ヴァルキュリア・パニック~六畳一間から始まる強制同棲ライフ~

速水静香

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第二話:銀の鎧を脱ぎ捨てて、緑のジャージを

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 天井の修復という、現代建築学への冒涜とも取れる奇跡を目の当たりにした直後のことだ。
 未だに状況を整理しきれていない脳みそを抱えながら、俺は部屋の中央に仁王立ちする自称・戦乙女を見上げていた。
 ついさっきまで夕焼け空が見えていた天井は、何事もなかったかのように白いクロスに覆われている。床に散らばっていた木材も、石膏ボードの破片も、すべてが元通りだ。
 唯一、元に戻らなかったのは、俺の精神的平穏と、床にシミを作った特売の卵だけである。

 ヘルヤは満足げに鼻を鳴らすと、自身の銀色の鎧をガシャリと鳴らした。

「さて、カズキよ。住居の問題は解決した。次は衣食の『衣』だ」

 唐突な話題転換だった。俺は瞬きを繰り返す。

「……はい?」
「耳が遠いのか? 衣服の話をしている。このミスリル銀の戦装束は、戦闘においては最強の防御力を誇るが、いささかこの狭い部屋でくつろぐには不向きでな。肩の関節が突っ張るし、動くたびに金属音が鳴って耳障りだ」

 彼女は肩を回し、ガシャン、ガシャンという重厚な音を立てながら、もっともらしい不満を述べた。
 確かに、六畳一間のワンルームにヴァルキリーの女がいる光景は、シュールレアリスムの絵画を見ているようで落ち着かない。

「よって、貴様に命じる。私がこの俗世で過ごすに相応しい、リラックスできる衣服を献上せよ。肌触りが良く、動きやすいものが望ましいな。綿百パーセントなら尚良しだ」
「無茶言うなよ。ここは男の一人暮らしだぞ? 女物の服なんてあるわけないだろ」

 俺は両手を広げて部屋の狭さと、男所帯であることをアピールした。
 クローゼットの中身などたかが知れている。学校の制服、数枚の無難な私服、あとは体育の授業用のジャージくらいしかない。女性用のパジャマやルームウェアなど、天地がひっくり返っても出てくるはずがないのだ。

「近くに衣料品店はあるけど、そもそも俺にはレディースの服を買う金も勇気もない」
「ふん、諦めが悪い男だ。探せば何かあるだろう。貴様が隠し持っている『女装セット』でも構わんぞ」
「そんな性癖はない!」

 俺の全否定もどこ吹く風。ヘルヤは聞く耳を持たなかった。

「戦場において物資の現地調達は基本中の基本。ないなら探す、あるもので代用する。それが兵法だ」

 彼女はズカズカと部屋の奥へ進むと、俺の聖域であるクローゼットの扉に手をかけた。

「ちょ、勝手に開けるな! そこはプライベートな領域だ!」
「神に隠し事など無意味だ。……ほう?」

 制止しようとする俺の手をすり抜け、彼女はクローゼットを全開にした。
 ハンガーにかかった服を乱暴にかき分け、下の衣装ケースを物色し始める。その手つきは、まるでバーゲンセールのワゴンを漁る熟練の主婦のように手際が良い。迷いがない。獲物を狙う狩人の目つきだ。

「地味な色ばかりだな。貴様の精神構造を表しているようだ」
「ほっとけ。黒と紺は汚れが目立たないんだよ」
「む……これは……」

 やがて、彼女は衣装ケースの奥底から、一枚の布切れを引っ張り出した。
 俺が記憶の彼方に封印していた、懐かしい色彩。

「良いものがあるではないか」

 彼女が高々と掲げたのは、深い緑色――いわゆる芋ジャージ色――のジャージだった。胸元には白い刺繍で『九条』と名字が縫い付けられている。少し毛玉ができているのが、歴戦の証だ。

「この伸縮性のある素材、そして無駄を削ぎ落とした機能的なデザイン。これぞ求めていたものだ」
「それ、俺の中学時代のジャージ……」

 俺は頭を抱えた。
 高校に入ってからは着る機会もなく、かといって捨てるのも勿体なくて奥に突っ込んでいたものだ。まさかこんな形で日の目を見るとは。

「ほう、貴様の若かりし頃の戦闘服か。ならばサイズも多少は融通が利くだろう。これを借用する」
「待て待て、それはさすがに……」
「拒否権はないと言ったはずだ」

 止める間もなかった。
 ヘルヤはその場で、戦装束の留め具に手をかけたのだ。

 カチャリ。
 胸元の装甲が外れる音がした。

「わーーっ!! 馬鹿野郎! ここで着替えるな!」
「ん? 何を狼狽えている。戦場で着替えなど日常茶飯事だ」
「ここは戦場じゃなくてアパートだ!俺の前で脱ぐな!デリカシーを持て!あっち向け!いや、俺が向く!」

