瞼の裏のアクアリウム

七夕ねむり

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宇宙飛行へ誘う

宇宙飛行へ誘う

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「昔、宇宙で大きなクラゲに乗ったことがあるんですよ」
 それは数十年前のことだった。俺たちはたわいもない話をしていた。確か仕事が休みの土曜日だったと記憶している。珍しく続いた休日に弥生やよいはひどく喜んで、雑誌をめくって付箋を貼っていた。どこがいいかと二人でああでもない、こうでもないと悩むのは存外楽しくて久しぶりの感覚だった。最近話題の映画、新しく出来たハンバーガー店、百貨店など、弥生は嬉々として俺に説明した。その口ぶりから楽しさが伝わってきて、あまりにも熱を入れて話すものだから俺は彼女に茶を勧めたのだったか。
 そしてひとしきり外出計画を立てた彼女は、にこにことこちらへ向き直って、俺が差し出した麦茶をぐっと飲んだ。麦茶ということは、あれは夏のことだったのだろう。
「あのね、健吾けんごさん」
 弥生は機嫌が良いことを隠しもせず、目尻をきゅうと下げてこちらを見遣った。
「どうしたんだ」
 己の言葉足らずを実感しながら問う。彼女は俺の無愛想な言葉に気を悪くする素振りも見せず、両手のひらに柔らかな頬を乗せて口を開いた。
「昔、宇宙で大きなクラゲに乗ったことがあるんですよ」
 ぱっと日めくりを見た。それがその頃すでに浸透していたエイプリルフールという日ではなかったことは覚えている。俺は目の前の彼女の瞳をじっと見る。その瞳は決して豪華とは言えない電球の明かりをきらきらと真っ直ぐに映し、輝いていた。大きな丸い瞳は俺を揶揄う素振りなどなく、ただ懐かしむように光っている。
「昔ね、本当にうんと子供の頃の話なのですけど。こーんなに大きな宇宙でクラゲに乗ったんです。周りの星たちがきらきらとあちこちに散らばっていて、私の乗っているクラゲさんはうんと透き通る色をしていて。クラゲってどこもかしこも透明でしょう?でもね、全然違うんです。そのクラゲさんは私が知っているどのクラゲよりも透明で美しくて、その透明越しに見る夜空の星々もまた息を呑むくらい綺麗だったんです」
 彼女は早口に捲し立てると、ふっと息を吐いてまた麦茶をこくりと飲んだ。俺は彼女の話を聞きながらまるで夢物語みたいだな、と思ったりしていた。もちろん口には出さなかったが。
「なんて、信じませんか?」
 しかしそう言って、悪戯っぽく笑う彼女が嘘をついているとは思えないのも本音だった。
「お前は俺を、揶揄ったりするつもりで話したんじゃないんだろう?」
 最後の確認をしてみると、くすくすと笑い声が返ってくる。
「弥生」
 嗜めるように彼女の名前を呼ぶ。大切なところで茶化してしまうのが彼女の悪い癖だった。しかし、そう言ったユーモアは自分に全くなかったものだったので、そんな彼女に惹かれたのも事実だった。
「健吾さん。私があなたに嘘をついたこと、あると思う?」
 風鈴のように澄んだ声が俺の名を呼んだ。そうなのだ、妻の弥生は冗談は好んだが嘘は言わない女なのだった。
「いや」
 尋ねたのは彼女の方であったのに、弥生は飴玉のように丸い目をぱちくりと見開いた。
「お前は素晴らしいものを見たんだな」
 一拍遅れて彼女はふっと息を吐いた。
「ええ、そうなの。私、とっても素敵な体験をしたの」
「……そうか」
 俺はすぐに言葉が出て来ず、結局なんの変哲もない相槌を打った。そんな俺に弥生は頬を緩めて、ゆっくり頷く。てっきりいつものごとく言葉が少ないと揶揄われるかと思ったが、弥生はそれ以上何も言わなかった。
 彼女から向けられる眼差しが柔くてくすぐったい。俺は少し熱くなる耳を冷まそうと、麦茶を煽った。


 季節は春より少し手前。薄手の羽織を引っ掛けて玄関の鍵を閉める。腕時計を見るとまだ十時半だった。指定の時間よりも随分早く陽の下に出た俺は、とりあえず駅に向かう。朝刊は読み尽くしてしまった。本も新しいものは一通り弥生の元へ持って行ってしまったので、古いものに目を通したが分かりきった結末は時間潰しにはならなかった。
