれたと思ったら、さっきまでの拗ねた表情は跡形もなく消え、いつもの見慣れた不敵な笑みに変わっていた。
「あ…」
もしかして…わざとだったのかと真意を聞きたくても、きっと彼はうまくはぐらかして教えてくれはしないんだろうな。
「明日9時頃、迎えに来るから。」
いつの間にか大地さんにとって、一日の終わりにボクを病室まで送り届けることが日課になってしまったようだ。
「わかりました。」
施設から病室までの道のり、白衣のポケットに手を突っ込んだままゆっくりと歩いている彼の少し後ろを歩くボクは、この時間が気に入っている。
特別に何かがあるわけではないけれど、気持ちが落ち着いていくような不思議な感覚に包まれていられるから、好きだ。
「今日もお疲れさん。おやすみー。」
病室の前で交わす挨拶。たとえありきたりな言葉でも、好意的な相手に言われるとなんだか嬉しいものだと知った。
「おやすみなさい。」
次の日、約束した時間の5分前に病室のドアがノックされる。すでに出かける準備ができているボクは静かにドアを開けて、軽く挨拶を交わした。
「じゃ、行こうか。」
「はい。」
病院から車で1時間くらい走っただろうか。
市街地から少し離れただけで、目の前に広がる見たことのない景色はどこか知らない世界に迷い込んだ気分にしてくれる。
あまり車の通らない道路の両脇に、規則正しく並んでいる街灯と街路樹が視界の中をゆっくりと流れていく…
「到着っと。」
古い外国の童話に出てきそうな風景の中、緑の木々たちに守られているような感じで二階建ての洋館が存在していた。
「ここ、は?」
どこにも人の気配がしない。
「俺が小さい頃に時々滞在していた家。」
小さい頃…ということは、今は使われていないのだろうか。
「大地さんの…」
いつも以上に穏やかな微笑みを浮かべている大地さんが、気持ちよさそうに深呼吸した時、彼の携帯が鳴った。
「うん。ああ。急に言い出して悪かったな。うん、助かったよ。」
盗み聞きしている感じになるのがイヤで、ボクは不自然に思われない所作で少しだけ離れてみる。
「そのうちにな。うん、ありがとう。ああ、また連絡する。」
電話を切った後、大地さんは慣れた手つきで家の鍵を開ける。
玄関を入ってすぐ目の前に広めの階段がある。分かれている廊下の先は、右がリビングで左が客室だと説明してくれた。2回は家族がそれぞれ使っていた部屋があるらしい。日常の生活感がないのは、元々長期休暇などで時々滞在するような場所だからだろうな、と苦笑された。
「最近、使ってなかったしな。」
急遽、掃除と簡単な修繕を依頼したのだと付け足した。
「気になるところは好きに見て回って良いけど、とりあえず休憩しようか。」
そう言って客室のドアを開けてくれる。
「どうぞ。」
入口に立って部屋に入るよう促す大地さんの傍を通る。
「お邪魔しま、す…」
部屋に入ってすぐに動かなくなったボクを心配したのか、大地さんは横からそっと顔を覗き込んできた。
「どうしたぁ?」
すぐに返答できず、ボクは息を呑む…
「いやがらせ、ですか?」
出会った頃の彼のように尋ねてみた。
「まさか。」
微笑みながら優しい声で言われ、そっと背中に手を添えられた。その手に従うように、微かに震えている足でゆっくりゆっくりと歩いていく。
ボクは、大地さんの陽だまりのようなぬくもりを感じながら、ただ歩いた。
「紹介しよう。俺の旧友だ。」
大地さんはとても優しくて懐かしさの込められた眼差しで見つめている。
「え…?」
深く慈しむようにそっと手を伸ばす。
「この子は、俺が初めて弾いたピアノなんだよ。」
そう言いながら蓋を開き鍵盤を叩くと、軽やかで澄んだ音が響いた。
「何か弾いてみるか?」
何気なく言われた言葉にドキッとした。
「でも…」
ボクは無意識にそっと右手に触れていた。
「セツ。俺たちはおまえに作業用義手が演奏に向いていると説明したよな?確かに特殊な動きを求められる時、特化した本領を発揮できるから向いていることは事実だ。」
もちろん、ちゃんとわかっている。
「それじゃあ、やっぱり…まだ…」
まだ弾けないんだと、ピアノから視線を外してほんの一瞬落ち込んだ表情をしたボクは、不意に肩を押された反動でスツールに座ってしまった。
「無理強いする気なんてない。セツが弾きたいと思ったら、弾けば良いんだ。」
頭にポンッと手を置いて優しく笑った大地さんは、ボクの隣を通り抜けて壁際にあるソファーに身を沈めた。
「大地さんは、もう弾かないんですか?」
さっき、初めて弾いたピアノだと行っていたことを思い出し、尋ねてみる。
「うん。弾かない。」
笑顔で即答できるほどに、自分の中で片付いてしまった思いなのだろうか。所詮ボクには無理な話だけれど…少なくとも現状では『弾かない』なんて言えそうにない。
「そう、ですか。」
戸惑いながら返事をするボクの表情はきっと強張っているんだろうな。
「セツのピアノ聴きたいから、俺はずっと待ってるよ。」
向けられた笑顔に鼓動が跳ねる。
この人は自分の笑顔が持つ破壊力を理解していないんだ。
人の表情というのは影響力がある、とボクは思っている。少しでも好意のある人だった場合、尚更だと最近よく思っている。確信なんて何もないけれど、大地さんの笑顔は何か驚異的な力を含んでいるような気がする。願いや祈りのような…もしくは呪いの、ような?まぁ、良くも悪くも強い影響力があることだけは断言できる。
「あ。」
束の間の静寂を破ったのは大地さんの一言だった。
「俺、リクエストしていいか?」
寝転んでいたソファーから軽やかに身体を起こし、タバコをくわえる。
「は?」
無理強いしないと仰っていたのはどちら様でしょうか?
「ショパンの曲が良いなぁ。」
タバコの煙をゆっくりと吸い込んで、感慨深げに遠くを眺めている彼を見て、ボクは呆れるような溜め息を吐く。
「寝てください。」
呆れた口調で行ったことが気に障ったのか、少し不貞腐れたような表情をしている。
「なんで?」
理解できない感じの彼に、仕方なくボクは言葉を続けた。
「寝言は、寝てる時にしてください。」
彼は何も言わずに、顔を背けたボクを見ている。
「寝言?…ああ、そういう意味か。なるほど、寝言、ねぇ。」
面白くもないのに、彼は何かを納得した様子でいきなりクスクスと笑い出す。
「もう!いつまでも笑わないでください!」
楽しそうに笑っている姿を見ていると、なんだかだんだんと気恥ずかしくなってきた。
「いきなりリクエストなんて言ったから驚いたんだろうけど、冗談で言ったとは思われたくないな。」
今まで子供みたいに笑っていたくせに、そうやって急に大人びた口調になるのってかなり卑怯だと思う。でも、ボクは結局謝ってしまうんだ。
「…ごめんなさい。」
冗談だなんて思っていない。だからこそ、上手く返事ができなかっただけなんだ。
「セツは素直で良いなぁ。」
彼は目を細めて、満足げに微笑んでいる。
それから数時間は、家の中や周囲を案内してもらい、他愛のない話をした。そして大地さんは客室にボクを残して密かに用意してくれていた材料で軽食を作り、食後に特性のコーヒーまで淹れてくれた。
「今日はありがとうございます。」
ひと仕事を終え、ソファーでくつろいでいる大地さんにお礼を伝えると、日向ぼっこしているネコみたいに気持ちよさそうに全身で大きな伸びをしながら静かに目を閉じる。
「んー。セツのおかげで久しぶりにのんびりできた…」
後に続く言葉があったのかはわからないけれど、疲れている彼は自然に眠りへと誘われ、そのまま夢の世界に向かったようだ。ボクは傍にあったブランケットをそっと彼に掛け、向かいのソファーに座った。
穏やかに気持ち良く寝息をたてている姿をしばらく眺めていたボクはふと、誰かに呼ばれた気がして振り向いた。ゆっくりと周囲を見渡してみる。そして流れに任せて…もちろん、他に誰もいないということを理解した上で、ある場所をじっと見つめる。
自分がどうしたいのか、イヤになるほどわかっているのに動けない。動けない理由は…怖いから、だ。
ボクは座っていたソファーから立ち上がり、目を閉じて深く息を吸い込み、静かに吐き出した。いつの頃からか演奏する前の大切な儀式のようになったその一連の動作をすると何故か心が和むようになった。それでもまだ微かに震える右手を押さえながら、そっとピアノに近づいてみる。
「一曲、一緒に…いかがですか?」
そんな誘いの意味を込めて恭しく例をした後、手を差し出す。ボクの声が届いたのか、なんとなくピアノが微笑み、ぼくの手をとってくれたような気がした。
普段よりも速い鼓動を落ち着けるために、何度も深呼吸を繰り返して目を閉じる。そして…何も考えず鍵盤にそっと触れてみた。
懐かしくて、心地の良い音色が静かな部屋に…ボクの心に響いた。
ショパンの有名な練習曲のひとつ『エチュード/別れの曲』を弾く。もちろん楽譜を見なくても指が覚えているくらい練習した曲だ。目を閉じて奏でる音を感じていると、心に絡まった不安の糸が解けていくのがわかった。
またピアノを弾けるようになるなんて夢のようだ。だけどもし、この時間が決して覚めない夢だったとしても構わない。このまま永遠に覚めない夢であっても、ボクはこの夢を見続けていたい。
ボクの指は鍵盤に触れるほどに、個別の意思を持ち勝手に動き始める。そっと優しく撫でたり、楽しそうに軽やかなリズムを刻んだり、時には強く激しさを表現し…そして、哀しくて涙を誘うこともある。
小さい頃からいつだって、ボクが曲を奏でていると、静かに寄り添うようにやってきては心を包み込んでくれる音色たち。そんなぬくもりを感じながら鍵盤を叩いて織り成すピアノの音を繋ぎ合わせていくことがやっぱり大好きだ。
ピアノを始めてから数え切れないほどいろいろな曲たちと出会ってきた。どの曲も作曲者たちの想いが込められた素晴らしい音楽たちで、そんな貴重な曲たちと巡り会えただけでも幸せだと思っている。
弾きなれたエチュードから始めたせいだろうか、ボクはショパンのピアノソナタやバラードなど、思いつくまま好きな曲たちを奏でていく。そして一番好きな『ポロネーズ/幻想』を奏でようと、軽く息を整え鍵盤に指を構えた刹那、不意に右手の自由を奪われた。同時にハッと我に返ったボクは気配のする方を反射的に見上げた。
「悪いがその曲は弾けない。その手じゃ…無理だよ。雪華。」
ピアノを弾いていた彼だからこそ、構えた指の位置で何を弾こうとしているのかに気づいたのだろう。気のせいかもしれないけれど、どこか淋しさと哀しみを含んだ声が、申し訳なさそうに『無理だ』と告げた。
「今、起きたんですよね?」
眠っていたはずの彼がすぐ隣に立っていることを、なんだか不思議に感じたボクは無意識のうちにそう呟いていた。
「ん?ああ…ごめん、ずっと起きてた。」
まるでいたずらっ子のような笑顔で、軽く舌を出す彼を見て…始めから仕組まれていたのだと理解した。
「わざわざきっかけを作ってくれるなんて、本当に、優しいですね!」
フイっとそっぽを向き、できる限りイヤミを込めて冷たく言い返すのが精一杯だった。そんなボクに対して彼は苦笑しながら『ごめん』と言った。
困惑…しているけれど、本当は感謝している。事故に遭い右手を失って、日常の生活さえままならず、何もかも諦めるしかなかったはすなんだ。それなのに、もう一度ピアノを弾けるようになるなんて…今でも信じられないけど、でもすごく嬉しくて、幸せな気持ちなんだ。
「大地さん、あの…」
少し遠慮がちに呼びかけるボクに、大地さんは軽くしゃがんで目線を合わせてくれた。
「ん?どうした?」
あと少しだけ、この夢が覚めないうちに…
「もう一曲だけなら、弾いても良い、ですか?」
いろいろと見透かされすぎて悔しいから、今はまだちゃんとした理由を教えたくはないけれど、それでもどうしても今、聴いて欲しい曲がある。
「…今回だけ、特別な。」
彼はひと呼吸置いてから、内緒話をするようにそっと返事をくれた。補足するまでもなく、彼お得意の策士の笑顔を添えて。
大地さんたちが予定してくれていたボクとの再会よりも、半年も遅れてしまったけれど。こうして再会できたことの記念に感謝を込めて贈りたいと思った。コンクールで弾きたくて何度も練習した曲だ。そしてボクがピアノを弾きたいと思ったきっかけの曲なんだ。ボクにとってたくさんの想い出が詰まっているこの曲…
「パッヘルベルのカノン…」
ボクはゆっくり、静かに音を奏でる。繋がれてゆく音は色を生み出し、聞き手に様々な世界を届けてくれる。
大地さん、貴方は今…どんな世界の中にいるのだろう…
演奏が終わり、部屋が静けさに包まれたと同時に、どこからか拍手が聞こえてきた。状況が理解できないまま不安げに大地さんの方を見ると、彼は何も言わずに歩き出し、呆れた様子で肩を竦めて勢いよくドアを開けた。
「まったく、おまえらなぁ。」
そこには予期せぬ訪問者が二人、所在なげに佇んでいる。
「だって、冬休みだし…」
「なぁ。」
二人は顔を見合わせ、不服そうに言った。
「だいたい、独り占めなんてズルいよなぁ。」
「ホント、相変わらず性格悪いヤツ。」
二人は大地さんに文句を言いたいようだ。
「俺らは準備だけかよっ」
どうやら彼らもボクのピアノを聞きたいと思ってくれていることに間違いはないようで、不貞腐れた態度のまま顔を見合わせては不満を言っている。そんな様子を大地さんはドアに背を預け、腕を組んで楽しそうに眺めていた。
「あの…大地さん。ボクが言えるような立場ではないですけど、部屋で話したらどうですか?」
ドア枠を境界線のように挟んで微動だにしない彼らを見て、ボクは提案してみた。
「あ?ああ。そうだな。」
クスッと笑って二人に部屋へ入るよう促した。
「こっちのでっかいの方が羽月(はづき)、俺の弟だ。」
初めて大地さんと出会った時『にーちゃん』と読んでいた眠たそうだった子…だろうか?暗がりだったからあまりよく覚えていない。武将や騎士のようにバランスの良い鍛え方をしているような体つきをしていて、切れ長の目は鋭くて少し野性味を感じる。優しい穏やかな印象を持つ大地さんとは正反対に見える。
「コイツは弟の悪友、穂積(ほづみ)だ。」
羽月きんと身長は同じくらいだけど、細身のせいか華奢な印象を受ける。でも守ってあげたいというより、少し離れた場所から眺めていたいタイプの『美人』な感じだ。目元に手を添えて『よっ』と軽くウィンクする姿はなんだか愛嬌があって親しみやすさをくれる。
「どうでも良いけど、紹介が雑すぎだわ。」
穂積くんはそう言って大地さんに向けてべーっと舌を出した。
確かにみんなの飲み物を用意しながらだとしても、かなりいい加減だと思うが、当人はまったく気にした素振りもない。
「んで、コレが雪華(せつか)」
そう言ってボクの両肩に手を置き紹介すると、自然な動作で隣に座った。
面識がないはずなのに『もしかして初対面ではないのか?』と不安になってしまうほどに違和感のない時間が流れている。もし会ったことがあると言われても、ボクにはしっかりとした彼らとの記憶が見つけられない。たぶんこのまま雰囲気に飲まれてしまうと、おかしな関係性が勝手に成り立ってしまう気がして、どうにか避けるべきだと思い尋ねてみることにした。
「あの…ボクと二人は、同級生…とかじゃない、ですよね?」
いきなりのそんな問い掛けに驚いた二人はほぼ同時に動きを止めた。そして無言でボクをじっと見つめている。ボクたちの様子を見ている大地さんは何故か涙目になりながらも、笑いを必死に堪えているようだった。
「本気で言ってるんだよな?」
伺うように穂積くんが呟く。
「俺たちのこと、知らないって?」
彼らはボクのことをちゃんとわかってくれているのに、ボクだけが何もわかっていないということなのだろうか。なんだか、罪悪感のようなものが芽生え始めた時、大地さんが動いた。
「おまえらなぁ。いい加減にしろよ。セツが困ってんだろうが!」
そう言って今まで笑っていた大地さんが少し怒って彼らの頭を殴ると、想像していたよりも重たそうで痛そうな、ゴンッという音がした。
「イテッ!」
「痛い!」
どこまで仲が良いのか、頭を押さえる仕草まで同じだった。
「セツが知らないのは当然だ。コイツらとの接点はかなり間接的だからな。本当にバカな奴らでごめん。」
でもどこかで関わりがあることは事実なんだ。
「間接的な、接点…」
大地さんによると、羽月くんとの出逢いは以前話してもらった通り、ボクの初めてのコンクールの時だったらしい。証明や音響の調整を手伝うために大地さんと一緒にあのホールに来ていたことがきっかけだった。それからずっと大地さんがよくわからない理由で報酬として受け取ったボクのピアノの音色を聴いてくれているそうだ。
外見から想像するのはちょっと難しいかも…なんて思ってしまった。
『似合わねえよなあ。』
穂積くんがいたずらっ子のように笑う。
「ああ?」
それを見て羽月くんが威圧を掛ける。
二人にとっては日常茶飯事なことで、佐一さんはそんな状態のことを『じゃれあい』と呼んでいることを知った。
「セツもコーヒーおかわりいるかぁ?」
既に慣れている大地さんは二人を放置してマイペースに動き出す。
「あ、はい。ありがとうございます。」
成す術のないボクは、じゃれあい中の二人を気にしつつ、大地さんからコーヒーのおかわりを受け取り話の続きに耳を傾ける。
そして…穂積くんのことを聞いたボクは、正直驚いた。
「彼が、噂の穂積くん…なんだ。」
ボクの住んでいる地域では、子供に対して周囲の大人たちは勉強や習い事などをかなり重視している。勉強ができて良い成績を取ることは当たり前で、より高い結果を目指すことが何よりも重要だと教え込むのだ。例外ではなくボクもそんな環境の中で育ってきた。
小学四年の頃、両親の都合で転校させられた。彼らはそれまで以上に多忙な日々を生き、ボクの存在自体忘れてしまったかのように思えるほどだった。気付けば一人で過ごす時間が日常になっていた。
一人で放っておかれることが淋しくて、なんとか両親の世界に入り込みたいと思ったのだろう。だから、存在を忘れられたボクは記憶として覚えてくれないのなら、せめて記録として何かを残していこうと考えたようだ。
そして必死に頑張って地区や全国模擬試験で結果を残せるようになっていった。だけど、どんなに頑張ってもどうしても一位になれない科目が数学と理科だった。いつも追い越せなくて悔しい思いをした。総合で一位だったとしても納得できる結果じゃなかったのは、きっと穂積くんに対する劣等感が原因なのだろう。
「オレはただ、数学と理科が好きなだけだよ。」
いつの間にかじゃれあいは終わっていたらしく、穂積くんがボクたちの座っているソファーの背にもたれながら言う。その足元では羽月くんが疲れ果てて、丸くなって眠っていた。
『万年二位の穂積』と言っている奴らがいたけど、彼が何度も総合一位を獲っていることをボクは知っている。誰よりも悔しい思いをしたから、今でもあの時のことをちゃんと覚えているんだ。きっとお互いに面識なんて一度もないはずなのに、いつだって気になる存在だった。
「ライバルって言われても、得意分野が違うだけだしなぁ。」
別段何かを気にするでもなく、穂積くんがからりと笑う。
「それにオレ…追いかけられたり追い詰められるのって嫌いなんだよなぇ。」
どこかのんびりしている口調が、なんだか大地さんみたいだと思った。
「いつも次点をキープしているのは、もしかして追い詰める、ため?」
ボクは気になって聞いてみた。
「さぁ?どーだろうねぇ?」
真っ直ぐに見つめて疑問を投げかけると、彼は意味ありげな笑顔ではぐらかした。
「まぁまぁ。お互いにいろいろあるだろうけど、とりあえず仕切り直して、はじめましてで良いんじゃないか?」
大地さんの言葉でまた、部屋に不思議な穏やかさが訪れる。
それぞれのテリトリーを維持しつつ、心地良い距離を保っていたれる関係が成り立つなんて、考えたこともなかった。彼らと共に過ごす時間の中で違和感がなかったのは、心のどこかでこの独特な世界をボクが望んでいたからなのだろうか。
しばらく三人で談笑した後、ボクたちは気持ち良く眠っている羽月くんを優しく?起こし、みんなで部屋の片付けを始めた。
「よし、こんなもんかな。俺たちは病院に戻るけど、おまえらはどうするんだ?」
綺麗になった部屋を見渡していた大地さんが尋ねるけれど、二人は何故か無言だった。
「おいおい。ちゃんと帰るんだろうなぁ?」
大地さんは困った表情で言っているはずなのに、どこか楽しそうに見えてくる。
「……」
原因が何なのかなんてわからないけれど、二人は帰りたくないのかもしれない。それとも、もしかしたら帰る方法がない…とか?
ん?そもそも彼らはどうやってここに来たのだろうか…?
「あの、大地さん。二人も一緒に乗せてあげれば?」
ボクの一言に大地さんがわざと深く大きな溜め息を吐いた時、後ろで当事者の二人は笑顔でハイタッチを交わしていた。
「セツ。コイツらを甘やかすとロクなことにならないって、覚えような?」
そう言いながら肩に置かれた手からは、ほんの少しだけ諦めの気配が漂っていた。
騒がしすぎる車内での時間をやり過ごし、なんとか無事病院に戻ってきたボクは三人にお礼を伝え、そのまま病室へと向かった。
大地さんたちはボクが病室に戻るまで駐車場で待機してくれていたようで、部屋に灯りをつけた瞬間、短いクラクションが鳴り、走り去る車のエンジン音が聞こえた。
きっとたくさん文句を言いながらも大地さんはちゃんと二人を送り届けるために、車を走らせているんだろうな。
「優しすぎるって…自覚があるのかな?」
ボクは今日一日の出来事を思い出し、胸の奥が暖かくなっていくのを感じて嬉しかった。
「ありがとう…」
目を閉じて微笑みながら、右腕をそっと優しく抱きしめて何度も『ありがとう』を繰り返した。
こうしてボクはまた、ピアノを奏でることができるようになった。絶望し、すべてを諦め、消えかけた夢が鮮やかな色を取り戻し、ゆっくりゆっくりと動き始めた。
巡り会えた大切な人たちから受け取ったたくさんの思いや願い。そんなかけがえのない宝物を抱きしめ、ボク自身の夢や想いも限りなく音に込めて、今…再び旋律を奏で始める。
「一曲、いかがですか?」
そう言ってボクはそっと右手を差し出す。
Second Signal 《 穂積 ・ からくり 》
何かを作り出すためには大抵の場合、下絵や基盤、構図などと呼ばれるモノが存在している。それらを元にしてクリエイターと呼ばれる技術者たちが仕上げていくのだと教えてもらったのは…いつのことだっけな?
何故かと問われても答えなんてない。だってオレ自身がその理由を知らないから。でも気づけばオレは完成品ではなく、そこに至るまでの経緯に興味を持っていた。完成体から基盤や構図を想像するのが好きだった。分解できるものは躊躇いなく分解し、できないものは頭の中でパーツや組み方を模索していく。その作業が何よりも楽しかったんだ。
何度目かの引越し先で、オレの隣家が何かの修理工場だと知った時、正直飛び跳ねるほどに嬉しかった。
立ち入り禁止の看板をくぐって勝手に入り込んでは、工場の廃部品置き場から適当な部品をもらってくることもあった。まぁ、勝手に…とは言うものの、工場長にはちゃんと話をしていたし、その上でオレの行動を黙認してくれていたのだ。
「おい。」
ここの工場長は見た目は頑固ジジイみたいだけど、暇があれば勝手に忍び込んでくるオレに何も文句を言わず気軽に声を掛けてくれた。
「コレ、分解してみるか?」
じっと作業を見ていると突然、工場長のおっちゃんが、何だかよくわからない硬質物体を無造作に差し出してきた。
「もらっても、いいの?」
さすがに廃部品には見えず、躊躇いがちに聞いた。
「今更柄にもなく遠慮してどうすんだよ。」
軽くオレの頭を小突いて、おっちゃんは楽しそうに笑って手渡してくれた。
「ありがとう!」
嬉しくて笑顔でお礼の言葉を伝えるオレに、おっちゃんは周囲を気にしながらそっと手招きをする。
「ただし、ひとつだけ条件があるんだが…」
少し小声で話されることで、その場の空気がピンと張り詰めた気がした。
「条件?」
オレも同じように小声でそう聞き返す。
「そう。条件、だ。」
悪質な笑みを浮かべて言われることでより一層胸がドキッと高鳴る。
からかわれているんだってわかっていた。こんなふうにちょっと怪しげなやり取りをするだけでカッコ良く思えてしまうから不思議だ。
でもおっちゃんはその後で、幼いオレがちゃんと理解できるように、結局何度でもわかりやすく説明してくれるんだけどね。
「これにはまだ図面がない。つまり詳しい構造がわからないってことだ。だから正確な修理ができないだろう?そこで分解して構図を描いて欲しい。」
構図や製図を見たことはある。何度も真似て描いたことも、ある。だけど…何もないところから描くなんて、どんなことがオレにできるのだろうか。なんだか得体の知れない不安に飲み込まれそうだ。
でも…でも、やりたい!
「わ、わかった。オレがやる。」
拳を握り締めておっちゃんに言った。
「おう。頼んだぞ。」
笑顔でそう言ってくれたおっちゃんに勢いよく『うんっ』と返事をした。
オレは上気した頬で嬉しそうに手を振って家に帰っていった。
「おいおい。小学生に何させてんだよ、おっさん。だいたい、図面がなくても詳しい構図はわかるし、正確な修理だってできるだろーが。」
壁に持たれて二人のやり取りを見ていた少年が呆れた口調で言う。
「あの子が…穂積がどれだけ正確な図面に起こせるのかっを知りたくなったんだ。」
おっちゃんは作業をしながら振り向きもせず、なんだか楽しそうに話している。
「あ、そ。俺にはさせねーじゃん?」
少年は少し拗ねた様子でそっぽを向く。
「おまえは俺とおんなじで、職人の器なんだよ。大地。」
「ふーん。職人、ねぇ。」
感情のこもっていない言い方だけれど、少年は満足そうに笑っていた。
受け取った物を大切に抱えて家路に着く。と言っても数分でたどり着いてしまう。
親たちの予定なんて何も知らないからこそ、不在がちであっても誰にも見つからないよう細心の注意を払ってそっと自室に戻る。物音を立てずに静かにドアを閉めると、そのままベッドに倒れこみ天井とにらめっこしながらしばらく考えてみる。
完全体をバラバラにすることは何度もやってきたから得意ではある。だけど、それを図面に起こすとなれば勝手が違ってくる。本当にそんなことができるのだろうか。おっちゃんに…尊敬している技術者に頼まれたことが嬉しすぎて引き受けてしまったけれど、オレなんかに完璧な製図を描き上げることができるのか?
目が暗闇に慣れてくる頃、少しずつ冷静さを取り戻してきた頭の中で少し後悔していた。
「まぁ、考えてても仕方ない、よなぁ。」
何かのパーツであることは予測がつく。一体何の、どこのパーツなのだろう。
オレは堂々巡りになってきた思考回路を一旦止めて、深呼吸をした。そして意を決してベッドから飛び起きると、引き出しの奥に隠してある使い慣れた工具箱を取り出し、作業台に向かう。
解体を始める前の完成図を描き終わり、躊躇せずに外枠のネジを緩める。ゆっくりとカバーを外し、パーツの解体を始めた。解体しながら細かく仕分けをしていく作業も、細かく図面に起こしていく作業も限りなく楽しい。
取り掛かる前に感じた不安はどこへ行ってしまったのだろうか。今のオレはきっとたった一人で時間の流れに取り残されたとしても、何も怖くなんてない。
何時間が過ぎただろうか。途中で作業を止めることができず、結局夜通し続けてしまったようで、閉め忘れていたカーテンの隙間から窓辺に朝日が差していた。
「朝…か。」
徹夜していた割に、不思議と眠くない。どちらかというとかなり頭がすっきりしている感じだなぁと思いながら、不意に壁掛けの時計を見上げて声を上げるのと、オレの名前を呼ぶ声が聞こえたのは同時だった。
「あ…」
「穂積ー。学校行こーぜ。」
実は、隣の工場には毎朝遠慮なく、自分のペースだけで誘いに来るバカ正直なガキが住み着いているのだ。
「ほーづーみー。」
「うるさいっ」
窓を開けて怒鳴っても平気な顔で笑って手を振っている。そんな姿を見ていると、小さいことで苛立っている自分がバカバカしくなって思わず苦笑していた。
「悪い。すぐ行くわー。」
三階のオレの部屋から一階に向けて声を掛ける。
なるべくそっけなく伝えているつもりなのに、羽月は嬉しそうに笑ってまた手を振る。
「待ってるー。」
オレは無言で背を向け、ひらひらと手を振り窓を閉めて鍵を掛ける。作業途中のパーツなどに直射日光が当たらないよう、忘れずにカーテンも閉めた。そしてフロアに置いている球体のインテリアライトとの明かりを一番暗くして、早々に部屋着を脱ぎ捨て制服に袖を通す。
中身をほぼ入れ替えることのないランドセルを背負い、のんびりと階段を降りていく。
もちろんオレの部屋にはしっかりと鍵を掛けて。
「待たせてごめん。」
玄関のドアを閉めて振り向くと、いつも通りあくび混じりの返事が聞こえる。
「別に…いいんじゃないかー?」
「あ、そ。」
小学三年生の朝の穏やかな?風景となってきたこの日常は、間違っていないのだろうか…?とたまに思うことがある。でも、できるだけ考えない方が良いことなのかも、しれない。
「穂積―。なんか、腹減ったなぁ。」
どんなに頑張って解釈しようとしても、その言葉を『良い天気だなぁ』と同じ類の活用法で使うのは間違いだろう。
「へ?」
眠くはないけれど、ある意味覚醒出来ていないオレは、かなり間の抜けた返事をしてしまった。
健康的に早起きをして、朝食をちゃんと食べているヤツが腹減ったと嘆くほど、そんなに長時間経ったのか?よくわからず立ち止まって考え込んでいたら、頭に軽い衝撃を受けた。
「ん?」
反射的に頭上を見上げると、聞き慣れた声が耳に届く。
「まったく。通学時間に道のど真ん中で何してんだよ、おまえらは。」
優しく笑いながら文句を言っているのは、隣の工場長の息子で羽月の十歳上の兄、大地だ。
「なぁ。にーちゃん、今日休みー?」
羽月が嬉しそうに聞いたが、大地は不思議そうに首を傾ける。
「今から学校に行くけど?なんで?」
「ふーん。じゃあいい。」
一瞬で機嫌を悪くした羽月を見て、オレたちは意味が解らず少し困惑していた。
「俺、なんかしたかぁ?」
不安げに呟く大地に軽く『さぁ?』とだけ残し、仕方なく学校へ向かおうとして足を止めて振り返る。
「あ…大地―。オレ、チョコよりフルーツ味のが好きー。」
さっき頭に乗せられた栄養補助食品の箱をカシャカシャと振った。
「は?もーやらねー。」
子供みたいにすぐ拗ねるところは羽月と一緒だな。血は争えないってことなんだろうなぁ。
「大地―。サンキューな!」
クスッと笑ってからそう言い、オレは目元に軽く手を添えてポーズを決める。
「穂積って…やっぱ、かわいくねー。」
と言ってる割に、ちゃんと構ってくれるんだから、ホント、優しいよな。
オレは大きく手を振って踵を返すと、羽月を追いかけて学校へ向かった。
「俺さぁ、にーちゃんの手伝いしたかっただけなんだぁ。」
追いついたオレを見るでもなく、そう言って項垂れる姿はちょっと淋しそうだ。
「休みじゃないとダメなのかよ。
素朴な疑問を投げてみると、意外な程考え込んでしまった。
「なんか、ずっと忙しそうなんだ。進路、決めないといけないんだって。」
ああ、そうか。羽月はいつも『にーちゃん』って慕っているから、最近忙しくなった大地が遠い存在に感じるのかもな。淋しいけど、その気持ちを素直に伝えられなくて抱え込んでしまったのだろう。
何年経っても成長しない、不器用なヤツ…でも、おまえのいつだって真っ直ぐで正直なところ、眩しくて羨ましくなるよ…
おっちゃんから受け取った部品を解体し、図面に起こしていく作業は一週間ほど続いた。徐々に姿を失っていく部品と、仕上がっていく製図。パーツも配線板も、ネジやナットの詳細もすべて正確に記していく。
「これは…エンジン部分か?でも…」
今迄知っている構造ではない。当然、性能も異なるものだろう。一体、何に使われているエンジンなのだろう…構造だけを見るとかろうじて従来品と似ているかもしれない。
でも、何かが違うんだ。
パソコンで調べても、専門書を読み漁っても明確にならない。
「仕方ない。あとはもう…最後の手段、だよなぁ。」
一応常識的に時間を考え、今から突撃するのはさすがに迷惑だなぁという考えが一瞬頭を過ぎったのだけれど、オレは描き上げた製図を手にして隣の工場に向かった。
「やっとできたんだ。製図…見てくれないかな?」
ドア越しに声をかけても返事がない。それどころか、物音がしていないことに気が付いた。今更だけど、もしかして寝ているのかも…
そう思った時、ドアが開いた。
「おまえなぁ今、何時だと、思ってんだよ…」
やっぱり、寝てた…よな?
「あ…ごめん。」
部屋の主は気怠げに大きなあくびをして、ちょっと呆れながらも中に入るよう促してくれた。
時計を見て時間を確認した後、部屋を見回してみると明らかに作業をしていた形跡がある。
「なんだ。寝てたわけじゃないのか。」
予測はついていたんだけどね。
「ん?まぁ、ちょっとした野暮用ってヤツかな。」
珍しく、誤魔化すような…照れ隠しのようなぎこちない笑顔の彼に無言のまま製図を渡した。
「これを依頼したのは親父だろ?」
渡す相手が違うと言いたいのだろうが、オレは彼に見て欲しかった。
「うん。でも…聞いてもいつも通り教えてくれなさそうだから…」
適当な言い訳をしたってきっとバレている。
彼が何かに気づいているのか、何かを隠そうとしているのかはわからないけれど、それでも苦笑しつつ製図を受け取り広げてくれた。
彼が真剣に見つめる先にはオレが描いた平面の製図がある。それを頭の中でひとつずつ立体化して、組み上げているのだろう。
そう、オレが時間を掛けてやってきたことの逆の作業を行っているのだ。
「なるほど。」
その一言で、製図の確認が終了したのだと理解した。
「うん。ほぼ完璧。」
にやりと笑って楽しそうな彼の『ほぼ』という言葉に引っ掛かった。
「え?どこ?どこか抜けてた?なぁ、教えろよ。」
何度も見直したのに、どこか足りなかったのか?そんな問いかけの意味を含んだ真剣な眼差しで必死に食らいつく姿を見て、少し困った表情の彼はそっとオレの頭に手を置いた。
「まぁ、ちょっと落ち着けって。」
優しく頭を撫でられ、軽く目を閉じる。
「う、ん。ごめん…なさい。」
現状の自分の姿に気付き、さすがに格好悪く感じて素直に誤った。どうしようもなくみっともなかったはずなのに、そんなオレを見ても彼はいつもと変わらない、あったかい微笑みをくれる。
「おまえ解体したものを実際に見ていないから憶測でしかないが…解体してそのまま図面に起こす工程は完璧だと思う。でも、俺はできればその先を望みたいな。」
製図って、解体したものを正確に描き起こすだけじゃないのか?
「その先?正確さを求められるんじゃないのか?他にも、何か必要なのか?」
オレの質問に対して、彼は同返事をすれば良いのかを考えているみたいだったが、しばらくして机の引き出しからB4サイズくらいのファイルを持ってきた。
「これ、ずっとオレが使ってたもんなんだ。ん…例えば、こんな感じかなぁ。」
ページをめくる音が止まり、自然な流れで指先を覗き込むと、見開きいっぱいに彼の描き出す夢の世界が広がっていた。
たったひとつのパーツ部分だけでも、シンプルな初期段階から始まり、いくつかの
改良品や改善策などが事細かに記載されている。
「これが…製図…」
たくさんの資料を見てきたが、こんなに精密なものは初めてかも知れない。
「これも、製図だ。創造する者によって描き方は様々だからな。今見ている製図はまだ試作段階のものなんだ。思いついたことや、調べた情報、アイデアなんかを描き足しているんだ。」
だから製図の中に描かれている部品たちが進化しているように見えてくるのだろうか。すごく難しいことを言われているはずなのに、それ以上に心惹かれて、楽し過ぎて気持ちが落ち着かない。
「オレにも…オレにもできる?大地、教えてくれるか?」
こんなにも身近に、精密で魅力的な製図を描ける人がいたなんて…
「うーん。詳しく教えることは、できないかも知れないなぁ…」
オレよりも残念そうな表情をしている彼に対して、わがままを通すつもりなんて、ない。
「うん。大丈夫。言ってみただけだから。進路だっけ?大地だって忙しいよなぁ。」
できるだけ明るく言って普段通りに笑ってみるが、やっぱり彼に強がりは通用しなかった。肝心な時はいつだって本心を見抜かれてしまう。
「…穂積、ごめ…」
それでも、謝罪なんてされたくなかったオレは、彼の言葉を遮る。
「大地には、大地の夢があるんだろ?絶対、叶えろよな。」
珍しく彼が驚いた表情をしたと思った瞬間、例えようもないほどの優しい笑顔に変わる。それを目の当たりにしたオレは、不覚にも心が跳ねた。いつもより落ち着きのない鼓動がなんとか彼にバレないよう、フイっと顔を背けるのがやっとだった。
「やっぱりおまえは、かわいくねーわ。」
「うるせーよ。」
当たり前のように頭に置かれた手を振り払おうとした時、静かだけれど強い意志のある彼の言葉が耳に届いた…
「穂積、ありがとな。うん。俺…頑張るわ。」
「お、おう。」
唯一、顔を見られなかったことだけが、せめてもの救い…かもしれない。
製図を見てもらったらすぐ帰るつもりだったのに、なんだか帰りそびれてしまったオレは、彼が渡してくれたファイルやスケッチブックをじっくり見返していた。
「あれ…?」
この図面…
「ん?どうかしたのか?」
やっぱりどう見たって、同じものだ。
「ああ。そんなところにあったのか。」
作業の手を止め、覗き込んだ彼はさらりと言った。
「これって…」
オレは図面を見つめたまま動きが止まる。
「あのパーツは、昔…俺が描いたもんだんだよ。」
記憶違いでなければさっき『おまえが解体したものを実際に見ていないから』って言ったよな?
この嘘つき!と思いながら睨んでいるのに、彼はそんなことまったく気にせず、話しだした。
「ホバークラフトって知らね?」
知らないはずがないだろ…
「知ってる。」
水面や地面に向けて高い空気圧を噴出して浮上する乗り物だ。まだまだ実用化されることはないだろうけど、三次元空間の自由な移動を可能にするとまで言われている。
「テレビだったかネットだったか忘れたけど、ホバークラフトを初めて見た時…創りたいって思ったんだ。」
懐かしむように話している彼はきっと、今でもその時の気持ちをと違わず、そう思っているはずだと感じた。
「ホバークラフトはエンジンとバッテリーを載せるから、できるだけ軽量で高性能じゃないとダメなんだ。」
軽量で高性能なエンジン。
「それで、あのパーツを考え出したってこと?」
確かに理想のパーツだろう。
「そう。図面には起こせたけど、悔しいがあの頃の俺の技術じゃ実体化できなかったんだ。」
でも、実体化されたパーツをオレは知っている。彼が創り出したものでないとすれば一体誰が?
「もしかして、工場長が?」
あんなに正確な製図を見れば技術者なら造ってみたくなるのも頷ける。
「あ?あー。アレは無理。そもそも俺が何したって気に入らないんだから。」
まるで他人事のように言って笑っている。
「じゃあ、誰が…」
オレの目を見て彼ははっきりと答える。
「羽月。」
まさか、そんなこと…
「へ?」
年中眠そうに大きなあくびをしていて、珍しく起きてると思ったら『腹減ったなぁ』しか言わないアイツが、組み上げたのか?本当に?
