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主人公の仕事
ここは高齢化社会が更に行き着いて、だが尊厳死は認められなかった日本。個人の主観に重きが置かれ、人権の定義がほんの少し変異した時代。
社会構造の変化に伴って、おそらく必要に駆られての変質だろう、つまりはどうしようもなく、そう成らざるを得なかったのだ。
…
……
主人公は老人ホーム、もとい介護施設で働いている。ひと昔で介護職と言えば、体力的に大変にも関わらず給料が安く、そのくせ昇給は殆どないために不人気、という業界であった。しかし今は、人気ではないがそこまで大変ではない、給料はまずまず、というぐらいに落ち着いている。
理由としては革新的な介護方法の変更だ。
入居者は常時、小型・軽量化されたVRゴーグルとイヤホン、マイクが一緒になった機械が頭に取り付けられた状態で、各々がマンションの立体駐車場の様に区分けされたベッドに寝かされている。ベッドから落ちる事がない様に、ベッド自体は上が開けた蚕の繭の様な殻状の構造物と一体になっている。それらが左右だけでなく上下にも、きっちり敷き詰められ並べられており、繭を移動させるための搬送ラック分のスペースしかない。どちらかといえば、工場の自動倉庫に近い。
人の手が必要な時だけ、まだ完全に自動化が出来ていない一部の食事や排泄、お風呂といった介助が必要な時だけ、搬送ラックが繭ごと介助者の作業場まで移動させる仕組みだ。ベッド自体も波打つ様に動いて、日中は座らせたり、寝る時には床ずれ防止に寝返りをさせたりする事が出来る。
個々の繭にはバイタル機器や動きを感知するセンサー類、カメラ等が設置されており、入居者の体調を常に測定している。異常があった際は即座に感知し、自動で介助者に知らせる事になっている。
介助者は入居者の世話を順次行わなければならないが、一斉に面倒を見る必要が無くなった。待機ラインに並ぶ繭は、まるで工場の製造ラインの様相ではあるが…
だが、介助者1人で対応できる入居者の人数が格段に増えた。効率化により、介護の負担軽減、介助人員の削減に伴う給与体系の見直しが可能となったのだった。
入居者は主に認知症がある程度進んだ人たち。自分1人では生活できず、介助を必須とする人たちだ。
入居者には少しだけ、精神が落ち着き、体の動きを抑える薬が投与されている。
当人たちの主観としてはテレビを見たり、他の入居者たちとお話ししたりしている。元々の認知機能が低下している事に加え、薬剤の影響のためにVR世界である事は殆ど気にされず、穏やかな時を過ごしている。中にはかつてしていた仕事を体験している人もいる。仕事をしている方が落ち着く入居者もいるのだ。職人だった人たちの手際の良さをAIに学習させ、その分野の商業AIで活用された事例もあり、メリットもそれなりだ。
かつて、寿命より健康寿命が大事だと言われた時代があった。リスキリングによって老後をより豊かにしようとした時代があった。
そうする事で、介護が必要な期間を出来るだけ後にずらそうとしていた。そして実際に、ある程度は健康寿命が延び、介護が必要な時期を後ろ倒しする事は出来た。しかし、だからと言って介護が不要になる訳ではない。
介護の働き手の確保の課題、効率化の必要性、社会保障、財政の逼迫。それらが遂に限界に近づいた時、主観的な幸福を求める声があがり出した。
主観的な幸福が実現されているのであれば、その人の人権は尊重されているはずだ、と。仮にその人がどの様な扱われ方をしたとしても…