 こんな時いつもどうしていたのだったか。そうだ、弥生がいつも連れ出してくれたのだった。サラリーマンの舞台から数年前に降りた自分の世界は、常に妻が広げてくれていた。
 〝新しいパン屋さんが出来たんですって〟
 〝有名な美術展がやってるの〟
 〝今日のお買い物は荷物が多いから、手伝ってくださいな〟
 そうやって、あの手この手で特に趣味らしい趣味もない自分を連れ出してくれていたのだった。太陽がよく似合う笑顔は、昔と変わらない。皺の数が多くなろうと、髪が白くなろうと、彼女は昔から俺がまだ知らない新しい場所に連れて行ってくれるのだった。
 まあ、そんな彼女も今は隣町の病院のベッドに横たわっているわけだが。全く可笑しいものだ。少しぐらいのかすり傷ではへこたれない彼女が、こんなことになってしまうとは。紙袋を手に下げて、ゆっくりと坂道を下る。面会時間はもう始まっていた。すぐにこのまま病院に行ってしまうことは簡単だった。いつも通りの順路である。しかし俺はとある理由で、真っ直ぐ病院に向かうことが出来ずにいた。
 つい先週のことだ。妻は開始早々に受付を済ませた俺をなんとも言い難い表情で見た。珍しくひどく真面目な顔をしていた。一瞬のことだった。彼女の顔つきは、すぐに花が咲いたように明るくなった。
 ぽつぽつと話すたわいもない会話に心地の良い相槌が響く。そんな繰り返しで時計はあっという間に前進した。洗い物をまとめ、腰を上げる。面会時間の終了アナウンスが鳴り響いた直後だった。彼女はぽつりと言ったのだ。
「私が居なくなったらどうするんですか」
 その時、俺は白いベッドに横たわった妻が少し痩せたことにやっと気づいた。彼女の眉がハの字に下がる。健吾さん、と我儘な子供をあやすような声で俺の名前を呼んだ。
「弥生」
「あなたのことが心配なんですよ」
 陰った笑みだった。少しだけ霞んだ目を強く押す。
「縁起でもないことを言うんじゃない」
 背中にのし掛かった暗闇に心臓を掴まれた気がした。喉から出た声はとても低かった。
「ええ、そうね。ごめんなさい」
 恐る恐る顔を上げる。さっきの表情はもうすっかり消えていた。
「私、意地悪言っちゃいました」
 その声はいつも通りの揶揄う妻の声だった。でも何故だろう。唐突に不安に襲われたのは。こんなにも心許なく思ってしまったのは。
「あなたも何か素敵なものに出会ってくださいね」
「そんなもの、この歳になって見つけられるものか」
 反射的に口にしてしまった言葉だった。しまった、きつく言い過ぎた。謝ろうと息を吸った時だった。
「じゃあ私とゲームをしましょうか」
 彼女はまた俺が理解できないことを口にする。まあ平素より弥生の言うことがすぐに理解できたことなど、ほぼ無かったのだが。
「あなたが何か素敵なものを見つけるゲームよ」
 潜ませながらも弾んだ声が、四人部屋に静かに落ちる。
「次に私の病室に来る時は、あなたが見つけた素敵なものを教えてくださいな」
「そんなの、見舞いの方が大事に決まってるだろう」
 声を潜められなくなった俺を見て、弥生はまた茶化すように笑う。
「大体あなたは大袈裟なんです。どうせまた元気になったら私があちらこちらに連れ回すのだから、気分転換だと思って。そうね、それか私の我儘を聞いてあげると思ってくださいな」
 うっと喉まで出かけた言葉を飲んだ。昔と変わらないきらきらした瞳。その目で見られると俺は弱い。
「ね、可愛い妻の我儘よ」
 駄目押しの一手だった。
「可愛いなんて自分で言うんじゃない」
 俺はそう答えるのに一杯一杯で、結局妻に押し負けてしまったのだった。制限時間は一週間後の午後三時。決まりは至極簡単だった。
「楽しみにしていますね」
 なんとも晴れやかな笑顔に見送られて、今日で一週間が経った。あれやこれやと雑誌を漁ったり、新聞を読み込んだりしてみたが、妻が言う〝素敵なもの〟探しは今現在も難航していた。

「次は、水白駅、水白駅」
 ガタゴトと電車に揺られる。アナウンスが降車駅を告げた。隣駅までは約五分。水白駅は木造を継ぎ接ぎした、昔ながらの小さな駅だ。うちの駅とたった五分隔てただけの距離にもかかわらず、蔦が忍び寄っている駅舎は何度見ても古めかしい印象を与える。昼間だけいる駅員へ会釈し、改札を通った。遠くで春の匂いがする。まだ風は冷たいというのに。太陽はすっかり上りきっていて、舗装された道に濃い影を映し出している。駅から病院まで真っ直ぐ行けば、十五分ほどだ。
 俺はいつも右に曲がる道を左に曲がることにした。制限時間まであと少し。せっかくならば、あの大きな瞳がきらきらと輝くところを見たい。自分で思ったことであるのに、俺は他人事のように、腑抜けたものだなと可笑しくなった。それが満更でもないのが、なかなかに厄介だなと思う。
 突き当たりの角を左手に曲がり、そのまま真っ直ぐ真っ直ぐ進む。何もない小さな町だと思っていたが、道なりに進んで行くと意外にも店がぽつん、ぽつんとあった。昔ながらの駄菓子屋、金物屋に日用品店。だが真昼間に人通りはほぼ無く、通りを歩いているのは俺一人だった。通り過ぎた店の店主らしき男が、欠伸を漏らしていた。どうやらどの店も客はいないようだった。
 僅かにあった店も目に入らなくなり、住宅街を通り抜けた時だった。大きな水色のドーム型と鉢合わせた。鉢合わせると言うよりは目が合った、と言う方が正しいかもしれない。ところどころペンキの禿げた、色とりどりのイルカたちが遠目でも目立っていた。俺の背丈を遥かに超えるコンクリートの壁を通り抜けたところにそれはあった。大きなドーム型の真下はガラスの扉になっている。はて、これはなんだろうか。首を傾げて思わず立ち止まる。
 〝水白水族館へ、ようこそ〟褪せた看板が目に入る。こんなところに水族館? はて、耳にしたこともなかったが。
「おや、これはこれは。どうぞいらっしゃいませ、お客様」
 飄々とした声が風に乗って届いた。声のした方へ振り向くと、真っ黒の制服を着た背の高い男が立っていた。歳は自分より二十ほど若いだろうか。灰色がかった髪は少しの風では全く乱れない。落ち着いた声を差し出して、その男は深々とお辞儀をしてみせた。
「いや、私はたまたま立ち寄っただけでして」
 決まり悪くなり、こほんと一つ咳を漏らす。
「君の言う客ではなくて、すまない」
 きょとんとした顔で目を見開いた彼は、納得したようにぽんと手を打つ。
「まあ、それは失礼致しました。私、てっきりお客様だと勘違いをしておりまして」
 その時ぶわりと一陣、風が吹いた。足元を掬い上げるような強い風だった。
「今日は良いお天気ですね」
 目の前の男は含みを持った笑みで俺を見る。
「ああ、よく晴れていますね」
「この近くにお住まいですか?」
「いや、隣の駅に住んでおります。妻の見舞いまでの時間潰しでして」
 まさかその土産話に困り果て、散策していたなど口に出来ず曖昧な言葉で繋ぐ。
「なるほど、なるほど」
 男は一人で何かを納得したように頷く。まるで言葉にしなかった俺の心の中を覗いたような面持ちだった。
「まあ、これもご縁なのでしょう」
「……? 何か仰られましたか? この歳になると耳も遠くなるようでね」
 男の言葉を拾いきれずそう言うと、彼は首を振った。
「いえいえ、こちらの話です。ところで旦那様、少しばかりお時間をお持ちと仰ってましたね?」
 ずい、と音もなく男の顔が近づいた。男に言うことではないかもしれないが、近くで見ると男は大変整った顔をしていた。切長の目尻に、すっと通った鼻筋。そして柔らかな弧を描く、形の良い唇。
「はあ……」
 ぱん、と手を打つ音が耳に届いた。男が両手を合わせて、じっと俺の顔を覗く。顔というより目、だろうか。
「では当館にお越しになられてはいかがしょう? ああ、申し遅れました。私、水白水族館の支配人を務めております紫野ゆかりのと申します」
 切長の目がきゅっと細められる。その様は狐の目にもよく似ている気がした。もちろん、狐と目を合わせたことなど一度もない。
「いや……さすがにもうそういう歳ではないのでね。せっかく誘って下さったのに申し訳ありませんが」
 弥生が居れば違った返答をしたかもしれないが。頭の中に一筋浮かんだ考えに、また妻のことを考えている自分に気がついた。俺はこんなにも時間を使うのが下手くそな人間だったろうか。
「お探しのものは見つかるはずですが、それでもやはりお帰りになりますか?」
 来た道を引き返そうと心の中で思った時だった。静かな声が、やけに大きく聞こえた。そして心臓がどっと音を立てる。今、この男は何と言った?
