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第7話 おばあさんのお礼
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カランカラン。
ドアベルを鳴らしてシルヴェスがバーに帰ってくると、カウンターの奥で新聞を読んでいたハバが顔を上げた。
照明は全て消えていて、窓から差し込む光だけが店内を照らしている。閉店後なので、お客さんは一人もいない。
「おはよう、シルヴェスちゃん。体は大丈夫かい? 深夜に宮廷魔導士さんから通信魔法があってね。魔女狩りに遭いそうになったって聞いたよ」
「えっ? あ……。はい……」
シルヴェスは一瞬戸惑ったのち、ラークが自分の代わりに連絡してくれていたのだと悟った。ラークに対して、感謝の念と申し訳なさがこみ上げる。
「何事もなくてよかったよ。ほんとに……」
ハバは心底ほっとした表情で言った。
「ごめんなさい! ご心配をおかけしました」
「謝る必要はないよ。シルヴェスちゃんを夜中に送り出してしまったのは私だからね……。本当に……また同じ過ちをおかすところだったよ」
ハバは独り言のように呟きながら、円錐形をしたカクテルグラスに青白い液体を注ぐと、カウンターの上にそっとのせた。
「飲んでごらん。心が落ち着く」
「これは……?」
「私が調合した魔法薬だよ。私の魔法には心を癒す効果があるんだ」
「あ、ありがとうございます……」
シルヴェスはがらんとしたカウンター席に座り、おずおずとグラスに手を伸ばした。液体に口を付けた途端、爽やかな甘い香りが鼻を突き抜ける。
一口飲み下してグラスをカウンターに置くと、自然に吐息が漏れた。全身から一気に力が抜けていくのを感じる。
「おいしいです」
シルヴェスがふにゃっと笑い、ハバも口ひげの下に悲しげな笑みを浮かべた。
「はは……。こんなにいい子が命の危険にさらされるなんて、本当にこの街は狂ってると思うよ……」
愁いを帯びた目がシルヴェスを優しく見つめる。
シルヴェスは「いい子」という単語にちょっと照れて二口目を口に運んだ。魔法薬を流し込むと、かすかに喉が熱くなるのを感じる。同時に、自分でも驚くほどに精神がリラックスしてくるのが分かった。
考えてみれば当然かもしれない。死を覚悟するような体験をしてから、まだ一日も経っていないのだ。自覚していなかっただけで、神経は異常に高ぶっていたのだろう。
「どうしてこの街は人を勝手なイメージで敵視するんだろうね。社会に蔓延した敵意は差別を生み、差別は人を殺す……」
ハバはため息をつき、自分のグラスにもシルヴェスが飲んでいるのと同じ魔法薬を注ぐ。立ったままグラスを持ち上げて一気に仰いだ。
「……ふう。歳を取ると思い出すことが増えていけないね。嫌な出来事がふとしたきっかけでよみがえってくる……。あ、ごめんね。明るい未来を目指している若者が、目の前にいるというのに」
「いえ……」
シルヴェスはどういう表情をすればいいのか分からず、真顔で首を横に振った。
ハバは一体どんな経験をしてきたのだろう……。気にはなったが、ハバが思い出話をしたくて今の発言をしたわけではないことは明白だった。いや、むしろ、そのことについては詳しく聞いてほしくないに違いない。
シルヴェスは言葉を口にする代わりに、残った魔法薬を喉に流し込んだ。
「飲み終わったなら、それ、もらうよ」
「あ、ありがとうございます」
シルヴェスが空になったグラスを手渡すと、ハバは優しく微笑んで受け取る。すぐに手元に目を落としてグラスを水で流しながら、ハバは落ち着いた声で続けた。
「実はね――。私にとって、シルヴェスちゃんの猫カフェは希望なんだ」
「え?」
シルヴェスが目を丸くして聞き返す。ハバは彼女を力づけるように、ゆっくりと繰り返した。