「信じられないって顔だなぁ。」
彼はクスッと笑って『俺も同感。』と深く頷いた。
「でも、間違いなくアイツなんだよ。」
卑下するでも、イヤミを込めるでもなく、素直に認めている表情で嬉しそうに言う。
「羽月ってそういうの見ているだけなんだと思ってた。」
オレの知っている限りでは、正直、向いているようには見えない。
「まぁ、普段はのんびりしてるけど、細かい作業させても短気過ぎて途中で怒って止めるからなぁ。」
アイツの性格はわかっているつもりだ。今までだってよくからかって遊んでた。まだ知らないところがたくさんあるのかもしれない。
「アイツ、耳と感覚がバケモノなんだわ。」
乾いた笑いと共に告げられた意味不明な言葉を聞き返す。
「化け…?は?なんて?」
下人も理由も不明だが、羽月は物の音を聞き分けられるらしいのだ。音だけでその金属のだいたいの性質を判断できるという。そして感覚で相性の良い物質を見付け出しているそうだ。
「それが事実なら、間違いなくバケモノだ。」
「じゃ、やっぱりバケモノだわ。」
彼は嬉しそうにニヤリと笑った。
「アイツがあの製図を見つけて興味を持ち、図面通りに実体化した時に俺はホバークラフトを創る夢を、保留にしようと思ったんだ。」
自分にできなかったことを弟が成し遂げたからという理由だけじゃない気がした。それはただのオレの勘でしかないけれど、彼は創ることを諦めた、ではなく…保留にしようと言った。その言葉にはきっと別の意味があるはずだ。
「大地、他にやりたいこと…見つけたんだろう?」
たくさん悩んで、迷って、彼が選んだものは何だろうか。
「ははは。よくわかったな。そう。俺の一番やりたいことを見つけたのが奇しくも同時期なんだ。」
そう言うと彼はスケッチブックをパラパラとめくり始め、残り数ページになった辺りで手を止めて見せてくれた。
「大地って…」
オレは思わず息を呑んだ。
「うん?」
呆気にとられたような表情で彼がこっちを見る。
「ロボット創んの?」
真剣に問いかけたオレはバカだったのか?
「あ?ああ!違う違う。あーなるほど…くくくっロボットかぁ。」
笑いを堪えながら話そうとしているが、さっさと諦めて笑いだした彼を見て、オレはくるりと背を向け『もういい』と冷たく言った。
「穂積、ごめんって。」
好きなだけ勝手に笑って、謝ってろ。バーカ。
振り向きもせず、無言のままでいるオレと背中合わせに座り直した彼は、自重した様子で静かに溜め息を吐いた。
「ごめんな。俺…」
一瞬、何かをためらうような沈黙の後、彼は話し始める。
「俺、好きな子がいてさぁ。その子、ずっとピアニストになるって頑張ってた。生まれた時から病弱で、入退院を繰り返してたんだ。詳しくは知らないけど、難病で…だんだん四肢がうまく動かなくなっていくって聞いた。最悪…切断、ということになるだろうって…」
彼はそこまで話して、ぐっと何かを堪えるように言葉を飲み込んで静かに息をゆっくり吐いた。
「その子は結局…自分の手で最期の幕を閉じちゃったんだけどな。」
背中にぬくもりを感じながらも彼の辛さが伝わって来るような気がしたオレは、何も言えないまま、ただ彼の言葉を待った。
「ピアノが弾きたい。」
「え?」
表情は見えないけれど、彼が微笑んでいるのがわかった。きっとその微笑みは…淋しそうなんだろうな…
「俺が聞いた、彼女の最期の言葉。」
いつだって傍でずっと見守ってくれている彼を、初めて遠い存在に感じた。
「足や手が少しずつ不自由になってきた頃、泣きながら何度も言っていたんだ。まだ弾きたいって…だから何かできることはないかと、俺なりに必死に調べて義手という存在を知った。だからといってまだ幼い俺に一体何ができると思う?結局何もなかった。でも、壊れかけたものや落としてしまったものを救えるのは…手なんじゃないかって思ったんだ。」
その時、無造作に放り出していた俺の手に、そっと彼の手が重なり、きゅっと握られた。
「俺は…誰かの『手』でありたいのかもしれない。何かを創り出したり、差し伸べたり。時には背中を押したり…いろんな人の、そんな『義手』になりたいのかもしれないなぁ。なんて。」
ちょっとおどけた口調で話しているけれど、彼は本気でそうなりたいと願っていることがわかった。きっとどんな思いよりも強く、彼の中で生きている願いなんだ。
やっぱ…大地には勝てねぇよなぁ
俺にはこんなに情熱的に向き合える夢が、ない。自分のためにも誰かのためにも強くなろうと思ったことさえなかった。
彼の話が終わり、オレは気付かれないようにそっと息を吐いた。
「大地ってさぁ…やっぱり…」
寄り添ってくれている少しだけ大きな背中に軽く持たれて声を掛ける。
「うん?」
相変わらず何も考えずに優しく聞き返す彼の態度に苦笑してしまう。
「バカ、だな。」
さらりと告げた俺の言葉に反応するまでの数秒がなんだかくすぐったかった。
「なっ…あー。やっぱ、おまえはかわいくねーわ!」
予想通りの態度に思わず声を上げて笑ってしまった。
だって、気付いてないんだろう?
今までどんだけオレが大地の手に救われてきたのかってこと。どんなに、大地の手に憧れているのかっていうこと…
やっぱり、バカじゃん。
「いいんじゃね?」
ひとしきり笑い、軽く言い合いをした後、オレは静かにそう言った。
「義手、創れよ。大地が思い描く最高の義手、絶対に創り出せよな。」
挑発気味に言って拳を彼の方に突き出す。
「おう、上等だ。見てな。」
彼はオレの手に拳を合わせ、幸せそうに笑った。
「じゃあ、製図は俺から渡しとくわ。」
オレは描き上げた製図を彼に預け、工場長に渡して欲しいと頼んだ。怪訝な顔で何度も自分で渡せと言われたが、ちゃんと理由を説明すると即座に納得してくれた。
「そろそろ統一模擬試験の勉強しないとさすがにヤバイからなぁ。」
偉そうに言っても、結局大したことをする気はない。
「せめて、得意分野くらい頑張れよな。」
オレの性格と学力を知った上で、こんな適当なことを言うのは彼くらいだ。
「へーへー。気が向いたら頑張るわ。」
本当は始まる前から結果はおおよそ検討がついている。
今回もオレは、いつも通りの結果を導き出すための努力しかしない。それ以外に魅力を感じないし、本気になって頑張る意味も見つけられないからだ。
親からの最低条件である、総合成績三位以内。
それだけを達成していれば、好き勝手に何をしていても文句は言わないという取引をただ有効利用しているだけ。
まぁ、オレは誰にもトップを譲る気なんて毛頭ないけどな。
「穂積。」
おやすみの挨拶を交わし、オレが歩き出してすぐ名前を呼ばれた。
「んー?」
何気なく声のする方へと振り向いた瞬間…
「ほいっ」
「うわぁ!っんなもん、投げるな!バカ!」
いきなり投げられた数冊のスケッチブックを必死に受け止めているオレを、積み上げられたタイヤの上に座って大地が眺めている。
「それ、おまえにやるー。」
そう言ってなんだか楽しそうに笑っている。
「はぁ?」
文句を言いながらもオレは、腕の中にあるスケッチブックを無意識に抱きしめていた。
「ちょっとは役にたつかもしれねーよっと。」
軽く掛け声を掛け、工場のあちこちに置いてある廃部品の山や積み上げられたタイヤの上を飛び跳ねて建物の屋根にたどり着く。
本当は…笑いながらふざけて『まるで猿だな。』と言ってやりたいのに、動きに無駄がなくて、流れるような綺麗な動きは、一陣のっ風に舞う花のように見えてしまった。
「じゃ、おやすみー。」
そう言って無邪気で穏やかな笑顔を残し、くるりと背を向けた彼はひらひらと手を振る。
そして音もなく夜の闇に溶けていった。
何度も見ている日常的なシーンなのに、何故か今日はいつも以上に見惚れてしまった…なんて何があっても一生教えない。
「カッコつけてんじゃねぇよ。バーカ。」
受け取ったスケッチブックを大切にそっと抱え込むと、大地が今まで描いてきた夢のカケラを少しだけ分けてもらったような気がした。嬉しくて溢れてくる想いがこぼれ落ちてしまわないようにゆっくりと空を仰いだ。
いつか、肩を並べて同じ景色を眺められる時が来たら、オレにも大地が創り上げようとしている世界を感じることができるだろうか。
「大地の想いに負けてらんねーしな。」
彼が保留にしている夢を引き継ぐことを決意したオレは深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出して笑ってみた。
もしかしたら…オレのやりたいことが見つかるかもしれない、そんな予感がした。
誰かが『いらない』と捨ててしまったものを拾い集め、まだ形のない何かを創造し触れた瞬間、幾つもの『カケラ』は組み合わされ『からくり』となる。
その作業を繰り返し、自分の思い描くものを創り上げていく彼の手に見惚れ、だんだん広がっていく世界も好きになった。
大地の手は大きくて少し骨張っているのに、いつだってぬくもりと優しさをくれる。
「オレの手は、一体何ができるんだろう。」
じっと自分の手を見つめてみる。
「ホバークラフト、か…」
きっかけは大地の夢だけれど、彼のスケッチブックに描かれているホバークラフトの完成図を見た時、製図に起こしたいと思ったのは素直な気持ちだ。
「はっ望むところだ。やってやろうじゃねーか。」
未知なる世界でしかないけれど、やってみたいと思えたことをやり遂げるのも悪くない。
今まで何かを必死に頑張ったことなんてなかった。だからこそ…
「やっとオレの歯車が動き出した、のかもな。」
大地の描いたものを、まだ幻想的だと言われたとしても、想像と発見の中で幾つものパーツを拾い集めて組み合わせて創り上げてみせる。
そう強く心に誓った時、ずっと閉じ込めていた想いが『カタン』と音を立てた。
オレの中の『からくり』がゆっくり目を覚ます。
「本能のままに…生きてみますか。」
少しずつ明るくなる空に向けて、大きく腕を伸ばしてみた。
いつかこの手を誇れるように…と願いを込めて、オレは一歩を踏み出した。
Third Signal 《 羽月 ・ 技巧 》
周りの子たちが帰っていくと、だんだん自分の迎えの時間が近付いてるのだとわかるようになってきた。
「あっ、にーちゃんだ!」
自転車置き場に、にーちゃんの姿を見つけた俺は勝手に部屋を飛び出し、保育園の出入り口で待つ。
「今日は早いねー。」
にーちゃんはいつも学校帰りにお迎えに来てくれる。
「おー。忘れもんないか?」
帰り支度をしながら聞いてくれる。
「なーい。」
返事をするとくるっと俺の方に向き直り、頭にポンッと手を置いて笑う。
「じゃ、帰るかー。」
こんなふうに優しく笑うにーちゃんが、大好きだ。
「うんっ」
負けないくらいの笑顔でにーちゃんに飛びついた。
いつだって隣には兄がいてくれた。それが当たり前だとずっと思っていた。両親は普通にいるけど、あまり一緒にいてくれた記憶がない。趣味を仕事にした父は時間なんて関係なく、依頼があればいつだって飛び出していくような人で、日々自分のペースで生きている。母も同じようなものだ。興味のあることをやって気ままに生きている。それなのに時々、思い出したかのように親の仮面をつけることがあるのだ。しかも放っておいて欲しい時ばかりを見計らって声を掛けてくるから面倒くさい。
でも、兄は違う。オレが傍にいて欲しい時、助けて欲しい時にそっと手を握ってくれるんだ。俺の大好きな優しい笑顔で…
そんな兄は、いつの間にか俺にとっての憧れであり、目標の存在になった。
そんなある日、重大な事実を知ってしまった。
誰よりも信頼し、目標にしている兄が、俺を騙しているという事実…
あれは初学二年になって半年位経った頃だ。
「うわぁ。」
物事に動じない、というか…殆どのことに無関心な俺でさえ、思わず感嘆の声を上げてしまうほど『キレイ』だと思った。
「すっげー美人。」
「キレー」
時期外れの転校生という存在は例外なくそれだけで目立ってしまうのに、先生が紹介している子は、立っているだけで目を惹くほど『キレイ』だった。原因なんてわからないけれど、見ているだけでなんだかドキドキして、何も考えられなくなった。
「ふん。ちょっと顔が良いからって。なんなのよ。」
クラスで可愛いと言われている子がイヤミを込めて呟く。
「ホント、あの程度でいい気になってイヤな感じね。」
学校生活が進むにつれ、転校生に対する女子たちの文句やイヤミを耳にすることが増えた。いじめ…とは言わないちょっとしたイタズラ(俺に言わせればいじめでしかないが)も目につくようになってきた。それに気付いた男子たちが助けたり庇ったりするから、女子たちは余計に面白くなかったのだろう。
そんな毎日なのに、当人はまったく気にした様子もなく、いつも不思議なくらい落ち着いていた。
本当は大きな問題なのに、繰り返されるうちにだんだん頭や感覚がマヒしてきて慣れてしまったのだろうか。それとももしかしたらこの子は、今までもっと辛い思いをしてきたから、現状を容易く受け入れてしまったのかもしれない。なんとなく『ああ、またか』と諦めながら。
ある日、慣れ始めた日常に変化が起きた。
転校生が来て三ヶ月が過ぎた。夏休みが終わり、二学期が始まって間もない頃だ。ずっと遅刻も欠席もしなかった転校生が急に学校に来なくなってしまった。
最近は大きな問題もなく、やっと状況が落ち着き始めたのだと錯覚していた自分にも、こんなことになるまで何も出来ていなかった自分にも腹が立った。
「俺、もしかして…」
どうしてこんなにも気になって、何もできなかった自分に腹が立つのかと何度も考えてその本当の意味にやっと気が付いた。
「俺、もしかしてアイツのこと…」
外見も、自分に対する周囲の態度にもまったく左右されず、ただ凛とそこに存在している。無口で表情も崩さない、少し近寄りがたい印象なのにどうしてだか自然と目で追ってしまっていた。それって…
「アイツの、ことが…好き、なのか?」
知らない感情に触れて、よくわからなくなった。でも理由ははっきりしなくても、アイツのことを『守りたい』と思う気持ちがある。それから『傍にいたい』とも…思う。
この数ヶ月、俺は一体何をしていたのだろう。そもそも俺にできることって、何だ?
正直、頭が良いとは言えない。それでもなんとか俺なりに一生懸命考えてもみた。だけど何も思い浮かばない。ぐちゃぐちゃになってしまった思考回路を全部断ち切り、俺は学校から帰るといつも通り、ある部屋のドアをノックした。
「にーちゃん。」
最近、作業に没頭していることが増えた兄はノックしても返事がないことが多い。しばらく待ってから俺は勝手にドアを開けた。
「にーちゃん。ちょっと相談したい、こと、が…あるんだけ…ど?」
視界に広がる空間を見て、ちゃんと返事を聞いてからドアを開けるべきだったと、後悔した。
「おかえりー。ん?珍しいなぁ。どーしたんだ?」
ローソファーの背もたれに身体を預けて、上体を反らすような姿勢で俺の方を見るにーちゃんから慌てて視線を外す。兄に寄り添う人は、微動だにしない…
「ごめん…あの、後で、いい。」
どんな態度を取ればいいのか解らず、顔を背ける。
「ん?おい、羽月?」
ドアノブを握り締めたまま、結局兄の部屋に一歩も入ることなくその場を去り、そのまま一階下の自室に戻ると思い切りドアを閉めた。
「はぁ…びっくりした…」
でも、彼女がいても別に不思議なことでは、ない。
何の音、だ?あ、ドアのノックの音か…誰だよ?ドアを三回ノックするのは…
「羽月―。寝てんのかぁ?」
突然訪れた理解できない状況からの現実逃避をして、そのまま眠ってしまったらしい。
「んー。起きてるー。」
明らかに寝起きの、くぐもった声で返事をしてドアを開けると、そこにはにーちゃんがいた。
「おまえなぁ。ちょっとは片付けしろっていっただろ?」
「う…ん。」
起こされた時ってどうしてこんなに頭が起きてくれないのだろう。
「まったく。」
呆れながら簡単に部屋を片付けたにーちゃんはベッドに座った。
「で?」
「…で?」
問いかけに対して、首を傾げる俺を見てにーちゃんは苦笑した。
「なんか話があるんじゃねーの?」
そう言って俺の言葉を待ってくれている。
「え…?あ!ある。話、ある!」
クスッと微笑んでいるにーちゃんの隣に座り、俺は話し始めた。
すでに転校生の話はしていたから、この数ヶ月のことや俺が気付いたアイツへの想いのこと…どうすれば良いのか考えても何もわからないんだと、伝えた。
「そうか。よくわかった。」
そして、いつものように頭にポンッと手を置かれた。
「羽月。いろいろ考えることはあると思うけど、まず…一度考えるのをやめてみよう。」
言われた意味が解らず困惑してしまった。
「どういう…こと?」
俺が聞き返すと、にーちゃんは『ちょっと待ってて』と言い残し部屋を出て行ってしまった。
コンコンコンッ
「はい。」
「入るぞ。」
そう言ってドアを開けたにーちゃんは、何故か部屋に入ろうとはせずに廊下の方を気にしている。
「おい。さっき約束しただろーが。」
誰かに向かって声を掛ける。
「あーもお!わかったよ!」
かなり不機嫌な声がして、にーちゃんの背後から人影が現れた。
「え…?」
不貞腐れた顔は、ずっとそっぽを向いているが、明らかにさっきにーちゃんの部屋で寄り添っていた人だった。
「紹介しよう。春に隣に越してきた、穂積くんだ。」
引越しの話は聞いていたが、俺はまだ一度もお隣さんに会ったことがなかった。
「は?」
会っていないのだから知らなくて当然なのだけれど…
「穂積、くんって…」
にーちゃんは微笑みながらも肩を竦める。
「おまえんとこの、転校生。」
「嘘、だろ?」
事実を知った俺の驚く顔を見て彼は不敵な笑みを浮かべた。
「よろしくな。羽月。」
目元に手を添えて笑う彼が軽くウィンクをする。コイツが、穂積…?男、だったんだ。
「…にーちゃん。いつから知ってたの?」
俺の質問に考える振りをしながらにーちゃんが答える。
「んー。引越して来た日?」
じゃあ、ずっと知ってたってことだよな。転校生が隣に住んでいることも、俺が女の子だと思っていたことも全部、知っていたんだ。
「あー。騙すつもりじゃなかったんだよ。」
今更何を言われたって言い訳にしか聞こえない。
「オレが、言うなって頼んだ。」
彼…穂積がそう言い切った。
「どうして?そんなの…」
黙っている必要があるのか?
「変か?男でも女でも、そんなことどーでもいいんだよ。オレはオレだから。おまえは違うの?」
穂積は真剣な瞳で見つめている。
「違わない、と思う。穂積くんのことを知っても嫌いじゃないし。うん。意味、わかる。」
疑いが強く込められた視線を感じながら俺は、俺なりに彼の言いたいことが少しだけ理解できた気がしている。
「穂積くん、ごめん。俺…もう一回、はじめまして、したい。」
なんとか自分の気持を伝えると、彼は大人びた微笑みで真っ直ぐに俺を見た。
「じゃ、テイク2、だな。」
と言って手を差し出してくれた。
「よろしくな、羽月。」
ぎこちなく差し出された手を握って答える。
「ん。よろしく。穂積くん。」
俺の返事が気に入らないのか、彼は眉間にシワを寄せた。
「くんっていらねーわ。」
「…穂積…」
「うんっ」
言い直した俺に嬉しそうに笑って返事をする彼。
「…くん。」
「は?」
付け足したことで彼の表情が変化する。
「分けて言う意味な!おまえ、ふざけんなよ!」
明らかに怒っている…
「ごめん。一応、気をつける。」
慣れるまで、時間は掛かるだろうけど…
「穂積―。おまえもメシ食ってけ。」
いつの間にか部屋からいなくなっていたにーちゃんが階下で叫んでいる。
「んー。」
彼は気のない返事をして背負っていたカバンからタブレットを取り出し、俺の部屋でくつろぎ始めた。
そんな彼を横目に、俺はベッドに持たれて静かに目を閉じる。
急な展開で頭と心の両方で絡まってしまった糸を解くために、ちょっと頑張ってみようと思っていた。
嘘つきにーちゃんの話によると、報道関係の仕事をしている父とモデルの仕事をしている母がいるらしい。話の途中で彼…穂積は外見が母に似てしまったのだと、拗ねた表情をしていた。簡単に予想できることだが、外見のせいで苦労したことが多かったそうだ。それが原因となり、無口で無感情な彼が造られてしまったらしい。いろんなことが面倒な彼は、今回の転校先でも必要最低限の情報しか提供しなかった。だからこそ勘違いされ、発生した問題があるのだけれど…
「どーでも良いんだよ。そんなくだらないこと。」
特別なんて関係ない。オレを『穂積』として覚えてくれれば何も問題はないし、それで十分なのだと彼は言う。
「美人とかキレーだとか、そんなことどうだって良いだろ?オレはオレなんだから。」
その言葉の真意も彼の思いも、まだ完全に理解できたわけじゃないけど、俺は『転校生』を演じている彼よりも、今目も前にいる理解不能な『穂積』が好きだ。時々知らない言葉を話して難しいことを言うけど、いろんなことを教えてくれて、楽しそうに笑う彼と一緒にいたいと思った。
俺の淡すぎる初恋は、花開く前にあっという間に散ってしまったけれど、もしかしたら『親友』との出会いという蕾に気付くためのきっかけだったのかもしれない。
「あっそうだ。穂積、親父にも許可もらっといてやったから。」
すっかり忘れていた様子でにーちゃんがそう言った。
「やった。大地、ありがとー。」
何の話かわからずにいると、にーちゃんが気付き教えてくれた。
「この侵入者が自由にウチの工場に出入りするのを許可してもらったんだよ。」
自由に出入りする、許可?
「侵入者って?」
にーちゃんは笑って彼の頭に手を置き、ポンポンと軽く叩く。
「コイツ、機械とか部品とかに興味があって時々外から覗いてたんだ。」
なるほど。確かにウチは工場だから、そんなものは山ほどある。彼にとっては宝の山に見えているのだろうか。
「家にいても暇な時はいつでも来いってさ。」
「ん、まぁ。気が向いたらなー。」
頭の上に置かれたままの手を振り払い、そっけなく答える彼が嬉しそうに笑うのを見てしまった俺は、正直少し羨ましさを感じていた。
その数日後、穂積はまた学校に来るようになった。
「おはよ。」
「おう。おはよっ羽月。」
彼の姿を見つけ声を掛けた俺に、振り返り笑顔で挨拶をしてくれた。少しずつだけどお互いの距離が近づいている気がして嬉しかった。
『親友』の蕾はまだ固くて咲きそうにないけど、いつか花開くその日を気長に待ってみようと思う。
三年生になると、遅刻しがちな穂積を毎朝誘って登校することが俺の日課になった。
朝が弱いタイプなのだと文句ばかり言っているが、起きられないのは夜更しのせいだと知っている。
彼曰く、学校をサボって工場に侵入したり、夜中ににーちゃんの部屋に来ていたりといろいろ忙しいらしいが、やっとやりたいことを見つけたのだと笑顔で言われたら応援するしかないだろう。勝手な理由を正当化している彼だが、そんな彼を羨ましいと思いつつ、見守ることしかできない自分がなんだか悔しかった。
「やりたいこと、かぁ。」
考えているうちにだんだん眠くなってしまった俺は、睡魔に抗うことなく机に突っ伏して眠った。
「羽月―。なぁこれ見て。…ん?」
時々穂積が来てくれても、寝ていることが多かったらしい。
「また寝てる。ははは。寝る子は育つ…ってか?」
顔に落書きをされても起きなかったこともある。そして、彼の言葉通り?俺は大きく育った。
小学四年の時、すでに身長が160センチもあったのだ。
「でかくなったよなぁ。そのうち大地も越すんじゃね?」
「…さぁ?」
高校卒業後、専門学校へと進学したにーちゃんは長期の休みがないと家に帰ってこなくなった。今度はいつ、帰ってくるんだろう…
「羽月、今日も工場の手伝いすんの?」
その言葉が出る時は誘って欲しい時なのだとわかってきた。
「うん。穂積も来る?」
わかっていながら、素っ気なく尋ねる。
「おう。行く。」
去年、にーちゃんが家を出てから俺の生活が変わった。今までにーちゃんがしてくれていたことを俺が担うようになったんだ。そして穂積の生活も変わっていった。
工場に来ることが増え、一緒に手伝ってくれることも多くなった。だけどその分、年四回行われている統一模擬試験の時期が近付くと、まったく来なくなる。
「やりたいことをやるために必要なんだ。」
そう言って彼は常に総合一位の座を勝ち取っている。順位を下から数える方が早い俺にとっては穂積のいる場所は未知の世界でしかないが、必死に向き合っている姿をすごいと思う。
恒例行事となっている模擬試験も四年生の三回目が始まり、結局いつも通りの結果で終わりを告げた。
順位を張り出されている掲示板の前で彼の姿を見つけ、声を掛ける。
「七連勝だなぁ。おめでとー。」
「おう。」
一位になるのが目的なのだから当然の結果だと余裕で言われた後、俺の順位を見て呆れられた。
「おまえはもうちょっと頑張れよな。」
「まぁ、そのうちに。」
適当な返事をして、大きなあくびをしながら教室に戻るために歩き出した。
「あ、今日もおまえんち行くわー。」
踵を返し反対方向へと歩き出した彼が足を止めて叫ぶ。
「おー。待ってるー。」
お互い背を向けたまま会話をして帰宅後の約束を交わす。慣れない人が見たらこの情景を理解することは難しいかも知れないと、ふと思った。
特に外見を気にするタイプじゃなくても、二人で一緒にいる時間が多かった頃『美女と野獣』なんて呼び名が付いた時は流石に想像してちょっと…笑った。俺たちにとってはただ気の合う友達という関係なのに、体格差が出てきた最近では並んで歩くとまるでボディーガードに見えてしまうのも事実だ。
欲求に従ってただ心地よく眠っていただけで日々逞しくなった俺と、夜更しと不摂生が原因で、元々の美しさに儚さを纏った穂積。なんだかどこかの映画やアニメでありそうな画になってしまいそうだ。
まぁ周りにどう見られようと、何を言われようと結局は大した問題ではなく、どうでも良いことなんだ。俺たちは同じ目標を持ち、歩いていくと決めた同士なのだから。
にーちゃんが自分の夢を叶えるために家を出発した日、穂積から大切な話があると言われた。
「ホバークラフト?」
聞いたことがあるは別段、興味を持つことはなかった。
「そ。大地が目指していた夢、なんだ。」
そう言ってにーちゃんが描いたというホバークラフトのデザイン考案図を見せてくれた。
「すげー。」
他の言葉が思いつかないくらい、素直にすごいと思った。
「これ、飛ぶのか?」
素朴な疑問を投げてみる。
「たぶんな。大地はデザインしか画き上げてないから、パーツの詳細はこれから考えていくんだ。」
穂積が渡してくれたスケッチブックには、車体の全体図、全面や側面、背面などが細かく書かれていて、確かにデザインはよくわかる。
「パーツ、か…」
内部構造はまだ未着手で、ほとんど描かれてはいない。
「オレ、いろいろ調べてパーツの製図を準備しているんだ。」
話しながら穂積は少し小さめのスケッチブックを無造作に差し出す。
「見て、良いのか?」
本当に俺なんかが受け取って良いものかと悩んでしまった。
「…まだまだ不完全で未熟でしかないけど、見てくれるか?」
顔を背けたまま話すのは、穂積が何かを迷っている時だと知っている。
「うん。もちろん、見たい。」
受け取ったスケッチブックの中にはあらゆるパーツが描かれていた。一箇所の構図案がいくつもあって、それぞれに違う特性があるようだ。
「すげー。」
エンジン部に通常のエンジンとバッテリーが搭載されていて、車体を浮かせるための大小のプロペラや、たぶん位置や何かを感知するセンサーもある。
どこパーツも設置や接続箇所もよく考えたものだな…と感心するばかりだ。
「なぁ、この大小のプロペラって、なんで?」
気になる部分を指差し聞いてみる。
「ああ。大きい方はもちろん車体を浮かせるためだ。小さいのは姿勢制御だったり、方向転換用になる。」
説明を聞きながら頭の中で組み立てていく。
「なるほどな。」
想像しながら、少しずつ形を成していく工程が楽しかった。
「止まる時は?ブレーキってついてるのか?」
組みながら疑問が生じると質問をする。
「いや…ブレーキは負荷が掛かりすぎるから、プロペラを反転させてみたらどうかと思っている。できるだけ車体を軽くしたいしな。」
俺が質問してもすぐに答えが返ってくる。きっと穂積はいろいろなことを想定し、考慮しているのだということがよくわかった。
「じゃあ、運転席んとこに、コントロール部をつけるのはどうだ?」
楽しくなってきた俺は思ったことを提案してみる。
「そうだなぁ。いくつかの動作を組み込んでプログラムしたものを動作ボタンとして載せるのはあり、だな。」
今度は穂積が何かを考えながら答えてくれる。
「超小型パソコンだな。」
俺たちはしばらくの間、頭の中で実体化させたホバークラフトの構成と性能について話し合っていた。
「基盤はどうしても、大地のデザインを使いたい。」
レーシングカーのような低い車体。更に軽量化するために流線型を取り入れて少し改良するつもりだと付け足された。
「流線型…」
空中に浮いた時、流れの中に渦を発生させず、流れから受ける抵抗が最も小さくなる曲線で構成される最適な形。
細長く、先端が丸くて後方が尖っている…そう、水中を優雅に泳ぎ回る魚たちのような形状だ。
「いんじゃね?」
「いいなぁ。」
この時俺たちはきっと、同じような車体を想像していたに違いない。何となくそれに気付いた俺たちはハッと顔を上げ、視線が重なった瞬間、どちらともなくニヤリと笑い、ハイタッチをした。
初めて穂積の図面を見せてもらった。
にーちゃんの図面を見た時と同じように心からすごいと感じ、こんなにも詳細に描き込んでいる図面を実体化したいと本気で思った。俺自身ができないことだからかもしれないが、見ている段階で、想像して創り上げられるような素晴らしい製図を描き上げるエンジニアに出会えたことが嬉しかった。
「なぁ。大地の夢。引き継がないか?おまえと一緒に叶えたい。」
技術者として、俺を選んでくれた穂積と一緒に、にーちゃんの夢を引き継ぐ…悪くないどころか、願ってもないことだ。
憧れの兄が考案したデザインを基に、親友である穂積が構造や性能を発案して製図にしたホバークラフトを、俺が実体化して組み上げていく。
「やってやろうじゃん。」
俺の言葉を聞いて穂積が嬉しそうに笑う。
「おまえがメカニックで、オレがエンジニアだ。ははは。最強だなあぁ。」
確かにそうかもしれない、と思ってしまった。
「にーちゃん、驚くだろうなぁ。」
その情景を想像していたずらな笑みがこぼれる。
「完成するまで秘密にしとけよ。」
釘を刺すように言われて、ドキッとした俺は慌てて無言で頷いた。
今まではその辺に転がっている部品や工具で、なんとなく思いついたものを組み上げる作業をしていた。ごくたまに、父親の仕事を手伝うことはあったけど、時間があるといつもにーちゃんの隣に居座り、作業工程や修理過程をじっと見ている方が好きだった。
ちゃんとした製図を基に、物体を創り上げることへの興味…その感情が生まれた今、俺の中で眠っていた何かがゆっくりと目を覚ました。俺にも兄のような技術を手に入れることができるのだろうか…何をやっても飽きっぽくて不器用な俺が、どんなものでも完璧に創り上げる、あの手のように…本当にできるのだろうか…
「大地がさぁ。葉月は天性の素質を持ったバケモノだって言ってた。誰かの良いところをちゃんと褒められないなんて、いつまでたってもガキだよなー。アイツ、素直に言わねーけど、おまえのこと認めてんだぜ。」
俺の抱いている不安に気付いたのか、穂積はそう言って意味ありげにウィンクをした。
夜空の月を薄雲が隠した刹那、いくつかの小さな星たちが瞬く。
その光を視界の端に感じた時、俺の隣で穂積が大きく伸びをする。
「じゃあそろそろ帰るわー。」
もうそんな時間だったのか。
「ん?ああ。おやすみー。」
穂積は椅子代わりにしていた工場のタイヤからするりと降りる。
「また明日なー。」
「おう。」
返事をして立ち去ろうとした彼が立ち止まり、不意に振り返った。
「羽月。」
「んー?」
名前を呼んだくせに、穂積はしばらく何も言わずにじっと俺を見ていた。
「メカニックってさぁ…イギリスの俗語で『殺し屋』って意味があるんだって。」
そう言いながら急に真剣な表情をした彼は、手で拳銃を真似て俺を狙う。初めて…美人の真剣な顔って怖いくらい迫力があることを知った。
まったく視線を逸らさず、じっと見つめられて俺は息を呑んだ。
その時…
「ばぁん!」
と言って彼はイタズラが成功した子供のように無邪気に笑った。
「オレたちが創り出す夢で、世界を撃ち抜くってのも…楽しそうだなぁ。」
こんなふうに穂積と話しているだけで、何の根拠もないのに、思うがまますべてを叶えられそうな気がしてくるから不思議だ。きっとこれから先、何度もそんなふうに思うことが起こるような予感がしていた。
「こんな夜更けに不良少年どもは何の相談だ?」
いつの間にか月を隠していた薄雲が流れ、降り注ぐような月光の中、待ち望んでいる懐かしい声が聞こえた。
「にーちゃん!」
「大地!」
驚いて振り返った俺たちは声の主を見つけた。
「よぉ。元気だったか?悪ガキども。」
相変わらず何の連絡もしないでいきなり帰ってくる放浪者は。俺たちがどんな思いで待っているのかなんて、きっと考えたこともないのだろうな。
「大地、何かやらかしたのかー?」
からかい混じりだけど、少し心配そうな穂積を見て、驚いてしまった俺は疑いもなくにーちゃんに訪ねた。
「え?あ、もしかしてクビになった、とか?」
便乗して俺がふざけているのだと勘違いしたにーちゃんの表情から笑顔が消え、落胆のため息がこぼれる。
「はぁ…とうとう穂積の毒に影響を受けてしまったのか…」
頭を抱えて悩む素振りを見せるにーちゃんの背後から、怪しげに穂積が寄りかかる。
「へぇ。オレの毒、ねぇ。ふーん。じゃあおまえにも分けてやるよ、大地―。」
完全に部外者なのに、背筋がゾクリとした…
できる限り穂積を敵に回すのはやめておこうと、そっと…でも強く強く心に誓った。
「うわぁ。あーやっぱ、穂積ってかわいくねー。」
二人は笑っているのに、なんだかとても…怖かった。
その後、病院の施設にある研究所を使用できるようになったから帰ってきたのだと、ちゃんと突然戻ってきた理由を説明してくれた。そして卒業後も希望すればそのまま施設に就職することが可能だという。どうするかを決めるのはもう少し先になるけど、にーちゃんの関わっているプロジェクトに必要なものが揃っている施設はかなり魅力的なようだ。
「じゃ、大地はまたここに住むのか?」
嬉しいけれど、俺たちの計画を遂行するのは難しくなるかもしれない。
「いやー。ほとんど施設だろうなぁ。」
せっかく帰って来たのに一緒に暮らせないのは、やっぱり淋しい…
「ふーん。帰って、来ないんだ…」
思わず呟いた俺の頭に懐かしくてあったかい温もりを感じて、一瞬泣きそうになった。
「ごめんな。卒業と就職、今後のプロジェクトがかかってるんだ。一大決戦ってとこかもな。」
でも、どこの病院なんだろう。そんな施設があるなんて聞いたことがない。
「大地―。ま、頑張れよな。」
にーちゃんはおどけながらエールを送る穂積に笑顔を向ける。
「んー。ほどほどにな。たまにはバイトしに帰ってくるわー。」
どんなに離れていても、違う時間を経てもにーちゃんはやっぱり、にーちゃんだった。
突然戻ってきたにーちゃんが施設に引っ越すまでの間、今までみたいに修理をしたり、注文された部品作りを手伝ったりした。短時間だけど、まだ知らない技術を習得するための最高の時間は予想通り瞬く間に過ぎていった。
「にーちゃん、あのさ…」
引越しのために荷物を片付けているにーちゃんに声を掛ける。
「んー?」
きっと施設へ行ってしまったら、しばらくは帰ってこられなくなるだろう。今、言っておかないといけないと思った。
「あの…屋上にある、にーちゃんの工房…俺が使っても良い、かな?」
ほんの一瞬だけ見開かれた目は、すぐに優しく弧を描く。
「うん。もちろん。好きに使って良いよ。」
にーちゃんの笑顔…やっぱり大好きだ。
「ありがと!」
いつもの慣れた仕草で頭にポンッと手を置かれ、優しさの込められた声音が届く。
「羽月、おまえもやりたいこと、見つかったんだんな。」
「え…?」
何も、言った覚えなんてないのに、どうして…
「お互い、頑張ろうなぁ。」
夢を見つけて、それを叶えるために踏み出した一歩を認めてもらえた気がして嬉しかった。ずっと憧れている存在からの『頑張ろう』って言葉がこんなにも心に染みるものだなんて知らなかった。心の中で迷子になっていた小さな俺を優しく包みこんでくれるあったかさを感じた。
一週間後、にーちゃんは予定通り施設に行ってしまい、その日、穂積と俺は二人の夢への挑戦を本格的に始動することにした。果てしなく危なげで脆く、手探りの中を進んでいく俺たちの一歩。刻んでいくその先にはきっと、描いた通りの世界が待っていると信じて進み続けていく。
「だー!上手くいかねぇ!」
ガガガガッ ガシャンッ
「あー。なんでだよ!クソッ」
ドンドン…
カンカンカンッ ウィーン…
「あ、マジか!あー。」
その時不意にガラッと勢いよく窓を開ける音がした。
「羽月!てめぇ、うるせぇわ!」
隣の三階の窓が開いたのだ。顔を覗かせた穂積が怒鳴る。
「あ…すまん。」
勢いに負けて素直に誤った。
「集中できねえだろ!このバカ!」
明らかに苛立っている様子に、反省した声でもう一度『ごめん』と伝える。
冷たくピシャリと窓を閉められ、俺は小さく溜め息を吐いた。
「アイツ…平気な顔してたけど…やっぱりかなりショックだったんだろうな…」
先日行われた四年生の冬の統一模擬試験…
順位が張り出されている校舎を屋上から双眼鏡越しに様子を伺っていた穂積の表情が曇る。
「また、一位?」
間食のおにぎりを頬張りながら尋ねると意外な答えが返ってくる。
「いや…二位だ。」
「え?」
驚いた俺は彼から双眼鏡を奪って覗いてみる。
「…なんだ、一位じゃん。」
見つけた掲示板にはちゃんと一位のところに穂積の名前がある。
「あ?総合ってとこ。ちゃんと見てるか?」
つまらなさそうに、呆れた口調で言われて改めて見る。
「あ?あっあった。」
総合成績と書かれてある掲示板に穂積の名前を見つけた。でも、彼の言う通り…二位だ。一位には知らない名前が記されている。
「こんな時に人間は『青天の霹靂』なんて言葉を使うのかねー。」
そう言って他人事のように笑う彼が、そっと拳を握り締めていることに気付いてしまった俺は何も言えなくなった。
「嘘、だろ…?」
五年生の春、いつものように模擬試験の結果が張り出された掲示板の前、彼は思わず本音をこぼしていた。
信じられないことだが、穂積の名前の上、一位には前回と同じ名前が記されている。
「おもしれぇ。良いんじゃね?はっオレが追い詰めてやるよ。」
そんな狂気じみた言葉を吐く彼が、何故か嬉しそうに笑っているように見えたのは気のせいだろうか。それとも、もしかしたらこんな状況をずっと待ち望んでいたのかもしれない。本気で向き合える『ライバル』と呼べる存在との出会いを…
その数ヵ月後、俺も自分の中にある、知らなかった感情を呼び覚ますような出会いをした。
そう…『音の魔術師』との出会いだ。
その手は、旋律と癒しを与えてくれた。
その手は、幻想と発見を見せてくれた。
その手は、技巧と感動を教えてくれた。
そして…創造と安らぎをくれる彼の手は、ボクたちを出会いへと導き、強く繋いでくれた。
見慣れた風景を真っ白に染めた雪が少しずつ解け始め、小さな生命たちが顔を出す。新しいキャンバスが彩られていき、暖かくて優しい風に誘われ、淡いピンク色の季節が訪れる。
出会いと別れ、そしてはじまりの…春。
いろんなことがあった半年をなんとか乗り越えて、ボクは中学生になった。当然のように両親の来ない入学式を迎え、当日、一人で学校へ行く。
「三年間、よろしく。」
華やかに飾られた校門をくぐり、校舎を見上げて呟き、案内に従って校庭に向かう。張り出されているクラス表で自分の名前を探していると、風に誘われた桜の花びらが舞い散った。しばらく花びらを目で追っていると見知った姿を見つけた。
「え…」
「んー?」
「あ!」
「おう。」
予想外の突然の再会に驚いたけれど、すごく嬉しくて少しくすぐったかった。
「そう言えばセツもここだったなぁ。」
以前軽く話していたことを思い出したのか、大地さんが言った。
「はい。」
大地さんとは定期的に会って義手の調整をしてもらっているけれど、羽月くんと穂積くんにはあの日以来会う機会がなく、時々大地さんから話を聞いてずっと会いたいと思っていた。
「元気そうだな。」
前に会った時よりもなんだか逞しくなった気がする。
「羽月くんも元気そうで良かった。」
たぶんボクはあんまり変わってないだろうな…
「セツー。会いたかったよー。」
その声と同時に背中に衝撃が訪れる。
「わっ」
穂積くんに後ろから抱きつかれ思わず情けない声が出る。
「ほ、穂積くんっ」
慌てているボクになんてお構いなしだ。
「相変わらずつれない態度だよなぁ。」
そう言いながらもずっと離れない穂積くんを強制的に引き離してくれた大地さんは、呆れた顔をしていた。
「今からこんな調子で大丈夫なのかぁ?」
ボクの顔を覗き込んで言う大地さんはとても心配そうだった。
「そう願いたい、です…」
かなり前途多難な予感だけを残して、なんとか無事に入学式が終わった。
「なんか…成長すんの、早いよなぁ」
みんなで一緒に歩いていると、大地さんがしみじみと呟く。
「大地がなんかおっさんみたいなこと言ってるー。」
穂積くんが茶化して笑っている。
「だ、誰がおっさんだ!」
なんだか出会った頃に戻ったみたいで楽しくなって、自然と笑みがこぼれた。
外見はそれぞれが少しずつ成長して変わったけれど、中身は相変わらず健在のようで嬉しかった。
「おまえらの世話係なんていつまでもやってられるかっ」
大地さんも負けじと文句を言っている。
「へっ本当は嬉しいくせにー。」
それに答えるように穂積くんが面白がって吹っかける。
「穂積―。おまえはずっとかわいくねーな!」
黙って見ていた羽月くんがとうとう見かねて口を挟む。
「にーちゃんも穂積も、いい加減にしろよな。みっともない。」
この三人はいつでも仲が良くて、本当の兄弟みたいだ。でも、羽月くんの言う通り、他の人の迷惑になりそうだから、そろそろ落ち着いて欲しいかも…
そんなことを考えながらボクは、彼らの少し後ろを歩いていた。
「なぁ、セツ。」
「何?」
前を歩いていたはずの羽月くんが、ボクに気付いて歩調を合わせてくれた。
「今日、ウチに来ねぇ?」
急な提案をされ、思考が止まる。
「え?」
言い出したはずの羽月くんは困った様子で言葉を探しているようだった。
「えっと、明日は土曜日で休みだし、穂積も泊まりに来るから…良かったらセツも一緒にどーかなぁと思ってさ。」
何故かちょっと照れながら話す羽月くんを不思議そうにじっと見つめてしまった。
「あ、もちろん、迷惑なら断ってくれて全然良いんだ。」
返事をしないボクが悪いのだけれど、かなり慌てて羽月くんが言葉を付け足す。
「なーにやってんだよ、羽月―。」
助け舟なのか、困っている羽月くんを押し退けて、今度は穂積くんがボクの隣に並んで歩く。
「オレ、セツと一緒にいたいから、泊まりに行こーぜ。な?」
ボクの目を見つめてそう言うと、軽くウィンクをした。
「あ…うん。あの…迷惑じゃなかったら、その、行きたい…」
ボクの返事を聞いた二人は、嬉しそうにハイタッチをした。
「よし。決まりだな!」
その姿を見て、こんなふうに気の合う関係って良いなぁと素直に思った。
「セツ。」
穂積くんが立ち止まりボクを呼んだ。
「ん?」
「ほい。」
そう言いながらボクと羽月くんに向けて手を掲げる。
「あ、俺も。」
足早に近付いてきた羽月くんも同じように、ボクと穂積くんに手を掲げる。
あ…もしかして二人は…
二人が掲げてくれている手にボクがゆっくりと手を近付けると、勢いよく『パチンッ』という音が響いた。
「今日からは三人でやろうぜ。」
穂積くんが笑ってそう言うと羽月くんは深く頷いた。
初めて三人の手で奏でたハイタッチの音は、新しく始まる日常のスタートの合図みたいに高らかに鳴り響いた。
「やってくれるねぇ。」
嬉しそうな笑顔で大地さんはそう言い、ボクたちを優しく見守ってくれていた。
当たり前のように放り込まれたこの殺風景な空間も、一年が過ぎる頃にはさすがに慣れてきて、それぞれの時間が流れていくようになる。
そんなある日、羽月と廊下を歩いていると、彼が急に立ち止まった。
「なぁ、セツ。」
「うん?」
少し先を歩いていたボクは立ち止まり、彼の方に振り返った。
「セツ…ピアノ、弾かねぇの?」
内心、いつか問われるだろうと思ってはいたけれど、実際に言葉にされるとドキッと鼓動が跳ねる。
「腕の調子が…ちょっと、ね。」
まだ、本当の理由を話せなくて…でも、嘘ではない理由を伝えた。
「そっか。ま、無理すんなよ。」
彼はそう言って、大地さんがするようにボクの頭をポンッと叩いた。
羽月はもちろん事故のことを知っているけれど、ボクが義手であるということは、まだ知らない。
事故で腕を怪我したのだと、話しただけだからだ。もちろん穂積にも話していない。彼らに真実を話すことがどうしても怖くて、なかなか言い出すことができないのはきっと…ボクが弱いからだろう…
「にーちゃんは知ってんの?」
ボクの腕を指差して羽月が問い掛ける。
「うん。大地さんのいる病院に通院してるから。この前会った時にちゃんと話したよ。」
彼は『そっか。じゃあ良いか。』と納得して、またゆっくりと歩き出した。
さっき彼が立ち止まった場所にはピアノコンクールの告知ポスターが貼ってある。きっと参加しないのかと、聞きたかったのだろう。本当はボクだって参加したかったけど、残念ながら今は…弾きたくても弾けないんだ…
「幻肢痛?」
そんな言葉、初めて聞いた。
「そう。たぶん幻肢痛が起こってるんだと思う。」
「……幻肢、痛。」
初めて聞く言葉に戸惑っているボクに大地さんは説明してくれた。
すべての人に当てはまるわけではないが、切断して失っているに、神経がまだ存在しているのだと認識してしまうことを『幻肢』と呼び、時に痛みを伴うことがある、かなり不快感が強いのだといわれている。幻肢痛は実際に存在していない場所、つまり…失った場所に発生する痛みなので、直接的な治療ができないのだ。
「治らないってこと?」
不安になってボクは尋ねた。
「いや…治らないってわけじゃなくて…」
珍しく歯切れの悪い話し方で言葉を濁す大地さんが、何かを隠そうとしていることに気付いてしまった。
「大地さん、何か問題があるのですか?」
「んー。どうと言われると、正直…問題ばかりなんだ。」
大地さんは苦笑しつつ、深い溜め息を吐く。
「義手っていろいろな種類があるだろう?でもどのタイプでも幻肢や幻肢痛が起こってしまうんだ。少しずつでも改善していきたいって思っても、はっきりとした原因がわからない。つまり…現状、収集データが少なすぎて何もできていないんだ。」
悔しさを込めて大地さんは拳を握り締めている。
「あの、ボクに…できることってありますか?」
もしかしたら何かできることがあるかもしれない、そう思い気持を伝える。
「セツ?」
怪訝な表情でボクを見つめる大地さんをまっすぐ見つめて、もう一度伝える。
「何か、できることはありませんか?」
諦める決断をするしか道は残っていないのだと思っていた夢。そんなボクに再び歩き続けることができるのだと可能性をくれた大地さんに、何かお返しができるのなら、迷う意味も理由もない。
「その気持ちだけで十分だよ。ありがとうな、セツ。」
目の前の、見慣れているはずの優しい顔を、少し淋しそうに感じたのはボクの気のせいだろうか…
結局痛み止めが有効ではないのでと言いながら、軽い精神安定剤を処方してもらえるよう手続きをしてくれた。
「とりあえず、この薬でしばらく様子をみようか。」
ボクは納得しきれなかったが、用意された薬を受け取る。
「はい。ありがとうございます。」
お礼を言って大地さんの研究室を出て行った。
閉めたドアにもたれて静かに息を吐く。
「大地さんの、夢じゃないのかよ…」
誰よりも悔しい思いをしているのはきっと大地さん自身なのに、その思いに気付たって何もできないんじゃ意味がない。
「叶えて欲しいだけなのに…ボクは、大地さんの描く夢を、叶えて欲しいんだけなんだ。」
支えてもらうばかりで何もできない自分が情けなくて、やりきれない感情が悔しさに押されて涙となりこぼれ落ちた。同時に脈打つような速度で右腕に痛みが走る。
「!…っ」
言葉を呑み込んで痛みに耐える。
「は、はは。バカ、みてぇ…」
いつもならだんだん治まってくるはずの痛みが、いつまでも消えない。ボクは右腕を強く抱きしめたままその場にしゃがみこんだ。
「…セツ?おい、雪華!大丈夫か!」
なんで、こんな時に限って部屋から出てくるんだよ…
「大地、さ、ん…?」
痛みのせいで何も考えられない。
「雪華!」
その声を聞きながら、ボクはゆっくりと目を閉じる。
いつもはノックしても部屋から出てこないくせに、なんでこんなところにいるんだよ…
そんなどうでも良いことが頭に過ぎって、力なく苦笑した。
大地さんは心配そうな表情でボクを抱え、研究室に運んでくれた。
簡易ベッドにそっと寝かされ目を閉じたまま、大地さんが誰かに連絡している声を聞いていた。
「うん。今、研究室。ああ、すぐこっちに来られないか?頼む。」
腕に痛みが走るたびに顔をしかめるボクの手を、大地さんはギュッと握ってくれている。
「大丈夫だ。大丈夫、だからな。セツ、俺が…」
一体大地さんは何と戦っているのだるか。夢を叶えるためにずっと頑張っている彼が、どうしてこんなにも躊躇っているのだろう。まだ誰も成し遂げていない、最高の義手を創り出すために必死に頑張っているはずなのに、何が…あるのだろうか…
「大地っ遅くなって悪い。セツは?」
「おー。急にごめんな。セツ、実は最近よく幻肢が発生しているらしいんだ。」
勢いよくドアを開けて入ってきたのは、大地さんの長年のプロジェクトスタッフの一人で、ボクが初めて義手をつけた時の担当医だ。
「幻肢痛も、起こっているようだな。」
苦痛に耐えるボクを見て静かに呟く。
「ああ。診て、もらえないか?」
その言葉にドクターは困った表情で肩を竦める。
「大地、診察したところで、一体どうなるんだ?」
呆れた様子のドクターに大地さんが噛み付く。
「わかってるけど!」
「だったら!今、おまえがやれることをやれよ。そのために、ずっとデータを集めて研究を続けているんじゃないのか!」
普段怒鳴ったりしないドクターが大地さんに掴みかかるのが見えた。
「二人とも、ケンカなんて…しない、で。」
あまり自由に動かない身体を起こしながら、二人を止める。
「セツ…少し、落ち着いたのか?」
まだ不安の色が濃く残っている眼差しでボクに問い掛ける大地さんに、そっと微笑む。
「ドクター、久しぶりに会えて良かった。」
痛みが治まってきたボクはソファーに移動し、改めてドクターと向き合った。
「ん。再会は嬉しいが、セツの腕のこと…話しても良いか?」
ボクを見つめる目はとても真剣でまっすぐだった。その目から視線を外さずにボクは無言で深く頷いた。
「幻肢と幻肢痛のことは…大地から聞いているな?」
「…はい。」
軽く目を伏せ納得した様子で彼は息を吐く。
「じゃあ、その続きを話す。」
「は、い。」
いつもは大地さんが座っている場所にドクターが座っていて、定位置を譲った大地さんはドア近くの壁に背を預けて立っている。
「ここ数年、欧米では少しずつ普及が始まってきたらしいが、コレの存在はまだ知らない人たちの方が多い。日本での普及なんて、まぁ論外ってとこかもな。」
そう言ってドクターは自分のタブレットに表示した研究資料を見せてくれた。
「それは筋電義手と呼ばれている。長年、大地と一緒に研究していることの基本となるものだ。」
「筋電…義手?」
わかりやすく言えば、と付け足しドクターはできるだけ専門的な言葉を省いて説明してくれた。
「筋肉を動かすために、脳から命令を送る時発生する微弱な電流で、一部の筋電を感知し義手を動かせるようになる。」
仕組みだけを考えると普通の腕と同じってことなんじゃないのか?
