泥の中の哲学

ガツキー

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第4話「祈る者は狩る者にあらず、たぶん」

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道などなかった。
獣の踏み跡すら、風にかき消されていた。
それでも、俺は歩いた。歩かされた。歩くしかなかった。

泥はもうとっくに乾き、足元にはぴしぴしとひび割れた稲の亡骸が転がっている。
季節は変わった。税は変わらない。
そして俺の地位も、変わらなかった。

「サヌカイト、おまえ狩猟村まで運搬頼まれてるぞ」
声をかけてきたのは、帳面係のスエナガ・ノ・タリナイだった。名前と同じく、だいたいいつも“足りてない”。

「なにを運ぶ?」

「交易分の塩と布。あっちは肉と骨で返すらしい。ナリワイタニの信用がかかってんだから、粗相すんなよ。
あいつら、野蛮だから」

「野蛮って、おまえら帳に名前あるやつらの方がよっぽど……」

「ん?」

「なんでもないよ。塩と布ね。了解。丁寧に“運ばせていただきます”」

かくして俺は、背負い袋ひとつに村の命運を詰め込まれて、狩猟民の村・シシノウへと旅立った。



シシノウ村は森の奥にある。
稲作の匂いがしない、風の音が違う、人の話し方もどこか丸い。
石を積んだ家、縄を巻いた柱、羽根飾りをつけた男たち――文明と呼べば怒られるかもしれないが、そこには確かに“営み”があった。

そして、彼女がいた。

名前は、ククノチ・ノ・アワヨヒメ。
狩猟民の巫女。若く、寡黙で、風の匂いがした。
挨拶をしても返事はない。だがこちらを見ている。
それは、俺のような男には慣れぬ視線だった。
恐れでも、軽蔑でも、憐れみでもない。ただ、まっすぐに“在る”ものを見る目だった。

「あなたが、サヌカイト」

初めて聞いた彼女の声は、風が木の葉に触れるようだった。

「そうだけど。……俺、泥まみれだよ。見ての通り」

「うん。泥の中のものは、神に近い」

「神? まさか、俺が?」

「神は下を歩く。杭を打たない。地面と同じ目線にいるから」

「……やめとけ、期待されるとプレッシャーで寝込む体質なんだ」

彼女はくすりと笑った。それは、俺がこの村で初めて聞いた笑いだった。
いや――人生で初めて、「意味を持たない笑い」を見たかもしれなかった。



滞在は三日だった。
俺は塩を渡し、骨を受け取り、記録係にハンコ代わりの“血痕”をもらった。
すべてが予定調和だったはずだ。

だが、俺は帰る前夜、彼女の祈りを見た。

それは踊りとも違った。歌でもなかった。
ひとり、風の通り道に立ち、手を広げ、何かに“在る”ことを差し出すような、そんな所作だった。

「アワヨヒメ……それ、誰にやってんの?」

「わからない」

「……は?」

「わからないものに祈るのが、祈りだと思う」

「それって、祈る意味あるのか?」

「あるかないかじゃなくて、するかしないか。
神がいるかいないかより、祈ることをやめたら“私が私でなくなる”から」

俺は何も言えなかった。
その夜、風がやけに暖かくて、俺の泥も少し乾いた気がした。



翌朝、出発の前、彼女が布の包みを差し出してきた。
中には干し肉と、赤土に染めた小さな石が一つ。

「これは?」

「お守り。たぶん効かない」

「じゃあなぜくれる」

「祈ったから」

それがすべてだった。理由も説明もなかった。
俺は、ありがとう、と言った。
彼女は微笑んだ。

それは言葉よりもはっきりと、“何か”を伝えていた。



ナリワイタニに戻ると、風の匂いはすっかり消えていた。
また帳面、また泥、また税。
いつもの日々が、何もなかった顔をして俺を迎えた。

「サヌカイト、今日から米の運搬もやれ。ついでに鍬の修理と、新しい杭打ち式の準備も」
命令は命令だった。俺は何も言わずに従った。

だが夜、干し肉をかじりながら、小さな赤い石を手に取った。
風は吹かなかった。だが、風が“いたこと”を、俺は思い出していた。

誰にも言わなかったが、あのときの彼女の祈りが、俺の中で何かを変えた。
泥に沈むだけの存在だった俺が、「何かを差し出す」という行為に、初めて意味を覚えたのだ。

祈る者は狩る者にあらず、たぶん。
だが俺は、祈られた者だった。
そしてきっと――これから、祈る者になる。

名もなく、杭も持たず、帳の外にいるこの俺が。
いちばん最初に、「なにも囲わない未来」を夢に見るとは、誰が想像しただろう。

答えは、たぶん、風の中にあった。
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