「シルヴェスちゃんの猫カフェは私にとって希望なんだよ。なぜなら、猫に対する迫害がなくなれば、この街も捨てたものじゃないって思えるからね」
「そう……ですか」
シルヴェスは反応に困って曖昧に頷く。深く考えて始めた活動でもないのに、こんなに期待されているとは思ってもみなかったのだ。
「もちろん、気負う必要はないよ。言いたいのは、私はシルヴェスちゃんを応援しているってこと。だからこそ――」
そこでハバは言葉を切り、顔を上げてシルヴェスを強い意志の宿った目で見つめた。
「だからこそ、シルヴェスちゃんは道半ばで倒れちゃだめだよ。挑戦には危険がつきものだけれど、君の身に何かがあったら本当に悲しいからね」
「はい……」
シルヴェスはその短い返事に、できる限りの誠意を込めて答えた。ハバの言葉の温かさに目頭が熱くなる。
「私たちも出来る限り力を貸すよ」
「はい! 頑張ります」
「今日も出かけるなら、気を付けて行っておいで」
「ありがとうございます!」
元気のよい返事が静かな店内に響く。シルヴェスは席を立ち、飛び出すようにバーを出て行った。
「……やれやれ」
取り残されたハバは、グラスを拭いて食器棚に戻すと、深くため息をついた。
「やっぱり、シルヴェスちゃんにあのことを聞くわけにはいかないね……。厄介ごとに巻き込むことになってしまうし」
そう遠い目をして呟き、自嘲気味に笑った。
「まあ……でも、聞いたところでどうしようもない……か」
*
「よし!」
バーを後にしたシルヴェスは、ラークから受け取った封筒を握りしめ、再びおばあさんのお屋敷を前にしていた。
「やっぱり立派だなあ……」
真上から降り注ぐ日の光に照らされた建物は、夜に猫の目で見た時よりも遥かに色鮮やかに見える。
……私の恰好、みすぼらしく見えないかな?
シルヴェスは今更のように、自分が身に着けているものに目を落とした。
うん。分かってはいたが、普段と変わり映えしない真っ黒コーディネートである。
……まあ、いっか。どうせ私、貴族が着るようなドレスは持ってないし。
シルヴェスは開き直り、ぽんぽんと服に着いた埃だけを払うと、門をくぐって庭の中に足を踏み入れた。
堂々とした足取りで、建物まで続く砂利の小道を歩いていく。
途中で、覆面の男たちに襲われた場所を通り過ぎたが、それほど心がざわつくことはなかった。さっき飲んだ魔法薬のお陰かもしれない。
――小道の突き当りは観音開きの木製扉だった。
「ごめんくださーい」
遠慮がちに呼びかけながら、ライオンが輪っかを咥えた形状のドアノッカーを鳴らす。
「はーい」
返事はすぐに聞こえた。右手の扉だけが動き、左手の扉との間に隙間ができる。そこからおばあさんが恐る恐る顔をのぞかせた。
「ああ! 昨日の魔女さんだね。良かった」
そう言いながら、シルヴェスが通れるように、扉を押し広げる。
「悪いねえ。あんなことがあったばかりだから、ちょっと用心深くなってしまっているのよ。どうぞ、いらっしゃい」
「お邪魔しまーす」
シルヴェスは会釈して、玄関に入った。いきなり赤い絨毯と牡鹿の首の壁掛け、そして長い廊下が彼女を出迎える。
「わあ。すごい……」
あまりの豪華さに、思わず口に出してしまった。
「大きい建物でしょう? 代々受け継がれてきたものだから、正直私は持て余しているんだけどね」
おばあさんは苦笑を浮かべると、杖を突き、シルヴェスを先導して廊下を歩き始める。
扉がいっぱい……。こんなに広かったら、家の中で迷子になりそう……。
シルヴェスはきょろきょろしながら後をついて行った。
それにしても、家の中に他の人の気配がない。貴族のお屋敷ともなれば、お手伝いさんの一人や二人、いるものだと思っていたのだけれど……。
「ここにはお一人で暮らしていらっしゃるんですか?」
シルヴェスが問うと、