幸福ホルモンと呼ばれる物質がある。脳内で分泌される、主にドーパミン・セロトニン・オキシトシンの3つが挙げられ、これにβエンドルフィンが入る場合もある。これら物質の分泌量を測定する事で幸福度指数を計測する事は可能だと。そして、それらしい試験と分析結果を根拠に法整備がなされ、現在のシステムが構築されていった。
相反する試験結果や反対意見もある事はあったが、有効な対案がある訳でもなく、推し進められた。表向きは体の良い言葉で取り繕ってはいるが、必要が価値観の変異を、法の解釈を、社会の体制を突き動かした。
主人公は介護業界で働いて20年ほどになるだろうか。かつての介護業界を知る、その変性を見届けてきた数少ない人材になりつつある。
革新により入居者が多くなったことで、施設の特性上、亡くなる入居者は少なくなく、月に数人はこの世を旅立たれる。そのため、施設は病院に併設される場合が多い。
主人公が働く老人ホームも例に漏れず、比較的大きい地方病院の敷地内にある。
入居者は常にバイタルチェックが行われており、そろそろだろうか、という人はおおよそだが予測がつく。そういう場合、医師による予約処方がなされており、一定の条件を満たすと薬などの処置がなされ、入居者の痛みや苦しみを緩和する事が出来る。ただ、そこまで行ってしまうと大抵の場合はもう長くはない。
ただ、最後まで幸福に生きられたのだろうと、苦しみは最小限に留められたのだろうと思うのは、主人公の慰みからだろうか。
主人公はその様子から、終の繭と密かに呼んでいる。繭から羽化して飛んで行くのは、存在の有無が分からない魂だけだが…
その日、主人公は午前の業務を終え、併設している病院の休憩室に向かった。繭のシステム導入以前であれば交代制で食事をとっていたのだが、今となってはAIが見ていてくれるので、昼休みの時間ぐらいは確保出来るようになっていたのだ。尤もシステムで対処できないトラブルが発生した場合は端末に連絡が入り、急いで戻らなければならなくなるが…
午前の入居者の状況を見る限りそんな事はなさそうだ。これは長年の勤務に裏付けられた経験則だ。それほど予測は外さないだろう。施設は密閉空間では無いにせよ、何よりその雰囲気から閉塞的であるため、ずっと居ると気が滅入ってしまう。少しの気分転換は必要なのだ。
それより心配なのは天気が悪くなりそうな事だ。遠くの空から黒い雨雲が近づいて来ているのが見える。これは昼過ぎぐらいからひと雨来そうだ。早ければ昼休み中にも降って来るかもしれない。施設と病院の間は屋根がないので雨が降ったら濡れてしまう。主人公はいつもより少し急いで昼食を食べ、早めに施設へ戻ることを決めた。
午後の業務を行っていると、外から雨音が聞こえ、それは徐々に大きくなって来た。遠くで雷が鳴っているのが聞こえる。
さらなる時間の経過とともに、雨音が更に激しくなり、雷も鳴り響いてきた。
とある入居者の排泄の処理をしていた時、雷鳴の轟音と共に窓の外から閃光が走った。かなり近くに雷が落ちた様だ。施設のライトが一瞬消えた。
システムは大丈夫だろうか。外の様子を見ると区画の照明が消えているのが確認できた。やはり停電が起こっているみたいだ。施設と病院は予備電源に切り替わったのだろう。
悪天候などの際はVR世界でも同様の環境になる様に設定している。そうしないと、先ほどの様に雷などが鳴った際、入居者にも聞こえてしまい、体験している世界と差が生じてしまうためだ。だが、これほど大きな雷鳴だ。現実世界であろうとなかろうと動揺は広がってしまう。
主人公は入居者たちのバイタルを確認しつつ、簡単なシステムの確認を行う。数人の入居者が混乱しているようだ。なんとか落ち着かせなければならない。同時に他の1人の入居者のセンサーに、一部不具合が生じている旨の連絡が入った。こちらも対応しなければならない。
優先すべきはどちらだろうか?
センサーの不具合を放置すると入居者の体調を正確に検知することできず、万が一にでも体調が悪化した際、正確な測定が出来ない可能性がある。正常化にはセンサーの再起動が必須であるが、再起動中はその機能が停止してしまう。対象のシステムは区画ごとに分かれているため、リモートで対応しようとすると同じ区画の他入居者のセンサーも同様に10分から20分ほど停止してしまう。そうならない様にするため、不具合が生じている繭を手元まで搬送し、手動で再起動の作業をしなければならない。センサーが停止している間に何かあってはいけないので、その入居者の様子を見ながらの作業となり、その1人にリソースを割かれてしまう事になってしまう。
しかし、だからと言って混乱している入居者たちを放置する事も出来ない。薬剤である程度は抑えているとはいえ、叫ばれたりなどしたら他の入居者にも波及しかねない。そうなれば更なる状況の悪化につながってしまう。
主人公は少し、しかし、しっかりと悩んだ末に、混乱する入居者たちを落ち着かせる事を優先する事にした。センサーの不具合が生じている入居者のここ最近の状況と、午前の状態を鑑みての判断だった。対象の入居者の症状は落ち着いている。リスクは極めて少ないと判断した。
混乱している入居者に対し、薬剤対応出来る者にはその処置を設定し、その対応でも難しそうな者には対面での対処が必要だ。別の薬剤の投与が必要となる可能性もあり、病院に居る担当医の判断を仰がなければならない。先ほどの落雷によって病院側もシステムに不具合が生じている可能があるため、返答は早くないかもしれないが…
急いで対象者を絞り、データを併せた緊急連絡を手早く担当医に送ると共に、対応中だった入居者の処理を丁寧に、かつ速やかに終わらせる。長年の経験値は伊達ではなく、そういう対応は誰よりも早い。
それから混乱している入居者たち、主人公で対応が可能な人たちから順次落ち着かせて行った。薬剤投与だけでなく、背中をさする、手を握る、声をかけて落ち着かせるなど、アナログな対応も有効だ。入居者との対面時、背景は別だが、VRでも実世界との同様の状況を見せられる様に設定しているので、違和感はそれほどなく、むしろ触れ合う事のメリットの方が大きい。各々の入居者にどういう対応を取れば良いのか、主人公はよく分かっている。長年の経験もあり、この入居者にはどういう事をしてあげれば効果的かを熟知しているのだ。
そうしていると、入り口をノックする音と共に誰かが入って来た。病院に所属している1人の看護師だ。緊急連絡を受け、おそらく手が必要になっただろうからと駆けつけてくれたのだ。それも雨の中を。
駆けつけてくれた看護師に助かったと感謝を伝え、現状報告と不具合の起きているセンサーの再起動をお願いした。その看護師は了解の意を示し、早々と再起動の業務にあたってくれた。
程なくして担当医からの処方指示連絡が入った事もあり、混乱していた入居者全員を落ち着かせる事ができた。駆けつけてくれた看護師のおかげでセンサーの不具合も復帰し、今では問題なくシステムが稼働している。
主人公はトラブルがひと段落してほっとし、乗り切ったという安心感が湧いてくる。今回の一件が原因で体調を崩したり、お亡くなりになられたりした方が居なかったのは幸いだった。病院から素早くフォローに来てくれた事も助かった。それが無ければもっと錯綜しただろうから。自動化やAIが発達したとしても、やはり最後は人なんだなぁと、しみじみと感じ入る。
以前、センサーシステムの欠点について上申をしてはいたが、それなりの改修が必要とのことで見送られてしまっていた。今回の事があったので、改めて改修を上申しておこう。
介護業界を長くしていると、何かしらかのトラブルはつきものだ。今まで幾度も経験してきたがその都度、なんとか乗り切ってきた。しばらくして安心感が少し、やり切ったという高揚感に変わるのを感じる。
今日の業務時間はあと少し。やらなければならない事といえば、今日の報告書と上申書をまとめるぐらいだ。そして遅番の同僚に引き継ぐ。今ぐらいはこの微かな気持ち、安堵と達成感に浸るぐらいはいいだろう………
…
……
「今回もストレス度指数は許容範囲に収まり、累積の幸福度指数も規定値に達したな。」
「ストレス度指数は一時高めに振れましたが、途中でレベル2のフォローを入れました。レベル1でも良かったかもしれませんが…」
「そうだな。まぁ、そのレベルぐらいは通常準備しておくべき項目ということだ。本テストを分析し改善を図ろうじゃないか。」
「そうですね、承知いたしました。」
そう話す彼らの見つめる先、終の繭に寝かされた、年老いた主人公の姿があった。
ここは主人公が務める老人ホーム。その実、介護業界の技術開発を行う、特殊介護施設だ。
介護業界は次の段階に進みつつあった。VRであればまだ、それを意識してしまう事が少なくなかった。排泄や食事の際、VR世界と実世界とのタイミングや方法をリンクさせてはいるものの、どうしても生じる差異に、入居者が違和感を覚えてしまうケースが少なからずあったのだ。VRはあくまで間接的に経験しているに過ぎず、違和感があると幸福度指数にあまりよくない影響を与えてしまう。また機器の保守管理も楽ではない。
そこで次の段階への移行が検討されていた。経験の処理は脳が行っている。ならば直接脳内に働きかけてはどうか、と。
繭のシステムの導入により介護業界の改革が実現はしたが、それでもなお厳しい状況には変わり無かったのだ。寿命の延び率は鈍化こそしたものの、老人の人口比率は相変わらず高止まりを続けていた。社会における逼迫、必要が、更なる改革を求めていた。
そして改革の検討のため、選ばれたのは主人公だった。介護業界で長らく働いてきた実績がある人材。かつての介護業界を知る、業界の変性を見届けてきた数少ない人材。そのノウハウを機械に、AIに引き継ぐ必要があった。
主人公はとっくの昔に退職していた。その後、加齢により認知機能が低下し、ついに寝たきりになった。自身の介護が必要な状態だった。今、他の入居者と違うところは、主人公の頭には電極が取り付けられ、そこから幾つかの配線が機械に繋げられている事だ。
特殊介護施設では繭のシステムはそのままに、介助は全て機械が行っている。徐々に自動化のウエイトを増してはいるものの、未だにその半数近くは主人公が間接的に動かしているのだった。
主人公の働きはAI学習に用いられており、ノウハウの蓄積といった形で処理判断や機械動作に反映させている。何かしらかのトラブルが起こってしまった際、どの様に判断し対処すれば良いのかを検討するテスト要員としても役立てられている。また、食事や排泄、お風呂の介助に関するその細かな動作やタイミング、言語化しにくい部分の学習は、AIにはまだまだ必要だった。
この改革が実現すれば、将来的には老人介護は全て完全に機械で行うことが出来る様になるだろう。今はその過渡期なのである。
個人の主観に重きが置かれ、人権の定義がほんの少しずつ変異し続けている時代。
主人公はかつて老人ホームで働いていた。今もその主観としては働き続けている。自分自身の介助者としても。繭から羽化するその時まで。
社会構造の変化に伴って、おそらく必要に駆られての変質だろう、つまりはどうしようもなく、そう成らざるを得なかったのだ。
…
……
主人公は老人ホーム、もとい介護施設で働いている。ひと昔で介護職と言えば、体力的に大変にも関わらず給料が安く、そのくせ昇給は殆どないために不人気、という業界であった。しかし今は、人気ではないがそこまで大変ではない、給料はまずまず、というぐらいに落ち着いている。
理由としては革新的な介護方法の変更だ。
入居者は常時、小型・軽量化されたVRゴーグルとイヤホン、マイクが一緒になった機械が頭に取り付けられた状態で、各々がマンションの立体駐車場の様に区分けされたベッドに寝かされている。ベッドから落ちる事がない様に、ベッド自体は上が開けた蚕の繭の様な殻状の構造物と一体になっている。それらが左右だけでなく上下にも、きっちり敷き詰められ並べられており、繭を移動させるための搬送ラック分のスペースしかない。どちらかといえば、工場の自動倉庫に近い。
人の手が必要な時だけ、まだ完全に自動化が出来ていない一部の食事や排泄、お風呂といった介助が必要な時だけ、搬送ラックが繭ごと介助者の作業場まで移動させる仕組みだ。ベッド自体も波打つ様に動いて、日中は座らせたり、寝る時には床ずれ防止に寝返りをさせたりする事が出来る。
個々の繭にはバイタル機器や動きを感知するセンサー類、カメラ等が設置されており、入居者の体調を常に測定している。異常があった際は即座に感知し、自動で介助者に知らせる事になっている。
介助者は入居者の世話を順次行わなければならないが、一斉に面倒を見る必要が無くなった。待機ラインに並ぶ繭は、まるで工場の製造ラインの様相ではあるが…
だが、介助者1人で対応できる入居者の人数が格段に増えた。効率化により、介護の負担軽減、介助人員の削減に伴う給与体系の見直しが可能となったのだった。
入居者は主に認知症がある程度進んだ人たち。自分1人では生活できず、介助を必須とする人たちだ。
入居者には少しだけ、精神が落ち着き、体の動きを抑える薬が投与されている。
当人たちの主観としてはテレビを見たり、他の入居者たちとお話ししたりしている。元々の認知機能が低下している事に加え、薬剤の影響のためにVR世界である事は殆ど気にされず、穏やかな時を過ごしている。中にはかつてしていた仕事を体験している人もいる。仕事をしている方が落ち着く入居者もいるのだ。職人だった人たちの手際の良さをAIに学習させ、その分野の商業AIで活用された事例もあり、メリットもそれなりだ。
かつて、寿命より健康寿命が大事だと言われた時代があった。リスキリングによって老後をより豊かにしようとした時代があった。
そうする事で、介護が必要な期間を出来るだけ後にずらそうとしていた。そして実際に、ある程度は健康寿命が延び、介護が必要な時期を後ろ倒しする事は出来た。しかし、だからと言って介護が不要になる訳ではない。
介護の働き手の確保の課題、効率化の必要性、社会保障、財政の逼迫。それらが遂に限界に近づいた時、主観的な幸福を求める声があがり出した。
主観的な幸福が実現されているのであれば、その人の人権は尊重されているはずだ、と。仮にその人がどの様な扱われ方をしたとしても…
幸福ホルモンと呼ばれる物質がある。脳内で分泌される、主にドーパミン・セロトニン・オキシトシンの3つが挙げられ、これにβエンドルフィンが入る場合もある。これら物質の分泌量を測定する事で幸福度指数を計測する事は可能だと。そして、それらしい試験と分析結果を根拠に法整備がなされ、現在のシステムが構築されていった。
相反する試験結果や反対意見もある事はあったが、有効な対案がある訳でもなく、推し進められた。表向きは体の良い言葉で取り繕ってはいるが、必要が価値観の変異を、法の解釈を、社会の体制を突き動かした。
主人公は介護業界で働いて20年ほどになるだろうか。かつての介護業界を知る、その変性を見届けてきた数少ない人材になりつつある。
革新により入居者が多くなったことで、施設の特性上、亡くなる入居者は少なくなく、月に数人はこの世を旅立たれる。そのため、施設は病院に併設される場合が多い。
主人公が働く老人ホームも例に漏れず、比較的大きい地方病院の敷地内にある。
入居者は常にバイタルチェックが行われており、そろそろだろうか、という人はおおよそだが予測がつく。そういう場合、医師による予約処方がなされており、一定の条件を満たすと薬などの処置がなされ、入居者の痛みや苦しみを緩和する事が出来る。ただ、そこまで行ってしまうと大抵の場合はもう長くはない。
ただ、最後まで幸福に生きられたのだろうと、苦しみは最小限に留められたのだろうと思うのは、主人公の慰みからだろうか。
主人公はその様子から、終の繭と密かに呼んでいる。繭から羽化して飛んで行くのは、存在の有無が分からない魂だけだが…
その日、主人公は午前の業務を終え、併設している病院の休憩室に向かった。繭のシステム導入以前であれば交代制で食事をとっていたのだが、今となってはAIが見ていてくれるので、昼休みの時間ぐらいは確保出来るようになっていたのだ。尤もシステムで対処できないトラブルが発生した場合は端末に連絡が入り、急いで戻らなければならなくなるが…
午前の入居者の状況を見る限りそんな事はなさそうだ。これは長年の勤務に裏付けられた経験則だ。それほど予測は外さないだろう。施設は密閉空間では無いにせよ、何よりその雰囲気から閉塞的であるため、ずっと居ると気が滅入ってしまう。少しの気分転換は必要なのだ。
それより心配なのは天気が悪くなりそうな事だ。遠くの空から黒い雨雲が近づいて来ているのが見える。これは昼過ぎぐらいからひと雨来そうだ。早ければ昼休み中にも降って来るかもしれない。施設と病院の間は屋根がないので雨が降ったら濡れてしまう。主人公はいつもより少し急いで昼食を食べ、早めに施設へ戻ることを決めた。
午後の業務を行っていると、外から雨音が聞こえ、それは徐々に大きくなって来た。遠くで雷が鳴っているのが聞こえる。
さらなる時間の経過とともに、雨音が更に激しくなり、雷も鳴り響いてきた。
とある入居者の排泄の処理をしていた時、雷鳴の轟音と共に窓の外から閃光が走った。かなり近くに雷が落ちた様だ。施設のライトが一瞬消えた。
システムは大丈夫だろうか。外の様子を見ると区画の照明が消えているのが確認できた。やはり停電が起こっているみたいだ。施設と病院は予備電源に切り替わったのだろう。
悪天候などの際はVR世界でも同様の環境になる様に設定している。そうしないと、先ほどの様に雷などが鳴った際、入居者にも聞こえてしまい、体験している世界と差が生じてしまうためだ。だが、これほど大きな雷鳴だ。現実世界であろうとなかろうと動揺は広がってしまう。
主人公は入居者たちのバイタルを確認しつつ、簡単なシステムの確認を行う。数人の入居者が混乱しているようだ。なんとか落ち着かせなければならない。同時に他の1人の入居者のセンサーに、一部不具合が生じている旨の連絡が入った。こちらも対応しなければならない。
優先すべきはどちらだろうか?