「すごい…義手ってそんなに進化しているんだ。」
大地さんたちの研究内容を詳しく聞いたことがなかったボクは、今更ながらに驚きと敬意を抱いた。
「もっと詳しく知りたいのなら、直接大地に聞いてくれ。」
ドクターはニヤリと笑った。
「え?」
ボクを通り越して大地さんに視線を向けたドクターが呼びかける。
「なぁ、幻肢をテーマとして動いてるのは、おまえだったよなぁ?大地。」
大地さんは腕組をして、そっぽを見たままのんびりと答える。
「んー?そうだったかもなぁ。」
ボクに視線を戻し、彼の態度に呆れた表情を見せたドクターは悪戯っぽくウインクをした。
「俺は…」
え?
「俺はできるだけ幻肢と幻肢痛の発生をなくしていきたいんだ!切断という辛い選択をさせられて、尚も失った場所に痛みを感じるなんて…俺が、なんとしてでも改善してみせる。一人でも多くの人が痛みから解放されるように、俺が必ず創り出してみせる!」
驚いた…でもそれ以上に感じた強くて優しい想いが込められている言葉が、すごく嬉しくてボクの胸にしっかりと残った。
「ドクター、あの…」
ありがとうを伝えようとするボクに、ドクターが無言で待ったをかける。
「…って熱く語っていたのは、誰だったっけ?なぁ大地―。」
その言葉で今聞いた言葉が大地さんのものだとわかった。
「うるせぇ!この、バカ医者が!」
照れているのか怒っているのか、さっきまでの呑気とも言えるほどの穏やかさは消え失せ、ドクターを怒鳴りつけている。
「ホント…どこまでも不器用なんだから…」
でも、知らなかった彼の素顔にほんの少し触れられたような気がして嬉しかった。
ボクはソファーから立ち上がり、無言で大地さんの所へ行き右手を差し出した。
「大地さん、ボクに…賭けてみませんか?」
覚えてくれているだろうか。その言葉は、初めて研究室に来て右腕を見せた時に告げられた大地さんからの…言葉だ。
「え?」
しっかりと大地さんの目を見つめて、ボクは思いを伝える。
「やっぱりボクは、これからもピアノを弾き続けたいです。」
何度も諦めようとしたけれど、諦められないボクの、夢だから…
「セツ…」
「大地さんは、もう…聴きたいって、思ってくれないんですか?」
あの時の…絶望的な状況も自身の思いも忘れたくないからこそ、これからもピアノを弾いていきたいと強く願っている。一度止めてしまった歩みは、今再び動き出しているんだ。このまま手放すことなんてできるわけがない。
あんな絶望感なんて、もう二度といらない。
「大地さん…ちゃんと、ちゃんと責任、取ってください。」
かなり感情的になってしまったボクの、涙声での一言が決定打となり、その場の空気を変えてしまった…
「お、おい!大地、まさかおまえ…」
ずっと黙って聞いていたドクターが慌てて想像よりも過剰な反応を示すと、影響を受けたのか当事者である大地さんまでもが焦っているみたいだ。
「ち、違っ…俺とセツは特別な関係じゃない!」
はっきりと言い切ってから、大地さんは眉間にシワを寄せて難しい顔をした。
「いや…かなり、特別な関係、だよな。うん。」
急に真剣な表情で言い直し、何かを思いつめているように黙り込んでしまった。
表情がコロコロと変化する大地さんを見ていると、不意にドクターと視線がぶつかった。そしてどちらともなくボクたちは思わず笑い出す。
「なんなんだよ!おまえらなぁ、人が真剣に考えているのに!」
ドクターは大地さんの肩に手を置き、ニヤッと笑う。
「今更だろうが。おまえとセツは間違いなく特別な関係、だよ。おまえらを引き合わせたのは魔法の手(義手)なんだからな。」
その言葉に、ボクは改めて自分の両手を見つめてみた。
本来の手と義手なのに、今となっては当然だがどちらも大切なボクの手だ。右手は時々、自由気ままに暴れることがあるけれど、かなり気が合ってきたと思っている。
「セツ。研究に協力してくれるのは嬉しい。正直、ずっと願っていたことでもあるからな。ただ…少しでも辛い思いをしたり、苦しい、痛いと感じたらすぐに止める。」
この人はやっぱり、どこまでも優しい人…なんだ。
「それじゃ…」
大地さんの決断は、自分のこと以上に嬉しいことだった。
「おまえに賭けてやるよ。セツ。」
大地さんの目に、迷いは感じられなかった。
「はいっ」
それぞれに大きくて強い決意を込めて、ボクたちは差し出した手を握り合った。
今までの義手よりも更に微調整が必要なため、長期の休みを利用するべきだということになり、実証したい研究屋実験などは夏休みに行う予定で計画を立てた。
「能動義手や作業用義手と同じように装着してくれて問題ないんだが…外観より機能面が重要視され過ぎている点だけは、問題だろうな…」
画像を見せてもらった時も感じていたけれど、実物もなかなか予想以上にメカニックな印象が強い。
「もちろん外観も改善項目に挙げている。今後、少しはマジになる予定だ。」
ある程度の見た目の大切だからなと苦笑している大地さんを追い越して、ボクは視線を窓の外へと逃がした。
「ボク、また長期入院するんですか?」
前回は入院中だったから、病院にいても不自然ではなかったが、今回はどうする?
入院するなんて言ったら…羽月も穂積も心配するだろうな。もしかしたらお見舞いだと言って毎日病院に来るかもしれない。それはそれで困ったことになりそうだ。
「入院はしない。普段通りセツの家で生活してもらうのがベストではあるが、難しいだろう?」
まぁ、ほとんど誰もいないから別に問題はないだろうけれど、できれば避けて欲しかった。
「俺ん家かなぁ。やっぱ。」
「え?」
いろいろ想定して考えても、研究室か大地さんの家か、結局どちらかの選択肢しかないのだと言われてしまった。
「二人には…いつ話せば良いですか?」
黙っていてバレた時に問い詰められるより、ちゃんと話したほうが良いに決まっている。
「自分で話すのか?アイツらに話さなくても良い方法だってあるんだよ。」
もう逃げないと決めたんだ。だからこそ…
「ボクが…二人に話すことが大切なんだと思います。」
大地さんは少し驚いているようだったが、優しく微笑んでくれた。
「そうだな。わかったよ。」
本格的なリハビリを始めるのは夏休みに入ってからという予定を立て、それまでは2、3日を目安見装着して様子を見ていくことになった。
そして…夏休み間近のある日、そろそろボクから二人に話をしようと思っていることを大地さんに告げた。
「二人に話すなら、良い場所がある。」
そう言って、夏休み初日に合わせてわざわざ休みを取ってくれた。
「荷物積み終わったかぁ?」
「終わったー。」
二人が元気に返事をした。
「んじゃ、そろそろ行くか。」
その声に返事をする代わりに、ボクたちは三人でハイタッチをして車に乗り込んだ。
大地さんは、二人に話をすることを決意したボクのために、初めて出会った場所を提供してくれたのだ。
「ほい。お疲れさん。着いたぞー。」
二階建ての洋館は、相変わらず木々に守られている様にそこに存在していた。深緑の葉ではなく、涼やかな青緑の葉に囲まれている姿は夏の装いを思わせる。
大地さんと一緒に車から荷物を下ろし、葉月と穂積がそれを家の中に運んでくれた。
「二階の部屋、適当に使って良いよ。」
大地さんの言葉に家の中から二人が返事をし、しばらくして二階の部屋の窓が開けられた。
「にーちゃんの部屋も窓開けとくわー。」
「おー、頼むなー。」
解放された窓から、二人のじゃれあっている楽しそうな声が聞こえてくる。
ボクは、ちゃんと伝えられるだろうか…
無意識に右腕を握っていたボクの頭に、大きくて温かい手は載せられる。
「大丈夫だよ、セツ。そんな心配すんな。」
何度も救われてきた彼の笑顔を見て、改めて感謝していた。
「うん。ありがとう。」はにかんだ笑顔を返し、自分の荷物を一階の客室に運ぼうとしているといきなり荷物を奪われた。
「セツはオレと同室、な。」
そう言って穂積は荷物を担いでさっさと二階へと歩いて行った。
「え?なんで?」
問い掛けるボクの方をチラッと振り返る穂積は楽しそうに笑っている。
「気にしなーい。一人だと淋しいじゃん。」
仕方なく穂積の後について行くと、少し広めに空間に二人分の家具が置いてある部屋に案内された。
「オレが初めてここに来たとき、羽月と一緒に使ってた部屋なんだ。」
ボクの荷物を片側のベッドに置き、穂積は大きく伸びをした。
「さぁて。何しよーかなぁ。」
この時のボクはまだ、穂積が抱いている想いに少しも気付いていなかった。
「羽月んとこ行こーぜ。セツ。」
誘われるままに羽月と大地さんのいる庭へと向かう。庭に出る途中で『ちょっと待ってて』と言われ立ち止まっていると、満面の笑みで穂積が戻ってくる。
「ほい。」
有無を言わさず、ボクにあるものを手渡し、また軽やかに歩き出した。
「はーづきっ」
「んー?」
「喰らえ!」
「う、うわっ穂積、てめぇー!」
庭に出るなり、穂積は迷いなくそっと羽月に近付き、振り向き様の顔に水鉄砲を勢いよく発射した。
「へへ。隙だらけなのが悪いんだよっ」
楽しそうに笑いながら連射して羽月を狙い撃っている。
「穂積!てめぇいい加減にしろよな!」
「あ…」
言うが早いか、連続攻撃を受けてさすがにイラっとしたのか、羽月はボクから水鉄砲を奪い穂積を狙った。
「あ、避けんなよ、卑怯者!」
運動神経の良い穂を狙ってもなかなか当たらない。
まるで映画のワンシーンのような光景だなぁと思って眺めていたボクは…
「わっ」
突然、背後から攻撃された。
「あ、すまん。」
そう言って一瞬だけ動きが止まった。
「うわー。羽月、下手くそすぎー。」
二人の姿を見ればどちらが優勢か一目瞭然だった。
「うるせぇ!」
叫びながら追いかける羽月と、それを余裕で躱す穂積。学校とは違う自然なままの二人の姿を少し複雑な気持ちで見ていた。
「セツ。おまえも行ってこいよ。」
大地さんはクスッと笑って水鉄砲?を渡し、ボクの背中を押した。
「セツー。行くぞー。」
大地さんはそう言って勢いよく水道の蛇口を開ける。
「うわ!」
「大地っやりすぎだろ!」
ボクの持つ連射型水鉄砲の攻撃は二人に命中…してしまった。
「ご、めん…」
言葉通り水が滴る程、ずぶ濡れになった二人を前にして反射的に謝るボクを見て、二人は顔を見合わせて大笑いし始めた。
「セツ、ちょっと貸して!」
「あっ」
借りるというよりは、勝手に取り上げた穂積はニヤリと怪しげな笑みを浮かべた。
「大地、喰らえー!」
「うわっこら、穂積!」
攻撃を受けた大地さんは穂積を睨みつけている。
確かにそれはちょっと、やりすぎでは…そう思っていると腕を掴まれた。
「あ、やべ…おい、セツ、逃げるぞ!」
結局、ボクもしっかり巻き込まれ、庭中が水浸しになる程の攻防戦の末、水鉄砲大会は無事に終わりを迎えた。
賑やかな時間が過ぎ、穏やかさが戻った庭にできた幾つもの水たまりには、太陽から注がれる光の粒がキラキラと揺れていた。
順番にシャワーを浴びて着替えを済ませると、みんな軽く言葉を交わしてそれぞれの部屋に戻っていった。ほどよく疲れたボクたちはしばしの休息のため、夢の中へと旅立つ。
ピアノ…?
誰が弾いているんだろう。
浅い眠りの中、どこからか聴こえてくるのは間違えるはずもなく、ピアノの音色だ。向かい側のベッドでまだ眠っている穂積を起こさない動にそっと部屋を出ると、微かな音を辿った。
一階の客室まで来たボクは、少し開いているドアの隙間から部屋を覗き込んでみる。
あ、大地…さん。
目の前の情景に圧巻されて、その場から動けなくなってしまった。
なんて…切ない旋律なのだろう…
でも、でも、なんて優しい音色なんだ…
「セツ、入って来て良いよ。」
クスッと笑って大地さんは旋律を止めてしまう。
「あの…ごめんなさい。ボク…」
何を言って良いのかわからなくて口ごもっているボクを優しい眼差しで見つめている。
「ははは。弾かないって決めてたのにな。なんか急に、弾きたくなったんだ。」
大地さんはそう言って苦笑しながら鍵盤の蓋を静かに閉めた。
「すごくキレイでした。切なくて、優しくて…今までに聴いたことのない旋律で…えっと、本当に見惚れるくらいキレイでした。」
照れたように笑って大地さんは『ありがとう』と言った。ボクが伝えた感想は曲に対するものだけではないということ、ちゃんとわかってもらえたのだろうか。
「セツー。にーちゃんも来いよー。」
庭から元気にボクたちを呼ぶ声が聞こえてきた。
「アイツらも起きたのか。じゃ、そろそろ始めるかー。」
庭に出ると、羽月たちがじゃれあいながらBBQの準備を始めていた。
「遅い!」
「にーちゃん、腹減ったー。」
散々暴れまわって今まで寝ていたはずなのに、復活が早いことで。
「いちいちうるさいんだよっおまえらもちゃんと手伝え。」
「はーい。」
食べ物が絡んでくると二人は異様なくらい素直になるのだと改めて思った。
みんなで食事をしながら他愛のない話をして、たくさん笑った。こんなに楽しくて幸せだと思える時間を過ごすのは本当に久しぶりだった。
「なぁ、花火しよーぜ。」
夕日が眠りにつき、空が暗くなってきた頃穂積が言い出した。
「そんなもん、持って来てない。」
素っ気なく言い切った大地さんを見て、二人は目配せをし勝ち誇った笑顔になる。
「大丈夫。にーちゃん、忘れてるだろうから、俺たちがちゃんと用意してきた。」
そう言ってどこに隠していたのか、袋に入りきらないほどの花火を持ってくる。
「セツー、何からやるー?」
上から袋の中身を確認して大地さんは目を見開く。
「おいおい。おまえらそれはやり過ぎじゃねぇ?」
深い深い溜め息を吐く大地さんを他所に、ボクたちの盛大な花火大会が始まった。
「ちょっあぶねーだろーが!」
「おまえも振り回してんじゃねぇよ!」
初めから予想はしていた…この二人が大人しく花火を楽しむだけで終わるはずがないんだ。案の定、二人は庭を走り回ってじゃれあっている。
「いつまで経ってもガキだよなぁ。」
いつの間にかボクの隣に立って文句を言う大地さんだけど、優しい笑顔が彼の本音を語っているようでボクは微笑んでいた。
花火が全部なくなる頃には夜が明けるんじゃないかと思っていたけれど、その時は思ったより早くに訪れた。
「おー。やっぱ最後は線香花火だよな。」
珍しく羽月がしみじみと言う。
「ははは。情緒の欠片もないヤツが言ってもダメだわ。」
羽月の言葉に穂積が言い掛かりをつけるから、何でもないことなのにすぐに問題事に発展してしまう。
「じゃ、穂積にはやらねー。」
「何それ?まんま、ガキじゃん。」
最後まで落ち着きのない二人を見てとうとう大地さんが呆れ始めていた。
「ボク、みんなでやりたいな。」
それまで黙っていたボクは一言だけ呟いてみた。
「おう。」
「うん。やろうぜ。」
普段からあまり発言しないボクのお願い事は、二人に対してなかなか有効らしい。
ジュッ…という火種が水に溶ける音とともに、長いようで短いボクたちの花火大会が終わる。
「おまえら先に戻っとけ。俺、水撒きしてから入るわ。」
「はーい。」
みんなで協力して何故か散らばっている花火の片付けをした後、ボクたちは客室へ入る。
羽月はフロアに置いてある大きめのクッションのところで寝転び、穂積はソファーに座った。ボクは窓から外の世界を眺めながら、少しずつ速くなる鼓動を静めるためにそっと胸に手を当てる。
「ほい。ひと休みするか。」
水撒きを終えた大地さんがみんなの飲み物を用意して部屋に入ってきた。
二人に話すためにここにいるはずなのに、ボクは何から話せば良いのかさえわからなかった。
どう、する…?
何ひとつ言葉が見つからないボクは深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。そして、いつも着ている薄手のパーカーを脱ぎ、ピアノに向かった。
ボクに、勇気を分けてくれないかな?
そんな想いを込めて、そっとピアノに触れてみる。
『いいよ。ほんの少しだけ、ね。』
ピアノがそう答えてくれた気がしたボクは心の中で『ありがとう』と伝え、スツールに座った。
ボクが目覚めた時に聴こえてきた、大地さんが弾いていた曲…『別れの曲』を弾き始める。
静かに響きだした音色に誘われた二人がボクの方を向いたことがわかる。ステージ上で感じる緊張ではなく、まったく別の感情が心の中で暴れ始めた。
二人はどんな表情でボクを見ているのだろう…そんなことを考えるだけで怖くなって、微かに手が震えてくる。
「セツー。オレ、おまえが弾く『カノン』聴きたいんだけど、弾いてくんね?」
『別れの曲』を弾き終えて訪れた束の間の静寂を破ったのは、ボクの正面にあるソファーに座っている穂積だった。
「あー。俺も聴きたい。」
大きなクッションを抱えながら羽月が手を挙げて言った。
「うん。わかった…」
ボクはたくさんの複雑な想いを胸に抱きながら『カノン』を弾いた…
部屋に最後の音色が響き渡り、静まり返った。そして…ボクはゆっくりと立ち上がる。
「あの、ボク…二人に、話したいことが…あるんだ。」
やっと、その言葉を告げることが、できた。
コンクールに向かう途中で事故に遭ったことから今日までのことを順を追ってすべて話した。そして、今までずっと黙っていたことを…謝った。
許して欲しいとか、理解して欲しいとか…そんなことはどうでも良かったのかもしれない。正直、そんなこと考えてもいなかったんだ。ただ、ありのままのボクを見て欲しいと思っただけなのかも知れない。
「にーちゃんの、創った手なの?」
話している途中で傍に来てくれた羽月がボクに問い掛ける。
「う…ん。そう。」
羽月はボクの右腕にそっと触れてくれた。
「肩んとこがみえないと、実物と同じだな。」
背後にいる穂積が感心したように呟く。
「うん。」
義手に対しての特別視ではなく、ただ大地さんの技術に興味があるようだ。
「それで?セツの手が義手だと、何か問題、あんの?」
予期せぬ質問をされて思考が止まる。
「あ?問題って…」
「セツはセツ、だろ?」
穂積は澄んだ眼差しで真っ直ぐにボクを見つめる。
「うん。」
「気にする必要、ないんじゃねぇの?」
ボクは、何を怖がっていたのだろうか…
「穂積…」
そっか。二人はボクのことをちゃんとわかってくれていたんだ。見た目がどうとか、境遇がどうとかそんなことどうでも良くて、ボクをちゃんと『雪華』として見ていてくれたんだと、やっとこの時、はっきり認識することができた。
もしかしたらボク自身が勝手に、二人に対して境界線を作っていたのかもしれない…
「でも、まぁ、アレだな。隠し事されてたっていうのは、あんまり良い気がしないよなぁ、羽月。」
ニヤリと笑って羽月を見る穂積…
「ん?あー。まぁそーだなぁ。」
何かを企んでいる時の二人の意思疎通は半端なくすごいことをボクは知っていた。
「駅前にできたカフェで奢ってもらおうかなぁ。」
視線で会話をしながら話す二人はとても楽しそうに見える。
「お、いいねー。」
結局からかわれるように、二人のペースに入り込んでしまったボク。そんなやり取りをじっと見守っていた大地さんは耐え切れなくなって大笑いした。
「おまえらってホント、バカだよなぁ。」
笑いが収まらない大地さんに矛先が向く。
「は?誰がバカだ!」
「にーちゃん、さすがに酷くね?」
珍しく羽月までもが反発している。
「事実だから仕方ないだろううが。バーカ。」
大地さんを巻き込んで、三人のじゃれあいが始まった。
そんな三人を見ていたボクは、胸にこみ上げてくる想いを抑えきれなくなってしまった。
「大地さん、羽月、穂積…」
震えるボクの声に三人は動きを止めて振り返る。
「ありがとう…」
そのたった一言が、今のボクに伝えられる精一杯の想いだった。
「お、おう。」
照れて吃る羽月。
「うん。」
笑顔で頷く穂積。
「ん。よく出来ました。」
そっと頭に手を乗せる大地さん。
余計に止まらなくなった涙を何度も拭っていると、三人の手が優しく包み込んでくれた。ボクは感じたことのないぬくもりに癒されながら、声を上げて泣いた。
「じゃ、おやすみー。」
「おやすみ。」
「おやすみなさい。」
ボクたちは大地さんに文句を言われながら部屋の片付けを手伝い、挨拶を交わしながらそれぞれの部屋へ戻った。
「セツ、寝た?」
灯りを消し、ベッドに寝転んだものの、いつまでも訪れない眠気を待っていたボクに穂積が声を掛けてきた。
「まだ起きてるよ。」
「そっか。」
声を掛けられただけで、穂積に起き上がる気配はなかった。
「オレ…知ってたんだ。おまえの手のこと。」
知って、た?
「ちょっと前に大地が最高の義手を創りたいって話してくれたことがあってさぁ。その仕事に就いた時、オレ…すごく嬉しかった。そんな大地とおまえがいつも一緒にいたら、自然とわかってくるだろ?」
それにオレ、人の心が読めるしな。と付け足して苦笑した。
「こんな外見だから、苦労した時期もあったんだ。多感な年頃だったからそれなりに病んでたのかもな。突然、聞きたくもない心の声が聞こえるようになった。」
穂積は、ずっと抗い続けるのも疲れたし、心を殺したまま生きることを選んだら、ほんのちょっとだけ息がしやすくなったと教えてくれた。
「穂積…今も?今もそんな生き方をしているの?」
不安になって尋ねるボクに、穂積は優しく笑った。
「ある日、バカ正直な悪ガキに出会って、バカバカしくてやめた。」
バカ正直な、悪ガキ…って。
「それって、もしかして…」
言葉を濁すボクをじっと見ている。
「オレ、アイツ以外にそんなバカなヤツ知らねーけど?」
そう言って穂積は楽しそうに笑った。
「羽月はさぁ、バカだけど、すっげーまっすぐ生きてて強いヤツだよ。オレ、何度も助けてもらったしな。」
見えている部分だけじゃ、きっとわからないことをこんなふうに教えてもらえてすごく嬉しかった。でも、どうしてそんな大切なことを話してくれているのかがわからない。
「心の声が流れて聞こえてくることは減ったけど、今も…相手に触れた時に少し声が聞こえることがある。強い思いだと今でもはっきり聞こえるんだ。」
穂積は軽くウインクをした。
「え…それって…」
出会ってから穂積はよくボクの身体に触れていたことを思い出す。自然に肩を組んだり、抱きつかれたこともあったっけ…ただのスキンシップだと思っていた。
「バカ正直なヤツ二人に出会うなんて、そんなおかしなことってあるんだなぁ。」
明らかにからかいを含んだ口調にボクは軽く反論をする。
「穂積、それ…失礼じゃない?」
まったく悪びれる様子もなく『そっかぁ?』と受け流されてしまった。
「オレ、おまえの心に触れて…ちょっと泣いた。あ、同情とかじゃなくて励まされたって言うか…背中を押してもらった感じだった。だから、オレ…初めて自分のやりたいことをやる勇気が持てたんだと思う。」
なんかカッコ悪いから、ずっと誰にも話すつもりなんてなかったのにな、と言いながら穂積はベッドから起き上がる。
「元は、大地の夢なんだけど、今のアイツは叶えたい夢ができたからって保留にされてたんだ。それで、オレが引き継がせてもらった。」
そう言って一冊のスケッチブックを渡してくれた。
「これは…?」
描かれているのは、流線型をした乗り物だった。
大型のバイクほどの車体に風よけのシールドが着いていたり、車体の下部に大小のプロペラもある。
「ホバークラフトって呼ばれている、空気圧を利用して空を走るんだ。」
空を、走る…
「この形状だと、かなり抵抗が小さくなるんだろうね。」
ボクの言葉に穂積は嬉しそうに笑う。
「そう。まだ軽量化と空気圧の調整が必要なんだ。今、羽月と一緒に創ってんだぜ。」
きっかけは大地さんの夢だったかもしれないけど、今は二人の夢なんだね。
「オレたちはこのホバークラフトを創り上げることが夢なんだ。」
同じ夢を追いかける同士、かぁ…すごく素敵な関係なんだと改めて思う。
「壮大で素敵だね。空を泳ぐ魚みたいですごく良いと思う。いつかボクも乗せて欲しいな。」
「もちろん。その代わりに…」
穂積はボクの耳元である要求をした。
「う、ん…わかった。約束、するよ。」
「うん。じゃ交渉成立ってことで。」
穂積はしれっとした顔で、わざと右手を差し出している。
「それって…イジワル、だよね?」
ボクはその手を訝しげにじっと見つめる。
「そっかぁ?気のせいだろ?」
ボクたちはしっかりと固い握手を交わして笑った。
やりたいこと、やらなければいけないことが多すぎて、慌ただしく過ぎていく夏の日々をボクたちはほとんどの時間、一緒に過ごしていた。
そして、夏休みが終わる頃…大地さんから突然、渡米すると告げられた。
「セツ!セツの義手の研究サポートをしてくれる病院と施設がやっと見つかったんだ!」
大地さんの言葉はボクたちに衝撃を与えた。
「それって、もしかしてセツも…?」
不安な表情で羽月が問う。
「当然、どうなるな。」
当たり前だという表情で大地さんが答える。
「却下!」
穂積がボクを背に庇いながら断言する。
「おまえら、何言ってるんだ?」
二人の態度に納得がいかない大地さんは不機嫌な表情をした。
「ちゃんと実績を残してから連れて行くもんだろうが!そんな不安要素しかない場所にセツを連れて行くなんて、当然、却下だ!」
いつになく気迫に満ちた穂積の言葉を聞いて大地さんは冷静さを取り戻したようだ。
「はぁ…俺、何やってんだか。」
その場に座り込んでしまった大地さんは深い溜め息を吐き、頭を抱えている。
「セツ…不安にさせてごめん。俺、嬉しすぎて気が動転してたわ…ホント、ごめんな。」
困った子供のように頼りなげな大地さんを見て申し訳なく思い、そっと言葉を掛ける。
「大地さん、謝らないで。大丈夫だから。それから、ありがとうございます。」
座り込んだままの大地さんに手を伸ばそうとした時、穂積がそれをやんわりと制した。
「ほい。いつまで座ってんだよ。」
ボクに変わって手を差し出した穂積はしっかりと手を握って大地さんと立ち上がらせる。
「セツ、詳細がわかったらちゃんと連絡するから。」
「はい。待ってますね。」
大地さんは帰り際にもう一度『ごめんな』と言い残していった。
「はぁ。どうやらオレの周りにはバカしかいないみたいだな。」
肩を竦めて言っている割に、どこか嬉しそうな穂積だった。
「結局、アイツが一番ガキだったりして?」
帰っていく大地さんを見送りながら、穂積が優しく笑った。
新学期を迎え、あっという間に二週間が過ぎた。
「じゃ、行ってくるわ。」
今日は大地さんが単身で渡米する日だ。
「しっかり実績を残してこいよな。」
穂積から一応の激励を受け、大地さんはしっかりと頷く。
「おう。任せとけ。」
あの一件の後で、何度も千歩と交渉し、最終的には大地さんが納得する結果が出るまでの間、単身で行くことで合意を得た。
それを聞いて羽月も穂積も『当然だ』と言い、ボクを守ってくれた。
「セツ、すべてが整ったら迎えに来る。もし、何か不安なことがあったらドクターに連絡して。ちゃんと話は通してあるから。」
しっかりとボクの両手を握り締めて大地さんが言う。
「はい。わかりました。」
ボクは大地さんの心遣いに感謝しながらそう言って微笑んだ。
「行ってくるわー。」
「いってらっしゃい。」
ボクたちをじっと見つめている大地さんは、真剣な目をしている。
「俺の夢を叶えてくる。おまえらも…負けんなよ。」
こんなふうに大地さんらしい言葉を聞けたことが何よりも嬉しかった。
「けっ望むところだ。」
穂積は舌を出して大地さんを挑発する。
「にーちゃんも負けんなよ。」
羽月が拳を握り締めて言う。
「はいっ。」
ボクは笑顔で返事をした。
「やっぱりセツは、素直で良いよなぁ。」
そう言って優しい笑顔を添えてボクの頭に手を乗せる。
「大地!」
「にーちゃん!」
大地さんはそんな二人のことを完全に無視して、嬉しそうにボクの頭を撫でていた。
「じゃ、またなー。」
大地さんはそう言って僕たちに背中を向け歩き出す。いつものように手だけをひらひらと振って、夢を叶えるために歩き出した…
「さて、オレらも帰るか。」
大地さんを乗せた飛行機が見えなくなるまでじっと空を見つめて、ボクたちは空港を後にした。
不意に見上げた青空には、綺麗な飛行機雲が描かれていた…
「ん?雨…?」
呟いた羽月が見上げた時、さっきまで晴れていた空が急に雨雲に覆われ大粒の雨が降り出した。
「うわっ本降りだ!」
ボクたちは慌てて雨の中を走り出した。
降り注ぐ雨たちが創り出すいくつもの水たまりを飛び越えながら、走り続ける。
ねぇ、雨上がりの水たまりの中を見てごらんよ。
そこには誰かの大切な物語が映し出されているかもしれないから。
まだ誰も知らない、不思議な物語…
ほら、覗いてごらんよ。
三人で雨の中を走りながら、小さい頃に読んだ絵本のワンシーンを思い出していた。
ボクもいつか、そんな不思議な世界を見つけられるだろうか?
