オーロラ・オーバル

nsk/川霧莉帆

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『――次は本日の天気予告です。基盤意識オムニポテントの午前〇時の予告によると、本日は雨のち晴れです。ドームでは現在、小雨が降っております。この雨は午前十時ごろから強まり、十六時二十三分頃上がる予定です――』

 今日のクロックマダムはよくできた。目玉焼きは大好きな半熟で、黒コショウは丁度いい按配にまだら模様。朝の一杯はいつもの牛乳。
「いただきます」
 齧った断面から黄身が垂れるのを舐めながら、テレビ画面の時計を横目で見る。七時は間近。作るのに手間取ったせいで、あと五分しか食事時間が残っていない。
 もったいないけど味わうことよりも早さを取って、朝ごはんを口に詰め込んだらバッグを抱えて家を出た。
「……ん!」
 ほとんど鍵を閉めかけていた。天気予告を思い出して、靴箱の上の折り畳み傘を取る。大事なものほど忘れがちなのはなぜだろう。
 今度こそ戸締りをして、階段を駆け下りた。トラムの出発は十分後。今日のパンプスならきっと間に合う。


 始業時刻がほど近くなるとエントランスの人の流れは自然と早まる。私もそれに従って、小走りになって手首の自己証明符号アイデンティティコードをゲートにかざして通り抜ける。今日もぎりぎり、間に合った。
 オフィスは既に働き始めていた。いくつものパーティションを足早に通り過ぎて、自分の席に滑り込む。
 コンピュータ端末を起動させると、仕事の割り振り表はもう届いていた。今日も今日とて地下配管の整備シミュレーション。立ち上げた立体構造エディタには昨日に引き続き何色にも色分けされた線がXYZの空間を延々とうねっている。私は基盤意識へダイアルした。
『論理処理補助脳を求めます』
 ワンテンポ後にファミリアーの一台がコンピュータに接続された。いつもと同じ、ハンフレイだ。
『:仕事を始めましょう、アイビー。』
 金属の脳がすさまじいスピードで画面上の絡まる糸を最適化していく。時々私がそれへ手を出して妥協と融通を加えながら、時はゆっくりと過ぎていった。

 世界が機械による制御を望んだのは、砂塵の脅威からその身を守るために他ならない。と、言うのは簡単だけれど、実際ドームの住人で、外の世界が何なのかを知っているのはごく少数だ。
 砂塵と言っても砂じゃなくて、吹き荒れているのは鉄だ。かつて地表にはぎっしりと人の手による文明があったのだけど、それらが“崩壊”で全部分解された結果、狂いに狂った磁場に鉄粉が操られて流動するようになったのだ。
 もちろん私の仕事には直接的には関係ない。だけどドームの末端管理者の一人として、それだけは知っている。
 一度だけ、外界の様子だという映像を見たことがある。
 普通、外界では機械はすぐに壊れてしまう。それは耐久力を限界まで上げたカメラでも例外じゃないから、映像は一分間ほどしかなかった。
 鉄の粉が宙に舞っているんだって言われたら、ノイズ画面を想像した。だけど違った。
 無数の粒が寄り集まってできた黒い川がゆっくりとうねる中に、鉄同士が接触し合うために、まるで街のイルミネーションみたいに赤や緑や青や白の火花が、遠くでも近くでも、絶えず瞬いていたのだ。
 大昔、空に肉眼で宇宙が見えていた頃は、銀河がまるで川のようだったというけれど、私はその銀河が地表へ降りてきたのだと想像して、その日は一日楽しかった。

「アイビー」
 後ろから声がかかった。チーフは私が振り返るのを待たず、まだ温かいコピーを突きつけてきた。
「整理区域の深度が変わった。地下建造物を増やすそうだ」
 こんなことはしょっちゅうだ。
 しょっちゅうだけど、私はハンフレイじゃない。
 シミュレーション設定を変更すると、疲れ知らずの彼が言った。
『:心配しないで、アイビー。わたしが一緒です。』
 そんな一言に感動できるほど、私はこの仕事が好きなわけじゃない。


 座りっぱなしの仕事でも、お腹は空くし疲れもする。終業時刻には空っぽになっている体を気力で歩かせて、トラム乗り場へ向かっていた。
 繁華街が近いだけあって、仕事帰りの男女のお喋りが弾むように通り過ぎていく。道には雨後の湿気がまだ残っているけど、跳ね上がる水滴を気にしているのは私だけみたいだった。そういえば、明日から週末だ。
 五日間ディスプレイを見続けた分、休みの日こそはどこかへ出かけて目に優しい景色でも見たいものだけど、出不精だから、大抵は必要な買い物をしたり、部屋でだらだらしたりして二日が過ぎる。そんな毎週を繰り返して、もう二年が経った。
 仕事帰りの男女が笑い合って通り過ぎていく。
 そういうのに憧れないことはないけど、今の自分には程遠いもののように思えて仕方がない。
 最低限の清潔感と、不都合でないくらいの愛想と、まあまあの真面目さ。それを保つだけでもこんなに精一杯なんだから……。
「アイビー」
 どこかで声が聞こえた気がしたけど、自分のことじゃない気がした。
「アイビー?」
 後ろから手首をつかまれて、心臓が跳ねる。
 振り返ってぎょっとした。
 巡回ロボットかと思ったからだ。だって、いくらサイボーグ体でも頭部までそれらしくしたがる人は稀だから。
 彼の頭は平たい両側面のある丸っこい形で、ヘルメットを被っているみたいに人間味がなかった。顔面に当たる部分にはめ込まれた、黒地に玉虫色のフェイスシールドがとても目立つ。デニムジャケットの襟元から見える首には埋め込まれた補助骨格と神経コードが浮き出ていて、なのにそんな弱点を覆っているのはただの黒いラバー素材……ううん、人工皮膚だけ?
 彼は首を何度か傾げて私の頭から足まで見回すと、ずいと硬質な顔を寄せてきた。
「やっぱりそうだろ? ブラウンの髪に緑の目と、クリーム色の上着とフレアスカート。ばっちり合ってる」
 微かに声にがたつきがあるのは電子音声の証拠だった。きっと人工物を入れすぎて声帯を取ってしまったんだ……。
 こういうのはきっと振り切って逃げるのが正解なんだろうけど、そうする度胸がない。
「え、と……なんの話ですか?」
 彼は表情のない顔の代わりに、少し大げさなくらいの所作で驚きを示した。
「もしかして忘れてる?」
 ようやく手を離してくれたけど、次はパンツの後ろポケットから出した物を突きつけられた。
 雑に折り曲げられた雑誌だ。見せられたページは『出会い募集投稿欄』……何だかいかがわしい雰囲気がある。
「これに、その服装でここを通るって書いただろ? それで声掛けたのさ。まあ、話は後でしようぜ。腹減ってない?」
「いえ、私、そんなの知らないので……」
 雑誌を肩越しに投げたかと思えば、それは綺麗な放物線を描いて一メートル超離れたところのゴミ箱にすぽんと入った……脳機能も拡張してるの?
「きっと忘れてるだけさ。まあ思い出せないなら、フツーのナンパだと思ってよ」
「えっ、ちょっと」
 彼は私の手を握ると、繁華街の方へと歩き出した。
「ちゃんとしたメシ屋だから。大丈夫!」
 人工皮膚の感触がほとんど人間の手のようで、私はつい、好奇心のためにその手を振りほどけなかった。
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