センサーの不具合を放置すると入居者の体調を正確に検知することできず、万が一にでも体調が悪化した際、正確な測定が出来ない可能性がある。正常化にはセンサーの再起動が必須であるが、再起動中はその機能が停止してしまう。対象のシステムは区画ごとに分かれているため、リモートで対応しようとすると同じ区画の他入居者のセンサーも同様に10分から20分ほど停止してしまう。そうならない様にするため、不具合が生じている繭を手元まで搬送し、手動で再起動の作業をしなければならない。センサーが停止している間に何かあってはいけないので、その入居者の様子を見ながらの作業となり、その1人にリソースを割かれてしまう事になってしまう。
しかし、だからと言って混乱している入居者たちを放置する事も出来ない。薬剤である程度は抑えているとはいえ、叫ばれたりなどしたら他の入居者にも波及しかねない。そうなれば更なる状況の悪化につながってしまう。
主人公は少し、しかし、しっかりと悩んだ末に、混乱する入居者たちを落ち着かせる事を優先する事にした。センサーの不具合が生じている入居者のここ最近の状況と、午前の状態を鑑みての判断だった。対象の入居者の症状は落ち着いている。リスクは極めて少ないと判断した。
混乱している入居者に対し、薬剤対応出来る者にはその処置を設定し、その対応でも難しそうな者には対面での対処が必要だ。別の薬剤の投与が必要となる可能性もあり、病院に居る担当医の判断を仰がなければならない。先ほどの落雷によって病院側もシステムに不具合が生じている可能があるため、返答は早くないかもしれないが…
急いで対象者を絞り、データを併せた緊急連絡を手早く担当医に送ると共に、対応中だった入居者の処理を丁寧に、かつ速やかに終わらせる。長年の経験値は伊達ではなく、そういう対応は誰よりも早い。
それから混乱している入居者たち、主人公で対応が可能な人たちから順次落ち着かせて行った。薬剤投与だけでなく、背中をさする、手を握る、声をかけて落ち着かせるなど、アナログな対応も有効だ。入居者との対面時、背景は別だが、VRでも実世界との同様の状況を見せられる様に設定しているので、違和感はそれほどなく、むしろ触れ合う事のメリットの方が大きい。各々の入居者にどういう対応を取れば良いのか、主人公はよく分かっている。長年の経験もあり、この入居者にはどういう事をしてあげれば効果的かを熟知しているのだ。
そうしていると、入り口をノックする音と共に誰かが入って来た。病院に所属している1人の看護師だ。緊急連絡を受け、おそらく手が必要になっただろうからと駆けつけてくれたのだ。それも雨の中を。
駆けつけてくれた看護師に助かったと感謝を伝え、現状報告と不具合の起きているセンサーの再起動をお願いした。その看護師は了解の意を示し、早々と再起動の業務にあたってくれた。
程なくして担当医からの処方指示連絡が入った事もあり、混乱していた入居者全員を落ち着かせる事ができた。駆けつけてくれた看護師のおかげでセンサーの不具合も復帰し、今では問題なくシステムが稼働している。
主人公はトラブルがひと段落してほっとし、乗り切ったという安心感が湧いてくる。今回の一件が原因で体調を崩したり、お亡くなりになられたりした方が居なかったのは幸いだった。病院から素早くフォローに来てくれた事も助かった。それが無ければもっと錯綜しただろうから。自動化やAIが発達したとしても、やはり最後は人なんだなぁと、しみじみと感じ入る。
以前、センサーシステムの欠点について上申をしてはいたが、それなりの改修が必要とのことで見送られてしまっていた。今回の事があったので、改めて改修を上申しておこう。