Last Signal 《 大地 ・ ぬくもり 》
一年前のあの日…大地さんを見送った後で、ボクたちはいなくなった彼の存在の大きさにやっと気がついた。まるで心が迷子になってしまったような不安を紛らわすために、いろんな場所で過ごしてみた。そしてとうとう行き場をなくしたボクたちは、穂積の誘導に従って学校の屋上に向かうことになった。
裏門を乗り越えて金網をくぐり、壁の隙間からブロックに足を掛ける。校舎裏の非情階段に登ろうとしているのだ。
穂積の柔らかで無駄のない身のこなしに『ネコみたいだ』と呟きながらも見入ってしまう。
「おー。さすが侵入者だなぁ。」
パチパチと乾いた拍手が羽月の方から聞こえる。
「ははは。すごいだろう。敬って良いぞー。」
良くないことをしているのだけれど…二人は子供みたいに無邪気に笑って、なんだかとても楽しそうだ。
「あ、セツ、ちょっと待ってな。すぐ開けるわ。」
いつも通りの笑顔とウィンクを残して穂積が姿を消した後、カチャッと音がしてボクの目の前にある小さめのドアが開く。
「ありがとう。」
ボクたちはなんとなく家に帰りたくなくて、いろんな場所に行ったけれど、本当は大地さんの面影を感じなければどこでも良かったのかもしれない。
「アイツ、いるとうるさいだけなのになぁ。」
そう言って穂積は貯水庫の上で寝転んだ。
「ホント、穂積はかわいくねー。」
少し涙声の羽月が大地さんみたいに言う。
「にーちゃん、いつ帰ってくるかなぁ。」
少し乱暴に目元を拭った羽月はボクの隣で小さく呟いた。きっと穂積には聞かれたくないからだろうと、ボクは苦笑した。
「卒業式には帰ってきてくれるよ。」
いつもみたいに、何もなかった様な平然とした様子で帰ってくるんだろうな。
「あれー?流れ星、かなぁ?」
「え?」
「え!」
ボクたちは穂積の声に反応して、だけど、しっかり顔を見合わせてから空を見上げる。そんなタイミングで間に合うわけがない。
「気付くのが遅いんだよ。穂積のバーカ。」
見逃したことを完全に穂積のせいにできるのはきっと羽月だけだ。
「は?教えてもらってその態度かよ!」
やっぱりこんな時でも二人のじゃれあいは発生するんだ、と思ってしまったボクはバレないようにクスッと笑った。
貯水庫の上なんて思っているほど広いわけじゃないから、どう考えたって成長期の男子が三人も並んで寝転ぶのは大間違いだ。
「羽月、それ以上こっちに来んなって。オレが落ちるだろーが。」
「そっちこそ、どっか行けよなー。」
別になんだって構わないけど…せめてボクを挟んで言い合いをするのはいい加減にやめて欲しいと何度も言ったはずだ。でも、今回は…空を眺めていれば、また流れ星が見えるかも知れないと、率先してこの場所に寝転んでしまった自分が悪いのだと静かに溜め息を吐いた。
こんなふうに無言の時間を心地良く感じられるのは、ボクたちが同じ感性を持っているからなのかな。
たくさんの人の中にいても結局混ざり合えなくて、違和感だけが残ってしまうのに、ボクたちは本当に不思議な関係だと思っている。こんなにも異なる存在なのに、反発もせずゆっくりと混ざってだんだん溶け合って…やがて無色になるんだ。
知らないうちにお互いを認め合う関係が成り立っていることが、どんなに一緒にいても窮屈さを感じない理由のひとつなのかもしれない。
寝転んだまま、ただぼーっと空を眺めていると、改めて自分のすごくちっぽけな存在に感じた。
「なぁセツー。なんか弾いてー。」
「無理―。」
呼吸をするような自然な流れで、かなり無謀なお願いをする穂積に向かってボクは遠慮なく拒否をする。
「セツってさぁ…」
トントンと肩を叩かれ、呼ばれるままに振り向いたその刹那、至近距離で穂積の意味深な笑顔と遭遇してしまったボクは、驚きのあまり動きが止まった。
「なーんか、オレに冷たくね?」
ごろんと体勢を変えて、ボクの顔を挟むように両手をついて見下ろしている。
「べ、別に。羽月にもそんな感じだけど?なぁ、羽月…」
同意を求めて声をかけたのに、予想通りというか…やっぱり寝ていた。
「ははは。秒で爆睡できるって特技、ちょっと羨ましいかもな。」
「…確かに。」
子供みたいに眠る羽月を見てボクたちはクスクスと笑い合う。そして、不意に穂積の方を見た時、どうしても伝えておきたいと思った。
「穂積、ボク…」
「ん?」
心のどこかで、すべてを見透かされているような錯覚を感じながらも、じっとまっすぐに穂積の目を見つめる。
「ボク、穂積に冷たくなんか、してないよ。」
ボクの言葉に、ほんの一瞬だけ驚いたような表情をした。でも次の瞬間…
「ふーん。そっかぁ。」
そう言いながら、ポケットから一枚の紙を出してボクに見せる。
「あ…」
「なんで教えてくれないのかな?」
目の前に出された紙には、もうすぐ開催されるピアノコンクールの内容が記載されている。
「オレと、なんか、約束…してなかったっけ?」
いつもよりかなり刺を含んだ言い方と、妖しい笑顔で詰め寄られ困惑して言葉が出てこない。
あれ?でも…
ふと疑問が生まれたボクは穂積に質問してみた。
「まだ予選だし、参加したボクでさえ先週結果を知ったのに、なんで穂積が知ってるの?」
コンクールの予選結果なんて、参加者と関係者くらいしか知らないはずだ。
「うん?予選結果なんて知らない。内緒で参加したことはなんとなくわかってたけどな。」
ニコッと笑って、べーっと舌を出された。
そんな仕草や行動は穂積のお得意なのだから、いつもならスルーできることなのに、なんだか今日は何かが引っかかってしまった。
「ふーん。そっか。ボクを…試したんだ。」
くるりと穂積に背を向けて座り、そう言って俯く。
ちょっとした、仕返しのつもりで…
「セツ?」
いつもとは少し違うボクの態度を不思議に思っているみたいだ。
「そんなヤツ、だったんだ。」
座ったまま俯いているボクの表情なんて見えるはずもなく、くぐもって届く声にさすがの穂積も少し戸惑っていた。
「えっと…あの、試したとかじゃなくてだなぁ。つい、イタズラ心っていうか…その。なぁ、セツ?聞いてるか?ごめんって。おーい、セツ?」
こんなに困っている姿を見るのは初めてかも知れない。ボクの心がチクリと痛んだ。ちょっとした仕返しのつもりだったのに、なんだか思った以上に効きすぎてしまったようだ。本当は全然怒ってなんかいない。それだけボクのことを気に掛けてくれていたことが嬉しいくらいなのだ。それに、ボクはずっと穂積のこと…
「ん?」
そこまで考えた時、視線を感じて我に返る。
「ちょっ離れて!穂積!くっつくなって!」
いつの間にか肩口まで近づいている穂積を引き離そうとするが、そのまま自然に肩を組まれてしまった。
「おい。続きは?ずっとオレのことが、なんだよ。気になるだろーが。」
その言葉で、ボクの心の声が届いてしまっていたことを知り、できるだけ何も考えないようにして誤魔化すように小さく咳払いをする。
「えっと。予選の結果、一位でした。今回の大会で優勝したらコンサートホールでリサイタルを開催してもらえるんだ。」
「へぇ。」
ボクは深く息を吸い込みゆっくりと吐き出した。そして穂積と向かい合うように座り直し、チケットを差し出しながら話を続ける。
「これは、本選大会の招待チケットなんだけど、それでも…受け取ってくれる?」
「もちろん。ありがとう、雪華。」
まるで宝物のように両手で受け取ってくれて、大切そうに眺めている。
「約束、だから。それに…今のボクが奏でる音を聴いて欲しいんだ。穂積に…え?うわっ。」
穂積は正面からボクに抱きついてきた。
「ステージでのセツの演奏、初めて観られるんだなぁ。スッゲー楽しみ。」
「ちょっ…穂積、離してよ!」
ボクが抵抗した分だけ、穂積の腕に力が込められた…
穂積の夢を話してもらって『ボクも乗せと欲しい』と言った時に要求された交換条件。それはこれから先、ボクが出場するステージすべての特等席チケットだった。
生演奏を聴いて欲しいと思っているからこそ、約束できたことだ。ただ、本当は初めてのソロリサイタルのチケットを贈りたかった。だけど、まだ少し先になりそうだから、せめて…夢を叶えるための第一歩となるコンクールのチケットを受け取って欲しくて用意していた。
「あーあ。あと少しで卒業だなぁ。」
穂積は大きく伸びをしながら言ってその場に寝転ぶ。
「そうだね。」
この学校での時間が終わってしまうのか…いろいろあったけど、振り返ってみると短かったように思えてしまう。
「セツは、いつ発つ予定なんだ?」
今までしっかり話していなかったことを何気なく問われた。
「6月頃。こっちの入学式が終わった頃かな。」
海外の音楽学校への留学が決まっているボクは二人とは少し違う生活になる。
「穂積と羽月も別々の学校になるんだね。」
いつも二人が一緒にいることが当たり前だと思っていたから、少し不思議な気分だった。
「まぁ、図面と技巧じゃ根本的に学ぶことが違うからなぁ。」
仕方がないとわかっていても、リアルにその時期が近付くとなんだか淋しい気持ちになってしまう。
「ホバークラフトは俺たちが完成させる!」
いつから起きていたのか、羽月が力強く宣言した。
「おまえ、起きてたのかよ。」
「んー?今、起きたぁ。」
そう言って寝転んだままで大きなあくびをする。
「なぁ大地のバカは卒業式に帰ってくんのか?」
「わかんねー。にーちゃんに聞いてみる。」
ずっとあたたかく支えてくれていた大地さんには、ボクたちが夢に向かって歩き出す姿を見て欲しいと思っている。
それから卒業までの時間はあっという間に流れていった。
コンクールの本選も穂積たちが見守る中、最高の演奏で幕を閉じ、ボクは無事にソロリサイタル開催の権利を勝ち取った。そして念願の初めての特等席チケットを約束通り穂積に贈ることができたのだ。
慌ただしい日常の中迎えた卒業式を、なんとか無事に終えたボクたちは軽やかな足取りで校門へと向かって歩いていた。
「卒業おめでとう。悪ガキども。」
その声を聞いてボクたちは弾かれたように一斉に振り向く。
「あっ。」
「おう。」
「にーちゃん!」
それぞれの反応をするボクたちを、校門の外壁にもたれている懐かしい姿が出迎えてくれた。
「おかえりー。」
「おう。ただいま。」
待ち望んでいた久しぶりの再会を喜んで、ボクたちは大地さんに駆け寄り飛びついた。
会えなかった時間を埋めるように、みんなで近況報告をした。
「そっかぁ。おまえらもちゃんと自分の足で歩いてんだな。」
しみじみと感慨深げに言う大地さんは、なんだか少し淋しそうに見える。
「あ、そうだ。忘れるとこだったわ。これ、卒業記念。おまえらにやるわ。」
そう言って小さな箱を一人ずつに手渡してくれた。
「にーちゃん、開けても良い?」
「もちろん。」
大地さんは笑顔で返事をする。
ボクたちは両手で受け取った箱を、そっと開いてみた。
「…これって…」
箱から取り出してそれぞれが眺めている様子を大地さんは微笑みながら見つめていた。
「羽月には銀の羽。穂積には黄金の穂。雪華には白金の雪…一応お前らをイメージして創ったんだ。ネックレスならつけられるだろ?」
この人は…本当にどこまでもあったかくて優しいのだと感じて胸が熱くなった時、ボクは思わず隣に座っている大地さんに抱きついていた。
「あー!大地、てめぇ!」
「え?俺かよっ。」
ボクが抱きついた瞬間、椅子を倒す勢いで立ち上がり、怒鳴り声を上げる穂積がいた…
必死に穂積をなだめる羽月によって、なんとかその場は落ち着きを取り戻した。
「大地さん、ありがとう…」
「ん。」
そっと頭に触れるぬくもりは。何も変わることなく出逢った時と同じ優しい安らぎをくれた。
「なぁ、大地が戻ってきたってことは…」
少し不機嫌なままではあるが、静かに問いかける穂積に、大地さんは微笑みながらしっかりと頷く。
「ああ。実験結果も研究の実績もできた。論文を提出して認められれば後はこのプロジェクトを公表するだけだ。その前に、セツに…再確認しておきたいことがある。」
大地さんが真剣な表情でじっと見つめている。その表情を見れば何を聞きたいのか、言われなくても解ってしまう程、何度も確認されていること…
「これを公表する際、おまえのことを帰路期したデータを提出することになる。できるだけ個人を特定できないように考慮してみたが、どうしても全部を隠し通すのは無理だった。」
当然だ。
大地さんが研究している義手の性能を、実際に装着して実証したのはボクなのだから。離れている時もドクターを介して、筋電義手をつけた状態での実験映像や実証データを送っていた。そんなことは初めから覚悟していた。存在を誤魔化し、隠し通せるなんて思っていない。
「まだ、今なら引き返せる。辛い思いをしなくて済む方法だってある。なぁ、セツ…俺は…」
「大地、ごちゃごちゃうるさい!いい加減、腹括れよな!」
苛立ちを隠すことなく、吐き捨てるように穂積が言う。
「セツがどんな思いでおまえに協力したか、そんなこともわかんないのかよ!」
文句を言いながらテーブルの上をカツカツと叩いている穂積の手に自分の手をそっと重ねる。
「穂積、ありがと。」
ボクは重ねた手を見つめて微笑みながら伝えた。
「ボクは…もうずっと前からプロジェクトチームの一人として、大地さんの隣に立つことを決めてるんだ。嘘になるから、辛くないなんて言わないけど…でも、逃げたりしない。だってこの義手は、大切なボクの『手』だから。」
話している間、ずっと穂積と羽月が隣にいてくれた。気が付くといつも近くに二人の存在があって、どんな時も励ましてくれていたから、ボクはもう一人じゃないんだと思えて前を向くことができたんだ。
「セツ…ありがとう。それから…なんか俺、情けないヤツで…ごめんな。」
そして…運命の瞬間とも呼べる、永遠にも感じられるほど長く大切なボクたちの時間が動き出した。
「以上のような様々な実験の末、この筋電義手を装着することにより、原因不明である幻肢や幻肢痛の改善に繋がる結果が実証されました。」
静かな会場に、凛とした大地さんの声が響き渡っている。
「ほかの義手に比べ、特殊なシステムを有するため、身体的適合や専門医のサポート、リハビリが必須となりますが、それらの負担を少しでも軽減できないかと考察を続けました。そこで我々は学習機能を備えた人工知能を搭載し、装着する前に対象者の動作と筋電の結びつきパターンをすべて記憶させ、より高い順応性を可能にしました。更に3Dプリンタを活用し、軽量化と低コストを実現したのです。実際にご自身の目でご確認ください。」
いよいよ…ボクの出番だ。
出番が来るのを一緒に待っていてくれた二人は、なかなか動けず、何度も深呼吸を繰り返しているボクの背中をそっと押して送り出してくれた。
「彼は、我々とともにこのプロジェクトに参加してくれました。たくさんの苦しみを乗り越え、予期せぬ痛みに耐え続けてくれたのです。彼は…事故により右手を失い、諦めかけた夢を叶えるために『義手』を受け入れ、再び歩いていくことを選んだのです。」
ボクはジャケットを脱ぎ、右腕が見えるように立ち位置を変えた。
当初のメカニック感が完全になくなり、3Dプリンタの技術のおかげで本物の人体とほとんど見分けがつかないくらいだ。ステージ上の大きなモニターにもボクの義手が映し出されると、会場からどよめきと歓声が沸き立った。
「見た目のクオリティも人体の形状により近くなりました。そして先ほど述べたように、この義手は彼の動作を学習し記憶することにより、今では自由に…ほぼ彼の意思通りに動かすことが可能となったのです。」
そして、ステージの奥の方へと視線を向けた大地さんが合図を送ると、ドアが開き羽月たちがピアノを運んで入ってきた。
「大地、さん?」
焦ったボクは大地さんの方を振り向いて呟くと、彼は耳元で囁いた…
「一曲、お願いできますか?」
混乱し、言葉を失くしたボクの目の前に穂積が歩いてきて手を差し出している。もう一度大地さんの顔を見るけれど、相変わらず微笑んでいるだけで何を考えているのかわからない。
「お手をどうぞ。」
そう言って穂積お得意のウィンクをされたボクは軽く溜め息をこぼし、差し出されている手に自分の手を重ねた。
「ありがとう。」
ピアノまでエスコートされたボクは、参加者たちとピアノに深々と頭を下げてからゆっくりとスツールに座った。
静かに目を閉じて深く息を吸い込む…
ゆっくり、ゆっくりと息を吐き出す…
部屋の照明が少し暗くなり、ボクはショパンの『幻想』を奏で始めた。
約十分ほどある曲のラストを告げる音が響き渡り、部屋が静寂に包まれた刹那、拍手の雨が降り注いだ。さすがの大地さんたちも驚いた表情で場内を見回しているということは、きっと予想以上の好反応だったということなのだろう。
「本日はありがとうございました。」
プロジェクト参加者たちの見送りが終わってもまだ、ボクたちは余韻に浸ったまま、しばらくその場を動けなかった。
「にーちゃんもセツも…すごかったなぁ。」
ポツリと羽月が呟くと、止まっていた時間が動き出したようで、穂積が肩の力を抜いて近くの壁に寄りかかった。
「まぁ、そんだけの実績があるんなら…セツを連れてく許可をしてやっても良いかな。もちろん、期限付きでな。」
大地さんは手元の資料を片付けながら、フッと笑みをこぼした。
「はいはい。ガキがいつまでも戯言ばっか並べてんじゃねぇよ。」
予想以上の賞賛を受け、快挙と言われるような発見や実績を残しているにも関わらず、当人にとっては大したことではないようだ。
きっとこれから先だって、どんなことが起こったとしても、自分たちが偉大なことを起こしたとしても…それこそ何もなかったような顔で、平然とこの場所に戻ってくるに違いない。
「まぁ…それが一番良いかもな…」
ボクはそっと微笑んだ。
いつか覗いた水たまりに映し出されていた世界は、もしかしたら誰かの望む夢の蜃気楼だったのかもしれない。
それとも、真実だけを映し出す水鏡だったのだろうか…
優しい風に誘われて静かに水面が揺れる度にそっと移り変わる世界、その中にひとしずくの光が跳ねて波紋が広がり映し出されていた世界が消えた。
そう、その様はまるで美しくて儚い蜃気楼のようだ…
今までの居場所は…どんなに小さなことでさえキラキラと輝き、目に映るすべてがカラフルに彩られている世界だったのに、そんな魅力的な世界は瞬く間に変わってしまった。
たとえ泣こうが喚こうが、制限時間までは決められた場所にいなければならない。
それが唯一のルール。
ここでは、とりあえずそのルールさえ守っていれば良い。窓もドアも開閉自由で、特別厳しい行動制限もない。ただ、決められた時間が来るまでもんが閉ざされているだけだ。そう、そのもんが開かない限り、帰れない。ただ、それだけなのだ。
学校…みんなはこの場所をそう呼んでいる。
繰り返される平凡で退屈な時間の中を漂いながら、できるだけ平穏に過ごせる方法を見つけていくんだ。そしてボクもやっと、なんとなく無難に過ごせるようになってきたと思う。
改めてそんな事をぼーっと考えていた時、突然視界の端で何かが動いた気がして、窓の外へと視線を移す。そしてその正体を確認したボクは頬杖をついたまま、いつものようにしばらくその様子を観察する。
「本日はお早いお着きで。」
じっと影の動きを目で追いかけながら、微笑みを添えて皮肉の言葉を呟いた時、チャイムの音が鳴り響いた。その音と同時に、教室の中央辺りで今まで微動さえしなかった物体がガタっと勢いよく立ち上がる。
「よし。昼飯だー!」
見慣れた光景なのに、ボクはクスッと笑った。
「あんなに爆睡していたのに、なんで昼だってわかるんだか。」
「あー?天性の才能ってヤツ?」
呆れるボクにはお構いなしで、寝起きの悪魔は伸びをしながらそう言って、まだ眠そうに大きなあくびをした。
目覚めたばかりの悪魔を軽くあしらい、ボクはわずかな癒しの時間を堪能するべく席を立ち、屋上へと向かう。いつも通りのんびりと後ろを着いてくる彼はあくびをしながら問い掛けてくる。
「なぁ、俺の昼飯はー?」
「屋上にいるんじゃないのか?」
振り向きもせず言葉を返すボクに、
「ふーん。そっかぁ。」
と気のない言葉が返ってくる。
まだしっかり覚醒していない悪魔を相手に、どこかふわふわと下会話を交わしながら屋上に着くと、予想通りすでに侵入者が寛いでいた。
「よお。遅かったな。」
声のする方を見上げると、ひらひらと振られている手だけが見える。
屋上にある貯水子の上。そこは本来、ボクの特等席だった。この退屈な学校の中で希少な安息の地だと言っても過言ではないだろう。
初めは一人になれる場所を求めてここに来ていたのに、今となってはもれなくコイツらがついてくる。何でもないことのようだが、もちろんボクにとっては大問題である。
まず、ボクの大問題の原因となっている『コイツら』を簡単に紹介しておこう。
睡眠をこよなく愛している『悪魔』こと別名『羽月(はづき)』
いつだったか、教室で気持ち良くまどろみ始めていた彼に声を掛けた生徒が語るも恐ろしい目に遭ったという噂がある。目つきが鋭く、言葉遣いが荒いため『悪魔』という呼び名が定着したらしい。時々、悪意の込められたイタズラを受けるボクとしては、あながち間違った命名だとは言えない。とはいえ、学校に着くなり、速攻で爆睡する彼は常に教師から怒られる存在となっている。でも本当は、尊敬する兄の影響で興味を持ち、寝る間を惜しんで熱中するほどに機械いじりが好きな、素直で優しい機械バカだという事を補足しておこう。
もう一人は遅刻の常習犯である『侵入者』こと別名『穂積』
定期的に行われる全国共通試験で常に二位をキープしている頭脳明晰なヤツだ。でも、ボクが知っている限り、学校の授業をまともに受けたことは一度もない。だいたい昼休み頃に、羽月と自分のお弁当を持って登校してくる。どこか飄々としていて
「だいたいさぁ『立ち入り禁止』なんて表示してあると、ついつい入り込みたくなるよねぇ?」なんてことを涼やかな笑顔で語る問題児なのだ。ボクにしてみれば、自分の遅刻を正当化しているだけだとしか思えない。運動神経抜群で頭脳明晰、優しく気さくな人たらしは、いろんな意味で『侵入者』なのだ。
そして、ボクの名前は『雪華』
とりあえずボクのことは…
「まぁ、そのうちに。」
なんて言うと、きっと不機嫌な悪魔たちに迷いなく屋上から突き落とされそうなので、ごく簡単に。
小学五年生の頃、誰かの代理で参加させられたコンクールで偉業を成し遂げ『音の魔術師』と賞賛を受けたピアニスト。その時はそれなりに騒がれたけれど、周囲が羨む様な順風満帆な人生が長く続くわけがない。まぁ、何よりもボク自身がそんなことを望んでいなかったのだけれど…
その一年後、小学生最後のコンクールを目前にしたある日、ボクはちょっとした事故に巻き込まれ、すべてを諦める辛さを知った。
「午後の授業って何だっけ?」
一番授業に興味を持たない羽月が、あくびをしながら問う。
「オレはねー。化学。」
穂積は嬉しそうに答える。
得意分野のひとつだから楽しみなのだろう。そんな彼の姿を見て、いつもより早い登校の理由はそれか、とボクは一人で納得していた。
「ボクらは数学だよ。」
午後の授業を告げた後、しばしの無言の時が流れた。
「…じゃあオレは昼寝の時間だな。」
何故か偉そうに腕を組んで頷く様子を見て、穂積とボクは顔を見合わせて肩を竦めた。
「学校に来て、授業中ずっと爆睡するなんて外道だよなぁ。」
イヤミをたっぷり込めて穂積が言う。
「閉門してる時間にわざわざ門をよじ登って忍び込む方がよっぽど質が悪くね?」
負けじと羽月も言い返す。
どうでも良いような、くだらないことなのに、こうやってすぐにじゃれあい出すから困ったものだ。二人を見ていつも思うことだけど、なんだかまるで…
「どんぐりの、背くらべ…だな。」
「は?」
「今、なんて言ったのかなぁ?」
ため息混じりのボクの呟きに同時に反応するなんて、感心するほど気が合うようで。
その後、二人に追い詰められて逃げ場を失った時、昼休みの終わりを告げる音が聞こえた。
「あ、チャイムだ。」
いつもは無情だと思うチャイムの音に救われたボクはホッと胸をなで下ろした。
屋上のドアを開ける前に外していた眼鏡をポケットから取り出し掛け直す。
「さて、騒がしい世界に戻るか。…面倒くさいけどね。」
思わず零してしまった本音に苦笑しつつ、ドアノブに手を伸ばした。
教室に戻ると、予想に反せずまた騒がしい時間が動き始める。
学校という組織も、教室という閉鎖的世界も好きになれない。それどころか、すべてが跡形もなく壊れてしまえば良いと思うことの方が多い。
でも、実際に壊れそうになったとしたら、ボクはきっと必死に守ろうとするのだろうな。だってここは…ボクたちの大切な場所、だから。
最近、時々思うことがある。
もしかするとボクたちの出逢いは、幾重にも入り組んだ迷路を抜け、それぞれの夢の入口へ向かうための『鍵』だったのかもしれない…と。
First Signal 《 雪華 ・ 旋律 》
いつから始めたのかさえ忘れたけれど、気付いた時にはいつもピアノと一緒にいたと思う。留守がちな両親は子供のことなんて関心のない人たちだった。仕事が忙しいだけでなく、自分たちのやりたいことを優先したかっただけなのだ。気が付いた時ボクは、いつもピアノと一緒にいた。
練習だって誰かにやらされているのではなく、ピアノに誘われたり、鍵盤に触れたくなってずっと続けていた。ピアノを弾いている時間は、すべてを忘れるほど値中できる何よりも好きな時間だった。だから本当は小学五年の時に誰かの代理であろうと、ピアノコンクールに出場できたことも、予想以上の賞賛を受けたこともすごく嬉しかった。
その一年後、今度は代理ではなく実力で予選を勝ち抜き、コンクールに出場できることになった時、夢かと思う程に嬉しかった。
どうしても弾きたい曲があったボクは、出場が決まってからも日々ピアノと向き合い、何度も何度も練習を重ねた。
でも…コンクール当日『音の魔術師』はステージにその姿を現さなかった。
それは小学生最後の夏休み。
「…市内の交差点で、小学生が巻き込まれる事故がありました。原因は運転手の不注意によるものとして懸賞を行っております。尚、被害に遭った小学生は近くの病院に緊急搬送されましたが、命に別状はないとのことです。」
何故かボクはまどろみの中を彷徨い、意識がはっきりしない、まるで夢か現か判断できない状況の中、遠くの方で何かの事故状況を報告している声を聞いていた。
「では、次のニュースです。」
淡々と感情のない声で語られていく言葉たちは、どこか呪文のようにも聞こえてくる。途切れ途切れに届く言葉たちを繋ぎ合わせることすらできないボクは、おぼろげなまま重い瞼を一度も開けられず、再び意識を手放した。
どれほどの時間、眠っていたのだろうか。見慣れない部屋で目覚めたボクは、一体何が起こっているのか、どうすれば良いのか何もわからなかった。ただ、頭が異様に重く、体中が痛くてうまく動けない状態だということだけは一瞬で理解できた。
目覚めてからもずっとベッドから起き上がれない日々が続いていたある日、自分が病院にいるのだと知った。
何度も繰り返される面倒な検査が減り、少しずつだけれど、やっと体の痛みも落ち着いてきた頃、どこか緊迫感を纏った石が病室にやって来た。そして、順を追って明かされていくボクの疑問たち…
ああ、いつだったか、遠くの方で聞こえていた事故のニュースが語っていた小学生ってボクのことだったのか…
今から二ヶ月ほど前のコンクール当日、ボクは事故に巻き込まれてそのまま緊急入院することになったらしい。医師は『最善の処置を施したが…苦渋の決断の末、どうしても避けられなかった。』と告げ、何度も何度も深々と頭を下げた。
きっとボクが大人だったとしても、簡単に『そうですか。わかりました。』なんて言えないようなことを一体どう理解すれば良いのだろうか。
長い眠りから覚め、激痛に耐えることさえかなり辛い状況なのに、いきなり突きつけられたこの無情で残酷な事実を受け止めるには、ボクはまだあまりにも幼すぎた…のかもしれない。
夏によくあるスコールの後の濡れた路面を、走行中のバイクがスリップして横転した。それを避けるためにハンドルを切った対向車が、不運にも交差点の歩道に突っ込んできた。
ちょうどその歩道で信号待ちをしていたボクは、真横にあるビルのショーウインドウと車に挟まれてしまったのだ。
微かに甦る情景…
あの時、車が建物にぶつかった衝撃で強化ガラスが粉々に散り、けたたましく鳴り響くクラクションが聞こえていた。
事故を目撃した数名の中には、ボクが生きていることが奇跡のようだと証言する人もいたらしい。人通りの多い交差点だったため、かなりの人たちに影響したが、幸いにも死者は出なかった。皮肉にも、事故原因のひとつでもあるバイクの壊れた部品が飛ばされ、クッションに役割をしてくれたおかげで、なんとかボクも生き残っている。
正直なところ、ボクにとっては…よくある雨上がりのスリップ事故だったという報告だけで十分だった。
『誰が悪いわけでもない。』
いろんな思いを落ち着かせるためにも、その言葉だけで良かった。それなのに、そんな些細な願いさえ叶わず、数日後、滑って横転したバイクを避けるためにハンドルを切った車の運転書の危険行為…つまり、運転中に携帯電話の操作をしていて状況判断が遅れたことが事故の原因であったと警察が発表した。
そしてその報道後、ボクの病室を訪ねてくる人たちが増えた。
謝罪をさせて欲しいと毎日訪れる人もいるらしかったが、病院スタッフに頼んですべて断ってもらっている。
「謝罪?今更謝罪して、一体何が変わるんだよ。ボクには…そんなこと、どうでも良い…ことだ。関係ない…」
そう言ってボクは、そよ風に揺れる膨らみのないシャツの袖に視線を落とした。
病室にやって来た医師が申し訳なさを装い語っていた、最善の処置と苦渋の決断の末、どうしても避けられなかったこと…それを拒否することもできず、今も尚続く激痛と共に突きつけられた現実を受け入れなくてはならないなんて、こんなバカなことがあるのか?
事故に遭い…命は助かったものの、建物の散乱した強化ガラスの破片と車の強い衝突に巻き込まれて、切断しなければならない程の損傷を受けたボクは、意識のない間に片腕を失った。
腕を失ったと同時に、ボクは…息をするように自然にピアノを弾くことも、音色を奏でて魔法のような空想世界を描くことも、魅せることさえできなくなってしまったのだ。
「いっそ…」
目を閉じて左手で自分の右肩を掴む。
「いっそ、死んだほうが良かった…かもなぁ。なんて、な。は、ははは…」
ごく自然に笑おうとしたのに、笑うどころか一筋の涙が頬を伝って床に落ちた。その刹那、ボクの中で張り詰めていた感情の糸が切れ、次から次へと溢れてくる涙。それを止める術を知らないことに、今更気がついた。
さっさと眠ってしまいたい時に限って、消灯時間が過ぎても何故か眠くならない。普段以上に居心地の悪さを感じたボクは、そっと病室を抜け出した。
薄暗く、誰もいない
エントランス付近のベンチに座り、なんとなく目の前にある窓の外を眺めていた。今はただ、何も考えたくなくて…正直すべてがどうでも良かった。
「いつまで…ここにいなきゃならないんだろう。」
いつまでもこんな所にいたって何の意味もないはずだ。
「病院で過ごしてりゃ、腕が生えてくるってか?はっバカバカしい!」
早く、できるだけ早くにすべてを切り離していけば良いだけのことだ。ひとつずつ身近なことから諦めていけば良い。
やっぱり、ボクなんかが自分の感情のままに生きていくことなんて、求めるべきではなかった。ピアノと一緒に居られるだけで幸せだと思う程度でやめておけば良かったんだ。ちゃんと頭ではわかっているのに、ボクは…曲や奏者によって様々な表情を魅せてくれるピアノの音色にずっと惹かれ、いつしか共存することを望んでしまっていた。でも、もしかしたらその場所を居心地が良いと思っているのはボクの勝手な思い込みで…結局のところ、ボクの『住処』じゃなかったのかもしれない。
「はぁ…」
すべてが闇に包まれたような気分の中、深い溜息を吐いて天を仰いだ時、いきなり何かに顔を掴まれた。
「やっと、会えたぁ。」
「?」
間違いなく初見である目の前の少年は、まるで長年の待ち人に出逢えたような表情で、じっとボクを見つめている。正確に言えば背中合わせに置かれたベンチの上にいる少年は、逆さ向きにボクを見下ろしていることになるのだが。しかも、何故かボクは顔を掴まれたままだ。
「あの…」
しばしの静寂を破ったのはボクだった。
「何?」
少年は心なしか嬉しそうに返事をする。
「首、痛いんですけど?」
固定されている顔はそのままで、視線を外して溜め息混じりに軽く抗議してみた。
「ん?あ、ああ。うん。ごめん!」
初めて現状に気付いたらしく、少年は慌ててボクを解放してくれた。
「ごめん…わ、悪気はないんだ。オレ、ずっと会いたくて。だから、あの…えっと、えーっと。」
言葉がだんだん思いつかなくなったからなのか、困惑している少年をじっと見つめているボクのせいなのか定かではないけれど、明らかに態度が急変していく様子に思わずクスッと笑っていた。
「ホント、ごめんな。」
叱られた子供のように、ちょっとバツが悪そうな感じで言い、背中合わせのベンチにおとなしく座り直した。きっとボクよりも体格の良い少年がうなだれている姿は、かなり可愛いんだろうな。さながら大型犬みたいな感じなのかもしれない。想像してみると意外と楽しくて、また微笑んでいる自分に気づく。
病院で目覚めてから今日までずっと、いろんな辛さに耐えることだけを考えていたボクが、ほんの少しだったとしても数ヶ月ぶりにあったかい気持ちになれたのは、素直で真っ直ぐな心の、この少年のおかげだ。
「ねぇ。」
背中合わせのままで声をかけてみたが返事がない。
「んー?」
少し間があってから、間延びした、くぐもった声が聞こえた。
「…起きて、る?」
もしかしたら、起こしてしまったのかもしれない。
「ん?う…ん。起きて、るよ。」
その返事で少年が寝ていたことがわかったボクは、そのまま黙り込む。別に話がしたかったわけじゃなくて『ありがとう』を伝えたかっただけなんだ。そしてできれば『やっと会えた。』の意味を尋ねたかった。
静かになった周囲には自動販売機の低いモーター音が響いていて、ボクのすぐ後ろからは微かな規則正しい寝息が聞こえてくる。ボクはずっと眠くなかったはずなのに、少年の寝息に誘われていつの間にかウトウトしていた。
その時、廊下を歩く音がゆっくり近づいてきたことに気付き、ハッと息を呑む。
…止まったようだ。
まだ少し微睡んでいる意識の中で聞き耳を立てる。
「だから着いてくんなって言っただろーが。」
すぐ後ろで呆れ気味だけれど優しい声音が聞こえた。
「あー。にーちゃん。仕事、終わった?」
まだ完全に寝ぼけている少年に『にーちゃん』と呼ばれた人は苦笑したようだ。
「ああ。遅くなってごめんな。さ、帰ろうか。」
なんて心地の良い声なんだろう。
「うん。」
なんとなく見つかってはいけない気がしたボクは、咄嗟にその場で身を屈めた。
「!」
慌てて、急に無理な体勢をしたことで身体中に痛みが走る。今まで以上の激痛に声も出ないままボクは、ドサッと荷物が落ちるような音と共にベンチから崩れ落ちた。その鈍い音に気付いた『にーちゃん』は不思議そうに辺りを見渡して、床にうずくまるボクを見つけた。
「おい!大丈夫か!」
そう言って駆け寄ってくると、身体を支えてくれた。
「大、丈夫で…す。」
痛みに耐えながらもなんとか立ち上がって、静かに深呼吸を繰り返した。
「なぁ、おまえ。顔面蒼白だぞ。医者呼ぶか?主治医、誰だ?」
こんな問いかけ方をするってことは、病院関係者なのだろうか。だとしたらあまり関わりたくはない。
「大丈夫です。もう落ち着きましたから。お騒がせして、すみません。」
まだ続いている痛みに耐え、平静を装う。踵を返してさっさとその場を去ろうとしたボクに伸ばされた『にーちゃん』の手は届かず、空を切った。
「……」
ボクの右腕のシャツが不自然にふわりと揺れたのを見ても『にーちゃん』は少しも動じていないようだった。
たったこの数ヶ月だけでも、片腕がないことで不可解なモノを見るような目や怯えた表情、哀れみを含んだ表情をされた。きっとこれから先ずっと、こんな対応をされ続けるのだと思っていた。それなのに、ボクに向けられた言葉は受け入れるために覚悟をしなければならないような特別なものではなかった。
「ちょっとだけ待ってて。すぐ戻る。」
真剣な眼差しでそう言い残し、眠そうな弟を連れて『にーちゃん』はその場を離れた。
約束をしたわけじゃないけど、まだ病室に戻る気にもなれないボクは、そのまま得体の知れない『にーちゃん』を待つことにした。真っ暗な空間の中で静かに目を閉じ、わずかに聞こえる音たちにそっと耳を傾ける。
数分後、急ぎ足で『にーちゃん』が本当に戻ってきた。
「良かったぁ。待っててくれたぁ。」
ボクの姿を確認し、安堵の溜め息を吐いてその場にしゃがみこんだ矢先、まるで子供のような眩しくて無邪気な笑顔でボクを見上げる。
「忙しい人、ですね。」
その様子に呆れた苦笑するボク。
「おまえが落ち着きすぎてんだよ。」
と笑って言いながら立ち、両手を高く上げて伸びをする。
「じゃあ、改めて。俺は大地だ。よろしくな。」
自然な仕草で握手を求めて差し出された手を拒むことなく、何故か引き寄せられるように握ってしまった。そんなボクを見て『にーちゃん』…大地さんは満足しそうに目を細めて微笑んだ。
そう。彼は迷うことなく自身の左手を差し出していた。
「誰かに邪魔されるのはイヤだし、場所を変えようか。」
大地さんは目的地を告げずにゆったりと歩き出し、ボクはその後ろを黙って着いて行く。彼が不意に立ち止まり、どうぞと言われて通された部屋はまるで…物置化ゴミ箱みたいだった。
「あー、その辺り足元気をつけてな。」
言われた瞬間、床ではない微妙に柔らかい物を踏んでしまった。
「何か…踏んだかも、知れないです。」
「はは。よくあることだからー。」
慣れているという理由だけで良いのか不安だけれど、彼は楽しそうにカラカラと笑っている。楽しみながら部屋の奥へと進んでいく姿は、さながら勇敢な冒険者に見えなくもない…かな。
「おっ!一番片付いている場所発見!」
一応、探してくれていたのか。
「はぁ…これで?一番片付いているんですね。」
病院内にこんなにも荒れ果てた場所があって良いのか、愚問ではあるが…
「ま、適当に座って。」
ニコニコしながら言う大地さんにわざと聞こえるように深い溜め息をついた。
「コーヒー淹れるけど、飲めるか?」
マイペースな彼の急な提案に返事をするタイミングを逃したボクは、ただ無言で頷くしかできなかった。それでも彼は優しく微笑んでくれる。今まで出会ったことのない、不思議な雰囲気を持つ人だなぁと思いながら見ていると『ほい』とカップを手渡された。
「あ、ありがとう、ございます。」
「ん。」
少し戸惑いながらお礼を伝えるボクに、また優しい微笑みを返してくれる。
コーヒーブレイク中の無言の時間を心地良く感じながらも少し緊張している、そんな微妙な感情に気づいたのか、彼はちょっと大人びた落ち着きのある柔らかな笑みを口元に添え、でも…真剣な眼差しでボクをじっと見ている。
「さて、本題に入ろうか。」
コトンッと静かにカップを置き、彼はゆっくりと話し始めた。
「実は、今日がはじめまして…じゃないんだ。まぁ出会いと呼ぶにはかなり一方的なものだが、一年半くらい前に俺と弟はキミを初めて見た。」
一年半前…今となっては正直、その頃のことを思い出すのは辛いけれど、イヤな思い出ではない。偶然だったとしても、ボクが初めて大勢の前で曲を奏で、予想以上の賞賛を贈ってもらえた日だから。
「もしか、して…コンクールに、来てくださっていた、の…ですか?」
なんだか胸が締め付けられるように息苦しい。ボクはそれを解くようにゆっくり、静かに深く息を吸い込み、もっとゆっくりと息を吐き出してみる。
「どうせなら、ちゃんと客席に座って満喫したいって思うくらい、心に響いてきた。」
何度か深呼吸を繰り返して、やっと息苦しさから解放され始めた。
「客席意外って、一体どこで聴いていたのですか?」
少し落ち着いてきたボクは彼に問い掛ける。
「んー?ステージ真正面の特等席、かな。」
彼はいたずらっ子みたいなやんちゃな笑顔で得意げに答える。
「え?」
理解できないボクはきっと不可解な表情をしているだろうな。
「ははは。あの音楽ホール良いよな。古いけど基盤がしっかりしているし、何よりも設計が正確なんだよ。こう見えて俺、何度も修理に行ってるから。ステージの真正面、マジックミラーの奥には音響室があって、そのままハシゴで二階に上がれば証明調節もできる。コンクールの日、俺と弟は設備調整の依頼を受けてあのホールに居たってわけだ。」
ボクの演奏を聴いてくれただけでも嬉しいのに、心に響いたって言ってくれた。飾らない素直な言葉が余計に嬉しかった。
「あの…ありがとう、ございます。」
どうしてもお礼を伝えたくなったけれど、なんだか照れくさくて、ボクは小さな声で呟くように言った。
「うん?」
聞き返されたボクは少し焦って言葉を探した。
「ボク…あのコンクールが初めてのステージだったんです。すごく緊張していたし、間違えずに弾かなきゃって思ってたくさん練習しました。でも、ステージに上がったらそんなことどうでも良くなって…気が付いたら、ただピアノに誘われるまま奏でていました。だけど、本当に楽しい時間でした。」
話しながらボクは、その時のことをはっきりと思い出していた。
「音の魔術師、だもんな。」
「そんなことまで…知っているんですね。」
ボクは気恥ずかしさを感じながら言った。
「謙遜しなくて良いだろう?それまでクラッシクなんて無縁だった機械バカな弟が、ひたすらキミの曲を聴き始めたんだ。音の魔術師で合ってんだろ。まぁ、俺も一目惚れしたんだけどな。だからあの時、正当な修理代とちょっとした追加報酬として曲のデータを貰い受けたんだ。」
不敵な笑みで得意げに言われても…本当にそれは正当な請求なのだろうか?