「そうよ。十年くらい前までは息子がいたんだけどね」
ちょっと寂しそうな答えが返ってきた。まもなく、おばあさんは廊下の中ほどで緩やかに足を止める。
「この部屋を使いましょう。どうぞ入って」
扉を開けて招き入れてくれた。
中にはふかふかのソファーに、大理石のテーブル。――と、その上に一匹の長毛猫。
「シャルロット!」
シルヴェスは明るい声を上げた。
「おや、この子の名前を知っているのね」
「あっ」
シルヴェスは一瞬「しまった」と思ったが、そういえばこの人に魔女であることはすでにばれている。
「えへへ……。実は、この子とは猫の姿でお話したことがあるんです」
頭をかきながら答えると、テーブルからシャルロットが飛び降り、シルヴェスの足に頭をこすりつけた。
「そうだったの。昨夜見てびっくりしたけど、貴女、猫ちゃんに変身できるのね。素敵な魔法じゃない」
「そうですか?」
シルヴェスは照れ笑いを浮かべる。
「素晴らしいわよ。私は魔女じゃないけれど、猫ちゃんは大好きよ。昔は猫に良いイメージは持っていなかったんだけれど、猫好きの息子に影響されてね……。あ、どうぞ座って」
おばあさんはシルヴェスにソファに座るよう促すと、自身もテーブルを挟んで対面するソファに腰を下ろした。
「さて、改めまして。わざわざ来てもらってごめんね。私はルーマ。昨夜は助けてくれて本当にありがとう。貴女は命の恩人よ」
おばあさん――ルーマは、もともと曲がっている背中をさらに曲げて、深々と頭を下げた。シルヴェスは慌てて手を振る。
「そっ、そんな。いいですよ。私はシルヴェスです。どうぞよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくね」
ルーマは差し出されたシルヴェスの手を握って微笑んだ。
「私は不思議と良い魔法使いさんに縁があるのよね。魔女さんに助けられたのはこれが二回目よ」
「へえ……。ということは、前にも?」
「ええ、そうよ。その時は、アザンバークの一味に捕らえられてしまったときだったんだけどね」
「あの魔法ギャングの!?」
シルヴェスが驚いて声を大きくすると、ルーマはちょっと得意げに片目を閉じて見せた。
「当時ギャングは身代金目当てで貴族の拉致を繰り返していたのよ。でもその時、私には身内がいなくてね。あわや殺されそうになったのよ。そんなタイミングで、ある宮廷魔導士の女性がたった一人でアジトに乗り込んできたの」
シルヴェスは息をのむ。ルーマは遠い目をして続けた。
「凄かったわよ。あっという間だった。美しい光に目が眩んだと思ったら、ギャングが全員床に転がってたの。格好良かったわねー」
「へえー」
シルヴェスは感嘆の声を漏らした。そんな芸当は、よほどの大魔導士でないとできない。魔法学校の実技で毎回失敗を繰り返していたシルヴェスからすると、まさに神業であった。
「だから、私は魔法使いが悪い人たちだとは思っていないわ。魔法使いと直接知り合う機会に恵まれたっていう意味では、私は幸運だったのかもしれないわね……。でも、世の中では、まだまだ無差別な魔女狩りが流行っている。嘆かわしいことだわ」
ルーマは深々とため息をついた。
シルヴェスは新鮮な気持ちでその言葉を聞いた。
魔法使いじゃなくても、魔法使いに同情してくれる人はいるんだなあ……。
どこかにいるかもしれないと頭では分かっていても、実際に会うと感動するものである。
と、その時、
「ところで、シルヴェスちゃんは猫カフェを開こうとしているのよね?」
「えっ? どうしてそれを?」
不意に聞かれ、シルヴェスは調子はずれな声を上げた。ルーマはくすくすと口に手を添えて笑う。
「ラーク……あの宮廷魔導士さんから聞いたのよ。私のところに来たのも、協力者を探すためだったんじゃないかーって」
「あっ……」
