背中【ゆるっと更新中】

アキノナツ

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過去の話

前編 ※

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ひとり挟んで斜め前の席。
いつも見ている背中がある。
オレと違って広くて大きな背中。

数学は2クラスだけ定期考査の度に成績順でクラス替えがある。
あの背中を見る為に頑張ってるところがある。

今回の成績は真ん中だったから、上位クラスに行けるかどうか微妙だったが、ギリ大丈夫だった。

彼は人気者だ。
勉強もスポーツもできて、モテない訳がない。しかも容姿も。背が高く程よくついた筋肉があの広くて大きな背中を作っている。

今回の席は、背中見放題のベストポジションだった。
だったのに、「先生~、竹田たけだで前が見えませーん」なんて言うから、彼は後ろの席なってしまった。楽しみが減ってしまった。我慢しやがれ。

「お? 竹田、メガネか?」
先生が驚いてる。
メガネ?
みんなと一緒に横の人の隙間から伺う。
ケースをしまってる。かけたところ?
メガネだ。メガネすら似合いやがる。
ほら、女子が浮き足立ってるじゃないか。

「ちょっと…」
と言葉を濁してる。
「見えるか?」
「はい」
と短い遣り取りで、空気は元に戻る。

板書の音が静かに響く。



廊下で見る背中。
校舎の窓からどんなに遠くても彼の背中はすぐに分かった。

あの横に並ぶ事を夢見た事もあった。
すぐにそれは叶わぬ夢だと自覚もした。
もし自分が女だったら、それも許されただろうか……。
あの女達の中にいたのだろうか。
ーーーー無いな。

男友達として彼に接触してみようかとしたが、どの道卒業してしまったら、彼にはもう会えないのだ。なら、短いこの時間を青春という名の自分なりのステージで謳歌するのも良いかというスタイルに落ち着いた。背中を見つめる日々。
要はそんな勇気などなかったという事だ。
見つめるだけの内側を焦がすような恋もいいじゃないか。

これでいい。
見つめるだけで。
それでいい……


++++++


振り返ると、彼がいた。
視線を感じて見上げると、彼がいた。

彼の顔をはっきり見た事はない。
いつも後ろ姿に近い横顔。
スラリとしたシルエット。
ほっそりしているのに、痩せた貧相な感じはなく、すっきりとした背中。

いつも彼の背中しか、しっかり見る事はなかった。
何度声を掛けようかと思った事か。
ただの一度もその機会は訪れなかった。
彼はいつも俺の後ろにいた。

前にいてもスッと消えて、視線を感じて振り返れば彼。

そんな状態で、卒業。
もう会えないと、卒業アルバムの彼の写真を見ていた。
細面で色白。全体に優男の風情なのに、眼光だけは写真でも刺さるように鋭かった。

ボストンバッグにアルバムを突っ込む。
着替えとアルバム。通帳に日用品が少し。
今の俺の全財産。
なんてこったい。

取り敢えず、日雇いでもいいから住むところと食う物が欲しいな。


++++++


「ボン、おかえりなさい」
当たり前のように玄関で鞄を掠め取られ、上着を脱がされていく。
自分は靴を脱いで、まっすぐ歩けば、手荷物と上着が自動的に仕舞われて、身軽な状態で部屋に入る事が出来る訳だ。何年経っても慣れん。

「『ボン』はやめろって」
後ろで控えてるさっきの男に告げる。
「じゃぁ~、わかですか?」

「それも嫌だって、ずっと言ってるだろ。お前、私について何年だ?」

「えーと…」
指折り数えてる。
「十年ですかね」
それ以上な気がするが…。取り敢えず…長いな。

「そうか。『社長』でいい」
「でも、ここは家ですし…」
「私にプライベートなんてないだろ」

書斎に入り、奥の寝室にしている小部屋に入る。衣装部屋にしては広いが昔住んでた|《家(うち》の自室と同じぐらい、否、こちらの方が少し広いな。

部屋着に着替えて、書斎で仕事の続きをし出した。

「飯がどうしやす?」
控えめに扉の隙間から訊いてくる。
「別に。これでいい」
「またそんなゼリーやらなんやら。ちっとも腹の足しになりませんぜ?」
お盆を持って入ってきた。
端っから持って入るつもりだったのだろう。

