8 / 10
八話『母を見舞う娘』
しおりを挟む
クリーム色のカーテンが揺れている。
これは黄ばんでいるのか、それともこういう色なのか。
少し生暖かくなった春の風を浴びながら、カーテンを見つめていると、添えただけの手が握られた気がした。
視線を落として、ベッドに横たわった母を見る。白いシーツから出る手と顔は見る影もないほど、しわくちゃだ。
「あーちゃん、お仕事は?」
私は母に気づかれない程度に、小さくため息をついた。
先週、85歳になる母が一人暮らししている家の中で倒れた。
幸い、民生委員の人が訪ねてきてくれたおかげで発見が早く、一命はとりとめた。それから入院している。その間、私を姉の朝美と間違えたままだ。
私は骨と皮だけになった母の手を撫でる。
「休んだよ」
「ののちゃんは元気?」
野乃というのは、朝美の子どもだ。
「元気だよ。学校に行ってる」
穏やかな笑顔を見せる母に、私も作った笑顔を向けた。不自然になっている気がしたけれど、この距離だと母にはハッキリ見えないだろう。
朝美も野乃も、もう10年、会っていない。私の記憶が確かなら、野乃は高校生になっているはずだ。
母が手を撫で返してきた。
「あーちゃん、仕事もあって、野乃ちゃんの世話もして、旦那さんともお姑さんともうまくやっててえらいわ」
「そうかな」
「そうだよ。私は夫とうまくやることはできなかったし、親戚づきあいも友だちも付き合いが続かなかったから」
自覚はあったらしい。
母は頭で考えることは理想的で人格者と言えるのだけれど、それが言動に表れない。残念過ぎるほど、自己中心的で、想像力に乏しいがために目に見えることにしか反応できず、精神年齢が四歳児くらいで止まっているかと思える言動をする。
それでも、母を理解しようとしてくれる人もいた。なのに、母は「あの人は私を見下している」と一蹴する。おかげで、晩年、母の周りにいるのは私だけになった。
誰よりも根気よく母を一般的な許容範囲に入る人にしようと心を砕いた姉の朝美もさじを投げた。それが10年前。娘の野乃の子育てに昭和の自論を押しつけて時代が変わっていることに目を向けようとしない母を見限ったのだ。
背後でドアが開く音がする。
振り返ると、夫の晴馬がボストンバッグを下げて立っていた。
「はい、お義母さんの着替え」
母の手を離し、立ち上がってバッグを受けとる。
着替えを入れ替えようと、バッグをベッドの端に乗せる。
母の体が少し傾いた。
「あなたは、たしか、ゆーちゃんの」
夫がにこやかに母の顔の近くで腰を曲げた。
「ええ、夕美の夫の晴馬です。思ったよりもお元気そうで」
「夕美の夫が、朝美に荷物を渡すって」
母が軽く非難めいた声をあげる。
眉間にしわを寄せた晴馬が私を見た。返事の代わりに、目を伏せて首を横に振る。悟ったかのように、薄汚れた天井を見上げる。
「夕美に頼まれたんです。朝美さんに届けてくれって」
返事をしない母は、首を逆に曲げて窓を見た。黄ばんだカーテンが揺れて、白い雲が薄く広がる空が見える。
「そうか。晴馬さん。夕美をよろしく頼んだよ。あの子は社交的で活発な朝美と違って、不器用で、自分の気持ちを伝えるのが下手だからね。当然、人付き合いも世渡りも上手じゃない。私に似たせいで、ね」
一気に話して疲れたのか、母は細く長く息を吐く。
「朝美に対するコンプレックスも強いみたいだし。でもね、悪い子じゃないんだ。ただ、ただ全てにおいて不器用すぎるだけなんだよ」
晴馬が顔を背ける母の肩に手を置いた。
「ええ、わかっていますよ。だから、僕は夕美と結婚したんです。朝美さんは朝美さんの、夕美には夕美の良いところがあります」
強く風が吹き、カーテンが母の顔を包みそうなほど、はためいた。思わず母の顔を見る。その瞳は潤んでいるようだった。
「私の性格に似たのが申し訳ないわ。晴馬さんも、あーちゃんも、ゆーちゃんには内緒だよ」
晴馬は私に視線を向けてきた。その目は「気にかけてくれてて良かったな」、そう言っていた。
私は黄ばんだカーテンを見つめる。
先週、実家に行ったとき、きっかけは忘れたけれど母と口論になり、罵られた。
「朝美なら上手く私をフォローしてくれるのに、なんで、あんたはそんなに下手くそなんだよ」
