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プロローグ
安アパートの陰陽師 1
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「はあ~」
京都市左京区のとある安アパートの一室。狐依恭は、さっきから何度目か分からないため息を漏らし、ぼんやりとした目で窓の外の大文字山を眺めていた。
木が伐られて草地となった山肌にでかでかと描かれた「大」の文字は初夏の斜陽に照らされ、鮮やかな茜色に染まっている。
観光客には物珍しい風景だろうが、京都暮らしが長い恭にとって、それは日常の一コマに過ぎなかった。
だから彼はことさら大文字山に興味を惹かれているわけではないのだが、部屋に一つしかない窓がちょうど「大」の正面なので、そちらを見て物思いに耽るしかなかったのである。
冴えない表情で机に肘をつき、反対側の手を膝の上に浮かせてゆっくり左右に動かしている。まるで何かを撫でているような手つきだ。
机の上には今年の春以降、全く手を付けていない大学の教材が積まれている。それは卒業後も学生気分が抜けきっていない彼の心境を映しているようであった。
「定職に付けていれば、もうちょっとマシな生活が送れていたのかねえ……」
ため息交じりの独り言が零れ落ちる。同時に、ぐう、と彼の腹の虫が鳴いた。
恭は机の引き出しから財布を取り出して中を覗き込み、たちまちその顔にショックの色を浮かべる。
ぐーう。
再び大きな腹の音。
その時、不意に玄関チャイムが高らかに鳴り響き、恭は飛び上がった。しかし、恭ときたら、
「ちぇっ。驚かすな。今は誰とも話したくないよ」
そう小声で呟くと、居留守を決め込むべく、机の上に腕を組んで突っ伏してしまう。
すると、十秒も経たないうちに、今度は彼の携帯端末が着信音を奏でた。恭は面倒くさそうに顔を起こすと、眉まで伸びた黒髪をかきあげ、携帯端末の画面に目を落とす。
連続で着信した短いメッセージが古い順に並んでいる。差出人は全て同じだ。
『おい! 俺だ。開けろ!』
『中にいるんだろ! 式神の妖気を感じるんだよ』
『寝てんのか? 小鬼を中に送り込むぞ!』
『畜生! 小鬼がドアでつっかえてやがる。どんだけ強い結界を張ってんだよ』
「げっ」
恭は顔をひきつらせた。仲が悪くなくても会う時を選びたい友達というのはいるものである。少なくとも、今はこいつと会いたい気分じゃない。
逡巡していると、玄関チャイムの連打が始まった。これには流石の恭もたまらず、玄関に突進して乱暴にドアを開ける。
「うるさい! 近所迷惑だろ!」
「あ、やっぱりいた。ちーっす」
「『ちーっす』じゃねえ! 何しに来たんだよ!?」
「まあまあ。そう邪険にせずに、とりあえず中に入れてくれよ。ほら、お前が好きな大学購買部のみたらし団子買ってきてやったんだぜ?」
ドアの前に立つ金髪でいかにも遊び人といった風体の男は、小さなレジ袋を恭の目の前にぶら下げてニヤリと笑った。
この男、名前を賀茂与一という。恭と同学年だったのだが一昨年留年し、まだ大学生活を続けているのであった。
「別に好きだったわけじゃない。値段の割に腹持ちがいいからいつも選んでただけだよ」
「素直じゃねえなあ。ありがたくもらっておけよ」
「いや、遠慮するよ。お前の好意には絶対に裏があるからな」
「まあまあ、そう言わずにさ。どうせ腹減ってんだろ?」
与一はレジ袋を恭に押し付けると、反射的にそれを受け取った恭の脇をすり抜けて、まんまと部屋に押し入った。
「おっ、狐ちゃん、元気ー?」
与一は早速靴を脱ぎ捨てて上がり込み、部屋の奥に向かって声をかけている。恭はため息をつきながらドアを後ろ手に閉めた。
「おい、与一、やめとけ。噛まれるぞ」
何もない空間に向かって手を伸ばしている与一に、恭が呆れた口調で注意する。
二人がその場所に見ているのは、三本の尾を持った白い狐の姿であった。彼らは普通の人には見えないものが見える。言うなれば、現代に生きる陰陽師なのである。
この三尾の狐は恭の式神だった。式神というのは、陰陽師が使役するこの世ならざるものたちのことだ。
「ウーッ!」
耐えかねた三尾の狐がとうとう唸り声を上げた。先ほどまで恭にエアなでなでをしてもらって上機嫌だったはずなのに、よほどこの闖入者が気に食わなかったらしい。折しも小鬼が一匹、興味津々でその尻尾を触りに行こうとしていたのだが、慌てて逃げ出して与一の足の間に避難した。――こちらの小鬼は与一の式神である。
「あー、やっぱり嫌われてるなあ、俺」
与一が肩を落とした。
「そりゃあ、主人以外に簡単に懐かれたら、式神としては役に立たないだろ」
「いいなあ、俺ももっと上位の式神が欲しいよ」
ずいぶんと羨ましそうだ。陰陽師の実力は式神の強さによって決まると言っても過言ではないのである。
恭は椅子に座り、レジ袋からみたらし団子を取り出しながら無関心な口ぶりで答えた。
「式神くらい自分で探せばいいじゃないか。それより後ろ見ろよ。小鬼が怒ってるぜ」