「ここ置きやすから、食べて下さい」
ラップに包まれた握り飯。おにぎりというには不恰好で。何年経っても洗練されない形状。
味は申し分が無いから、別にいい。
味噌汁がお椀じゃなくて大きめのマグに入ってるのが、仕事しながらでも流し込めといったところか。

「ん…」
本当は『ありがとう』と言ってやればいいのだろうが、今更なので言わない。ーーー言えない。



皿の上に小さく丸められたラップが転がってる食器を、嬉しそうに片付けている男の横で書類を片付ける。あと少しで切り上げれそうだ。やっと1日が終わる。実際の日付は疾うに変わってる。

机に伏せたスマホが揺れた。

二人同時にビクッと身体を固くして振動する物体を一瞬見つめたが、即座に手を伸ばし表を確認。

「車を」と短く言いつける。

去っていく男の背を見ながら、静かに告げ、通話ボタンに触れる。
「はい。お待たせしました」
待たせては無いと思うが、不機嫌な声が吠えている。

来るのはいつも突然だ。遠方からご苦労な事だ。



「すまないが急いでくれ。準備に手間取った」
「分かりました」
おっと、ハンドル握る手の動きが怪しい。
「法定速度は守れよ」

「ヤクザが「ヤクザだから」
被せた。
行儀が悪いが、余計な事で時間は取りたくない。機嫌が悪くなればそれだけ私に返ってくるだけだ。

「分かりやした」
分かってないだろうが、法律は守って頑張るらしい。

三つ揃えの濃紺のスーツ。後部座席で脚を組み、窓の流れていく景色を眺める。

あー、できれば行きたくない。

「背中に彫り物でもしようかな…」
ぼんやりそんな事を呟いていた。

「入れたら戻れませんぜ」
そんな呟くような返しに、自分の呟きを実感した。

「そうだな…」
戻れるも何も戻るところなんて始めからないじゃないか…。



「イイ声で啼くようになったじゃねぇか」
私の上で忙しく腰を振ってる男が、獰猛な顔つきで言ってやがる。

「あ、はぅぅんん…はぁ…」
そりゃどーも。もっと盛ってやるよ。

奥を突き上げてくるタイミングで、眉を寄せて切なげに啼けば、この腹違いの偽兄ぎけいは喜びやがる。
よぅござんしたね。
せいぜい頑張って腰振ってくれよ。

ーーー
何も知らなかった頃、関西弁の母ひとり子ひとりで、関東の下町に住んでいた。
平和な日々だったと思う。
習い事や塾など色々自由にやらせて貰って、友人も多かった。
母子家庭だっていう事でとやかく言われる事もなかった。

たまにゴツ苦しい男がやってきてたが、誰かなんて知らずに育ち。中学最後の年、進学が決まった頃、あれが父親だって教えられた。

私はてっきり、何かと世話を焼いてくれる気のいいお兄さんのような男が父親だと思っていたから、拍子抜けしたのを覚えている。

そして、もう一つの告白は、至極当たり前にストンと腑に落ちた。薄々そうじゃないかなぁと思ってたから。

母は組長の女というヤツで、私はその子供。ゆくゆくは、ヤクザの世界にって話をされたような……あんまり覚えてないな…。
あの時、私は、母になんと言っただろうか…。
確か「分かった」だったか。
悲しそうな目を覚えている。

