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 死刑になりたくて人を殺したり殺そうとする人が絶えないため、複数の人が「犯罪を犯さなくても希望した人が全員死刑になれる社会にしよう」と声を上げた。

 人々の輪はどんどん大きくなって、デモになったり、政治家を応援したりして、日本中を巻き込んでいった。
 反対意見も大きかったが、希望を持った人々は諦めず、粘り強く戦ったので、賛同者の数で飲み込んだ。


 そして、ついに「希望者全員死刑」の社会が実現した。
 自己申告で死刑が執行されるようになり、市役所には死刑課ができ、専用の施設がたくさん作られた。それでも、希望者は絶えず、予約は数年後まで埋まっていた。
 ここまでが最近10年ほどの日本の動きだ。

 この制度の導入が議論されていた頃、僕は世間知らずの大学生で、何でそういう制度を望む人がたくさんいるのか分からなかった。
 でも、実際に法律ができて、制度が施行される頃には僕も社会人になり、そういう制度を必要とする人もいるのだな、ということが薄々分かってきた。

 死にたい人にわざわざ死刑を希望させるなんて大げさだし、罪も犯していないのに残酷だ、自殺幇助を非犯罪化して自殺を助けることを進めていく方が良いのでは?と思ったこともある。
 でも、後には僕も、死刑の方が良いのだな、ということを納得した。


 人は誰かに何かを思われながら死にたいのだ。
 流されていく死、ゴミのような死ではない……
 死刑は世に溢れる大量の死よりも色が付いている、罪という味付けがされている。
 なんの意味のない死よりも、死刑を自ら希望して受けるという、意味あり気な死を望む。
 そういう気持ちを抱く人もいるのだ、と僕は思うようになった。



 死刑制度が始まって3年経った頃。
 家族3人で夕食を食べているとき、思い詰めた顔で食事に箸を付けていなかった弟の真白が、覚悟を決めた表情で言った。
「俺、明日会社休んで死刑課に行くよ」
 母親の体から力が抜け、茶碗が皿の上に落ちて大きな音を立て、箸が床に散らばる。拾うこともできず、震えている。

真白ましろ今何て?」
 落ち着きが戻るように僕は箸を拾い、母親の代わりに弟に聞く。

「だから、死刑課に行くんだよ、明日……」
「何言ってるの? 真白、あんたはまだそんな歳じゃない」
 母親の声は体と同様に震えている。

「年は関係ない。俺よりも若い人だって沢山希望して死刑になってる」
 癒し系キャラでボケたことを言って周りを和ませる弟が、今は落ち着いた様子で話をする。
「それは本当に辛いことがあった人でしょう? あんたは昨年やっと大学卒業して就職もしたのに……」
「うん、したよ。就職がゴールと思って就職して、会社員生活にも慣れて……でも、分かったんだよ、ここで終わるのが一番だって」
「何が分かったのよ? たかが社会人生活2年目の24歳が?!」
 母親の声が大きくなる。弟に負けないように努めて冷静さを保とうとはしているが、必死さがむき出しだ。


「何も分かってはいないけど、これだけは嫌でも分かるよ……自分は社会人として無能なんだって」
 沈黙が一瞬流れる。否定しなくてはと口を開こうとする母親を制して弟が続ける。
「良いんだよ。母さんはよく助けてくれたよ。でも、もう俺は母さんを頼るような年齢じゃないし、働いて周りに迷惑をかけ続ける人生も嫌だ……どうしたって、僕が働くことによって周囲はフォローしないといけなくて、余計な負担をかけてしまう……俺はマイナス人間なんだよ。それは、仕方ない。せめて、俺は自分のことをちゃんと分かっている人間でいたいし、そのためにもちゃんと自分の終わりを決めたいんだよ」

 大人らしく堂々と話す弟の姿を見て、はっきりとした弟の意思が見える話を聞いて、母親の目から涙が溢れる。
「でも、でも……別に今の会社じゃなくても良いじゃない。転職すれば……」
「母さん、覚えてるだろ? 俺は母さんの勧めで学生時代色々なバイトをしたじゃないか。そこでも俺はまともに働けなかったし、何回もクビになっただろ? 俺がどこかで働く度にマイナスを喰らう周りの人間が生まれるんだよ。今の会社に滑り込めたのも母さんと一緒に戦略練って騙し討ちしたようなものだし、また同じことして騙して被害を与えたくないんだよ」
 母親に助けられ続けているはずの弟が、今は子供を諭すような口調で母親に語りかける。

