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八話『母を見舞う娘』
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クリーム色のカーテンが揺れている。
これは黄ばんでいるのか、それともこういう色なのか。
少し生暖かくなった春の風を浴びながら、カーテンを見つめていると、添えただけの手が握られた気がした。
視線を落として、ベッドに横たわった母を見る。白いシーツから出る手と顔は見る影もないほど、しわくちゃだ。
「あーちゃん、お仕事は?」
私は母に気づかれない程度に、小さくため息をついた。
先週、85歳になる母が一人暮らししている家の中で倒れた。
幸い、民生委員の人が訪ねてきてくれたおかげで発見が早く、一命はとりとめた。それから入院している。その間、私を姉の朝美と間違えたままだ。
私は骨と皮だけになった母の手を撫でる。
「休んだよ」
「ののちゃんは元気?」
野乃というのは、朝美の子どもだ。
「元気だよ。学校に行ってる」
穏やかな笑顔を見せる母に、私も作った笑顔を向けた。不自然になっている気がしたけれど、この距離だと母にはハッキリ見えないだろう。
朝美も野乃も、もう10年、会っていない。私の記憶が確かなら、野乃は高校生になっているはずだ。
母が手を撫で返してきた。
「あーちゃん、仕事もあって、野乃ちゃんの世話もして、旦那さんともお姑さんともうまくやっててえらいわ」
「そうかな」
「そうだよ。私は夫とうまくやることはできなかったし、親戚づきあいも友だちも付き合いが続かなかったから」
自覚はあったらしい。
母は頭で考えることは理想的で人格者と言えるのだけれど、それが言動に表れない。残念過ぎるほど、自己中心的で、想像力に乏しいがために目に見えることにしか反応できず、精神年齢が四歳児くらいで止まっているかと思える言動をする。
それでも、母を理解しようとしてくれる人もいた。なのに、母は「あの人は私を見下している」と一蹴する。おかげで、晩年、母の周りにいるのは私だけになった。
誰よりも根気よく母を一般的な許容範囲に入る人にしようと心を砕いた姉の朝美もさじを投げた。それが10年前。娘の野乃の子育てに昭和の自論を押しつけて時代が変わっていることに目を向けようとしない母を見限ったのだ。
背後でドアが開く音がする。
振り返ると、夫の晴馬がボストンバッグを下げて立っていた。
「はい、お義母さんの着替え」
母の手を離し、立ち上がってバッグを受けとる。
着替えを入れ替えようと、バッグをベッドの端に乗せる。
母の体が少し傾いた。
「あなたは、たしか、ゆーちゃんの」
夫がにこやかに母の顔の近くで腰を曲げた。
「ええ、夕美の夫の晴馬です。思ったよりもお元気そうで」
「夕美の夫が、朝美に荷物を渡すって」
母が軽く非難めいた声をあげる。
眉間にしわを寄せた晴馬が私を見た。返事の代わりに、目を伏せて首を横に振る。悟ったかのように、薄汚れた天井を見上げる。
「夕美に頼まれたんです。朝美さんに届けてくれって」
返事をしない母は、首を逆に曲げて窓を見た。黄ばんだカーテンが揺れて、白い雲が薄く広がる空が見える。
「そうか。晴馬さん。夕美をよろしく頼んだよ。あの子は社交的で活発な朝美と違って、不器用で、自分の気持ちを伝えるのが下手だからね。当然、人付き合いも世渡りも上手じゃない。私に似たせいで、ね」
一気に話して疲れたのか、母は細く長く息を吐く。
「朝美に対するコンプレックスも強いみたいだし。でもね、悪い子じゃないんだ。ただ、ただ全てにおいて不器用すぎるだけなんだよ」
晴馬が顔を背ける母の肩に手を置いた。
「ええ、わかっていますよ。だから、僕は夕美と結婚したんです。朝美さんは朝美さんの、夕美には夕美の良いところがあります」
強く風が吹き、カーテンが母の顔を包みそうなほど、はためいた。思わず母の顔を見る。その瞳は潤んでいるようだった。
「私の性格に似たのが申し訳ないわ。晴馬さんも、あーちゃんも、ゆーちゃんには内緒だよ」
晴馬は私に視線を向けてきた。その目は「気にかけてくれてて良かったな」、そう言っていた。
私は黄ばんだカーテンを見つめる。
先週、実家に行ったとき、きっかけは忘れたけれど母と口論になり、罵られた。
「朝美なら上手く私をフォローしてくれるのに、なんで、あんたはそんなに下手くそなんだよ」
朝美が母に近づかなくなって10年、誰があんたの世話と話し相手をしてきたと思ってるんだ。
一気に頭に血が上った私は、母を突き飛ばしていた。
実家を飛び出して、家に帰った。少し気持ちが落ちつくと不安が押し寄せてくる。
慌てて、私は母が世話になっている民生委員に電話を入れた。
「何度、連絡をしても母とつながらないんです。時間があったら、様子を見てもらえませんか」
気の良い民生委員は、電話をするくらいなら自分で見に行けと言うことはなかった。そして、すぐ実家へと行ってくれたらしい。
医師に頭を打った原因を聞かれた母は、首をかしげたという。
「よく覚えていませんけど、たぶん足を滑らせたか何かしたんでしょ。最近、足腰が危ういから」
再び風が吹いて、カーテンがまくりあがり、水色の空が見えた。
