【百合】海を隔てて

七夕ねむり

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海を隔てて

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 今日は海へ行く約束してるんだ。桃香ももかは嬉しそうに笑みを溢した。
「で、なんで私に電話かけてきてるわけ」
 自分の這いずるような低い声が、熱されたアスファルトに染み込む。
 だって待ってる間暇なんだもん。
 イヤフォンから聞こえる声は本当に困っているようには思えない。私はスマホをポケットに突っ込んで、地面を蹴った。イヤホンだけは桃香と繋いだままだ。
 放課後の海って憧れてたんだよね。夕方とかさ、なんかいい感じじゃない?
 ワントーン高くなった声が頭に響く。私はさっき確認したばかりの場所を思い出しながらペダルを漕いだ。
「夏の海なんてあっついだけじゃん。夕方とかもう湿気すごいよ?」
 けらけら笑うと、私の声に応えるように向かい風が吹いた。頭上は張り切った太陽がまだまだ頑張っているようで、こめかみを汗がぽたりと伝う。
 好きな人といく海なんて最高! の間違いでしょ!
 イヤホン越しの声は、勢いよく私の意見を真っ向から否定した。
「あっそ。まあ仲が良いのは美しきことかなって言うからいいんじゃん」
 かなってなんだっけ。古典で習った気がするけど忘れた。私はそんなことを考えながらぶわっと時折広がるプリーツスカートを押さえた。
 膝丈の規則を守った丈は、自転車を漕ぐのに最適だ、といつも思う。夏物のはずなのに野暮ったくて重い生地も、サドルの熱から身を守ってくれると思えばまあいいかと思える。
 五分前だ! ね、今日の髪型変じゃなかった?
「変じゃないない。かわいかったよ」
 急に揺れる声にそう返した。今日の桃香は新しい色のリップを塗っていて。ゆるりと結んだポニーテールには、風に靡く軽い薄桃色のリボン。隣を通ると甘い人工的な香りがした。
 ねえ、ほんとに変じゃない? かわいい?
 甘ったれた高い声に、わざとらしくため息を吐く。
「はいはい、かわいいよ」
 もう、まためんどくさそうにそういうこと言うじゃん。
 鏡を見ながら膨れっ面をする彼女が目に浮かぶ。そんな顔もかわいいってこと、私は知ってるけど。空気を肺に送り込む。わずかに香る潮の匂いが少しずつ厚みを増してゆく。
「かわいいから、大丈夫だよ」
 ありがと。
 小さく落とされた音。きっと自分でねだって恥ずかしくなってるんだろうなとすぐにわかった。そんなことも私ならわかるのに。
 あ、やっと来た。付き合ってくれてありがとうね。
 桃香は内緒話をするみたいに、少しだけボリュームを下げて声を吹き込む。
 ところで風の音すごいんだけどいちご今どこにいるの?
 吹き付ける潮風が私の髪を攫って、頬を打って通り過ぎて行く。遠目ではきらきらと輝く水面を見ながら、大きな声で叫んだ。
「海!」
 隣町の海に行くって桃香が言ってた時から決めていた。私はこっちの、薄汚くて人気もない地元の海に来ようって。
 驚いた声を聞き届けてから、私は自転車を止めて画面をタップした。私と桃香を繋ぐ電波は今、切られた。
 スタンドを蹴りながら、リュックを漁る。ルーズリーフに書いたそれはすぐに発掘されてしまった。
 石で固められた階段を降りる。子供の時よりも苦労しなくても降りれるようになったことが少しだけかなしかった。ベージュの絨毯みたいな砂を踏む。
 近くで見る海は、やっぱりあまり綺麗じゃなかった。おまけに平日の夕方。浜辺には私以外誰もいない。聞こえるのはスカートを揺らす風と、穏やかに寄せて返す波の音だけ。
 私は握りしめた紙切れをそっと開いて、太陽に透かしてみる。私の汚い感情が乗った手紙は、真夏の日光なんかじゃ綺麗にならないようだった。
 ざぱん、ざぱん。波の音だけが優しかった。実りもしない恋なんて、おまけに今時ラブレターなんて、笑える。
 私は波の音に任せて、ルーズリーフをびりびりと破いた。びりびり、ざぱんざぱん。
 細かくちぎった恋情は、熱された砂の上に落ちる。私は全部落とし切って、風に流される欠片を目で追った。たちまち遠くまで飛んでいった欠片は瞬く間に見えなくなった。
 しゃがんで足元に落ちた残骸の上に砂を被せる。風に攫ってもらえなかった紙切れの上にこれでもかと砂を盛る。
 きっとこの紙切れもいつかは誰かの足で踏み躙られて、文字なんて潰れて見えなくなる。それから海水でどろどろになってこの砂と同じ色になるかもしれない。
 でも、この強い潮風に攫われていった欠片たちは、もしかしたら。
 一週間後、一ヶ月後、一年後、もしかしたら。
 誰かが違う海で見つけてくれるかもしれない。それはあなたの目に私のものだと知られずに流れ着くかもしれない、なんて。
 私は少しずつ近づいてくる橙色を見上げる。首から下げたタオルで額を拭った。スニーカーに入った砂が急に煩わしくなる。
 帰り道のことを考える。サドルはきっと熱を帯びている。それでもここから流れていった熱よりも、ここに埋めた心よりもずっとましなはずだと馬鹿げたことを思った。
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