「でも、あの…追加報酬って?」
修理や調整以外に何かをしたということなのだろうか?
「まぁ細かいことは良いとして。もう、半年前になるんだな。」
彼が遠くの方に視線を移したその刹那、表情から笑みを消し、低く落ち着いた声で話を続ける。
「あの日、俺たちはおまえとの再会のために会場へと向かっていたんだ。その途中、反対側の交差点で事故が起こった。巻き込まれた小学生がおまえだと知ったのは少し後だったけれど…俺たちは例えようがない程の大きなショックを受けた。それからずっと、俺たちに出来ることはないのかと考えていた。きっと何かひとつくらいあるはずだと信じて…」
話しながらずっと苦しそうで、何かに耐えているように見えたボクは疑問を投げかけてみる。
「どうして、そんなになんとかしたいと思ったのですか?面識があるわけでもないのに。貴方たちには関係ないことでしょう?」
自分でもどうしてこんなに落ち着いていられるのか不思議なくらい、淡々と言葉が出てきた。
「いや…」
少し俯いたまま、彼はゆっくり首を左右に振った。
「確かに…事故を起こしたのは俺じゃない。だが、間接的な原因にはなるんだろうな。」
そう言って彼は深い溜め息を吐く。
「間接的な、原因って?」
「俺、時間的に余裕のある時は親父の仕事も手伝っていたこともあって。あ、親父は車とかバイクとか…まぁ、依頼があれば機械全般の修理を担っているんだ。」
たぶんボクは話を聞きながら困惑した表情をしていたのだろう。彼は苦笑しつつ、町の修理屋さんみたいな感じだと付け足してくれた。
「あの時に事故ったバイク…最終整備をしたのは俺なんだ。ブレーキ部分と車体の体感修正を依頼されていたのに…確認が甘かったのかもしれない。」
そんなの、単なる思い込みでしかない。きっと目の前で自分の行動を後悔している彼は、精密な修正と完璧な修理を施し、何度も確認しているはずだ。彼と少しでも関わりのある人なら誰だってわかるはずだ。
こんなにも誰かを大切に思い、優しい眼差しをする人なのだから…
「雨の日は…よく滑りますよね。」
今、ボクはちゃんと笑えているだろうか…
「は?」
彼は弾かれるように顔を上げ、不思議そうにボクを見つめている。
「車もバイクも、自転車も三輪車も。ふふふ…」
話していてなんだか少しずつ楽しくなってきたボクは、壁の少し上の方に位置する窓から外の景色を眺める。
「歩いているだけでも…そう、何もなくったって転ぶことだってある。いっそ何が起こっても不思議じゃない。」
起こってしまったことは取り消せないからこそ、ボクはこの現状を受け止め、どんなに時間がかかっても、受け入れていかなければならないんだ。そのために必要最低限のケジメは既につけたつもりだ。
「大地さん。」
「うん?」
ボクは目を閉じて頭を下げる
「ありがとうございます。」
きっと、それがボクの素直な気持ちだ。
「…イヤミ?」
訝しげに見つめる彼に対して微笑む。
「本心です。ボクがこうして生きていられるのは、バイクの部品がクッションになってくれたから、なんですよ。」
もし、本当に彼の修理がいい加減なものだったとしたら、バイクの部品だって大破していただろう。でも、そんなことにはなっていない。彼の後悔を打ち消す理由としてはそれで十分のはずだ。
「そんな…」
ボクの言葉を聞いて驚いているということは、こんなにも大切な事実を知らなかったということだ。
「貴方が謝る必要なんて何もないんです。それに、そもそも事故なんですから。」
「……」
ボクはそっと口角を上げ、自分の心に語りかけるように言葉を紡ぐ。
「あれは、夏の一時的な激しい雨の、イタズラ…だったんですよ。きっと…」
彼は目を閉じたままボクの声を聞いている。話し終わり、だんだんと部屋に静けさが漂い始めた頃、彼は一度だけ深呼吸をしてしばらく動かなくなってしまった。
しばらくして、少し落ち着いてきた彼は、机の上に放り出されているタバコに手を伸ばす。
「病院って禁煙なんじゃ、ないんですか?」
思わず言ってしまったが、彼は気にした様子もなく苦笑しながらも慣れた手つきでタバコに火をつける。
「んー。正確に言うと、ここは病院の敷地ではないんだよな。」
当然許可はとってあるが、特殊な実験や研究、開発を行っているため、病院の地下を介してこの別館施設へと移動できるそうだ。
「大地さんはここで何をしているのですか?」
ごく素朴な疑問を投げたつもりが、ふと彼に視線を移した時、なんだか罠に掛かってしまったような錯覚を感じた。
「知りたい?教えてやっても良いけど、全面的にオレに協力することが条件だって言ったら、どうする?」
緩やかに紫煙を燻らせながら、怪しげに微笑む姿に肌が粟立つ。
真面目で優しいのか、狂気じみて危険なのか…よくわからない人だ。
「協力する気はないです。」
ボクが冷静に即答するなんて彼は予想していなかったらしく、かなり慌てた様子だった。
「マジか!」
と、今までの余裕は一体どこへ行ったのか不思議なくらいの変わりようだ。でも一瞬の沈黙の後、彼はまだ吸いかけのタバコを灰皿にギュッと押し付け、まっすぐにボクを見た。
「ちょっと付き合え。」
彼が壁のボタンを押すと、床の一部がスライドし地下へと続く階段が現れた。促されるままに地下に向かって降りていく。
「付き合えと言ったのは、ボクに…この場所を教えたかったからですか?」
階段を降りきったボクは、まるで影を縫い付けられたのかと思う程、急にその場から動けなくなった。
「ん。まあな。」
簡潔にそう答えた彼は、興味深げにボクを見つめる。
立ち尽くした状態で部屋の中をゆっくりと眺めることしか、できなかった。制作途中の何かの設計図や部品、工具類。大型パソコンと数代のモニター。医療というよりは実験室か作業室みたいな景色に圧倒され、ボクは言葉を失った。
「ここは俺の研究開発室だ。今後、おまえの為に活用したいと思っている。それには当然だが、何よりもおまえの協力が必要となる。」
ボクの、ため?この研究室をこんなボクなんかの為に活用するって?
「一体、どうしてそんなことを…」
見慣れない物ばかりがあるからだろうか。彼の言葉すら少しずつ不透明になっていって、理解できなくなっていく…
「俺は、おまえの奏でるピアノをこれからもずっと聴きたい。俺だけじゃない。弟も…そしておまえの音を賞賛した奴らもきっと、そう思っているはずだ。特に弟は強く願っている。だからこそ、ずっと一緒に探していたんだ。」
ああ、そうか。だからボクを見つけた時の言葉が『やっと会えた。』だったのか。
「本当にもう弾かないのか?」
ちゃんと聞こえているはずの言葉なのに、ボクは一瞬何を問われているのかわからなくなった。
「もう…弾かない?弾かない、だって?」
ボクがどんなに弾きたいと強く願っても、情熱的にピアノが誘ってくれたとしても、二度とピアノを奏でることはできない。
そう…もう、弾けないんだ。
「弾かない、理由を教えてやるよ。」
感情のない声でそう言ってボクは、シャツのボタンを外し始めた。少しは慣れてきたといっても、簡単な動作でさえまだ指先が震えてぎこちない。時間をかけながらボタンを外していくボクの姿を、彼は無言でじっと見つめている。
やっとの思いで最後のボタンを外し、無機質な乾いた音と共にシャツを床に落とした。
「これでも…これを見ても、弾かないのかって聞くんですか?」
これは一体、何の仕打ちなのだろうか…
「そうか…」
彼は大股でボクに近づき、注意深く観察を始めた。
「…うん。そうか。ああ、そうだよな。うん、なるほど…」
一人でウロウロしながら、熱病に罹ったかのように何かを呟いている。
「少しは動かせるのか?まったくコントロールできない感じではなさそうだな…」
二の腕の半分ほどの位置までしかない腕を自由に動かせると思っているのだろうか?
「何を、言って…?」
やりたくもないリハビリを続けて、やっとわずかに動くだけで偉そうに動かせるなんて言えるレベルじゃない。ボクにとってはまったく動かないのと同じだ。
「ピアノ、弾く前に…まずは日常生活なんじゃないかと、思いますけどね。」
ボクの言葉なんて彼には届いていないようで、何度もボクの右腕を興味深く、真剣な眼差しで見つめている。
「なぁ…」
彼は見上げるような形でボクに問いかけてきた。
「何、ですか?」
次に投げられる言葉が怖くて、つい身構えてしまうボクの鼓動がだんだん速くなってくる。
「俺に、掛けてみないか?」
この上なく真剣な表情なのに、言っていることがいい加減すぎて返答に困ってしまった。
「はぁ?」
なんとも間の抜けた返事をしてしまったボクに対して彼は言葉を続ける。
「やっぱり俺は、これからもおまえのピアノが聴きたいからさ。」
そう言いながら彼は床に落ちているシャツを拾い、そっとボクの肩に掛けてくれた。
ボクのピアノを聞きたいと思ってもらえることは、何よりも嬉しいことだけれど…こんな腕で演奏なんてできるわけがない。それこそ本当に奇跡が起こらない限り、不可能だろう。
「考える時間が必要なら、これ、渡しておくわ。」
無理矢理渡された名刺には『義肢装具士』と記されていた。
「義肢、装具士…」
静かに呟いたボクは視線を感じて彼の方を見た。
「おまえの考えが決まったら、今後のことを相談していこう。義手のこと、それなりに詳しく調べてんだろう?」
黙ったまま…だけど深く頷いたボクを見て、彼は満足そうに笑った。
「ボク、部屋に戻ります。」
これ以上ここにいると、なんだか心の奥までも見透かされてしまいそうだと感じたボクは、そう告げた。
「そうか。じゃあ…」
不意に手を出され、何かを催促されていることはわかるのだけれど…
「俺には、連絡先教えねぇの?」
なんだこの、悪ガキみたいな態度は。
「名刺なんて持ってないです。」
冷たく言い切ると彼はわざとらしく肩を竦めて考えるふりをした。そして何かを思い出したかのような仕草で引き出しをから一枚の髪を取り出し、ボクに渡してきた。
「訪問者、記録票?」
訝しげな態度のボクに向かって、ニッとわざとらしい笑顔を見せる。
「地下研究所へようこそ!」
正直、そんな貼り付けた笑顔で招かれた覚えはない。ボクは深い深い溜め息を吐き、受け取った紙の裏に歪な文字で名前と携帯番号を書いて彼に押し返した。
「確かに。」
彼は汚い文字の並んだ髪を両手で持ち、大切そうにじっと見つめていた。
「じゃあ、ボク帰ります。おやすみなさい、です。」
今度こそ、ここを出て行く決心でそう伝えた。
「部屋まで送る。」
嬉しそうに言って、手にしたタバコをテーブルに放り投げた。
「遠慮します。」
ボクがはっきり断ると、案の定彼は誰が見ても不服そうな顔をした。
「なんでだよ。」
そう言っている姿はまるで拗ねた子供でしかない。
きっと分類すれば『大人』の枠に入るはずなのに、と思いながらも特に理由のないボクは言葉を濁す。
「別に…」
困っているボクを見て少し満足したのか、彼はクスリと笑った。
「…じゃ、せめて地上までは送るわ。」
傍から聞けばおかしな申し出に違いない。だけど、確かに少し不安なので地上までは送ってもらうことにした。
「そう、ですね。じゃあ、お願いします。」
ボクの返事を聞いて、勝ち誇ったような不敵な笑みを浮かべた彼には気付かず、一緒に部屋を出た。
その後、一緒に出てきた彼はしれっとした顔で、結局ボクの病室まで着いて来た。
「うん。無事に送り届けられて良かった。」
到着するなり満足そうに笑う彼の姿を見て、ついつられて笑ってしまった。
「ありがとうございました。」
自然な流れで軽く会釈をしてお礼を言うボクの姿を見ていた彼は、クスッと笑う。
「いえいえ。ゆっくり休めよな。」
「はい。」
マイペースで行動を予測しにくい彼だけど、さすがに病室に入ろうとはせず、その場で踵を返して来た道を歩き出す。ボクは、慌ててその背中に声を掛けた。
「大地さん!あの、ボク…ちゃんと向き合って、考えてみます。」
ボクの言葉が届いたようで、ピタリと歩みが止まった。
「おー。いつまでも待ってるよ。セツ。」
振り返った大地さんは、今までで一番穏やかで、優しく包み込むような笑顔をしていた。
遠ざかっていく背中を、ボクはしばらく見つめていた。そして本当はずっとずっと前から決心したかったことを声に出してみる。
「貴方に、賭けてみても良いですよ。ボクの、すべてを…」
誰もいない場所で静かに呟いてみた。
もし、ボクの本音を、本当は今すぐにでも貴方に伝えたかったんだと言ったら、驚きますか?それとも想定内のことなのでしょうか?どちらにしても、ズルい人ですよね。いろんな理由をつけて諦めようとして必死になっていたボクにあんな言葉をくれるなんて…
『これからもお前のピアノが聴きたい。』
たった一言でどんなにボクの心が癒されたのか…
ちゃんと、わかって…いるんですか?
彼の背中が見えなくなって、しんっと静まり返った廊下を後にし、ボクは病室のドアをゆっくり閉めた。
「今、俺にできることは、おまえからの連絡を待つ…しかないんだよなぁ。」
大地な不安そうな表情で苦笑しつつ、さっき受け取った大切なメモを入れた胸ポケットにそっと手を当てて願う。
歪な文字だけれど、丁寧に頑張って書いてくれた文字。名前と携帯番号、それから…
Play again… by,Setsuka
のメッセージ。
「雪華のピアノ、早く聴きたいな。」
この願いはこれからもずっと消えない。絶対に、消したりしない。
一週間後、一応無事に再会を果たしたボクたちは、それぞれの強い思いを胸に抱き、果てしない夢への挑戦を始めた。
大地さんは研究室にいることが多いため、半ば強制的に許可を取り、勝手に住み着いているらしく、ある程度快適な生活ができるスペースが確保されている。義手をつける事で発生する痛みや不具合、身体の変化などを観察し調整していく必要があるため、数週間を研究室で暮らしてもらいたいと言われた。
専門的知識を持った医師や技術者の協力が必要だという理由で、大地さんは信頼している悪友を数名招いて彼の求める医療チームを発足すると、病院側への説明や面倒な手続きもすべて済ませてくれた。あっという間にボクは何の問題もなく、外出許可をもらえたということになる。各地から招集されたチームメンバーの初顔合わせの時、軽く挨拶を交わした後すぐに義手の種類と用途についての説明が行われ、今後の治療計画とリハビリの進行についての話し合いも始まった。
「まずは感覚を取り戻していくこと、重さに慣れていくことから始めようと思う。」
簡単な説明を受けたボクは『装飾用義手』を取り付けてもらう。考えていたよりも重く、半日ほど装着しているだけで肩こりやしびれが出てきた。初めのうち、ボクは苦痛がバレないようにできるだけ表情を隠していた。だけど大地さんを筆頭にメンバーそれぞれが気付いてくれて、さりげなくサポートされていくうち、不器用ながらもボクなりに彼らを信頼するようになっていった。
「ほい、セツ。少し休憩しようか。」
大地さんはひんやりと冷たいタオルをボクに手渡してくれた。
「はい。ありがとうございます。」
優しい微笑みを残して、彼は淹れたてもコーヒーをメンバーたちに手渡していく。その一瞬のやり取りの後、みんなに笑顔が咲いていく。
やっぱり不思議な人だなぁと思いながらその様子を眺めていると、ボクの目の前にもカップが差し出された。
「お疲れさん。」
深みのあるコーヒーの香りがふわりと漂い、気持ちが落ち着いていく。
「ありがとうございます。」
そういえば…コーヒーを飲み始めたのっていつからだったっけ?そんなどうでも良いことを考えていると、大地さんがじっとボクを見て、声を掛けてきた。
「セツ。そろそろ、次の段階に移ろうと思うんだが…」
どこか歯切れの悪い言い方に不安を感じながらも聞いてみた。
「次、ですか?」
初めて装着した義手は『装飾用義手』といい、外観重視なので手先の開閉機能さえ備わっていない。大地さんが言っていた通り、重さに慣れるためには最適な義手で、実際に少しづつ慣れてきたと思う。でも、ボクは義手を着けることで生じる実際の重さよりも、それ以上に重要な問題に向き合っていた。殆どの人たちができて当たり前だと認識していることを失ってしまったこと。そしてそのある種間違った認識は、失わなければ本来の意味や大切さに気付ないこと。
そんな人間の愚かさのような常識や感情を日々、痛感していた。
「これは、能動義手といって、手先の開閉や肘の曲げ伸ばしができる。通常の動作がほとんど可能になるんだ。」
僕の腕を丁寧に付け替えながら説明してくれる。
「あの…通常の動作って…」
大地さんはボクが聞きたいことに気付いたようで、少し困った表情を浮かべている。
「焦らなくても大丈夫だ。この義手が使いこなせるようになったら、作業用義手に替えるから。セツ、痛みはないか?」
いつもなら安心できる微笑みを向けられても、胸がギュッと締め付けられる思いが残る。
「はい。大丈夫です。」
なんとか笑顔で返事をしたけれど、やっぱりピアノを弾けるようになるのはまだまだ先になりそうだな…と思うとちょっと気分が下がってしまう。
「セツ。まだ始まったばかりなんだ。ゆっくりいこう。」
元気づけるように言葉を掛けられ、ボクはそっと目を閉じた。
「そう、ですね。」
軽く息を吐き、そう言った。
「とりあえずは、その義手に変更して一週間ほど様子を見る予定だ。」
計画していた予定よりも順調にリハビリが進んでいるから、このまま大きな不具合や問題がなければ、今年中にピアノを弾けるだろうと大地さんは告げた時、じんわりと心の真ん中があったかくなるのを感じた、気がする。
ボク、やっぱりピアノが好きだ。こんな状況でも素直にそう思えることが幸せだった。
そして、能動義手を装着するようになって一週間ほどが過ぎた。
慣れるまでは悪戦苦闘の日々だったが、義手の動きもだんだんと自然になってきた。袖の長いシャツなどを着ていれば接続部分が隠れるから、人体の腕と変わらないかもしれない。
「なあセツ。明日、出かけようか。」
突然の思いつきの提案は今に始まったことではない。
「どこへ?」
それなりの付き合いになってきたボクが大地さんに疑いの眼差しを向けると、何故か彼は嬉しそうに手招きをした。他の誰が見ても、明らかに何か良からぬことを企んでいるような怪しい笑みを浮かべている。
必要以上に警戒してボクが近寄らないとわかった途端、大地さんはそっと距離を縮めてきた。怪しげな雰囲気を纏い、そっと耳元で『ヒミツ』と囁かれ、その行動に呆れるよりも嫌悪感が勝ってしまったボクは…渾身の一撃をプレゼントしてしまった。
「あ…ごめん、なさい…です。」
「…ッ」
予測していなかったボクの行動。その痛みに耐えている彼に謝罪の言葉は届かず、儚く消えてしまった…かもしれない。
「大地さん。本当に、ごめんなさい…」
まだ動けずにいる彼にもう一度、誤った。
「おはよー。お、大地。今日はいつもよりカッコいいなぁ。」
お昼過ぎだというのに、大幅な遅刻を気にするでもなく時間にルーズなボクの担当医が楽しそうに笑いながら、目の前にいる大地さんの頭を豪快に撫でた。
「うるさいっ」
この不機嫌の原因は他でもない、このボクだ。
遠目だったとしても、事の一部始終を見ていた他のスタッフがドクターに成り行きを説明した直後、案の定大爆笑され、大地さんの不機嫌メーターが上がる。当然のことながらボクの居心地が悪くなっていく…
「大地さん、大丈夫ですか?ホント…ごめんなさい。」
頭を下げて素直に謝るボクに、苦笑しながら静かに首を横に振ってくれる。
「いや。俺が悪かった…」
まだそっぽを向いたまま呟く大地さんは、少し拗ねた様子で腫れた左頬を冷やしている。
「でも、まぁ。咄嗟に右手が動くようになったんなら上出来、かもな。」
やっと視線を合わせてくれたと思ったら、さっきまでの拗ねた表情は跡形もなく消え、いつもの見慣れた不敵な笑みに変わっていた。
「あ…」
もしかして…わざとだったのかと真意を聞きたくても、きっと彼はうまくはぐらかして教えてくれはしないんだろうな。
「明日9時頃、迎えに来るから。」
いつの間にか大地さんにとって、一日の終わりにボクを病室まで送り届けることが日課になってしまったようだ。
「わかりました。」
施設から病室までの道のり、白衣のポケットに手を突っ込んだままゆっくりと歩いている彼の少し後ろを歩くボクは、この時間が気に入っている。
特別に何かがあるわけではないけれど、気持ちが落ち着いていくような不思議な感覚に包まれていられるから、好きだ。
「今日もお疲れさん。おやすみー。」
病室の前で交わす挨拶。たとえありきたりな言葉でも、好意的な相手に言われるとなんだか嬉しいものだと知った。
「おやすみなさい。」
次の日、約束した時間の5分前に病室のドアがノックされる。すでに出かける準備ができているボクは静かにドアを開けて、軽く挨拶を交わした。
「じゃ、行こうか。」
「はい。」
病院から車で1時間くらい走っただろうか。
市街地から少し離れただけで、目の前に広がる見たことのない景色はどこか知らない世界に迷い込んだ気分にしてくれる。
あまり車の通らない道路の両脇に、規則正しく並んでいる街灯と街路樹が視界の中をゆっくりと流れていく…
「到着っと。」
古い外国の童話に出てきそうな風景の中、緑の木々たちに守られているような感じで二階建ての洋館が存在していた。
「ここ、は?」
どこにも人の気配がしない。
「俺が小さい頃に時々滞在していた家。」
小さい頃…ということは、今は使われていないのだろうか。
「大地さんの…」
いつも以上に穏やかな微笑みを浮かべている大地さんが、気持ちよさそうに深呼吸した時、彼の携帯が鳴った。
「うん。ああ。急に言い出して悪かったな。うん、助かったよ。」
盗み聞きしている感じになるのがイヤで、ボクは不自然に思われない所作で少しだけ離れてみる。
「そのうちにな。うん、ありがとう。ああ、また連絡する。」
電話を切った後、大地さんは慣れた手つきで家の鍵を開ける。
玄関を入ってすぐ目の前に広めの階段がある。分かれている廊下の先は、右がリビングで左が客室だと説明してくれた。2回は家族がそれぞれ使っていた部屋があるらしい。日常の生活感がないのは、元々長期休暇などで時々滞在するような場所だからだろうな、と苦笑された。
「最近、使ってなかったしな。」
急遽、掃除と簡単な修繕を依頼したのだと付け足した。
「気になるところは好きに見て回って良いけど、とりあえず休憩しようか。」
そう言って客室のドアを開けてくれる。
「どうぞ。」
入口に立って部屋に入るよう促す大地さんの傍を通る。
「お邪魔しま、す…」
部屋に入ってすぐに動かなくなったボクを心配したのか、大地さんは横からそっと顔を覗き込んできた。
「どうしたぁ?」
すぐに返答できず、ボクは息を呑む…
「いやがらせ、ですか?」
出会った頃の彼のように尋ねてみた。
「まさか。」
微笑みながら優しい声で言われ、そっと背中に手を添えられた。その手に従うように、微かに震えている足でゆっくりゆっくりと歩いていく。
ボクは、大地さんの陽だまりのようなぬくもりを感じながら、ただ歩いた。
「紹介しよう。俺の旧友だ。」
大地さんはとても優しくて懐かしさの込められた眼差しで見つめている。
「え…?」
深く慈しむようにそっと手を伸ばす。
「この子は、俺が初めて弾いたピアノなんだよ。」
そう言いながら蓋を開き鍵盤を叩くと、軽やかで澄んだ音が響いた。
「何か弾いてみるか?」
何気なく言われた言葉にドキッとした。
「でも…」
ボクは無意識にそっと右手に触れていた。
「セツ。俺たちはおまえに作業用義手が演奏に向いていると説明したよな?確かに特殊な動きを求められる時、特化した本領を発揮できるから向いていることは事実だ。」
もちろん、ちゃんとわかっている。
「それじゃあ、やっぱり…まだ…」
まだ弾けないんだと、ピアノから視線を外してほんの一瞬落ち込んだ表情をしたボクは、不意に肩を押された反動でスツールに座ってしまった。
「無理強いする気なんてない。セツが弾きたいと思ったら、弾けば良いんだ。」
頭にポンッと手を置いて優しく笑った大地さんは、ボクの隣を通り抜けて壁際にあるソファーに身を沈めた。
「大地さんは、もう弾かないんですか?」
さっき、初めて弾いたピアノだと行っていたことを思い出し、尋ねてみる。
「うん。弾かない。」
笑顔で即答できるほどに、自分の中で片付いてしまった思いなのだろうか。所詮ボクには無理な話だけれど…少なくとも現状では『弾かない』なんて言えそうにない。
「そう、ですか。」
戸惑いながら返事をするボクの表情はきっと強張っているんだろうな。
「セツのピアノ聴きたいから、俺はずっと待ってるよ。」
向けられた笑顔に鼓動が跳ねる。
この人は自分の笑顔が持つ破壊力を理解していないんだ。
人の表情というのは影響力がある、とボクは思っている。少しでも好意のある人だった場合、尚更だと最近よく思っている。確信なんて何もないけれど、大地さんの笑顔は何か驚異的な力を含んでいるような気がする。願いや祈りのような…もしくは呪いの、ような?まぁ、良くも悪くも強い影響力があることだけは断言できる。
「あ。」
束の間の静寂を破ったのは大地さんの一言だった。
「俺、リクエストしていいか?」
寝転んでいたソファーから軽やかに身体を起こし、タバコをくわえる。
「は?」
無理強いしないと仰っていたのはどちら様でしょうか?
「ショパンの曲が良いなぁ。」
タバコの煙をゆっくりと吸い込んで、感慨深げに遠くを眺めている彼を見て、ボクは呆れるような溜め息を吐く。
「寝てください。」
呆れた口調で行ったことが気に障ったのか、少し不貞腐れたような表情をしている。
「なんで?」
理解できない感じの彼に、仕方なくボクは言葉を続けた。
「寝言は、寝てる時にしてください。」
彼は何も言わずに、顔を背けたボクを見ている。
「寝言?…ああ、そういう意味か。なるほど、寝言、ねぇ。」
面白くもないのに、彼は何かを納得した様子でいきなりクスクスと笑い出す。
「もう!いつまでも笑わないでください!」
楽しそうに笑っている姿を見ていると、なんだかだんだんと気恥ずかしくなってきた。
「いきなりリクエストなんて言ったから驚いたんだろうけど、冗談で言ったとは思われたくないな。」
今まで子供みたいに笑っていたくせに、そうやって急に大人びた口調になるのってかなり卑怯だと思う。でも、ボクは結局謝ってしまうんだ。
「…ごめんなさい。」
冗談だなんて思っていない。だからこそ、上手く返事ができなかっただけなんだ。
「セツは素直で良いなぁ。」
彼は目を細めて、満足げに微笑んでいる。
それから数時間は、家の中や周囲を案内してもらい、他愛のない話をした。そして大地さんは客室にボクを残して密かに用意してくれていた材料で軽食を作り、食後に特性のコーヒーまで淹れてくれた。
「今日はありがとうございます。」
ひと仕事を終え、ソファーでくつろいでいる大地さんにお礼を伝えると、日向ぼっこしているネコみたいに気持ちよさそうに全身で大きな伸びをしながら静かに目を閉じる。
「んー。セツのおかげで久しぶりにのんびりできた…」
後に続く言葉があったのかはわからないけれど、疲れている彼は自然に眠りへと誘われ、そのまま夢の世界に向かったようだ。ボクは傍にあったブランケットをそっと彼に掛け、向かいのソファーに座った。
穏やかに気持ち良く寝息をたてている姿をしばらく眺めていたボクはふと、誰かに呼ばれた気がして振り向いた。ゆっくりと周囲を見渡してみる。そして流れに任せて…もちろん、他に誰もいないということを理解した上で、ある場所をじっと見つめる。
自分がどうしたいのか、イヤになるほどわかっているのに動けない。動けない理由は…怖いから、だ。
ボクは座っていたソファーから立ち上がり、目を閉じて深く息を吸い込み、静かに吐き出した。いつの頃からか演奏する前の大切な儀式のようになったその一連の動作をすると何故か心が和むようになった。それでもまだ微かに震える右手を押さえながら、そっとピアノに近づいてみる。
「一曲、一緒に…いかがですか?」
そんな誘いの意味を込めて恭しく例をした後、手を差し出す。ボクの声が届いたのか、なんとなくピアノが微笑み、ぼくの手をとってくれたような気がした。
普段よりも速い鼓動を落ち着けるために、何度も深呼吸を繰り返して目を閉じる。そして…何も考えず鍵盤にそっと触れてみた。
懐かしくて、心地の良い音色が静かな部屋に…ボクの心に響いた。
ショパンの有名な練習曲のひとつ『エチュード/別れの曲』を弾く。もちろん楽譜を見なくても指が覚えているくらい練習した曲だ。目を閉じて奏でる音を感じていると、心に絡まった不安の糸が解けていくのがわかった。
またピアノを弾けるようになるなんて夢のようだ。だけどもし、この時間が決して覚めない夢だったとしても構わない。このまま永遠に覚めない夢であっても、ボクはこの夢を見続けていたい。
ボクの指は鍵盤に触れるほどに、個別の意思を持ち勝手に動き始める。そっと優しく撫でたり、楽しそうに軽やかなリズムを刻んだり、時には強く激しさを表現し…そして、哀しくて涙を誘うこともある。
小さい頃からいつだって、ボクが曲を奏でていると、静かに寄り添うようにやってきては心を包み込んでくれる音色たち。そんなぬくもりを感じながら鍵盤を叩いて織り成すピアノの音を繋ぎ合わせていくことがやっぱり大好きだ。
ピアノを始めてから数え切れないほどいろいろな曲たちと出会ってきた。どの曲も作曲者たちの想いが込められた素晴らしい音楽たちで、そんな貴重な曲たちと巡り会えただけでも幸せだと思っている。
弾きなれたエチュードから始めたせいだろうか、ボクはショパンのピアノソナタやバラードなど、思いつくまま好きな曲たちを奏でていく。そして一番好きな『ポロネーズ/幻想』を奏でようと、軽く息を整え鍵盤に指を構えた刹那、不意に右手の自由を奪われた。同時にハッと我に返ったボクは気配のする方を反射的に見上げた。
「悪いがその曲は弾けない。その手じゃ…無理だよ。雪華。」
ピアノを弾いていた彼だからこそ、構えた指の位置で何を弾こうとしているのかに気づいたのだろう。気のせいかもしれないけれど、どこか淋しさと哀しみを含んだ声が、申し訳なさそうに『無理だ』と告げた。
「今、起きたんですよね?」
眠っていたはずの彼がすぐ隣に立っていることを、なんだか不思議に感じたボクは無意識のうちにそう呟いていた。
「ん?ああ…ごめん、ずっと起きてた。」
まるでいたずらっ子のような笑顔で、軽く舌を出す彼を見て…始めから仕組まれていたのだと理解した。
「わざわざきっかけを作ってくれるなんて、本当に、優しいですね!」
フイっとそっぽを向き、できる限りイヤミを込めて冷たく言い返すのが精一杯だった。そんなボクに対して彼は苦笑しながら『ごめん』と言った。
困惑…しているけれど、本当は感謝している。事故に遭い右手を失って、日常の生活さえままならず、何もかも諦めるしかなかったはすなんだ。それなのに、もう一度ピアノを弾けるようになるなんて…今でも信じられないけど、でもすごく嬉しくて、幸せな気持ちなんだ。
「大地さん、あの…」
少し遠慮がちに呼びかけるボクに、大地さんは軽くしゃがんで目線を合わせてくれた。
「ん?どうした?」
あと少しだけ、この夢が覚めないうちに…
「もう一曲だけなら、弾いても良い、ですか?」
いろいろと見透かされすぎて悔しいから、今はまだちゃんとした理由を教えたくはないけれど、それでもどうしても今、聴いて欲しい曲がある。
「…今回だけ、特別な。」
彼はひと呼吸置いてから、内緒話をするようにそっと返事をくれた。補足するまでもなく、彼お得意の策士の笑顔を添えて。
大地さんたちが予定してくれていたボクとの再会よりも、半年も遅れてしまったけれど。こうして再会できたことの記念に感謝を込めて贈りたいと思った。コンクールで弾きたくて何度も練習した曲だ。そしてボクがピアノを弾きたいと思ったきっかけの曲なんだ。ボクにとってたくさんの想い出が詰まっているこの曲…
「パッヘルベルのカノン…」
ボクはゆっくり、静かに音を奏でる。繋がれてゆく音は色を生み出し、聞き手に様々な世界を届けてくれる。
大地さん、貴方は今…どんな世界の中にいるのだろう…
演奏が終わり、部屋が静けさに包まれたと同時に、どこからか拍手が聞こえてきた。状況が理解できないまま不安げに大地さんの方を見ると、彼は何も言わずに歩き出し、呆れた様子で肩を竦めて勢いよくドアを開けた。
「まったく、おまえらなぁ。」
そこには予期せぬ訪問者が二人、所在なげに佇んでいる。
「だって、冬休みだし…」
「なぁ。」
二人は顔を見合わせ、不服そうに言った。
「だいたい、独り占めなんてズルいよなぁ。」
「ホント、相変わらず性格悪いヤツ。」
二人は大地さんに文句を言いたいようだ。
「俺らは準備だけかよっ」
どうやら彼らもボクのピアノを聞きたいと思ってくれていることに間違いはないようで、不貞腐れた態度のまま顔を見合わせては不満を言っている。そんな様子を大地さんはドアに背を預け、腕を組んで楽しそうに眺めていた。
「あの…大地さん。ボクが言えるような立場ではないですけど、部屋で話したらどうですか?」
ドア枠を境界線のように挟んで微動だにしない彼らを見て、ボクは提案してみた。
「あ?ああ。そうだな。」
クスッと笑って二人に部屋へ入るよう促した。
「こっちのでっかいの方が羽月(はづき)、俺の弟だ。」
初めて大地さんと出会った時『にーちゃん』と読んでいた眠たそうだった子…だろうか?暗がりだったからあまりよく覚えていない。武将や騎士のようにバランスの良い鍛え方をしているような体つきをしていて、切れ長の目は鋭くて少し野性味を感じる。優しい穏やかな印象を持つ大地さんとは正反対に見える。
「コイツは弟の悪友、穂積(ほづみ)だ。」
羽月きんと身長は同じくらいだけど、細身のせいか華奢な印象を受ける。でも守ってあげたいというより、少し離れた場所から眺めていたいタイプの『美人』な感じだ。目元に手を添えて『よっ』と軽くウィンクする姿はなんだか愛嬌があって親しみやすさをくれる。
「どうでも良いけど、紹介が雑すぎだわ。」
穂積くんはそう言って大地さんに向けてべーっと舌を出した。
確かにみんなの飲み物を用意しながらだとしても、かなりいい加減だと思うが、当人はまったく気にした素振りもない。
「んで、コレが雪華(せつか)」
そう言ってボクの両肩に手を置き紹介すると、自然な動作で隣に座った。
面識がないはずなのに『もしかして初対面ではないのか?』と不安になってしまうほどに違和感のない時間が流れている。もし会ったことがあると言われても、ボクにはしっかりとした彼らとの記憶が見つけられない。たぶんこのまま雰囲気に飲まれてしまうと、おかしな関係性が勝手に成り立ってしまう気がして、どうにか避けるべきだと思い尋ねてみることにした。
「あの…ボクと二人は、同級生…とかじゃない、ですよね?」
いきなりのそんな問い掛けに驚いた二人はほぼ同時に動きを止めた。そして無言でボクをじっと見つめている。ボクたちの様子を見ている大地さんは何故か涙目になりながらも、笑いを必死に堪えているようだった。
「本気で言ってるんだよな?」
伺うように穂積くんが呟く。
「俺たちのこと、知らないって?」
彼らはボクのことをちゃんとわかってくれているのに、ボクだけが何もわかっていないということなのだろうか。なんだか、罪悪感のようなものが芽生え始めた時、大地さんが動いた。
「おまえらなぁ。いい加減にしろよ。セツが困ってんだろうが!」
そう言って今まで笑っていた大地さんが少し怒って彼らの頭を殴ると、想像していたよりも重たそうで痛そうな、ゴンッという音がした。
「イテッ!」
「痛い!」
どこまで仲が良いのか、頭を押さえる仕草まで同じだった。
「セツが知らないのは当然だ。コイツらとの接点はかなり間接的だからな。本当にバカな奴らでごめん。」
でもどこかで関わりがあることは事実なんだ。
「間接的な、接点…」
大地さんによると、羽月くんとの出逢いは以前話してもらった通り、ボクの初めてのコンクールの時だったらしい。証明や音響の調整を手伝うために大地さんと一緒にあのホールに来ていたことがきっかけだった。それからずっと大地さんがよくわからない理由で報酬として受け取ったボクのピアノの音色を聴いてくれているそうだ。
外見から想像するのはちょっと難しいかも…なんて思ってしまった。
『似合わねえよなあ。』
穂積くんがいたずらっ子のように笑う。
「ああ?」
それを見て羽月くんが威圧を掛ける。
二人にとっては日常茶飯事なことで、佐一さんはそんな状態のことを『じゃれあい』と呼んでいることを知った。
「セツもコーヒーおかわりいるかぁ?」
既に慣れている大地さんは二人を放置してマイペースに動き出す。
「あ、はい。ありがとうございます。」
成す術のないボクは、じゃれあい中の二人を気にしつつ、大地さんからコーヒーのおかわりを受け取り話の続きに耳を傾ける。
そして…穂積くんのことを聞いたボクは、正直驚いた。
「彼が、噂の穂積くん…なんだ。」
ボクの住んでいる地域では、子供に対して周囲の大人たちは勉強や習い事などをかなり重視している。勉強ができて良い成績を取ることは当たり前で、より高い結果を目指すことが何よりも重要だと教え込むのだ。例外ではなくボクもそんな環境の中で育ってきた。
小学四年の頃、両親の都合で転校させられた。彼らはそれまで以上に多忙な日々を生き、ボクの存在自体忘れてしまったかのように思えるほどだった。気付けば一人で過ごす時間が日常になっていた。
一人で放っておかれることが淋しくて、なんとか両親の世界に入り込みたいと思ったのだろう。だから、存在を忘れられたボクは記憶として覚えてくれないのなら、せめて記録として何かを残していこうと考えたようだ。
そして必死に頑張って地区や全国模擬試験で結果を残せるようになっていった。だけど、どんなに頑張ってもどうしても一位になれない科目が数学と理科だった。いつも追い越せなくて悔しい思いをした。総合で一位だったとしても納得できる結果じゃなかったのは、きっと穂積くんに対する劣等感が原因なのだろう。
「オレはただ、数学と理科が好きなだけだよ。」
いつの間にかじゃれあいは終わっていたらしく、穂積くんがボクたちの座っているソファーの背にもたれながら言う。その足元では羽月くんが疲れ果てて、丸くなって眠っていた。
『万年二位の穂積』と言っている奴らがいたけど、彼が何度も総合一位を獲っていることをボクは知っている。誰よりも悔しい思いをしたから、今でもあの時のことをちゃんと覚えているんだ。きっとお互いに面識なんて一度もないはずなのに、いつだって気になる存在だった。
「ライバルって言われても、得意分野が違うだけだしなぁ。」
別段何かを気にするでもなく、穂積くんがからりと笑う。
「それにオレ…追いかけられたり追い詰められるのって嫌いなんだよなぇ。」
どこかのんびりしている口調が、なんだか大地さんみたいだと思った。
「いつも次点をキープしているのは、もしかして追い詰める、ため?」
ボクは気になって聞いてみた。
「さぁ?どーだろうねぇ?」
真っ直ぐに見つめて疑問を投げかけると、彼は意味ありげな笑顔ではぐらかした。
「まぁまぁ。お互いにいろいろあるだろうけど、とりあえず仕切り直して、はじめましてで良いんじゃないか?」
大地さんの言葉でまた、部屋に不思議な穏やかさが訪れる。
それぞれのテリトリーを維持しつつ、心地良い距離を保っていたれる関係が成り立つなんて、考えたこともなかった。彼らと共に過ごす時間の中で違和感がなかったのは、心のどこかでこの独特な世界をボクが望んでいたからなのだろうか。
しばらく三人で談笑した後、ボクたちは気持ち良く眠っている羽月くんを優しく?起こし、みんなで部屋の片付けを始めた。
「よし、こんなもんかな。俺たちは病院に戻るけど、おまえらはどうするんだ?」
綺麗になった部屋を見渡していた大地さんが尋ねるけれど、二人は何故か無言だった。
「おいおい。ちゃんと帰るんだろうなぁ?」
大地さんは困った表情で言っているはずなのに、どこか楽しそうに見えてくる。
「……」
原因が何なのかなんてわからないけれど、二人は帰りたくないのかもしれない。それとも、もしかしたら帰る方法がない…とか?