 俺は慌てて回れ右をした。心臓が早鐘を打つ。
 背後で衣擦れの音と、金属パーツが床に置かれるゴトッという音が響く。

「ふむ……この構造はどうなっているのだ? 後ろのファスナーか?」
「喋らなくていいから! 早く着ろ!」

 シュッ、という布が擦れる音。
 何か柔らかいものが弾むような気配。
 俺は壁のシミを見つめながら、必死に『円周率』を唱えて雑念を追い払った。三・一四一五九二六五三五……。

 数分という時間が、永遠のように感じられた。

「うむ、完了した。予想通り、悪くない着心地だ」

 背後からの声に、俺は恐る恐る振り返った。
 そこには、暴力的なまでに似合ってしまっている美少女が立っていた。

 上はブカブカの緑ジャージ。
 当然ながら男物、しかも成長期を見越して大きめを買っていたものだ。彼女の華奢な体には大きすぎて、袖が余りまくっている。指先が完全に隠れ、いわゆる『萌え袖』状態になっていた。
 下はセットのハーフパンツだが、俺が履けば膝上になるそれが、彼女が履くと膝下まで隠れるキュロットスカートのようになっている。
 そして、その下から伸びる白く滑らかなふくらはぎと、無防備な素足。

 本来なら野暮ったさの極みであるはずの中学ジャージ。
 胸に『九条』と刺繍されたダサさの象徴。
 だが、素材の良さ――つまり彼女の顔面偏差値とスリムなモデル体型――が、服のダサさを凌駕していた。むしろ、そのアンバランスさが庇護欲を掻き立てるという、恐ろしい反応を起こしている。

「どうだ? 似合うか?」

 彼女は長い袖をぶんぶんと振り回しながら、小首を傾げた。

「……悔しいけど、似合ってるよ。なんかムカつくくらいに」
「ふふん、当然だ。私は何を着ても画になるからな!」

 彼女は得意げに胸を張った。ジャージ越しでも分かる形の良さに、俺は慌てて視線を逸らす。
 ヘルヤはそのまま、俺の定位置であるリクライニング座椅子へと向かった。
 そして、当然の権利のように、どすんと腰を下ろす。

「おい、そこは俺の……」
「細かいことを言うな。固い床より、クッションの効いた座椅子の方が快適なのは世界の真理だ。王は玉座に座るものだ」
「そこは王の玉座じゃなくて、三千円で買った座椅子だ」
「座り心地が良いなら、それは玉座だ」

 彼女は背もたれに体重を預け、ふんぞり返った。その態度は、すでにこの部屋の主であるかのように堂々としている。
 抗議しようとした俺の言葉を遮り、彼女の視線が一点に固定された。
 ローテーブルの隅。
 そこに置いてあったのは、俺が明日の試験勉強のご褒美として隠しておいた、期間限定『濃厚コンソメパンチ』の袋だ。

「ほう……いいところに」

 ヘルヤは長い袖から指先をちょこんと出し、袋を手に取った。
 しげしげとパッケージを眺める。

「ポテチか……これしかないか」

 彼女の目が鋭く光った。
 俺は嫌な予感がして、声を上げようとした。

「あっ、それ俺の……」

 だが、遅かった。

 彼女はパッケージの裏面をなんとなく眺めたまま、指先の感覚だけで袋上部の切り口を的確に捉えた。
 そして、両手にスッと力を込める。

 スパン。

 小気味良い音が響き、袋の口が鮮やかに開いた。
 彼女は流れるような動作で開いた袋を左腕に抱え込むと、右手ですぐさま中身へと手を伸ばし始めた。

「ん?」

 俺の口から、疑問の声が漏れた。

「今の、やけに手慣れてないか?」
「…………」

 俺のツッコミに、彼女は一瞬動きを止めた。
 彼女の目が、不自然に宙を泳ぐ。

「そ、そんなことはない!日ごろの修練に忙しいのだ、私は!だから、休日くらいポテチを食べるのは普通のことだろう!」
「いや、今手元を見てもいなかっただろ。まったく、迷いがなかったぞ。とても、休日だけ食べているような挙動じゃなかった」
「う、うるさいな!私は要領がいいのだ。一度で習得できるのだ。この袋なんぞ造作もない!」