朝美が母に近づかなくなって10年、誰があんたの世話と話し相手をしてきたと思ってるんだ。
一気に頭に血が上った私は、母を突き飛ばしていた。
実家を飛び出して、家に帰った。少し気持ちが落ちつくと不安が押し寄せてくる。
慌てて、私は母が世話になっている民生委員に電話を入れた。
「何度、連絡をしても母とつながらないんです。時間があったら、様子を見てもらえませんか」
気の良い民生委員は、電話をするくらいなら自分で見に行けと言うことはなかった。そして、すぐ実家へと行ってくれたらしい。
医師に頭を打った原因を聞かれた母は、首をかしげたという。
「よく覚えていませんけど、たぶん足を滑らせたか何かしたんでしょ。最近、足腰が危ういから」
再び風が吹いて、カーテンがまくりあがり、水色の空が見えた。
私は母へと視線を下げる。いつの間にか、窓から私の方へ顔を動かしていたらしい。これまで見たことがないと思えるほどの穏やかな目で、母は私を見つめていた。
これは黄ばんでいるのか、それともこういう色なのか。
少し生暖かくなった春の風を浴びながら、カーテンを見つめていると、添えただけの手が握られた気がした。
視線を落として、ベッドに横たわった母を見る。白いシーツから出る手と顔は見る影もないほど、しわくちゃだ。
「あーちゃん、お仕事は?」
私は母に気づかれない程度に、小さくため息をついた。
先週、85歳になる母が一人暮らししている家の中で倒れた。
幸い、民生委員の人が訪ねてきてくれたおかげで発見が早く、一命はとりとめた。それから入院している。その間、私を姉の朝美と間違えたままだ。
私は骨と皮だけになった母の手を撫でる。
「休んだよ」
「ののちゃんは元気?」
野乃というのは、朝美の子どもだ。
「元気だよ。学校に行ってる」
穏やかな笑顔を見せる母に、私も作った笑顔を向けた。不自然になっている気がしたけれど、この距離だと母にはハッキリ見えないだろう。
朝美も野乃も、もう10年、会っていない。私の記憶が確かなら、野乃は高校生になっているはずだ。
母が手を撫で返してきた。
「あーちゃん、仕事もあって、野乃ちゃんの世話もして、旦那さんともお姑さんともうまくやっててえらいわ」
「そうかな」
「そうだよ。私は夫とうまくやることはできなかったし、親戚づきあいも友だちも付き合いが続かなかったから」
自覚はあったらしい。
母は頭で考えることは理想的で人格者と言えるのだけれど、それが言動に表れない。残念過ぎるほど、自己中心的で、想像力に乏しいがために目に見えることにしか反応できず、精神年齢が四歳児くらいで止まっているかと思える言動をする。
それでも、母を理解しようとしてくれる人もいた。なのに、母は「あの人は私を見下している」と一蹴する。おかげで、晩年、母の周りにいるのは私だけになった。
誰よりも根気よく母を一般的な許容範囲に入る人にしようと心を砕いた姉の朝美もさじを投げた。それが10年前。娘の野乃の子育てに昭和の自論を押しつけて時代が変わっていることに目を向けようとしない母を見限ったのだ。
背後でドアが開く音がする。
振り返ると、夫の晴馬がボストンバッグを下げて立っていた。
「はい、お義母さんの着替え」
母の手を離し、立ち上がってバッグを受けとる。
着替えを入れ替えようと、バッグをベッドの端に乗せる。
母の体が少し傾いた。
「あなたは、たしか、ゆーちゃんの」
夫がにこやかに母の顔の近くで腰を曲げた。
「ええ、夕美の夫の晴馬です。思ったよりもお元気そうで」
「夕美の夫が、朝美に荷物を渡すって」
母が軽く非難めいた声をあげる。
眉間にしわを寄せた晴馬が私を見た。返事の代わりに、目を伏せて首を横に振る。悟ったかのように、薄汚れた天井を見上げる。
「夕美に頼まれたんです。朝美さんに届けてくれって」
返事をしない母は、首を逆に曲げて窓を見た。黄ばんだカーテンが揺れて、白い雲が薄く広がる空が見える。
「そうか。晴馬さん。夕美をよろしく頼んだよ。あの子は社交的で活発な朝美と違って、不器用で、自分の気持ちを伝えるのが下手だからね。当然、人付き合いも世渡りも上手じゃない。私に似たせいで、ね」
一気に話して疲れたのか、母は細く長く息を吐く。