ん?そもそも彼らはどうやってここに来たのだろうか…?
「あの、大地さん。二人も一緒に乗せてあげれば?」
ボクの一言に大地さんがわざと深く大きな溜め息を吐いた時、後ろで当事者の二人は笑顔でハイタッチを交わしていた。
「セツ。コイツらを甘やかすとロクなことにならないって、覚えような?」
そう言いながら肩に置かれた手からは、ほんの少しだけ諦めの気配が漂っていた。
騒がしすぎる車内での時間をやり過ごし、なんとか無事病院に戻ってきたボクは三人にお礼を伝え、そのまま病室へと向かった。
大地さんたちはボクが病室に戻るまで駐車場で待機してくれていたようで、部屋に灯りをつけた瞬間、短いクラクションが鳴り、走り去る車のエンジン音が聞こえた。
きっとたくさん文句を言いながらも大地さんはちゃんと二人を送り届けるために、車を走らせているんだろうな。
「優しすぎるって…自覚があるのかな?」
ボクは今日一日の出来事を思い出し、胸の奥が暖かくなっていくのを感じて嬉しかった。
「ありがとう…」
目を閉じて微笑みながら、右腕をそっと優しく抱きしめて何度も『ありがとう』を繰り返した。
こうしてボクはまた、ピアノを奏でることができるようになった。絶望し、すべてを諦め、消えかけた夢が鮮やかな色を取り戻し、ゆっくりゆっくりと動き始めた。
巡り会えた大切な人たちから受け取ったたくさんの思いや願い。そんなかけがえのない宝物を抱きしめ、ボク自身の夢や想いも限りなく音に込めて、今…再び旋律を奏で始める。
「一曲、いかがですか?」
そう言ってボクはそっと右手を差し出す。
Second Signal 《 穂積 ・ からくり 》
何かを作り出すためには大抵の場合、下絵や基盤、構図などと呼ばれるモノが存在している。それらを元にしてクリエイターと呼ばれる技術者たちが仕上げていくのだと教えてもらったのは…いつのことだっけな?
何故かと問われても答えなんてない。だってオレ自身がその理由を知らないから。でも気づけばオレは完成品ではなく、そこに至るまでの経緯に興味を持っていた。完成体から基盤や構図を想像するのが好きだった。分解できるものは躊躇いなく分解し、できないものは頭の中でパーツや組み方を模索していく。その作業が何よりも楽しかったんだ。
何度目かの引越し先で、オレの隣家が何かの修理工場だと知った時、正直飛び跳ねるほどに嬉しかった。
立ち入り禁止の看板をくぐって勝手に入り込んでは、工場の廃部品置き場から適当な部品をもらってくることもあった。まぁ、勝手に…とは言うものの、工場長にはちゃんと話をしていたし、その上でオレの行動を黙認してくれていたのだ。
「おい。」
ここの工場長は見た目は頑固ジジイみたいだけど、暇があれば勝手に忍び込んでくるオレに何も文句を言わず気軽に声を掛けてくれた。
「コレ、分解してみるか?」
じっと作業を見ていると突然、工場長のおっちゃんが、何だかよくわからない硬質物体を無造作に差し出してきた。
「もらっても、いいの?」
さすがに廃部品には見えず、躊躇いがちに聞いた。
「今更柄にもなく遠慮してどうすんだよ。」
軽くオレの頭を小突いて、おっちゃんは楽しそうに笑って手渡してくれた。
「ありがとう!」
嬉しくて笑顔でお礼の言葉を伝えるオレに、おっちゃんは周囲を気にしながらそっと手招きをする。
「ただし、ひとつだけ条件があるんだが…」
少し小声で話されることで、その場の空気がピンと張り詰めた気がした。
「条件?」
オレも同じように小声でそう聞き返す。
「そう。条件、だ。」
悪質な笑みを浮かべて言われることでより一層胸がドキッと高鳴る。
からかわれているんだってわかっていた。こんなふうにちょっと怪しげなやり取りをするだけでカッコ良く思えてしまうから不思議だ。
でもおっちゃんはその後で、幼いオレがちゃんと理解できるように、結局何度でもわかりやすく説明してくれるんだけどね。
「これにはまだ図面がない。つまり詳しい構造がわからないってことだ。だから正確な修理ができないだろう?そこで分解して構図を描いて欲しい。」
構図や製図を見たことはある。何度も真似て描いたことも、ある。だけど…何もないところから描くなんて、どんなことがオレにできるのだろうか。なんだか得体の知れない不安に飲み込まれそうだ。
でも…でも、やりたい!
「わ、わかった。オレがやる。」
拳を握り締めておっちゃんに言った。
「おう。頼んだぞ。」
笑顔でそう言ってくれたおっちゃんに勢いよく『うんっ』と返事をした。
オレは上気した頬で嬉しそうに手を振って家に帰っていった。
「おいおい。小学生に何させてんだよ、おっさん。だいたい、図面がなくても詳しい構図はわかるし、正確な修理だってできるだろーが。」
壁に持たれて二人のやり取りを見ていた少年が呆れた口調で言う。
「あの子が…穂積がどれだけ正確な図面に起こせるのかっを知りたくなったんだ。」
おっちゃんは作業をしながら振り向きもせず、なんだか楽しそうに話している。
「あ、そ。俺にはさせねーじゃん?」
少年は少し拗ねた様子でそっぽを向く。
「おまえは俺とおんなじで、職人の器なんだよ。大地。」
「ふーん。職人、ねぇ。」
感情のこもっていない言い方だけれど、少年は満足そうに笑っていた。
受け取った物を大切に抱えて家路に着く。と言っても数分でたどり着いてしまう。
親たちの予定なんて何も知らないからこそ、不在がちであっても誰にも見つからないよう細心の注意を払ってそっと自室に戻る。物音を立てずに静かにドアを閉めると、そのままベッドに倒れこみ天井とにらめっこしながらしばらく考えてみる。
完全体をバラバラにすることは何度もやってきたから得意ではある。だけど、それを図面に起こすとなれば勝手が違ってくる。本当にそんなことができるのだろうか。おっちゃんに…尊敬している技術者に頼まれたことが嬉しすぎて引き受けてしまったけれど、オレなんかに完璧な製図を描き上げることができるのか?
目が暗闇に慣れてくる頃、少しずつ冷静さを取り戻してきた頭の中で少し後悔していた。
「まぁ、考えてても仕方ない、よなぁ。」
何かのパーツであることは予測がつく。一体何の、どこのパーツなのだろう。
オレは堂々巡りになってきた思考回路を一旦止めて、深呼吸をした。そして意を決してベッドから飛び起きると、引き出しの奥に隠してある使い慣れた工具箱を取り出し、作業台に向かう。
解体を始める前の完成図を描き終わり、躊躇せずに外枠のネジを緩める。ゆっくりとカバーを外し、パーツの解体を始めた。解体しながら細かく仕分けをしていく作業も、細かく図面に起こしていく作業も限りなく楽しい。
取り掛かる前に感じた不安はどこへ行ってしまったのだろうか。今のオレはきっとたった一人で時間の流れに取り残されたとしても、何も怖くなんてない。
何時間が過ぎただろうか。途中で作業を止めることができず、結局夜通し続けてしまったようで、閉め忘れていたカーテンの隙間から窓辺に朝日が差していた。
「朝…か。」
徹夜していた割に、不思議と眠くない。どちらかというとかなり頭がすっきりしている感じだなぁと思いながら、不意に壁掛けの時計を見上げて声を上げるのと、オレの名前を呼ぶ声が聞こえたのは同時だった。
「あ…」
「穂積ー。学校行こーぜ。」
実は、隣の工場には毎朝遠慮なく、自分のペースだけで誘いに来るバカ正直なガキが住み着いているのだ。
「ほーづーみー。」
「うるさいっ」
窓を開けて怒鳴っても平気な顔で笑って手を振っている。そんな姿を見ていると、小さいことで苛立っている自分がバカバカしくなって思わず苦笑していた。
「悪い。すぐ行くわー。」
三階のオレの部屋から一階に向けて声を掛ける。
なるべくそっけなく伝えているつもりなのに、羽月は嬉しそうに笑ってまた手を振る。
「待ってるー。」
オレは無言で背を向け、ひらひらと手を振り窓を閉めて鍵を掛ける。作業途中のパーツなどに直射日光が当たらないよう、忘れずにカーテンも閉めた。そしてフロアに置いている球体のインテリアライトとの明かりを一番暗くして、早々に部屋着を脱ぎ捨て制服に袖を通す。
中身をほぼ入れ替えることのないランドセルを背負い、のんびりと階段を降りていく。
もちろんオレの部屋にはしっかりと鍵を掛けて。
「待たせてごめん。」
玄関のドアを閉めて振り向くと、いつも通りあくび混じりの返事が聞こえる。
「別に…いいんじゃないかー?」
「あ、そ。」
小学三年生の朝の穏やかな?風景となってきたこの日常は、間違っていないのだろうか…?とたまに思うことがある。でも、できるだけ考えない方が良いことなのかも、しれない。
「穂積―。なんか、腹減ったなぁ。」
どんなに頑張って解釈しようとしても、その言葉を『良い天気だなぁ』と同じ類の活用法で使うのは間違いだろう。
「へ?」
眠くはないけれど、ある意味覚醒出来ていないオレは、かなり間の抜けた返事をしてしまった。
健康的に早起きをして、朝食をちゃんと食べているヤツが腹減ったと嘆くほど、そんなに長時間経ったのか?よくわからず立ち止まって考え込んでいたら、頭に軽い衝撃を受けた。
「ん?」
反射的に頭上を見上げると、聞き慣れた声が耳に届く。
「まったく。通学時間に道のど真ん中で何してんだよ、おまえらは。」
優しく笑いながら文句を言っているのは、隣の工場長の息子で羽月の十歳上の兄、大地だ。
「なぁ。にーちゃん、今日休みー?」
羽月が嬉しそうに聞いたが、大地は不思議そうに首を傾ける。
「今から学校に行くけど?なんで?」
「ふーん。じゃあいい。」
一瞬で機嫌を悪くした羽月を見て、オレたちは意味が解らず少し困惑していた。
「俺、なんかしたかぁ?」
不安げに呟く大地に軽く『さぁ?』とだけ残し、仕方なく学校へ向かおうとして足を止めて振り返る。
「あ…大地―。オレ、チョコよりフルーツ味のが好きー。」
さっき頭に乗せられた栄養補助食品の箱をカシャカシャと振った。
「は?もーやらねー。」
子供みたいにすぐ拗ねるところは羽月と一緒だな。血は争えないってことなんだろうなぁ。
「大地―。サンキューな!」
クスッと笑ってからそう言い、オレは目元に軽く手を添えてポーズを決める。
「穂積って…やっぱ、かわいくねー。」
と言ってる割に、ちゃんと構ってくれるんだから、ホント、優しいよな。
オレは大きく手を振って踵を返すと、羽月を追いかけて学校へ向かった。
「俺さぁ、にーちゃんの手伝いしたかっただけなんだぁ。」
追いついたオレを見るでもなく、そう言って項垂れる姿はちょっと淋しそうだ。
「休みじゃないとダメなのかよ。
素朴な疑問を投げてみると、意外な程考え込んでしまった。
「なんか、ずっと忙しそうなんだ。進路、決めないといけないんだって。」
ああ、そうか。羽月はいつも『にーちゃん』って慕っているから、最近忙しくなった大地が遠い存在に感じるのかもな。淋しいけど、その気持ちを素直に伝えられなくて抱え込んでしまったのだろう。
何年経っても成長しない、不器用なヤツ…でも、おまえのいつだって真っ直ぐで正直なところ、眩しくて羨ましくなるよ…
おっちゃんから受け取った部品を解体し、図面に起こしていく作業は一週間ほど続いた。徐々に姿を失っていく部品と、仕上がっていく製図。パーツも配線板も、ネジやナットの詳細もすべて正確に記していく。
「これは…エンジン部分か?でも…」
今迄知っている構造ではない。当然、性能も異なるものだろう。一体、何に使われているエンジンなのだろう…構造だけを見るとかろうじて従来品と似ているかもしれない。
でも、何かが違うんだ。
パソコンで調べても、専門書を読み漁っても明確にならない。
「仕方ない。あとはもう…最後の手段、だよなぁ。」
一応常識的に時間を考え、今から突撃するのはさすがに迷惑だなぁという考えが一瞬頭を過ぎったのだけれど、オレは描き上げた製図を手にして隣の工場に向かった。
「やっとできたんだ。製図…見てくれないかな?」
ドア越しに声をかけても返事がない。それどころか、物音がしていないことに気が付いた。今更だけど、もしかして寝ているのかも…
そう思った時、ドアが開いた。
「おまえなぁ今、何時だと、思ってんだよ…」
やっぱり、寝てた…よな?
「あ…ごめん。」
部屋の主は気怠げに大きなあくびをして、ちょっと呆れながらも中に入るよう促してくれた。
時計を見て時間を確認した後、部屋を見回してみると明らかに作業をしていた形跡がある。
「なんだ。寝てたわけじゃないのか。」
予測はついていたんだけどね。
「ん?まぁ、ちょっとした野暮用ってヤツかな。」
珍しく、誤魔化すような…照れ隠しのようなぎこちない笑顔の彼に無言のまま製図を渡した。
「これを依頼したのは親父だろ?」
渡す相手が違うと言いたいのだろうが、オレは彼に見て欲しかった。
「うん。でも…聞いてもいつも通り教えてくれなさそうだから…」
適当な言い訳をしたってきっとバレている。
彼が何かに気づいているのか、何かを隠そうとしているのかはわからないけれど、それでも苦笑しつつ製図を受け取り広げてくれた。
彼が真剣に見つめる先にはオレが描いた平面の製図がある。それを頭の中でひとつずつ立体化して、組み上げているのだろう。
そう、オレが時間を掛けてやってきたことの逆の作業を行っているのだ。
「なるほど。」
その一言で、製図の確認が終了したのだと理解した。
「うん。ほぼ完璧。」
にやりと笑って楽しそうな彼の『ほぼ』という言葉に引っ掛かった。
「え?どこ?どこか抜けてた?なぁ、教えろよ。」
何度も見直したのに、どこか足りなかったのか?そんな問いかけの意味を含んだ真剣な眼差しで必死に食らいつく姿を見て、少し困った表情の彼はそっとオレの頭に手を置いた。
「まぁ、ちょっと落ち着けって。」
優しく頭を撫でられ、軽く目を閉じる。
「う、ん。ごめん…なさい。」
現状の自分の姿に気付き、さすがに格好悪く感じて素直に誤った。どうしようもなくみっともなかったはずなのに、そんなオレを見ても彼はいつもと変わらない、あったかい微笑みをくれる。
「おまえ解体したものを実際に見ていないから憶測でしかないが…解体してそのまま図面に起こす工程は完璧だと思う。でも、俺はできればその先を望みたいな。」
製図って、解体したものを正確に描き起こすだけじゃないのか?
「その先?正確さを求められるんじゃないのか?他にも、何か必要なのか?」
オレの質問に対して、彼は同返事をすれば良いのかを考えているみたいだったが、しばらくして机の引き出しからB4サイズくらいのファイルを持ってきた。
「これ、ずっとオレが使ってたもんなんだ。ん…例えば、こんな感じかなぁ。」
ページをめくる音が止まり、自然な流れで指先を覗き込むと、見開きいっぱいに彼の描き出す夢の世界が広がっていた。
たったひとつのパーツ部分だけでも、シンプルな初期段階から始まり、いくつかの
改良品や改善策などが事細かに記載されている。
「これが…製図…」
たくさんの資料を見てきたが、こんなに精密なものは初めてかも知れない。
「これも、製図だ。創造する者によって描き方は様々だからな。今見ている製図はまだ試作段階のものなんだ。思いついたことや、調べた情報、アイデアなんかを描き足しているんだ。」
だから製図の中に描かれている部品たちが進化しているように見えてくるのだろうか。すごく難しいことを言われているはずなのに、それ以上に心惹かれて、楽し過ぎて気持ちが落ち着かない。
「オレにも…オレにもできる?大地、教えてくれるか?」
こんなにも身近に、精密で魅力的な製図を描ける人がいたなんて…
「うーん。詳しく教えることは、できないかも知れないなぁ…」
オレよりも残念そうな表情をしている彼に対して、わがままを通すつもりなんて、ない。
「うん。大丈夫。言ってみただけだから。進路だっけ?大地だって忙しいよなぁ。」
できるだけ明るく言って普段通りに笑ってみるが、やっぱり彼に強がりは通用しなかった。肝心な時はいつだって本心を見抜かれてしまう。
「…穂積、ごめ…」
それでも、謝罪なんてされたくなかったオレは、彼の言葉を遮る。
「大地には、大地の夢があるんだろ?絶対、叶えろよな。」
珍しく彼が驚いた表情をしたと思った瞬間、例えようもないほどの優しい笑顔に変わる。それを目の当たりにしたオレは、不覚にも心が跳ねた。いつもより落ち着きのない鼓動がなんとか彼にバレないよう、フイっと顔を背けるのがやっとだった。
「やっぱりおまえは、かわいくねーわ。」
「うるせーよ。」
当たり前のように頭に置かれた手を振り払おうとした時、静かだけれど強い意志のある彼の言葉が耳に届いた…
「穂積、ありがとな。うん。俺…頑張るわ。」
「お、おう。」
唯一、顔を見られなかったことだけが、せめてもの救い…かもしれない。
製図を見てもらったらすぐ帰るつもりだったのに、なんだか帰りそびれてしまったオレは、彼が渡してくれたファイルやスケッチブックをじっくり見返していた。
「あれ…?」
この図面…
「ん?どうかしたのか?」
やっぱりどう見たって、同じものだ。
「ああ。そんなところにあったのか。」
作業の手を止め、覗き込んだ彼はさらりと言った。
「これって…」
オレは図面を見つめたまま動きが止まる。
「あのパーツは、昔…俺が描いたもんだんだよ。」
記憶違いでなければさっき『おまえが解体したものを実際に見ていないから』って言ったよな?
この嘘つき!と思いながら睨んでいるのに、彼はそんなことまったく気にせず、話しだした。
「ホバークラフトって知らね?」
知らないはずがないだろ…
「知ってる。」
水面や地面に向けて高い空気圧を噴出して浮上する乗り物だ。まだまだ実用化されることはないだろうけど、三次元空間の自由な移動を可能にするとまで言われている。
「テレビだったかネットだったか忘れたけど、ホバークラフトを初めて見た時…創りたいって思ったんだ。」
懐かしむように話している彼はきっと、今でもその時の気持ちをと違わず、そう思っているはずだと感じた。
「ホバークラフトはエンジンとバッテリーを載せるから、できるだけ軽量で高性能じゃないとダメなんだ。」
軽量で高性能なエンジン。
「それで、あのパーツを考え出したってこと?」
確かに理想のパーツだろう。
「そう。図面には起こせたけど、悔しいがあの頃の俺の技術じゃ実体化できなかったんだ。」
でも、実体化されたパーツをオレは知っている。彼が創り出したものでないとすれば一体誰が?
「もしかして、工場長が?」
あんなに正確な製図を見れば技術者なら造ってみたくなるのも頷ける。
「あ?あー。アレは無理。そもそも俺が何したって気に入らないんだから。」
まるで他人事のように言って笑っている。
「じゃあ、誰が…」
オレの目を見て彼ははっきりと答える。
「羽月。」
まさか、そんなこと…
「へ?」
年中眠そうに大きなあくびをしていて、珍しく起きてると思ったら『腹減ったなぁ』しか言わないアイツが、組み上げたのか?本当に?
「信じられないって顔だなぁ。」
彼はクスッと笑って『俺も同感。』と深く頷いた。
「でも、間違いなくアイツなんだよ。」
卑下するでも、イヤミを込めるでもなく、素直に認めている表情で嬉しそうに言う。
「羽月ってそういうの見ているだけなんだと思ってた。」
オレの知っている限りでは、正直、向いているようには見えない。
「まぁ、普段はのんびりしてるけど、細かい作業させても短気過ぎて途中で怒って止めるからなぁ。」
アイツの性格はわかっているつもりだ。今までだってよくからかって遊んでた。まだ知らないところがたくさんあるのかもしれない。
「アイツ、耳と感覚がバケモノなんだわ。」
乾いた笑いと共に告げられた意味不明な言葉を聞き返す。
「化け…?は?なんて?」
下人も理由も不明だが、羽月は物の音を聞き分けられるらしいのだ。音だけでその金属のだいたいの性質を判断できるという。そして感覚で相性の良い物質を見付け出しているそうだ。
「それが事実なら、間違いなくバケモノだ。」
「じゃ、やっぱりバケモノだわ。」
彼は嬉しそうにニヤリと笑った。
「アイツがあの製図を見つけて興味を持ち、図面通りに実体化した時に俺はホバークラフトを創る夢を、保留にしようと思ったんだ。」
自分にできなかったことを弟が成し遂げたからという理由だけじゃない気がした。それはただのオレの勘でしかないけれど、彼は創ることを諦めた、ではなく…保留にしようと言った。その言葉にはきっと別の意味があるはずだ。
「大地、他にやりたいこと…見つけたんだろう?」
たくさん悩んで、迷って、彼が選んだものは何だろうか。
「ははは。よくわかったな。そう。俺の一番やりたいことを見つけたのが奇しくも同時期なんだ。」
そう言うと彼はスケッチブックをパラパラとめくり始め、残り数ページになった辺りで手を止めて見せてくれた。
「大地って…」
オレは思わず息を呑んだ。
「うん?」
呆気にとられたような表情で彼がこっちを見る。
「ロボット創んの?」
真剣に問いかけたオレはバカだったのか?
「あ?ああ!違う違う。あーなるほど…くくくっロボットかぁ。」
笑いを堪えながら話そうとしているが、さっさと諦めて笑いだした彼を見て、オレはくるりと背を向け『もういい』と冷たく言った。
「穂積、ごめんって。」
好きなだけ勝手に笑って、謝ってろ。バーカ。
振り向きもせず、無言のままでいるオレと背中合わせに座り直した彼は、自重した様子で静かに溜め息を吐いた。
「ごめんな。俺…」
一瞬、何かをためらうような沈黙の後、彼は話し始める。
「俺、好きな子がいてさぁ。その子、ずっとピアニストになるって頑張ってた。生まれた時から病弱で、入退院を繰り返してたんだ。詳しくは知らないけど、難病で…だんだん四肢がうまく動かなくなっていくって聞いた。最悪…切断、ということになるだろうって…」
彼はそこまで話して、ぐっと何かを堪えるように言葉を飲み込んで静かに息をゆっくり吐いた。
「その子は結局…自分の手で最期の幕を閉じちゃったんだけどな。」
背中にぬくもりを感じながらも彼の辛さが伝わって来るような気がしたオレは、何も言えないまま、ただ彼の言葉を待った。
「ピアノが弾きたい。」
「え?」
表情は見えないけれど、彼が微笑んでいるのがわかった。きっとその微笑みは…淋しそうなんだろうな…
「俺が聞いた、彼女の最期の言葉。」
いつだって傍でずっと見守ってくれている彼を、初めて遠い存在に感じた。
「足や手が少しずつ不自由になってきた頃、泣きながら何度も言っていたんだ。まだ弾きたいって…だから何かできることはないかと、俺なりに必死に調べて義手という存在を知った。だからといってまだ幼い俺に一体何ができると思う?結局何もなかった。でも、壊れかけたものや落としてしまったものを救えるのは…手なんじゃないかって思ったんだ。」
その時、無造作に放り出していた俺の手に、そっと彼の手が重なり、きゅっと握られた。
「俺は…誰かの『手』でありたいのかもしれない。何かを創り出したり、差し伸べたり。時には背中を押したり…いろんな人の、そんな『義手』になりたいのかもしれないなぁ。なんて。」
ちょっとおどけた口調で話しているけれど、彼は本気でそうなりたいと願っていることがわかった。きっとどんな思いよりも強く、彼の中で生きている願いなんだ。
やっぱ…大地には勝てねぇよなぁ
俺にはこんなに情熱的に向き合える夢が、ない。自分のためにも誰かのためにも強くなろうと思ったことさえなかった。
彼の話が終わり、オレは気付かれないようにそっと息を吐いた。
「大地ってさぁ…やっぱり…」
寄り添ってくれている少しだけ大きな背中に軽く持たれて声を掛ける。
「うん?」
相変わらず何も考えずに優しく聞き返す彼の態度に苦笑してしまう。
「バカ、だな。」
さらりと告げた俺の言葉に反応するまでの数秒がなんだかくすぐったかった。
「なっ…あー。やっぱ、おまえはかわいくねーわ!」
予想通りの態度に思わず声を上げて笑ってしまった。
だって、気付いてないんだろう?
今までどんだけオレが大地の手に救われてきたのかってこと。どんなに、大地の手に憧れているのかっていうこと…
やっぱり、バカじゃん。
「いいんじゃね?」
ひとしきり笑い、軽く言い合いをした後、オレは静かにそう言った。
「義手、創れよ。大地が思い描く最高の義手、絶対に創り出せよな。」
挑発気味に言って拳を彼の方に突き出す。
「おう、上等だ。見てな。」
彼はオレの手に拳を合わせ、幸せそうに笑った。
「じゃあ、製図は俺から渡しとくわ。」
オレは描き上げた製図を彼に預け、工場長に渡して欲しいと頼んだ。怪訝な顔で何度も自分で渡せと言われたが、ちゃんと理由を説明すると即座に納得してくれた。
「そろそろ統一模擬試験の勉強しないとさすがにヤバイからなぁ。」
偉そうに言っても、結局大したことをする気はない。
「せめて、得意分野くらい頑張れよな。」
オレの性格と学力を知った上で、こんな適当なことを言うのは彼くらいだ。
「へーへー。気が向いたら頑張るわ。」
本当は始まる前から結果はおおよそ検討がついている。
今回もオレは、いつも通りの結果を導き出すための努力しかしない。それ以外に魅力を感じないし、本気になって頑張る意味も見つけられないからだ。
親からの最低条件である、総合成績三位以内。
それだけを達成していれば、好き勝手に何をしていても文句は言わないという取引をただ有効利用しているだけ。
まぁ、オレは誰にもトップを譲る気なんて毛頭ないけどな。
「穂積。」
おやすみの挨拶を交わし、オレが歩き出してすぐ名前を呼ばれた。
「んー?」
何気なく声のする方へと振り向いた瞬間…
「ほいっ」
「うわぁ!っんなもん、投げるな!バカ!」
いきなり投げられた数冊のスケッチブックを必死に受け止めているオレを、積み上げられたタイヤの上に座って大地が眺めている。
「それ、おまえにやるー。」
そう言ってなんだか楽しそうに笑っている。
「はぁ?」
文句を言いながらもオレは、腕の中にあるスケッチブックを無意識に抱きしめていた。
「ちょっとは役にたつかもしれねーよっと。」
軽く掛け声を掛け、工場のあちこちに置いてある廃部品の山や積み上げられたタイヤの上を飛び跳ねて建物の屋根にたどり着く。
本当は…笑いながらふざけて『まるで猿だな。』と言ってやりたいのに、動きに無駄がなくて、流れるような綺麗な動きは、一陣のっ風に舞う花のように見えてしまった。
「じゃ、おやすみー。」
そう言って無邪気で穏やかな笑顔を残し、くるりと背を向けた彼はひらひらと手を振る。
そして音もなく夜の闇に溶けていった。
何度も見ている日常的なシーンなのに、何故か今日はいつも以上に見惚れてしまった…なんて何があっても一生教えない。
「カッコつけてんじゃねぇよ。バーカ。」
受け取ったスケッチブックを大切にそっと抱え込むと、大地が今まで描いてきた夢のカケラを少しだけ分けてもらったような気がした。嬉しくて溢れてくる想いがこぼれ落ちてしまわないようにゆっくりと空を仰いだ。
いつか、肩を並べて同じ景色を眺められる時が来たら、オレにも大地が創り上げようとしている世界を感じることができるだろうか。
「大地の想いに負けてらんねーしな。」
彼が保留にしている夢を引き継ぐことを決意したオレは深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出して笑ってみた。
もしかしたら…オレのやりたいことが見つかるかもしれない、そんな予感がした。
誰かが『いらない』と捨ててしまったものを拾い集め、まだ形のない何かを創造し触れた瞬間、幾つもの『カケラ』は組み合わされ『からくり』となる。
その作業を繰り返し、自分の思い描くものを創り上げていく彼の手に見惚れ、だんだん広がっていく世界も好きになった。
大地の手は大きくて少し骨張っているのに、いつだってぬくもりと優しさをくれる。
「オレの手は、一体何ができるんだろう。」
じっと自分の手を見つめてみる。
「ホバークラフト、か…」
きっかけは大地の夢だけれど、彼のスケッチブックに描かれているホバークラフトの完成図を見た時、製図に起こしたいと思ったのは素直な気持ちだ。
「はっ望むところだ。やってやろうじゃねーか。」
未知なる世界でしかないけれど、やってみたいと思えたことをやり遂げるのも悪くない。
今まで何かを必死に頑張ったことなんてなかった。だからこそ…
「やっとオレの歯車が動き出した、のかもな。」
大地の描いたものを、まだ幻想的だと言われたとしても、想像と発見の中で幾つものパーツを拾い集めて組み合わせて創り上げてみせる。
そう強く心に誓った時、ずっと閉じ込めていた想いが『カタン』と音を立てた。
オレの中の『からくり』がゆっくり目を覚ます。
「本能のままに…生きてみますか。」
少しずつ明るくなる空に向けて、大きく腕を伸ばしてみた。
いつかこの手を誇れるように…と願いを込めて、オレは一歩を踏み出した。
Third Signal 《 羽月 ・ 技巧 》
周りの子たちが帰っていくと、だんだん自分の迎えの時間が近付いてるのだとわかるようになってきた。
「あっ、にーちゃんだ!」
自転車置き場に、にーちゃんの姿を見つけた俺は勝手に部屋を飛び出し、保育園の出入り口で待つ。
「今日は早いねー。」
にーちゃんはいつも学校帰りにお迎えに来てくれる。
「おー。忘れもんないか?」
帰り支度をしながら聞いてくれる。
「なーい。」
返事をするとくるっと俺の方に向き直り、頭にポンッと手を置いて笑う。
「じゃ、帰るかー。」
こんなふうに優しく笑うにーちゃんが、大好きだ。
「うんっ」
負けないくらいの笑顔でにーちゃんに飛びついた。
いつだって隣には兄がいてくれた。それが当たり前だとずっと思っていた。両親は普通にいるけど、あまり一緒にいてくれた記憶がない。趣味を仕事にした父は時間なんて関係なく、依頼があればいつだって飛び出していくような人で、日々自分のペースで生きている。母も同じようなものだ。興味のあることをやって気ままに生きている。それなのに時々、思い出したかのように親の仮面をつけることがあるのだ。しかも放っておいて欲しい時ばかりを見計らって声を掛けてくるから面倒くさい。
でも、兄は違う。オレが傍にいて欲しい時、助けて欲しい時にそっと手を握ってくれるんだ。俺の大好きな優しい笑顔で…
そんな兄は、いつの間にか俺にとっての憧れであり、目標の存在になった。
そんなある日、重大な事実を知ってしまった。
誰よりも信頼し、目標にしている兄が、俺を騙しているという事実…
あれは初学二年になって半年位経った頃だ。
「うわぁ。」
物事に動じない、というか…殆どのことに無関心な俺でさえ、思わず感嘆の声を上げてしまうほど『キレイ』だと思った。
「すっげー美人。」
「キレー」
時期外れの転校生という存在は例外なくそれだけで目立ってしまうのに、先生が紹介している子は、立っているだけで目を惹くほど『キレイ』だった。原因なんてわからないけれど、見ているだけでなんだかドキドキして、何も考えられなくなった。
「ふん。ちょっと顔が良いからって。なんなのよ。」
クラスで可愛いと言われている子がイヤミを込めて呟く。
「ホント、あの程度でいい気になってイヤな感じね。」
学校生活が進むにつれ、転校生に対する女子たちの文句やイヤミを耳にすることが増えた。いじめ…とは言わないちょっとしたイタズラ(俺に言わせればいじめでしかないが)も目につくようになってきた。それに気付いた男子たちが助けたり庇ったりするから、女子たちは余計に面白くなかったのだろう。
そんな毎日なのに、当人はまったく気にした様子もなく、いつも不思議なくらい落ち着いていた。
本当は大きな問題なのに、繰り返されるうちにだんだん頭や感覚がマヒしてきて慣れてしまったのだろうか。それとももしかしたらこの子は、今までもっと辛い思いをしてきたから、現状を容易く受け入れてしまったのかもしれない。なんとなく『ああ、またか』と諦めながら。
ある日、慣れ始めた日常に変化が起きた。
転校生が来て三ヶ月が過ぎた。夏休みが終わり、二学期が始まって間もない頃だ。ずっと遅刻も欠席もしなかった転校生が急に学校に来なくなってしまった。
最近は大きな問題もなく、やっと状況が落ち着き始めたのだと錯覚していた自分にも、こんなことになるまで何も出来ていなかった自分にも腹が立った。
「俺、もしかして…」
どうしてこんなにも気になって、何もできなかった自分に腹が立つのかと何度も考えてその本当の意味にやっと気が付いた。
「俺、もしかしてアイツのこと…」
外見も、自分に対する周囲の態度にもまったく左右されず、ただ凛とそこに存在している。無口で表情も崩さない、少し近寄りがたい印象なのにどうしてだか自然と目で追ってしまっていた。それって…
「アイツの、ことが…好き、なのか?」
知らない感情に触れて、よくわからなくなった。でも理由ははっきりしなくても、アイツのことを『守りたい』と思う気持ちがある。それから『傍にいたい』とも…思う。
この数ヶ月、俺は一体何をしていたのだろう。そもそも俺にできることって、何だ?
正直、頭が良いとは言えない。それでもなんとか俺なりに一生懸命考えてもみた。だけど何も思い浮かばない。ぐちゃぐちゃになってしまった思考回路を全部断ち切り、俺は学校から帰るといつも通り、ある部屋のドアをノックした。
「にーちゃん。」
最近、作業に没頭していることが増えた兄はノックしても返事がないことが多い。しばらく待ってから俺は勝手にドアを開けた。
「にーちゃん。ちょっと相談したい、こと、が…あるんだけ…ど?」
視界に広がる空間を見て、ちゃんと返事を聞いてからドアを開けるべきだったと、後悔した。
「おかえりー。ん?珍しいなぁ。どーしたんだ?」
ローソファーの背もたれに身体を預けて、上体を反らすような姿勢で俺の方を見るにーちゃんから慌てて視線を外す。兄に寄り添う人は、微動だにしない…
「ごめん…あの、後で、いい。」
どんな態度を取ればいいのか解らず、顔を背ける。
「ん?おい、羽月?」
ドアノブを握り締めたまま、結局兄の部屋に一歩も入ることなくその場を去り、そのまま一階下の自室に戻ると思い切りドアを閉めた。
「はぁ…びっくりした…」
でも、彼女がいても別に不思議なことでは、ない。
何の音、だ?あ、ドアのノックの音か…誰だよ?ドアを三回ノックするのは…
「羽月―。寝てんのかぁ?」
突然訪れた理解できない状況からの現実逃避をして、そのまま眠ってしまったらしい。
「んー。起きてるー。」
明らかに寝起きの、くぐもった声で返事をしてドアを開けると、そこにはにーちゃんがいた。
「おまえなぁ。ちょっとは片付けしろっていっただろ?」
「う…ん。」
起こされた時ってどうしてこんなに頭が起きてくれないのだろう。
「まったく。」
呆れながら簡単に部屋を片付けたにーちゃんはベッドに座った。
「で?」
「…で?」
問いかけに対して、首を傾げる俺を見てにーちゃんは苦笑した。
「なんか話があるんじゃねーの?」
そう言って俺の言葉を待ってくれている。
「え…?あ!ある。話、ある!」
クスッと微笑んでいるにーちゃんの隣に座り、俺は話し始めた。
すでに転校生の話はしていたから、この数ヶ月のことや俺が気付いたアイツへの想いのこと…どうすれば良いのか考えても何もわからないんだと、伝えた。
「そうか。よくわかった。」
そして、いつものように頭にポンッと手を置かれた。
「羽月。いろいろ考えることはあると思うけど、まず…一度考えるのをやめてみよう。」
言われた意味が解らず困惑してしまった。
「どういう…こと?」
俺が聞き返すと、にーちゃんは『ちょっと待ってて』と言い残し部屋を出て行ってしまった。
コンコンコンッ
「はい。」
「入るぞ。」
そう言ってドアを開けたにーちゃんは、何故か部屋に入ろうとはせずに廊下の方を気にしている。
「おい。さっき約束しただろーが。」
誰かに向かって声を掛ける。
「あーもお!わかったよ!」
かなり不機嫌な声がして、にーちゃんの背後から人影が現れた。
「え…?」
不貞腐れた顔は、ずっとそっぽを向いているが、明らかにさっきにーちゃんの部屋で寄り添っていた人だった。
「紹介しよう。春に隣に越してきた、穂積くんだ。」
引越しの話は聞いていたが、俺はまだ一度もお隣さんに会ったことがなかった。
「は?」
会っていないのだから知らなくて当然なのだけれど…
「穂積、くんって…」
にーちゃんは微笑みながらも肩を竦める。
「おまえんとこの、転校生。」
「嘘、だろ?」
事実を知った俺の驚く顔を見て彼は不敵な笑みを浮かべた。
「よろしくな。羽月。」
目元に手を添えて笑う彼が軽くウィンクをする。コイツが、穂積…?男、だったんだ。
「…にーちゃん。いつから知ってたの?」
俺の質問に考える振りをしながらにーちゃんが答える。
「んー。引越して来た日?」
じゃあ、ずっと知ってたってことだよな。転校生が隣に住んでいることも、俺が女の子だと思っていたことも全部、知っていたんだ。
「あー。騙すつもりじゃなかったんだよ。」
今更何を言われたって言い訳にしか聞こえない。
「オレが、言うなって頼んだ。」
彼…穂積がそう言い切った。
「どうして?そんなの…」
黙っている必要があるのか?
