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第十六話 泥

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ハトホル山はかつて地におわした女神の名前からつけられている。
今は星に住まわれるその女神は、美しい黒髪を持っていたそうだ。
フェムトは大きな広場に立つメルセデスに女神の姿を重ねた。
穏やかに浮かべる微笑は慈愛に満ちて美しい。

「メルセデス様、お戻り下さい。皆が貴女様の身を案じております」
「おかしなことを言うのね、フェムト。私に罪があると訴えたのは貴方。私を廃し、アンディを王に、それが教団の決定ではないの?」
「いえ、そのようなことは……」
「あの日、私を排除しようという流れはあまりにも速やかだった。その日の内に全てが動いたわけではなく、もっと前から動いていたと見るべきよ。そして、私を更迭するのは流石に貴方の考えだけでは不可能だわ。もっと上からと言うことよね?」
「メルセデス様……」

フェムト何も言えず、目を伏せる。
メルセデスが父のような従順で愚かな王であったのなら、何も問題はなかった。
彼女はあまりに聡く、教団を頼ることはなく、新たな力を得ようと様々な方面に目を向けた。
それが、教団には面白くなかったのであろう。
メルセデスが女王の地位につく前に廃しろと言う訴えは教団内で膨れ上がり、それが、恐らくはこの事件の顛末なのだとフェムトは理解している。

「……それでも、貴女を探したのは、私一人の考えです。私に、私に任せて下さりさえすれば御身を御守りすることは出来ましょう」
「身を守れても、それが何になるの? 王は一人で充分だわ。これからは貴方のため鳴く愛玩鳥カナリアになれとでも?」
「メルセデス様、私はそのようなことを望んでなどは……」
「嘘をつかないで、エンリッヒはそう言ってたわ」

メルセデスは穏やかな微笑でそう言った。

「私が欲しいと、貴方がそう望んでいるとエンリッヒは言っていたわ。そんなことを考えていたの? 聖職者であるのに、汚らわ……」

最後まで言葉は紡げず、メルセデスの首がゆっくりと落ちていく。
見れば先程まで話をしていたフェムトの手には剣が握られていて、それを使ってメルセデスの首を断ち切ったのだろうと言うことがわかった。
無言で剣を鞘に納めると、バチャっと何かが弾けた様な音がして、その場所には泥のようなもの落ちていた。
フェムトがメルセデスの身体があった場所に目を戻すと、メルセデスの白い肌がグズグズと崩れ、纏ったドレスが泥まみれになってその場に残っていた。

「最初から謀っていたと言うことか……」

フェムトが呟くと、先程のエンリッヒの死体の始末を命じた男が急いで近づいてくる。

「フェムト卿、あの男が溶けました。水に流したあと骨も残らず消えたので、恐らくはただの土人形だったのかと」
「そのようです。此方にいたメルセデス様もただの泥でした。しかし、私と言葉を交わし、姿形も間違いなく人と変わらないもののようでした。何処かの術師か何かですかね」
「少なくとも男の身の上を探った時にはこの国の生まれでもないようですし、天涯孤独のようでした」
「なるほど、あの男には脅しも効きそうもないですね。アンディ様やユーリア様も私の力ではご協力を願えそうにないですしね」

フェムトは男に尋ねた。

「貴方がこのまま女性を連れてここからヤトへ向かうとするならどうします?」
「あ、俺ですか? そうですね。ここからヤトに向かうなら、賊や獣を避けて歩かなきゃいけませんしー。しかも、連れてるのが皇女様なんですよね? 多分山なんて歩きなれてませんから、どう考えても無理じゃありません?」
「そうなんですよね。他の中隊に入り込むかなと考えましたが」
「いや、そもそもこんなところで合流しようとする旅人なんて怪しすぎてどこも受け入れないですよ。いくら金を積んでも、無理じゃないですか?」
「まあ、一応調べる手配はしておりますので何とかなるでしょう。それと、今から馬の準備をしてください」
「あ、何処かにお出掛けで?」
「えぇ、無駄足になるかもしれませんが、取り敢えずハトホルの展望台に様子を見に行きます。恐らくはあそこで人形と入れ替わったでしょうから」

フェムトは言うと、叩頭した人間に向かって手を一つ叩いた。

「お疲れ様でした。もう戻ってもよいですよ」

男は、辺りをズラリと並んだ人間が立ち上がってフラフラと戻っていくのを見て、うへっと顔をしかめる。

「しっかし、あなたの御業ってのも大概ですよね」
「そうですか? そこまで便利だとも思いませんけれど」

男が知る限り、フェムトは御業と呼ばれる奇跡のようなものを使って人を操ることが出来た。
他には今行っている様な年齢操作も可能なようだが、それ以外にも幾つもの術を取得しているらしかった。
それは教団の中でも間違いなく優秀で、大司教という立場ですらまだ役不足だと言われているほどである。
だが、その事実を鑑みず、フェムトはその全てをメルセデスに向けているのだからある意味才能の持ち腐れだなと男は思った。

「それでは行きましょう」

さっさとその場を後にして馬にのる準備をしに向かったフェムトの後ろで男は一人呟いた。

「本当、あれさえなければ良い上司なんだけどなー」と。












「あ、バレた」

突然前を歩くエンリッヒが呟いた声にメルセデスは顔を上げた。

「あら、思ったよりも早かったのね」
「ああ、どうも此方を張ってたみたいだな。あっさりバレたみたいだ」

ハトホルの観測台でメルセデスは一人で残り、荷を回収して戻ってきたエンリッヒと歩き出してまだ二時間も経ってない。

「どうしよう……。思ったよりも進んでなくない?」
「そりゃあ、完全な獣道だし、歩くのは今までの何倍も苦労する。それでもこれだけ荒れていたら痕跡も殆ど残らないから、運が良ければ気付かれる確率は少ない」
「それって運が悪かったら気付かれるってことよね?」
「…………」
「もう、不安になるからそんな怖いこと言わないで!」
「まあ、何とかするさ」

軽口を叩くエンリッヒの顔に汗が浮かんでいるのを見て、メルセデスは緊張を強めた。
いつも面倒を見てもらったいたエンリッヒに余裕が少なくなっている。
これからはますます自分一人でがんばらなけらばいけないことも増えていくのだろうと思うと、怖いとか不安だとか口にしたのは早計だったように思えた。

「エンリッヒ、私、頑張るわね」
「……頑張るなとは、いえないけど少しでも無理だと思うときは絶対止まって俺を待つんだ。いいな」

メルセデスがその言葉に頷くと、どこかで獣の遠吠えのような声が聞こえた。
野生の獣の声に緊張感を強めながらメルセデスは、気を引き締めて歩き出した。
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