シルヴェスは赤面して目を泳がせた。ラーク……協力はしないなんて言っていたのに、色んなところに根回ししてくれていない? いや、これは根回しのつもりじゃなかったのかもしれないけれど……。
混乱しているシルヴェスをよそに、ルーマはやおら腰を浮かせ、壁際の書類棚から巻物を一本取り出した。
「それを聞いて、私、とってもいいアイデアだと思ったわ。猫のことをよく知らずに毛嫌いしている人たちに猫の魅力を伝えられたら、きっとこの街も変わると思うもの」
バサッと巻物がテーブルの上に広げられると、ある物件の情報がシルヴェスの眼前に現れる。
「これは……?」
「私が持ってる街はずれの建物よ。よかったら使って頂戴」
「ええっ!? 本当ですか!?」
シルヴェスはびっくりして聞き返した。ルーマは相変わらず、にこにこと笑みを浮かべている。……肯定と受け取っていいのだろう。
「瓦ぶきの三角屋根に薄緑の壁……。二階建てで庭までついてる!」
シルヴェスは信じられないという口調で言った。
「ここずっと空き家だったから、改装は必要だと思うけどね。もちろんお代はいらないわ」
「あ、ありがとうございます!」
「ただ……その代わりと言っちゃなんだけど、一つ、お願いしてもいいかしら?」
「はい。なんでしょう?」
シルヴェスが小首をかしげると、ルーマは遠慮がちに続けた。
「この子……シャルロットを、シルヴェスちゃんの猫カフェで引き取ってほしいの。ほら、私が猫ちゃんに関わっていると、また昨夜みたいな目に合うかもしれないし……。そうなると、シャルロットも無事では済まないわ。その点、シルヴェスちゃんがこの子を預かってくれていれば、私は安心だし、いつでも猫カフェに会いに行くことが出来るから……」
「なるほど。シャルロットちゃんを……」
シルヴェスが目を向けると、シャルロットはぴんと背筋を伸ばして彼女を見つめ返した。
ふわふわの美しい毛並み――。それだけで、この子がどれだけ可愛がられているのかが分かる。この子をルーマさんから引き離してしまうのはかわいそうだけれど……命には代えられない。
「分かりました。責任をもってお預かりしましょう。シャルロットには、私から猫語で事情を伝えておきます」
「ありがとう!」
そう言ったルーマの目には、涙が浮かんでいた。
ドアベルを鳴らしてシルヴェスがバーに帰ってくると、カウンターの奥で新聞を読んでいたハバが顔を上げた。
照明は全て消えていて、窓から差し込む光だけが店内を照らしている。閉店後なので、お客さんは一人もいない。
「おはよう、シルヴェスちゃん。体は大丈夫かい? 深夜に宮廷魔導士さんから通信魔法があってね。魔女狩りに遭いそうになったって聞いたよ」
「えっ? あ……。はい……」
シルヴェスは一瞬戸惑ったのち、ラークが自分の代わりに連絡してくれていたのだと悟った。ラークに対して、感謝の念と申し訳なさがこみ上げる。
「何事もなくてよかったよ。ほんとに……」
ハバは心底ほっとした表情で言った。
「ごめんなさい! ご心配をおかけしました」
「謝る必要はないよ。シルヴェスちゃんを夜中に送り出してしまったのは私だからね……。本当に……また同じ過ちをおかすところだったよ」
ハバは独り言のように呟きながら、円錐形をしたカクテルグラスに青白い液体を注ぐと、カウンターの上にそっとのせた。
「飲んでごらん。心が落ち着く」
「これは……?」
「私が調合した魔法薬だよ。私の魔法には心を癒す効果があるんだ」
「あ、ありがとうございます……」
シルヴェスはがらんとしたカウンター席に座り、おずおずとグラスに手を伸ばした。液体に口を付けた途端、爽やかな甘い香りが鼻を突き抜ける。
一口飲み下してグラスをカウンターに置くと、自然に吐息が漏れた。全身から一気に力が抜けていくのを感じる。
「おいしいです」
