泥の中の哲学

ガツキー

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第2話「笑ってるのは誰だ?」

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笑っているのは誰だったのか。
それは、誰にとっても身に覚えのある問いでありながら、誰ひとり答えられない問いでもある。

たとえば、あなたが泥をすするように生きている時、誰かが遠くで高笑いしていたとする。
その笑い声は、杭を打つ音にかき消されて聞こえない。
だが確かに、笑っていたのだ。
そして、あなたが気づいた時にはすでに、その誰かは“制度”と呼ばれる布団にくるまり、温かい飯を食っている。

俺――イナビカリ・ノ・サヌカイトは、その笑い声を探していた。
というのは格好をつけすぎか。
正確に言えば、俺はただ、生きていた。泥を踏み、働き、腐った芋をかじりながら、ひたすらに“杭の打てない日々”を延命していただけだ。

だが、あの日。
あのチャラ・ル・ヒヒンという奇妙な渡来人が現れた日から、すべては、ゆっくりと確実に狂い始めた。



「これは“市場”と申します」
そう言って、ヒヒンは広場の真ん中に布を広げた。
布の上には金属の釘、錆びた刃物、手のひらサイズの鏡、そしていくつかの鉄の鍬。
それらは俺たち“無地民”にとって、夢のような品々だった。

「これはお金が要りますの?」と誰かが聞いた。

ヒヒンは笑って言った。「いいえ、お米で結構です。米一升で、この鍬ひとつ」

誰もが顔を見合わせた。
米は、食うものだった。いや、地主に“納めるもの”だった。
だが今、その米で“所有”ができるらしい。
それはつまり、杭がなくても物を得られるということだ。
信じられなかった。けれど、その瞬間、村に新しいルールが吹き込まれた。

“笑っている者が得をする”という、古くて新しい掟だ。



最初にそれを受け入れたのは、あの地主の娘――ウルノメだった。
彼女は鮮やかな手つきで米袋を差し出し、鍬を二つ手に入れた。
その様子を見ていた父親は、何も言わず、ただ頷いた。
村の空気が変わる音がした。いや、空気には音なんてないのに、確かに“音”がした。

ヒヒンは、言葉巧みに村人たちに“鉄”の素晴らしさを説いた。
「この鍬を使えば、今までの三倍速で田が耕せます」
「刃物があれば、動物の皮も肉も骨ごと裁けます」
「市場ができれば、価値は言葉ではなく“数字”で語れるようになるのです」

そう言って、クメ帳の端に俺の名前らしきものを勝手に書き始めた。
「これで、あなたも“名”を持ちました」
笑っていた。ひどく明るく、目尻のシワまで快活だった。

だが俺は、その笑顔をどこかで見た気がした。
それは夢か、記憶か、もしくはただの既視感だったのか――。



次の日から、市場の周りには人が集まった。
鉄の鍬と引き換えに、米が流れる。鍬で田を耕せば、さらに米が取れる。
取れた米を売れば、また鍬が手に入る。
そんな“永久機関”のような幻想が村を包んだ。

そして、その幻想の中心で、笑っていた者がいた。

地主たちだった。
彼らは米を多く持ち、鍬をたくさん得て、労働を減らしていった。
代わりに働くのは、俺たちだ。
“鍬を借りる”という形で、働かされ、米を収め、また借金が増える。

「おまえ、今いくら借りてるかわかってるか?」
ある日、ナギサベがふと聞いてきた。

「知らん。どうせ帳に書かれてんだろ」

「帳ってのはな、人を“忘れさせる”ためにあるんだ」

「どういう意味だ?」

「人間は忘れる。だから書くんだ、って言うだろ? でも本当は、書くことで“自分では覚えなくていい”と思い込む。
そうすると、誰かが勝手に書き換えても、誰も気づかない。帳ってのは、便利な嘘の保管庫だよ」

その言葉に、俺は背筋が冷えた。
だが、それ以上に、周りの連中が黙って“納得”しているのが怖かった。

みんな、笑っていた。誰も、本当には笑っていなかった。



その晩、ナギサベが詩をひとつくれた。
「読め」と言うから仕方なく音読する。

鍬を持てば自由になると思った
鍬を持たねば飢えるだけだと思った
鍬を奪えば自分が杭になると思った
鍬を棄てたら、泥に戻ると思った

だから俺は、鍬を背負ったまま
泥の中で泣くことにした

「……なにが言いたいんだ?」

「別に。泣いてもいいってことだよ」
ナギサベは笑った。
本当に笑った。ヒヒンの笑いとは違った。
痛みをごまかすための、ささやかな防衛線だった。

俺はまだ、笑えなかった。
だがそれでも、心のどこかで、ようやく“問い”が芽生えた。

──笑ってるのは、誰だ?

それは俺か、あいつか、ヒヒンか。
杭を持たない者が笑うには、まだ泥が深すぎた。



三日後、俺は鉄の鍬を手に入れた。
ナギサベが自分の分を分けてくれたのだ。
「一緒に耕そう。未来ってのは、二人いないと始まらない」

俺は頷いた。
そして泥の上に鍬を振り下ろした。
ぐしゃり、と音がした。土が割れた。
それは杭ではなかった。ただの鍬跡だ。囲いにはならない。だが耕しにはなる。

それでいい。今はまだ、杭じゃなくていい。
そのうち、何かが芽吹くなら。

ヒヒンは今日も市場で笑っていた。
俺は泥の中で、小さくつぶやいた。

「笑ってるのは、誰だ?」

問いはまだ答えを持たず、ただ泥の上を漂っていた。
だが、次第に村全体がそれを“聞き始めて”いた。
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