後ろからガン突きされて揺すられていたが、殊更抉り込まれるような強い突きに、一瞬トんだ。

考え事がよくなかったか。久々の行為だったが単調な動きに余計な事を思い出していた。

姿勢が保てなくて、固定された腰を残して上体が崩れた。
マズイッ。
必死に肘を立てて持ち上げるが、暴力的な突き上げに目の前に星が散ってる。

「なんや、もうへばってんのか? もっと絞めろや」

クソッ!
痛い。苦しい…。
歯を食いしばって、四つん這いに肘で持ち上げ、後ろを締めるが上手くいかない。
擦れ具合も当たる位置も悪い。上手く声も出せずにいた。

「ハヒッ、ゔぐッ…はぁ…ぐゔ…ッ…」

姿勢を保とうとするが崩れかける。
マズイと焦るほど孔は締まったようだが、痛みで朦朧としてきてて……。

パァァン!

熱ッ!
背中に鋭い何かが生じた。

「ゔぅーーーッ」

パァン!

ッ!!!

久々過ぎて忘れてた痛み。
私のその辺りに投げ捨てられてたスラックスから抜き取られたベルトで打ち付けられたようだ。

チクショーッ!
ギリリと更に歯を喰いしばる。
演技じゃない声を上げながら、嫌な汗が噴き上がる。
力加減もあったもんじゃないッ

何度も打ち付けられて、痛みで朦朧として来た。
首に硬質な感触が触れたところで慌てて指を捩じ込んだが、息苦しさに全身の筋肉が引き攣れるように固まり震え、目の前が真っ赤になって……気がついたらバスルームの床だった。

息を吸い込めば水が入ってくる。
溺れるッ!
痺れる手足をバタつかせて、漸く自分の状態を把握出来たところで、脇腹に圧迫を感じた。

「自分の立場、分かってんのかッ」
グリグリ踏まれていた。
頬も痛い。気を失った事に気を悪くしたらしい。知るかよッ。
目を覚さないから叩かれ、バスルームで水を掛けられたか。手間を掛けさせた。

シャワーが頭から掛かっていた。
痺れて分からないが、湯に切り替わるって水が掛かっていたと分かった。
泡が降ってくる。側で身体を洗い出したようだ。
痛む身体をバスタブの縁にかけた腕でなんとか引き上げる。

彫り物で鮮やかな色彩で埋め尽くされた背中を見ながら、息を静かに吐き出す。

綺麗だとぼんやり眺めていた。

小さな頃見たアレは誰の背中だったろうか。
柄が違う。
アレは…もっと、とても、綺麗だった。

姿勢を保つのに腹に力を入れると後ろから漏れ出る物に気持ち悪さに吐き気が込み上げる。必死に飲み込み耐えた。

俯いて耐えていると、いつしか出て行ったようだ。
部屋からも出て行ったか、静かになった。

吐いた。
吐く勢いに合わせて肛門から押し出される白濁の感触に、吐く物も無くなった胃を搾って胃液を吐いていた。
情けなさに涙しながら、アイツに出されたモノを後始末する。

母が倒れた時の費用の借りだとかなんだとか言って私を自由にしやがる。
救いは、アイツとこれぽっちも血が繋がってないって事か。
今際の際に告白して逝った母を恨むに恨めない。だから、逃げていいって。どこに逃げろと言うのか。

流されてこうなったのは自分が悪い。

仕事は組の所有してる会社や店の経営して、金を回す。割と面白くやっている。金を稼ぎ、金を回すのはそれなりに楽しかった。
母の治療費や自分の学費の返済などという大義名分をチラつかされて、私は反論する事なく甘受して都合よく使われていた。もう逃げられる状態ではないのだ。

母は組長の女で、私はその息子のおんなか。反吐が出る。

考えるのは疲れていたのかもしれない。
あの時「分かった」と私が言わなかったら、母は私と逃げたのだろうか。話をつけに行ったのだろうか。

ーーーーたられば言っても仕方がない。

借金なんてもう無いんだと思う。
端っからそんなもの無理矢理作ったようなものだと思う。母が居なくなって出ていくかと思って、身体を繋いだつもりかもしれないが、ひどい独りよがりの最低なセックスだ。