「変か?男でも女でも、そんなことどーでもいいんだよ。オレはオレだから。おまえは違うの?」
穂積は真剣な瞳で見つめている。
「違わない、と思う。穂積くんのことを知っても嫌いじゃないし。うん。意味、わかる。」
疑いが強く込められた視線を感じながら俺は、俺なりに彼の言いたいことが少しだけ理解できた気がしている。
「穂積くん、ごめん。俺…もう一回、はじめまして、したい。」
なんとか自分の気持を伝えると、彼は大人びた微笑みで真っ直ぐに俺を見た。
「じゃ、テイク2、だな。」
と言って手を差し出してくれた。
「よろしくな、羽月。」
ぎこちなく差し出された手を握って答える。
「ん。よろしく。穂積くん。」
俺の返事が気に入らないのか、彼は眉間にシワを寄せた。
「くんっていらねーわ。」
「…穂積…」
「うんっ」
言い直した俺に嬉しそうに笑って返事をする彼。
「…くん。」
「は?」
付け足したことで彼の表情が変化する。
「分けて言う意味な!おまえ、ふざけんなよ!」
明らかに怒っている…
「ごめん。一応、気をつける。」
慣れるまで、時間は掛かるだろうけど…
「穂積―。おまえもメシ食ってけ。」
いつの間にか部屋からいなくなっていたにーちゃんが階下で叫んでいる。
「んー。」
彼は気のない返事をして背負っていたカバンからタブレットを取り出し、俺の部屋でくつろぎ始めた。
そんな彼を横目に、俺はベッドに持たれて静かに目を閉じる。
急な展開で頭と心の両方で絡まってしまった糸を解くために、ちょっと頑張ってみようと思っていた。
嘘つきにーちゃんの話によると、報道関係の仕事をしている父とモデルの仕事をしている母がいるらしい。話の途中で彼…穂積は外見が母に似てしまったのだと、拗ねた表情をしていた。簡単に予想できることだが、外見のせいで苦労したことが多かったそうだ。それが原因となり、無口で無感情な彼が造られてしまったらしい。いろんなことが面倒な彼は、今回の転校先でも必要最低限の情報しか提供しなかった。だからこそ勘違いされ、発生した問題があるのだけれど…
「どーでも良いんだよ。そんなくだらないこと。」
特別なんて関係ない。オレを『穂積』として覚えてくれれば何も問題はないし、それで十分なのだと彼は言う。
「美人とかキレーだとか、そんなことどうだって良いだろ?オレはオレなんだから。」
その言葉の真意も彼の思いも、まだ完全に理解できたわけじゃないけど、俺は『転校生』を演じている彼よりも、今目も前にいる理解不能な『穂積』が好きだ。時々知らない言葉を話して難しいことを言うけど、いろんなことを教えてくれて、楽しそうに笑う彼と一緒にいたいと思った。
俺の淡すぎる初恋は、花開く前にあっという間に散ってしまったけれど、もしかしたら『親友』との出会いという蕾に気付くためのきっかけだったのかもしれない。
「あっそうだ。穂積、親父にも許可もらっといてやったから。」
すっかり忘れていた様子でにーちゃんがそう言った。
「やった。大地、ありがとー。」
何の話かわからずにいると、にーちゃんが気付き教えてくれた。
「この侵入者が自由にウチの工場に出入りするのを許可してもらったんだよ。」
自由に出入りする、許可?
「侵入者って?」
にーちゃんは笑って彼の頭に手を置き、ポンポンと軽く叩く。
「コイツ、機械とか部品とかに興味があって時々外から覗いてたんだ。」
なるほど。確かにウチは工場だから、そんなものは山ほどある。彼にとっては宝の山に見えているのだろうか。
「家にいても暇な時はいつでも来いってさ。」
「ん、まぁ。気が向いたらなー。」
頭の上に置かれたままの手を振り払い、そっけなく答える彼が嬉しそうに笑うのを見てしまった俺は、正直少し羨ましさを感じていた。
その数日後、穂積はまた学校に来るようになった。
「おはよ。」
「おう。おはよっ羽月。」
彼の姿を見つけ声を掛けた俺に、振り返り笑顔で挨拶をしてくれた。少しずつだけどお互いの距離が近づいている気がして嬉しかった。
『親友』の蕾はまだ固くて咲きそうにないけど、いつか花開くその日を気長に待ってみようと思う。
三年生になると、遅刻しがちな穂積を毎朝誘って登校することが俺の日課になった。
朝が弱いタイプなのだと文句ばかり言っているが、起きられないのは夜更しのせいだと知っている。
彼曰く、学校をサボって工場に侵入したり、夜中ににーちゃんの部屋に来ていたりといろいろ忙しいらしいが、やっとやりたいことを見つけたのだと笑顔で言われたら応援するしかないだろう。勝手な理由を正当化している彼だが、そんな彼を羨ましいと思いつつ、見守ることしかできない自分がなんだか悔しかった。
「やりたいこと、かぁ。」
考えているうちにだんだん眠くなってしまった俺は、睡魔に抗うことなく机に突っ伏して眠った。
「羽月―。なぁこれ見て。…ん?」
時々穂積が来てくれても、寝ていることが多かったらしい。
「また寝てる。ははは。寝る子は育つ…ってか?」
顔に落書きをされても起きなかったこともある。そして、彼の言葉通り?俺は大きく育った。
小学四年の時、すでに身長が160センチもあったのだ。
「でかくなったよなぁ。そのうち大地も越すんじゃね?」
「…さぁ?」
高校卒業後、専門学校へと進学したにーちゃんは長期の休みがないと家に帰ってこなくなった。今度はいつ、帰ってくるんだろう…
「羽月、今日も工場の手伝いすんの?」
その言葉が出る時は誘って欲しい時なのだとわかってきた。
「うん。穂積も来る?」
わかっていながら、素っ気なく尋ねる。
「おう。行く。」
去年、にーちゃんが家を出てから俺の生活が変わった。今までにーちゃんがしてくれていたことを俺が担うようになったんだ。そして穂積の生活も変わっていった。
工場に来ることが増え、一緒に手伝ってくれることも多くなった。だけどその分、年四回行われている統一模擬試験の時期が近付くと、まったく来なくなる。
「やりたいことをやるために必要なんだ。」
そう言って彼は常に総合一位の座を勝ち取っている。順位を下から数える方が早い俺にとっては穂積のいる場所は未知の世界でしかないが、必死に向き合っている姿をすごいと思う。
恒例行事となっている模擬試験も四年生の三回目が始まり、結局いつも通りの結果で終わりを告げた。
順位を張り出されている掲示板の前で彼の姿を見つけ、声を掛ける。
「七連勝だなぁ。おめでとー。」
「おう。」
一位になるのが目的なのだから当然の結果だと余裕で言われた後、俺の順位を見て呆れられた。
「おまえはもうちょっと頑張れよな。」
「まぁ、そのうちに。」
適当な返事をして、大きなあくびをしながら教室に戻るために歩き出した。
「あ、今日もおまえんち行くわー。」
踵を返し反対方向へと歩き出した彼が足を止めて叫ぶ。
「おー。待ってるー。」
お互い背を向けたまま会話をして帰宅後の約束を交わす。慣れない人が見たらこの情景を理解することは難しいかも知れないと、ふと思った。
特に外見を気にするタイプじゃなくても、二人で一緒にいる時間が多かった頃『美女と野獣』なんて呼び名が付いた時は流石に想像してちょっと…笑った。俺たちにとってはただ気の合う友達という関係なのに、体格差が出てきた最近では並んで歩くとまるでボディーガードに見えてしまうのも事実だ。
欲求に従ってただ心地よく眠っていただけで日々逞しくなった俺と、夜更しと不摂生が原因で、元々の美しさに儚さを纏った穂積。なんだかどこかの映画やアニメでありそうな画になってしまいそうだ。
まぁ周りにどう見られようと、何を言われようと結局は大した問題ではなく、どうでも良いことなんだ。俺たちは同じ目標を持ち、歩いていくと決めた同士なのだから。
にーちゃんが自分の夢を叶えるために家を出発した日、穂積から大切な話があると言われた。
「ホバークラフト?」
聞いたことがあるは別段、興味を持つことはなかった。
「そ。大地が目指していた夢、なんだ。」
そう言ってにーちゃんが描いたというホバークラフトのデザイン考案図を見せてくれた。
「すげー。」
他の言葉が思いつかないくらい、素直にすごいと思った。
「これ、飛ぶのか?」
素朴な疑問を投げてみる。
「たぶんな。大地はデザインしか画き上げてないから、パーツの詳細はこれから考えていくんだ。」
穂積が渡してくれたスケッチブックには、車体の全体図、全面や側面、背面などが細かく書かれていて、確かにデザインはよくわかる。
「パーツ、か…」
内部構造はまだ未着手で、ほとんど描かれてはいない。
「オレ、いろいろ調べてパーツの製図を準備しているんだ。」
話しながら穂積は少し小さめのスケッチブックを無造作に差し出す。
「見て、良いのか?」
本当に俺なんかが受け取って良いものかと悩んでしまった。
「…まだまだ不完全で未熟でしかないけど、見てくれるか?」
顔を背けたまま話すのは、穂積が何かを迷っている時だと知っている。
「うん。もちろん、見たい。」
受け取ったスケッチブックの中にはあらゆるパーツが描かれていた。一箇所の構図案がいくつもあって、それぞれに違う特性があるようだ。
「すげー。」
エンジン部に通常のエンジンとバッテリーが搭載されていて、車体を浮かせるための大小のプロペラや、たぶん位置や何かを感知するセンサーもある。
どこパーツも設置や接続箇所もよく考えたものだな…と感心するばかりだ。
「なぁ、この大小のプロペラって、なんで?」
気になる部分を指差し聞いてみる。
「ああ。大きい方はもちろん車体を浮かせるためだ。小さいのは姿勢制御だったり、方向転換用になる。」
説明を聞きながら頭の中で組み立てていく。
「なるほどな。」
想像しながら、少しずつ形を成していく工程が楽しかった。
「止まる時は?ブレーキってついてるのか?」
組みながら疑問が生じると質問をする。
「いや…ブレーキは負荷が掛かりすぎるから、プロペラを反転させてみたらどうかと思っている。できるだけ車体を軽くしたいしな。」
俺が質問してもすぐに答えが返ってくる。きっと穂積はいろいろなことを想定し、考慮しているのだということがよくわかった。
「じゃあ、運転席んとこに、コントロール部をつけるのはどうだ?」
楽しくなってきた俺は思ったことを提案してみる。
「そうだなぁ。いくつかの動作を組み込んでプログラムしたものを動作ボタンとして載せるのはあり、だな。」
今度は穂積が何かを考えながら答えてくれる。
「超小型パソコンだな。」
俺たちはしばらくの間、頭の中で実体化させたホバークラフトの構成と性能について話し合っていた。
「基盤はどうしても、大地のデザインを使いたい。」
レーシングカーのような低い車体。更に軽量化するために流線型を取り入れて少し改良するつもりだと付け足された。
「流線型…」
空中に浮いた時、流れの中に渦を発生させず、流れから受ける抵抗が最も小さくなる曲線で構成される最適な形。
細長く、先端が丸くて後方が尖っている…そう、水中を優雅に泳ぎ回る魚たちのような形状だ。
「いんじゃね?」
「いいなぁ。」
この時俺たちはきっと、同じような車体を想像していたに違いない。何となくそれに気付いた俺たちはハッと顔を上げ、視線が重なった瞬間、どちらともなくニヤリと笑い、ハイタッチをした。
初めて穂積の図面を見せてもらった。
にーちゃんの図面を見た時と同じように心からすごいと感じ、こんなにも詳細に描き込んでいる図面を実体化したいと本気で思った。俺自身ができないことだからかもしれないが、見ている段階で、想像して創り上げられるような素晴らしい製図を描き上げるエンジニアに出会えたことが嬉しかった。
「なぁ。大地の夢。引き継がないか?おまえと一緒に叶えたい。」
技術者として、俺を選んでくれた穂積と一緒に、にーちゃんの夢を引き継ぐ…悪くないどころか、願ってもないことだ。
憧れの兄が考案したデザインを基に、親友である穂積が構造や性能を発案して製図にしたホバークラフトを、俺が実体化して組み上げていく。
「やってやろうじゃん。」
俺の言葉を聞いて穂積が嬉しそうに笑う。
「おまえがメカニックで、オレがエンジニアだ。ははは。最強だなあぁ。」
確かにそうかもしれない、と思ってしまった。
「にーちゃん、驚くだろうなぁ。」
その情景を想像していたずらな笑みがこぼれる。
「完成するまで秘密にしとけよ。」
釘を刺すように言われて、ドキッとした俺は慌てて無言で頷いた。
今まではその辺に転がっている部品や工具で、なんとなく思いついたものを組み上げる作業をしていた。ごくたまに、父親の仕事を手伝うことはあったけど、時間があるといつもにーちゃんの隣に居座り、作業工程や修理過程をじっと見ている方が好きだった。
ちゃんとした製図を基に、物体を創り上げることへの興味…その感情が生まれた今、俺の中で眠っていた何かがゆっくりと目を覚ました。俺にも兄のような技術を手に入れることができるのだろうか…何をやっても飽きっぽくて不器用な俺が、どんなものでも完璧に創り上げる、あの手のように…本当にできるのだろうか…
「大地がさぁ。葉月は天性の素質を持ったバケモノだって言ってた。誰かの良いところをちゃんと褒められないなんて、いつまでたってもガキだよなー。アイツ、素直に言わねーけど、おまえのこと認めてんだぜ。」
俺の抱いている不安に気付いたのか、穂積はそう言って意味ありげにウィンクをした。
夜空の月を薄雲が隠した刹那、いくつかの小さな星たちが瞬く。
その光を視界の端に感じた時、俺の隣で穂積が大きく伸びをする。
「じゃあそろそろ帰るわー。」
もうそんな時間だったのか。
「ん?ああ。おやすみー。」
穂積は椅子代わりにしていた工場のタイヤからするりと降りる。
「また明日なー。」
「おう。」
返事をして立ち去ろうとした彼が立ち止まり、不意に振り返った。
「羽月。」
「んー?」
名前を呼んだくせに、穂積はしばらく何も言わずにじっと俺を見ていた。
「メカニックってさぁ…イギリスの俗語で『殺し屋』って意味があるんだって。」
そう言いながら急に真剣な表情をした彼は、手で拳銃を真似て俺を狙う。初めて…美人の真剣な顔って怖いくらい迫力があることを知った。
まったく視線を逸らさず、じっと見つめられて俺は息を呑んだ。
その時…
「ばぁん!」
と言って彼はイタズラが成功した子供のように無邪気に笑った。
「オレたちが創り出す夢で、世界を撃ち抜くってのも…楽しそうだなぁ。」
こんなふうに穂積と話しているだけで、何の根拠もないのに、思うがまますべてを叶えられそうな気がしてくるから不思議だ。きっとこれから先、何度もそんなふうに思うことが起こるような予感がしていた。
「こんな夜更けに不良少年どもは何の相談だ?」
いつの間にか月を隠していた薄雲が流れ、降り注ぐような月光の中、待ち望んでいる懐かしい声が聞こえた。
「にーちゃん!」
「大地!」
驚いて振り返った俺たちは声の主を見つけた。
「よぉ。元気だったか?悪ガキども。」
相変わらず何の連絡もしないでいきなり帰ってくる放浪者は。俺たちがどんな思いで待っているのかなんて、きっと考えたこともないのだろうな。
「大地、何かやらかしたのかー?」
からかい混じりだけど、少し心配そうな穂積を見て、驚いてしまった俺は疑いもなくにーちゃんに訪ねた。
「え?あ、もしかしてクビになった、とか?」
便乗して俺がふざけているのだと勘違いしたにーちゃんの表情から笑顔が消え、落胆のため息がこぼれる。
「はぁ…とうとう穂積の毒に影響を受けてしまったのか…」
頭を抱えて悩む素振りを見せるにーちゃんの背後から、怪しげに穂積が寄りかかる。
「へぇ。オレの毒、ねぇ。ふーん。じゃあおまえにも分けてやるよ、大地―。」
完全に部外者なのに、背筋がゾクリとした…
できる限り穂積を敵に回すのはやめておこうと、そっと…でも強く強く心に誓った。
「うわぁ。あーやっぱ、穂積ってかわいくねー。」
二人は笑っているのに、なんだかとても…怖かった。
その後、病院の施設にある研究所を使用できるようになったから帰ってきたのだと、ちゃんと突然戻ってきた理由を説明してくれた。そして卒業後も希望すればそのまま施設に就職することが可能だという。どうするかを決めるのはもう少し先になるけど、にーちゃんの関わっているプロジェクトに必要なものが揃っている施設はかなり魅力的なようだ。
「じゃ、大地はまたここに住むのか?」
嬉しいけれど、俺たちの計画を遂行するのは難しくなるかもしれない。
「いやー。ほとんど施設だろうなぁ。」
せっかく帰って来たのに一緒に暮らせないのは、やっぱり淋しい…
「ふーん。帰って、来ないんだ…」
思わず呟いた俺の頭に懐かしくてあったかい温もりを感じて、一瞬泣きそうになった。
「ごめんな。卒業と就職、今後のプロジェクトがかかってるんだ。一大決戦ってとこかもな。」
でも、どこの病院なんだろう。そんな施設があるなんて聞いたことがない。
「大地―。ま、頑張れよな。」
にーちゃんはおどけながらエールを送る穂積に笑顔を向ける。
「んー。ほどほどにな。たまにはバイトしに帰ってくるわー。」
どんなに離れていても、違う時間を経てもにーちゃんはやっぱり、にーちゃんだった。
突然戻ってきたにーちゃんが施設に引っ越すまでの間、今までみたいに修理をしたり、注文された部品作りを手伝ったりした。短時間だけど、まだ知らない技術を習得するための最高の時間は予想通り瞬く間に過ぎていった。
「にーちゃん、あのさ…」
引越しのために荷物を片付けているにーちゃんに声を掛ける。
「んー?」
きっと施設へ行ってしまったら、しばらくは帰ってこられなくなるだろう。今、言っておかないといけないと思った。
「あの…屋上にある、にーちゃんの工房…俺が使っても良い、かな?」
ほんの一瞬だけ見開かれた目は、すぐに優しく弧を描く。
「うん。もちろん。好きに使って良いよ。」
にーちゃんの笑顔…やっぱり大好きだ。
「ありがと!」
いつもの慣れた仕草で頭にポンッと手を置かれ、優しさの込められた声音が届く。
「羽月、おまえもやりたいこと、見つかったんだんな。」
「え…?」
何も、言った覚えなんてないのに、どうして…
「お互い、頑張ろうなぁ。」
夢を見つけて、それを叶えるために踏み出した一歩を認めてもらえた気がして嬉しかった。ずっと憧れている存在からの『頑張ろう』って言葉がこんなにも心に染みるものだなんて知らなかった。心の中で迷子になっていた小さな俺を優しく包みこんでくれるあったかさを感じた。
一週間後、にーちゃんは予定通り施設に行ってしまい、その日、穂積と俺は二人の夢への挑戦を本格的に始動することにした。果てしなく危なげで脆く、手探りの中を進んでいく俺たちの一歩。刻んでいくその先にはきっと、描いた通りの世界が待っていると信じて進み続けていく。
「だー!上手くいかねぇ!」
ガガガガッ ガシャンッ
「あー。なんでだよ!クソッ」
ドンドン…
カンカンカンッ ウィーン…
「あ、マジか!あー。」
その時不意にガラッと勢いよく窓を開ける音がした。
「羽月!てめぇ、うるせぇわ!」
隣の三階の窓が開いたのだ。顔を覗かせた穂積が怒鳴る。
「あ…すまん。」
勢いに負けて素直に誤った。
「集中できねえだろ!このバカ!」
明らかに苛立っている様子に、反省した声でもう一度『ごめん』と伝える。
冷たくピシャリと窓を閉められ、俺は小さく溜め息を吐いた。
「アイツ…平気な顔してたけど…やっぱりかなりショックだったんだろうな…」
先日行われた四年生の冬の統一模擬試験…
順位が張り出されている校舎を屋上から双眼鏡越しに様子を伺っていた穂積の表情が曇る。
「また、一位?」
間食のおにぎりを頬張りながら尋ねると意外な答えが返ってくる。
「いや…二位だ。」
「え?」
驚いた俺は彼から双眼鏡を奪って覗いてみる。
「…なんだ、一位じゃん。」
見つけた掲示板にはちゃんと一位のところに穂積の名前がある。
「あ?総合ってとこ。ちゃんと見てるか?」
つまらなさそうに、呆れた口調で言われて改めて見る。
「あ?あっあった。」
総合成績と書かれてある掲示板に穂積の名前を見つけた。でも、彼の言う通り…二位だ。一位には知らない名前が記されている。
「こんな時に人間は『青天の霹靂』なんて言葉を使うのかねー。」
そう言って他人事のように笑う彼が、そっと拳を握り締めていることに気付いてしまった俺は何も言えなくなった。
「嘘、だろ…?」
五年生の春、いつものように模擬試験の結果が張り出された掲示板の前、彼は思わず本音をこぼしていた。
信じられないことだが、穂積の名前の上、一位には前回と同じ名前が記されている。
「おもしれぇ。良いんじゃね?はっオレが追い詰めてやるよ。」
そんな狂気じみた言葉を吐く彼が、何故か嬉しそうに笑っているように見えたのは気のせいだろうか。それとも、もしかしたらこんな状況をずっと待ち望んでいたのかもしれない。本気で向き合える『ライバル』と呼べる存在との出会いを…
その数ヵ月後、俺も自分の中にある、知らなかった感情を呼び覚ますような出会いをした。
そう…『音の魔術師』との出会いだ。
その手は、旋律と癒しを与えてくれた。
その手は、幻想と発見を見せてくれた。
その手は、技巧と感動を教えてくれた。
そして…創造と安らぎをくれる彼の手は、ボクたちを出会いへと導き、強く繋いでくれた。
見慣れた風景を真っ白に染めた雪が少しずつ解け始め、小さな生命たちが顔を出す。新しいキャンバスが彩られていき、暖かくて優しい風に誘われ、淡いピンク色の季節が訪れる。
出会いと別れ、そしてはじまりの…春。
いろんなことがあった半年をなんとか乗り越えて、ボクは中学生になった。当然のように両親の来ない入学式を迎え、当日、一人で学校へ行く。
「三年間、よろしく。」
華やかに飾られた校門をくぐり、校舎を見上げて呟き、案内に従って校庭に向かう。張り出されているクラス表で自分の名前を探していると、風に誘われた桜の花びらが舞い散った。しばらく花びらを目で追っていると見知った姿を見つけた。
「え…」
「んー?」
「あ!」
「おう。」
予想外の突然の再会に驚いたけれど、すごく嬉しくて少しくすぐったかった。
「そう言えばセツもここだったなぁ。」
以前軽く話していたことを思い出したのか、大地さんが言った。
「はい。」
大地さんとは定期的に会って義手の調整をしてもらっているけれど、羽月くんと穂積くんにはあの日以来会う機会がなく、時々大地さんから話を聞いてずっと会いたいと思っていた。
「元気そうだな。」
前に会った時よりもなんだか逞しくなった気がする。
「羽月くんも元気そうで良かった。」
たぶんボクはあんまり変わってないだろうな…
「セツー。会いたかったよー。」
その声と同時に背中に衝撃が訪れる。
「わっ」
穂積くんに後ろから抱きつかれ思わず情けない声が出る。
「ほ、穂積くんっ」
慌てているボクになんてお構いなしだ。
「相変わらずつれない態度だよなぁ。」
そう言いながらもずっと離れない穂積くんを強制的に引き離してくれた大地さんは、呆れた顔をしていた。
「今からこんな調子で大丈夫なのかぁ?」
ボクの顔を覗き込んで言う大地さんはとても心配そうだった。
「そう願いたい、です…」
かなり前途多難な予感だけを残して、なんとか無事に入学式が終わった。
「なんか…成長すんの、早いよなぁ」
みんなで一緒に歩いていると、大地さんがしみじみと呟く。
「大地がなんかおっさんみたいなこと言ってるー。」
穂積くんが茶化して笑っている。
「だ、誰がおっさんだ!」
なんだか出会った頃に戻ったみたいで楽しくなって、自然と笑みがこぼれた。
外見はそれぞれが少しずつ成長して変わったけれど、中身は相変わらず健在のようで嬉しかった。
「おまえらの世話係なんていつまでもやってられるかっ」
大地さんも負けじと文句を言っている。
「へっ本当は嬉しいくせにー。」
それに答えるように穂積くんが面白がって吹っかける。
「穂積―。おまえはずっとかわいくねーな!」
黙って見ていた羽月くんがとうとう見かねて口を挟む。
「にーちゃんも穂積も、いい加減にしろよな。みっともない。」
この三人はいつでも仲が良くて、本当の兄弟みたいだ。でも、羽月くんの言う通り、他の人の迷惑になりそうだから、そろそろ落ち着いて欲しいかも…
そんなことを考えながらボクは、彼らの少し後ろを歩いていた。
「なぁ、セツ。」
「何?」
前を歩いていたはずの羽月くんが、ボクに気付いて歩調を合わせてくれた。
「今日、ウチに来ねぇ?」
急な提案をされ、思考が止まる。
「え?」
言い出したはずの羽月くんは困った様子で言葉を探しているようだった。
「えっと、明日は土曜日で休みだし、穂積も泊まりに来るから…良かったらセツも一緒にどーかなぁと思ってさ。」
何故かちょっと照れながら話す羽月くんを不思議そうにじっと見つめてしまった。
「あ、もちろん、迷惑なら断ってくれて全然良いんだ。」
返事をしないボクが悪いのだけれど、かなり慌てて羽月くんが言葉を付け足す。
「なーにやってんだよ、羽月―。」
助け舟なのか、困っている羽月くんを押し退けて、今度は穂積くんがボクの隣に並んで歩く。
「オレ、セツと一緒にいたいから、泊まりに行こーぜ。な?」
ボクの目を見つめてそう言うと、軽くウィンクをした。
「あ…うん。あの…迷惑じゃなかったら、その、行きたい…」
ボクの返事を聞いた二人は、嬉しそうにハイタッチをした。
「よし。決まりだな!」
その姿を見て、こんなふうに気の合う関係って良いなぁと素直に思った。
「セツ。」
穂積くんが立ち止まりボクを呼んだ。
「ん?」
「ほい。」
そう言いながらボクと羽月くんに向けて手を掲げる。
「あ、俺も。」
足早に近付いてきた羽月くんも同じように、ボクと穂積くんに手を掲げる。
あ…もしかして二人は…
二人が掲げてくれている手にボクがゆっくりと手を近付けると、勢いよく『パチンッ』という音が響いた。
「今日からは三人でやろうぜ。」
穂積くんが笑ってそう言うと羽月くんは深く頷いた。
初めて三人の手で奏でたハイタッチの音は、新しく始まる日常のスタートの合図みたいに高らかに鳴り響いた。
「やってくれるねぇ。」
嬉しそうな笑顔で大地さんはそう言い、ボクたちを優しく見守ってくれていた。
当たり前のように放り込まれたこの殺風景な空間も、一年が過ぎる頃にはさすがに慣れてきて、それぞれの時間が流れていくようになる。
そんなある日、羽月と廊下を歩いていると、彼が急に立ち止まった。
「なぁ、セツ。」
「うん?」
少し先を歩いていたボクは立ち止まり、彼の方に振り返った。
「セツ…ピアノ、弾かねぇの?」
内心、いつか問われるだろうと思ってはいたけれど、実際に言葉にされるとドキッと鼓動が跳ねる。
「腕の調子が…ちょっと、ね。」
まだ、本当の理由を話せなくて…でも、嘘ではない理由を伝えた。
「そっか。ま、無理すんなよ。」
彼はそう言って、大地さんがするようにボクの頭をポンッと叩いた。
羽月はもちろん事故のことを知っているけれど、ボクが義手であるということは、まだ知らない。
事故で腕を怪我したのだと、話しただけだからだ。もちろん穂積にも話していない。彼らに真実を話すことがどうしても怖くて、なかなか言い出すことができないのはきっと…ボクが弱いからだろう…
「にーちゃんは知ってんの?」
ボクの腕を指差して羽月が問い掛ける。
「うん。大地さんのいる病院に通院してるから。この前会った時にちゃんと話したよ。」
彼は『そっか。じゃあ良いか。』と納得して、またゆっくりと歩き出した。
さっき彼が立ち止まった場所にはピアノコンクールの告知ポスターが貼ってある。きっと参加しないのかと、聞きたかったのだろう。本当はボクだって参加したかったけど、残念ながら今は…弾きたくても弾けないんだ…
「幻肢痛?」
そんな言葉、初めて聞いた。
「そう。たぶん幻肢痛が起こってるんだと思う。」
「……幻肢、痛。」
初めて聞く言葉に戸惑っているボクに大地さんは説明してくれた。
すべての人に当てはまるわけではないが、切断して失っているに、神経がまだ存在しているのだと認識してしまうことを『幻肢』と呼び、時に痛みを伴うことがある、かなり不快感が強いのだといわれている。幻肢痛は実際に存在していない場所、つまり…失った場所に発生する痛みなので、直接的な治療ができないのだ。
「治らないってこと?」
不安になってボクは尋ねた。
「いや…治らないってわけじゃなくて…」
珍しく歯切れの悪い話し方で言葉を濁す大地さんが、何かを隠そうとしていることに気付いてしまった。
「大地さん、何か問題があるのですか?」
「んー。どうと言われると、正直…問題ばかりなんだ。」
大地さんは苦笑しつつ、深い溜め息を吐く。
「義手っていろいろな種類があるだろう?でもどのタイプでも幻肢や幻肢痛が起こってしまうんだ。少しずつでも改善していきたいって思っても、はっきりとした原因がわからない。つまり…現状、収集データが少なすぎて何もできていないんだ。」
悔しさを込めて大地さんは拳を握り締めている。
「あの、ボクに…できることってありますか?」
もしかしたら何かできることがあるかもしれない、そう思い気持を伝える。
「セツ?」
怪訝な表情でボクを見つめる大地さんをまっすぐ見つめて、もう一度伝える。
「何か、できることはありませんか?」
諦める決断をするしか道は残っていないのだと思っていた夢。そんなボクに再び歩き続けることができるのだと可能性をくれた大地さんに、何かお返しができるのなら、迷う意味も理由もない。
「その気持ちだけで十分だよ。ありがとうな、セツ。」
目の前の、見慣れているはずの優しい顔を、少し淋しそうに感じたのはボクの気のせいだろうか…
結局痛み止めが有効ではないのでと言いながら、軽い精神安定剤を処方してもらえるよう手続きをしてくれた。
「とりあえず、この薬でしばらく様子をみようか。」
ボクは納得しきれなかったが、用意された薬を受け取る。
「はい。ありがとうございます。」
お礼を言って大地さんの研究室を出て行った。
閉めたドアにもたれて静かに息を吐く。
「大地さんの、夢じゃないのかよ…」
誰よりも悔しい思いをしているのはきっと大地さん自身なのに、その思いに気付たって何もできないんじゃ意味がない。
「叶えて欲しいだけなのに…ボクは、大地さんの描く夢を、叶えて欲しいんだけなんだ。」
支えてもらうばかりで何もできない自分が情けなくて、やりきれない感情が悔しさに押されて涙となりこぼれ落ちた。同時に脈打つような速度で右腕に痛みが走る。
「!…っ」
言葉を呑み込んで痛みに耐える。
「は、はは。バカ、みてぇ…」
いつもならだんだん治まってくるはずの痛みが、いつまでも消えない。ボクは右腕を強く抱きしめたままその場にしゃがみこんだ。
「…セツ?おい、雪華!大丈夫か!」
なんで、こんな時に限って部屋から出てくるんだよ…
「大地、さ、ん…?」
痛みのせいで何も考えられない。
「雪華!」
その声を聞きながら、ボクはゆっくりと目を閉じる。
いつもはノックしても部屋から出てこないくせに、なんでこんなところにいるんだよ…
そんなどうでも良いことが頭に過ぎって、力なく苦笑した。
大地さんは心配そうな表情でボクを抱え、研究室に運んでくれた。
簡易ベッドにそっと寝かされ目を閉じたまま、大地さんが誰かに連絡している声を聞いていた。
「うん。今、研究室。ああ、すぐこっちに来られないか?頼む。」
腕に痛みが走るたびに顔をしかめるボクの手を、大地さんはギュッと握ってくれている。
「大丈夫だ。大丈夫、だからな。セツ、俺が…」
一体大地さんは何と戦っているのだるか。夢を叶えるためにずっと頑張っている彼が、どうしてこんなにも躊躇っているのだろう。まだ誰も成し遂げていない、最高の義手を創り出すために必死に頑張っているはずなのに、何が…あるのだろうか…
「大地っ遅くなって悪い。セツは?」
「おー。急にごめんな。セツ、実は最近よく幻肢が発生しているらしいんだ。」
勢いよくドアを開けて入ってきたのは、大地さんの長年のプロジェクトスタッフの一人で、ボクが初めて義手をつけた時の担当医だ。
「幻肢痛も、起こっているようだな。」
苦痛に耐えるボクを見て静かに呟く。
「ああ。診て、もらえないか?」
その言葉にドクターは困った表情で肩を竦める。
「大地、診察したところで、一体どうなるんだ?」
呆れた様子のドクターに大地さんが噛み付く。
「わかってるけど!」
「だったら!今、おまえがやれることをやれよ。そのために、ずっとデータを集めて研究を続けているんじゃないのか!」
普段怒鳴ったりしないドクターが大地さんに掴みかかるのが見えた。
「二人とも、ケンカなんて…しない、で。」
あまり自由に動かない身体を起こしながら、二人を止める。
「セツ…少し、落ち着いたのか?」
まだ不安の色が濃く残っている眼差しでボクに問い掛ける大地さんに、そっと微笑む。
「ドクター、久しぶりに会えて良かった。」
痛みが治まってきたボクはソファーに移動し、改めてドクターと向き合った。
「ん。再会は嬉しいが、セツの腕のこと…話しても良いか?」
ボクを見つめる目はとても真剣でまっすぐだった。その目から視線を外さずにボクは無言で深く頷いた。
「幻肢と幻肢痛のことは…大地から聞いているな?」
「…はい。」
軽く目を伏せ納得した様子で彼は息を吐く。
「じゃあ、その続きを話す。」
「は、い。」
いつもは大地さんが座っている場所にドクターが座っていて、定位置を譲った大地さんはドア近くの壁に背を預けて立っている。
「ここ数年、欧米では少しずつ普及が始まってきたらしいが、コレの存在はまだ知らない人たちの方が多い。日本での普及なんて、まぁ論外ってとこかもな。」
そう言ってドクターは自分のタブレットに表示した研究資料を見せてくれた。
「それは筋電義手と呼ばれている。長年、大地と一緒に研究していることの基本となるものだ。」
「筋電…義手?」
わかりやすく言えば、と付け足しドクターはできるだけ専門的な言葉を省いて説明してくれた。
「筋肉を動かすために、脳から命令を送る時発生する微弱な電流で、一部の筋電を感知し義手を動かせるようになる。」
仕組みだけを考えると普通の腕と同じってことなんじゃないのか?
「すごい…義手ってそんなに進化しているんだ。」
大地さんたちの研究内容を詳しく聞いたことがなかったボクは、今更ながらに驚きと敬意を抱いた。
「もっと詳しく知りたいのなら、直接大地に聞いてくれ。」
ドクターはニヤリと笑った。
「え?」
ボクを通り越して大地さんに視線を向けたドクターが呼びかける。
「なぁ、幻肢をテーマとして動いてるのは、おまえだったよなぁ?大地。」
大地さんは腕組をして、そっぽを見たままのんびりと答える。
「んー?そうだったかもなぁ。」
ボクに視線を戻し、彼の態度に呆れた表情を見せたドクターは悪戯っぽくウインクをした。
「俺は…」
え?
「俺はできるだけ幻肢と幻肢痛の発生をなくしていきたいんだ!切断という辛い選択をさせられて、尚も失った場所に痛みを感じるなんて…俺が、なんとしてでも改善してみせる。一人でも多くの人が痛みから解放されるように、俺が必ず創り出してみせる!」
驚いた…でもそれ以上に感じた強くて優しい想いが込められている言葉が、すごく嬉しくてボクの胸にしっかりと残った。
「ドクター、あの…」
ありがとうを伝えようとするボクに、ドクターが無言で待ったをかける。
「…って熱く語っていたのは、誰だったっけ?なぁ大地―。」
その言葉で今聞いた言葉が大地さんのものだとわかった。
「うるせぇ!この、バカ医者が!」
照れているのか怒っているのか、さっきまでの呑気とも言えるほどの穏やかさは消え失せ、ドクターを怒鳴りつけている。
「ホント…どこまでも不器用なんだから…」
でも、知らなかった彼の素顔にほんの少し触れられたような気がして嬉しかった。
ボクはソファーから立ち上がり、無言で大地さんの所へ行き右手を差し出した。
「大地さん、ボクに…賭けてみませんか?」
覚えてくれているだろうか。その言葉は、初めて研究室に来て右腕を見せた時に告げられた大地さんからの…言葉だ。
「え?」
しっかりと大地さんの目を見つめて、ボクは思いを伝える。
「やっぱりボクは、これからもピアノを弾き続けたいです。」
何度も諦めようとしたけれど、諦められないボクの、夢だから…
「セツ…」
「大地さんは、もう…聴きたいって、思ってくれないんですか?」
あの時の…絶望的な状況も自身の思いも忘れたくないからこそ、これからもピアノを弾いていきたいと強く願っている。一度止めてしまった歩みは、今再び動き出しているんだ。このまま手放すことなんてできるわけがない。
あんな絶望感なんて、もう二度といらない。
「大地さん…ちゃんと、ちゃんと責任、取ってください。」
かなり感情的になってしまったボクの、涙声での一言が決定打となり、その場の空気を変えてしまった…
「お、おい!大地、まさかおまえ…」
ずっと黙って聞いていたドクターが慌てて想像よりも過剰な反応を示すと、影響を受けたのか当事者である大地さんまでもが焦っているみたいだ。
「ち、違っ…俺とセツは特別な関係じゃない!」
はっきりと言い切ってから、大地さんは眉間にシワを寄せて難しい顔をした。
「いや…かなり、特別な関係、だよな。うん。」
急に真剣な表情で言い直し、何かを思いつめているように黙り込んでしまった。
表情がコロコロと変化する大地さんを見ていると、不意にドクターと視線がぶつかった。そしてどちらともなくボクたちは思わず笑い出す。
「なんなんだよ!おまえらなぁ、人が真剣に考えているのに!」
ドクターは大地さんの肩に手を置き、ニヤッと笑う。
「今更だろうが。おまえとセツは間違いなく特別な関係、だよ。おまえらを引き合わせたのは魔法の手(義手)なんだからな。」
その言葉に、ボクは改めて自分の両手を見つめてみた。
本来の手と義手なのに、今となっては当然だがどちらも大切なボクの手だ。右手は時々、自由気ままに暴れることがあるけれど、かなり気が合ってきたと思っている。
「セツ。研究に協力してくれるのは嬉しい。正直、ずっと願っていたことでもあるからな。ただ…少しでも辛い思いをしたり、苦しい、痛いと感じたらすぐに止める。」
この人はやっぱり、どこまでも優しい人…なんだ。
「それじゃ…」
大地さんの決断は、自分のこと以上に嬉しいことだった。
「おまえに賭けてやるよ。セツ。」
大地さんの目に、迷いは感じられなかった。
「はいっ」
それぞれに大きくて強い決意を込めて、ボクたちは差し出した手を握り合った。
今までの義手よりも更に微調整が必要なため、長期の休みを利用するべきだということになり、実証したい研究屋実験などは夏休みに行う予定で計画を立てた。
「能動義手や作業用義手と同じように装着してくれて問題ないんだが…外観より機能面が重要視され過ぎている点だけは、問題だろうな…」
画像を見せてもらった時も感じていたけれど、実物もなかなか予想以上にメカニックな印象が強い。
「もちろん外観も改善項目に挙げている。今後、少しはマジになる予定だ。」
ある程度の見た目の大切だからなと苦笑している大地さんを追い越して、ボクは視線を窓の外へと逃がした。
「ボク、また長期入院するんですか?」
前回は入院中だったから、病院にいても不自然ではなかったが、今回はどうする?
入院するなんて言ったら…羽月も穂積も心配するだろうな。もしかしたらお見舞いだと言って毎日病院に来るかもしれない。それはそれで困ったことになりそうだ。
「入院はしない。普段通りセツの家で生活してもらうのがベストではあるが、難しいだろう?」
まぁ、ほとんど誰もいないから別に問題はないだろうけれど、できれば避けて欲しかった。
「俺ん家かなぁ。やっぱ。」
「え?」
いろいろ想定して考えても、研究室か大地さんの家か、結局どちらかの選択肢しかないのだと言われてしまった。
「二人には…いつ話せば良いですか?」
黙っていてバレた時に問い詰められるより、ちゃんと話したほうが良いに決まっている。
「自分で話すのか?アイツらに話さなくても良い方法だってあるんだよ。」
もう逃げないと決めたんだ。だからこそ…
「ボクが…二人に話すことが大切なんだと思います。」
大地さんは少し驚いているようだったが、優しく微笑んでくれた。
「そうだな。わかったよ。」
本格的なリハビリを始めるのは夏休みに入ってからという予定を立て、それまでは2、3日を目安見装着して様子を見ていくことになった。
そして…夏休み間近のある日、そろそろボクから二人に話をしようと思っていることを大地さんに告げた。
「二人に話すなら、良い場所がある。」
そう言って、夏休み初日に合わせてわざわざ休みを取ってくれた。
「荷物積み終わったかぁ?」
「終わったー。」
二人が元気に返事をした。
「んじゃ、そろそろ行くか。」
その声に返事をする代わりに、ボクたちは三人でハイタッチをして車に乗り込んだ。
大地さんは、二人に話をすることを決意したボクのために、初めて出会った場所を提供してくれたのだ。
「ほい。お疲れさん。着いたぞー。」
二階建ての洋館は、相変わらず木々に守られている様にそこに存在していた。深緑の葉ではなく、涼やかな青緑の葉に囲まれている姿は夏の装いを思わせる。
大地さんと一緒に車から荷物を下ろし、葉月と穂積がそれを家の中に運んでくれた。
「二階の部屋、適当に使って良いよ。」
大地さんの言葉に家の中から二人が返事をし、しばらくして二階の部屋の窓が開けられた。
「にーちゃんの部屋も窓開けとくわー。」
「おー、頼むなー。」
解放された窓から、二人のじゃれあっている楽しそうな声が聞こえてくる。
ボクは、ちゃんと伝えられるだろうか…
無意識に右腕を握っていたボクの頭に、大きくて温かい手は載せられる。
「大丈夫だよ、セツ。そんな心配すんな。」
何度も救われてきた彼の笑顔を見て、改めて感謝していた。
「うん。ありがとう。」はにかんだ笑顔を返し、自分の荷物を一階の客室に運ぼうとしているといきなり荷物を奪われた。
「セツはオレと同室、な。」
そう言って穂積は荷物を担いでさっさと二階へと歩いて行った。
「え?なんで?」
問い掛けるボクの方をチラッと振り返る穂積は楽しそうに笑っている。
「気にしなーい。一人だと淋しいじゃん。」
仕方なく穂積の後について行くと、少し広めに空間に二人分の家具が置いてある部屋に案内された。
「オレが初めてここに来たとき、羽月と一緒に使ってた部屋なんだ。」
ボクの荷物を片側のベッドに置き、穂積は大きく伸びをした。
「さぁて。何しよーかなぁ。」
この時のボクはまだ、穂積が抱いている想いに少しも気付いていなかった。
「羽月んとこ行こーぜ。セツ。」
誘われるままに羽月と大地さんのいる庭へと向かう。庭に出る途中で『ちょっと待ってて』と言われ立ち止まっていると、満面の笑みで穂積が戻ってくる。
「ほい。」
有無を言わさず、ボクにあるものを手渡し、また軽やかに歩き出した。
「はーづきっ」
「んー?」
「喰らえ!」
「う、うわっ穂積、てめぇー!」
庭に出るなり、穂積は迷いなくそっと羽月に近付き、振り向き様の顔に水鉄砲を勢いよく発射した。
「へへ。隙だらけなのが悪いんだよっ」
楽しそうに笑いながら連射して羽月を狙い撃っている。
「穂積!てめぇいい加減にしろよな!」
「あ…」
言うが早いか、連続攻撃を受けてさすがにイラっとしたのか、羽月はボクから水鉄砲を奪い穂積を狙った。
「あ、避けんなよ、卑怯者!」
運動神経の良い穂を狙ってもなかなか当たらない。
まるで映画のワンシーンのような光景だなぁと思って眺めていたボクは…
「わっ」
突然、背後から攻撃された。
「あ、すまん。」
そう言って一瞬だけ動きが止まった。
「うわー。羽月、下手くそすぎー。」
二人の姿を見ればどちらが優勢か一目瞭然だった。
「うるせぇ!」
叫びながら追いかける羽月と、それを余裕で躱す穂積。学校とは違う自然なままの二人の姿を少し複雑な気持ちで見ていた。
「セツ。おまえも行ってこいよ。」
大地さんはクスッと笑って水鉄砲?を渡し、ボクの背中を押した。
「セツー。行くぞー。」
大地さんはそう言って勢いよく水道の蛇口を開ける。
「うわ!」
「大地っやりすぎだろ!」
ボクの持つ連射型水鉄砲の攻撃は二人に命中…してしまった。
「ご、めん…」
言葉通り水が滴る程、ずぶ濡れになった二人を前にして反射的に謝るボクを見て、二人は顔を見合わせて大笑いし始めた。
「セツ、ちょっと貸して!」
「あっ」
借りるというよりは、勝手に取り上げた穂積はニヤリと怪しげな笑みを浮かべた。
「大地、喰らえー!」
「うわっこら、穂積!」
攻撃を受けた大地さんは穂積を睨みつけている。
確かにそれはちょっと、やりすぎでは…そう思っていると腕を掴まれた。
「あ、やべ…おい、セツ、逃げるぞ!」
結局、ボクもしっかり巻き込まれ、庭中が水浸しになる程の攻防戦の末、水鉄砲大会は無事に終わりを迎えた。
賑やかな時間が過ぎ、穏やかさが戻った庭にできた幾つもの水たまりには、太陽から注がれる光の粒がキラキラと揺れていた。
順番にシャワーを浴びて着替えを済ませると、みんな軽く言葉を交わしてそれぞれの部屋に戻っていった。ほどよく疲れたボクたちはしばしの休息のため、夢の中へと旅立つ。
ピアノ…?
誰が弾いているんだろう。
浅い眠りの中、どこからか聴こえてくるのは間違えるはずもなく、ピアノの音色だ。向かい側のベッドでまだ眠っている穂積を起こさない動にそっと部屋を出ると、微かな音を辿った。
一階の客室まで来たボクは、少し開いているドアの隙間から部屋を覗き込んでみる。
あ、大地…さん。
目の前の情景に圧巻されて、その場から動けなくなってしまった。
なんて…切ない旋律なのだろう…
でも、でも、なんて優しい音色なんだ…
「セツ、入って来て良いよ。」
クスッと笑って大地さんは旋律を止めてしまう。
「あの…ごめんなさい。ボク…」
何を言って良いのかわからなくて口ごもっているボクを優しい眼差しで見つめている。
「ははは。弾かないって決めてたのにな。なんか急に、弾きたくなったんだ。」
大地さんはそう言って苦笑しながら鍵盤の蓋を静かに閉めた。
「すごくキレイでした。切なくて、優しくて…今までに聴いたことのない旋律で…えっと、本当に見惚れるくらいキレイでした。」
照れたように笑って大地さんは『ありがとう』と言った。ボクが伝えた感想は曲に対するものだけではないということ、ちゃんとわかってもらえたのだろうか。
「セツー。にーちゃんも来いよー。」
庭から元気にボクたちを呼ぶ声が聞こえてきた。
「アイツらも起きたのか。じゃ、そろそろ始めるかー。」
庭に出ると、羽月たちがじゃれあいながらBBQの準備を始めていた。
「遅い!」
「にーちゃん、腹減ったー。」
散々暴れまわって今まで寝ていたはずなのに、復活が早いことで。
「いちいちうるさいんだよっおまえらもちゃんと手伝え。」
「はーい。」
食べ物が絡んでくると二人は異様なくらい素直になるのだと改めて思った。
みんなで食事をしながら他愛のない話をして、たくさん笑った。こんなに楽しくて幸せだと思える時間を過ごすのは本当に久しぶりだった。
「なぁ、花火しよーぜ。」
夕日が眠りにつき、空が暗くなってきた頃穂積が言い出した。
「そんなもん、持って来てない。」
素っ気なく言い切った大地さんを見て、二人は目配せをし勝ち誇った笑顔になる。
「大丈夫。にーちゃん、忘れてるだろうから、俺たちがちゃんと用意してきた。」
そう言ってどこに隠していたのか、袋に入りきらないほどの花火を持ってくる。
「セツー、何からやるー?」
上から袋の中身を確認して大地さんは目を見開く。
「おいおい。おまえらそれはやり過ぎじゃねぇ?」
深い深い溜め息を吐く大地さんを他所に、ボクたちの盛大な花火大会が始まった。
「ちょっあぶねーだろーが!」
「おまえも振り回してんじゃねぇよ!」
初めから予想はしていた…この二人が大人しく花火を楽しむだけで終わるはずがないんだ。案の定、二人は庭を走り回ってじゃれあっている。
「いつまで経ってもガキだよなぁ。」
いつの間にかボクの隣に立って文句を言う大地さんだけど、優しい笑顔が彼の本音を語っているようでボクは微笑んでいた。
花火が全部なくなる頃には夜が明けるんじゃないかと思っていたけれど、その時は思ったより早くに訪れた。
「おー。やっぱ最後は線香花火だよな。」
珍しく羽月がしみじみと言う。
「ははは。情緒の欠片もないヤツが言ってもダメだわ。」
羽月の言葉に穂積が言い掛かりをつけるから、何でもないことなのにすぐに問題事に発展してしまう。
「じゃ、穂積にはやらねー。」
「何それ?まんま、ガキじゃん。」
最後まで落ち着きのない二人を見てとうとう大地さんが呆れ始めていた。
「ボク、みんなでやりたいな。」
それまで黙っていたボクは一言だけ呟いてみた。
「おう。」
「うん。やろうぜ。」
普段からあまり発言しないボクのお願い事は、二人に対してなかなか有効らしい。
ジュッ…という火種が水に溶ける音とともに、長いようで短いボクたちの花火大会が終わる。
「おまえら先に戻っとけ。俺、水撒きしてから入るわ。」
「はーい。」
みんなで協力して何故か散らばっている花火の片付けをした後、ボクたちは客室へ入る。
羽月はフロアに置いてある大きめのクッションのところで寝転び、穂積はソファーに座った。ボクは窓から外の世界を眺めながら、少しずつ速くなる鼓動を静めるためにそっと胸に手を当てる。
「ほい。ひと休みするか。」
水撒きを終えた大地さんがみんなの飲み物を用意して部屋に入ってきた。
二人に話すためにここにいるはずなのに、ボクは何から話せば良いのかさえわからなかった。
どう、する…?
何ひとつ言葉が見つからないボクは深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。そして、いつも着ている薄手のパーカーを脱ぎ、ピアノに向かった。
ボクに、勇気を分けてくれないかな?
そんな想いを込めて、そっとピアノに触れてみる。
『いいよ。ほんの少しだけ、ね。』
ピアノがそう答えてくれた気がしたボクは心の中で『ありがとう』と伝え、スツールに座った。
ボクが目覚めた時に聴こえてきた、大地さんが弾いていた曲…『別れの曲』を弾き始める。
静かに響きだした音色に誘われた二人がボクの方を向いたことがわかる。ステージ上で感じる緊張ではなく、まったく別の感情が心の中で暴れ始めた。
二人はどんな表情でボクを見ているのだろう…そんなことを考えるだけで怖くなって、微かに手が震えてくる。
「セツー。オレ、おまえが弾く『カノン』聴きたいんだけど、弾いてくんね?」
『別れの曲』を弾き終えて訪れた束の間の静寂を破ったのは、ボクの正面にあるソファーに座っている穂積だった。
「あー。俺も聴きたい。」
大きなクッションを抱えながら羽月が手を挙げて言った。
「うん。わかった…」
ボクはたくさんの複雑な想いを胸に抱きながら『カノン』を弾いた…
部屋に最後の音色が響き渡り、静まり返った。そして…ボクはゆっくりと立ち上がる。
「あの、ボク…二人に、話したいことが…あるんだ。」
やっと、その言葉を告げることが、できた。
コンクールに向かう途中で事故に遭ったことから今日までのことを順を追ってすべて話した。そして、今までずっと黙っていたことを…謝った。
許して欲しいとか、理解して欲しいとか…そんなことはどうでも良かったのかもしれない。正直、そんなこと考えてもいなかったんだ。ただ、ありのままのボクを見て欲しいと思っただけなのかも知れない。
「にーちゃんの、創った手なの?」
話している途中で傍に来てくれた羽月がボクに問い掛ける。
「う…ん。そう。」
羽月はボクの右腕にそっと触れてくれた。
「肩んとこがみえないと、実物と同じだな。」
背後にいる穂積が感心したように呟く。
「うん。」
義手に対しての特別視ではなく、ただ大地さんの技術に興味があるようだ。
「それで?セツの手が義手だと、何か問題、あんの?」
予期せぬ質問をされて思考が止まる。
「あ?問題って…」
「セツはセツ、だろ?」
穂積は澄んだ眼差しで真っ直ぐにボクを見つめる。
「うん。」
「気にする必要、ないんじゃねぇの?」
ボクは、何を怖がっていたのだろうか…
「穂積…」
そっか。二人はボクのことをちゃんとわかってくれていたんだ。見た目がどうとか、境遇がどうとかそんなことどうでも良くて、ボクをちゃんと『雪華』として見ていてくれたんだと、やっとこの時、はっきり認識することができた。
もしかしたらボク自身が勝手に、二人に対して境界線を作っていたのかもしれない…
「でも、まぁ、アレだな。隠し事されてたっていうのは、あんまり良い気がしないよなぁ、羽月。」
ニヤリと笑って羽月を見る穂積…
「ん?あー。まぁそーだなぁ。」
何かを企んでいる時の二人の意思疎通は半端なくすごいことをボクは知っていた。
「駅前にできたカフェで奢ってもらおうかなぁ。」
視線で会話をしながら話す二人はとても楽しそうに見える。
「お、いいねー。」
結局からかわれるように、二人のペースに入り込んでしまったボク。そんなやり取りをじっと見守っていた大地さんは耐え切れなくなって大笑いした。
「おまえらってホント、バカだよなぁ。」
笑いが収まらない大地さんに矛先が向く。
「は?誰がバカだ!」
「にーちゃん、さすがに酷くね?」
珍しく羽月までもが反発している。
「事実だから仕方ないだろううが。バーカ。」
大地さんを巻き込んで、三人のじゃれあいが始まった。
そんな三人を見ていたボクは、胸にこみ上げてくる想いを抑えきれなくなってしまった。
「大地さん、羽月、穂積…」
震えるボクの声に三人は動きを止めて振り返る。
「ありがとう…」
そのたった一言が、今のボクに伝えられる精一杯の想いだった。
「お、おう。」
照れて吃る羽月。
「うん。」
笑顔で頷く穂積。
「ん。よく出来ました。」
そっと頭に手を乗せる大地さん。
余計に止まらなくなった涙を何度も拭っていると、三人の手が優しく包み込んでくれた。ボクは感じたことのないぬくもりに癒されながら、声を上げて泣いた。
「じゃ、おやすみー。」
「おやすみ。」
「おやすみなさい。」
ボクたちは大地さんに文句を言われながら部屋の片付けを手伝い、挨拶を交わしながらそれぞれの部屋へ戻った。
「セツ、寝た?」
灯りを消し、ベッドに寝転んだものの、いつまでも訪れない眠気を待っていたボクに穂積が声を掛けてきた。
「まだ起きてるよ。」
「そっか。」
声を掛けられただけで、穂積に起き上がる気配はなかった。
「オレ…知ってたんだ。おまえの手のこと。」
知って、た?
「ちょっと前に大地が最高の義手を創りたいって話してくれたことがあってさぁ。その仕事に就いた時、オレ…すごく嬉しかった。そんな大地とおまえがいつも一緒にいたら、自然とわかってくるだろ?」
それにオレ、人の心が読めるしな。と付け足して苦笑した。
「こんな外見だから、苦労した時期もあったんだ。多感な年頃だったからそれなりに病んでたのかもな。突然、聞きたくもない心の声が聞こえるようになった。」
穂積は、ずっと抗い続けるのも疲れたし、心を殺したまま生きることを選んだら、ほんのちょっとだけ息がしやすくなったと教えてくれた。
「穂積…今も?今もそんな生き方をしているの?」
不安になって尋ねるボクに、穂積は優しく笑った。
「ある日、バカ正直な悪ガキに出会って、バカバカしくてやめた。」
バカ正直な、悪ガキ…って。
「それって、もしかして…」
言葉を濁すボクをじっと見ている。
「オレ、アイツ以外にそんなバカなヤツ知らねーけど?」
そう言って穂積は楽しそうに笑った。
「羽月はさぁ、バカだけど、すっげーまっすぐ生きてて強いヤツだよ。オレ、何度も助けてもらったしな。」
見えている部分だけじゃ、きっとわからないことをこんなふうに教えてもらえてすごく嬉しかった。でも、どうしてそんな大切なことを話してくれているのかがわからない。
「心の声が流れて聞こえてくることは減ったけど、今も…相手に触れた時に少し声が聞こえることがある。強い思いだと今でもはっきり聞こえるんだ。」
穂積は軽くウインクをした。
「え…それって…」
出会ってから穂積はよくボクの身体に触れていたことを思い出す。自然に肩を組んだり、抱きつかれたこともあったっけ…ただのスキンシップだと思っていた。
「バカ正直なヤツ二人に出会うなんて、そんなおかしなことってあるんだなぁ。」
明らかにからかいを含んだ口調にボクは軽く反論をする。
「穂積、それ…失礼じゃない?」
まったく悪びれる様子もなく『そっかぁ?』と受け流されてしまった。
「オレ、おまえの心に触れて…ちょっと泣いた。あ、同情とかじゃなくて励まされたって言うか…背中を押してもらった感じだった。だから、オレ…初めて自分のやりたいことをやる勇気が持てたんだと思う。」
なんかカッコ悪いから、ずっと誰にも話すつもりなんてなかったのにな、と言いながら穂積はベッドから起き上がる。
「元は、大地の夢なんだけど、今のアイツは叶えたい夢ができたからって保留にされてたんだ。それで、オレが引き継がせてもらった。」
そう言って一冊のスケッチブックを渡してくれた。
「これは…?」
描かれているのは、流線型をした乗り物だった。
大型のバイクほどの車体に風よけのシールドが着いていたり、車体の下部に大小のプロペラもある。
「ホバークラフトって呼ばれている、空気圧を利用して空を走るんだ。」
空を、走る…
「この形状だと、かなり抵抗が小さくなるんだろうね。」
ボクの言葉に穂積は嬉しそうに笑う。
「そう。まだ軽量化と空気圧の調整が必要なんだ。今、羽月と一緒に創ってんだぜ。」
きっかけは大地さんの夢だったかもしれないけど、今は二人の夢なんだね。
「オレたちはこのホバークラフトを創り上げることが夢なんだ。」
同じ夢を追いかける同士、かぁ…すごく素敵な関係なんだと改めて思う。
「壮大で素敵だね。空を泳ぐ魚みたいですごく良いと思う。いつかボクも乗せて欲しいな。」
「もちろん。その代わりに…」
穂積はボクの耳元である要求をした。
「う、ん…わかった。約束、するよ。」
「うん。じゃ交渉成立ってことで。」
穂積はしれっとした顔で、わざと右手を差し出している。
「それって…イジワル、だよね?」
ボクはその手を訝しげにじっと見つめる。
「そっかぁ?気のせいだろ?」
ボクたちはしっかりと固い握手を交わして笑った。
やりたいこと、やらなければいけないことが多すぎて、慌ただしく過ぎていく夏の日々をボクたちはほとんどの時間、一緒に過ごしていた。
そして、夏休みが終わる頃…大地さんから突然、渡米すると告げられた。
「セツ!セツの義手の研究サポートをしてくれる病院と施設がやっと見つかったんだ!」
大地さんの言葉はボクたちに衝撃を与えた。
「それって、もしかしてセツも…?」
不安な表情で羽月が問う。
「当然、どうなるな。」
当たり前だという表情で大地さんが答える。
「却下!」
穂積がボクを背に庇いながら断言する。
「おまえら、何言ってるんだ?」
二人の態度に納得がいかない大地さんは不機嫌な表情をした。
「ちゃんと実績を残してから連れて行くもんだろうが!そんな不安要素しかない場所にセツを連れて行くなんて、当然、却下だ!」
いつになく気迫に満ちた穂積の言葉を聞いて大地さんは冷静さを取り戻したようだ。
「はぁ…俺、何やってんだか。」
その場に座り込んでしまった大地さんは深い溜め息を吐き、頭を抱えている。
「セツ…不安にさせてごめん。俺、嬉しすぎて気が動転してたわ…ホント、ごめんな。」
困った子供のように頼りなげな大地さんを見て申し訳なく思い、そっと言葉を掛ける。
「大地さん、謝らないで。大丈夫だから。それから、ありがとうございます。」
座り込んだままの大地さんに手を伸ばそうとした時、穂積がそれをやんわりと制した。
「ほい。いつまで座ってんだよ。」
ボクに変わって手を差し出した穂積はしっかりと手を握って大地さんと立ち上がらせる。
「セツ、詳細がわかったらちゃんと連絡するから。」
「はい。待ってますね。」
大地さんは帰り際にもう一度『ごめんな』と言い残していった。
「はぁ。どうやらオレの周りにはバカしかいないみたいだな。」
肩を竦めて言っている割に、どこか嬉しそうな穂積だった。
「結局、アイツが一番ガキだったりして?」
帰っていく大地さんを見送りながら、穂積が優しく笑った。
新学期を迎え、あっという間に二週間が過ぎた。
「じゃ、行ってくるわ。」
今日は大地さんが単身で渡米する日だ。
「しっかり実績を残してこいよな。」
穂積から一応の激励を受け、大地さんはしっかりと頷く。
「おう。任せとけ。」
あの一件の後で、何度も千歩と交渉し、最終的には大地さんが納得する結果が出るまでの間、単身で行くことで合意を得た。
それを聞いて羽月も穂積も『当然だ』と言い、ボクを守ってくれた。
「セツ、すべてが整ったら迎えに来る。もし、何か不安なことがあったらドクターに連絡して。ちゃんと話は通してあるから。」
しっかりとボクの両手を握り締めて大地さんが言う。
「はい。わかりました。」
ボクは大地さんの心遣いに感謝しながらそう言って微笑んだ。
「行ってくるわー。」
「いってらっしゃい。」
ボクたちをじっと見つめている大地さんは、真剣な目をしている。
「俺の夢を叶えてくる。おまえらも…負けんなよ。」
こんなふうに大地さんらしい言葉を聞けたことが何よりも嬉しかった。
「けっ望むところだ。」
穂積は舌を出して大地さんを挑発する。
「にーちゃんも負けんなよ。」
羽月が拳を握り締めて言う。
「はいっ。」
ボクは笑顔で返事をした。
「やっぱりセツは、素直で良いよなぁ。」
そう言って優しい笑顔を添えてボクの頭に手を乗せる。
「大地!」
「にーちゃん!」
大地さんはそんな二人のことを完全に無視して、嬉しそうにボクの頭を撫でていた。
「じゃ、またなー。」
大地さんはそう言って僕たちに背中を向け歩き出す。いつものように手だけをひらひらと振って、夢を叶えるために歩き出した…
「さて、オレらも帰るか。」
大地さんを乗せた飛行機が見えなくなるまでじっと空を見つめて、ボクたちは空港を後にした。
不意に見上げた青空には、綺麗な飛行機雲が描かれていた…
「ん?雨…?」
呟いた羽月が見上げた時、さっきまで晴れていた空が急に雨雲に覆われ大粒の雨が降り出した。
「うわっ本降りだ!」
ボクたちは慌てて雨の中を走り出した。
降り注ぐ雨たちが創り出すいくつもの水たまりを飛び越えながら、走り続ける。
ねぇ、雨上がりの水たまりの中を見てごらんよ。
そこには誰かの大切な物語が映し出されているかもしれないから。
まだ誰も知らない、不思議な物語…
ほら、覗いてごらんよ。
三人で雨の中を走りながら、小さい頃に読んだ絵本のワンシーンを思い出していた。
ボクもいつか、そんな不思議な世界を見つけられるだろうか?
Last Signal 《 大地 ・ ぬくもり 》
一年前のあの日…大地さんを見送った後で、ボクたちはいなくなった彼の存在の大きさにやっと気がついた。まるで心が迷子になってしまったような不安を紛らわすために、いろんな場所で過ごしてみた。そしてとうとう行き場をなくしたボクたちは、穂積の誘導に従って学校の屋上に向かうことになった。
裏門を乗り越えて金網をくぐり、壁の隙間からブロックに足を掛ける。校舎裏の非情階段に登ろうとしているのだ。
穂積の柔らかで無駄のない身のこなしに『ネコみたいだ』と呟きながらも見入ってしまう。
「おー。さすが侵入者だなぁ。」
パチパチと乾いた拍手が羽月の方から聞こえる。
「ははは。すごいだろう。敬って良いぞー。」
良くないことをしているのだけれど…二人は子供みたいに無邪気に笑って、なんだかとても楽しそうだ。
「あ、セツ、ちょっと待ってな。すぐ開けるわ。」
いつも通りの笑顔とウィンクを残して穂積が姿を消した後、カチャッと音がしてボクの目の前にある小さめのドアが開く。
「ありがとう。」
ボクたちはなんとなく家に帰りたくなくて、いろんな場所に行ったけれど、本当は大地さんの面影を感じなければどこでも良かったのかもしれない。
「アイツ、いるとうるさいだけなのになぁ。」
そう言って穂積は貯水庫の上で寝転んだ。
「ホント、穂積はかわいくねー。」
少し涙声の羽月が大地さんみたいに言う。
「にーちゃん、いつ帰ってくるかなぁ。」
少し乱暴に目元を拭った羽月はボクの隣で小さく呟いた。きっと穂積には聞かれたくないからだろうと、ボクは苦笑した。
「卒業式には帰ってきてくれるよ。」
いつもみたいに、何もなかった様な平然とした様子で帰ってくるんだろうな。
「あれー?流れ星、かなぁ?」
「え?」
「え!」
ボクたちは穂積の声に反応して、だけど、しっかり顔を見合わせてから空を見上げる。そんなタイミングで間に合うわけがない。
「気付くのが遅いんだよ。穂積のバーカ。」
見逃したことを完全に穂積のせいにできるのはきっと羽月だけだ。
「は?教えてもらってその態度かよ!」
やっぱりこんな時でも二人のじゃれあいは発生するんだ、と思ってしまったボクはバレないようにクスッと笑った。
貯水庫の上なんて思っているほど広いわけじゃないから、どう考えたって成長期の男子が三人も並んで寝転ぶのは大間違いだ。
「羽月、それ以上こっちに来んなって。オレが落ちるだろーが。」
「そっちこそ、どっか行けよなー。」
別になんだって構わないけど…せめてボクを挟んで言い合いをするのはいい加減にやめて欲しいと何度も言ったはずだ。でも、今回は…空を眺めていれば、また流れ星が見えるかも知れないと、率先してこの場所に寝転んでしまった自分が悪いのだと静かに溜め息を吐いた。
こんなふうに無言の時間を心地良く感じられるのは、ボクたちが同じ感性を持っているからなのかな。
たくさんの人の中にいても結局混ざり合えなくて、違和感だけが残ってしまうのに、ボクたちは本当に不思議な関係だと思っている。こんなにも異なる存在なのに、反発もせずゆっくりと混ざってだんだん溶け合って…やがて無色になるんだ。
知らないうちにお互いを認め合う関係が成り立っていることが、どんなに一緒にいても窮屈さを感じない理由のひとつなのかもしれない。
寝転んだまま、ただぼーっと空を眺めていると、改めて自分のすごくちっぽけな存在に感じた。
「なぁセツー。なんか弾いてー。」
「無理―。」
呼吸をするような自然な流れで、かなり無謀なお願いをする穂積に向かってボクは遠慮なく拒否をする。
「セツってさぁ…」
トントンと肩を叩かれ、呼ばれるままに振り向いたその刹那、至近距離で穂積の意味深な笑顔と遭遇してしまったボクは、驚きのあまり動きが止まった。
「なーんか、オレに冷たくね?」
ごろんと体勢を変えて、ボクの顔を挟むように両手をついて見下ろしている。
「べ、別に。羽月にもそんな感じだけど?なぁ、羽月…」
同意を求めて声をかけたのに、予想通りというか…やっぱり寝ていた。
「ははは。秒で爆睡できるって特技、ちょっと羨ましいかもな。」
「…確かに。」
子供みたいに眠る羽月を見てボクたちはクスクスと笑い合う。そして、不意に穂積の方を見た時、どうしても伝えておきたいと思った。
「穂積、ボク…」
「ん?」
心のどこかで、すべてを見透かされているような錯覚を感じながらも、じっとまっすぐに穂積の目を見つめる。
「ボク、穂積に冷たくなんか、してないよ。」
ボクの言葉に、ほんの一瞬だけ驚いたような表情をした。でも次の瞬間…
「ふーん。そっかぁ。」
そう言いながら、ポケットから一枚の紙を出してボクに見せる。
「あ…」
「なんで教えてくれないのかな?」
目の前に出された紙には、もうすぐ開催されるピアノコンクールの内容が記載されている。
「オレと、なんか、約束…してなかったっけ?」
いつもよりかなり刺を含んだ言い方と、妖しい笑顔で詰め寄られ困惑して言葉が出てこない。
あれ?でも…
ふと疑問が生まれたボクは穂積に質問してみた。
「まだ予選だし、参加したボクでさえ先週結果を知ったのに、なんで穂積が知ってるの?」
コンクールの予選結果なんて、参加者と関係者くらいしか知らないはずだ。
「うん?予選結果なんて知らない。内緒で参加したことはなんとなくわかってたけどな。」
ニコッと笑って、べーっと舌を出された。
そんな仕草や行動は穂積のお得意なのだから、いつもならスルーできることなのに、なんだか今日は何かが引っかかってしまった。
「ふーん。そっか。ボクを…試したんだ。」
くるりと穂積に背を向けて座り、そう言って俯く。
ちょっとした、仕返しのつもりで…
「セツ?」
いつもとは少し違うボクの態度を不思議に思っているみたいだ。
「そんなヤツ、だったんだ。」
座ったまま俯いているボクの表情なんて見えるはずもなく、くぐもって届く声にさすがの穂積も少し戸惑っていた。
「えっと…あの、試したとかじゃなくてだなぁ。つい、イタズラ心っていうか…その。なぁ、セツ?聞いてるか?ごめんって。おーい、セツ?」
こんなに困っている姿を見るのは初めてかも知れない。ボクの心がチクリと痛んだ。ちょっとした仕返しのつもりだったのに、なんだか思った以上に効きすぎてしまったようだ。本当は全然怒ってなんかいない。それだけボクのことを気に掛けてくれていたことが嬉しいくらいなのだ。それに、ボクはずっと穂積のこと…
「ん?」
そこまで考えた時、視線を感じて我に返る。
「ちょっ離れて!穂積!くっつくなって!」
いつの間にか肩口まで近づいている穂積を引き離そうとするが、そのまま自然に肩を組まれてしまった。
「おい。続きは?ずっとオレのことが、なんだよ。気になるだろーが。」
その言葉で、ボクの心の声が届いてしまっていたことを知り、できるだけ何も考えないようにして誤魔化すように小さく咳払いをする。
「えっと。予選の結果、一位でした。今回の大会で優勝したらコンサートホールでリサイタルを開催してもらえるんだ。」
「へぇ。」
ボクは深く息を吸い込みゆっくりと吐き出した。そして穂積と向かい合うように座り直し、チケットを差し出しながら話を続ける。
「これは、本選大会の招待チケットなんだけど、それでも…受け取ってくれる?」
「もちろん。ありがとう、雪華。」
まるで宝物のように両手で受け取ってくれて、大切そうに眺めている。
「約束、だから。それに…今のボクが奏でる音を聴いて欲しいんだ。穂積に…え?うわっ。」
穂積は正面からボクに抱きついてきた。
「ステージでのセツの演奏、初めて観られるんだなぁ。スッゲー楽しみ。」
「ちょっ…穂積、離してよ!」
ボクが抵抗した分だけ、穂積の腕に力が込められた…
穂積の夢を話してもらって『ボクも乗せと欲しい』と言った時に要求された交換条件。それはこれから先、ボクが出場するステージすべての特等席チケットだった。
生演奏を聴いて欲しいと思っているからこそ、約束できたことだ。ただ、本当は初めてのソロリサイタルのチケットを贈りたかった。だけど、まだ少し先になりそうだから、せめて…夢を叶えるための第一歩となるコンクールのチケットを受け取って欲しくて用意していた。
「あーあ。あと少しで卒業だなぁ。」
穂積は大きく伸びをしながら言ってその場に寝転ぶ。
「そうだね。」
この学校での時間が終わってしまうのか…いろいろあったけど、振り返ってみると短かったように思えてしまう。
「セツは、いつ発つ予定なんだ?」
今までしっかり話していなかったことを何気なく問われた。
「6月頃。こっちの入学式が終わった頃かな。」
海外の音楽学校への留学が決まっているボクは二人とは少し違う生活になる。
「穂積と羽月も別々の学校になるんだね。」
いつも二人が一緒にいることが当たり前だと思っていたから、少し不思議な気分だった。
「まぁ、図面と技巧じゃ根本的に学ぶことが違うからなぁ。」
仕方がないとわかっていても、リアルにその時期が近付くとなんだか淋しい気持ちになってしまう。
「ホバークラフトは俺たちが完成させる!」
いつから起きていたのか、羽月が力強く宣言した。
「おまえ、起きてたのかよ。」
「んー?今、起きたぁ。」
そう言って寝転んだままで大きなあくびをする。
「なぁ大地のバカは卒業式に帰ってくんのか?」
「わかんねー。にーちゃんに聞いてみる。」
ずっとあたたかく支えてくれていた大地さんには、ボクたちが夢に向かって歩き出す姿を見て欲しいと思っている。
それから卒業までの時間はあっという間に流れていった。
コンクールの本選も穂積たちが見守る中、最高の演奏で幕を閉じ、ボクは無事にソロリサイタル開催の権利を勝ち取った。そして念願の初めての特等席チケットを約束通り穂積に贈ることができたのだ。
慌ただしい日常の中迎えた卒業式を、なんとか無事に終えたボクたちは軽やかな足取りで校門へと向かって歩いていた。
「卒業おめでとう。悪ガキども。」
その声を聞いてボクたちは弾かれたように一斉に振り向く。
「あっ。」
「おう。」
「にーちゃん!」
それぞれの反応をするボクたちを、校門の外壁にもたれている懐かしい姿が出迎えてくれた。
「おかえりー。」
「おう。ただいま。」
待ち望んでいた久しぶりの再会を喜んで、ボクたちは大地さんに駆け寄り飛びついた。
会えなかった時間を埋めるように、みんなで近況報告をした。
「そっかぁ。おまえらもちゃんと自分の足で歩いてんだな。」
しみじみと感慨深げに言う大地さんは、なんだか少し淋しそうに見える。
「あ、そうだ。忘れるとこだったわ。これ、卒業記念。おまえらにやるわ。」
そう言って小さな箱を一人ずつに手渡してくれた。
「にーちゃん、開けても良い?」
「もちろん。」
大地さんは笑顔で返事をする。
ボクたちは両手で受け取った箱を、そっと開いてみた。
「…これって…」
箱から取り出してそれぞれが眺めている様子を大地さんは微笑みながら見つめていた。
「羽月には銀の羽。穂積には黄金の穂。雪華には白金の雪…一応お前らをイメージして創ったんだ。ネックレスならつけられるだろ?」
この人は…本当にどこまでもあったかくて優しいのだと感じて胸が熱くなった時、ボクは思わず隣に座っている大地さんに抱きついていた。
「あー!大地、てめぇ!」
「え?俺かよっ。」
ボクが抱きついた瞬間、椅子を倒す勢いで立ち上がり、怒鳴り声を上げる穂積がいた…
必死に穂積をなだめる羽月によって、なんとかその場は落ち着きを取り戻した。
「大地さん、ありがとう…」
「ん。」
そっと頭に触れるぬくもりは。何も変わることなく出逢った時と同じ優しい安らぎをくれた。
「なぁ、大地が戻ってきたってことは…」
少し不機嫌なままではあるが、静かに問いかける穂積に、大地さんは微笑みながらしっかりと頷く。
「ああ。実験結果も研究の実績もできた。論文を提出して認められれば後はこのプロジェクトを公表するだけだ。その前に、セツに…再確認しておきたいことがある。」
大地さんが真剣な表情でじっと見つめている。その表情を見れば何を聞きたいのか、言われなくても解ってしまう程、何度も確認されていること…
「これを公表する際、おまえのことを帰路期したデータを提出することになる。できるだけ個人を特定できないように考慮してみたが、どうしても全部を隠し通すのは無理だった。」
当然だ。
大地さんが研究している義手の性能を、実際に装着して実証したのはボクなのだから。離れている時もドクターを介して、筋電義手をつけた状態での実験映像や実証データを送っていた。そんなことは初めから覚悟していた。存在を誤魔化し、隠し通せるなんて思っていない。
「まだ、今なら引き返せる。辛い思いをしなくて済む方法だってある。なぁ、セツ…俺は…」
「大地、ごちゃごちゃうるさい!いい加減、腹括れよな!」
苛立ちを隠すことなく、吐き捨てるように穂積が言う。
「セツがどんな思いでおまえに協力したか、そんなこともわかんないのかよ!」
文句を言いながらテーブルの上をカツカツと叩いている穂積の手に自分の手をそっと重ねる。
「穂積、ありがと。」
ボクは重ねた手を見つめて微笑みながら伝えた。
「ボクは…もうずっと前からプロジェクトチームの一人として、大地さんの隣に立つことを決めてるんだ。嘘になるから、辛くないなんて言わないけど…でも、逃げたりしない。だってこの義手は、大切なボクの『手』だから。」
話している間、ずっと穂積と羽月が隣にいてくれた。気が付くといつも近くに二人の存在があって、どんな時も励ましてくれていたから、ボクはもう一人じゃないんだと思えて前を向くことができたんだ。
「セツ…ありがとう。それから…なんか俺、情けないヤツで…ごめんな。」
そして…運命の瞬間とも呼べる、永遠にも感じられるほど長く大切なボクたちの時間が動き出した。
「以上のような様々な実験の末、この筋電義手を装着することにより、原因不明である幻肢や幻肢痛の改善に繋がる結果が実証されました。」
静かな会場に、凛とした大地さんの声が響き渡っている。
「ほかの義手に比べ、特殊なシステムを有するため、身体的適合や専門医のサポート、リハビリが必須となりますが、それらの負担を少しでも軽減できないかと考察を続けました。そこで我々は学習機能を備えた人工知能を搭載し、装着する前に対象者の動作と筋電の結びつきパターンをすべて記憶させ、より高い順応性を可能にしました。更に3Dプリンタを活用し、軽量化と低コストを実現したのです。実際にご自身の目でご確認ください。」
いよいよ…ボクの出番だ。
出番が来るのを一緒に待っていてくれた二人は、なかなか動けず、何度も深呼吸を繰り返しているボクの背中をそっと押して送り出してくれた。
「彼は、我々とともにこのプロジェクトに参加してくれました。たくさんの苦しみを乗り越え、予期せぬ痛みに耐え続けてくれたのです。彼は…事故により右手を失い、諦めかけた夢を叶えるために『義手』を受け入れ、再び歩いていくことを選んだのです。」
ボクはジャケットを脱ぎ、右腕が見えるように立ち位置を変えた。
当初のメカニック感が完全になくなり、3Dプリンタの技術のおかげで本物の人体とほとんど見分けがつかないくらいだ。ステージ上の大きなモニターにもボクの義手が映し出されると、会場からどよめきと歓声が沸き立った。
「見た目のクオリティも人体の形状により近くなりました。そして先ほど述べたように、この義手は彼の動作を学習し記憶することにより、今では自由に…ほぼ彼の意思通りに動かすことが可能となったのです。」
そして、ステージの奥の方へと視線を向けた大地さんが合図を送ると、ドアが開き羽月たちがピアノを運んで入ってきた。
「大地、さん?」
焦ったボクは大地さんの方を振り向いて呟くと、彼は耳元で囁いた…
「一曲、お願いできますか?」
混乱し、言葉を失くしたボクの目の前に穂積が歩いてきて手を差し出している。もう一度大地さんの顔を見るけれど、相変わらず微笑んでいるだけで何を考えているのかわからない。
「お手をどうぞ。」
そう言って穂積お得意のウィンクをされたボクは軽く溜め息をこぼし、差し出されている手に自分の手を重ねた。
「ありがとう。」
ピアノまでエスコートされたボクは、参加者たちとピアノに深々と頭を下げてからゆっくりとスツールに座った。
静かに目を閉じて深く息を吸い込む…
ゆっくり、ゆっくりと息を吐き出す…
部屋の照明が少し暗くなり、ボクはショパンの『幻想』を奏で始めた。
約十分ほどある曲のラストを告げる音が響き渡り、部屋が静寂に包まれた刹那、拍手の雨が降り注いだ。さすがの大地さんたちも驚いた表情で場内を見回しているということは、きっと予想以上の好反応だったということなのだろう。
「本日はありがとうございました。」
プロジェクト参加者たちの見送りが終わってもまだ、ボクたちは余韻に浸ったまま、しばらくその場を動けなかった。
「にーちゃんもセツも…すごかったなぁ。」
ポツリと羽月が呟くと、止まっていた時間が動き出したようで、穂積が肩の力を抜いて近くの壁に寄りかかった。
「まぁ、そんだけの実績があるんなら…セツを連れてく許可をしてやっても良いかな。もちろん、期限付きでな。」
大地さんは手元の資料を片付けながら、フッと笑みをこぼした。
「はいはい。ガキがいつまでも戯言ばっか並べてんじゃねぇよ。」
予想以上の賞賛を受け、快挙と言われるような発見や実績を残しているにも関わらず、当人にとっては大したことではないようだ。
きっとこれから先だって、どんなことが起こったとしても、自分たちが偉大なことを起こしたとしても…それこそ何もなかったような顔で、平然とこの場所に戻ってくるに違いない。
「まぁ…それが一番良いかもな…」
ボクはそっと微笑んだ。
いつか覗いた水たまりに映し出されていた世界は、もしかしたら誰かの望む夢の蜃気楼だったのかもしれない。
それとも、真実だけを映し出す水鏡だったのだろうか…
優しい風に誘われて静かに水面が揺れる度にそっと移り変わる世界、その中にひとしずくの光が跳ねて波紋が広がり映し出されていた世界が消えた。
そう、その様はまるで美しくて儚い蜃気楼のようだ…
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