 母親は納得できずに叫ぶ。
「それなら働かなくても良いじゃない? 何もしなくで良いから母さんと暮らしたら?」
 弟も痺れを切らして叫ぶ。
「そういうわけにもいかないだろ? 母さん、分かってくれよ。もう決めたんだよ!」 
 弟は目を閉じて母親をシャットアウトする。母親は泣き出す。
「なんで……ずっと……大事に育ててきたのに……」


「母さん」
 僕は助け舟を出す。母さんの側へ行って跪き、その両手を僕の両手で包む。
「母さんの気持ちは分かる。でも、真白はもう、1人の大人の男なんだよ」
 母親は涙で覆われた顔を僕に向ける。

「母さんも、俺も、真白が赤ん坊の頃からいっぱい心配してきたよね? うまく行きそうと思ってはまた問題が起きて……不登校から高校に入学したときとか、それでも留年して転校してやっと卒業したときとか、大学に入学したときとか、就職したときとか、節目ごとにいっぱい喜んだよね? でも、それは全部、真白が自分で乗り越えてきたんだよ。真白は、もう自分の生き方を自分で決めて実行できるんだ」
蒼生あおいが言いたいのはつまり、真白はもう大人だから、決めたことは受け入れろということなの? それが例え、死ぬということでも……」
 返事しようとするが、隙を与えずに母親は責める。
「あんた、ちょっと冷酷過ぎじゃない? 確かに、あんたは私や真白と違って昔から優秀だったけど、人として根本の部分は違わないと思ってた。家族の命さえ『大人の判断』で諦められることが賢いってことなの?! あんたってそんな、人間味のない子だったの?」

 ヒートアップする母親に合わせて、僕も大きめの声で答える。
「そうじゃないよ、母さん! 俺は母さんや真白と少しも違わないよ。俺だって、家族のことを大切に思ってる。真白のことだって…だった1人の弟でずっと一緒だったんだから……だから、ただ生きているだけじゃなくて、命よりも大事なことを真白には守って欲しいんだ」
 母親は胡散臭そうに僕を見る。
「命よりも大事なものって何よ?」
 僕は優しい顔つきを心がけて母親の顔を見る。
「プライド、かな。プライドって良くない意味で使われることもあるけど、本当に大事なプライドもあるんだよ。人は1人じゃ生きていけない、社会的な生き物で…生まれてからずっと家族とか学校の人とかの周りに教育されて、それで『こういう風に生きていきたいなぁ』っていう、生き方の根っこを作っていくんだよ。その根っこがプライドなんだよね。根っこが腐ると木は枯れてしまうように、プライドが守れないと人は生きていけない……ただ心臓が動いているだけの死人になってしまうんだよ」

 はあっ、と母親はため息を吐く。
「頭良い人の考えてることって全然分からないな」
「俺は分かるよ」
 弟の方を見ると、さっきまでの顔とは変わっている。いつも通りの優しい笑顔。
「俺は兄ちゃんと違って賢くないけど、今聴いて、それ! 俺の思ったこと!って思ったよ」
 弟の笑顔がさらに崩れ、泣きそうになる。
「俺は兄ちゃんみたいな人の弟で幸せだなぁ。生まれた時からずっと助けてもらってたもん…絶対に許されないようなヘマをしても絶対に俺を否定しなかった。さすがに今日のは否定されるかなぁって思っていたけど…やっぱり兄ちゃんなんだなぁ」
「真白……」

 弟の表情がまた変わる。
「でも、今日はもう兄ちゃんの助けはいらないからね。俺が母さんを説得するからね」
 有無を言わせない意志の強い表情を見て、真白は本当に大人になったんだな、と思った。


 翌日、縋る母親を振りほどくようにして、弟は市役所に行った。
 帰ってきて、言う。
「明日に決まった。運が良かったよ。キャンセルが出たって」
「え? 最低2年待ちって聞いたけど?」
 錯乱する母親に、弟は丁寧に説明した。

