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2.檻の外で始める生活
17.潰れた希望
しおりを挟む家に帰った灯がダイニングルームに入ると、なんとも言えない良い匂いが漂ってきた。
「初めての匂いかも。シチューっぽい」
くんくんと鼻を動かしながら灯は呟く。
「ラムのシチューだよ。トルコ料理」
キッチンから響一郎は顔を出す。
響一郎はリネンのチェック地のシャツに黒いパンツ、それにデニムのエプロンを合わせた服装である。
響一郎は料理のときには必ずエプロンを身に着ける。
数週間前に灯が切った響一郎の髪が少し伸びて顔に掛かっているのもどことなく色っぽいな、と灯は思ってしまう。
「響ちゃん、すごいなぁ。俺とはメニューのスケールが違う」
灯は席に着く。
響一郎は皿にナスのペーストを乗せたものにシチューを掛けて、ピラフと一緒に灯の前に置く。
「『皇帝のお気に入り』だよ。召し上がれ」
「ありがとう」
灯はスプーンで一口食べて唸る。
「食べたことないはずなのに、懐かしい美味しさだなぁ。濃厚……」
響一郎も料理の自分の分を持って灯の正面の席に着く。ニコニコ笑って言う。
「これで言い難い報告できる?」
「えっ……?」」
「灯、何か怖い顔しているよ? 貴崎さんに何か言われたの?」
灯は驚く。
自分の心は希望でいっぱいなのに、響一郎の目からはそういう風には見えなかったようだ。
灯はみどりに言われたことを響一郎に伝える。
灯は正直過ぎるところがあり、みどりが響一郎について言った言葉も、自分が言った言葉も全部伝えてしまう。
響一郎はテーブルに肘を突き、手に顎を乗せて考え込む。
「『負け犬のα』ねぇ……」
灯は慌ててフォローする。
「いや、貴崎さんは響ちゃんのことが分かってないだけだよ。次会ったときはちゃんと響ちゃんがΩだってこと分かってもらうから」
響一郎は首を振る。
「貴崎さんが提示したΩの条件に俺は入っていないじゃないか。今回の件はこれで終わりだ」
元管理職らしいドライな声で響一郎は言う。
みどりのように生きたいという希望が潰れ、灯はカッとなる。
「そんな簡単に言うなよ! 貴崎さんに助けてもらえば、こんな生活から抜け出せるんだよ? 響ちゃんももっと本気出して考えろよ!」
つい声を荒げてしまう。
響一郎は冷たい目で灯を見つめる。
「別に俺は灯が1人でA国に行ってくれて構わないよ。今よりずっと自由で幸せな生活が手に入るだろうし……」
灯はショックを受ける。
「そんな……今更。俺は響ちゃんが必要なのに、響ちゃんは俺が必要じゃないんだ……」
響一郎は少し熱の戻った、悲しげな目で灯を見る。
「俺だって灯が必要だよ。でも、それとこれとは話は別だ。俺のことを『負け犬のα』とか言って、灯との関係のことまで否定してくるヤツに媚びるくらいなら、死んだ方がマシだ
「死んだ方がマシ……」
響一郎が最近まで自殺を考えていたのは知っているから灯は聞き流せない。
「俺だって、貴崎さんが言うような、灯の足を引っ張っても平気なαになんてなりたくない。俺は可哀想なんかじゃない。今は迷惑しか掛けていないけど、灯を思う気持ちは誰にも負けない。灯は俺のことなんて気にしないでA国に行ってくれ」
言いたいことは沢山あるが響一郎に届くとは思えない。灯は口をつぐむ。
「俺は元番のαとして灯を応援するよ」
そう言った響一郎は、食事を始める。
灯も食事を再開したが、懐かしいと思った味がよそよそしい味に思えて仕方がない。
響一郎と灯との間に見えない壁が築かれたことを悟った。
数日間、灯は響一郎に腹が立って仕方がなかった。
なぜ2人でA国に行けるようにみどりに働きかけないのか、灯には理解ができなかった。
多少嫌な思いはするだろうが、自分との生活のためにはそれくらいしてくれても良いと思った。
Ωであるみどりに頭を下げたくないという元αのプライドなのだろうか、と考えると許せなくなった。
……しかし、みどりと出会ったときの鮮烈な印象が薄れるにつれ、灯の頭も冷静になってきた。
みどりは響一郎に対し、冷淡な言葉で終始突き放していた。
というか、完全に悪意を持った言葉を使って灯に響一郎を捨てるようにけしかけていた……
「負け犬のα」、「可哀想なα」と言っただけならば、響一郎はまだみどりを許せていたのかもしれない。
みどりは灯に対する思いまでも否定した。自分のために灯に世話させている、と決めつけた。
それは響一郎にとって決定的な言葉だっただろう。
みどりは同時に灯のことも「負け犬のαに尽くすΩ」と言った。
別に灯は響一郎のために今の暮らしをしているわけではないのに……
段々、灯はみどりの方に腹が立ってきた。
そんなみどりに憧れていた自分にも腹が立ってきた。
俺はなんであんな人のことを尊敬してしまっていたのだろう……?
俺の一番大切な人から俺を離そうとしていたのに……
俺が一番大切な人のことを思う気持ちも否定したのに……
会話は少なくなってしまったが、響一郎は決して灯に冷たく接するようになったわけではなかった。
今まで通りに話しかけたり、冗談を言ったりした。
そして、毎朝のように「貴崎さんに連絡した?」と聞いた。
それが灯にはたまらなく辛かった。
響一郎は落ち着いた声でこう言った。
「いつでもA国に行ってくれ。俺のことは気にせずに……灯に頼らずに隠れるツテはあるから……」
「ツテ」について灯は聞く気になれない。
ただ、響一郎は灯に頼らずに生きていこうとしていること、それが灯への愛情故だということは分かる。
灯は自分の愚かさを後悔した。
みどりと会った日から1週間経った後、灯は黄丸に電話をし、A国には行かないと貴崎さんに伝えて欲しい、と言った。
その後、灯は住んでいるビルから歩いて20分程の激安スーパーでたっぷり買いだめをした。
あまり黄丸の世話にもなりたくないし、頻繁に行って顔が知られるのもマズいから、という理由で、いつも1週間分の食料を灯は買いだめしている。響一郎から渡されたリストのものも買う。
店の外の置き場にカートを戻して帰るとき、灯は建物のガラスに映る自分の姿を見た。
両手にいっぱいの食料が入った袋を提げて、相変わらず丸まった背中の小柄の男がそこにいた。
目立たないように、服装も地味だ。
でも、灯はそんな自分も悪くない、と思った。
貴崎さんみたいになりたいと思ったけれど……
俺はやっぱり響ちゃんと一緒にいたいな……
灯は今日の夕飯の献立を考えながら帰った。
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