リリー

アジャバ

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(二)

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 君に出会う前の僕は、夢の中に遊ぶ少年だった。

 起きていてもずっと夢の中に居るように思えて、想像の中に大冒険を繰り広げたものだった。君と初めて会ったあの日も、僕は一人ロマンチシズムになびかれて真夏の夜へと飛び出したのだ。
 その時、僕はまだ小学生であった。恋は知っていたが愛は知らなかった。愛はテレビの中で語られる幻想のようなものに思えた。とは言え、ロマンチストでありながら、時にリアリストでもあった。どっち付かずのままで、言ってしまえば吐いて捨てられるようなありふれた少年だったのだと思う。

 もうとうに夜だというのに、蝉は束の間の夏にしがみ付くように鳴き続けていた。昼と夜、つまりは太陽と月が共存する事は無いと思い込んでいたから、水と油をきちんと分ける事に自分だけの優越感に浸る少年であったから、昼を生きる蝉と夜を生きる螢とは、その境遇を似せていながらも慰め合う訳にはいかないのだと思い込んでいた。その主張は大抵の場合間違っていなかったのだが、この日ばかりは例外であるようだった。

 流星群が訪れる夜だと言うから、町の寝静まった頃、僕は父に貰った望遠鏡を担ぎ出した。何も急ぐ理由も無かったのに自ずと駆け足にならずに居られなかった。「止まらぬ事」それが思春期の僕にとっては何よりも大切だったのである。非常口を示す標識の緑色だけが浮かんでいる駅の脇を、ぐっすりと眠る車両たちを起こさぬようにと抜き足で行き過ぎる。駅を境に町と対局に位置する小高い丘へと登って行った。僕の町を一望するには此処が最も相応しかった。
 
 リリー。あの夜、どうして君は泣いていたのだろう。僕はあの夜からずっと幸せばかりを貰ってきた。流れゆく星たちの断末魔。瞬く間に消えゆくくせに、僕はいつまでも忘れられないでいる。そんな幸せばかりを、だ。

 僕は丘の上で泣いている少女を見た。途端に夜は冷え尽くして、阿呆のように立ち尽くす他に何も出来なくなった。身体は動かしがたかったが、次第に少しずつ湧き出てくる安堵のような感情に僕は気が付いた。少年の僕は町を歩く時、少なからず不安な気持ちに囚われて居た。まるでこの町で自分だけが一心に悩みを抱えているように思えてならなかったのである。しかし、リリーの涙がこの町に落ちるのを見た時から僕は一人ではなくなった。今だってそれは少しも変わらない。

 「誰?」リリーは顔も上げずにそう聞いた。泣いているようには到底思えないほどに澄んだ声をしていた。

 「まだ、きっと君の知り合いでは無いと思う。」僕の声は情けなくかすれていた。

 「そう。」それだけ言うとリリーは涙を拭って僕の方を向いた。不思議な事に暗闇の中にあっても僕にはリリーの綺麗な顔立ちがはっきりと見えていた。

 「どうしてこんな時間に?」リリーは聞いた。

 「流星群を見に来たんだ。」僕は手にした望遠鏡を見せるように少し持ち上げた。

 「そう。」

 リリーは幾星霜の中からたった一つだけを探し出そうとするかのように空を見上げた。さっきまで泣いていた少女とは別人のように凛として佇んでいる。彼女は、いや、彼女に限らず誰だってそうだろう、表情を笑わせながら涙を堪えて、心では静かに泣いていたりするものである。リリーはこの時、今にも崩れてしまいそうな両足でどうにかして何とか立っていたのである。僕にはそれが良くわかった。

 「君、名前は?」僕は聞いた。その時、遠く見えない暗闇の底で蝉の一匹が微かに音を立てた。普段であれば夜との不調和に僕は不愉快な気分になっていただろう。しかし、この夜ばかりはそうはならなかった。
 リリーは僕の目を見据える。きっと彼女は僕の視線だとか微かな表情の機微だとか、そんな表面的な部分ではなくて、ずっと深い所にある心の内側までを見つめたのだろうと思う。

 「リリー。」
 少しの間が空いて、リリーはそう言った。その声は震えていた。僕は居ても居られなくなったが、呆けておろおろと立ちすくむ他に何も出来なかった。リリーは次第に小さく声を洩らし始めて、とうとう膝を付いて大泣きに泣いてしまった。何も出来ずに僕は、少女の泣くのを唖然として感じながら、唯一つだけ、これからの人生をすっかりと決めてしまったのである。
 
 リリーが泣いた。それだけで僕は彼女を愛してしまった。単純だと人は笑うだろうか。それでも一向にかまわない。幼かった頃の僕は生まれて初めての愛を知ったのである。

 涙は流星のようにして、静かに美しく流れては消えていった、
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