旦那さまは吸血鬼につき

木村

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第一話 同居

01

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「いい匂いがする」

 ゴウゴウ室外機が煩くて汚水の匂いと鉄の匂いに満ちた裏路地で『妙なことを言う人だなあ』と思いながら、私は彼の胸にもたれていた。
 私の頭にその高い鼻をつけて深呼吸をしてから、彼は口を開いた。

、俺の家とお前の家どっちがいい?」
「なにが?」
「住むの」
「住むの?」

 私が顔を上げると、不思議そうに彼は首を傾げた。そんなわざとらしいジェスチャーするなんて異国の人だなあ、と私は思った。

「お前、俺と生きていくんだよな?」
「うん」
俺の家とお前の家どっちがいい?」

 私は無理して借りている自分の家を思い浮かべた。月八万、管理費一万、広さは二十平米、コンロは一口だけど、都心にあることと宅配ボックスと二十四時間ごみが捨てられることは気に入っている。そんな小さな私のお城。

「私の家にあなた、入れるかしら……」
俺の家だ。今すぐ管理会社に電話して『退去します』って言え」
「え?」

 彼は私の腰に手を回して、またキスをした。でも今度はしっとりとしたキスだ。彼の唇は柔らかく湿り熱を帯び、私の唇を甘く食む。それから彼は私を見下ろした。赤い瞳が闇の中、爛々と輝いている。
 少し怖かったけれど、私は彼の首に腕を回した。彼は私を拒まなかったから、私は少し嬉しかった。

「きみ、あったかいね」
「……ン?」
「さっきまで冷たかったのに」
「ああ、……血が染みて服が冷たい。早く帰りたい。俺の家に、……俺たちの家に帰ろう。いいな?」

 血まみれで私に迫る男の顔をじっと眺めて、ふと気がついた。

「……お前はもう俺のものなんだ。拒むことは許さない」

 この鼻の形がとても好みなのだ。

「えい」
「うわ」

 だからその可愛い鼻にキスをした。彼は驚いたように目を開いて、それから笑った。

「お前、変なの」
「変なの、嫌い?」
「……嫌いじゃない」
「よかった」

 私は管理会社に電話をかけて、留守電に退去する旨を残した。明日にはかけ直してくれるだろう。彼は嬉しそうにニコニコしながら、私の電話を聞いていた。その笑顔にキスをすればクスクスと彼は笑った。その笑顔も好みだ。

「……ねえ、きみ、名前はなあに?」
「戸籍がないんだよ」
「誰が?」
「俺が」

 ただ名前を聞きたかっただけなのに大変な問題が出てきてしまった。私が睨むと彼は不思議そうに首をかしげる。

「戸籍がないと結婚できないじゃない。なのに結婚するなんて言ったの?」
「あ」
「きみ、嘘つきなの? 私は家まで解約したのに……」
「イヤ、嘘ではない。ただ俺の戸籍は仮のものというか、俺のものじゃないんだ。……言ってる意味わかるか?」
「……わかった」
「本当か?」
「つまりきみはヤクザさんなのね?」
「なにがわかったんだよ。違うよ」

 彼は困ったように笑った。

「仮にそうだったとしてもな……ヤクザに向かってそんなこと言っちゃだめだぞ。どんな目に遭うか……危機感を持ちなさい」
「危機感? ……そんなの持ってたらきみの家に帰らないよ?」
「……たしかに。じゃあそれはいいや……まあ、名前なんかどうでもいいだろう? お前は俺のもので、俺はお前のものだ」

 彼は嬉しそうに「お前のものだよ」と繰り返した。――彼は私のもの――その響きが甘くて、ならいいかしらと許してあげたくなってしまった。私が苦笑すると、彼はにんまりと笑った。

煙草はやめてくれるよな?」
?」

 彼は私にキスをした。
 触れて離れる、猫の戯れのようなキスの後、彼は大袈裟に顔をしかめた。

「キスがまずいんだよ。だからやめてくれる?」
「やめたことがないから出来るかわからない」
「……素直だなあ」
「でも頑張ってみるね」
「うん、ありがとう」

 彼はにこりと笑ってから大きく伸びをした。その腹は血にまみれていたけれど、もう新しい血をこぼしてはいないようだった。彼は立ち上がり、私の手をとって引き起こしてくれた。足元の血だまりからは鉄の匂いがしている。
 私は煙草とライターを室外機の上に置いて『ばいばい私のニコチン』と思った。

「帰るよ、俺の大事なお前」
「あら、素敵な言い方」

 彼は私の手を恭しく取った。手の甲にキスをする仕草が大袈裟で『素敵な私の異邦人だ』と嬉しくなって、彼の手を握り返した。
 腐った匂いの満ちている裏路地で、互いの名前も知らないまま、私たちはまるで神様に愛を誓うみたいに、またキスをした。
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