「朝美に対するコンプレックスも強いみたいだし。でもね、悪い子じゃないんだ。ただ、ただ全てにおいて不器用すぎるだけなんだよ」
晴馬が顔を背ける母の肩に手を置いた。
「ええ、わかっていますよ。だから、僕は夕美と結婚したんです。朝美さんは朝美さんの、夕美には夕美の良いところがあります」
強く風が吹き、カーテンが母の顔を包みそうなほど、はためいた。思わず母の顔を見る。その瞳は潤んでいるようだった。
「私の性格に似たのが申し訳ないわ。晴馬さんも、あーちゃんも、ゆーちゃんには内緒だよ」
晴馬は私に視線を向けてきた。その目は「気にかけてくれてて良かったな」、そう言っていた。
私は黄ばんだカーテンを見つめる。
先週、実家に行ったとき、きっかけは忘れたけれど母と口論になり、罵られた。
「朝美なら上手く私をフォローしてくれるのに、なんで、あんたはそんなに下手くそなんだよ」
朝美が母に近づかなくなって10年、誰があんたの世話と話し相手をしてきたと思ってるんだ。
一気に頭に血が上った私は、母を突き飛ばしていた。
実家を飛び出して、家に帰った。少し気持ちが落ちつくと不安が押し寄せてくる。
慌てて、私は母が世話になっている民生委員に電話を入れた。
「何度、連絡をしても母とつながらないんです。時間があったら、様子を見てもらえませんか」
気の良い民生委員は、電話をするくらいなら自分で見に行けと言うことはなかった。そして、すぐ実家へと行ってくれたらしい。
医師に頭を打った原因を聞かれた母は、首をかしげたという。
「よく覚えていませんけど、たぶん足を滑らせたか何かしたんでしょ。最近、足腰が危ういから」
再び風が吹いて、カーテンがまくりあがり、水色の空が見えた。
私は母へと視線を下げる。いつの間にか、窓から私の方へ顔を動かしていたらしい。これまで見たことがないと思えるほどの穏やかな目で、母は私を見つめていた。
0
あなたにおすすめの小説
月弥総合病院
僕君☾☾
キャラ文芸
月弥総合病院。極度の病院嫌いや完治が難しい疾患、診察、検査などの医療行為を拒否したり中々治療が進められない子を治療していく。
また、ここは凄腕の医師達が集まる病院。特にその中の計5人が圧倒的に遥か上回る実力を持ち、「白鳥」と呼ばれている。
(小児科のストーリー)医療に全然詳しく無いのでそれっぽく書いてます...!!
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】裏切り者
高羽志雨
ミステリー
妻のお腹には待望の赤ん坊がいる。
不倫相手の莉奈(りな)との別れ話がこじれた伊月(いつき)。
追い込まれた男が取った行動。そして、その結末は。
*1700字程度のショートショートです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
【完結】一本の電話
高羽志雨
ミステリー
美優(みゆ)の元に届いた一通の手紙。
それは中学校の同窓会の案内だった。
記憶の彼方に追いやっていたイジメの過去。
欠席で返事しようとしていたところに電話がかかってくる。
美優をイジメていた真理恵からだった。
関わらないで生きていこうと思っていたけれど、そういうわけにはいかなさそうだ。
ならば、真理恵と同窓会で会わずにすむ方法を考えよう。
*3500字程度のショートショート
*ご都合主義的な展開となっています。
女帝の遺志(第二部)-篠崎沙也加と女子プロレスラーたちの物語
kazu106
大衆娯楽
勢いを増す、ブレバリーズ女子部と、直美。
率いる沙也加は、自信の夢であった帝プロマット参戦を直美に託し、本格的に動き出す。
一方、不振にあえぐ男子部にあって唯一、気を吐こうとする修平。
己を見つめ直すために、女子部への入部を決意する。
が、そこでは現実を知らされ、苦難の道を歩むことになる。
志桜里らの励ましを受けつつ、ひたすら練習をつづける。
遂に直美の帝プロ参戦が、現実なものとなる。
その壮行試合、沙也加はなんと、直美の相手に修平を選んだのであった。
しかし同時に、ブレバリーズには暗い影もまた、歩み寄って来ていた。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる