それらすべてが愛になる

青砥アヲ

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In vino veritas3

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 ◇◇◇◇

 少し冷静さと落ち着きを取り戻してから自席へ戻ると、洸はすでに外出していた。

 未知夏たちは一様に、大人げなかったのは洸の方だといってくれたけれど、時間が経てば経つほど、自分がいかに冷静さを欠いていたのか自覚していく。

 それに、あれは完全に上司に対する言い方ではなかった。
 二人で暮らす生活にも慣れてきて、マンションに帰ると砕けた調子になることも増えた。自分の中では公私混同しないよう線引きしていたつもりだったけれど、そうでもなかったらしい。


 それから午後の時間は仕事に没頭した。
 来週に回そうと思っていた作業にも手を出して、気づけば経営企画課に残っているのは清流と唯崎だけだった。

「工藤さんは帰らないんですか?」

 今日は週末ということもあり、未知夏は彼氏とデート、舞原は友人と野球のナイターを見に行くといって定時にはオフィスを後にしていた。

「はい、これが終わったら帰ります」
「そうですか、あまり無理はされないでください。お先に失礼します」

 会釈する唯崎を見送ってから20分後、清流もようやく帰り支度を始める。

(このまま、まっすぐ帰りにくいなぁ…)

 こういうとき、同じ家に住んでいるというのは気まずい。
 清流はオフィスを出て、とりあえず何か食べて帰ろうと考える。
 駅前へと向かう大通りを歩きながら、前に歓迎会を開いてくれた和食居酒屋の店に行こうと思い立った。

 駅前の一際賑やかな通りを抜け、商業施設に吸い込まれていく人波にも逆らいながら歩いて辿り着いた雑居ビル。確かここの地下だったはずだ。
 階段を下りて引き戸を開けると、いらっしゃいませ!と太陽みたいな笑顔の店員が出迎えてくれる。

「一名様ですね、カウンター席でもよろしいですか?」
「はい大丈夫です」

 女で独りでは不思議そうな顔をされるかと思ったけれど、変わらない笑顔で元気よく案内してくれた。
 席に着いて、ドリンクのオーダーを取りに来た店員にハイボールを頼む。あまり待つことなく、カウンターの向こうの店主からお通しとグラスをテーブルに置いてくれた。

「本日のお通しはタコとオクラの塩レモンマリネ、厚揚げと大根の煮物ね。それとこれが今日のおすすめ」

 渡された手書きのメニューには本日のおすすめが並ぶ。
 この前食べたお刺身が美味しかったので頼むとして、他はどれにしようかと迷っていると店主がアドバイスをくれた。

「今日の一押しは太刀魚の塩焼きかな、あと軟骨の唐揚げ。うちのは薬研軟骨だから柔らかくて美味いよ」
「美味しそう!その二つをお願いします」
「はいよ!」

 店主のおすすめと、追加で野菜串を頼んだ。
 お店はだんだんと混み合ってきて、カウンター席も気づけばいっぱいになる。やはり人気店のようだ。
 店員の威勢の声を聞きながらお通しを一口。居酒屋の料理というとお酒に合うように濃いイメージだったけれど、このお店の料理はとても優しい。ほうっと体から余計な力が抜けるような味付けだ。

 未知夏の話していたように店主の話術は巧みで、お店は兄弟で切り盛りしていること、特注した焼き場の煙が流れていかない装置の仕組みなどを、接客の合間に面白く教えてくれた。
 ハイボールも進んであっという間に空になると、グラスの氷がカランッといい音を立てた。

 はぁっと息を吐くと、何とはなしに左隣りの席から視線を感じた。
 気になって清流も顔を向けると、座っていたのはやや白髪混じりの黒縁の眼鏡をかけた50代くらいの男性だった。

「すみません、美味しそうに飲んでらっしゃるなと思ってつい。私は下戸で1滴も飲めないものだから」

 これはノンアルコール、とビールグラスを傾けながら笑う。
 そんなに豪快だっただろうかと少し気恥ずかしくなりながらも、追加を聞きに来てくれた店主に同じものを注文する。

「いらっしゃい!今日は何にします?」
「海ぶどう今日はあるかな?」
「ございますよ」
「じゃあそれと、ひじきと鶏皮の梅肉和え。あとはいつもの串盛りを」
「かしこまりました!」

 注文を終えてノンアルコールビールで喉を潤した男性が、再びこちらに目を向けた。

「こちらへはよく?」
「いえ、会社の先輩に連れてきてもらったのが最初で、今日で2回目です」

 男性の方は置かれたメニューは一切見ずに注文する様子から、お店の常連のように思える。
 清流は失礼にならない程度にその男性の様子を観察した。
 決して派手ではないけれど、スーツや時計など身に付けているものが高級そうで、柔和な笑顔からは人柄と品の良さが滲み出ている。

 清流の父が亡くなったのがちょうど10年前。

 記憶の中の父は若いままだけれど、もし生きていたらこの男性のような風貌になっていたかもしれない。
 頭の中でややグレイヘアーになった髪や笑い皺の増えた顔をイメージするけれど、あまり上手くいかなかった。