「探しもの、と仰いましたかな?」
「ええ、そうです。あなたの探しものがきっと見つかるはずとお伝えしたのです」
 男は口に含んだ笑みを隠しもせず、どこか愉しそうな声でそう言った。
「水族館に大人も子供もありませんよ」
 にっこりと彼の目元が弧を描く。ぐらぐらと揺れる俺の気持ちを後押しするように。
「……少しだけ、寄らせていただけますか」
 舌の上に乗せた言葉を、男はあらかじめ知っていたみたいにくすりと笑った。
「当館の展示は、それはそれは素晴らしいのですよ」
 と胸を張って語る。差し出された手のひらの方へ足を進める。すれ違った時、入り口のイルカとまた目が合った。禿げかけのペンキに負けない、愛らしい目が歓迎してくれているようだった。

「改めまして、ようこそお越しくださいました。古い建物ですが、どうぞごゆっくりお楽しみください」
 紫野支配人は、綺麗に腰からお辞儀をした。受付で買ったチケットの半券をポケットに押し込む。俺は先ほどの彼の言葉を口にする。
「私の探しものはどこにあるのでしょう?」
 ゆっくりと直立に戻った彼は、にこりと笑った。
「それはどうか、ご自身で」
 切長の目尻が半月より細く歪められる。どこか含みのある笑みだった。ここで彼に詰め寄ることも出来なくはなかったが、何故だかそうする気にはなれなかった。
 渡されたパンフレットを開いて、現在地を確認する。なるほど、入り口には〝空を泳ぐ水魚たち〟、少し奥へ進むと〝涙の海〟、突き当たりまで行くと吹き抜けの広間である〝待ち合わせの光〟へと続いているらしい。
「随分とユニークな名前をつけておいでですね」
 まさかタイトル通りの生き物を展示されているわけがあるまい。美しい名前に喩えられたそれらを見て思わず言葉が溢れる。
「ここが創業して以来、当館は沢山の珍しい生き物を展示しておりまして。出来ることならばその美しさを余すことなく表現しようと思い、ありのままの名前をつけることにしているのです」
 紫野支配人は無邪気な声でそう言った。ついさっき目にした笑みなど無かったもののようだった。
「ありのままの? まさか涙の海や人魚の水槽が本当にあるまいし」
 こちらの言葉に頷いておきながら、彼は肯定も否定もしなかった。
「それはお客様の目で直接お確かめいただければよろしいかと」
 てんで答えになっていなかった。どうやら彼は少し変わっているらしい。溜め息を吐きたくなったがそれも失礼だと思い、誤魔化すように咳払いをする。
「では、ゆっくり見て回ることにします」
 少しだけ、ほんの少しだけ、彼の前から離れる寸前肌が泡立つ感覚がした。まるで目に見えないおどろおどろしさに捕まってしまったような、けれど不快感とまではいかない不思議な感覚だった。
 そういえば喉が渇いた気がする。自販機の場所を尋ねようと足を止めて振り返る。しかしそこに彼はもう居なかった。いつの間に居なくなったのだろう。足音がした記憶はなかった。俺も耳が遠くなったものだ。自販機はおいおい探すことにしよう。
 再び視線をパンフレットに落とす。簡単な地図のみのそれは、シンプルで飾り気がない。
「さて、見て回るとするか」
 静かな空間に自分の声だけがよく響いた。まるで他の客などいないような閑散ぶりに、ここの経営は大丈夫なのだろうかと勝手に余計なことを考える。いや、平日の真昼間はこんなものなのだろうか? なにせ水族館など片手で数えるほどしか行ったことがない。それ以上は深く考えないようにして、薄暗い館内につま先を落とした。


 飛び交う水飛沫、降り注ぐ日光、そして不釣り合いな観客席。やはり、というかなんというか。あれから館内をぐるりと見て回ったにもかかわらず、客はほとんどいなかった。大音量で響き渡る音楽と振りまかれるトレーナーの笑顔が物悲しくさえある。真っ青なベンチに腰を下ろした。散歩で歩き回ることには慣れていたが、少し疲れつつあったのだ。若い頃の歩き疲れた感覚とはまた違った疲れだった。慎重に身体に伺いを立てなければならないような、そういう種類の疲れだ。
