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第八章
恭の脱ひきこもり作戦 伏見稲荷編 1
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「とりあえず、患者さんの呪いは八割がた取り除けたっぽいよ」
そう言いながら与一と美鵺子が給湯室に入ってきたので、恭は筆ペンを持った手の動きを止めた。
「そうか。思ったより早かったな」
「恭のお札が良く効いたんだよ。……全く。お前の陰陽師センスは反則級だよな」
与一はちょっと皮肉っぽく付け加えると、ため息をついて椅子に腰を下ろした。
美鵺子はその後ろで曖昧に笑い、「おつかれ」と言って小さく恭に手を振る。
恭は「おつかれ」と返して、腕時計に目を移した。時刻は三時を回ったところである。
「じゃあ、ちょっと一休みするか。そういえば、俺たちまだ昼飯を食べてなかったな」
恭は筆ペンを机の上に置き、大きく伸びをした。仕事が一段落すると、思い出したようにお腹が空きはじめるものだ。
「そうやね。一旦お昼にしよう。食べ物はそこの冷蔵庫に入ってるはずやから」
「ん? これ?」
恭は振り返り、冷蔵庫の扉を開けた。
「――うわ。すげえ。食材が充実してる」
「お前の部屋に食い物がなさすぎるだけだろ」
与一が呆れたように突っ込みを入れた。
「何かすぐに食べられそうなものある?」
近寄ってきた美鵺子も恭の後ろから首を伸ばし、冷蔵庫の中を覗き込む。
「んー。冷凍ピザとか、冷凍チャーハンならあるよ」
恭が答えたその時である。彼は突然、首筋にビリッと凍り付くような悪寒が走るのを感じた。
――待て! 何で、あいつがここに来てるんだ!?
恭が振り返ったのと、給湯室のドアが音もなく開いたのがほぼ同時だった。
「邪魔するぞ。わしも相伴にあずかってもよいかな?」
「あ、あんた、桂川の下流にいるんじゃなかったのか!?」
恭は思わず身構えて後ずさった。踵が冷蔵庫に当たり、これ以上下がれないことを思い出す。与一は転がり落ちるように慌てて椅子から飛び退き、美鵺子は恭をかばうように右手を広げた。
ドアを後ろ手に閉めた白髪の老人――蘆屋捨道は黄色い爪で頭を掻きながら、くっくと気味の悪い笑い声を上げる。
「なあに。ちょっとした悪戯を仕掛けて、奴らがわしの居場所を間違えるように仕向けてやったのさ。わしはお前と一度ゆっくり話がしたかったんじゃよ。お若いの」
「お、おっさん、どうやってここに入ってきたのかは知らねえけど、この建物の中じゃ犬神は呼び出せないぜ? こ、ここではあんたの方が不利なんじゃないか?」
与一は手近にあったヤカンを振り上げて精一杯の虚勢を張って見せる。しかし、捨道は意に介していない様子で「かっかっ」と笑った。
「威勢がいいのお。確かに、ここには強力な結界が張ってあるようじゃな。だが、ここまで来たら、もはや犬神を使うまでもない。霊能力が高い陰陽師は、わしに怨念を流されるだけで致死的なダメージを受けるからなあ」
この老人の言うとおりだ。
恭はじっとりと背中が汗ばむのを感じた。
思いがけない形で、俺たちは完全に追い詰められてしまった……。
「まあ、そう身構えるでない。わしはお前と交渉をしに来たんじゃ。間抜けどもがわしに騙されたと気が付いて、ここに帰ってくるまでには、あと最低でも一時間はかかるじゃろう。時間はたっぷりある。――冷蔵庫に酒は入っておらんかね?」
捨道はひょこひょこと曲がった背中を上下させながら近づいてくる。
「ち、近づかんといて!」
美鵺子が悲鳴に近い叫び声を上げた。捨道は驚いたように足を止め、変色した歯を見せてニヤッと笑う。
「かっかっか。これは失礼。それでは、さっさと要件を伝えることにしようかの。――お前、狐依恭とか言ったか」
捨道の人差し指が恭に突き付けられる。
「わしと一緒に働く気はないかね?」
来た……。
恭が予想していた通りの問いであった。しかし、舌が張り付いて上手く言葉がでない。だが、答えはとっくに決まっている。
「冗談じゃない。テロ行為の手伝いをしろっていうのか? ごめんだね」
口をこじ開け、吐き捨てるように返した。
「ほう?」
捨道の血走った眼が怪しい光を宿す。部屋の空気が一瞬で凍り付いた。恭の動悸が激しくなり、呼吸が乱れ始める。
「それは残念じゃな。お前もこの社会に不満を持っていると思うたのに」
「う……。確かに、俺は、この社会で生きていくのに……苦労している……。だけど、俺は、あんたみたいなやり方で、復讐しようとは、思わない……」
息も絶え絶えに言い終えると、恭は胸を手で押さえて床に膝をついた。
「恭!? 大丈夫!?」
美鵺子が振り返り、慌てて恭の背を手で支える。
「そうか。それじゃあ、仕方ないのう。お前はここで始末してしまうとするかね。だが、その前に最後のチャンスをやろう。――もう一度聞く。小僧、わしに手を貸す気はないかね?」
「…………」
恭は歯を食いしばったまま捨道を睨み返した。
「やれやれ」
捨道はため息をつき、ゆらりと片手を前に差し出す。途端、恭は心臓が締め付けられるような感覚を覚えた。
「やめて!」
美鵺子が捨道に向かって飛び出す。しかし、彼女の手が捨道に届くことはなかった。捨道が手の平の向きをちょっと変えただけで、美鵺子も床の上に崩れ落ちてしまったからだ。