「わあ、ごめんごめん!」
与一は慌てて謝った。小鬼がもともと赤い顔をさらに赤くして与一の足を両手でポコポコと殴りつけていたのだ。
京都市左京区のとある安アパートの一室。狐依恭は、さっきから何度目か分からないため息を漏らし、ぼんやりとした目で窓の外の大文字山を眺めていた。
木が伐られて草地となった山肌にでかでかと描かれた「大」の文字は初夏の斜陽に照らされ、鮮やかな茜色に染まっている。
観光客には物珍しい風景だろうが、京都暮らしが長い恭にとって、それは日常の一コマに過ぎなかった。
だから彼はことさら大文字山に興味を惹かれているわけではないのだが、部屋に一つしかない窓がちょうど「大」の正面なので、そちらを見て物思いに耽るしかなかったのである。
冴えない表情で机に肘をつき、反対側の手を膝の上に浮かせてゆっくり左右に動かしている。まるで何かを撫でているような手つきだ。
机の上には今年の春以降、全く手を付けていない大学の教材が積まれている。それは卒業後も学生気分が抜けきっていない彼の心境を映しているようであった。
「定職に付けていれば、もうちょっとマシな生活が送れていたのかねえ……」
ため息交じりの独り言が零れ落ちる。同時に、ぐう、と彼の腹の虫が鳴いた。
恭は机の引き出しから財布を取り出して中を覗き込み、たちまちその顔にショックの色を浮かべる。
ぐーう。
再び大きな腹の音。
その時、不意に玄関チャイムが高らかに鳴り響き、恭は飛び上がった。しかし、恭ときたら、
「ちぇっ。驚かすな。今は誰とも話したくないよ」
そう小声で呟くと、居留守を決め込むべく、机の上に腕を組んで突っ伏してしまう。
すると、十秒も経たないうちに、今度は彼の携帯端末が着信音を奏でた。恭は面倒くさそうに顔を起こすと、眉まで伸びた黒髪をかきあげ、携帯端末の画面に目を落とす。
連続で着信した短いメッセージが古い順に並んでいる。差出人は全て同じだ。
『おい! 俺だ。開けろ!』
『中にいるんだろ! 式神の妖気を感じるんだよ』
『寝てんのか? 小鬼を中に送り込むぞ!』
『畜生! 小鬼がドアでつっかえてやがる。どんだけ強い結界を張ってんだよ』
「げっ」
恭は顔をひきつらせた。仲が悪くなくても会う時を選びたい友達というのはいるものである。少なくとも、今はこいつと会いたい気分じゃない。
逡巡していると、玄関チャイムの連打が始まった。これには流石の恭もたまらず、玄関に突進して乱暴にドアを開ける。
「うるさい! 近所迷惑だろ!」
「あ、やっぱりいた。ちーっす」
「『ちーっす』じゃねえ! 何しに来たんだよ!?」
「まあまあ。そう邪険にせずに、とりあえず中に入れてくれよ。ほら、お前が好きな大学購買部のみたらし団子買ってきてやったんだぜ?」
ドアの前に立つ金髪でいかにも遊び人といった風体の男は、小さなレジ袋を恭の目の前にぶら下げてニヤリと笑った。
この男、名前を賀茂与一という。恭と同学年だったのだが一昨年留年し、まだ大学生活を続けているのであった。
「別に好きだったわけじゃない。値段の割に腹持ちがいいからいつも選んでただけだよ」
「素直じゃねえなあ。ありがたくもらっておけよ」
「いや、遠慮するよ。お前の好意には絶対に裏があるからな」
「まあまあ、そう言わずにさ。どうせ腹減ってんだろ?」
与一はレジ袋を恭に押し付けると、反射的にそれを受け取った恭の脇をすり抜けて、まんまと部屋に押し入った。
「おっ、狐ちゃん、元気ー?」
与一は早速靴を脱ぎ捨てて上がり込み、部屋の奥に向かって声をかけている。恭はため息をつきながらドアを後ろ手に閉めた。
「おい、与一、やめとけ。噛まれるぞ」
何もない空間に向かって手を伸ばしている与一に、恭が呆れた口調で注意する。
二人がその場所に見ているのは、三本の尾を持った白い狐の姿であった。彼らは普通の人には見えないものが見える。言うなれば、現代に生きる陰陽師なのである。
この三尾の狐は恭の式神だった。式神というのは、陰陽師が使役するこの世ならざるものたちのことだ。
「ウーッ!」
耐えかねた三尾の狐がとうとう唸り声を上げた。先ほどまで恭にエアなでなでをしてもらって上機嫌だったはずなのに、よほどこの闖入者が気に食わなかったらしい。折しも小鬼が一匹、興味津々でその尻尾を触りに行こうとしていたのだが、慌てて逃げ出して与一の足の間に避難した。――こちらの小鬼は与一の式神である。
「あー、やっぱり嫌われてるなあ、俺」
与一が肩を落とした。
「そりゃあ、主人以外に簡単に懐かれたら、式神としては役に立たないだろ」
「いいなあ、俺ももっと上位の式神が欲しいよ」
ずいぶんと羨ましそうだ。陰陽師の実力は式神の強さによって決まると言っても過言ではないのである。
恭は椅子に座り、レジ袋からみたらし団子を取り出しながら無関心な口ぶりで答えた。
「式神くらい自分で探せばいいじゃないか。それより後ろ見ろよ。小鬼が怒ってるぜ」
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