 イルカショーはまだ始まったところであるらしく、トレーナーの女性とペアのイルカが元気に挨拶をしているところだった。愛くるしい黒目が彼女を見つめてキュッと鳴いた。インストラクターの合図に合わせて跳ねたり、尾を器用に動かしてまるでダンスをしているように泳ぐ。その度に飛ぶ水飛沫は冷たくて、最前列から三列目ぐらいまでのベンチはびっしょりと濡れていた。入り口からのオブジェといい、この水族館の目玉なのだろうが、ここまで人が居ないと可哀想ですらある。きっと沢山練習したであろうに。
 開始の時と同じ元気の良さでトレーナーが挨拶をし、イルカとともに首を垂れる。そこでショーは締めくくられた。笑顔で去っていく姿にぱらぱらと拍手が起こる。俺も手を叩く。そう言えば何かを見て拍手をするなんて、久方ぶりだなとぼんやり思った。休憩がてらに寄ったショーだと言ってしまえば身も蓋もないが、彼女たちのショーは素晴らしいものだった。そうだ、弥生に土産を買って行こう。腕時計に視線を落とそうとした時だった。
「楽しんでいただけていますか?」
 落ち着いた声がして隣を振り返る。耳にしたことのある、男の声だった。
「紫野支配人」
 隣に掛けられた音もしなかった。いつの間に隣に居たのだろうか。
「当館のイルカショーは気に入っていただけましたでしょうか」
 気づけば辺りは紫野支配人と俺しか居なかった。空っぽになったベンチを眺めて頷く。
「素晴らしいショーでした。イルカは賢いですね」
 客がもっといれば良かったのに。そう思うぐらいに生き生きとしたショーだった。俺の言葉を聞いた途端、紫野支配人の目は子供のように無邪気になる。
「そうでしょう、そうでしょう! 彼らはとても賢い。私たちの言葉を理解し、協力してくれるのです」
 息巻く彼の勢いに頬がすっと緩んだ。
「協力、ですか。あなたは面白いことを言いなさる。しかし、確かにそうなのかもしれませんな」
 そう口にしながら、この水族館の生き物たちを思い浮かべる。入り口付近の小さな魚、暗闇に潜む深海魚、吹き抜け大水槽の大小様々な水魚たち。彼らは全てただの鑑賞用として生きてはいなかった。
「紫野支配人はここの生き物たちが好きですか」
 何気なく口をついて出た言葉だった。こんなに愛情を持って接している人間に尋ねるのは野暮だったろう。
「あの」
「好きですよ」
 質問を取り下げようとした時だった。間髪入れずに彼は答えた。
「あの子たちは私の宝物なのです」
 あの子たちという言葉が誰を指すのかは聞かなくてもわかった。彼の目は穏やかな春の日のような光を宿している。
「まあしかし残念なことが一つあるとするならば」
 彼はじっと俺を見つめた。一瞬前とは打って変わり、悪戯をした少年のような表情をする。
「ここの全てをご覧いただけないことでしょうかね」
 目前でぱちん、とウインクが弾けた。いい歳をした男のウインクなど見れたものではないはずなのに、何故か不快感は全くなかった。見目の優れた男は歳に不相応なことをしても、受け入れられやすいというのは案外本当なのかもしれない。
「すべて?」
 意味ありげに微笑む鋭い瞳を眺める。しかし、答えはどこにも書いていないようである。
「全て、です」
 彼は肯定とともに頷き、それからちらりと明後日の方に視線を彷徨わせる。彼の意図することはまるで理解が出来なかった。順路通りに見物してきたつもりだが、違う道順があったのだろうか。それともあれだろうか。一部屋だけ立ち入り禁止の札が立っていた部屋、あの展示のことを言っているのだろうか。もとより、この会話で彼が答えを示す気など無いような気もしたが。
「お客様、入り口の展示はご覧になりましたか?」
「ああ、小さな魚が空ごとに分けられていて趣向が凝らされていたな」
「でしたら、大水槽の手前の展示はいかがでした?」
「ん? あそこは立ち入り禁止となっていただろう?」
 それから彼は俺が辿ってきたルートの展示をいくつか質問し、なるほどと呟いた。まるで何かの答え合わせをしているかのように。
「そろそろお暇することにするよ」
 なにやら真面目な顔をして黙ってしまった彼に告げる。そういえば彼以外の従業員の姿はあまり見かけなかったと思う。まるで自身が全ての世話をしている素振りだったが……まさかな。
「ありがとうございました。楽しかったです」
