上 下
3 / 8

第2話 聖母じゃないマリア様

しおりを挟む
ユキエの職場はデイサービスの厨房家に帰っても、一人だ

お世辞にも出来が良いとは言えない愛息子は成人し家を出ている

時間とお金に自由の効く自営業の社長だった夫
その夫も3年前に、早期退職すると言い出し会社を畳み、会社の建物は人に貸した

本人は自給自足のエコ生活をすると言いだし山中に古家を買い、今では一月に一度、数日帰ってくる程度だ

帰っても寝ているか、出掛けている

エコ生活を始める前も、酒好きで人付き合いも好きな夫は日付が変わるまで帰っては来なかった

一切の連絡も無し

携帯に電話しても出たためしがない

どこで何をしているのやら、、、

呑み過ぎて記憶が曖昧らしい

酒の席に人を誘うのも好き
飲みに誘われると嬉しい
一度飲み始めると楽しい
翌日の仕事の事も、家庭がある事も、連絡をする事も忘れるほどに
酒に呑まれるようだ
そこには、筋も理屈もない

もう、悪びれもしない

こんな生活にすっかり慣れてしまった

これがユキエの当たり前の日常生活だ

時折り身体の奥底から湧き上がる、どうしようもない虚しさを除けば

結婚してからの数年間はどこで何をしているのか、連絡くらいして欲しいと、問い詰めた事もあったのだが、今ではそれもなくなった
深夜に急性の虫垂炎で七転八倒している時も夫に連絡が取れず、自分で救急車を呼び待っている間に、寝ている姑に起きてもらい息子の世話を頼んだ

私が何かしたのか?不満があるなら言って欲しいと言っても、
「別に~」
とだけしか返事は返ってはこなかった

夫からの熱烈ラブコールで付き合い始め、4年目でゴールイン、、、
神の前で誓ったではないか
健やかなる時も~慰めあい、共に助け合い、その命ある限り真心を尽くす事を、、、

茶番だ あれは茶番劇だった

今では夫婦だった事があったのか?とさえ思える

「なんで、結婚なんてしたの?」
と聞いても面倒くさそうにし
「・・・・・」
答えはない

「自由にしたいなら、離婚しようか!」
と聞いてみればポカンとして
「なんで? ユキエさんの好きにしたら」

これでは、前にも後ろにも進めない

夫の得意な言葉は
「全部、ユキエさんの好きなようにしたらいい」
「ユキエさんの言う通りにしているでしょう」

逆ギレだ 氷のように冷たい逆ギレ

私の名前に普段は付けない~さんを付けているのが、その証拠だ

全部?
誰の好きなように?
まともに会話にすらならないのに?

釣った魚にエサはやらないのか
嫁は無料の家政婦なのか
結婚は世間体なのか

女として妻として、人としても
完全になめられてる

他人より、遠い存在の夫

「夫君、結婚前は楽しくて優しい人だと思ったよ」
ささやかでも楽しい我が家にしたかった」

何がいけないんだろうと、自分を責めた事もあった
瞼が腫れて前が見えなくなるほど泣いた夜もあった
私なりに家事に育児にと努力もした
少しでも居心地のいい家にする為に頑張ったよ
でもね、いくら頑張っても1人じゃ作れないものだってあるでしょう

心の傷が目に見えるなら、もう私は傷だらけだ

もう若くもないし可愛げがない事も知ってる

いつの間にか性格も捻くれた

夫とはケンカにもならない
いつも一方的に私がイライラとするだけだった

一度も手を挙げられた事もない
だが夫は言葉や態度も暴力になるとは、露ほども思ってはいないのだ
同居の夫の両親が天に召されるまでは、まだ良かった
もう今は夫の言動を注意してくれる人も誰一人、
いなくなってしまった

神様、どうか迷える子羊を救ってください
神様、どうかお願いです

祈っても心のモヤモヤは残ったままだった

当然だが神に祈り、お願いするだけで全ての問題が解決するなら人に悩みなんて一つもなくなるだろう


人生ってこんなもの?

久しぶりに、ユキエの脳に溢れた疑問符

もう一本、缶ビールを開ける
プシュと音をたてながら、缶から泡が吹き出した
水面がキラキラ光っている
夜空を見上げれば、お月様

今夜は満月だ
まんまるの月を見ていると
大丈夫、大丈夫
君は充分頑張ったよ、もう頑張らなくていいよ
と言われているようだ
ユキエの眼から、透明の液体が溢れ落ちた

我慢のし過ぎかな、頑張り過ぎたかなぁ、
馬鹿だよ私
「バカヤロー、我慢したり、頑張るのが悪いか」

靴を脱ぎ、勢いで川に足を入れてみる
「うー冷たいー」

夏でも山からの雪解け水は冷たい
「もういいよ、終わりにしよう、ユキエ」

調子に乗って膝下まで水に入った所で
ザバァンという音と同時に水飛沫が上がった
直後、ガツンと暗闇に鈍い音が響く
川底の苔で滑って、転んだのだった
「あ痛ったー」
頭からずぶ濡れだ
後頭部に大きなタンコブも出来ている

転ぶ瞬間、周りの風景がコマおくりのようにゆっくと変わっていった
これが噂に聞いた、事故の瞬間がスローモーションで見えるってやつ!?
「本当にスローモーションだよ!アッハハハハハ」
なんだか急に笑いが込み上げてきた

すぐに体が冷えてきた
「ウーッ寒むい」
このまま家に帰るか
面倒だが職場に戻って着替えるかの二択だ
「どうしようかなぁ」

振り返ると職場が見える
「事務所の明かり、まだついてるな、、、」

 ユキエ 53才

ハローデイサービス
厨房
そこが私の職場だ

その他にご利用者様がいるフロア担当の介護職員と緊急に備えての看護師、送迎車の運転手と事務員だ
正社員数名と殆どがパート職員だ

ユキエは髪から雫を垂らしながら職場に到着した
玄関のドアは自動ドアだが、今の時間帯は電源が切ってあり手動で開ける
濡れた靴で床を汚さないように、レジ袋に靴を突っ込み先を急いだ

靴用ロッカーにはマリアの靴があった

「こんな時間までマリアさんは残業か」
マリアはデイサービスの介護職員
正社員だ
テキパキとうごく働き者
ご利用者様の評判もいい
家族は夫と高校生双子姉妹の良き母だと聞いている

マリアはイタリア好きで、ベルサーチ風スカーフが組み合わさった様な柄のフレアスカートに、黒のニットアンサンブルの組み合わせがお気に入りだ

当然だが、洒落ているか?、そうではないのか?は見る人のセンスや好みによって意見も様々である

デイサービスでの職員同士の評判も、人によっては様々だ
マリアは
心に寄り添ってくれるからありがたいと言う人
食わせ者だから信用出来ないと言う人
私は完全に後者だ

マリアは表の顔は聖母のようだが、実は陰険だ

「ユキエさん、お疲れ様です今日も頑張っていますね。厨房で何か困り事はないですか?」
いつものように、笑顔でマリアが声をかけてくる

「今のところないです大丈夫でーす!ありがとうござます」
危ない危ない
ここで何か言ったら話が湾曲されて伝わるからウッカリ相談なんか出来ないよ

ここは早目に退散しなくてはと厨房へ向かおうとした瞬間、マリアが話し始めた
「そう言えば、また厨房のシフトが急に交換になったとか、、彼女、子供が熱出したからって急にシフト変わってとか今月何回目?それにしてもユキエさんも毎回大変でしょう」とマリアが続ける

(また始まったか)とユキエは思う

「子供が小さいうちは急な発熱は、よくある事なので急なシフト交換でも私なら大丈夫ですよ」とユキエは返事をした
(さぁ、退散、退散)
厨房の方向へ向いても、マリアは続ける

「一応耳に入れておいた方が、今後の為だと思ってね、、、この間の急な交換の事だけど、、、」
マリアは大袈裟にため息をつきながら
「彼女、子供の急病って事だったけど、本当に急病だったのかなと思ったのー親子で普通に街を歩いていたし、そのあと公園で遊んでたのを見かたから」

(一体何が言いたいの?)
ユキエは思いつつも、逃げられないなら、うんうんと否定も肯定もせずに黙って聞いておく事にした

「そう言えばユキエさんに厨房内の業務をもう少し負担して貰えないかって、、イベント食の事ね、、
ご飯の水加減っていうのかしら、ユキエさんが炊くと柔らかいってね~やり方は皆んな一緒よね?指定されてるし、、
あとは、ユキエさんが片付けに時間がかかり過ぎてるんじゃないかって思ってるみたい、、ほら、彼女大雑把な所があるから」
とマリアが畳みかけて来る
「自分の事は棚に上げて、他人には要求が多い人が相手で、、ユキエさんの苦労わかるわ~」
マリアが眉根にシワを寄せて、また大きくため息をついた

ユキエはマリアの話を聞いているうちに、腹が立つを通り越し頭痛がしてきた

ストレス性の偏頭痛だ

マリア、厨房チームを仲違いさせたいの?
問題がある時はその都度、話しあってますよ
急なシフト交換!?ご飯の炊き方!?片付けが遅い!?
ご利用様への提供に問題が無かったらいいでしょう?それにマリア、フロア担当の職員でしょう?
厨房職員じゃあないでしょうが!!