 ヘルヤは顔を赤くして反論すると、誤魔化すようにポテチを一枚摘んだ。

「……ほう、この黄金色。塩と油の輝き」

 パリッ。サクサク。
 彼女は抱え込んだ袋から次々とチップスを口に運び、恍惚の表情を浮かべた。
 その顔は、先ほどまでの高潔な戦乙女の仮面が剥がれ落ち、ただの食いしん坊な少女のものになっていた。

「んんっ……! 美味い! この暴力的な塩分! 脳髄に直接響くこのカロリーこそが、明日への活力となる!」

 ヘルヤはリスのように頬を膨らませ、バリバリと芋を粉砕していく。
 そして、三割ほど食べたところで、彼女は当然のように俺に空いた右手を差し出した。

「おいカズキ。塩気で喉が渇いたぞ」
「だから?」
「コーラだ。あの黒くシュワシュワする聖水を持って参れ。ポテチにはコーラ、これが宇宙の法則だろう?」
「どこの神話だよ。……冷蔵庫にあるから自分で汲んでこい」
「おい!気が利かない男だな!」

 彼女は不満げに鼻を鳴らすと、一旦ポテチの袋をテーブルに置き、今度は足の指を器用に伸ばした。
 狙いは床に転がっていたテレビのリモコンだ。
 親指で電源ボタンを的確にプレスする。

 プツン、という音と共にテレビ画面が明るくなる。
 行儀の悪さを注意しようとした俺より早く、彼女は画面に食いついた。

「ほう、映ったか。天界のテレビよりも画質が良いな」
「お前、テレビの使い方も知ってるのか?」
「当然だ。テレビくらいある」

 彼女はさも常識だと言わんばかりに胸を張った。

「だが、向こうの番組は退屈でな。英雄の武勇伝を延々と語るドキュメンタリーや、主神のありがたい説教を垂れ流す番組ばかりだ。娯楽性のかけらもない」
「なるほど、あっちも大変なんだな……」

 そう言って彼女は画面に食い入るように見入った。
 映し出されているのは、平日夕方のグルメ番組だ。恰幅の良い芸人が、肉汁溢れるハンバーグを前に、大げさなリアクションを取っている。

「……カズキ、見ろ。あの褐色の肉塊を。溢れ出る脂……食べてみたいな」
「そうか、胸やけがする」

 ヘルヤはコーラがないことに文句を言いつつ、再びポテチを齧りながら、芸人のレポートに耳を傾けた。
 芸人が『うわっ、すごい肉汁! 柔らかくて最高にジューシーです!』と叫ぶ。

「甘いッ!」

 突然、ヘルヤが声を張り上げた。

「な、なんだよ急に」
「今の食レポは三流だ! 『ジューシー』などという表現は陳腐すぎる! もっとこう、肉の繊維が解ける感覚や、スパイスの香りが鼻腔を抜ける様を表現すべきだ!」
「お前、なんでそんな食レポに厳しいんだよ」
「天界の料理番組はもっとシビアだ! 味の表現一つでシェフの首が飛ぶこともある!」
「どんな修羅の国だよ天界は」

 彼女は画面に向かって、まるでスポーツの監督のように指示を飛ばし始めた。

「そこだ! 断面をもっとカメラに見せろ! 湯気の立ち昇る角度を計算しろ!」
「箸上げのタイミングが遅い! スープが冷めるだろうが!」
「おお……完食したか。その笑顔、悪くない。食への感謝が伝わってくる」

 その姿は、完全に居酒屋でテレビに管を巻くサラリーマンだ。
 神秘性のかけらもない。
 俺は深いため息をついた。とんでもないダメ女神を拾ってしまったのかもしれない。いや、拾わされたのか。

「おい、もう食レポはいいだろ」
「待て、今いいところなのだ。次はラーメン特集だぞ。この黄金色に輝くスープを見逃すわけにはいかん」

 彼女はリモコンを抱え込み、防御態勢に入った。

「お前、本当に天界の戦士か? ただのテレビっ子じゃないのか?」
「情報収集だと言っているだろう! この地の食文化を通じて、資源、そしてカロリー摂取の方法を分析しているのだ」
「ポテチ食いながら言うセリフじゃないな」

 俺は諦めて、床に直接座り込んだ。
 自分の部屋なのに、自分の居場所がない。
 目の前には、俺のジャージを着て、俺のポテチを食い、俺の座椅子を占拠して、俺のテレビでグルメ番組にダメ出しをしている美少女。
 窓の外はすでに暗い。夜だ。

「……はぁ」

 これから始まる同居生活のことを思うと、頭痛が痛い。いや、頭が痛い。

「おいカズキ、何度言わせるんだ!早く、コーラを持ってこい」

 夜はまだ、始まったばかりだった。
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