 彼に声は届いていないようだった。あまりにも真剣な横顔だ。俺はそれ以上続く言葉が思いつかずに、紙袋を持ち上げる。支配人ともなれば一客に時間を割いている暇など無いだろう。
「そうか……なるほど」
 顎に手を当てていた紫野支配人は何かが腑に落ちたように呟いた。俺の紙袋を持ち上げた手がぐっと掴まれる。彼はゆっくりとした動作で俺を見上げる。一瞬、金色の瞳孔が見えたような錯覚に陥る。風に乗って塩素の香りがした。誰も居なくなったステージの前で、小さな海が揺れる音だけがする。冴えわたった、真っ直ぐな声で彼は言葉を紡いだ。彼がそっと手を離す。

「やはりあなたは、あの子をお探しだったのですね」

 彼がその言葉を発した途端、ベンチに落ちる影の色が変わった。ざぱん、と硝子に打ちつける波の音が大きくなる。足元の影がどんどん濃くなっていく。
「私としたことがうっかりしていました」
 すっきりとした声がする。空を見上げる彼につられるように視線を上げると、青空が広がっていたはずの場所には班に濃紺が垂れていた。ぽたりと一滴落とされた絵の具が混ざるように。
「…………」
 呼吸を飲んで、じわりじわりと染み出る色をただ眺めていた。交わる薄紫を塗り替えていくその色を。
「紫野支配人、これは……なんだ?」
 頭の上で葡萄ジュースをこぼしたような色がみるみる混ざってゆく。辺りはあっという間に濃紺に満たされた。ステージを照らしていた光もない今は、数え切れないほどの星だけが唯一の明かりだ。そして、その光は決して弱くはなかった。目の前の彼のゆるやかな微笑がはっきりと見えたのだから。
「なにって、夜を呼んだのです」
 かつてこれほど人の言葉を理解できなかったことがあったろうか。紫野支配人の、この男の言っていることが寸分たりともわからない。しかし見上げた空を、足元に紛れて探すことの出来ない影を疑うことも出来なかった。
「少し驚かせてしまいました。ですが、あの子に会うのであればこの方が良いのです」
 しばしお待ちを。そう言って、品良く整えられた笑みが不気味だった。俺はこの男を初めて気味が悪いと思う。その感覚は今思えば、ここに足を踏み入れた時の微かなざわめきとよく似ていた。
「もう少々お待ち下さい」
 ぽかんとした俺を置いたまま、彼はまた笑った。にやりという音が似合う笑みだった。俺はこんな時であるのに、愉しそうに笑うこの男の本性はこちらなのではないかと考える。
「これは……?」
「更に驚かせてしまいますがご容赦を」
 こちらの言葉を打ち止めて、彼がそっと手招きする。途端にステージ前の水槽の波が大きくなる。最初は少しずつ。やがてそれはに高いガラスの塀を越える。
「水が! こちらに来ます!」
 俺はたまらず声を張り上げる。こんなの、こちらに流れてきてしまえばどうしようもない。決して広いと言えない観客席はあっという間に水浸しだろう。
「いいのですよ、それで」
 ざばんとまた大きな音がした。ガラスの塀を容易く飛び越えた水が、観客席の段差をものともせず侵食してくる。爪先に水が届いたと思うと、もう次の瞬間には足首にまで届こうとしていた。はくはくと言葉が空を切る。心臓の音だけが耳を塞ぐ。このままでは、このままでは。そう思うのが早かったのか遅かったのか。俺は同じ経験をした人がいれば聞いてみたい。
 とにかく、気がつけば俺は海にいた。観客席の形をした海だ。
 息をしなければ。でもどうやって? 俺は死ぬのか、まだ弥生の見舞いにも行けていないのに。多分そんなことを考えた気がする。もしくはなにも考えられなかったかもしれない。浮遊する身体、伸ばした腕、そして目の端には紫野支配人の視線。幼い子供を見つめるような柔らかな視線をもう恐ろしいとは思わない。それだけが知覚できる情報だった。
「落ち着いてください、お客様」
 やけに澄んだ音が聞こえる。
「これが落ち着いてられるか!」
 荒い声が喉元を震わせた。
「…………」
 そう、息さえできないはずの水中で、自分の声が確かに大きく響き渡ったのだ。
「落ち着いてください。クレームは後で承りますので」
 彼はそう言ってしっと唇に指を当てる。
「大きく息を吸って、吐いてください。なに、五分前と変わりません。あなたは足を付けて、立てます。もちろん呼吸をすることだって」