こんな事をしなくても、出ていく気力もなかったのにな。
私はただ生きてるだけだ。

私の父は誰かと思わなくもないが、それもどうでもいい事だ。

背中が染みる。
傷になってるようだ。
何が楽しいのかね…。

始末を終えて、ふらふらとバスルームを出ると、テーブルの上に書類が入ってると見られる茶封筒が。横にいつものキャリーケース。いつものブツ。ついでに私を抱いていく。



「後で背中の手当てしますんで」
「もう治ってるから、必要ない」
後部座席で決算書に目を通しながら応える。
あれから数日経ってる。少し跡が残ってるだけだ。
この男は怪我を多く見てきたのだろうと思う。手当が堂に入ってた。
おかげであっという間に綺麗なもんだ。
私としては残ってくれたら良かったのにと思うのだが、「ボンの背中は綺麗なままの方がいいんです」って後ろで淡々と手当しながら言われれば、何も言えなかった。

この男には何度も助けられてる。
よく来てた優男の舎弟らしい。知らんけど。知りたくない。
あの男はいつの間にか来なくなっていた。
ーーーー死んだのかもな。

「店には徒歩で行く」
茶封筒には、新たな店の資料が入っていた。自分の担当してた店を何件か売却した代わりか。

これらの経理一般をしていた男は今は刑務所だ。私はその男にイロハを仕込まれ、引き継いだ。いずれ同じ末路かもな。流されて息をしてるだけの私には、もうなんでもいいじゃないかと思う。

任されたモノを経営して、キャリーケースに入ってる金を回して、循環させる。それが私の仕事だ。その為の勉強と資格も取らされた。勉強は嫌いじゃなかった。あの時間は全てを忘れられる。

とことん使われて捨てられる。それだけだ。

資料の店はストリップ。踊り子は男。
んー、なんだかな。こういうのは女性のだけだと思ってたが、まぁ、あってもおかしくないか。女性版のはオーナーをやった事あったけどね。コレは初めてだよ。
ホスト的な感じに思えばいいのか?

裏口から入って、袖からステージと客層を観察。
そのようだ。女性客の方が多いか。男性もいるな。お触りはダメと。ふーん、よく分からんが、利益は出てる。ホストの店なら経営経験があるから、なんとかなるだろう。
店長と話すか。

ステージに何人か居た。そのひとりに目が行った。
あの背中…。まさかね。サングラスをした男。サングラスなどしてるのはその男だけだった。
演出小物か? 顔出しNG…?


++++++


なんだってこんな事してるのか。

派手な照明の中、シャツの前を意味深にはだけて、肩を出し、肌を晒していく。
パツパツのレザーぽい短パン履いた腰をくねらせる……

寮があって、給料は日払い、チップはほとんどが自分に入る。ボロいと飛びついた。身体には自信があった。全部脱がなくてもいいとも言われた。むしろ男は全部脱いだらダメなんだってさ。

ステージを見学して、学生の頃やったなんちゃってボディビルダー選手権を思い出す。
ただ…光りが。目が眩む。ステージから落ちる未来が見えた。

やっぱり土建業かな…。

この仕事は無理だなと店長に言ったら、俺のガタイが気に入ったのか、「ちょっと待って」と唸り出した。
暫くして「サングラスは?」ときた。
「え?! 雇ってくれるんですか?」って聞き返してしまった。鍛えてて良かったよ。

昼はコンビニ、夜はストリップと現在稼ぎまくる日々です。

就職した先がもしかしたらヤバいかなと思った時には、出入り口に貼り紙。

ドラマかなんかで見た光景ですね。
まさか自分の身に降り掛かるとは…。

その足で役所に向かう。
そして分かる未加入の数々。
おい、待て!と心に中で何度叫んだ事か。
俺、書類提出してた…はずなんだが。
給料から天引きされてた金はどこに消えた?!
新社会人にそこまで鼻は効かんぞ。