私は母へと視線を下げる。いつの間にか、窓から私の方へ顔を動かしていたらしい。これまで見たことがないと思えるほどの穏やかな目で、母は私を見つめていた。
これは黄ばんでいるのか、それともこういう色なのか。
少し生暖かくなった春の風を浴びながら、カーテンを見つめていると、添えただけの手が握られた気がした。
視線を落として、ベッドに横たわった母を見る。白いシーツから出る手と顔は見る影もないほど、しわくちゃだ。
「あーちゃん、お仕事は?」
私は母に気づかれない程度に、小さくため息をついた。
先週、85歳になる母が一人暮らししている家の中で倒れた。
幸い、民生委員の人が訪ねてきてくれたおかげで発見が早く、一命はとりとめた。それから入院している。その間、私を姉の朝美と間違えたままだ。
私は骨と皮だけになった母の手を撫でる。
「休んだよ」
「ののちゃんは元気?」
野乃というのは、朝美の子どもだ。
「元気だよ。学校に行ってる」
穏やかな笑顔を見せる母に、私も作った笑顔を向けた。不自然になっている気がしたけれど、この距離だと母にはハッキリ見えないだろう。
朝美も野乃も、もう10年、会っていない。私の記憶が確かなら、野乃は高校生になっているはずだ。
母が手を撫で返してきた。
「あーちゃん、仕事もあって、野乃ちゃんの世話もして、旦那さんともお姑さんともうまくやっててえらいわ」
「そうかな」
「そうだよ。私は夫とうまくやることはできなかったし、親戚づきあいも友だちも付き合いが続かなかったから」
自覚はあったらしい。
母は頭で考えることは理想的で人格者と言えるのだけれど、それが言動に表れない。残念過ぎるほど、自己中心的で、想像力に乏しいがために目に見えることにしか反応できず、精神年齢が四歳児くらいで止まっているかと思える言動をする。
それでも、母を理解しようとしてくれる人もいた。なのに、母は「あの人は私を見下している」と一蹴する。おかげで、晩年、母の周りにいるのは私だけになった。
誰よりも根気よく母を一般的な許容範囲に入る人にしようと心を砕いた姉の朝美もさじを投げた。それが10年前。娘の野乃の子育てに昭和の自論を押しつけて時代が変わっていることに目を向けようとしない母を見限ったのだ。
背後でドアが開く音がする。
振り返ると、夫の晴馬がボストンバッグを下げて立っていた。
「はい、お義母さんの着替え」
母の手を離し、立ち上がってバッグを受けとる。
着替えを入れ替えようと、バッグをベッドの端に乗せる。
母の体が少し傾いた。
「あなたは、たしか、ゆーちゃんの」
夫がにこやかに母の顔の近くで腰を曲げた。
「ええ、夕美の夫の晴馬です。思ったよりもお元気そうで」
「夕美の夫が、朝美に荷物を渡すって」
母が軽く非難めいた声をあげる。
眉間にしわを寄せた晴馬が私を見た。返事の代わりに、目を伏せて首を横に振る。悟ったかのように、薄汚れた天井を見上げる。
「夕美に頼まれたんです。朝美さんに届けてくれって」
返事をしない母は、首を逆に曲げて窓を見た。黄ばんだカーテンが揺れて、白い雲が薄く広がる空が見える。
「そうか。晴馬さん。夕美をよろしく頼んだよ。あの子は社交的で活発な朝美と違って、不器用で、自分の気持ちを伝えるのが下手だからね。当然、人付き合いも世渡りも上手じゃない。私に似たせいで、ね」
一気に話して疲れたのか、母は細く長く息を吐く。
「朝美に対するコンプレックスも強いみたいだし。でもね、悪い子じゃないんだ。ただ、ただ全てにおいて不器用すぎるだけなんだよ」
晴馬が顔を背ける母の肩に手を置いた。
「ええ、わかっていますよ。だから、僕は夕美と結婚したんです。朝美さんは朝美さんの、夕美には夕美の良いところがあります」
強く風が吹き、カーテンが母の顔を包みそうなほど、はためいた。思わず母の顔を見る。その瞳は潤んでいるようだった。
「私の性格に似たのが申し訳ないわ。晴馬さんも、あーちゃんも、ゆーちゃんには内緒だよ」
晴馬は私に視線を向けてきた。その目は「気にかけてくれてて良かったな」、そう言っていた。
私は黄ばんだカーテンを見つめる。
先週、実家に行ったとき、きっかけは忘れたけれど母と口論になり、罵られた。
「朝美なら上手く私をフォローしてくれるのに、なんで、あんたはそんなに下手くそなんだよ」
朝美が母に近づかなくなって10年、誰があんたの世話と話し相手をしてきたと思ってるんだ。
一気に頭に血が上った私は、母を突き飛ばしていた。
実家を飛び出して、家に帰った。少し気持ちが落ちつくと不安が押し寄せてくる。
慌てて、私は母が世話になっている民生委員に電話を入れた。
「何度、連絡をしても母とつながらないんです。時間があったら、様子を見てもらえませんか」
気の良い民生委員は、電話をするくらいなら自分で見に行けと言うことはなかった。そして、すぐ実家へと行ってくれたらしい。
医師に頭を打った原因を聞かれた母は、首をかしげたという。
「よく覚えていませんけど、たぶん足を滑らせたか何かしたんでしょ。最近、足腰が危ういから」
再び風が吹いて、カーテンがまくりあがり、水色の空が見えた。
私は母へと視線を下げる。いつの間にか、窓から私の方へ顔を動かしていたらしい。これまで見たことがないと思えるほどの穏やかな目で、母は私を見つめていた。
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