 言われた通りにコンクリートの地面に、浮いた足を付ける。肺いっぱいに空気を吸う。存在するはずのない空気を。しかしどこを探してもないはずのそれは、確かに身体を巡り始める。
「……君は、何者なんだ」
 どくどくと跳ねる心臓を押さえながら、それだけを尋ねた。この際身を持って体験しているおかしな出来事は諦めよう。多分全てはこの男が握っているのだから。
「それより今はこちらの方が大事では?」
 頭の遥か上まで昇りきった水が微かに揺らぐ。見逃してしまいそうなほど微かな揺らぎだった。ぐっと目を凝らすと、はじめに視界に入ったのは糸のような細長い透明だった。そしてそれはやがてくっきりと姿を表した。
 背丈は自分と同じぐらい、星空をそのまま映しこむ透明さ。それは大きなクラゲだった。それも並外れて大きく透明なクラゲ。
「この子があなたの探しものではないですか?」
 それは握手でもするかのように、数の多い足の一つを差し出す。思わずびくりと震えた俺を、紫野支配人は下から見上げた。いつの間にか彼は少し乱れた襟を正し、イルカショーを見る客のようにプラスチックのベンチに腰掛けているのだった。
「大丈夫です、電気を持っていたりはしませんよ。ああもちろん毒も」
 何も大丈夫ではないが、彼は頷き俺を促した。いきなり目の前に現れた未知の生物に恐怖心を抱かない人間などいるだろうか。クラゲの主食はなんだったか。プランクトンやそんなものだったらいいが。いやそうに違いない。身体を這い回る恐ろしさは確かなものだった。しかしそれを上回る好奇心が指先へと流れる。
 クラゲの透明な全身は、夜空をそのまま飲み込んだようだった。時折波立つ風景で、目の前にクラゲがいるのだとわかる。知っている限りで一番透き通ったそいつは、まるで透明人間のようなクラゲだった。そっと足を浮かしてみる。水中独特の浮遊感に身を任せる。目の前の景色がぐらりと揺れた。そして次の瞬間には、丸く広がる透明に腰を掛けていた。
「うわ」
 自分がさっきまで視界の真ん中に佇んでいたクラゲの傘に乗っているとわかったのは、それがゆっくりと水中を漂い出してからだった。
 すいすいと音のしないロケットのように、きらきらと星の落ちる水中を泳ぐ。頭上に広がる水越しに見える星屑が掴めそうに近い。まるで宇宙にでも揺蕩っている心地だ。
「その子はね、ソラウミクラゲというのです」
 姿勢良くベンチに腰を掛けたまま、紫野支配人は満足そうに微笑む。
「ソラウミクラゲは夜の海を好みます。気性は穏やかで優しく、人間のことがとても好きなのです。ですが残念なことにひどく人見知りでもありまして。人の多い場所では滅多に姿を現してくれません。ですから昼間はなかなか出てこられず、そっと姿を隠しているんですよ」
「ソラウミクラゲ……」
 俺は今知ったばかりの生き物の名前を口に出す。もちろんそんな名前は聞いたことがない。彼がでたらめを言っているのではないかと疑うことは容易かった。
「その子が私以外の人間に懐くのは珍しいのですが。これも巡り合わせなのでしょう」
 しかし頬を緩めて我が子を慈しむようなまなざしに、嘘はない気がした。だいたい疑うというのであれば、今己が目に映しているこの状況こそ疑うべきなのだ。だが、それもまた違う気がした。
 そうして俺は思い出した。あの随分と前の妻の話を。宇宙でクラゲに乗ったことがある。あの日、彼女はそう言った。今ならわかる。弥生は本当に、ありのままを俺に話していたのだ。彼女は確かに宇宙でクラゲに乗っていた。すとんと胸の中に違和感は飲み込まれていく。ああそうか、君はこのことを言っていたのか。
 そのまましばらく俺とクラゲは誰もいない観客席の海を、ゆっくりゆっくりと泳いでいた。満点の星が伸びる宇宙を、ただゆっくりと。恐らく彼女が何十年も前に目にした景色を焼き付ける。少しでもこの美しさを、長く覚えていられるように。
 そろりと伸ばした手で薄い傘に触れてみる。つるりとした感触に、ああ本当に存在しているのだとおかしなことを考える。肌を通り過ぎていく水がひたすらに心地よかった。体中に宇宙の輝きを浴びる。可能な呼吸さえ忘れるほどの美しい星が、瞼を閉じてもきらきらと瞬いているようだった。