コレでは失業保険は貰えん。

家賃もあるし、当面は貯蓄を崩して…と言っても大して無いよ…。

職探し…高額支給の…。
実家は、両親はもういない。祖父母が居るだけ。迷惑は掛けれない。

そして大家、どこで聞きつけたか『違約金要らないから早めに出てってね』って笑顔言ってきた。違約金無しは有り難いが住所なくなると就職活動が難しくなる。益々詰んできた。

地方から出てきたから、こっちに知り合いは少ない。
じわじわ首絞められてる気分。ヤババ……。
家電をお試ししてから購入を考えるかと、大半をレンタルにしていたのが功を奏した。さっさと連絡して引き取って貰った。

ボストンバッグとリュックに全財産入ったよ。
鍋とかは段ボールにひと箱に収まった。コレは少し遠方になるが、学生時分の友人が預かってくれるというので、送る算段。

段ボールを送り出して、自分設定の退去日程までに職を探すべく荷物を持って出発した。

繁華街で途方に暮れて居た。
そして、目にした風俗関係の求人誌。

飛び込みで入って即採用。
そこからがトントンと転がるように決まって行って、ステージでパンツの腰にチップを挟んでもらってます。

住むところがあるって有り難いよ。
ここを拠点に就活して生活を立て直すんだ。

気持ちが追いつかないままココに至ってるのに、やる事やってる。
俺って割と楽観的だったりするんだなって振り返ったりしてる。


++++++


間違いない…。
間違い無いんだが、なんだって、アイツがココに?

世界に色がさすように、開けた景色に彼がいる。
ステージに上がる前の控室前を通り過ぎた時、他の演者と談笑する彼を見掛けた。

スタッフ名簿に目を通した。

竹田たけだ 浩介こうすけ』の文字。
手書きの履歴書。懐かしい高校の名前があった。

私の事を覚えてる筈はないと思いつつも何かを期待して胸を躍らせている自分に戸惑った。

店長が訝しがってる。
経理の効率化と称して、私が介入する事を告げて、外に出た。

ーーーーー落ち着け。彼と私に接点などない。期待? なんだそれ。


++++++


仕立ての良いスーツの男が出入り口から見える廊下を歩いてるのを見かけた。
気になって、ヒョイと廊下に首を出す。遠のく背中を見送る。なんとなく知ってるような気がする。

考えがまとまる前に、呼ばれて戻る。



今日は昼のバイトはお休み。
ゆっくりするかな。
就活もしないといけないが、今日は完全オフでも良いんじゃないだろうか。
自分に甘い。

自転車で買い出しにでも行くかなぁとのんびり支度して、自転車前で途方に暮れて居た。

ーーーー鍵…何処やったかなぁ。

いつものポケットにない。
この上着は、昨晩も着ていた。
ーーーー楽屋かぁ。

徒歩でバス停に向かった。

昼間入ったのは、面接で来た以来。
電話は入れたが誰も出なかった。
裏口に手を掛けたら開いてた。ラッキーと入った。

お邪魔しまーすと小さく声掛けして入る。

事務室の前を通って楽屋へ。
メイク台の下や床を一箇所で座り込んで、眺めて探す。ーーーーないなぁ……。
立ち上がると、メイク台の隅っこのティッシュBOXの陰に銀色の鈴が見えた。

「あった…」
リンと摘むと鳴った。

カリュッと掴んで、電気を消して出た。

来る時には気づかなかったが、事務室に灯り。誰かいるのか。挨拶して帰るかなと軽い気持ちでドアを開けた。

「お疲れ、さ、ま…です」

振り返った顔に驚いた。
眼光に変わりがなかった。ガラス玉のような無機質な輝きになっていたが。

三間坂みまさか?」

振り返った直後は何処となく呆けた顔が驚き、強張った。瞬きする間に変わる表情。

視線が逸れた。すぐ戻って、また逸れて戻る。
動揺?

