クセつよ母は今日もいく

高羽志雨

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1話『天然熟女は超マイペース』

留以子、登場。

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 ハルエが目じりを下げた。

「たしかに留以子さんの話をスルーできるなら、好美さんの話を無視して行動することは大したことなさそう」

「スルーするだけ? 留以子さんに言い返したことはないの?」

 聡はハルエと文乃を交互に見た。

「ありますよ。「もういいよ、その話は。したいことあるから黙って」みたいな」

 文乃は推しのアイドルでも見つけたみたいに嬉しそうに笑う。

「頼もしい。アロンなら好美さんのことを気にしないで過ごせそう」

 聡は熟女ファンを喜ばせるアイドルをイメージして口角をあげる。

「ぜひ、うちにはいつでもお越しくださいね」

 ハルエも文乃もすでに常連だから、あえて営業スマイルを見せる必要はないのだけれど、文乃の笑顔に応えて見たくなったのだ。

 ハルエがテーブルに水の入ったコップを置いた。一口飲んだのだろう。

「定期的に来てた好美さんが、ここに来なくなったのって、聡くんに自分のペースが通用しなかったからだったりして」

 文乃と聡は視線を合わせた。意図せず、声もそろった。

「「まさかあ」」

 もし、ハルエの言う通りなら、好美は人に迷惑をかけてるつもりのない、おっとりマイペース天然人間かと思っていたけれど、そうではないらしい。

 聡は窓の外で動く何かに気づいた。

「あ、母さん。こっち来そうだな」

 そうつぶやくと、ハルエと文乃はいそいそと席を立った。話が終わったところだったこともあり、キリは良かったんだろう。
 もう一度、母親を見ると眉間にしわが寄っている。

「ああいう顔の時は近寄らない方が良いですね」

 独り言ではなく、2人に聞かせるように言った。
 テーブルにお釣りが必要ない代金を置いたハルエと文乃は、顔の前で手首を折って叩くまねごとをして、同意を示してきた。

 店を出た二人と入れ替わるように、母の留以子が入ってきた。
 ドアベルがカランカランという乾いた軽い音ではなく、ガラガラガランと耳につく聞こえるのはなぜだろうか。

「なんやハルエさんと文乃さん、来てたんか。そそくさと帰っていきよってからに。なんやねん」

 留以子が口にした「なんやねん」は、この場合に関しては文句ではない。
 どちらかというと、「水くさい」とか「寂しい」とかいうニュアンスだ。同じ言葉でも、そのときどきでニュアンスが大きく変わることに気づいたのは、聡が高校生になってからだった。

「雨、大丈夫だったか」

「大丈夫なわけないやろ。あんな土砂降り。ほんま、かなんわ。びっちょびちょや」

 顔を下に向けた留以子の視線を追って彼女の足元を見ると、パンツの裾が絞れそうなほど濡れていた。
 留以子が屈もうとしたのを目にして、聡は大きく口を開けた。

「おいっ。絞る気なら店の外に行けよっ」

 立位体前屈のような恰好のまま止まった留以子は、首を曲げて顔をこちらに向けた。

「わかってるわ。ちょっと触ろうとしただけやろ」

 言い訳にしか聞こえないセリフを吐きながら腰を伸ばし、タオルをくれ、と言わんばかりに手を伸ばしてきた。

「そうそう、好美とかいう上品ぶったおばさん、あちこちで自分を優先させて回ってるらしいな」

 聡はカウンターの中に入って、その下から大きめのタオルを引っ張り出した。今の留以子のように雨に濡れた客に渡そうと常備しているものだ。

「ああ、俺、知らなかったんだけど、そうなんだってな。さっきも八百屋で順番抜かしてたよ」

 カウンター越しにタオルを受け取った留以子は手を伸ばしたまま、口をポカンと開けた。

「はっ、あのおばさんのこと知らんかったって何言うてんねん。この店にも来てたやろ」

「いや、好美さんのことは知ってるけど、そんな迷惑な人とは」

「気づかんかったってかっ。鈍くさい脳みそやけど、聡は幸せもんやな」

 好美の迷惑行動に気づかなかったのは、あんたが理由だってことがわかったんだよって言ってやりたかったけれど、倍以上の大阪弁が返ってくるのが面倒で口を閉ざした。心のつぶやきを口に出しがちな聡は、不思議と母だる留以子の前では声を漏らさない。一種の防衛本能だろうか。

 留以子は椅子に座ってパンツの裾を拭きはじめる。

「あのおばさん、いつか説教したらなあかんな」

 発された言葉を耳にした聡は、閉じた口の中でため息をつき、目を覆う代わりにゆっくりと瞬きをした。
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