「お客様、お客様」
 揺り起こされる振動で目が覚めた。目が覚めた、ということは俺は眠っていたのだろうか。真面目に考えれば馬鹿らしくなるくらいおかしな夢を見た気がする。それにしてもこんな所で寝こけてしまうなんて、情けない。そうだ、水族館に来ていたのだった。確かイルカショーを見終わって、そこからの記憶が曖昧だ。外で居眠りなどここ最近した覚えがない。珍しく歩き回ったからだろうか。
「失礼、年寄りはこれだからいけませんな」
 よいしょと声をかけて起き上がる。慣れない姿勢で眠ったからだろうか、背中や腰が痛かった。
「こんなに良いお天気だと昼寝も気持ちがいいですが、お風邪を召されてはいけません」
 この人は、ああ支配人の紫野さんと言ったか。胸元で反射しているプレートに目を凝らす。
「すみません紫野支配人。お手数を掛けまして」
 しかし最近のイルカショーは水飛沫がすごいのだな。足元を見る。コンクリートの地面は前列と同様に色を変えていた。
「いえいえ。館内は暖かくしておりますのでどうかお入りくださいませ」
 観客席にはもう、誰も残っていなかった。随分と寝こけていたらしい。館内に戻ると、ほどよい暖房の温度が身体を包む。
「この後はどこに向かわれますか?」
 腕時計を見ると、短針は限りなく三に近くなっている。
「土産を見てお暇しようと思います。妻の見舞いに行くところでして」
 ポケットを探る。折り畳まれたパンフレットを広げる。どうやら適当にポケットに入れたのが駄目だったらしい。四つ折りに折り畳んだそれは、紙同士が所々くっついてしまっていた。
「……やはり、そうでしたか」
 その時、低くゆっくりとした呟きが耳に届いた。
「さすがに土産ぐらい買ってやりたいと思いまして」
 パンフレットに視線を彷徨わせる俺を見かねて、彼が右の方を指差した。
「売店は出口付近にございますよ」
 礼を言って彼に背を向ける。そこまで大きくない建物だ、迷わずに着けるだろう。とんとんと腰を叩く。それにしても全身が筋肉痛のように軋む。これは湿布だな。
「お客様」
 先ほどまで穏やかだった声が、少しの張りを持って背中を追いかけてきた。はて。何か落としたのだろうか。呼び止める声に振り返った。客は他にもいただろうが、今この場にいるのは自分だけだ。
「弥生様によろしくお伝えください」
 次に落とされた声は初めて話した時と変わらない声音だった。その声と共に頭の中に目まぐるしく情報が流れ込んできた。塩素の匂い、波の音、つるりとした感触、そして独特の浮遊感と目に刺さるような眩しい星々。
 あれは、あの出来事は夢ではなかったのか。
「…………伝えます、必ず」
 深々と腰から折られるお辞儀に、今度こそ背を向ける。彼の髪が少しだけ湿っているような気がした。開きかけた口を閉じる。彼に聞きたいことは沢山あったが、きっとどれも尋ねるべきではないのだろう。
 出口に向かって歩いていくと、小さな売店があった。詰め合わせのクッキーや、マスコットキャラクターのキーホルダーを眺める。やはり予想した通りだった。クラゲの商品はどこにも見当たらなかった。イルカの小さな置き物を持ってレジへ向かう。あの真っ白な部屋に似合いそうな青いイルカだった。
 出口のガラス扉を押し、外に出る。なぜだか久しぶりに新しい空気を吸った気持ちになる。携帯電話を取り出して三コール。間もなく折り返された着信を取る。
「もしもし」
 電話の向こうで、元気な声が聞こえた。今から見舞いに行く旨を伝えると、ただの骨折なのに大袈裟ねと呆れた言葉が紡がれる。
「ねえ、約束は守ってもらえそうかしら?」
 揶揄うような、期待を隠しきれないような音が涼やかに響く。こういうところは出会った頃と変わらない。本当に、変わらないのだ。
「ああ。とっておきの話がある」
 今すぐ話したくて、そのくせ今まさに目を輝かせているであろう妻を諌める。俺の話を聞いて、彼女がどんな顔をするのかそれを早く知りたくて。年甲斐もなく、足を速めた。後で一番よく効く湿布を貼っておかねばならない、などと思いながら。

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