「邪魔をするでない。お前も小僧ほどの霊能力ではないとはいえ、わしの怨念をまともに受ければただではすまないぞ」
そう言いながら与一と美鵺子が給湯室に入ってきたので、恭は筆ペンを持った手の動きを止めた。
「そうか。思ったより早かったな」
「恭のお札が良く効いたんだよ。……全く。お前の陰陽師センスは反則級だよな」
与一はちょっと皮肉っぽく付け加えると、ため息をついて椅子に腰を下ろした。
美鵺子はその後ろで曖昧に笑い、「おつかれ」と言って小さく恭に手を振る。
恭は「おつかれ」と返して、腕時計に目を移した。時刻は三時を回ったところである。
「じゃあ、ちょっと一休みするか。そういえば、俺たちまだ昼飯を食べてなかったな」
恭は筆ペンを机の上に置き、大きく伸びをした。仕事が一段落すると、思い出したようにお腹が空きはじめるものだ。
「そうやね。一旦お昼にしよう。食べ物はそこの冷蔵庫に入ってるはずやから」
「ん? これ?」
恭は振り返り、冷蔵庫の扉を開けた。
「――うわ。すげえ。食材が充実してる」
「お前の部屋に食い物がなさすぎるだけだろ」
与一が呆れたように突っ込みを入れた。
「何かすぐに食べられそうなものある?」
近寄ってきた美鵺子も恭の後ろから首を伸ばし、冷蔵庫の中を覗き込む。
「んー。冷凍ピザとか、冷凍チャーハンならあるよ」
恭が答えたその時である。彼は突然、首筋にビリッと凍り付くような悪寒が走るのを感じた。
――待て! 何で、あいつがここに来てるんだ!?
恭が振り返ったのと、給湯室のドアが音もなく開いたのがほぼ同時だった。
「邪魔するぞ。わしも相伴にあずかってもよいかな?」
「あ、あんた、桂川の下流にいるんじゃなかったのか!?」
恭は思わず身構えて後ずさった。踵が冷蔵庫に当たり、これ以上下がれないことを思い出す。与一は転がり落ちるように慌てて椅子から飛び退き、美鵺子は恭をかばうように右手を広げた。
ドアを後ろ手に閉めた白髪の老人――蘆屋捨道は黄色い爪で頭を掻きながら、くっくと気味の悪い笑い声を上げる。
「なあに。ちょっとした悪戯を仕掛けて、奴らがわしの居場所を間違えるように仕向けてやったのさ。わしはお前と一度ゆっくり話がしたかったんじゃよ。お若いの」
「お、おっさん、どうやってここに入ってきたのかは知らねえけど、この建物の中じゃ犬神は呼び出せないぜ? こ、ここではあんたの方が不利なんじゃないか?」
与一は手近にあったヤカンを振り上げて精一杯の虚勢を張って見せる。しかし、捨道は意に介していない様子で「かっかっ」と笑った。
「威勢がいいのお。確かに、ここには強力な結界が張ってあるようじゃな。だが、ここまで来たら、もはや犬神を使うまでもない。霊能力が高い陰陽師は、わしに怨念を流されるだけで致死的なダメージを受けるからなあ」
この老人の言うとおりだ。
恭はじっとりと背中が汗ばむのを感じた。
思いがけない形で、俺たちは完全に追い詰められてしまった……。
「まあ、そう身構えるでない。わしはお前と交渉をしに来たんじゃ。間抜けどもがわしに騙されたと気が付いて、ここに帰ってくるまでには、あと最低でも一時間はかかるじゃろう。時間はたっぷりある。――冷蔵庫に酒は入っておらんかね?」
捨道はひょこひょこと曲がった背中を上下させながら近づいてくる。
「ち、近づかんといて!」
美鵺子が悲鳴に近い叫び声を上げた。捨道は驚いたように足を止め、変色した歯を見せてニヤッと笑う。
「かっかっか。これは失礼。それでは、さっさと要件を伝えることにしようかの。――お前、狐依恭とか言ったか」
捨道の人差し指が恭に突き付けられる。
「わしと一緒に働く気はないかね?」
来た……。
恭が予想していた通りの問いであった。しかし、舌が張り付いて上手く言葉がでない。だが、答えはとっくに決まっている。
「冗談じゃない。テロ行為の手伝いをしろっていうのか? ごめんだね」
口をこじ開け、吐き捨てるように返した。
「ほう?」
捨道の血走った眼が怪しい光を宿す。部屋の空気が一瞬で凍り付いた。恭の動悸が激しくなり、呼吸が乱れ始める。
「それは残念じゃな。お前もこの社会に不満を持っていると思うたのに」
「う……。確かに、俺は、この社会で生きていくのに……苦労している……。だけど、俺は、あんたみたいなやり方で、復讐しようとは、思わない……」
息も絶え絶えに言い終えると、恭は胸を手で押さえて床に膝をついた。
「恭!? 大丈夫!?」
美鵺子が振り返り、慌てて恭の背を手で支える。
「そうか。それじゃあ、仕方ないのう。お前はここで始末してしまうとするかね。だが、その前に最後のチャンスをやろう。――もう一度聞く。小僧、わしに手を貸す気はないかね?」
「…………」
恭は歯を食いしばったまま捨道を睨み返した。
「やれやれ」
捨道はため息をつき、ゆらりと片手を前に差し出す。途端、恭は心臓が締め付けられるような感覚を覚えた。
「やめて!」
美鵺子が捨道に向かって飛び出す。しかし、彼女の手が捨道に届くことはなかった。捨道が手の平の向きをちょっと変えただけで、美鵺子も床の上に崩れ落ちてしまったからだ。
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