 死刑希望制度という名で行われる死刑には2種類ある。
 実際に罪を犯して死刑判決を受けた死刑囚と同じやり方で行う絞首刑と、苦痛を最小限にするように配慮された薬物注射による死刑がある。
 断然人気があるのが薬物注射であり、予約人数も多く、キャンセル待ちの制度もある。
 逆に、絞首刑は人気がなく、キャンセル待ちの制度も整備されていなくて、希望者が市役所に来たときにたまたまキャンセルによる空きがあれば申し込めるらしい。

 弟は説明だけすると自分の部屋に帰ってしまい、そのまま朝まで外に出なかった。


 翌日、僕たちは執行所に出かけた。
 見た目はそれとは分からない、公民館みたいな建物だった。

 書類を書いて、最後の確認をする。その後、執行までの間、家族と最後のお別れをする。
 弟の希望で、3人全員ではなく、母親と僕、1人ずつが部屋に呼ばれる。もう3人で過ごすことはない。


 最初に母親が呼ばれる。2時間も出てこなくて、職員の人が「時間来ちゃいますんで、お声かけさせてもらいますね」と部屋に入る。
 数分後、職員の人に支えられるようにして消耗しきった母親が出てくる。椅子に崩れるように座った母親は何も言わない。
「申し訳ありませんが、10分でお願いします」と職員さんに言われる。


 部屋に入ると、普通の家のリビングみたいな部屋があり、真ん中に2人掛けのテーブルと椅子があった。そこの一つに弟は座っている。
「母さんをなだめるの大変だった……揺らぎそうになったけど、耐えたよ」
 弟は疲れた顔で笑う。

「真白……」
 何か言わなければ、と思うが言葉が出ない。それでも、言葉を出そうとする。
「真白……なんでお前が……死なないといけないんだ?」
 言ってはいけないことを言ってしまう。

 一昨日、自分は弟の決断を全力で肯定したのに、今更何を言っているんだ?と思う。
 納得して死のうとしている弟に疑問を投げかけて……酷い裏切りじゃないか。


 でも、弟は残酷な俺の言葉を気にせず言う。
「兄ちゃん。俺は本当に兄ちゃんに助けられたよ。それだけじゃなくて、本当に兄ちゃんが大好きだよ。でもね……」
 弟は顔を崩して笑う。
「こうするのが一番良いんだよ。俺にとっても、兄ちゃんにとっても……」
「真白……」


 この顔が弟だ、と俺は思う。
 優しくて、弱くて、守ってあげたいと思わせる……僕が絶対に守りたい、と思わせる笑顔。
 逆に言うと、助けがなければ生きられない、弱くしか生きられないために人に負担をかけてしまう宿命の笑顔。

 僕一人だったら、いくら負担をかけられたって構わない。
 何もしなくて良いから、ずっと僕に守られて生きていけば良い。俺のために生きれば良い。心からそう思う。
 でも、弟は僕とだけ生きていれば満足なわけじゃない。弟は一人前の成人男性として、社会で生きていきたかったのだ。
 そうするには弟は弱かった……プライドを捨てるか、生きることを捨てるかという選択を迫られ、弟は生きることを捨てることを選んだのだ。


 弟が立ち上がって僕に近づく。
「兄ちゃん、ギュッてして」
 怖がりだった弟が子供の頃から強請っていた要求に、僕は応じる。

 僕と真白は背丈が同じくらいだけど、痩せ型の俺と違い、食べることが大好きな真白は横に大きい。
 抱きしめるとふわふわで、大人の男の匂いはするけど、ぬいぐるみを抱いているような感覚になる。
 汗をかいている背中は冷たい。
 今は確実に体温を感じるけど、これから本当に冷たくなるんだ……

「兄ちゃん……ありがとう」
 僕の胸元で弟がつぶやく。

「真白……」
「長生きしてね。ちゃんと待ってるからね」
「……あぁ」
 最後は生返事しかできなかった。


 僕は部屋を出た。5分オーバーだった。
 抱きしめたふわふわの感触をずっと覚えていたくて、その次に対面した時の弟の様子のことは、できるだけ心に留めないようにした。


 でも、そんなことはできなくて、何度も思い出してしまう。
 本当に冷たくなった、1人で死んだ、弟のことを……
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