一歩、部屋に踏み込むと手元のファイルを勢いよく閉じた。

「何故、ココに?」
静かな声。こんな声だったんだ。
誰も居ないと思ってたという事だろうか。

「ボン。ジンジャーエール無かったんで、レモンスカッシュでいいですかねぇ…」
裏口から声と足音が近づいて来たと思ったら、床と仲良くなっていた。
背中の重みに息が上手く出来ない。

側にレモンスカッシュのペットボトルが転がってる。
今、開けたら噴き出るだろうなと、息が出来ずに気が遠くなりつつ、そんな事を思っていた。

「知り合いだから、大丈夫だ」
頭の上で声。三間坂だった。

「ボンの友達ですかい?」
引き起こされ、立たされる。
くらくらする。息は出来たが酸欠だ。

パイプ椅子に座らされた。

「竹田くん、お久しぶり。と言っても口をきくのは初めてだね。名前呼ばれて驚いちゃった」
暗い笑顔だった。こんな風に笑うヤツだったのか?

「よぉ」
引き攣った笑顔で返すのがやっとだった。



何故かレモンスカッシュのペットボトルを渡された。
今開けたらまずいよなと思ってる横で二人がコソコソ何か話して、俺の腕を捻り上げ引き倒した男は外に出て行った。

「飲まないの?」

「今、開けたらベタベタだろ…」

「あー、そっか」

なんだろう…生きた人間と話してるのに、体温が感じられない。冷たいでもなく、なんというか……そう、遠い…。

ヒョイとペットボトルを抜き取って、奥に消えた。
確かそっちは給湯室になってたな。

コーヒーを淹れたカップを両手に戻ってきた。

「んっ」と差し出されて受け取った。
「ありがとう」

一瞬キョトンとした。小さくありがとうと呟いてる。
事務椅子に座った。
三つ揃えの深い緑のスーツがこの事務室には不釣り合いだった。

「倒産したんだってね」
「へ?」
「あっ、履歴書見た」

沈黙が流れた。コーヒーを啜る音しかしない。
三間坂が腕時計を確認している。

「忙しそうだね」
「そうだな。時間の調整は可能でね。店長はきちんとしてるから、私がする事は少なくて済む」
ファイルを片付けてる。
時間が出来たって事か。

高校の時、背後にいた男が、背中しか見た事が無かった男が、目の前にいる。正面を見てる。
アルバムの写真よりも大人になってるはずなのに、変わりなく見えて、軽い驚きの中にいた。

「俺、高校の時、お前の背中しか見た事なかった。いっつも後ろに居てさ。振り返ったら、お前で。去っていく後ろ姿しか見てなかった」

あの頃不思議に思ってた事を口にしていた。

手の中のコーヒーのカップを捏ねた。

「気づいてたんだ…」
静かにカップを傾ける。掴む指を見ていた。細く長い指。確かピアノを弾いてた。

「ピアノ…」
アレはいつだったろう…。

「ピアノ?ーーー嗚呼、伴奏のオーディション? アレは落ちたよ。なんで知ってる?」

「なんでだったか、な…。確か付き添いで、誰かについて行って…」
そうだ。自分のクラスの合唱の伴奏を男友達がするとかなんとかで、音楽室について行って、他にも男がいるんだって思ったんだ。
背中の男だと気付いたのは、退出していく後ろ姿だった。

気づいた時には残念に思ったんだった。もっとちゃんと見ておけば良かったと思った。名前を知ったのはその時だったか。

「指が綺麗だなって思ってさ」

「竹田くんは、男が好き?」

「はぁあ?」

気付いたら顔が間近で、キスされていた。

「ここで見た事は他言無用。いいね?」

射抜かれるような視線で見下ろされながら、反射的に頷いた。

「良かった。ーーーー仲良くしようね」ニッコリ。見惚れる笑顔だった。
ただ、俺が見たい笑顔じゃない、たぶん。

仲良し宣言をされて、外に出された。



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