透明姫の幸せな婚約

nsk/川霧莉帆

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5.貴方のせいじゃない

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 それからというもの、セレネはジャネットだけを相手にして劇の練習をした。ユーグといくつか打ち合わせをしたい点があったが、必要性は低く、向こうが話しかけてこないのでセレネも何も言わなかった。同じ屋敷に住んでいるが別々に生活しているので、一切言葉を交わさずに一日が終わっても不思議ではなかった。
 一週間後、二人は王立初等学校へ向かう馬車に乗り込み、久しぶりに顔を合わせた。
 ユーグは王国軍の制服に身を包んでいた。胸にはバッジがいくつか並んでいる。軍帽を被るため金髪は後ろに撫でつけており、いつもより男らしい。
「着込んでるな」
 対面して座るとこちらを見て言った。セレネはいつもとは違い、異国風の衣装で全身を覆っていた。
「その時に脱ぐわ」
「そうか」
 一週間ぶりの会話は短いが冷たくはなかった。セレネは台本を確認するためページをめくり、到着するまで集中して文章を追った。

 王立初等学校の大きな講堂には既に全学年の生徒が集まっていた。遠いステージを見ようと、多くの生徒がオペラグラスを持ち込んでいる。
 生徒たちの興味は、黒い幕で作られた空間に集中している。中が見えないように箱型になっているそこは、セレネが入って人形劇をするための場所だ。
 袖から校長が出てゆき、客人の説明をし始めた。ユーグが肩に触れる。
「先に行ってるよ」
 颯爽と登場すると、時の人を盛大な拍手が包んだ。
「今日はこの素晴らしい学び舎に招いてくれてありがとう。私の話はエリニア大公国での活動についてだが、その前に皆さんに短い劇をお見せしたいと思っている。そのために人も呼んでいるんだ」
 ユーグが袖の方を振り向く。
「ご紹介しよう。私の友人にして、遥かアトッサで修行を積んだ奇術師、空気のように透明な腕を持つ女性、ルナだ」
 偽名のお陰か、セレネはさほど緊張せずに歩けた。隙のない服装に皆の好奇の視線が集まる。
「ルナにはエリニア大公国の建国についての人形劇をやってもらうつもりだ。この劇には棒も糸も出てこない。ルナが手で人形を動かすんだ。本当に腕が透明かどうか、よーく見ていてくれよ」
 セレネは紫色のドレスをつまんでお辞儀をした。拍手が起こるが、あちこちで早くもオペラグラスが構えられる。
「楽しんで」
 幕の中へ入る際に囁かれた。
 楽しめるだろうか。
 手袋を脱いで本来の腕を見せる、それがどんなに勇気の要ることか、ユーグは分からないだろう。見えないものなのに見せるという矛盾、そこに腕があると知っているのは自分だけだという心細さに、途中で押しつぶされそうになったらどうしようか。
 練習でだって手袋を脱いだことはないのに。
「……わたしは、ルナ」
 呟いて、被っている濃いベールを、そして手袋を脱いだ。
 誰がこれを王女だと思うだろうか?
 目の前の机には人形と小さな舞台セットが用意されている。セレネはまず国王と大公の人形を逆手に取って舞台へ下ろした。
 人形は腕や脚が動くようになっている。背後から指で動かすことで、人形が動いているように見せるのだ。
「――昔々、このロティス王国の王様には、兄がいました。兄は、生まれつき体が弱く、王様になれなかった王子様でした」
 ステージは声が講堂全体に響くように、斜めの天井や壁に細工が施されている。声を張る練習をしてきたこともあり、台詞は朗々と生徒たちに届いた。
「……『私は最高の王国に生まれたが、運に見放されている。だからといって、人生を諦めたくはない。いつか必ず、最高の権力を手に入れてみせるぞ』。大公は、王様になる野望を抱きました」
 この学校の生徒なら、エリニア大公国の由来や過去の権力争いについては既に学んだり、人から聞いているだろう。その話をエイル公爵家出身の者が語る理由をちゃんと察せるだろうか。
「……大公は、とうとう剣を王様へ向けました。『この兄を国から追い出すとは、偉くなったものだ。運がいいだけで受け継げた王様の座を奪われるのが怖いのか。怖がりな王様など誰も尊敬しないだろう!』。すると」
 台詞がふっと止んだ。頭の中の台本が、途中から真っ白になってしまったかのようだ。
 その時、幕の向こうから囁きが聞こえた。
「一息に」
 途端、台本の続きを取り戻す。
「……一息に喋ったせいで、大公は息苦しくなってしまい、剣を手から落としてしまいました。それを見て、王様は微笑みました。『運は兄さんを見放してはいないようだ。その手から怒りと憎しみが取り除かれたのだから』。その後、大公は異国へ旅立ち、後にその国の王となりましたとさ」
 舞台セットの緞帳を下ろすと、再び拍手が起こった。
 急いで身支度を整えて外へ出る。
「ありがとう、ルナ。皆、腕は見えたかい? ……そうだろう? この素晴らしい奇術師ルナにもう一度拍手を!」
 セレネはもう一度淑女の礼をとって袖へはけた。
 一時間後、講義は無事に終わり、最後は割れんばかりの拍手が講堂に響いた。ユーグが袖に戻ってきて、入れ違いに校長が上がる。
「お疲れ様」
「貴方も。さて、帰ろうか」
 先程まで生徒たちに質問攻めにされていたとは思えないほど余韻がない。ユーグはこちらへ顔を寄せる。
「王女様の護衛って仕事もあるからな」
「……分かったわ。帰りましょう」
 チャイムが鳴り、セレネたちは校長の案内で来た時と同じ講堂の裏口から外へ出た。
「ツァイス子爵のご講義には大変感銘を受けました。お話の充実さもさることながら、人の心をつかむのが流石にお上手ですね」
「なに、先生に言われては自信を持たざるを得ませんね」
 ユーグは校長と笑いあった。
「それにしても、ルナ様の劇には目が釘付けになりましたよ。生徒たちも目を皿のようにして見つめていました。……あれは、トリックなんですよね?」
「おっと、私の友人はプロですよ。そういう質問には一切答えられません」
 庇うようにユーグが立ち位置を変える。セレネはベールを被った頭を少し下げた。
「それは失礼しました。淑女に不躾でしたな」
 校長は笑って自ら馬車のドアを開けてくれた。セレネはユーグの手を借りて乗り込み、後にユーグが続く。
 講堂から教室へ戻る生徒たちがこちらへ手を振っていた。ユーグが気さくに手を振り返しながら、馬車は校門を出ていった。