シルヴェスがふにゃっと笑い、ハバも口ひげの下に悲しげな笑みを浮かべた。
「はは……。こんなにいい子が命の危険にさらされるなんて、本当にこの街は狂ってると思うよ……」
愁いを帯びた目がシルヴェスを優しく見つめる。
シルヴェスは「いい子」という単語にちょっと照れて二口目を口に運んだ。魔法薬を流し込むと、かすかに喉が熱くなるのを感じる。同時に、自分でも驚くほどに精神がリラックスしてくるのが分かった。
考えてみれば当然かもしれない。死を覚悟するような体験をしてから、まだ一日も経っていないのだ。自覚していなかっただけで、神経は異常に高ぶっていたのだろう。
「どうしてこの街は人を勝手なイメージで敵視するんだろうね。社会に蔓延した敵意は差別を生み、差別は人を殺す……」
ハバはため息をつき、自分のグラスにもシルヴェスが飲んでいるのと同じ魔法薬を注ぐ。立ったままグラスを持ち上げて一気に仰いだ。
「……ふう。歳を取ると思い出すことが増えていけないね。嫌な出来事がふとしたきっかけでよみがえってくる……。あ、ごめんね。明るい未来を目指している若者が、目の前にいるというのに」
「いえ……」
シルヴェスはどういう表情をすればいいのか分からず、真顔で首を横に振った。
ハバは一体どんな経験をしてきたのだろう……。気にはなったが、ハバが思い出話をしたくて今の発言をしたわけではないことは明白だった。いや、むしろ、そのことについては詳しく聞いてほしくないに違いない。
シルヴェスは言葉を口にする代わりに、残った魔法薬を喉に流し込んだ。
「飲み終わったなら、それ、もらうよ」
「あ、ありがとうございます」
シルヴェスが空になったグラスを手渡すと、ハバは優しく微笑んで受け取る。すぐに手元に目を落としてグラスを水で流しながら、ハバは落ち着いた声で続けた。
「実はね――。私にとって、シルヴェスちゃんの猫カフェは希望なんだ」
「え?」
シルヴェスが目を丸くして聞き返す。ハバは彼女を力づけるように、ゆっくりと繰り返した。
「シルヴェスちゃんの猫カフェは私にとって希望なんだよ。なぜなら、猫に対する迫害がなくなれば、この街も捨てたものじゃないって思えるからね」
「そう……ですか」
シルヴェスは反応に困って曖昧に頷く。深く考えて始めた活動でもないのに、こんなに期待されているとは思ってもみなかったのだ。
「もちろん、気負う必要はないよ。言いたいのは、私はシルヴェスちゃんを応援しているってこと。だからこそ――」
そこでハバは言葉を切り、顔を上げてシルヴェスを強い意志の宿った目で見つめた。
「だからこそ、シルヴェスちゃんは道半ばで倒れちゃだめだよ。挑戦には危険がつきものだけれど、君の身に何かがあったら本当に悲しいからね」
「はい……」
シルヴェスはその短い返事に、できる限りの誠意を込めて答えた。ハバの言葉の温かさに目頭が熱くなる。
「私たちも出来る限り力を貸すよ」
「はい! 頑張ります」
「今日も出かけるなら、気を付けて行っておいで」
「ありがとうございます!」
元気のよい返事が静かな店内に響く。シルヴェスは席を立ち、飛び出すようにバーを出て行った。
「……やれやれ」
取り残されたハバは、グラスを拭いて食器棚に戻すと、深くため息をついた。
「やっぱり、シルヴェスちゃんにあのことを聞くわけにはいかないね……。厄介ごとに巻き込むことになってしまうし」
そう遠い目をして呟き、自嘲気味に笑った。
「まあ……でも、聞いたところでどうしようもない……か」
*
「よし!」
バーを後にしたシルヴェスは、ラークから受け取った封筒を握りしめ、再びおばあさんのお屋敷を前にしていた。
「やっぱり立派だなあ……」
真上から降り注ぐ日の光に照らされた建物は、夜に猫の目で見た時よりも遥かに色鮮やかに見える。
……私の恰好、みすぼらしく見えないかな?