ユキエ、、、我慢だ
マリアにのせられるな、
ここは女優になるんだ!
私は女優!!私は女優!と自分に言い聞かせる 

「そうだったんですね~業務の件は後で確認しておきます!
お休みは、、車も自転車もないって言っていたから徒歩で病院へ行ったんじゃないかなぁ?
うーん、、、おんぶするには大きいし、、
あの距離をタクシー使うには近すぎるし
すぐに元気になって公園で遊べたならそれはそれでいいと思いますよー子供は元気が一番!!マリアさんだってそう思いますよね?」満面の笑みで返す

「もうユキエさんったら、お人好し過ぎーフフフ」

「そんな事ないですよ~マリアさんこそ~ウフフ」

これじゃあまるで、キツネとタヌキの化かし合いだ


ユキエはロッカールームへ向かう途中、事務所の前を通りかかった
ドアが半開きになっていて、中からはひそひそと話し声が聞こえる
1人じゃなかったのか
廊下側の小窓からマリアが視界に入った
声をかけようとドアに近づいた瞬間、もう1人の顔が見えた

外国人の男!?

ユキエは突差に小窓の下に身を隠した
マリアも男もユキエには気がついてはいない

あの外国人、見覚えがある
「確か、、名前は何とかチェスコだったような」

男はは昨年の、敬老会レクリエーションショーのフラメンコダンサーと共に来たフラメンコギタリストだった

ユキエはもう一度、事務所を覗いてみる
男の名前は思い出せない、、

ギタリストの何とかチェスコだからギタンチェスコとでも呼んでおこう

マリアは潤んだ恋する乙女の眼差しをギタンチェスコに向け、頬を紅く染めている
ギタンチェスコもマリアの髪を指で撫でながら、
イタリア語らしき言語で語りかけている
恋のささやきなんだろ
だかユキエには呪いの呪文のようにも聞こえる

マリアがイタリア好きなのは、男込みだったのか
職場で不倫密会、大胆だ

ギタンチェスコの第一印象は、長く伸ばした髪でジプシーテイスト満載の外国人

後でイタリア人だと知った
イタリア人のフラメンコギタリスト?スペイン人ではなくて?と疑問に思ったのだが、どうやらフラメンコダンサーが恋人だったらしい
その時は、恋人のためのフラメンコギターかと妙に納得したのをユキエは覚えていた

あのフラメンコダンサーの恋人とはどうなっているのだろう、、、別れたのか?
いつの間に、2人はこのような関係になったのか?
もしマリアが駆け落ちでもしたら、マリアの夫や娘達はどうなるのだろう?そんな考えが走馬灯のようにぐるぐると頭の中を巡った

ユキエは2人に見つからない様に、身を屈めてそっと事務所の前を通り抜けロッカールームへ向かった

ロッカールームでも音を立てないように細心の注意を払い手早く着替えを済ませ2人が帰るのを待った

「気まずいな~面倒くさいよ、まったくもう」
独り言が出る

帰るには、またあの事務所の前を通るしかない、、、
お願い帰って、お願いしますから、、

しばらくしてユキエは覚悟を決め、ロッカールームのドアそっと開けた
暗い、よし、明かりは消えている

(ヒィーーーッ)

白目の女がこちらを向いている
口は半開きでヨダレまで垂らしている

ユキエは動けなかった 腰に力が入らない
自分の口を必死に押さえた

よく見ると、白目の女はマリアだった

2人は事務所から目の前の廊下に移動していたのだ

情事に夢中な2人にはユキエのお叫びは聞こえてなかったのが不幸中の幸だった

ロッカールームのドアが静かに閉まった

「ビックリしたわー」心底驚いた
(ホラーだ)

「ハアーー心臓に悪いわ、何でこっちにいるのよ」
ユキエは胸に手を当て呼吸を整えた

アウトだ!  脱出不可能

マリア、ギタンチェスコ、他でやっておくれ

これじゃあ、ここから出られないよ

ドア1枚で隔てられた廊下
ギタンチェスコの激しい愛のフラメンコ演奏と
マリアのフラメンコダンスが繰り広げられている

こんな事なら、隠れずに挨拶しておくのだったと後悔したりもしたのだが、、、

後になってからマリアの言い訳に付き合うのは正直言ってウンザリなのだ
だからこそ見たくもなかっし、知りたくもなかった
ユキエは他人の色恋沙汰には興味はない
だか、女が多い職場は噂話しの宝庫だ
何かと面倒事も多い
余計な事には関わらないのが一番なのだ

「はあー、私、何やってんだろう」

1分1秒が長く感じられる
寒い 眠い 疲れた 早く帰りたい

タンコブもズキズキと痛む
危なく、オフィーリア状態で流されるところだった
ところでハムレットってどこの国の話しだったか?

いつまで待てばいいんだ
イタリア人ってスタミナ旺盛だなぁ、、、

そうだ、河原に置きっ放しになっているゴミも待って帰らないと、、、

荷物はどこに置いたっけ、、、

明日は仕事が休みでよかった、、、

猛烈な眠気が襲ってくる中、ユキエはそんな事を考えていた


初夏の夜明けは早い

白々と空が明るくなり始めた頃、備品用具室からフラフラと憔悴しきった様子の女が出てきた

ユキエはまだ知らない

昨晩、ここにもう1人いた事を
しおりを挟む

処理中です...