介護業界を長くしていると、何かしらかのトラブルはつきものだ。今まで幾度も経験してきたがその都度、なんとか乗り切ってきた。しばらくして安心感が少し、やり切ったという高揚感に変わるのを感じる。
今日の業務時間はあと少し。やらなければならない事といえば、今日の報告書と上申書をまとめるぐらいだ。そして遅番の同僚に引き継ぐ。今ぐらいはこの微かな気持ち、安堵と達成感に浸るぐらいはいいだろう………
…
……
「今回もストレス度指数は許容範囲に収まり、累積の幸福度指数も規定値に達したな。」
「ストレス度指数は一時高めに振れましたが、途中でレベル2のフォローを入れました。レベル1でも良かったかもしれませんが…」
「そうだな。まぁ、そのレベルぐらいは通常準備しておくべき項目ということだ。本テストを分析し改善を図ろうじゃないか。」
「そうですね、承知いたしました。」
そう話す彼らの見つめる先、終の繭に寝かされた、年老いた主人公の姿があった。
ここは主人公が務める老人ホーム。その実、介護業界の技術開発を行う、特殊介護施設だ。
介護業界は次の段階に進みつつあった。VRであればまだ、それを意識してしまう事が少なくなかった。排泄や食事の際、VR世界と実世界とのタイミングや方法をリンクさせてはいるものの、どうしても生じる差異に、入居者が違和感を覚えてしまうケースが少なからずあったのだ。VRはあくまで間接的に経験しているに過ぎず、違和感があると幸福度指数にあまりよくない影響を与えてしまう。また機器の保守管理も楽ではない。
そこで次の段階への移行が検討されていた。経験の処理は脳が行っている。ならば直接脳内に働きかけてはどうか、と。
繭のシステムの導入により介護業界の改革が実現はしたが、それでもなお厳しい状況には変わり無かったのだ。寿命の延び率は鈍化こそしたものの、老人の人口比率は相変わらず高止まりを続けていた。社会における逼迫、必要が、更なる改革を求めていた。
そして改革の検討のため、選ばれたのは主人公だった。介護業界で長らく働いてきた実績がある人材。かつての介護業界を知る、業界の変性を見届けてきた数少ない人材。そのノウハウを機械に、AIに引き継ぐ必要があった。
主人公はとっくの昔に退職していた。その後、加齢により認知機能が低下し、ついに寝たきりになった。自身の介護が必要な状態だった。今、他の入居者と違うところは、主人公の頭には電極が取り付けられ、そこから幾つかの配線が機械に繋げられている事だ。
特殊介護施設では繭のシステムはそのままに、介助は全て機械が行っている。徐々に自動化のウエイトを増してはいるものの、未だにその半数近くは主人公が間接的に動かしているのだった。
主人公の働きはAI学習に用いられており、ノウハウの蓄積といった形で処理判断や機械動作に反映させている。何かしらかのトラブルが起こってしまった際、どの様に判断し対処すれば良いのかを検討するテスト要員としても役立てられている。また、食事や排泄、お風呂の介助に関するその細かな動作やタイミング、言語化しにくい部分の学習は、AIにはまだまだ必要だった。
この改革が実現すれば、将来的には老人介護は全て完全に機械で行うことが出来る様になるだろう。今はその過渡期なのである。
個人の主観に重きが置かれ、人権の定義がほんの少しずつ変異し続けている時代。
主人公はかつて老人ホームで働いていた。今もその主観としては働き続けている。自分自身の介助者としても。繭から羽化するその時まで。
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