シルヴェスは今更のように、自分が身に着けているものに目を落とした。
うん。分かってはいたが、普段と変わり映えしない真っ黒コーディネートである。
……まあ、いっか。どうせ私、貴族が着るようなドレスは持ってないし。
シルヴェスは開き直り、ぽんぽんと服に着いた埃だけを払うと、門をくぐって庭の中に足を踏み入れた。
堂々とした足取りで、建物まで続く砂利の小道を歩いていく。
途中で、覆面の男たちに襲われた場所を通り過ぎたが、それほど心がざわつくことはなかった。さっき飲んだ魔法薬のお陰かもしれない。
――小道の突き当りは観音開きの木製扉だった。
「ごめんくださーい」
遠慮がちに呼びかけながら、ライオンが輪っかを咥えた形状のドアノッカーを鳴らす。
「はーい」
返事はすぐに聞こえた。右手の扉だけが動き、左手の扉との間に隙間ができる。そこからおばあさんが恐る恐る顔をのぞかせた。
「ああ! 昨日の魔女さんだね。良かった」
そう言いながら、シルヴェスが通れるように、扉を押し広げる。
「悪いねえ。あんなことがあったばかりだから、ちょっと用心深くなってしまっているのよ。どうぞ、いらっしゃい」
「お邪魔しまーす」
シルヴェスは会釈して、玄関に入った。いきなり赤い絨毯と牡鹿の首の壁掛け、そして長い廊下が彼女を出迎える。
「わあ。すごい……」
あまりの豪華さに、思わず口に出してしまった。
「大きい建物でしょう? 代々受け継がれてきたものだから、正直私は持て余しているんだけどね」
おばあさんは苦笑を浮かべると、杖を突き、シルヴェスを先導して廊下を歩き始める。
扉がいっぱい……。こんなに広かったら、家の中で迷子になりそう……。
シルヴェスはきょろきょろしながら後をついて行った。
それにしても、家の中に他の人の気配がない。貴族のお屋敷ともなれば、お手伝いさんの一人や二人、いるものだと思っていたのだけれど……。
「ここにはお一人で暮らしていらっしゃるんですか?」
シルヴェスが問うと、
「そうよ。十年くらい前までは息子がいたんだけどね」
ちょっと寂しそうな答えが返ってきた。まもなく、おばあさんは廊下の中ほどで緩やかに足を止める。
「この部屋を使いましょう。どうぞ入って」
扉を開けて招き入れてくれた。
中にはふかふかのソファーに、大理石のテーブル。――と、その上に一匹の長毛猫。
「シャルロット!」
シルヴェスは明るい声を上げた。
「おや、この子の名前を知っているのね」
「あっ」
シルヴェスは一瞬「しまった」と思ったが、そういえばこの人に魔女であることはすでにばれている。
「えへへ……。実は、この子とは猫の姿でお話したことがあるんです」
頭をかきながら答えると、テーブルからシャルロットが飛び降り、シルヴェスの足に頭をこすりつけた。
「そうだったの。昨夜見てびっくりしたけど、貴女、猫ちゃんに変身できるのね。素敵な魔法じゃない」
「そうですか?」
シルヴェスは照れ笑いを浮かべる。
「素晴らしいわよ。私は魔女じゃないけれど、猫ちゃんは大好きよ。昔は猫に良いイメージは持っていなかったんだけれど、猫好きの息子に影響されてね……。あ、どうぞ座って」
おばあさんはシルヴェスにソファに座るよう促すと、自身もテーブルを挟んで対面するソファに腰を下ろした。
「さて、改めまして。わざわざ来てもらってごめんね。私はルーマ。昨夜は助けてくれて本当にありがとう。貴女は命の恩人よ」
おばあさん――ルーマは、もともと曲がっている背中をさらに曲げて、深々と頭を下げた。シルヴェスは慌てて手を振る。
「そっ、そんな。いいですよ。私はシルヴェスです。どうぞよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくね」
ルーマは差し出されたシルヴェスの手を握って微笑んだ。
「私は不思議と良い魔法使いさんに縁があるのよね。魔女さんに助けられたのはこれが二回目よ」
「へえ……。ということは、前にも?」
「ええ、そうよ。その時は、アザンバークの一味に捕らえられてしまったときだったんだけどね」
「あの魔法ギャングの!?」