 清流が子供の頃は、従業員は少ないながらもみんな家族みたいに仲が良かったけれど、叔父と叔母に経営が移ってからは雰囲気もガラリと変わってしまった。
 実際にどんなことがあったのか詳しくは分からないが『もうついていけない』と次第に離れていってしまい、今当時の人で残っているのは父の古くからの友人一人だけになってしまっていた。

 清流は、今日洸と言い合いになったときのことを思い返す。
 あのとき頭をよぎったのは、その会社のことだった。
 けれど、町の小さな会社と大企業を同じ物差しで測るのも間違っているとも思う。

『工藤が口を出すことじゃない』

 その指摘はその通りだった。


「どうかしましたか?」

 知らずにため息を吐いていたらしく、男性が気遣わしげな眼差しでこちらを窺う。

「あ、いえ…今日ちょっと上司と揉めてしまったことを思い出して…」

 正確に言えば自分が一方的に感情をぶつけただけで、揉めたと表現していいのかは分からないが。

「おや、厳しい方なのですね。でも私も職場で揉め事なんかはしょっちゅうですよ」

 この間なんて、と言いながら自身の話をしてくれる。

「それに最近は息子ともよくぶつかるしねぇ。昔から我が強くて手を焼いていて、つい口を挟む私もよくないのだろうけど…親子というのは難しいものですね」

 額を抑えて困ったように首を振る。

 きっと思春期の息子さんでもいるのだろう。
 家庭の悩みというのは複雑だから簡単に口を挟めないけれど、こんなふうに気にかけてくれるお父さんがいるだけでも、清流としては十分羨ましく思えた。

 気に掛けてくれる人がそばにいてくれるのは、決して当たり前のことではない。
 もし会えるのなら、その息子さんにお父さんをもっと大事にしなよと言ってあげたい。そんなことを言うと、男性はありがとう、と笑った。

「おや、子育ての悩みですか?うちも奔放な次男に手を焼いてますよ、二言目にはすぐ『うるせえクソ親父!』とか言ってほんと生意気なんですから。
 はい、ひじきと鶏皮の梅肉和えと海ぶどうお待たせ。そちらのお嬢さんにも海ぶどうね、サービスだよ」

「え、いいんですか?ありがとうございます」

 沖縄の食材ということは知っていたけれど、実際に食べるのは初めてだ。
 箸にとって口に含むと、プチプチの弾ける食感と、爽やかな柑橘系の香りが立ったポン酢の相性がとてもよかった。これはハマってしまうかもしれない。

「気に入りました?」
「はい、次来たときは絶対頼みます」

 店主が串焼きの焼き具合をチェックしながら、それはよかったと白い歯を見せた。
 しばらく料理を食べながら、合間にたわいのない話をした。
 普段は初対面の人だと緊張する質なのだけれど、お店の雰囲気か男性の落ち着いた佇まいのおかげか、会話を楽しむ余裕も出てきていた。

「一つ伺ってもいいですか?」
「…?はい」
「今のお仕事は楽しいですか?」

 どういう話の流れだったか、そう問いかけられた。

「上司の方、厳しい方なのでしょう?辞めたいと思ったことは?」

 清流は一瞬、返答に詰まった。
 そっと箸を置いて、男性の言われた言葉をゆっくりと反芻する。

 確かに激務で要求は厳しいけれど、それが間違った指摘だったことは一度もない。
 成り行きで入社することになっただけの自分を、ちゃんと一人の部下として扱ってくれている。
 部長権限で会議に陪席させてもらって、この仕事の成果物がどう使われているのかその重要性を教えてくれたのも洸だった。

 それに、もっと課のメンバーの役に立ちたいという目標もある。
 だから今の経営企画課から、洸の下から離れたいかというとそれは否だとはっきり言える。

「いえ、私は今のところで頑張りたいです。だって、」

 確かに厳しくて、時に難しくて強引な人だけれど。
 仕事に人一倍責任と覚悟を持っているところも、それをおくびにも出さないところも、御曹司という立場に胡坐をかかないところも。

『工藤さんのフォローするよう部長から頼まれました』
『専門用語に苦戦してるんだろ、付き合ってやる』
『何でも一人でやろうとしなくていい』

 本当は、とても優しいことも知っている。

「だから…上司というよりも人として、とても尊敬しています」

(………あれ?)

 するりと自分の口から零れ落ちた言葉に、どこか既視感を覚えた。
 なぜだろう、急に心臓がバクバクする。

 男性は、清流の返答を聞いて少し瞠目した後、鷹揚に微笑んだ。

「貴方はその上司の方が好きなんですね、その方は幸せ者だ」

 騒がしい店内で、男性の静かな声は不思議とよく届いた。


 好き………?


 その言葉は不思議なほど自然に自分の中に落ちてきた。
 ふと、前に洸とした会話が脳裏に蘇る。

『好きなタイプは?』
『人として尊敬できる人がいいです』

 その瞬間にら今まで封じ込めてきたものが一気に溢れ出すように、一つの想いが全身を駆け巡る。

(……あぁ、そうか)


 ―――私、加賀城さんのことが、好きなんだ。

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