「台本、覚えていたの?」
 尋ねると、小さく肩を竦められる。
「ちょっと思い出しただけさ」
「それでも、助かったわ。ありがとう」
 視線がこちらに注目する。
「なにか?」
「いや。満足してるみたいで良かった、と思ってな」
 言われて、セレネは初めて自分のミスについて考えた。
 たった一つ、されど一つ。いつもなら後悔し、反省して、もしもあの時成功していたら、と意味のない想像すら巡らせるのに、今日は何も思い浮かばない。
「楽しかった?」
「……楽しくなかったわけでは、ないわ」
「何だそれ」
 ユーグにつられてセレネも少し笑った。
「なあセレネ。ずっと聞きたかったことがあるんだ」
「何かしら」
「答えたくなければそれでもいいんだが」
 先の言葉を何となく察し、セレネは緊張を身にまとった。
「どうしてその姿になったのか、知りたい」
「…………」
「昔は姿があったんだろう? 瞳は菫色だった」
 セレネの頭に三人家族だった頃の肖像画が思い起こされた。それをユーグが見た経緯は何となく想像がつく。
「そうよ。今も同じ色かは知らないけれど」
「ああ、確かめられないのが惜しいよ。だから知りたいんだ」
「理由なんて誰も知らないわ」
 カーテンが閉められている窓へ顔を背ける。
 馬車は街中をゆっくり進んでいる。屋敷へはまだかかるだろう。
「でも……きっかけは、ギュスターヴが生まれたことよ」
 視界の端でユーグが顔を上げたのが見えた。
「待望の王子が生まれて、一番喜んだのは祖父だった。これで王家も王位も安泰だと、病床で何度も仰っていたの」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。話してくれるのか?」
 信じられない、という顔を思わず睨む。
「聞きたくないの?」
「いや、聞きたい。すまない、続きを聞かせてくれ」
 身を乗り出してくるので、セレネも正面を向いた。
「……祖父はわたしをとても可愛がってくれる人だったけど、その愛に順位ができて、わたしは二番目になったのだと気づいて悲しかったわ。でもそれで分かったの、王族は普通の愛を求めてはいけないということを。家族思いだった祖父でさえ、一番の愛は国に注いでいたのだから」
 前王の祖父は次々代の王の顔を見ると崩御した。セレネが十歳の時だ。
「それでわたしは理想的な王女を目指すことにしたのだけど、透明になり始めたのはその頃からよ。最初は気のせいだと思えるくらいの変化だったけど、ある日、まだ一歳にもなっていないギュスターヴに会った時……」
 それは久しぶりに家族水入らずでお茶をすることになった日のこと。セレネが母のためにお菓子を作って行くと、父が慣れない手つきで紅茶を淹れてくれた。
 母がベッドからギュスターヴを抱き上げ、皆でどこが誰に似ているのか見つけ合っていた。すると、突然ギュスターヴはセレネを凝視して、凄まじく泣き出したのだ。
「その時は何が起こったのか分からなかったけれど、拒絶されたのははっきり理解できた。すごく胸が苦しくなって、その場から逃げて部屋に閉じこもって一日中泣いたの。次の朝、目が覚めると、わたしはいなかった」
 セレネはベールの下で手袋を脱いだ。
「消えたのは、弟と似ている顔や、母とそっくりな体、父と同じ瞳……。覚えていない内に亡くなった祖母と同じ色のこの髪だけが残ったの」
 透明な手と腕を眺める。実はごく僅かな光の屈折が輪郭を型どっているが、よくよく目を凝らさなければ見えないほどに淡い。
「理由なんて……知らないわ」
 伸ばされてきた手がベールの表面を探り、セレネの手の形を両手で包む。
「貴方のせいじゃない」
 ユーグがこちらを見上げて目を合わせた。顔が見えているわけはない。誰もがやるように、想像される大体の位置へ視線を留めているだけだ。
 けれど、彼の視線は誰よりも正確であるように思える。
 それでも涙を見透かせはしないだろう。
 セレネはもう片方の手で握ったままの手袋を目元に押し付けた。ユーグはずっと、祈るように手を繋ぎ続けてくれた。
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