シルヴェスが驚いて声を大きくすると、ルーマはちょっと得意げに片目を閉じて見せた。
「当時ギャングは身代金目当てで貴族の拉致を繰り返していたのよ。でもその時、私には身内がいなくてね。あわや殺されそうになったのよ。そんなタイミングで、ある宮廷魔導士の女性がたった一人でアジトに乗り込んできたの」
シルヴェスは息をのむ。ルーマは遠い目をして続けた。
「凄かったわよ。あっという間だった。美しい光に目が眩んだと思ったら、ギャングが全員床に転がってたの。格好良かったわねー」
「へえー」
シルヴェスは感嘆の声を漏らした。そんな芸当は、よほどの大魔導士でないとできない。魔法学校の実技で毎回失敗を繰り返していたシルヴェスからすると、まさに神業であった。
「だから、私は魔法使いが悪い人たちだとは思っていないわ。魔法使いと直接知り合う機会に恵まれたっていう意味では、私は幸運だったのかもしれないわね……。でも、世の中では、まだまだ無差別な魔女狩りが流行っている。嘆かわしいことだわ」
ルーマは深々とため息をついた。
シルヴェスは新鮮な気持ちでその言葉を聞いた。
魔法使いじゃなくても、魔法使いに同情してくれる人はいるんだなあ……。
どこかにいるかもしれないと頭では分かっていても、実際に会うと感動するものである。
と、その時、
「ところで、シルヴェスちゃんは猫カフェを開こうとしているのよね?」
「えっ? どうしてそれを?」
不意に聞かれ、シルヴェスは調子はずれな声を上げた。ルーマはくすくすと口に手を添えて笑う。
「ラーク……あの宮廷魔導士さんから聞いたのよ。私のところに来たのも、協力者を探すためだったんじゃないかーって」
「あっ……」
シルヴェスは赤面して目を泳がせた。ラーク……協力はしないなんて言っていたのに、色んなところに根回ししてくれていない? いや、これは根回しのつもりじゃなかったのかもしれないけれど……。
混乱しているシルヴェスをよそに、ルーマはやおら腰を浮かせ、壁際の書類棚から巻物を一本取り出した。
「それを聞いて、私、とってもいいアイデアだと思ったわ。猫のことをよく知らずに毛嫌いしている人たちに猫の魅力を伝えられたら、きっとこの街も変わると思うもの」
バサッと巻物がテーブルの上に広げられると、ある物件の情報がシルヴェスの眼前に現れる。
「これは……?」
「私が持ってる街はずれの建物よ。よかったら使って頂戴」
「ええっ!? 本当ですか!?」
シルヴェスはびっくりして聞き返した。ルーマは相変わらず、にこにこと笑みを浮かべている。……肯定と受け取っていいのだろう。
「瓦ぶきの三角屋根に薄緑の壁……。二階建てで庭までついてる!」
シルヴェスは信じられないという口調で言った。
「ここずっと空き家だったから、改装は必要だと思うけどね。もちろんお代はいらないわ」
「あ、ありがとうございます!」
「ただ……その代わりと言っちゃなんだけど、一つ、お願いしてもいいかしら?」
「はい。なんでしょう?」
シルヴェスが小首をかしげると、ルーマは遠慮がちに続けた。
「この子……シャルロットを、シルヴェスちゃんの猫カフェで引き取ってほしいの。ほら、私が猫ちゃんに関わっていると、また昨夜みたいな目に合うかもしれないし……。そうなると、シャルロットも無事では済まないわ。その点、シルヴェスちゃんがこの子を預かってくれていれば、私は安心だし、いつでも猫カフェに会いに行くことが出来るから……」
「なるほど。シャルロットちゃんを……」
シルヴェスが目を向けると、シャルロットはぴんと背筋を伸ばして彼女を見つめ返した。
ふわふわの美しい毛並み――。それだけで、この子がどれだけ可愛がられているのかが分かる。この子をルーマさんから引き離してしまうのはかわいそうだけれど……命には代えられない。
「分かりました。責任をもってお預かりしましょう。シャルロットには、私から猫語で事情を伝えておきます」
「ありがとう!」
そう言ったルーマの目には、涙が浮かんでいた。
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